閑話休題:焦がされる
朝の光が、宿の二階の窓から斜めに入っていた。
俺は窓辺に立っていた。木枠の隙間から入る風に、潮と灰と朝食の匂いが混じっている。カラヴェラの春は海だけで出来ていない。港の水気、街の竈、昨夜消え残った酒場の油。そういうものが朝の空気の底に薄く沈む。
海守りの拠点で育つと、鼻が勝手に海を読む。今日の潮は荒くない。風向きも悪くない。海神祭まではまだ半月ほどある。けれど街の底では、準備の音が少しずつ目を覚ましていた。
寝台の方角で布が動いた。
「ヒュウマ」
低い声だった。眠気は薄い。起きたばかりでも、蒼凪さんの声は乱れない。
「はい」
「先に下りていてくれ」
「ええ」
俺は返して、窓から離れた。
蒼凪さんは身支度の遅い人ではない。ただ朝の最初の一杯だけは独りで飲む。白湯を口に含んで、潮の匂いを確かめる。それが賢者の朝の所作の一つだった。俺はそこに踏み込まない。
階段へ向かう前に、背後で衣擦れがした。ローブを直す音。正確に言えば、直しているようで直していない音だった。前はいつもはだけている。連れの朝の身支度は、そこだけが最初から決まっているように変わらなかった。
階段を下りると、食堂の空気は二階より温かかった。焼いたパンの匂いが濃い。煮出した茶の湯気が天井の低い梁に触れている。
「お早うございます、ヒュウマ様」
宿の主人が卓の脇に立っていた。元船員のがっしりした年配の男で、肩幅が戸口の半分を塞ぐ。白髪交じりの頭は短く刈り上げられていた。顔の右側に古い傷跡がある。笑うとその傷が少しだけ歪む。
「お早うございます」
「卓のご用意は調っております。お連れ様も、後ほど」
「ええ」
主人の隣で、若い息子がパン籠を抱えていた。十七か十八。父親に似て骨格は強い。ただ筋肉の乗り方はまだ若い。荷を運ぶ時の肩に、これから厚くなっていく余白がある。
「お早うございます」
「お早う」
息子は俺に頭を下げたあと、視線を一瞬だけ腰の方へ落とした。潮鎚を探したのだろう。今は外している。革帯だけが腰にある。
その視線が胸元に上がろうとして、途中で止まった。
階段の上から、足音が下りてきていた。
息子の視線が、すぐに階段の方へ切り替わる。あまりに素直な動きで、俺の左手が腰へ行きかけた。だがそこに柄はない。潮鎚のない革帯を掴みそうになって、指を止めた。
蒼凪さんが食堂に入ってきた。
白と青のローブの前は開いている。朝の光が窓から斜めに入って、鍛えた胸の輪郭をはっきり浮かせていた。賢者という言葉から遠い体。けれど蒼凪さんにとっては、それも賢者の一部だった。
息子の視線が一拍、そこに留まった。
賢者がこういう体をしていることに、息子はまだ慣れていない顔をした。慣れる必要はないと俺は内で思った。慣れさせる必要もない。
「お早うございます、賢者様」
「ああ」
蒼凪さんは短く返した。声に尖りはない。けれど踏み込ませる余地もない。
息子はパン籠を卓に置いた。手元は丁寧だったが、父親の方へ戻る足が半拍だけ速い。主人はその動きを見ていないふりをした。船に長くいた人間の見逃し方だった。
蒼凪さんが俺の向かいに座る。
俺は革帯の縁に置いた手を、膝へ戻した。
「ヒュウマ」
「ええ」
「今日の港湾の長との打ち合わせは、何の用だった」
「海神祭前の警備強化の話です。冒険者組合と海守り衆の合同準備で、長から伝言を受けて、組合詰所まで足を運んでほしい、と」
「組合詰所か」
「ええ」
蒼凪さんは白湯の杯に指を添えた。すぐには飲まない。湯気の立ち方を見ているようでもあり、別のことを考えているようでもある。
「俺も同行する」
「お時間が」
「賢者の知識として、組合の中を見ておくのは悪くない」
理由は整っていた。書面にしても通る。誰に聞かれても不自然ではない。
けれど蒼凪さんが俺と同行を選ぶ時、その整った響きの下に別のものが在る。最近それが分かるようになってきた。分かったからといって、口に出すほど俺は幼くないつもりだった。
「助かります」
「悪くないな」
蒼凪さんはそう言って、パンを一切れ取った。
俺もパンを噛んだ。焼き目が固く、内側は温かい。噛む音が二人分、卓の上で重なった。宿の外では荷車の車輪が石畳を鳴らしている。
その音の向こうで、港町の一日が起き始めていた。
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港湾の方角へ出ると、朝は一気に厚くなった。
カラヴェラの第一層。埠頭には木の桟橋がいくつも伸びている。船腹を叩く波音の上に、荷揚げの声が重なっていた。麻袋を担ぐ掛け声。木箱を降ろす軋み。干物の樽が板の上を転がる重い音。
労働者の数は四十人を超えていた。革の作業着の下に薄い肌着を着た者。肌着を脱いで背中に巻いた者。朝とはいえ体はもう汗を持っている。陽が上がるにつれて、肩や背中が潮の光を返し始めていた。
港の男たちの体は、戦闘員の体とは違う。殴るためではなく、担ぐために厚くなる。跳ぶためではなく、踏ん張るために腰が作られる。麻袋を肩に乗せるたびに、背中の肉が大きく寄っては離れた。
蒼凪さんと俺は、並んで桟橋の端を歩いた。
板の下で海が鳴る。靴底から湿った音が上がる。蒼凪さんのローブの裾が、風に少しだけ揺れた。白と青は港の色に紛れそうで、逆に目立つ。
