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群青幻想  作者: 滄龍 青司
CantoⅠ
28/61

届くことのない

 寡婦の家の居間には、夜に入りきる前の光が薄く残っていた。


 西向きの窓から差し込む橙は、床板の縁だけをなぞっている。壁の上の方はもう灰色に沈みかけていた。木の長椅子。低い机。奥の壁際に古い棚。棚には銀の小皿が一枚だけ伏せられている。磨かれてはいるが光は鈍い。大切に残されたものの光だった。


 私は長椅子に腰を下ろしていた。


 エルナさんは机の向こうに座っている。三十代後半の方だった。黒い髪を後ろで結び、薄い灰色の上着とスカートを身につけている。両手は膝の上で組まれていた。指先は動かない。視線は机の縁に落ちたまま、そこから上がるのを待っているように見えた。


 リリさんはエルナさんの膝の上で眠っていた。六歳の娘さん。薄い金茶の髪が頬にかかっている。頬には子供らしい丸みが残っているのに、唇の色だけが淡かった。息は乱れていない。小さな胸が一定の間隔で上下していた。母の腕の中を離れない眠りだった。


 トビアスさんは窓辺に立っていた。十歳の息子さん。母と同じ黒い髪。目は外を向いている。海鳥が屋根を掠める音。隣家で戸板が閉まる音。通りを行く靴の音。その度に肩がごく薄く動いた。怯えていると呼ぶには小さく、慣れていると呼ぶには硬い動きだった。


 彼は扉から遠い場所を選んでいた。窓辺なら外の音が先に届く。扉からも距離を取れる。逃げるためではない。来るものを先に知るための位置だった。


 私の眼に、その立ち方が映った。


 足音に身を硬くする子の立ち方だった。


 私は胸元のロザリオを一度握った。銀の小さな紋章が指の腹に触れる。それから手を膝の上に戻した。教義の言葉が喉の奥まで上がりかけたが、声にはならなかった。ここで最初に祈りを置けば、私の声はこの家の入口で止まる。光神のご加護をと告げるには、まだこの沈黙の形を知らなすぎた。


 どうしてここに座っているのだろう、と私は思った。


 朝、伝道師のマルクス様の元を訪ねた。昼、エルナさんの家を一度訪れた。夕方、宿で勇者一行のレオンとヴァローとガイウスに状況を伝えた。そして今、夜の入り口にもう一度この家に座っている。一日のうちに同じ家を二度訪れた。その二度目の沈黙の中に、私はいた。


 隣にはレオンがいた。白を基調とした旅装の上で、深紅のサッシュが夕闇の色を含んで沈んでいる。聖剣は腰の左にある。レオンの左手は鞘に触れていない。膝の上に置かれたまま、指だけが一度動いて止まった。


 ガイウスは扉の近くに立っていた。背中の重盾は下ろしていない。山岳地方の毛皮のマントが肩から落ち、薄い光の中で重い輪郭を作っている。彼は部屋の中に入りすぎない位置を選んでいた。いることで守るが、近づきすぎない。そういう立ち方だった。


 ヴァローは机の向こう側に座っている。エルナさんの斜め前。灰色のローブの裾を払った後、机の上の書類の束の前で手を組んでいた。書類にはまだ触れていない。待っている。紙ではなく、エルナさんの呼吸が次に動くのを。


 油皿の灯りはまだ点けられていなかった。残る夕方の光だけが、机の端とヴァローの指を細く照らしている。


 エルナさんがゆっくり顔を上げた。


「お読みください」


 声は低かった。拒むための低さではない。最後まで言葉を落とさないための低さだった。


「私の手では、もう読めません」


 ヴァローが短く頷いた。皮肉も前置きもない頷きだった。


 その手が、書類の束へ伸びた。


 部屋の光がまた一段沈んだ。


──────────────────────────────


 朝の小教会の控え室は、石壁の冷たさをまだ残していた。


 私は戸口で一礼してから中に入った。マルクス様は長椅子の端に座っておられた。白の祭服の襟元に銀のロザリオがあり、深い皺の中に穏やかな眼がある。前の日に評議会の本会議で陳情の補佐をなさった疲れが、表情の奥に薄く残っていた。


