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群青幻想  作者: 滄龍 青司
CantoⅠ
29/57

夜を退ける

 宿への道は、月のない夜の底に沈んでいた。


 港の方角から波の音が来る。昼の港で聞く音より低くて遠い。石畳の隙間には夜露が薄く光り、家屋の屋根は星明かりだけを受けて黒い線になっていた。煙突、軒、干された網の影。どれも声を失った形で道の両側に並んでいた。


 エルナさんの家を出てから、四人はほとんど口を開かなかった。


 ヴァローは灰色のローブの裾を乱さずに歩いている。机の上で読んだ書類の話を、まだ口にしない。カイは俺の半歩後ろでロザリオを胸元に握っていた。ガイウスは重盾を背に背負ったまま、石を踏む足音だけを夜に置いていく。


 俺は前の道だけを見ていた。


「不正があります」とヴァローが告げた瞬間の、エルナさんの両手の動き。リリさんが母の肩に頬を寄せ直した呼吸。トビアスさんの息の音。すべてが、夜の道の縁に薄く残っていた。


 あの家の油皿の灯りまで、まだ目の奥に残っている。薄い黄の火。机の上の書類。何も言わずに窓辺に立っていた十歳の少年の背中。俺の左手はその時、聖剣の鞘に向かわなかった。向けてはいけない場面だった。


 通りを二本曲がった。宿のある区画の角まで、あと一本だった。


 そこに、走ってくる足音があった。


 水を含んだ石畳を踏む音。軽い足ではない。若い者の勢いでもない。急いでいるのに転ばないよう堪える足音だった。


「お待ちください」


 低い女の声だった。


 俺は足を止めた。カイも止まった。ガイウスの足音が一拍遅れて止まり、背の重盾が革帯の上で小さく軋んだ。ヴァローはすでに振り返っていた。


 隣家の方角からだった。


 五十年配の漁師の老婆が、息を切らして近づいてきた。肩に古い shawl ではなく厚手の布を巻き、片手で胸を押さえている。エルナさんの家の戸口で、戸が閉まる瞬間に短く頭を下げてくださった方だ。挨拶程度の関係。ただ家の存在は見守ってきた人の温度があった。


「ベレッリさんのお宅に、お戻りください」


 老婆は息を整える前に、それだけ告げた。


「ご夫君の代からの方々ではありません。武具を担いだ方々が四人、五人、もう中に入っております。私が走ってまいりました」


 最後の言葉で声が掠れた。夜気を吸い込みすぎた喉の音だった。


 俺は息を一度吸った。


 波の音が遠ざかった気がした。道の先で宿の窓明かりが細く見えていたが、そこはもう俺たちの向かう場所ではなかった。


 ヴァローが灰色のローブの裾を翻した。短杖がもう手の中に握られている。ガイウスは背の重盾を一度肩で揺らして、重さを確かめた。カイは胸元のロザリオを握り直した。声は出さなかった。


「行く」


 俺は短く告げた。


 四人で来た道を駆け戻る。


 石畳の上を靴底が叩く。波の音が背の方角で薄れて、代わりに自分の息が耳の内側に近づいた。星明かりだけの夜に、家の屋根の輪郭が黒く流れる。漁師町の縁の貧しい地区。潮で傷んだ扉、低い塀、乾かしきれなかった網の匂い。


 カイの足音は俺の後ろにぴたりと続いた。神官服の裾が膝に当たる音がする。ヴァローは息を乱さず、短杖を体の線に沿わせて走っていた。ガイウスは重盾を背負ったままなのに、地面を押す足取りが落ちない。


 エルナさんの家の戸口の方角に、油皿の灯りでない別の光が滲んでいた。


 手提げ灯の光だ。


 中から低い男の声が漏れている。言葉の形までは取れない。ただ命令の高さではなく、慣れた取り立ての低さだった。家の小ささに合わない声。人の生活に靴を脱がず踏み込んだ声。


