支えられる
「あの遺跡には、人が来ております」
イーリスは船室の机の上に広げた地図の一点を、白い指先で軽く示していた。
油皿の火はもう要らなかった。朝から昼へ傾く光が船室の窓を抜けて、机の縁と地図の折り目を明るくしている。商家連合の航路図は紙質からして硬い。湿気に強い処理がされていて、指で撫でるとわずかに油膜のような抵抗があった。
淡い金茶の髪を一つに束ねたまま、イーリスは緑がかった灰色の瞳で地図の縁を撫でていた。膝の上にあった小さな弦楽器は脇へ置かれている。語り部の道具ではなく、今は観察者の眼を使う時間だった。
俺は地図を覗き込んだ。
商家連合の独自の印が打たれた場所だった。俺たちが今朝着いた小島から半日航海した先の、小さな島の沿岸。海洋古代遺跡の残骸がある場所、とイーリスは短く伝えていた。
印は商人のための目印に見える。だが《滴見》の感度で紙面を撫でると、墨の置き方に迷いがなかった。そこに何かがあると知っている手の印だった。航路の補助ではない。目的地としての印。
「人数は」
俺は問うた。
「四人から五人。中堅の戦闘員が一人か二人、残りは末端でございましょう」
イーリスは視線を地図から俺に移した。
「武器の手触りまでは、わたくしの眼では届きません。観察できる範囲は人数と体格まで」
「それで十分だ」
俺は短く返した。
十分というより、今の俺たちには過剰に近い。上陸前に敵の数と質の見当がつく。それだけで戦闘の入り口が変わる。俺一人なら現地で読む。ヒュウマと二人なら海と足音で絞る。三人なら、視界の外から先に刃の数を測れる。
ヒュウマが俺の左隣で地図の縁に視線を落としていた。海守りの索具を腰の右で確かめる動作はもう出ていない。膝の上に置いた手は、静かに開かれていた。
船底の潮の音が低く続く。その音の底で、ヒュウマは別のものを読んでいた。海洋古代遺跡の輪郭。海守りの家が触れずに残してきたもの。父の言葉の続きを、ここで拾っている顔だった。
「父さんが、こういう遺跡の話を一度していました」
ヒュウマが短く言った。
「海神の系譜の古い建造物が海岸線にいくつか残っている、と。海守りは触れない場所だ、と」
「触れない理由は」
俺は問うた。
「父さんはそこまでは話しませんでした。海神の領分だから、というだけで」
ヒュウマは静かに返した。
その声には問いが残っていた。父が言い切らなかった理由。海守りが近づかない線。幼いころには地図の上の昔話だったものが、今は半日先の海にある。
俺はイーリスの方に視線を戻した。
「貴方は、この遺跡を以前に観察したことがあるのか」
イーリスは慇懃に頷いた。
「ございます。ただ、あの時は人がおりませんでした。今はおります」
イーリスはそれだけ言った。
それ以上は語らない。船室の空気に、薄い蓋をするような止め方だった。慇懃な微笑みは崩れない。だが瞳の奥には、地図より古いものを見た者の沈み方があった。
等価交換の段階性、それがイーリスの構えだった。観察できる範囲を限定して渡す、その構え。こちらに差し出す量は測っている。出し惜しみではなく、順序の管理。そう判断して箱に入れた。
「行くぞ」
俺は短く告げた。
「ええ」
ヒュウマが頷いた。
「承知いたしました」
イーリスも慇懃に返した。
船室の外で帆布が鳴った。海守り衆の若手の船員が艫で帆の角度を調整している。声は低く短い。船は西寄りに進路を取って、遺跡のある小島の沿岸へ向かった。
──────────────────────────────
小島の沿岸は、海洋古代遺跡の残骸で形が崩れていた。
最初に見えたのは柱だった。潮で浸食された柱が海面から半分突き出ている。表面は削れ、角は丸まり、苔と海藻が帯のように絡んでいた。貝が白く張り付き、波が引くたびに濡れた石肌が昼の光を返した。
崩れた壁の一部が沿岸に残っていた。元は広い回廊だったのかもしれない。床の高さは今の浜と合っていない。海が沈めたのか、地面が崩れたのか。建造物の元の輪郭は、頭の中でしか復元できない規模だった。