労働者たちの視線が集まった。
俺には海守りを見る目が来る。若い当代を測る目。港の年配者に多い、親しみと確認が混ざった温度だった。俺の肩、腰、足運び。海に落ちた人間を引き上げられる体かどうか。彼らはそういう見方をする。
蒼凪さんへ向く視線は、もう少し長かった。
賢者のローブ。その下の厚い胸。腕の線。歩き方の静けさ。荷を降ろしていた男の一人が手を止めた。隣の男に肘で突かれて、ようやく麻袋を下ろす。短い笑いが二人の間で落ちた。
何を笑ったのかは、聞こえなかった。
俺は息を一度、浅く吸った。何かが起きたわけではない。視線は視線だ。分かっている。
それでも歩幅が、半拍だけ縮んだ。
蒼凪さんは気づいているのかいないのか、前を向いたままだった。たぶん気づいている。気づいた上で、何も言わない。そういう沈黙がある。
港湾の長の小屋は、埠頭の中ほどにあった。潮で黒ずんだ板壁に、海洋同盟の印が掛かっている。扉の脇には濡れた外套が干されていた。塩が白く浮いている。
長は小屋の前で待っていた。六十年配の男で、肌は海風と潮に焼かれて固い。港湾管理の正装を着ているが、袖の下の前腕は元水夫の太さを残していた。
「お早う、海守りの当代殿。賢者殿も、ご足労」
「お早うございます」
蒼凪さんは短く頭を下げた。
「お早う」
長は俺たちを順に見て、すぐに港湾倉庫街の方角を指した。
「組合詰所は、倉庫街の二本目を北だ。三本目の角を曲がれば見える。古い銅板の看板がある」
「組合長は」
「外回りだ。今は不在。代わりに頭格のガロン殿が出る。A級の戦士、信頼は厚い」
「了解しました」
「祭りの前後三日は人が増える。屋台、山車、酒場、船。どれも人が寄る。海守り衆と組合で噛み合わせを決めてくれ」
「ええ。こちらでも段取りを詰めます」
長は頷いた。それから蒼凪さんを一度見た。賢者としての確認ではなく、港の年配者が強い男を見る時の目だった。
「賢者殿も、港の面倒に付き合わせて悪いな」
「必要なら見る」
蒼凪さんの返しは短い。長はその短さを不快に取らなかった。港の人間は、余計な言葉の少なさを悪く見ない。
「助かる」
長はそれだけ言って、小屋の中へ戻った。
俺たちは港湾倉庫街の方角へ歩き出した。背後で荷揚げの音が薄くなる。代わりに前方から別の音が近づいてきた。鉄が打ち合わさる音。男たちの低い笑い声。木の戸が乱暴に開閉する音。
潮と汗と鉄。
冒険者組合の匂いが、まだ建物の姿を見る前から届いていた。
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組合詰所の入口は、港の建物の中でもひときわ重かった。
扉は厚い木で出来ている。水を吸って膨らんだ跡があり、何度も削られていた。古い銅板の看板は潮でくすみ、文字の端が擦れて読みにくい。扉の縁には剣の傷が複数走っていた。
試し斬りか、喧嘩か、あるいは戦闘の帰りに誰かがぶつけたのか。
扉そのものが、ここへ出入りする人間の粗さを語っていた。
蒼凪さんが扉を押した。
蝶番が低く鳴る。中の音が一段近くなった。酒の匂い、汗、革、鉄、古い煙草。港の匂いとは違う熱が、開いた隙間から流れてくる。
正面に受付の卓がある。その奥に依頼の掲示板。右手には酒場を兼ねた広間。左手の戸口の向こうから、訓練場らしい打撃音が漏れていた。
広間には四、五人の冒険者が屯していた。
卓に肘をついて酒を飲む男。椅子に片足を乗せて武具を磨く男。壁にもたれたまま眠っている男。皆、体が大きい。革鎧の下に肌着を着ている者もいれば、上半身を晒している者もいる。胸や肩に古傷が走っていた。
視線がこちらに集まる。
最初に俺を見る。海守りの戦闘服、若い当代、腰の潮鎚。次に蒼凪さんを見る。白と青のローブ、赤い髪、深い青の眼。そして開いた前から見える鍛えた胸。
視線が長くなる。
俺は半歩、蒼凪さんの後ろへついた。守る位置でもあり、控える位置でもある。どちらか一つではない。
受付の卓の向こうに、書記が一人座っていた。四十代の男で、体格に戦闘員の名残がある。今は羽根ペンを持っているが、肩の置き方は前線を知っている人間のものだった。右腕の前腕に古い裂傷の跡がある。
書記は俺と蒼凪さんを順に確認して、椅子から立った。
「海守り衆のご用件で」
「ええ。海神祭前の警備強化の打ち合わせで、ガロン殿に」
「お待ちを」
書記は広間の奥へ声を投げた。
「ガロン、海守りだ」
酒場の卓の奥で、椅子が床を擦った。
立ち上がった男は大きかった。身長は190近くある。肩幅が広く、短く刈った頭と顎まで伸ばした髭が同じ硬さで目に入る。顔の左側に古い傷跡があり、首筋には薄い火傷の跡が走っていた。
上半身は革の胴着。その下の肌着は汗で胸の輪郭まで透けている。腕が太い。前腕に血管が浮く。三十代後半。A級戦士という言葉が、名乗りを聞く前から体に出ていた。
ガロンは卓越しに蒼凪さんを見た。
視線が止まった。
一秒では離れなかった。蒼凪さんの胸元から肩、腕、腰へ下がる。それから顔へ戻る。戦闘員が相手の重心を読む目だった。組めるか、倒せるか、耐えるか。けれどそれだけではない温度も混ざっていた。
俺の左手が、潮鎚の柄に触れた。
柄頭の角が掌に当たる。その硬さで息を整える。