 戸口の前に、見張りが二人立っていた。


 革鎧、片手剣を腰に下げている。肩に同じ意匠が付いていた。商家連合の制服ではない。だが商家連合の名を背にして立つ者の顔をしていた。地元の警備請負の意匠だった。


「ベルガ警備団、と」


 ヴァローが俺の耳元で短く告げた。


「正規の取り立ての装備としては、重い」


 俺は頷いた。聖剣の柄に、左手は届いていない。鞘の革帯の上に指を置く程度だった。革は夜気で少し冷たかった。


 見張りの一人が俺たちを認めた。


 手提げ灯を上げる動きが半拍遅れた。灯りが俺の白の旅装と深紅のサッシュを照らす。胸元の光神オルヴェリスの紋章が火の色を返した。見張りの視線がそこに止まり、次に聖剣の鞘へ落ちた。


「お引き取りください、勇者一行の方」


 見張りは低い声で告げた。


「これは商家連合の正規の業務です。勇者一行の関わる筋ではありません」


 俺は短く返した。


「中で何をしている」


「業務です」


 見張りは答えなかった。


 答えない口の形を、答えとして俺は受けた。


 その時、家の中からリリさんの泣き声が漏れた。


 短い声だった。母の腕の中で堪えていた六歳の声が、堪えきれずに一度だけ零れた声だった。泣き叫ぶ前の細い裂け目。母の声がそれを抱える。低く、震えていた。


 俺の中で、何かが熱を持った。


 聖剣の鞘の革帯の上の左手が、柄頭の方角に勝手に動いた。胸の奥で、燃える色の何かが瞬間的に立ち上がった。それを、俺は意識して半呼吸の中に沈めた。直情は俺の手の早さを歪ませる。歪ませたら子どもの耳に剣の音が届く。届かせない。


 見張りの目が細くなった。俺の左手を見ている。柄にはまだかかっていない。かかっていないが、こちらが退く気を失ったことは伝わったはずだった。


「お引き取りを」


 見張りが繰り返した。


「悪いが」


 俺は静かに告げた。


「お引き取りいただく」


 ヴァローの短杖の先端で、紺色の点が灯った。


 新月の夜の闇に、紫の質感が薄く滲む光だった。炎の光ではない。油皿の黄でもない。夜そのものが小さく焦点を持ったような色だった。見張りの視界の中で、その光が放たれた。


 《翳り縫い》。


 見張りの足元の影が、地面に縫い止められた。手提げ灯が揺れたせいで影の形は動いた。だが影の底だけが石畳に貼りついたまま、男の半歩の動きを封じた。


 もう一人の見張りが片手剣を抜く。


 ガイウスが背の重盾を下ろした。金具が鳴る。両手で構える低い動作だった。盾の面は扉の板より広く見える。動かない盾の構えに、見張りの片手剣がぶつかった。鉄が黒鋼に当たる音が一度。


 見張りは膝から崩れた。


 掠手の片手剣が、革鎧の縁を浅く撫でていた。血は出る。だが命の縁には届かない傷だった。ガイウスの足はもう戸口の横に入っている。


 俺は戸に手をかけた。


 木の表面に古い潮の匂いがあった。エルナさんの家の匂いだ。そこに今は、他人の革と鉄の匂いが混ざっていた。


 戸口は開いた。


 家の中は、油皿の灯りで満ちていた。


 居間の長椅子は壁際に押しやられ、机は床に倒れている。倒れた机の脚が床板をこすって斜めに止まっていた。手の者が四人。机を踏んで立つ男が一人、奥の壁際で棚に手をかけている男が一人、寝室の方角の戸の前で短剣を持つ男が一人、家の中央で片手剣を構える男が一人。


 中央の男が、四人の頭格だった。


 中央の男が振り向いた。


 四十代、中央大陸の出の輪郭、片手剣+小型盾、一般戦闘員の延長の構え。革鎧は質の良いもの、ベルガ警備団の意匠。髭は短く整えられていて、頬に古い傷が一本ある。俺の聖剣の柄を一秒だけ見て、男は短く息を吐いた。