「カイ・グレイス様」


 マルクス様は穏やかに名を呼ばれた。


「合議のご結果は、まだ届いておりません」


「承知しております。マルクス様、別件でお話を伺いたく」


「ええ」


 私は長椅子の反対側に座った。布袋の紐が肩にかかり直る。薬草の乾いた匂いがわずかに上がった。窓の外では海鳥が鳴いていた。中庭の白鯨の意匠の石碑に、朝の薄曇りの光が乗っている。聖オルヴェリス教会本部の総本山では見ない並びだった。


 それでもマルクス様は、その中庭を自然なものとして受け入れておられる。白鯨の石碑。海風に晒された石畳。小さな祭壇へ続く通路。そこにあるものを退けずに、祈りの場所として見ておられた。


「先日、信徒の方からお話がございました」


 私は両手を膝の上に置いた。


「ご家族を海で亡くされて、その後で信仰を離れられたお宅があると」


 マルクス様の眼が、皺の奥で一段深くなった。


「ええ。エルナ・ベレッリ様のお宅でございます。三年前に旦那様を海難で亡くされました。それからお子様お二人と、お一人で」


 その声に無理な抑揚はなかった。何度も同じ名を祈りの中で置いた方の声だった。


 マルクス様は胸元のロザリオを握り直した。


「そのお宅に、商家連合の方々から取り立てが来ております」


 窓の外の海鳥の声が遠くなった気がした。


「お船を担保にした借金、と聞いております。お船は旦那様の代から続くもの。エルナ様のお宅の生計の核です。取り立ては一月のうちに数度。最近は足音だけでお子様が窓辺から動かれない、と隣家の方から伺っております」


 足音。


 その一語だけが、他の言葉よりも重く胸に落ちた。私はまだトビアスさんの立ち方を知らない。知らないのに、その言葉の縁が指に触れたような感覚があった。廊下。板の軋み。扉の前で止まる靴音。まだ名前のない記憶が、奥で薄く動いた。


「教会の正規のご支援は」


 私は慎重に問うた。


 マルクス様は少しだけ目を伏せられた。


「届きません」


 静かな一語だった。断ち切る音ではない。届くべきものが届かない場所を、何度も見てきた方の声だった。


「エルナ様のお宅は、信仰を離れられたお宅でございます。本部の規定では、贖罪奉仕の制度を経由せずに正規のご支援は出せません。贖罪奉仕は、信仰のお戻りを前提としております。エルナ様は、その制度をお受けになりません」


 私は指先で膝の布を押さえた。神官服の白い布は、朝の光の下でまっすぐに見えた。その白さが、いつもより少し遠かった。


「お話は、なさったのですか」


「一度だけ。数月前に。エルナ様は、丁寧にお断りになりました。『いまさら戻る顔はありません』と」


 その言葉を口にする時、マルクス様の喉がわずかに動いた。


「戻る顔、でございますか」


「はい。私には、それ以上を強く申し上げることができませんでした」


 マルクス様の眼の縁に疲労が立った。長く港で祈ってきた方の疲れだった。すぐに穏やかな表情へ戻ったが、消えたわけではない。水面の下に沈んだだけだった。


「正規には救えないお宅がございます、カイ様。私の手の届かない場所に」


 苦労人の声だった。皮肉ではない。嘆きでもない。事実として置かれた声だった。


 私はその声を受け取った。返す言葉はすぐには見つからなかった。光は救いの道です、と私の中の神官は知っている。祈りは届きます、と私は何度も告げてきた。けれどこの控え室で、マルクス様が示しておられるのは届かない場所だった。


「ご家族の状況を、伺ってもよろしいでしょうか」


 ようやくそう問うた。


 マルクス様は頷かれた。エルナさんの家の場所。海に近い通りから一本奥へ入る道。子供二人の年齢。隣家の方が時折食べ物を持っていくこと。エルナさんがそれを毎回丁寧に礼を言って受けること。借りを作るのを恐れるように、必ず何かを返そうとすること。