「マリヴェルの蒼凪殿か」
ガロンの声は低かった。広間の喧騒の底を通る声だった。
「ガロン・コルス。組合のA級だ。よく来てくれた」
「ご足労いただいた」
蒼凪さんは短く返した。視線の重さを受けても、声の面は乱れない。冷たいのではない。ただ相手がどこまで来ても、入れない場所を最初から持っている。
ガロンの目が一瞬だけ俺へ移った。
海守りの当代を見る目。若い男を見る目。蒼凪さんの隣にいる人間を見る目。それらが短く重なって、すぐに蒼凪さんへ戻る。
「海神祭の警備強化の話だな」
「ええ」
「卓に来てくれ」
ガロンは広間の奥を指した。屯している冒険者四人の隣の卓だった。空いていると言うには近すぎる。話を聞かせないと言うには開けすぎている。
冒険者たちが体の向きを少し変えた。
一人は酒杯を持ったまま、蒼凪さんの胸元を見た。もう一人は俺の潮鎚を見た。武具を磨いていた男だけが、刃に布を当てたまま視線だけを上げた。
俺は蒼凪さんの半歩後ろを歩いた。
床板が鳴る。酒の匂いが近くなる。蒼凪さんの背中は静かだった。その静けさが、広間の男たちの視線の中でかえって目立っていた。
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卓に着いて、ガロンが酒の杯を二つ、追加で頼んだ。
書記が酒を運んでくる。蒼凪さんは杯を受け取ったが、口は付けなかった。俺も同様だった。海守りの当代として、業務の打ち合わせで酒は飲まない。ガロンはそれを察して短く笑った。
「真面目だな」
「業務の打ち合わせだ」
蒼凪さんは短く返した。
「いい姿勢だ」
ガロンはそう言って、自分の杯を傾けた。
打ち合わせの中身は淡々と進んだ。海神祭の前後三日間、港町の警備強化のために組合から十二名の冒険者を動員する。海守り衆と合同で四つの拠点を巡回する。商業街の屋台が集中する区画、第一層の埠頭、第三層の評議堂前、白鯨の山車の練り歩き経路。各拠点に冒険者三名・海守り衆二名の混合班。ガロンが指揮を執る、海守りの当代が同行する場合は当代の判断を優先する。
「了解した」
俺は短く頷いた。
「賢者殿は」
ガロンの視線が、蒼凪さんに戻った。
「祭りに参加されるのか」
「ええ」
「海守りの当代殿と一緒に」
「ええ」
ガロンの口元が、笑みの形に動いた。皮肉ではない、けれど距離を詰める温度の笑みだった。それからガロンは卓越しに身を乗り出した。腕を伸ばして、蒼凪さんの肩に手を置いた。
ガロンの掌が、蒼凪さんのローブの肩に触れた。掌の大きさは、賢者の肩を半分覆う面積だった。指の太さは俺の指の倍ほど。A級戦士の手の質感だった。身を乗り出した動作で、ガロンの革の胴着の腰の縁に視線が一瞬流れた。胴着の下、革のベルトの結び目の下、布の盛り上がりが目立つ位置にあった。戦闘員の体は、鍛え抜かれた部分が全体的に大きい。腕も、肩も、それ以外も。俺はそれを視界の縁で受けて、すぐに視線を蒼凪さんの方角に戻した。
「賢者がうちの組合に登録するなら、俺の隊で組んでくれよ」
ガロンは低く言った。
「賢者級が一人いれば、A級の依頼は半分の時間で終わる。報酬は応相談、寝床は組合の宿で、酒は組合員価格だ」
蒼凪さんは肩のガロンの掌を、視線で確認した。それから振り払わなかった。賢者の冷静さの皮膜の下で、判断が動いていた。手を払えば組合との関係に角が立つ、払わなければガロンの踏み込みを許す形になる。蒼凪さんは中間を選んだ。手を肩に置かれたまま、視線をガロンの顔の方角に戻した。
「賢者の階位は塔と評議会の管轄だ。組合の登録は、俺の役割の外にある」
「役割の外でも、人として組めるだろう」
「人としての時間は、別の用途に当てている」
蒼凪さんの返しに、ガロンの視線が俺の方角に動いた。
ガロンの手が、蒼凪さんの肩から離れた。
「お連れの若いのか」
ガロンは俺の方を確認して、短く笑った。
「海守りの当代殿、若いのに大事に育てられているな」
「育てられているのではない」
俺は短く返した。声に温度が乗りそうだった。半呼吸で抑えた。ガロンの言葉は皮肉ではない、ただ俺を一段下に置く温度だった。蒼凪さんが俺を「育てる側」、俺が「育てられる側」の構図に、ガロンの目が見ていた。違う、と内で言った。声には出さなかった。
「悪く取るな、海守りの当代殿」
ガロンは短く返した。
「お前さんの体つき、悪くない。十八か十九か、その年齢でその腰回りはなかなか作れねえ。海守りの戦闘服が似合ってる」
ガロンの視線が、俺の腰から太腿の縁を確認した。視線の動かし方は、ガロンが蒼凪さんを確認した時と同じ動かし方だった。組打ちの相手としての品定め、または別の意味での品定め。両方の質感が混ざっていた。視線が俺の海守りの戦闘服の腰布の縁で一瞬止まった。それからガロンは視線を上に戻した。
俺の左手が、潮鎚の柄を握った。柄の縁が掌の中で硬くなった。
ガロンはそれを見て、口の端を上げた。
「悪く取るな、と言ったろう」
ガロンはそう言って、視線を蒼凪さんの方角に戻した。それからもう一度、笑った。
蒼凪さんは何も言わなかった。