「バルキス・ロウンと申します」


 低い声だった。


「勇者一行の方、ご足労いただいた筋は商家連合の正規の業務です。お引き取りいただきたく」


 言葉だけなら礼を保っていた。だが足の置き方が違う。俺の前に立ちながら、寝室の戸を視界に入れられる位置を選んでいる。部下の短剣の男を動かしやすい位置でもあった。


 俺はバルキスの肩越しに、寝室の方角の戸を見た。


 戸は半分開いていた。寝台の縁にエルナさんが立っている。両腕で子ども二人を背に庇っている。トビアスさんは寝台の縁に立ち、リリさんは母の腰にしがみついていた。短剣を持つ男が、戸の前で寝室を塞いでいた。


 リリさんの頬に涙の筋がある。声はもう出していない。エルナさんの手は震えていたが、子どもを抱く腕は解けていなかった。トビアスさんの顎は固く引かれている。視線は窓ではなく、戸口に向いていた。


 子どもの方角に、俺の視線が届いた。


 俺の中の熱が、もう一段だけ深くなった。


 聖剣の鞘の中で、剣身の方角に薄い熱が立った。俺の左手のひらが、革帯越しに鞘の表面を感じる。普段は感じない温度だった。先日の桟橋の対峙で、俺の左手は鞘の革帯の上で冷たかった。剣身は鞘の中で沈黙していた。今夜のそれは、違う質感だった。


 俺は左手を柄頭にかけた。


「カイ」


 俺は短く呼んだ。


「ええ」


 カイの声が背中の方角で返った。胸元のロザリオを握り直す音が、薄く届いた。寝室と居間の境の戸口に、カイが移動する足音が続いた。踏み込みは浅い。けれど止まらない。


「《光神の祈り》を、寝室に」


 俺は短く告げた。


「もう、ええ」


 カイの声には祈りが既に乗っていた。


 寝室の方角の空気が、一段穏やかになる質感が広がった。灯りの揺れが止まるわけではない。鉄の匂いが消えるわけでもない。それでも、呼吸の置き場ができる。半径数メートルの祈りの領域だった。


 リリさんの泣き声が止んだ。エルナさんの呼吸の震えが、薄く鎮まった。トビアスさんは寝台の縁から動かなかった。視線だけが、戸口の方角の俺たちに届いていた。


「ヴァロー」


 俺は名を呼んだ。


「壁際の男と、棚の男を」


「ええ」


 短い返事だった。短杖の先端の紺色の点が、紫の濃さを増した。ヴァローの目はすでに棚の男の足元を見ている。影の長さ、油皿の位置、床板の継ぎ目。観察の線が速い。


「ガイウス」


「ああ」


「戸を、塞いでくれ」


 俺は寝室の方角の短剣を持つ男を視線で示した。


 ガイウスは頷かなかった。返事も増やさなかった。重盾を構えたまま、寝室の戸の前の男の方角に動いた。動かない盾の構えで、男との距離を半分に詰める動作だった。


「俺はバルキスを」


 俺は告げて、聖剣を抜いた。


 剣身が鞘から出た瞬間、白銀の刃に光属性が薄く纏った。《暁光》の限定発動だった。剣身の縁に、薄い白銀の光が広がる。先日の桟橋で抜いた時より、光の縁が一段だけ素直に広がった。俺は気づいた。気づいたが、独白の中で言葉にしなかった。


 剣の重さが、いつもより軽い。


 それでも軽すぎはしない。手の中にあるのは聖剣だ。貸し与えられた神器の重さ。俺の腕より大きいものの重さ。だが今夜だけは、刃の芯がこちらの呼吸に半歩寄っているように感じた。


 バルキスは片手剣を構え直した。


「では」


 そう告げた。


 俺はバルキスに向けて踏み込んだ。


 剣の交差は短かった。バルキスの構えは中央大陸の傭兵団の流儀。片手剣の振りは速い。肩を使わず、肘と手首で最短を通す。小型盾は剣の隙を埋めるためではなく、相手の刃を外へ逃がす角度に置かれていた。