 私は一つずつ聞いた。聞きながら、頭の中で地図を作った。港の匂い。干した網。狭い路地。西向きの窓。まだ見ぬ家の中に、足音を待つ子供がいる。


「お訪ねしてみます」


 私は立ち上がって告げた。


「カイ様」


 マルクス様が私を呼び止めた。


「正規のご支援は、お出しできません。私の補佐も、教会の枠の中では限られます。お一人でなさるご判断は、ご無理のない範囲で」


「ええ」


 私は頷いた。


「ただ、お訪ねするだけでしたら、私で良ければ」


 マルクス様は深く頷かれた。胸元のロザリオが祭服の上で小さく揺れた。


 控え室を出る時、背中の後ろで銀のロザリオが触れ合う音がした。細い音だった。マルクス様の朝の祈祷の所作だと分かった。


 私は扉を閉めた。中庭の白鯨の石碑の前を通る。海風はまだ冷たい。石畳に落ちた薄曇りの光を踏みながら、私は胸元のロザリオに指を当てた。


 祈りは届きます。


 そう教わってきた。


 届かない場所があると、今朝の控え室で初めて名指された気がした。


──────────────────────────────


 昼のエルナさんの家の戸口で、私は浅く頭を下げた。


 扉の板には古い傷がいくつもあった。潮風で膨らんだ部分を削った跡。金具を付け替えた跡。暮らしを保つために手を入れ続けた扉だった。叩く前に、私は白の神官服の袖を一度整えた。整えたところで、この服が持つ距離は消えない。


 戸が開いた。


 家の中の薄い光が、外の昼の光に押し返された。エルナさんは戸口の縁に立ち止まった。私の神官服を見る。胸元のロザリオを見る。次に顔を見る。視線は冷たくなかった。けれど受け入れる前の距離があった。


「聖教会の方ですか」


「カイ・グレイスと申します。マルクス様からお話を伺って」


 私はそこで止めた。


 困っていると聞きました、とは続けられなかった。その言い方は、戸口に立つエルナさんを小さくしてしまう気がした。私の声が持つ白さで、相手の生活を覆うような気がした。


 エルナさんは少し考えた。手は扉の縁にかかったままだった。


「お入りください」


 声は昼の通りの音より一段低かった。


 居間に通された。外で聞こえていた荷車の音が、扉を閉めると急に遠くなる。木の長椅子の前で足を止めた時、奥の窓辺に立つ少年が見えた。トビアスさんだった。十歳。黒い髪。細い肩。彼は私を一度見た。


 すぐに視線を窓の外へ戻した。


 挨拶を待つ姿勢ではなかった。目を逸らしたというより、私を視界の縁へ置いたのだと思った。こちらを知らないままにしない。けれど正面から受け取らない。そういう構えだった。


 リリさんはエルナさんの後ろに半分隠れていた。薄い金茶の髪が揺れる。小さな指が母のスカートを掴んでいる。


「お子様にも、ご挨拶を」


 私は声を低くした。命じる形にならないように。


「リリ。聖教会のお方が、いらっしゃいました」


 エルナさんが娘さんの頭に手を置いた。


 リリさんは小さく頭を下げた。声は出さない。頬の丸みの下で唇だけが強く閉じられていた。エルナさんの手は娘さんの頭に置かれたまま、私の方へ向き直る。


「お話を、伺ってもよろしいでしょうか」


「マルクス様から、何を聞かれましたか」


 先に問われた。


「ご家族のことと、お船のこと。それと、商家連合の方々のお話」


 エルナさんは長椅子の向かい側に座った。リリさんを膝に抱き上げる。娘さんの頭を肩の縁へ寄せてから、少しだけ息を吐いた。その息は疲れのためではなく、言葉を整えるためのものに見えた。


「私の方からは、特にお伝えすることはございません。マルクス様が話される範囲で十分です。教会のお手伝いはお受けできません。それは数月前にお伝えしました」


「ええ」


 私は短く受けた。


「お聞きしているのは、別の理由でございます。お困りの状況を、伺いに参りました。教会の枠の中ではなく、私個人として」


 エルナさんは私を見た。私の後ろに誰もいないことを確かめるような目だった。マルクス様もいない。教会の書記もいない。手続きを持つ者もいない。


 少しの沈黙の後で、彼女は頷いた。


「困っております」


 それだけだった。


 その一言の中に、朝から夜までの時間が折り畳まれていた。水を汲む手。火を起こす手。子供の髪を結う手。戸口の足音に止まる手。数字の書かれた紙を前にして動かなくなる手。