ただ卓の下で、蒼凪さんの右手が動いた。卓の縁を一度撫でた。それから自分の杯の縁を確かめた。視線は俺の方角を見ない。けれど俺は知っていた。卓の下の蒼凪さんの右手は、俺の方角に少しだけ寄っている。物理的な距離は変わらない、ただ手の位置が一センチ寄った。それが、俺だけが読み取る合図だった。
俺は左手を、潮鎚の柄から離した。
ベルトの革帯に、掌を置いた。
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打ち合わせが一段落して、ガロンが立ち上がった。
「ついでに訓練場を見ていけ」
ガロンは短く言った。
「組合員の鍛え方を、海守りの当代殿に見ておいてもらいたい。海神祭の警備で動く連中の質感を確かめてくれ」
俺は蒼凪さんの方を見た。蒼凪さんは短く頷いた。
「ええ」
俺は短く返した。
ガロンが先に立って、広間の左手の戸の方角に歩いた。屯している冒険者四人のうち、二人が立ち上がって俺と蒼凪さんの方を見た。視線の温度が、卓に座っていた時より高かった。立ち上がった一人は、上半身を完全に晒していた。革鎧の代わりに、汗で湿った肌が肩から胸まで露出していた。古い傷が複数、肩・胸・腹に走っていた。戦闘員の体だった。
戸を開けると、外は裏庭の訓練場だった。
石畳の四角い空間、周囲を低い壁が囲んでいる。中央に組打ちの円が描かれていて、若い冒険者二人が組み合っていた。両方とも上半身は晒している。汗が肌の上で光っている。組打ちの呼吸が、訓練場の空気を一段重くしていた。
訓練場の縁、低い壁の前に、別の冒険者が三人座っていた。剣の手入れをしている者、酒の杯を傾けている者、黙って組打ちを見ている者。三人とも上半身を晒している。古い傷、新しい傷、汗の薄い膜。男たちの体だけが連なる空間だった。三人とも体格は突出していた。組合のC級・B級以上の戦闘員、戦闘の積み重ねで肉が分厚く乗った体。腰布の下の輪郭まで、戦闘員の質感で揃っていた。日々の鍛錬と実戦で全体が大きくなる、戦闘員の体の作られ方の道理だった。
組打ちの一人が、俺の方角を見た。
組打ちが止まった。
「海守りの当代の方ですか」
組打ちの一人が短く問うた。二十代前半、若い登録冒険者の輪郭。背は俺より少し高い、肩幅は俺と同じくらい。腰回りは俺より細い。鍛え始めて数年、まだ仕上がりきっていない肉体。汗で湿った前髪が額に張り付いていた。
「ええ」
俺は短く返した。
「カル・ヴァレンと申します。F級の登録です」
「ああ」
「一手お願いしたい」
カルは組打ちの相手から離れて、俺の方に半歩進んだ。汗の匂いが、半歩の距離で届いた。
俺は蒼凪さんの方を見た。蒼凪さんは訓練場の縁の壁の方角に立っていた。短く頷く動作だけが返ってきた。
「一手だけ」
俺はカルに短く返した。
潮鎚を背中から外した。柄を握って、組打ちの円の方角に進んだ。カルが組打ちの相手から離れて、俺の前に立った。組打ちの相手だった男は、円の縁に下がった。
「ご一手、お願いします」
カルが短く礼をした。
俺は短く頷いた。
潮鎚を構えた。海守りの戦闘服の上から、潮鎚の柄を両手で握る構え。カルは素手だった。組打ちの構え、肩を落として、腰を低く沈めた。若い戦闘員の構えとして悪くない。海守り衆の若手に近い構え方だった。
俺は半歩、間合いを詰めた。
カルが先に動いた。
右の拳が、俺の左肩の方角に来た。動きは速い。ただし読みは浅い。俺は潮鎚の柄頭で右の拳を流した。カルの体が半歩、流れた。流れた先に俺の左の踏み込みが入った。カルの腰の縁を、潮鎚の柄頭で軽く押した。カルの体は石畳の上に半回転して、肩から落ちた。
組打ちの円の縁から、低い笑いが上がった。屯している冒険者三人の声だった。
「悪くねえ流し方だ」
「お前さん、若いのにもう仕上がってるな」
「もう一手やるか」
カルは石畳の上で、肩を上げた。汗が首筋から胸の方角に流れた。視線が俺の方角に向いた。負けたことへの不満ではない、別の温度が視線に乗っていた。
「もう一手」
カルが短く言った。
「いえ、一手と言いました」
俺は短く返した。
カルの視線が、俺の腰の方角に下がった。それから上に戻った。視線の動きの中で、カルの呼吸が一段早くなっていた。組打ちの呼吸ではない、別の温度の呼吸だった。石畳の上で半身を起こしたカルの腰布の輪郭が、布の下で薄く張っていた。組打ちの興奮の延長か、別の方角の興奮か。両方の質感が混ざっていた。カルはそれを隠そうとしなかった。視線を俺の方角に向けたまま、半身を起こしたままだった。
「強いですね、海守りの当代の方」
「ええ」
「俺と組まれませんか。短期でいい」
「組合の登録は、海守り衆との兼任が認められない」
「兼任ではなく、個人の依頼として」
「お断りします」
俺は短く返した。声に温度を乗せなかった。けれど内では、潮鎚の柄を握る指が硬くなっていた。カルの視線は皮肉ではない、若い率直な憧れと、それより一段踏み込んだ温度の混合だった。腰布の輪郭が、その温度の所在を裏付けていた。海守り衆の詰所でも似た視線と似た反応を時々受ける。流す癖は身についていた。
訓練場の縁の蒼凪さんの方を、俺は短く確認した。
蒼凪さんは壁の前に立ったまま、視線をこちらに向けていた。視線の温度は冷静だった。賢者の眼。ただ、その眼の縁に、俺だけが読み取る別の温度があった。俺がカルを流す動きを蒼凪さんが見ていた事実そのものが、俺の中で一段熱を持った。