上の方に階段が見える。半分は割れ、半分は残っていた。石段の隙間から細い草が出ている。潮の匂いに苔の湿った匂いが混じり、足元の岩には薄いぬめりがあった。
俺は《滴見》で柱の表面の意匠を読んだ。
指で触れなくても、残った凹凸の記憶が水の膜を通して立ち上がる。削られた線。欠けた曲線。鯨の背。尾の反り。波と一体になった古い形。
白鯨の古い形が、彫られていた。
シロガネサマの象徴、海神の意匠だった。柱の苔を払えば、もっと細かい意匠が出てくるはずだった。海神の系譜の遺跡、と俺は確認した。
ヒュウマの父が話していた「海神の領分」の意味が、ここで形として立ち上がった。話ではなく石。伝承ではなく残骸。波に洗われながら、それでも消えずに残っているもの。
だが、異教徒もここに来ている。
俺は内で短く息を吐いた。
海神の遺跡を異教徒が利用している。冒涜の構造だ、と俺は判じた。なぜ異教徒が海神の遺跡に来るのか、その理由は俺の眼では届かなかった。だが目の前の事実として、彼らはここにいる。
イーリスが俺の半歩後ろで、《森の眼》を発動していた。
緑がかった灰色の瞳が細められる。昼の光を受けても、その色は明るくならない。苔の奥と森の影を混ぜたような瞳が、遺跡の上の方を読んでいた。
「四人。柱の奥の床の上に三人、階段の途中に一人」
イーリスは短く告げた。
「武器は」
「片手剣が二人、短い両手武器が一人、弓が一人。短い両手武器を持っている者が中堅でございましょう。腰の落ち方、肩の置き方、視線の届く範囲。末端とは別の地金です」
イーリスの観察は速かった。
ただ見ているだけではない。体格を見る。体重の乗せ方を見る。怖がっている者と慣れている者の差を見る。エルフの眼は遠くを読む。だが今ここで鋭いのは、長く人間を見てきた者の蓄積だった。
俺はヒュウマに視線を向けた。
「ヒュウマ、前で受け流せ。俺は《潮鞭》から入る。イーリスは弓と詩」
「ええ」
ヒュウマは短く応じた。
「承知いたしました」
イーリスが弓に手をかけた。
ヒュウマが潮鎚を背中から下ろして両手で構えた。海守りの戦闘服の藍色が、昼の光の中で輪郭を持つ。革ベースの軽装は海上で動くためのものだ。だが潮鎚を持つと、ヒュウマの身体は前衛の線を作る。
茶色の瞳が、戦闘員の眼に切り替わっていた。
イーリスがエルフの長弓を肩から外し、矢筒に手を伸ばした。動きは緩やかで、けれど無駄がない。旅人の緩さと射手の鋭さが同じ骨格でつながっている。長命種の佇まいの重みと、戦闘員としての鋭さが両立した動きだった。
俺は海溝晶を掌に乗せた。
深海色の明滅が、昼の光の中に薄く広がった。海面の明るさとは違う色だ。水底で呼吸するように、晶石の奥で暗い青が脈を打つ。
「行く」
俺は短く告げた。
──────────────────────────────
最初に動いたのは、イーリスだった。
短い詠唱が、俺の耳に届いた。低く穏やかな声。慇懃さの輪郭の中で、海神の鎮魂の旋律が立つ。
「《海神のレクイエム》——」
イーリスの声が場に立ち上がった瞬間、俺の海溝晶の明滅が一段安定した。荒れていた波が底で揃うような感覚。マナの消耗を鎮める作用、と俺は内で読んだ。
詠唱に入る前から、俺のマナの感覚が穏やかになっている。戦闘の緊張はある。だが消費の尖りが丸くなる。手の中の晶石がこちらの呼吸に合わせる。
それから、イーリスの手が弓に切り替わった。詩は数小節で止まったが、効果は場に残っていた。歌の尾が空気の中に薄く張り、俺たち三人の間に見えない線を作る。
矢が一筋、階段の途中の弓兵に向かって飛んだ。
緑の毒矢、《コースティックバイト》。矢羽が昼の光を一瞬切り、弓兵の肩を掠めた。血より先に毒の色が走る。弓兵が短く呻き、構えが崩れた。
俺は《潮鞭》の詠唱に入った。
詠唱は短かった。海溝晶の深海色から、海水が鞭状に立ち上がる。沿岸の海水を引き寄せ、柱の奥の床の上の三人に向かって振り抜いた。