「お船は、まだお手元にございますか」


「あります。書類の上では、もう半分は商家連合の方の手の中です」


「半分」


 私は繰り返した。


「はい。そう書かれているのだと、言われました」


「書類は、ご覧になれますか」


 エルナさんはしばらく私を見ていた。膝の上のリリさんが母の上着を握り直す。布が小さく鳴った。


「私の手では、もう読めません」


 その言葉は、夜の居間で聞く時より少し乾いていた。


 私はエルナさんの両手を見た。膝の上で組まれた指は、最初は力が抜けていた。書類の話になった瞬間、その指が一段だけ硬くなる。字が読めないのではない。数字を追うことに体がもう耐えないのだ。追っても答えが変わらない。読めば読むほど息が浅くなる。そういう紙がある。


「お読みする方を、お連れしてもよろしいでしょうか。数字を追える方がおります。私の同行の者で、貴方のお宅にご無理のない方を」


「聖教会の方ですか」


「いいえ。月読みの塔出身の魔導士です。今は勇者一行に同行しております」


 エルナさんの目が少しだけ動いた。


「勇者様も、いらっしゃるのですか」


「ご負担であれば、私だけで改めます」


「いえ」


 エルナさんは首を小さく振った。


「夕方以降であれば」


 それだけだった。許しというより、これ以上ひとりで抱えていられない場所を示す言葉だった。


 私は立ち上がる前に、もう一度トビアスさんの方を見た。


 窓辺の少年は、私の動きを視界の縁で追っていた。体は外を向いたままだが、目だけがこちらへ来る。私が立つ。布袋が肩で揺れる。ロザリオが胸元でわずかに光る。それらを一つずつ拾っているようだった。


 視線が一瞬合った。


 その瞬間、何かが私の胸の奥で動いた。


 足音に身を硬くする子。親の沈黙の温度を読む子。声を上げない代わりに、扉から離れた場所を選ぶ子。本部の孤児院の年長の部屋の窓辺で、私が同じ立ち方をしていた季節があった。冬の朝。誰かが廊下を歩いてくる音。私はその音の意味を当てるために、扉から離れた窓辺に立っていた。誰かが私を呼びに来る音か。誰かを連れに来る音か。十歳の冬、私はその違いを足音だけで分けようとしていた。


 冬の朝の窓は白く曇っていた。息を吹きかけると曇りが濃くなる。指で拭うと外の光が細く見える。部屋の中では年下の子たちがまだ毛布に包まっている。誰かが咳をする。誰かが寝返りを打つ。廊下の向こうから足音が近づくたび、私は窓辺で背筋を伸ばした。


 呼びに来る足音。叱りに来る足音。別の部屋へ誰かを連れていく足音。神官様の足音。世話係の足音。知らない大人の靴音。


 違いを当てられれば、少しだけ先に息ができる気がしていた。私は十歳で、まだ何も守れなかった。けれど足音の意味を知れば、弟たちを起こすか眠らせておくかを選べると思っていた。


 トビアスさんの立ち方は、その冬の朝の私の立ち方と同じ角度だった。


 私は何も言わなかった。


 その重なりを、トビアスさんの前で言葉にする筋ではなかった。リリさんの前でもエルナさんの前でも、ない。私の胸の奥で、それは静かに沈んだ。


「夕方以降に、伺います」


 私は浅く頭を下げた。


「ご無理なさらずに」


 その言葉は、いつもの神官の言葉よりも小さく出た。


 エルナさんは膝の上のリリさんを抱え直し、戸口まで送ってくださった。扉の前でリリさんが一度だけ私を見上げる。何かを言いかけたのか、唇が少し開いた。けれど声にはならなかった。


 戸が閉まる瞬間、背中に視線が届いた。


 振り返らなかった。振り返れば、その視線を追い詰めてしまう気がした。窓辺の位置から扉が閉まるまで動かない少年の眼だった。私はそれを背中で受けたまま、昼の通りへ出た。


 外の光は明るかった。港の方角から魚の匂いがした。人々の声が重なる。その中で、さきほどの家の沈黙だけが胸の奥に残っていた。


──────────────────────────────


 夕方の宿の食堂で、四人は同じ卓についた。


 宿の主人が油皿の灯りを少し早めに点けていった。窓の外にはまだ夕暮れの橙が残っている。けれど卓の上はもう油の灯りの色に切り替わっていた。焼き魚。塩漬け。海藻の汁物。麦のパン。三日続けて同じ献立だった。


