委ねられる
朝の宿の食堂は、昨夜の息をまだ薄く残していた。
油皿の灯りは消えている。芯の先に残った黒い焦げだけが小さく固まり、窓から入る朝の光が卓の木目を白く撫でていた。海鳥の声が遠く鳴る。港の屋根の向こうで帆を張る音がして、海神祭へ向かう街の手がゆっくり動き始めているのが分かった。
私は卓の縁に座り、白湯の杯を両手で包んでいた。掌の内側に温度が残る。昨夜、祈りを置いた指先はまだ少し硬かった。眠った時間は短い。それでも朝は来て、私たちは朝の光の中で昨夜の続きを扱わなければならなかった。
レオンは正面に座っていた。腰の左には聖剣がある。鞘は白銀のまま静かで、昨夜から一度も抜かれていない。レオンの左手は卓の縁に置かれ、指先だけが一度動いた。聖剣の鞘の方角へ伸びかけて、戻る。私はその小さな動きを白湯の湯気越しに見た。
ヴァローは私の右手側で書類の束を確かめていた。灰色のローブの袖口が紙の角に触れ、乾いた音が短く立つ。革紐で綴じられた書類は昨夜のままだ。エルナ・ベレッリ様のお宅から預かった重さが、紙の枚数以上に卓へ沈んでいた。
ガイウスは左手側にいた。背に重盾を背負ったまま椅子へ腰を下ろし、塩漬けを黙って噛んでいる。山岳地方の毛皮のマントは肩の上で重たく垂れ、朝の港の湿り気を吸って少し色を濃くしていた。海の朝に慣れない男の沈黙だった。
「合議の判断を、待たないことになりますね」
私の声は白湯の温度より少し低かった。
「ああ」
レオンは短く返した。
「商家連合の取り立ての件は、合議の枠の外だ。海賊事件の連携強化とは別の話。昨夜の段階で、それは決まっていた」
レオンの声には責務の重さがあった。怒りではない。焦りでもない。自分の名で動くことを引き受ける時の低い温度だった。左手はまだ卓の縁にある。鞘の革帯には触れない。触れないまま、近くに置かれている。
私はその手に何も言わなかった。昨夜の戦闘の中で、レオンの中の何かが静かに熱を持った。それを本人がまだ言葉にしない以上、私が先に言葉を置くことではなかった。私たちは長く一緒に育った。だからこそ、触れずにいるべき沈黙もある。
「マルクス様には、朝のうちにご報告に伺います」
「ええ」
「ヴァロー、書類は」
「束のままで、お持ちします」
ヴァローは革紐の結び目を指で押さえた。
「不正の中身は、紙の上で確認できます。マルクス様にも一目でお分かりいただける。評議会への陳情の証拠としても、このままが良い」
「紙の角まで証拠になるか」
ガイウスが塩漬けを飲み込んで低く言った。
「なりますね」
ヴァローは淡く返した。
「乱暴に扱った痕跡も含めて、読む方は読みます。言うまでもなく、読む眼があればの話ですが」
「皮肉は朝飯の後にしろ」
「これは朝飯の一部です」
レオンが小さく息を吐いた。笑ったわけではない。それでも卓の上の空気が半分だけ動いた。
「ガイウス、お前は」
「外で待つ」
ガイウスは箸を置いた。
「重盾を背負って小教会の控え室に入るのは、場違いだ。中庭の方で待ってる」
「ええ」
私は頷いた。
「ただ、近くにいてください」
「ああ」
短い返事だった。頼めばそこに立つ男の声だった。
朝のパンを噛む音が重なった。宿の奥から鍋を動かす音がする。外では荷車の車輪が石畳を鳴らした。海神祭の幟を運んでいるのかもしれない。街は昨夜のことをまだ知らない顔で動く。けれど私たちの卓には、昨夜の戸口の半歩と書類の重さが残っていた。
レオンの左手は動かなかった。聖剣の鞘へ伸びない。その代わり、手の甲の筋だけが一度浮いた。私は白湯を一口飲み、胸元のロザリオを服の上から確かめた。
──────────────────────────────
ヴェラーナ港の小教会の中庭は、薄曇りの朝に包まれていた。
白鯨の意匠を刻んだ石碑の上に、淡い光が乗っている。港の湿った風が中庭を通り抜け、石の縁に置かれた小さな花を揺らした。聖オルヴェリス教会の小教会に海神信仰の意匠が並ぶ。その構えを、マルクス様はいつも静かに受け入れておられた。
ガイウスは中庭の縁の石畳に立った。重盾を背にしたまま腕を組み、視線を白鯨の方角へ置いている。礼拝堂の中へ入る人の所作ではない。見張りに立つ戦闘員の所作だった。けれど石碑へ向ける眼だけは、山の祠の前に立つ時のように静かだった。