群青の水鞭が、昼の光の中で弧を描いた。
水が空中で重さを持つ。鞭の先端が風を叩き、潮の匂いが濃くなる。濡れた音が遺跡の石にぶつかり、柱の間で低く返った。
末端の二人が、水鞭の薙ぎに巻き込まれた。
低い水音と共に、二人が床から弾き飛ばされる。片方の片手剣が手を離れて石床に落ちた。金属の甲高い音が遺跡の柱に跳ね返る。もう片方は短い悲鳴を上げて、苔の生えた壁に背中から打ちつけられた。
短い両手武器を持った中堅戦闘員は、武器で水鞭を受け流した。
受け流す動きは熟練していた。身体を正面に残さない。手首だけで受けず、腰ごと水圧を逃がす。アズリウム製の短い両手武器、と俺は《滴見》で確認した。
青みがある。古い鍛え方の癖もある。見覚えのある手の地金だ。戦闘中に深く拾う情報ではない。だが箱には入る。
中堅戦闘員が床を蹴って、ヒュウマの方に踏み込んできた。
ヒュウマの潮鎚が、迎え撃つ位置で構えられていた。
「《海神のワルツ》——」
イーリスの声が場に上がった。先ほどの鎮魂とは違う。足元の水が円を描くような、流れに乗せる旋律だった。
海神の流体の力が、ヒュウマの動きに乗った。
ヒュウマの足捌きが、流体的な軌跡を描いた。踏む。抜く。残さない。海守りの戦闘服の藍が、水面のように揺れた。
中堅戦闘員のアズリウム武器が、潮鎚と打ち合った。
低い金属音が、遺跡の柱に反響した。
ヒュウマの潮鎚は、アズリウムの青みで武器を受け流した。正面から潰すのではない。相手の力を潮の向きに乗せて、斜めへ流す。普段より一段滑らかだった。
イーリスの詩の効果が、ヒュウマの足捌きに乗っている。ヒュウマもそれを理解していた。初めて合わせる相手の詩に、身体を硬くしない。海守りとして流れを読む習慣が、そのまま使えている。
俺は次の詠唱に入った。
《水流弾》、単体重撃。中堅戦闘員の防具を貫く必要があった。ヒュウマの前に長く置く相手ではない。潰せるなら今潰す。
詠唱は短かった。海溝晶の明滅が一度強まり、圧縮した水球が掌の上に立ち上がった。表面は静かだが、内側で水圧が巻いている。
水球が、中堅戦闘員の側面に向かって撃ち出された。
中堅戦闘員が半歩下がって、水球の軌道を躱した。
動きが速い。普段の俺の《水流弾》なら中堅レベルでも当たるはずだった。だが、相手の足捌きは熟練していた。避けた後に崩れない。こちらの二手目を見る余裕まで残している。
「掠手で削りましょう」
イーリスが短く言って、矢を放った。
矢は中堅戦闘員の腕を掠めた。緑の毒矢、《コースティックバイト》。傷は浅い。けれど毒が走る。中堅戦闘員の動きが少し鈍った。
それで足りる。
正面の速度がわずかに落ちる。ヒュウマが押し返す余地ができる。俺が次を編む呼吸が生まれる。支援とはそういうものだ、と戦闘の中で確認した。
階段の途中の弓兵が、立て直して弓を構えていた。
肩を毒で削られても、弓を捨てない。末端ではないのかもしれない。少なくとも手順は仕込まれている。階段の位置は悪くない。上から射線を作れる。
その矢が、ヒュウマの方角に向かった。
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矢の軌道が、ヒュウマの左肩を狙っていた。
海守りの戦闘服は革ベース、矢を完全には防げない。金属は要所のみ。動くための軽装だ。ヒュウマは中堅戦闘員と打ち合っている最中で、回避する余裕はない。
俺の眼が、その瞬間を読んだ。
ヒュウマが、傷つけられる。
俺の内側で、何かが動いた。
普段の俺の戦闘判断とは別の、もう一段深いところからの動きだった。冷静さは残っている。射線も距離も読めている。だが身体の奥が先に決めた。海溝晶の明滅が、深海色の中に紫の光を一筋走らせた。
《雷水弾》のチャージは、戦闘の入り口から進めていた。
保険のように奥で編んでいたものだ。水に別の色を混ぜるには、呼吸を乱せない。イーリスの詩が消耗を鎮めていた分だけ、俺はその編み目を切らずに済んだ。