 だが聖剣の重さに対する練度はない。


 一合、二合。三合目で、俺はバルキスの小型盾の縁を聖剣の刃で掠めた。薄い白銀が盾の革帯に触れる。革が切れた。盾が床に落ちる。床板の上で跳ね、油皿の光を一度だけ返した。


 四合目を、バルキスは下がって受けた。


 家の中央で、ヴァローの短杖が動いていた。


 紺色の点が紫の光となって走る。壁際の棚の男の影が、地面に縫い止められた。男は半歩の動きで、剣を振り上げた姿勢のまま固まった。歯を食いしばる音が聞こえる。足首だけが動かない。


 机を踏む男の方角に、ヴァローはもう一発を放った。


 机の男の影が縫い止められる前に、男は机から飛び降りていた。木の脚が軋む。男の片手剣が、ヴァローの短杖の方角に振り下ろされた。


 ヴァローは机を盾に半歩下がった。


 机の縁が剣の刃で割れた。木屑が舞った。油と埃の匂いが立つ。ヴァローの短杖の先端の光が一瞬揺らいだ。灰色の長い髪が肩の上で乱れる。


「ヴァロー」


 俺は声を出した。


 カイの祈りの領域が、ヴァローの方角にも届いていた。光神の祈りの動揺鎮静が、ヴァローの詠唱の揺らぎを抑えた。ヴァローの顎が少しだけ上がる。短杖の握りが戻る。


 ヴァローは短杖を持ち直して、《月相の盾》を発動した。


 紫の薄い膜がヴァローの周囲に展開した。月の輪郭を水に溶かしたような膜だった。机の男の二度目の振りが、紫の膜の表面で滑った。膜は男の剣の力を吸収して、薄く沈黙した。


 ガイウスが寝室の戸の前の男に到達した。


「やめとけ」


 ガイウスの低い声だった。


 短剣を持つ男は、重盾の体格を一瞬で測った。俺にもその一瞬が見えた。盾の大きさ。ガイウスの肩幅。踏み込める距離。逃げられる幅。男は短剣の柄を握り直して、寝室の戸を背にした。


 子どもを盾にする動きの初めだった。


 ガイウスの足が、地面に踏み込んだ。


「揺れろ ── 《地揺らし》」


 低い声の詠唱だった。


 重盾の柄を地面に短く突き立てる。家屋の床板が、寝室の戸の前の男の足の下で揺れた。大きな揺れではない。鍋が落ちるほどでもない。ただ男の足裏だけを狙ったように、床板の継ぎ目が一瞬浮いた。


 男は均衡を崩して、戸の縁から半歩離れた。


 その隙にガイウスは間合いを詰めて、男の手首を掌で掴んだ。太い指が革手袋ごと手首を包む。短剣が床に落ちた。音は乾いていた。男の体は重盾と床の間に挟まれて、動きを封じられた。


 子どもの方角に短剣は届かなかった。


 ガイウスの背中越しに、寝室の戸が開いた。


 エルナさんが寝台の縁から、戸口の方角の俺を見ていた。両腕で子ども二人を抱えたまま、視線だけが届いていた。トビアスさんは寝台の縁に立ったまま、視線だけが俺の動きを追っていた。


 俺はバルキスに視線を戻した。


 四合目を下がって受けたバルキスが、五合目で踏み込んだ。傭兵団の踏み込みは深い。膝の沈み方に癖がある。相手の懐へ一度に入って、片手剣の短さを消すための踏み込みだった。


 だが聖剣の刃の届く範囲を計算しきれていない。


 俺は半歩だけずらした。腰を落とし、刃の腹を返す。俺の聖剣の刃が、バルキスの右腕の革鎧の縁を浅く切った。血が滲んだ。赤い線が革の黒に浮く。バルキスは下がった。


 バルキスの片手剣の柄が、傾いた。


「お引き取りを」


 俺は短く告げた。


 バルキスは応えなかった。片手剣を構え直して、もう一度踏み込んだ。


 その踏み込みを受ける前に、視界の縁で影が走った。


 俺の脇腹に、机の男の二度目の刃が掠めた。机の男がヴァローの紫の膜を回り込んで、俺の方角に走り込んでいた。ヴァローの短杖がそれを追えなかった。傷は浅い。革鎧の縁を切って、肌に薄い線を引いた程度だった。