ガロンが訓練場の縁から、短く笑った。
「悪くねえ。海守りの当代殿、いい腕だ」
「ありがとうございます」
俺は短く返して、潮鎚を背中に戻した。
「ついでに湯に入っていけ。汗を流せ」
ガロンは隣棟の方角を指した。組合員用の湯浴み場が、訓練場の隣の建物にあった。
「ええ」
俺は短く返した。
蒼凪さんの方を見た。蒼凪さんは短く頷いた。
「賢者殿は」
ガロンが蒼凪さんの方角に短く問うた。
「別棟の個室の方を借りる」
蒼凪さんは短く返した。組合員用の共同湯ではなく、別棟の賢者向けの個室の方。組合詰所には来賓用の個室の湯が一つあると、書記が打ち合わせ前に説明していた。蒼凪さんはそれを選んだ。俺と同じ湯には入らない。二人の関係性の節度の保ち方として、それは正解だった。
「了解した。海守りの当代殿は共同湯の方へ」
ガロンが短く案内した。
俺は蒼凪さんと、入り口の位置で別れた。蒼凪さんの背中が、別棟の方角に消えた。俺は共同湯の方角に進んだ。
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湯浴み場は、組合員用の共同湯だった。
石造りの広い空間、中央に大きな湯桶が据えられていて、湯気が立っている。湯桶の縁には十人ほどが入れる広さがあった。今は四、五人が湯に入っていた。訓練場で見かけた冒険者の何人かが、汗を流しに先に入っていた様子だった。
俺は脱衣場で海守りの戦闘服を外した。革帯を畳んで潮鎚と一緒に棚に置いた。腰布も外した。湯桶の方角に進む途中、湯に入っている冒険者の一人が俺の方を確認した。視線が肩から胸、腹、腰の方角に下がった。それから戻って、湯の中に視線を沈めた。湯気の縁、湯の中に半身を沈めた男の体が見える。組合のC級以上、戦闘員の体。湯気が薄い場所で、男の腿の付け根の方角の輪郭が湯の縁に近い位置にあった。戦闘員の質量、湯の中でも明確だった。
俺は湯桶の縁に体を沈めた。
湯は熱かった。組合員用の湯は、熱めの設定らしい。海守り衆の詰所の湯より一段熱い。汗が一気に噴き出して、肌の表面で滑った。
隣の縁に、男が一人入ってきた。
カル・ヴァレンだった。
「失礼します」
カルは短く礼をして、俺の隣の縁に体を沈めた。湯桶の縁に座る瞬間、カルの体の輪郭が湯気の中で一瞬見えた。鍛え始めて数年の体、F級の若手。組合の中堅・A級の戦闘員と比べれば質量は控えめ、ただし俺と同じくらい。組打ちの興奮の余韻が、まだ腰の方角に残っていた。布のない湯の中では隠せない。湯気の中で互いの体の輪郭が薄く曇っている。けれど汗と湯と若い体の匂いは半歩の距離で届く。
「先ほどは、ご一手ありがとうございました」
カルが短く言った。
「ええ」
「海守りの当代の方は、若いのにすごい体つきですね」
カルの視線が、湯の縁の俺の肩から胸の方角に動いた。視線は皮肉ではない、率直な憧れと、それより一段踏み込んだ温度の混合だった。湯の中で視線は隠せない。湯気は薄い、互いの体の輪郭は見えている。
「鍛えるコツがあれば、教えていただきたい」
カルは短く言った。
「コツはない。海守りの仕事を続けているだけだ」
俺は短く返した。
「海守りの当代の方は、ご家族はおられるのですか」
「父は早くに亡くした。母は健在」
「お連れの方は」
「俺の蒼凪さんだ」
俺はそう言って、湯の中で潮の縁に視線を沈めた。「お連れ」を「俺の」で受けたのは意図的だった。「連れ」では業務の同行の意味に取れる。所有の代名詞を一つ前に置けば、関係の質感は声に乗らない言葉でも届く。海守り衆の中で、伴侶の関係を口にする時の癖だった。
カルの視線が、俺の方角で止まった。
「ご一緒の方、ですか」
「ええ」
カルは短く頷いた。それから視線を湯の中に沈めた。視線が下がった先で、カルの口元が一度だけ動いた。納得の動きだった。「俺の」の意味を、カルは正しく受け取った。
「失礼しました」
カルは短く言った。
「ええ」
俺は短く返した。
カルの隣に、別の冒険者が入ってきた。三十代の中堅の戦闘員、傷だらけの肩。カルとは違う温度の視線が俺の方角に来た。中堅の視線は、若手より一段冷静だった。冷静なまま、俺の体つきを確認した。それから湯の中に沈めた。声はかけてこなかった。
俺は湯の中で、左手を右の上腕に置いた。
潮鎚の柄に触れる癖の代わりだった。湯の中で潮鎚は届かない。左手の置き場を、自分の腕に置いた。
蒼凪さんは別棟の個室の湯に、独りで入っている。
俺は湯気の中で、別棟の方角を視線で確かめようとした。湯気が視界を遮っていて、別棟の方角は見えなかった。ただ俺の中で、別棟の独りの湯の温度を想像した。蒼凪さんの裸の輪郭、湯に沈む賢者の体、誰の視線も届かない空間。誰の視線も届かない、というのが俺の中で熱を持った。
相方を独占したい。
その言葉は、声に出さなかった。湯の中で内側に沈めた。沈めたところで、内側で消えなかった。湯の熱と、内側の熱が、二重に俺を焦がしていた。
カルの視線が、もう一度俺の方を確認した。
俺は視線を湯の縁に沈めて、応えなかった。
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夜の港湾の道は、昼の熱を少しだけ残していた。