俺は手を上げた。
掌の上で、水弾と紫の雷が一つに編まれた。圧縮した水球の中を雷が走っていた。普段の水属性魔法とは別の質感だった。賢者の体系の奥から引いてきた、もう一つの色が走っていた。
「撃つ」
俺は短く告げた。
水弾が、矢を放った弓兵の方角に飛んだ。
矢より速かった。
ヒュウマの肩に届く前に、《雷水弾》が弓兵の胸を捉えた。水圧が体を打ち、その中を走った雷が四肢を麻痺させる。弓兵の手から弓が落ちて、階段の段に乾いた音を立てた。
膝が床につく。それから上半身が崩れた。指先が小刻みに痙攣している。目は開いたまま動かない。
矢は、軌道を失って柱に当たって落ちた。鏃が石を打つ短い音だけが、戦闘の音の隙間に通った。
ヒュウマが俺の方を一瞬見た。
茶色の瞳が、俺の動きを認識していた。驚きではない。礼でもない。戦闘中に交わす確認の視線だった。それから、視線を中堅戦闘員に戻した。
「《風神のマーチ》——」
イーリスの声が場に切り替わった。
流れの旋律から、足並みの旋律へ。声の低さは変わらない。だが空気の押し方が変わる。風神の足並みの力が、ヒュウマの潮鎚の振りに乗った。
ヒュウマの腕の動きが一段速くなった。
連撃が中堅戦闘員に入る。一撃目を受け流される。二撃目で軌道を潰す。三撃目で腰を狙う。ヒュウマの潮鎚は重い。だが今は重さよりも間隔が短い。
中堅戦闘員の防御が崩れた。
ヒュウマの潮鎚が相手の腰を打ち、低く鈍い衝撃音が遺跡の床を伝った。中堅戦闘員が転がって、苔の上で短く呻いた。アズリウムの武器が手から離れて、床を一度滑って止まった。
末端の二人は、水鞭の薙ぎから立ち直って武器を構えていた。ただ二人とも傷を負っている。ヒュウマが膝を打った中堅戦闘員も、もう立ち上がれない。階段の弓兵は麻痺して動かない。
残るは、俺たちの側に踏み込んできた末端の片手剣の一人と、距離を取って様子を見ている末端のもう一人。
俺は詠唱に入った。
《潮鞭》の氷化版。
詠唱は短かった。海溝晶の深海色から、群青の水鞭がもう一度立ち上がった。今回は、水鞭が振り抜かれる瞬間に別の色を乗せた。
自分を一段高く置く感覚が、俺の中で動いた。さっきの紫とは別の、群青の奥に潜む色。
群青の水鞭が、昼の光の中で振り上げられた。
振り抜きの瞬間、白い氷が水鞭の表面を走った。空気が一段冷えて、水鞭の輪郭が結晶の縁に変わる。光が氷の面に反射して、群青の水と白い氷が一筋の刃を作った。
末端の片手剣の一人が、氷化した水鞭の薙ぎに巻き込まれた。
氷の刃が相手の腕と腰を切り裂き、切られた箇所に白い霜が立った。凍傷の冷たさが肉まで届いて、相手は床に膝をついた。武器が手を離れて、石の床に乾いた音を立てた。
指が震えている。息が白い。海沿いの昼には不釣り合いな白さだった。
距離を取っていた末端のもう一人が、踵を返して逃げ始めた。
俺は《水縛》の詠唱を始めた。
水の蔓を伸ばす射程は足りる。柱の影を越えて足首を取れる。捕まえるだけなら難しくない。ヒュウマも追える。イーリスの矢でも止められる。
だが、途中で詠唱を止めた。
水の蔓を伸ばす射程を絞った。逃げる末端の足元には届かない範囲で、詠唱を完成させなかった。意図して、逃がした。
ヒュウマは追わない。イーリスも矢を番えない。二人とも俺の判断を読んだ。
逃げる相手の背中が、遺跡の柱の奥に消えていった。
戦闘は、終わった。
──────────────────────────────
イーリスの詩が、止まった。
場に立っていた風神の足並みの力がゆっくりと薄れた。ヒュウマの動きが普段の速度に戻った。海守りの戦闘服の藍が、昼の光の中で穏やかな質感に戻る。
遺跡の中に残ったのは、波の音と荒い呼吸だった。苔の上で負傷者が呻く。落ちた武器が石床で静かに冷えている。俺の掌にはまだ海溝晶の熱が残っていた。
ヒュウマが潮鎚を下ろして、息を一度吐いた。
「無事か」
俺は短く問うた。