 痛みが遅れて来る。


 熱い線。呼吸の端に引っかかる痛み。俺は足を止めなかった。止めればバルキスの次の刃が来る。


「レオン」


 カイの声が背中の方角で響いた。


 寝室と居間の境の戸口から、カイが半歩前に出ていた。胸元のロザリオを握ったまま、空いた左手を俺の方角に伸ばす。距離はある。祈りの領域はカイの周囲数メートル。俺はその縁にいた。


 光神の祈りの継続回復が、俺の脇腹の薄い線を癒す。


 痛みが鎮まる。熱い線が冷たい布で押さえられたように薄れる。血の滲みも止まった。カイの祈りは大きな光ではない。けれど戦場の端で、倒れないための呼吸をつなぐ。


「カイ」


 俺は短く返した。


 礼の言葉は出さなかった。出すと祈りの構えが切れる、それをカイは知っている。俺も知っている。


 机の男にヴァローが《闇の刃》を放った。


 紫の光が一筋、男の片手剣の柄を打った。金属の音が跳ねる。男の手から剣が落ちた。男は床を蹴って、戸口の方角に逃げる動きを始めた。


 逃がすつもりはなかった。


 俺が踏み込もうとした。その瞬間。戸口の方角の見張りの一人が傷を負った姿勢で、再び立ち上がっていた。掠手の片手剣の傷は浅かった。膝が震えているのに、手だけは動く。


 男はヴァローの短杖の方角に、隠していたもう一本の短剣を投げた。


 ヴァローの紫の膜は、外側からの飛び道具を吸収する角度に展開していなかった。


 ガイウスが動いた。


 寝室の戸の前で男の手首を掴んだままだったガイウスが、左手だけで重盾を持ち上げる。重盾の重さは、片手で持ち上げる重量を超えていた。肩の線が沈み、足の裏が床板を噛む。


「重えな」


 ガイウスは低く呟いた。


「だが」


 ガイウスの肩の筋肉が、毛皮のマントの下で一度盛り上がった。


「届く」


 盾の縁が、ヴァローの方角に飛んだ短剣の軌道を遮った。短剣は盾の表面に当たって、床に落ちた。


 ヴァローが短杖を持ち直した。机の男に向けて、《闇の刃》のもう一発を放った。紫の光が男の脹脛を打った。男は床に倒れた。立ち上がる気配は、もうなかった。


 俺はバルキスに踏み込んだ。


 バルキスの六合目の踏み込みを、俺は聖剣の刃の表面で受けた。刃と刃が噛む。剣身の白銀の光が、バルキスの片手剣の刃の縁を一瞬白く染めた。バルキスの目が細くなる。


 バルキスは剣を引いた。


 引いた剣の柄を、俺の聖剣の柄頭で打った。手首ではない。指を砕く角度でもない。柄だけを落とす角度だった。バルキスの手から剣が落ちた。


 男は床に膝をついた。


 両手を頭の上で組む動作を、俺は見ていた。降伏の所作だった。中央大陸の傭兵団で使われる、見慣れた形でもあった。戦える者が戦えないと示すための所作。生きるための所作。


「お引き取りを」


 俺は三度目に告げた。


 バルキスは応えなかった。両手を頭の上で組んだまま、視線を床に落としていた。


 家の中の音が、薄く沈んだ。


 油皿の火が小さく揺れる。割れた机の木片が床に散っている。誰かの荒い息が、誰かの押し殺した呻きに重なる。剣の音はもうしない。リリさんの声も聞こえない。


 寝室の方角の戸の前で、ガイウスは男の手首を掴んだままだった。男は床に膝をついて、動かない。机を踏んでいた男は床に倒れて、息は荒いが命の縁にはない。壁際の棚の男はヴァローの《翳り縫い》で動きを封じられたまま、立ち尽くしていた。