私とレオンとヴァローは控え室へ通された。扉の蝶番が古く、開く時に乾いた音を立てた。控え室には潮の匂いが薄く入り、白い壁の上で朝の光がにじんでいた。
マルクス様は長椅子の端に座っていらっしゃった。白の祭服の袖口は丁寧に揃えられ、胸元の銀のロザリオは手の中に収まっている。深い皺の奥の眼は、先日よりも疲れて見えた。眠れなかった方の眼だった。
「カイ・グレイス様」
穏やかな声で名を呼ばれた。
「お早うございます、マルクス様」
「先日のお宅の件、お話を伺っております」
マルクス様はロザリオを握り直された。銀の粒が指の間でかすかに鳴った。
「商家連合の方々が、昨夜お宅に踏み入られた、と」
「ええ」
「お子様方は、ご無事でしたか」
「ご無事です。お母様のお膝で、お眠りに」
マルクス様の眼に、安堵が短く宿った。深い疲労の底に小さな灯が置かれるような変化だった。すぐに伝道師としての穏やかな顔に戻られたが、私はその一拍を見落とさなかった。
レオンが隣で頭を下げた。
「マルクス様、書類をご覧いただけますか。エルナ・ベレッリ様のお宅から、昨夜お預かりしたものです」
ヴァローが革紐を解き、書類の束を長椅子の前の小卓へ置いた。一枚目の端は少し折れている。昨夜の居間で誰かの靴が近くを踏み、机が動かされた時の名残だった。紙は静かだが、紙の静けさは時に人より多くを語る。
マルクス様は一枚ずつ手に取られた。利率の欄、署名の跡、追記された担保の文字。眼が紙面を移るたび、顔の皺がほんの少し深くなった。控え室は静かだった。外で海鳥が鳴き、中庭の石碑の方角から風が入る。
「不正の所在は、明確でございます」
マルクス様は短く告げられた。
「利率の偽装、担保の追記。お宅のご事情を知った上で、商家連合の深い側の方々が動かれた構造でございます」
レオンの肩が一度だけ硬くなった。声は出さない。ヴァローは表情を変えなかったが、紙を見ていた眼の焦点が一段鋭くなった。
「マルクス様」
私は問うた。
「評議会への陳情は」
「お通しいたします。私の方で、議長の元に書類をお持ちすることはできます。商家連合は中立を建前とされております、ただ書類の上で不正が示されれば、評議会も動かざるを得ません」
「お時間は」
「数日でございます。海神祭の前後は議事が止まりますが、その前なら一週間以内にご決裁が出る可能性が高い」
マルクス様は書類をそろえ、革紐を結び直された。結び目は小さく整っていた。何度も書類を扱ってきた方の手だった。
「お船の件は」
マルクス様は私を見られた。
「商家連合の取り立ての対象だったお船、お宅にお戻しする手続きが必要でございます。私の方で、商家連合支部に書類をお見せすることもできますが」
「マルクス様」
私は静かに言った。
「お船のことは、私から直接エルナ様にお話しいたします。教会の枠を介さない形で」
マルクス様の視線が私の顔に留まった。深い皺の奥で、眼が少しだけ柔らかくなる。
「カイ様」
「ええ」
「ご無理のない範囲で」
その言葉は、先日も私へ置かれたものだった。届かない場所へ手を伸ばす時、伝道師が相手の背に置く軽い掌のような言葉。命じるのではなく、祈りすぎて折れないように支える言葉だった。
「ええ」
私は短く頷いた。
「組合に依頼を出される時は」
マルクス様は続けられた。
「私から支部長にお話を通すこともできます。冒険者組合ヴェラーナ港支部の長は、教会の小教会と長くお付き合いがございます」
「ありがとうございます。お船を動かす方々が必要ですので、組合への依頼は本日のうちにお出しいたします」
「報酬は」
「教会本部の予算配分の枠から。私の階級でお出しできる範囲で、調えます」
レオンが私を一度見た。何かを言いかけた顔だったが、言葉にはしなかった。ヴァローは書類を抱え直し、革紐の結び目を指で確かめている。彼の観察はいつも静かに次の手続きを探している。
控え室を辞する時、マルクス様は戸口まで送ってくださった。祭服の裾が床に触れないように少しだけ持ち上げる所作が、疲労の中でも崩れていなかった。
「カイ様」
マルクス様は名を呼ばれた。
「お船が、海に出ますように」