「ええ。傷はありません」
ヒュウマは返した。
声は震えていない。息も静かに整っている。左肩にも矢は届いていない。海守りの当代の輪郭が、戦闘を抜けても保たれていた。
イーリスは弓を下ろして、慇懃に礼を返してきた。
「お見事でございました、蒼凪殿」
「貴方の詩と弓の援護があったからだ」
俺は短く返した。
「いえ、わたくしは観察と支援に留まりました。決定打は蒼凪殿の魔法と、ヒュウマ殿の盾でございます」
イーリスは慇懃に否定した。
言葉は丁寧だが、謙遜の形だけではない。自分の働きの位置を正確に置いている。観察。支援。削り。加速。前に立つことはヒュウマに任せ、決めることは俺に預けた。そういう整理だった。
それから、緑がかった灰色の瞳が一段細められた。慇懃さの輪郭の中で、観察者の眼が一度奥まで動いた所作だった。
「ただ、蒼凪殿」
イーリスは続けた。
「貴方の二発の魔法、興味深く拝見いたしました。普段お使いになる水属性の体系から、一段奥の領域に手を伸ばしておられた。雷の質感と氷の質感が、貴方の手の中で違和感なく編まれておりました。わたくしの観察してきた賢者の中でも、ああいう編み方をなさる方は稀でございます」
イーリスは慇懃に礼をした。
「お見事、と申し上げる以外に言葉が出ません」
俺は内で短く息を吐いた。
イーリスの眼は、俺が引いた色まで読んでいた。表層の魔法ではなく、その奥で動いた何かの質感を、観察者の眼で捉えていた。
俺の眼にイーリスの本質は届かない。それは変わらない。だがイーリスの眼は俺の奥まで届く。これも事実だった。
「……ありがとう」
俺は短く返した。
それ以上の言葉は出なかった。
イーリスは慇懃に微笑んだ。長命種の作法の中で、戦闘の手応えを内側で受け止めている顔だった。
ヒュウマが潮鎚の柄を握り直す。俺に何か言いかけたようにも見えたが、言葉にはしなかった。戦闘の後に拾うべきものが多いと分かっている顔だ。
俺は内で短く息を吐いた。
権能を、使わなかった。
これが、俺の中で確認できた事実だった。
普段の俺なら中堅戦闘員と末端複数の混成相手に、《重圧》を一度くらい使う必要があったかもしれない。今日は使わなかった。通常魔法と、複合属性の二発で済んだ。《雷水弾》と《潮鞭》の氷化。その二発が戦闘の決め手になった。
イーリスの詩が、俺のマナを軽減した。
イーリスの矢が、敵の動きを削った。
ヒュウマの動きが、イーリスの詩で一段速くなった。
三人の連携が、戦闘の効率を変えていた。
俺の権能の出番が、なくなっていた。
これが、3人で戦うということだった。
──────────────────────────────
戦闘の後、俺たちは遺跡を調べた。
まず武器だ。
中堅戦闘員のアズリウム製の短い両手武器を、俺は床から拾い上げた。重さが手に馴染んだ。刃は短いが、芯は重い。扱い慣れた者が持てば、受けにも割り込みにも使える形だった。
アズリウムの青みは、岩場の儀式の男の刀・商家連合の支部の男の刀と同じ手の地金だった。碇島の廃業した鍛冶場の系譜、もう一本確認できた。
刃の根元に残る打ち目まで似ている。偶然で片づけるには本数が増えすぎている。武器は流れる。人も流れる。だが同じ手の地金がこう何度も出るなら、流した誰かがいる。
中堅戦闘員は床に転がったまま、息はしているが意識がなかった。
「言葉を、聞いておこう」
俺は中堅戦闘員の側にしゃがんだ。
耳の近くに水の薄い膜を置く。《滴見》で耳の中の音の残響を読む。直前の戦闘の中で中堅戦闘員が末端の一人に短く声をかけていた音が、薄く残っていた。
ゆっくりした音節の連なり、子音が多い言葉。
中央大陸の言葉のリズム、と俺は確認した。
碇島の長が話していた二人組の客の言葉。商船の生存者が証言した海賊団の頭の言葉。《魂の還し》の儀式中にヒュウマが聞いた言葉。すべて同じ系譜のリズムだった。
音は薄い。意味までは拾えない。だが音の骨格は残る。喉の使い方。舌の止め方。語尾の沈み方。別々の場で拾った断片が、同じ箱に入った。