 戸口の方角の見張りは、二人とも床に座り込んでいた。革鎧の縁の傷は浅い、命の縁にはない。


 俺は聖剣を鞘に納めた。


 剣身が鞘の中に戻った瞬間。剣身の方角の薄い熱が、鞘の革帯越しに俺の左手のひらに届いた。先日の桟橋の対峙では、感じなかった温度だった。俺は気づいた。気づいたが、口には出さなかった。


 ヴァローの短杖の先端の紫の光が、消えた。


 ヴァローは灰色のローブの裾を一度払って、机の縁の方角に視線を落とした。机は割れていた。書類の束はエルナさんの机の脇に置いたままだった。戦闘の中で書類は無事だった。紙の端が一枚だけ少し浮いている。


 ヴァローは束の縁を確かめてから、俺の方角に視線を上げた。


「君の聖剣が、今日は応えた」


 ヴァローは短く告げた。


 俺は応えなかった。応える筋ではなかった。ヴァローの観察の言葉を、俺は受けた。胸の奥で聖剣の薄い熱の温度を、もう一度確かめた。確かめたが、口には出さなかった。


 言えば、別の意味になる。


 今ここで言葉にすれば、エルナさんの家に入った男たちを退けたことより、聖剣のことが前に出る。子どもの呼吸より、俺の内側の変化が前に出る。それは違う。今夜ここに置くべきものは別にある。


「ガイウス」


 俺は名を呼んだ。


「ああ」


 ガイウスの低い返事だった。


「縛れるか」


「縛る」


 ガイウスは男の手首を腰の革帯で縛った。動きは荒くない。だが逃げられない結び方だった。重盾を背に背負い直して、戸口の方角の二人の見張りも順に縛った。短剣を投げた男は歯を食いしばったが、ガイウスの手が肩に乗ると動かなかった。


 机の男はヴァローが縛った。ヴァローは男の脈を一度だけ見てから、結び目を締めた。棚の男はガイウスが縛った。バルキスは両手を頭の上で組んだまま、自分から両手を背中に回した。ガイウスはバルキスの両手を縛った。


 バルキスの顔に悔しさは少なかった。計算が崩れた者の無表情だった。商家連合の名を口にした男。正規の業務と言った男。だが今は、エルナさんの床の上で両手を縛られている。


「カイ」


 俺はカイの方角に視線を上げた。


「ええ」


 カイの声には、まだ祈りが乗っていた。


「祈りを、もう少し」


「ええ」


 カイの祈りの領域は、寝室の方角に保たれたままだった。リリさんは母の腰にしがみついたまま、目を閉じていた。小さな指がエルナさんの服を掴んでいる。エルナさんは両腕で子どもを抱えたまま、戸口の方角の俺たちを見ていた。


 トビアスさんは寝台の縁に立ったまま、動かなかった。


 俺はエルナさんの方角に半歩進んだ。


 床板が小さく鳴った。その音にリリさんの肩が一度震える。俺はそこで足を止めた。近づきすぎない。剣を鞘に納めていても、今の俺は外から入ってきた武装した男の一人だ。


「ご無事ですか」


 俺は短く告げた。


 信仰の言葉は最初に置かなかった。エルナさんが信仰を離れた家の方であることを、俺はカイの伝聞から聞いていた。祈りの言葉を最初に置けば、俺の声はこの家の縁に届かないまま落ちる。