それは聖句ではなかった。教義としての形も持たない。けれど、個人の願いとしては確かに祈りに近かった。私は浅く頭を下げた。
中庭に出ると、ガイウスが白鯨の石碑から視線を戻した。重盾は背の上で動いていない。彼の足元の石畳だけが、重さを受けて少し湿って見えた。
「行くか」
ガイウスが短く言った。
「ええ」
私はロザリオを胸元で一度握り、エルナ様のお宅の方角へ歩き出した。
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エルナ・ベレッリ様のお宅の戸口で、私は浅く頭を下げた。
扉が開く前、家の中から小さな布擦れの音が聞こえた。誰かが椅子を引いた音ではない。立っていた足の向きを変える音だった。扉が開き、エルナ様が私たちを順に見られた。レオンの聖剣。ヴァローの灰色のローブ。ガイウスの重盾。最後に私のロザリオ。
その視線は怯えていなかった。昨夜、家の中に踏み込まれたものを見た後の眼だった。お子様方の呼吸と油皿の灯りと縛られた男たちの重さを、すべて受け止めた後の眼だった。
「お入りください」
エルナ様は静かに告げられた。
居間は整えられていた。木の長椅子は壁際から正面へ戻り、低い机は元の位置にある。奥の棚の銀の小皿も同じ場所だった。床の擦れ跡だけが少し残っている。昨夜、誰かの靴が乱暴に動いた名残は、消そうとしても完全には消えない。
リリ様は長椅子の縁に座っていらっしゃった。エルナ様の膝の上ではない。母の腿に軽く頭を預け、目を閉じている。眠ってはいない。呼吸は浅くない。小さな身体が母の側に居場所を取り戻しているようだった。
トビアス様は戸口の方角に立っていらっしゃった。
私はその立ち方を見た。
窓辺ではない。奥の壁際でもない。扉から少し内側の位置で、私たちが入ってきた戸の方角へ視線を置いている。十歳の少年の肩は小さい。けれど肩の向きは昨夜よりも外へ開いていた。
昨夜の戦闘の後、トビアス様は一度だけ「はい」とお答えになった。その後、戸口の方角に半歩動かれた。母の腰に庇われる位置から、母の隣に並ぶ位置への半歩。今朝の立ち方は、その半歩の延長だった。
私は長椅子の縁に、エルナ様の斜めの位置で座った。レオンが隣に座る。ヴァローは机の向こう側に立ち、書類の束を腕の中に抱えた。ガイウスは戸口の外側を選んだ。トビアス様の立ち位置は、ガイウスの半歩内側にあった。
「マルクス様にご相談いたしました」
私は切り出した。
「書類の不正の件は、評議会への陳情をお通しいただきます。一週間以内にご決裁が出る見込みです。お船の件も、商家連合の方々の取り立ての構造を、評議会の場でご審議いただきます」
「ええ」
エルナ様は低く答えられた。
「お時間を、ありがとうございます」
「お礼の言葉は、私の方には向きません。書類をお預けくださったのは、エルナ様ご自身のご判断です」
エルナ様の手が膝の上で小さく動いた。強く握るのではない。結んでいたものを少しだけ解く動きだった。
「お船は、お戻りになりますか」
「お戻りいたします。商家連合の方々のご不正が示されれば、お船は元のお宅の所有に」
エルナ様は頷かれた。その頷きは小さい。けれど居間の空気が、ほんの少しだけ前へ進んだ。
私は息を吸った。白い神官服の胸元が動き、ロザリオが服の内側で薄く触れた。
「お船のことで、お願いがございます」
エルナ様の視線が私に向いた。リリ様の瞼も少しだけ動く。トビアス様は戸口の方角に立ったまま、こちらを見ていた。
「お船を、しばらくお預かりさせていただけませんか」
エルナ様の両手が膝の上で一度止まった。
「お預かり、と」
「ええ。私たち勇者一行が、海賊事件の追跡で海路に出る必要がございます。お船を動かせる方が、お宅にはいらっしゃらない、と先日伺っております。私たちが一時的にお借りすることで、お船の係留税のご負担も、私たちでお受けいたします。借り賃も、教会本部の予算からお支払いいたします」
「教会のお金で」
エルナ様の声に、小さな曇りが差した。信頼ではなく、借りを重ねることへのためらいのように聞こえた。
「いえ、マルクス様を介さない形で」
私は返した。
「教会の制度の枠を経由しない、私個人としてのお願いでございます。借り賃は私の階級でお出しできる範囲、ただし、お宅の数月分の生計の足しにはなる金額を見込んでおります」