組合詰所を出ると、空気が変わった。酒と汗と鉄の匂いが背中へ引き、代わりに潮と屋台の木屑の匂いが前から来る。港湾倉庫街の石畳は昼の間に踏まれ続けて、ところどころ湿った光を持っていた。
蒼凪さんと俺は、宿へ向かって歩いた。
商業街では海神祭の準備が始まっている。組まれかけの屋台の木枠が道の脇に並び、竹串の束が縄で括られている。提灯の試験点灯が行われていて、橙の光が半分だけ出来た屋台の輪郭を浮かび上がらせていた。
その光は温かい。けれど今の俺には、少し近すぎた。
組合詰所の入口で、ガロンがもう一度声をかけてきた。
「賢者殿、また来てくれ」
振り返ると、ガロンは扉の縁に立っていた。昼より暗い場所にいるせいで、肩の大きさだけが先に目に入る。
「組合の宿に泊まる気があれば、いつでも空けておく。賢者殿一人でな」
「賢者殿一人で」を、ガロンは強調しなかった。ただし俺の耳には届いた。蒼凪さん一人で、という条件付き。俺を含まない誘い。
「ご厚意に」
蒼凪さんは短く返した。受け取ったとも拒んだとも言わない。声は平らだった。ガロンの言葉は、その平らな面に触れて沈む。
俺は左手で潮鎚の柄を握った。
ガロンはそれを見た。見て、短く笑った。
「海守りの当代殿、ご苦労」
「ええ」
返した声は、自分で思ったより低かった。
蒼凪さんが歩き出す。俺は半歩後ろについた。組合詰所の扉が背中で閉まる。木と鉄の重い音がして、昼から続いていた男たちの視線が一枚の扉の向こうへ切り離された。
切り離されたはずだった。
商業街へ出ると、街の音が近くなった。槌で木を打つ音。屋台主が寸法を言い合う声。酒場から流れる笑い声。子供が提灯の下を駆けていく足音。
蒼凪さんは黙って歩いた。俺も黙っていた。
組合詰所で何があったかを、言葉にする筋ではない。ガロンの掌が蒼凪さんの肩に置かれたこと。カルの視線が湯気の中で俺に触れたこと。別棟の湯に蒼凪さんが独りでいたこと。どれも、声に出せば形が変わる。
だから黙って歩く。
三本目の路地に差しかかった時、音の質が変わった。
笑い声が柔らかくなる。酒の匂いに甘い香が混じる。店先の灯りは、屋台の提灯より低い位置に置かれていた。声をかけるための灯り。通り過ぎる男の目を一拍だけ止めるための橙。
男娼館街の縁だった。
カラヴェラの夜には、そういう区画がある。商業街の奥に並び、宿への道とは別の場所に見えて、最短の道を選ぶと縁を掠める。蒼凪さんが意図して選んだ道ではない。ただ街の作りが、俺たちをそこへ通した。
街灯の下に、客引きが立っていた。
二十代後半ほどの男だった。長身で、薄い藍の上着を緩く開けている。胸元は見せるために整えられていた。戦う体ではない。けれど鍛えていない体でもない。見られることを仕事にしている体の磨き方だった。
客引きの視線が俺たちを捉える。
蒼凪さんのローブ。開いた胸元。歩幅。俺の海守りの戦闘服。腰の潮鎚。二人の距離。客引きは三秒でそれを読んだ。
「賢者殿、お一晩いかがですか」
声は柔らかい。けれど通す場所は正確だった。
「うちの店は、賢者殿のような方にもご対応しております。お部屋は静かで、お酒もご用意できます。お連れの方とお二人でも結構ですよ」
最後の「お二人でも」で、客引きの視線が俺へ動いた。それから蒼凪さんへ戻る。断られる前に、選択肢を一つ増やす動きだった。慣れている。踏み込み方も、引き際も知っている目だった。
蒼凪さんは足を止めなかった。
「結構だ」
それだけだった。
明示的な術ではない。ただの声。けれどその低さの中に、これ以上近づけない線が立った。客引きは半歩下がる。引く動作も美しいほど早い。
「失礼しました」
客引きは街灯の下へ戻った。
俺は蒼凪さんの背中の半歩後ろで、息を一度浅く吸った。歩く速度は変えない。ただ内側の熱は静まらなかった。
蒼凪さんは断った。
それは事実だった。客引きの誘いを、短い言葉で切った。足も止めなかった。振り返りもしなかった。
それなのに、俺の中の何かは収まらない。
誘われたのは蒼凪さんだった。断ったのも蒼凪さんだった。俺は半歩後ろを歩いていただけだった。その半歩が、急に遠くなった。
港町で強い男は遠目に分かる。肩幅、腰の作り、歩き方、布の張り。蒼凪さんのローブは前を隠していない。隠していないどころか、鍛えた体を正面から街に置いている。客引きはそれを見た。戦闘員の眼とは別の手つきで、それを見た。
俺にも視線は来た。けれど声は蒼凪さんに向いた。
優先順位の話だ。
ただの優先順位の話が、内側で火になった。
俺は掌を、腰のベルトの革帯に押し当てた。革の硬さが指の腹に届く。痛みほどではない。けれどその感覚で、足を前へ運んだ。
商業街の路地を抜けると、宿へ上がる坂道に入る。男娼館街の声が背中で薄くなった。提灯の橙もまばらになり、坂の上に宿の灯りが見え始める。
夜風が少し冷えた。
坂の途中で、俺は蒼凪さんの腕の内側に、右手を添えた。
癖の動作だった。海守りの当代として、相方の腕の内側に手を添える動作は、二人の距離を測る所作として身についていた。先日の街角での動作と同じ動かし方。蒼凪さんは払わなかった。歩く速度も変えなかった。ただ半歩のうちに、蒼凪さんの腕の内側が俺の手のひらの方に少しだけ寄った。一センチ。組合詰所の卓の下で、蒼凪さんの右手が俺の方に寄ったのと同じ動き。