 ガイウスは塩漬けを見て短く鼻を鳴らした。ヴァローは汁物の椀を脇へ寄せ、袖が濡れない位置に整える。レオンは焼き魚に箸を入れたまま、私の方を見ていた。食事の前に話すべきだと、三人とも分かっていた。


 私はエルナさんのお宅のお話を伝えた。


 マルクス様から伺ったこと。昼に家を訪ねたこと。信仰を離れた家であること。贖罪奉仕をお受けにならなかったこと。商家連合の方々が取り立てに来ていること。書類の上では船の半分が相手の手にあると言われていること。夕方以降にもう一度伺うご了承を得たこと。


 淡々と伝えた。


 トビアスさんの立ち方の話はしなかった。あれは情報ではない。私の胸の奥で沈めておくべき重なりだった。


 レオンは焼き魚に箸をつけたまま、しばらく沈黙していた。油皿の灯りが金色の髪の縁に乗る。聖剣の鞘は腰の左にある。レオンの左手は卓の上だった。指が一度だけ握られ、すぐにほどけた。


「合議の判断を待たずに、動くことになる」


 レオンはそう告げた。


「ええ。合議のご結果が出る前に、勇者一行として個別に動くことになります。ヴェラーナ港の評議会の枠の外で」


「ヴェラーナ港の評議会の枠の外、ではない」


 レオンは静かに訂正した。


「お一人の家の話だ。商家連合の取り立ての話。海賊事件の連携強化の枠とは別の話だ。評議会のご判断を待つ理由は、この件にはない」


 声は大きくなかった。けれど卓の上に置かれた箸や皿の輪郭が、一つずつはっきりするような声だった。勇者の責務の温度が低く立っている。熱に任せて動くのではない。手続きの場所を間違えないために、言葉を選んでいる声だった。


 聖剣の鞘の上に左手は届いていない。その節度を保ったまま、レオンは動くと言っていた。


「商家連合のやり方は、気に入らん」


 ガイウスが低く言った。塩漬けに箸を伸ばしたまま、視線は卓の縁へ落ちている。


「そもそも契約自体が怪しいだろうが。寡婦から船を取り上げる契約。山の村なら長老が間に入って白紙にする話だ。ここは港町だ。間に入る筋がねえ」


 それだけ言って、ガイウスは塩漬けを口に運んだ。噛む音は静かだった。彼の眉間に深い皺が寄っている。港町の仕組みを責めるというより、誰も間に立っていない形を見ている顔だった。


 ヴァローが灰色のローブの袖を一度払った。


「材料が足りません」


 短い言葉だった。


「契約書類を、見たい。エルナ・ベレッリ様のお宅で、原本を読ませていただけますか。数字を読めば、不正があるかないか、断定できます」


「夕方以降にお伺いするご了承は、いただいております」


「では、これから伺います」


 ヴァローは椀を脇へ置いたまま、もう食事には戻らなかった。彼にとっては、いま卓の上にある魚よりも紙の上の数字の方が重いのだと分かった。皮肉を言う余地もないほど、読むべきものがはっきりしている。