レオンは黙っていた。ヴァローも口を挟まない。ガイウスは戸口の外で気配を動かさなかった。私の言葉がこの家の中でどう受け取られるかを、三人とも待ってくれていた。
エルナ様は机の縁を見られた。机の木目には、古い傷がいくつもある。旦那様がまだ海へ出ていらした頃から、この机は同じ場所にあったのだろう。魚の匂い。濡れた手拭い。子どもたちの小さな手。そういうものが、傷の中に沈んでいる気がした。
「お船は、旦那様の代から続くもの。海に出るのが、お船の役目でございます」
声は低かった。家の中にあるものを、家のものとして呼ぶ声だった。信仰の言葉ではない。制度の言葉でもない。船そのものへ向けられた家族の言葉だった。
私は頷いた。
「お船が、海に出ます」
「ええ」
エルナ様は両手を膝の上で組み直された。
「お預かりくださいませ。お船を、海にお戻しください」
その声を聞いた瞬間、昨夜の居間が私の胸の奥に戻った。商家連合の取り立ての書類を「お読みください」と差し出された夜。あの時と同じ温度だった。恐れの底で折れずに残った判断の声。家の中で何かを外へ渡す声。
私は浅く頭を下げた。
レオンも隣で頭を下げた。ヴァローは机の縁に置かれた書類を一度撫でるように確認し、視線を上げた。戸口の外で、ガイウスの重盾が壁に薄く触れる音がした。
トビアス様が、戸口の方角でゆっくり頭を下げられた。
その動きは急がなかった。首だけで済ませる礼でもなかった。小さな背筋が伸び、肩が動き、視線が一度床へ下りる。昨夜は戸口の方角に半歩動かれた少年が、今朝は戸口の方角に立って、四人の私たちに頭を下げてくださった。母を背に庇うのではなく、母の隣に並ぶ位置で。
「お母さんを、お頼みします」
私はトビアス様に告げた。
昨夜、レオンがトビアス様にお渡しになった言葉だった。今朝の私は、その言葉をもう一度別の角度で置いた。勇者の声ではなく、神官の声として。前へ出る人を守る言葉ではなく、隣に立つ人へ渡す言葉として。
「はい」
トビアス様は短く答えられた。
声は昨夜より一段、確かだった。
リリ様は母の腿に頭を預けたまま、目を開けて私を見ていらっしゃった。まだ言葉にはならない。けれど視線は届いていた。昨夜の眠りの呼吸より一段穏やかで、朝の光に薄く馴染んでいた。
私は立ち上がる前に、ロザリオを胸元で握った。銀の小さな紋章が掌に当たる。教会の祈りは、この家の縁には届かないことを私は知っている。エルナ様も知っている。それでも、置ける言葉があるなら置きたかった。
「光神のご加護を、お母様に」
私は短く呟いた。
それはエルナ様へ向けた勧めではなかった。トビアス様の半歩の動きの方角に、そっと重ねて置く言葉だった。届く相手がいれば、届く。祈りはいつも相手の扉を開けるものではない。時には、閉じた扉の前に小さな灯を置くだけのものだった。
エルナ様は応えられなかった。視線だけが戸口の方角へ届いていた。
私たちは家を出た。扉が閉まる直前、トビアス様の眼が私の背中の方へ届いていた。私は振り返らなかった。振り返れば、あの半歩をこちら側へ引き戻してしまう気がした。
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昼下がりの海守り衆ヴェラーナ港支部の詰所は、潮の匂いと乾いた縄の匂いが混じっていた。
入口の戸の縁には救援用の綱が一束掛けられている。卓の上には海図と救援記録の冊子が開かれていた。窓は港湾の方角へ向いている。遠くで荷を下ろす声が聞こえ、帆を畳む布の音が風に乗って届いた。
長のマルガ・トーレス様は卓の前に座っていらっしゃった。六十年配の女性。海守り衆の戦闘服ではなく、公的な装いをしておられる。藍と白の重ね着。銀の細い首飾りには小さな白鯨の意匠。ヤコウ様より一段公的で、支部全体の重さを背に置く方の温度だった。
私たちが入ると、マルガ様は両手を卓の縁から離して立ち上がられた。年配の方の動きだが、姿勢は崩れない。長く海の前で人を迎え、見送り、時に戻らない人の名を記録してきた方の背筋だった。
「勇者一行の方々」
マルガ様は短く呼ばれた。
「先日のお宅の件、お話を伺っております。商家連合の手の者の方々を、お宅の中で押さえてくださった、と」