俺は内で、息を一度吸った。
焦がされていた。
組合の冒険者の集団の視線。ガロンの掌、蒼凪さんの肩に置かれた一秒。カルの視線、湯の中の半歩の距離。客引きの誘い、夜の街の橙の光。俺の内側の奪われたくない感情、独占できないという感情、若い体の率直な熱。すべてが内側で重なっていた。
誰が焦がしているのか、内では判別がつかなかった。
男たちの視線か。自分の中の火か。若い体か。相方を独り占めにできない感情か。どれも別々の形をしているはずなのに、坂道の途中では同じ熱になっていた。
蒼凪さんは何も言わない。
ただ、歩く速度が半歩だけ俺に合った。腕の内側に添えた俺の手も、そのままだった。払われない。許されたとも言われない。けれど拒まれてもいない。
宿の灯りが近づく。
橙の光が、蒼凪さんの横顔の線を薄く照らした。赤い髪の先が夜風で少しだけ揺れる。その横で俺は、潮鎚を握る左手と蒼凪さんに添えた右手の両方に力を入れすぎないようにした。
守る手。
触れたい手。
引き戻したい手。
三つとも同じ自分の手だった。
宿の入口まで来ると、蒼凪さんが一度だけ視線を俺に向けた。何も言わない。いつもの眼だった。けれどその奥で、何かを知っている温度が一拍だけ動いた。
俺は手を離した。
扉の向こうから、宿の主人が油皿を動かす音がした。夜の街の声は坂の下に残り、ここまで来ると潮の匂いが少し濃くなる。
蒼凪さんが先に扉を開けた。
俺はその半歩後ろで、まだ掌に残っている腕の温度を消せずにいた。
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宿の二階の角部屋に戻った。
戸を閉めると、街の音が一段遠くなった。窓の外で、提灯の橙の光が屋根の連なりの上に揺れている。夜の海風が、薄く窓の縁から流れ込んできた。潮の匂いが、部屋の中の油皿の匂いと混ざった。
蒼凪さんは窓辺に立って、海風を確認した。
俺は寝台の脇で海守りの戦闘服のベルトを外した。装備を棚に置く。潮鎚を立てかける。布の上着を脱いで、薄い肌着の上に革のベスト一枚の姿で自分の寝台の縁に座った。
「ヒュウマ」
蒼凪さんが短く呼んだ。
「ええ」
「明日は」
「海守り衆の詰所に戻ります。海神祭前の警備強化の段取りを、長に報告」
「ああ」
蒼凪さんは短く返して、自分の寝台の方角に進んだ。ローブの前を脱ぐ動作、賢者の身支度。俺は蒼凪さんの背中を視界の縁で確認して、視線をすぐに自分の手元に戻した。
油皿の灯りが、二人の寝台の間で揺れていた。
俺は寝台に横になった。蒼凪さんも自分の寝台に横になる音がした。油皿の灯りが消えた。部屋の中は、窓から差し込む街の灯りの薄い橙だけが残った。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
俺の体は、まだ熱を持っていた。
組合の湯の熱は引いていた。けれど内側の熱は引いていなかった。男たちの視線の蓄積、客引きの声、相方の腕の内側に手を添えた一瞬の温度。すべてが寝台の中で重なっていた。十八歳の体は率直だった。隠す癖を身につけていない。寝具の薄い布の下で、下腹部の輪郭が硬く張っていた。寝返りの度に布が擦れる。布が擦れる音が、自分の耳に届く距離だった。蒼凪さんの寝台にも届く距離だった。布団の中で自分の体が反応している事実を、俺は知っていた。
蒼凪さんの寝台の方角からは、呼吸の音だけが聞こえた。
寝ている呼吸ではない。起きている呼吸。蒼凪さんも、まだ起きている。賢者の呼吸の癖は、俺は読み取れる。深さと速度で起きているか寝ているかを判別する。今は、起きている。
俺は寝具の中で寝返りを打って、蒼凪さんの方角に背を向けた。
それから自分の手で、自分の体を抑えた。
声を出さない。
抑えた呼吸、寝具の擦れる音、半歩離れた水差しの水を含んで唇を湿らせる音、薄い布で受けた跡を畳んで枕の下に入れる音。所作の連なり。十八歳の率直さで、若い体を独りで落ち着かせた。蒼凪さんの方角は見ない。蒼凪さんの呼吸の音は聞こえる距離で起きていた。
終わった後、俺は寝具の中で、息を一度長く吐いた。
体の熱は引いた。内側の熱は、まだ少しだけ残っていた。完全には引かなかった。引かないまま、俺は目を閉じた。
蒼凪さんの呼吸が、俺の背中越しで一度長くなった。
それから、二人とも、口は開かなかった。
街の灯りが、屋根の連なりの上で薄く揺れていた。窓の縁の海風の音が、部屋の中で続いていた。俺は目を閉じたまま、息を整えた。眠りは、すぐには来なかった。
蒼凪さんも、しばらくの間、起きていた。
俺は知っていた。蒼凪さんの呼吸の音が、ずっと起きている呼吸だったから。気づいていた、けれど口にしなかった。蒼凪さんも気づいていた、けれど口にしなかった。互いに踏み出していない関係の中で、互いの夜の所作を、互いに察していた。察していて、口にしない。それが二人の温度だった。
眠りは、しばらくしてから来た。
──────────────────────────────
朝の光が、宿の二階の窓から差し込んでいた。
俺は目を開けた。少し遅れて、昨夜の部屋の温度を思い出した。油皿の匂い。窓から入る潮風。寝具の中で抑えた呼吸。背中越しに聞こえていた蒼凪さんの起きた呼吸。