 レオンが頷いた。


「四人で行く」


「四人とも、ですか」


 私は問うた。


 レオンは私を見た。次にガイウスを見て、それからヴァローを見た。


「ガイウスは扉の近くに立つ。お子さんとお母様の安心のためだ。ヴァローは書類を読む。お前はお母様とお子さんに付き添う。俺は四人の中央にいる」


「重盾の方が部屋の中にいらっしゃると、お子様が緊張なさるかもしれません」


 私の言葉に、ガイウスが首を一度短く振った。


「外に立つ。重盾は背に背負ったままだ。扉の近くなら、お母さんの眼にも俺の重さは届かねえ範囲に置ける」


「ありがとうございます」


「礼を言うことじゃねえ」


 ガイウスはそう言って、残りのパンを口に入れた。言葉は荒いが、置き方は静かだった。


 ヴァローが卓の端を指先で一度叩いた。


「私が読む間、誰も急かさないでください。契約は字面だけではありません。日付。墨の濃さ。筆跡。金額の流れ。見る場所が多い」


「分かりました」


 私は頷いた。


「ヴァロー、貴方の読みを妨げません」


「それは助かります。カイが隣で祈り続けると、私は字より声を数える羽目になる」


 皮肉の形をしていたが、刺すための言葉ではなかった。私は少しだけ息を緩めた。


「今夜は、声には出しません」


「賢明です」


 レオンが短く息を吐いた。笑いではない。けれど卓の上の硬さが、ほんの少しだけほどけた。


 誰も「お困りの方を救う」とは口にしない。書類を読みに行く。それだけの輪郭で、四人の動きが揃った。


 私は胸元のロザリオに触れた。銀の紋章が油皿の灯りを小さく返す。


「光神のご加護を、お母様に」


 短く呟いた。


 仲間の前で出した祈りの言葉ではなかった。エルナさんのお宅に伺う前の、私個人の祈りだった。


 レオンはそれを聞いても何も言わなかった。ヴァローも皮肉を返さなかった。ガイウスは椀を持ち上げたまま、ただ一度だけ頷いた。


 外では夕方の橙が薄くなっていた。


──────────────────────────────


 夜の入り口に、私はエルナさんのお宅の戸をもう一度叩いた。


 昼に見た扉の傷が、夕闇の中では深く見えた。中で足音がする。近づいてくる音に、私は自分の呼吸が浅くなるのを感じた。トビアスさんはこの音をどう聞いているのだろう。そう思った瞬間、胸元のロザリオに触れそうになった指を止めた。


 戸が開いた。


 エルナさんは四人の私たちを順に確認した。レオンの聖剣。ヴァローの灰色のローブ。ガイウスの背中の重盾。最後に私のロザリオ。視線は怯えていなかった。けれど重さがあった。招き入れるとは、家の中へ重さを入れることでもある。


「お入りください」


 ガイウスが一歩だけ下がった。


「外で、構える」


 短い声だった。重盾は背中のまま。山岳地方の毛皮のマントが薄い夕闇で大きな影を作っている。彼は扉の外側に立つ位置を選んだ。室内から見えすぎず、外から来る者には見える場所だった。


 エルナさんは少しの沈黙の後で頷いた。


「お願いいたします」


 ガイウスは「ああ」とだけ返した。


 居間に通された。昼の家と同じ家なのに、夜の入り口では空気が違っていた。床板は冷たく、窓の外の色は深くなっている。私は長椅子のエルナさんの斜めの位置に座った。レオンは私の隣。ヴァローは机の向こう側で、エルナさんの斜め前に座った。


 リリさんはエルナさんの膝の上で目を閉じていた。眠ってはいない。まつ毛がごく小さく震えている。目を閉じる選択をしているのだと分かった。見ないことで、そこにいるための力を残している。


 トビアスさんは窓辺に戻っていた。昼と同じ位置。扉から離れた窓辺。外の音を拾える場所。来るものを先に知るための場所だった。彼の肩は夕方よりも硬かった。


 エルナさんが机の上に書類の束を置いた。革紐で簡素に綴じられた薄い束。紙の端は手で何度も触れられたために、少し柔らかくなっている。大切に扱った紙ではない。何度も開いては閉じ、答えを得られなかった紙だった。


「お読みください。私の手では、もう読めません」


 ヴァローは束を受け取った。


「拝見します」


 それだけ言った。


 彼は革紐を一度ほどいた。結び目を乱暴に引かず、指先でゆっくり緩める。紙が擦れる音が部屋に広がった。リリさんのまつ毛が揺れる。トビアスさんの肩も一度だけ動いた。


 ヴァローは書類を一枚ずつ机の上に並べた。最初の一枚を眼で追う。止まる。次へ進む。灰色の瞳が紙の上を滑る時、部屋の中の薄い光まで読んでいるように見えた。月読みの塔の研究室で夜の星座の運行を読む所作と、同じ角度の眼だった。


 指は紙の縁を撫でた。視線は数字の列を上から下へ追う。用紙の質。墨の色合い。筆跡の勢い。署名の位置。折り目の深さ。彼は声に出さず、一つずつ確認していった。


 レオンは卓の縁に左手を置いていた。聖剣の鞘には触れていない。指だけが机の木目の上で止まっている。私はリリさんの呼吸を聞いていた。浅いが乱れてはいない。母の腕の中で、娘さんは声を出さずに耐えている。