「ええ」


 エルナさんの声は、低かった。


 声が出たというだけで十分だった。震えはある。だが折れてはいない。彼女の腕はまだ二人を抱えていた。


「お子さんは」


「眠っております」


 エルナさんは短く返した。リリさんの方角を抱き直してから、視線を寝台の縁のトビアスさんの方角に向けた。


 トビアスさんは目を閉じていなかった。


 視線を俺の方角に届かせていた。


 俺はトビアスさんの方角を見た。


 寝台の縁に立つ十歳の少年。母と同じ黒い髪。頬はまだ子どもの薄さを残している。けれど目の奥には、先ほどまでの逃げ場を探す白さが少なかった。


 目は、外を見る癖の眼ではなかった。戸口の方角を、今は見ていた。扉から離れた窓辺ではなく、戸口の方角に。


 その視線の質感が、俺の中の何かを動かした。


 孤児院の年長の部屋の窓辺に十歳の冬に立っていた誰かの話を、俺は知らない。カイは知っている。カイはその話を口にしない。俺もしない。ただ。トビアスさんの今夜の視線が扉の方角に向いていた事実だけを、俺は受けた。


 俺の胸の奥で、聖剣の薄い熱とは別のものが残っていた。


 それは大きな言葉にするものではない。助けたという形でもない。目の向きが変わった。ただそれだけだ。だがそのただそれだけが、家の中の油皿の灯りより長く残ることがある。


「お母さんを、お頼みします」


 俺はトビアスさんに告げた。


 声は柔らかくはなかった。直球だった。十歳の少年に向けて、子供の言葉ではなく頼む言葉を渡した。


 カイの祈りが寝室の戸口で静かに続いている。ヴァローは書類の束を抱え直して、何も言わない。ガイウスは縛った男たちの位置を見ている。誰も、俺の言葉に余計なものを足さなかった。


 トビアスさんの口元が、薄く動いた。


「はい」


 短い声だった。


 家の中で、トビアスさんが初めて出した声だった。母の方角ではなく、戸口の方角の俺の方角に向けた声だった。声量は小さい。けれど閉じた喉から漏れた音ではなかった。


 トビアスさんは寝台の縁から、戸口の方角に半歩動いた。


 母を背に庇うのではなく、母の隣に並ぶ動きの初めだった。リリさんは母の腰にしがみついたまま、動かなかった。エルナさんは何も言わなかった。トビアスさんの半歩を、母は止めなかった。


 その半歩の音は、床板の上でほとんど聞こえなかった。


 それでも俺には届いた。


 俺は浅く頭を下げた。


「光神のご加護を」


 俺は最後に、それだけ告げた。


 エルナさんの家の縁には届かない言葉だと、俺は知っていた。届かなくてよかった。俺はその言葉を、トビアスさんの半歩の動きに重ねて置いた。届く相手がいれば、届く。


 エルナさんは応えなかった。視線だけが、戸口の方角に届いていた。


 カイの祈りの領域が、薄く鎮まっていった。


 リリさんの肩の震えは小さくなっていた。エルナさんの手はまだ強く子どもを抱いている。トビアスさんは母の隣に近い位置で立っている。寝台の縁から戸口へ移った半歩。その半歩は誰かの命令で動いたものではない。


 外で、夜の風が一度吹いた。


 月のない夜の縁が、屋根の輪郭を黒く撫でた。波の音が低く届いた。さっきよりも近く聞こえる。家の扉が開いたままだからかもしれない。潮と夜露の匂いが居間に入ってきて、鉄と油の匂いを少しだけ薄めた。


 漁師の老婆が、隣家の戸口の方角で立っていた。


 最後まで動かずに見守っていた人の温度だった。手は胸元で組まれている。彼女は中へ入らない。ただこの家の外側に立って、必要な時に走った人の顔をしていた。


 ガイウスが縛った男たちを順に立たせた。重盾を背に背負ったガイウスの肩越しに、ヴァローが書類の束を抱え直した。カイの祈りの領域が、寝室の方角で静かに維持されていた。


 俺は聖剣の柄頭の方角に左手を置いた。革帯の上に。鞘の革帯越しに薄い熱が、まだ残っていた。


 俺は知った。


 知ったが、口には出さなかった。


 家の中の油皿の灯りが、揺らがずに立っていた。トビアスさんは戸口の方角に半歩出た位置で、視線を俺の方角に届かせていた。十歳の少年の眼は扉の方角を、今は見ていた。


 夜の縁が、屋根の上で薄く退いていた。

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