蒼凪さんはもう起きていた。
窓辺に立っている。白湯の杯を手にして、潮の匂いを確かめていた。朝の光がローブの白を淡く照らす。前はやはり直していない。胸の線が光の中に静かに出ていた。
「ヒュウマ」
「お早うございます」
「ああ」
返事をしながら、俺は視野の縁で蒼凪さんの寝台を見た。
視野の縁で蒼凪さんの寝台の方を確認した。寝具は畳まれている途中で、薄い布の中に輪郭が薄く残っていた。蒼凪さんの寝具にも、夜のうちに何かが在った気配があった。賢者の冷静さの皮膜の下に、整然の下の獣が一晩のうちに動いていた事実。俺は視線をすぐに自分の寝具の方角に戻した。気づいたが、口にしない。蒼凪さんも、俺が気づいたことを察している。その上で、二人とも口にしない。それが、二人の朝の温度だった。
俺は寝台から起き上がった。
体の動きはいつも通りにした。寝具を畳む。薄い布を手元で整える。枕の下へ指を差し入れる。夜のうちに乾いていた布を、指先で軽く確かめた。
革帯に挟む。処理用の場所へ移す。
所作は流れた。流れたことにして、流した。蒼凪さんは窓辺に立ったまま、こちらを見ない。ただ視野の縁で、俺の動きを確認している気配が薄くあった。
朝は便利だ。光がすべてを同じ色にする。
昨夜のことも、寝具も、呼吸も。窓から入る光の中では、ただの朝の支度に見える。けれど俺たちは知っている。互いに知っていて、知らない顔をしている。
「今日の段取りは」
蒼凪さんが窓の方を向いたまま言った。
「海守り衆の詰所に戻ります。昨日の打ち合わせを報告して、祭り前の巡回表を組みます」
「ああ」
「蒼凪さんは」
「塔の文献を確認する。書物商にも寄る」
「夕方に合流で」
「それでいい」
いつもの会話だった。
短い確認。必要な情報。余計な形容はない。昨夜の熱はどこにも出ていない。出ていないのに、声の下に沈んでいる。沈んだものは見えないが、消えたわけではない。
俺は海守りの戦闘服を整えた。深い藍と砂色の革を身につける。ベルトを締める。金具の位置を確かめる。潮鎚を腰の左に下げると、重さが戻った。
その重さで、少しだけ息が落ち着いた。
下の食堂から宿の主人の声が聞こえた。若い息子が返事をする声も続く。パン籠を動かす音。椅子を引く音。昨日と同じ朝が、下で用意されている。
「ヒュウマ」
「ええ」
「先に下りていてくれ」
「ええ」
昨日と同じ言葉だった。
けれど昨日とは違う。俺の中に残っているものが違う。蒼凪さんの寝台に残っていた薄い気配が違う。二人ともそれを知っている。
俺は扉へ向かった。
階段を下りる前に一度だけ振り返る。蒼凪さんは窓辺に立っていた。白湯の杯を持ち、潮の匂いを読む。朝の光が胸元に落ちている。賢者がこういう体をしていることが、今朝は昨日よりも近く見えた。
他の誰にも見せたくない。
そう思った。声には出さない。
階段を下りると、食堂の空気はもう温まっていた。宿の若い息子がパン籠を運んでいる。俺を見ると、一瞬だけ目を上げた。すぐに下げる。
昨日のように階段を待つ目ではなかった。
「お早うございます」
「お早う」
主人が卓の向こうから声をかけてきた。
「お早うございます、ヒュウマ様。お連れ様も後ほど」
「ええ」
俺は卓に着いた。椅子の木が軽く鳴る。潮鎚の柄が腰で少し揺れた。
階段の方から、蒼凪さんの足音が下りてくる。息子はパン籠を卓に置き、視線を上げないまま厨房へ戻った。足取りが乱れてはいない。ただ昨日より少し早い。
何かを見ないと決めた動きだった。
蒼凪さんが食堂に入ってきた。
息子の目は上がらない。主人だけがいつもの礼で迎えた。
「お早うございます、賢者様」
「ああ」
蒼凪さんは俺の向かいに座った。白湯の杯に手を伸ばす。その指の動きは朝の所作として整っている。けれど卓の上に置かれた右手の角度が、昨日よりわずかに俺の方を向いていた。
物理的に近いわけではない。
それでも俺には分かる。組合詰所の卓の下で一センチ寄った手。坂道で俺の掌へ寄った腕の内側。それと同じ種類の動きだった。
「今日も、海守り衆の詰所だな」
「ええ」
「無理しなくていいぞ」
「大丈夫です」
蒼凪さんは白湯を一口飲んだ。
「お前は大丈夫と言う時ほど、少し見張った方がいい」
「蒼凪さんもですよ」
「俺は整理している」
「それが見張る理由です」
蒼凪さんの眼が一拍だけ俺を見る。怒ってはいない。呆れてもいない。ただ、少しだけ近い。
「相変わらずだな」
「ええ」
短いやり取りはそこで終わった。
パンを噛む。白湯の湯気が上がる。外では海鳥が鳴いている。窓の縁から差し込む光が卓の上を滑った。
俺は左手を卓に置いた。
蒼凪さんの右手の隣。触れない距離。半歩離れた位置。
蒼凪さんは手を引かなかった。
二人の手は並んでいる。触れてはいない。触れないことで、かえってそこに距離の形が出る。昨日の朝にはなかった形だった。
宿の外で荷車が鳴った。街はまた海神祭へ向けて動き始める。港湾、組合、屋台、巡回表。今日やるべきことはいくつもある。
俺たちは普段通りにパンを食べた。
普段通りに白湯を飲んだ。
普段通りに、昨夜のことを口にしなかった。
朝の光が、二人の手の間で薄く揺れていた。