 最初の三枚を、ヴァローはゆっくり読んだ。


 四枚目で指が止まった。


 紙の縁の余白だった。数字ではない。署名でもない。余白の何かに眼が留まっている。ヴァローはすぐに言葉を出さなかった。一枚目に戻る。一枚目と四枚目を並べる。二枚の間で視線を往復させる。墨の色合いを比べている所作だった。


 エルナさんは机の縁を見ていた。見たくないものを避けているのではなく、見る場所をそこに固定しているようだった。膝の上の両手は動かない。リリさんの背を支える腕だけが、かすかに強くなっている。


 ヴァローは二枚目に進んだ。三枚目に戻った。それから二枚を横に並べる。今度は数字の列を、指で一行ずつ追った。指の動きは速くない。確認の動きだった。数字を読むだけではない。数字が置かれた順番を読んでいる。


「利息の付け方が」


 ヴァローが小さく呟いた。


 すぐに言葉を止めた。独り言を途中で切ったのだと分かった。エルナさんへ向けるには、まだ形が整っていない言葉だった。


 レオンの左手が卓の上でわずかに沈んだ。力を入れたのだと思う。けれど鞘へは動かない。ガイウスの気配は扉の外にある。壁の向こうで重い影が立っているような安心があった。


 ヴァローは四枚目をもう一度手に取った。紙を光にかざすように少し持ち上げる。窓からの残り光はもう弱い。油皿の灯りを借りるために、私は卓の脇の小さな灯りを少しだけ寄せた。


「ありがとうございます」


 ヴァローが短く言った。


「この紙だけ、あとから差し込まれています」


 エルナさんの指が膝の上でわずかに動いた。


「あとから」


 声は出なかった。唇だけがその形になった。


 ヴァローはまだ断定を出さない。五枚目を読む。二枚目へ戻る。一枚目の下部にある数字を見直す。今度は署名の近くを指で辿った。紙の端が小さく鳴る。その音が、部屋の静けさの中で大きく響いた。


 トビアスさんの方角から、薄い息の音が届いた。


 窓辺の少年は息を潜めていた。外を見る目のまま、耳だけはこちらへ向いている。彼は数字の意味を知らないかもしれない。けれど大人の沈黙の重さは読んでいる。私はそのことが痛いほど分かった。


 私の胸の奥で、冬の朝の窓がまた白く曇った。けれど私はその記憶を声にしなかった。今ここにいるのは、十歳の私ではない。トビアスさんのために、余計な名を置くべきではない。


 ヴァローが書類を机の上に置いた。


 両手を組み直す。背筋をわずかに伸ばす。エルナさんの方へ視線を上げる。皮肉でもなく、皮肉の引き際でもない。事実を告げる前の構えだった。


「不正があります」


 ヴァローはそう告げた。


 部屋の中の光が止まった。


 エルナさんの両手が膝の上で一度だけ動いた。組まれていた指がほどけかけ、すぐに戻る。リリさんが母の肩に頬を寄せ直した。目は閉じたままだった。トビアスさんは窓辺で動かなかった。息の音だけが私の耳に届く。


 レオンの左手は卓の縁に置かれたまま、聖剣の鞘の方角には向かわなかった。彼の肩は固まっていたが、動きは節度の中に留まっていた。今この家に必要なのは剣ではない。紙を読み、言葉を置き、次の道を間違えないことだった。


 私は胸元のロザリオを握った。


 銀の紋章が掌に沈む。祈りの言葉は声に出さない。ここで最初に聞かれるべきなのは、私の祈りではなくエルナさんの沈黙だった。


 外で、戸口の前のガイウスの重盾が壁に薄く触れる音が一度だけ聞こえた。鉄と木の小さな音。その後に海鳥の遠い声が夕闇の縁を渡った。港の方角から波の音が低く届く。家の中の誰もすぐには動かなかった。


 トビアスさんの肩はもう動かない。立ち位置を変えていない。


 エルナさんは机の縁を見たまま、何も言わなかった。


 私の眼はトビアスさんの窓辺の輪郭を、静かに受けていた。

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