「ええ」
レオンが返した。
「縛った方々を、海守り衆の方にお引き取りいただきたく」
「お引き取りいたします」
マルガ様は即座に答えられた。ためらいはない。けれどその後の言葉には、制度の硬い枠が乗っていた。
「商家連合の手の者の方々に対しては、海守り衆も手を出せない構造がございます。商家連合は中立を建前とされておりますので、海守り衆が公的に動くには評議会の決裁が必要でございます。それを待っていれば、お宅のお子様方のご無事は保証できなかった」
マルガ様は卓の縁で両手を組まれた。指の節が太い。書類だけを扱ってきた手ではない。縄や水や濡れた木を扱ってきた方の手だった。
「あなた方が動いてくださったのは、海守り衆の構造の外側でのご判断でございます。それが、お宅をお守りすることになりました」
レオンは頷いた。
「ご礼の言葉、と申し上げるべきでしょうか」
マルガ様は問われた。
「いえ、礼は私たちが受ける筋ではありません。お宅のお子様方が無事だった、それが私たちの役目の答えです」
レオンの声は低かった。昨夜から続く重さを抱えたまま、それでも前へ置く声だった。聖剣の鞘の革帯に左手は触れていない。私はそれも見ていた。
「先日、海守り衆の詰所では、皆様のご依頼をお断りいたしました」
マルガ様は静かに続けられた。
「サルヴァトーレ家の海守りの当代殿が長期で出払われておられる、と申し上げました。それは事実でございます。ただ、海守り衆の構造の外側のご事情、私の支部の長としての判断が、皆様のご事情に応えられなかった、その事実は残ります」
「それも、役目の中の判断です」
レオンは短く返した。
マルガ様はわずかに目を細められた。責められなかったことへの安堵ではない。責任を互いに誤魔化さずに置いた者同士の沈黙だった。
「本日、皆様が組合への依頼でお船を動かされる、と伺っております」
「ええ」
「組合の支部長には、伝道師のマルクス様からお話が通っております。組合員の方々が、ヴェスタ・ロウ殿を指揮役として、皆様の出航にお同行されることになっております」
「ご存じでしたか」
「海守り衆の情報網は、組合の動きと並走しております」
マルガ様は短く返された。
「ヴェスタ・ロウ殿は、海事戦闘ではB級ですが、A級の戦闘員に並ぶ実力派でございます。海守り衆の小型船の船長たちも、ヴェスタ殿の指揮を高く評価しております。皆様の出航には、ご安心の人選でございます」
ヴァローがほんの少しだけ顎を引いた。組合の人選への評価を、彼なりに記録した所作だった。ガイウスは窓の外の港湾を一度見た。船という言葉に、肩の上の毛皮が重く見える。
私は頷いた。
マルクス様の控え室。組合の支部長の卓。海守り衆の詰所。別々の場所で別々の方々が、エルナ様のお宅の方角を一度ずつ見てくださっている。祈りとは違う。けれど人が人の方角を見るということは、時に祈りとよく似た形になる。
マルガ様は卓の上に薄い書類を置かれた。
「お船の係留の件、海守り衆の方で記録を更新しております。エルナ・ベレッリ様のお船を、勇者一行の皆様が一時的に運用される旨、記録の上に残させていただきました」
「ありがとうございます」
「商家連合の取り立ての書類は、評議会の方に伝道師マルクス様からお持ちいただく、と伺っております。海守り衆の方では、お宅のご家族のご無事を引き続き見守ります。隣家の漁師の方とも、連絡を取らせていただきます」
「ご無理のない範囲で」
私は短く返した。
マルガ様は深く頷かれた。その頷きには、年配の海守り衆としての重みがあった。無理をしないという言葉を、ただの遠慮にしない方の頷きだった。
詰所を辞する時、マルガ様は戸口で立ち止まられた。
「ご出航、お気をつけて」
声は低い。海に出る人へ掛ける言葉として、余分な飾りが削られていた。私は浅く頭を下げた。
外へ出ると、昼下がりの光が少し傾き始めていた。港の音は朝より濃く、風の匂いも少し強い。夕方までに、私たちはお船を海へ戻すことになる。
──────────────────────────────
夕方のヴェラーナ港の桟橋で、エルナ・ベレッリ様のお船は夕方の光を背に受けていた。
旦那様の代から続く小型漁船だった。船体は古い。けれど板の継ぎ目は手入れされ、船縁の縄も腐っていない。三年前まで旦那様がお出になっていた船だと伺っている。係留税は払い続けられ、隣家の漁師の方が時折手を入れてくださっていた。舳先の塗料は薄れ、船の名は輪郭だけになっていた。
桟橋の木は潮を吸って黒く濡れている。足元で板がかすかに鳴り、隙間から海面の反射が見えた。魚の匂い。縄の匂い。日中に温まった木が夕風で冷えていく匂い。港の夕方は、朝よりも多くのものを抱えていた。
組合員の方々が桟橋の上に立っていらっしゃった。
四人。全員、男性。ヴェラーナ港支部からの派遣だった。
中央の一人がこちらを見た。
二十代後半。中肉中背で、ヒュウマ殿よりやや細身に見える。けれど細さではない。動くために余分を削った体格だった。短髪は黒に近い濃い茶で、海風に乱れたまま整える様子がない。日に焼けた褐色寄りの肌。両腕の前腕には古い切り傷の跡が複数走っていた。
胸と肩と前腕の革プレートは最小限だった。腰回りは布の作業着で、水に濡れても動ける装い。革鎧の下、腰の輪郭がしっかりと張っていた。戦闘員の質量、機動型の引き締まり方の核がそこにあった。
腰の左には片手曲刀がある。深い藍と銀の中間色。アズリウム製、と私は視線で確認した。海洋同盟の希少金属。海守り衆のサルヴァトーレ家の潮鎚と同じ素材だ。鞘の縁は革のベルトに馴染み、長く帯びてきた業物の質感があった。
頭には青と黄色の迷彩柄のバンダナを巻いている。青の地に黄色のまだら模様。踊るナマズ海賊団の標識色だと、組合からの紹介状にあった。海上で日差しに当たると逆に隠れる視覚効果があるとも書かれていた。額の上で結び、後ろに垂らす結び方。汗を吸わせる実用と、団の名残を身につける儀礼の両方を兼ねているのだろう。組合に登録された後も外していらっしゃらない、と。
その隣に組合員が三人。簡素な海事戦闘員の装いだった。後でサグ殿、ノウ殿、テオ殿と名乗られる方々だ。けれど最初の一目では、中央の方の存在感が三人の輪郭を背景に押しやっていた。桟橋の風の中で、彼だけが少し低い重心で立っている。
中央の方が半歩進み、片手を軽く上げた。
「お初にお目にかかります、勇者一行の皆様」
声は明るい。粗野な響きはあるが、礼節の形は外していない。教会で習う丁寧体とは違う。港の現場で身につけた挨拶だった。
「ヴェスタ・ロウです。ヴェラーナ港支部のB級。海事のことなら、お任せください」
最後の一句で、丁寧体の縁に粗野が薄く滲んだ。隠しきれないというより、隠す必要をあまり感じていない声だった。
レオンが頭を下げた。
「レオン・ソルです。聖オルヴェリス教会本部から派遣された勇者一行の。ご同行、よろしくお願いいたします」
「勇者の兄ちゃん」
ヴェスタ殿の視線が、レオンの腰の聖剣に一秒留まった。鞘の形。革帯の締め方。柄頭の重さ。戦闘員が武具を見る時の眼だった。それから視線はレオンの顔へ戻る。
「聖剣はうちの組合じゃ初めて見るぜ。よろしくな」
レオンは短く頷いた。兄ちゃんという呼びかけに驚いた様子は見せない。ただ、少しだけ肩の力が抜けたように見えた。象徴としてではなく、若い前衛として呼ばれたことが、今のレオンにはかえって受け取りやすかったのかもしれない。
ヴァローが灰色のローブの裾を払った。
「月読みの塔のヴァローです。観察の方、ご一緒に進めさせていただきます」
「ヴァロー殿、月読みの塔の方とは初めて組む」
ヴェスタ殿は返した。
「観察、お願いします」
言葉は丁寧なのに、声の端には潮風のような荒さが残っている。ヴァローはその荒さを嫌がらなかった。むしろ、観察という役割を正面から求められたことを受け取った顔をしていた。
「観察できる範囲では、海上の指揮役がこちらの役割を理解しているのは助かります」
ヴァローが言った。
「それは皮肉か」
「違います。今のところは」
ヴェスタ殿は短く笑った。
ガイウスは桟橋の縁で立ち止まり、低く名乗った。
「ガイウスだ。重盾戦士、土属性。船は苦手だ」
「ガイウスの兄貴、船は苦手か」
ヴェスタ殿は笑みを残して言った。
「山の方が落ち着くんだろ。気持ちは分かる、でも今回は付き合ってくれ。揺れない海路を選ぶようにする」
「できるなら頼む」
ガイウスの返事は短かった。けれど兄貴という呼びかけを拒まなかった。年上の戦闘員へ向ける敬意の形だと分かったからだろう。山の戦士と海賊あがりの戦闘員の間に、言葉より先に重心の会話があった。
最後にヴェスタ殿は私を見た。
「神官の兄ちゃん」
「カイ・グレイスです」
「カイの兄ちゃん、後ろは頼んだぜ。海上は揺れる、酔い止めの薬草は俺が持ってる、必要なら言ってくれ」
「ええ、ありがとうございます」
兄ちゃんという呼びかけには、私を軽く見る響きはなかった。若手を気にかける方の言葉だった。海賊団で年下を世話してきた名残が、短い声の中に残っているように感じた。
組合員の三人も順に名乗った。サグ殿は太い腕で帆を扱う方。ノウ殿は細身で縄を素早く結ぶ方。テオ殿は舵の補助に立つ方だった。ヴェスタ殿が一言ずつ役目を添えると、三人は過不足なく頷いた。指揮役と組合員の間に、余分な説明を要しない距離がある。
桟橋の縁には、伝道師マルクス様が立っていらっしゃった。白の祭服と銀のロザリオ。風が袖を薄く揺らしている。マルクス様はエルナ家の方角を一度見て、それから私たちに視線を戻された。
「お船が、海に出ます」
マルクス様は告げられた。
「ええ」
私は答えた。
「ご無事で」
「ありがとうございます、マルクス様」
マルクス様は深く頷かれた。その視線の中に、伝道師としての言葉では届かない場所へ向けた個人の祈りがあった。私はそれを受け取り、胸元のロザリオを服の上から一度押さえた。
少し離れた位置には、マルガ・トーレス様も立っていらっしゃった。後ろには海守り衆の戦闘服を着た若手が三人並ぶ。海神祭前の警備強化の段取りで、桟橋の方角を見守る役目なのだろう。マルガ様は私たちへ短く頭を下げ、それ以上近づかれなかった。海守り衆の長としての節度だった。
ヴェスタ殿が桟橋の縁から私たちを見た。
「皆さん、出航の準備を整えました。エルナ・ベレッリ様のお船、海事用の整備は問題ない。係留紐を解けば、出航できます」
「ええ」
レオンは返した。
「紐は」
「俺がお解きします」
ヴェスタ殿は桟橋の杭へ進んだ。係留紐の結び目に手をかける。指の動きに迷いがない。海賊団時代から、組合での三年間、何百回と解いてきた紐なのだろう。アズリウム製の曲刀の鞘が腰の左で軽く揺れた。
麻の繊維がほどける乾いた音がした。湿った木の縁から、船を留めていた力が抜ける。桟橋の杭に擦れていた紐が外れ、船体が水の上でほんの少し自由になった。
私たちは順に乗り込んだ。
ガイウスは重盾を背負ったまま、踏板を足で一度確かめた。板が軋み、船が彼の重さで沈む。それから水に押し返されて戻った。ガイウスは顔をしかめたが、何も言わず船へ移った。
ヴァローはローブの裾を払って軽く乗った。足元を見ていないようで、踏む場所は正確だった。レオンは聖剣の鞘の革帯を腰で一度直し、桟橋から船へ踏み出した。鞘の縁が踏板の縁を掠め、白銀が夕方の光を拾った。
私は最後に残った。乗り込む前に桟橋の上で振り返る。
ヴェラーナ港の街並みが夕方の光の中で濃く見えた。屋根の連なりの奥に、エルナ様のお宅の屋根がある。トビアス様の戸口の半歩。リリ様の母の腿に預けた頭。エルナ様の机の縁。それらが今もあの屋根の下にある。
私たちが今、お船をお預かりしている事実は、その屋根の下に届いている。届いている、と私は知っていた。直接見えなくても、そう知ることができる日がある。
「カイの兄ちゃん」
ヴェスタ殿の声が届いた。
「乗ってくれ。風が変わる前に、出航したい」
「ええ」
私は船へ踏み出した。足元が桟橋から離れ、水の揺れが身体へ移った。
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船が桟橋から離れる瞬間、私は舳先の方角を見ていた。
夕方の光が海面に薄く広がっている。港の水は金色ではなく、銀と灰を混ぜた色で揺れていた。ヴェラーナ港の輪郭が背中の側で少しずつ薄くなる。海鳥が屋根の連なりの上を渡り、鳴き声が風で千切れた。
ヴェスタ殿は舵の隣に立っていた。サグ殿とノウ殿とテオ殿へ短く指示を出す。
「右に切れ」
「風を受けろ」
「潮目を読め」
言葉は短い。けれどその短さで足りていた。指揮役の声は桟橋での砕けた声より一段低い。海上の判断を持つ戦闘員の声だった。青と黄色のバンダナの端が風で後ろへ流れ、黄色のまだらが夕方の光に一瞬溶けた。
レオンは舳先の縁に立っていた。聖剣の鞘の革帯の縁に、左手が一度置かれる。それから離れた。鞘の中の剣身の方角で何かが静かに残っていることを、私は彼の手の戻り方で知った。レオンは言葉にしない。私も問わない。昨夜の余韻は、まだ彼の中にある。それを急いで名前にする必要はなかった。
ヴァローは船室の入り口の縁で海図を広げていた。紙の端が風に持ち上がり、指で押さえられる。蒼凪殿とヒュウマ殿の追跡の方角。西の海域の方角。ヴァローはその線を指で軽く撫でながら確認していた。
「材料が、まだ足りません」
短い呟きだった。諦めではない。観察を続ける者の保留だった。ヴァローの眼は海図の上にあり、同時に海の向こうにも向いていた。
ガイウスは船室の壁際に座っていた。重盾を背の上で抱えたまま、視線を壁の縁へ落としている。船が揺れるたび、彼の肩がわずかに固くなる。山の方がマシだ、と内側で短く呟いていらっしゃるだろう。けれど役目は果たされる。船酔いが来る前に、戦闘員としての構えへ戻る方だった。
私は舳先の近くに立った。
踊るナマズ海賊団という名前を、組合からの紹介状で読んでいた。ヴェスタ殿の出自として書かれていた。海賊あがりの方とこうして組むのは初めてだ。教会の孤児院で育った私には、その世界の温度は届かない。語られたとしても、半分しか分からないのだと思う。
ただ、ヴェスタ殿の眼は戦闘員のものだった。仲間を見る眼も悪くなかった。サグ殿の手元を見て一拍早く声をかけ、ノウ殿の縄を解く動きを待ってから次を出す。テオ殿が舵を少し取りすぎた時も、叱るより先に修正の言葉を置く。海上の戦況をお任せできる気がした。
「お船は、旦那様の代から続くもの。海に出るのが、お船の役目でございます」
エルナ様の言葉が、私の中で反復した。
お船が海に出ている。
船体の縁が水を切る音。舳先の塗料の薄れた輪郭。潮の匂い。夕方の光の反射。それらが一つになって、今日の私たちの祈りの形になっていた。マルクス様もそれをお見送りくださった。エルナ様もそれをお預けくださった。トビアス様もそれを戸口の半歩で受け取ってくださった。
私はロザリオを胸元で一度握った。銀の小さな紋章が掌へ当たる。祈りは言葉だけではない。船を海へ戻すことも、誰かの隣に立つことも、時には祈りの形になる。
夕方の光が海面の波紋の上で揺れていた。
ヴェスタ殿の声が舵の方角から届く。
「皆さん、海路に出ました。次の港まで、半日です。風は悪くねえ」
最後の一句で、丁寧体の縁に粗野が薄く滲んだ。隠そうとして隠しきれない育ちの温度。ヴェスタ殿の癖だった。
「半日か」
ガイウスが船室の中で低く言った。
「揺れないと言ったろ、兄貴」
ヴェスタ殿が返す。
「揺れてる」
「海だからな」
「山の方がマシだ」
サグ殿が小さく笑い、すぐに帆へ手を戻した。ガイウスはそれ以上言わなかった。短いやり取りだけが船の揺れに紛れ、空気を少しだけ軽くした。
レオンは舳先で頷いた。聖剣の鞘の革帯の縁に、左手はもう触れていない。けれど指は完全には緩んでいなかった。レオンは海の先を見ている。見ているものを、今は誰にも渡さない顔だった。
ヴァローは海図を畳まず、もう一度西の方角を指でなぞった。
「風は悪くありません。潮も、現時点では妨げにならない」
「塔の方もそう見るか」
ヴェスタ殿が問う。
「観察できる範囲では」
ヴァローは返した。
「なら十分だ」
ヴェスタ殿は短く言い、舵の方角へ視線を戻した。
私はもう一度、ヴェラーナ港の方角を振り返った。エルナ家の屋根の輪郭はもう見えない。けれど街並みの上に夕方の光が薄く広がっている。海鳥が一羽、街の方角から海の方角へ渡っていった。
見えなくなった屋根の下に、エルナ様がいる。トビアス様がいる。リリ様がいる。扉の方角に立つ少年の半歩は、もう私たちの手の中にはない。あの家の中に置かれたまま、母の隣で続いていく。
船体の縁が水を切る音がした。繰り返し、繰り返し、舳先の方角で続く。港の音が後ろへ薄れていく。西の海域へ向かう風が、私たちの前から吹いていた。
海路は西へ向いていた。