「同じ筋ですね」
ヒュウマが俺の隣で短く言った。
「ああ」
俺は頷いた。
ヒュウマの顔は硬い。父の話とは別の筋だが、海守りの周囲に絡みついてきたものとして受け止めている。逃げ道のない線が、少しずつ近づいている。
イーリスが床に転がった末端の一人の腰の小袋を確認していた。動きは丁寧だった。負傷者の息を邪魔せず、必要なものだけを取り出す。布袋の中から、薄い紙片を一枚取り出した。
「商家連合の符牒でございます」
イーリスは短く告げた。
俺は紙片を受け取った。
紙は薄い。だが水気に強い処理がある。角に入った小さな折り目が符号になっていて、墨の線は荷の種別を示す形だった。ヴェラーナ港の支部で見たものと同じ系統だ。
商家連合の深部の派閥が、ここに物資を運んでいる。先日の商家連合支部で遭遇した男の系譜が、この遺跡まで繋がっていた。
「商家連合の深部、異教徒、海洋古代遺跡」
俺は内で並べた。
三つが、同じ筋に繋がっていた。
偶然の集まりではない。地図の印。武器の地金。言葉のリズム。紙片の符牒。別々の証拠が、同じ方向に向く。まだ中心は見えない。だが輪郭は太くなる。
俺は遺跡の柱に視線を移した。
白鯨の意匠が、苔の下に薄く見えていた。波で削れた尾の線。半分消えた眼の形。海神の系譜の遺跡、海神の領分。それを異教徒が利用している。
「海神の遺跡を、異教徒が冒涜している」
俺は短く呟いた。
イーリスが、俺の方を一瞬見た。
緑がかった灰色の瞳の中で、何かが動いた。だがすぐに慇懃さの輪郭の中に戻った。長命種の伝承者の温度が、瞳の縁に薄く滲んでいた。
何の伝承なのかは、相変わらず俺の眼では届かなかった。
「これは、見覚えがある場所でございます」
イーリスは短く言った。
「以前に観察したのか」
「ええ。ただ観察の蓄積を全てここでお渡しするには、まだ材料が揃いません。旅路の中で、適切な時に」
イーリスは慇懃に礼をした。
俺は短く頷いた。
等価交換の段階性は、先ほど船室で受け入れた構えだった。今日はここまでで十分だ。無理にこじ開ければ、情報は増えるかもしれない。だが関係の土台は歪む。今は歪ませる場面ではない。
ヒュウマが俺の方に視線を向けた。
茶色の瞳が、何かを問うていた。父の話の続きをここで聞く時間ではない、とヒュウマの内側でも確認できているはずだった。俺が「後で話す」と約束した夜は、まだ来ていない。
遺跡の湿った風が抜ける。
父の言葉。海神の領分。白鯨の意匠。イーリスの見覚え。全部が同じ場所に重なっている。だが一度に扱うには重い。戦闘直後の足場で広げる話ではない。
「船に戻る」
俺は短く告げた。
「ええ」
ヒュウマが頷いた。
「承知いたしました」
イーリスが紙片を布で包み直した。
三人で遺跡の柱の間を抜けて、沿岸に戻った。足元の苔が濡れて滑る。砕けた貝が靴底で小さく鳴る。海面から突き出た柱の影が、波で揺れて細く伸びていた。
海守り衆の若手の船員が、繋留索を解く準備を始めていた。
中堅戦闘員と末端の負傷者は、遺跡に置いていく選択をした。逃げた末端の一人が戻ってくる可能性、または商家連合の深部から別の手が来る可能性。どちらにしても俺たちが介入する筋ではない。
情報は確保した。それで十分だった。
逃げた一人が、何を伝えるかは想像できた。その情報の流れが、向こうの次の手を引き出す。次の手を、俺たちは待てる立場になった。
それは、3人になって初めて取れる選択だった。
──────────────────────────────
船は西寄りの風を捉えて、遺跡の小島から離れていった。
俺は艫の方角で、船底の潮の音を低く受けていた。海洋古代遺跡の柱の影が、昼下がりの海面の向こうで小さくなっていく。白鯨の意匠は、もう《潮見》の感度の縁に届かない距離だった。
遠ざかると、遺跡はただの岩場に見える。
波に削られた石。苔の黒ずみ。鳥の影。だが俺の中では、白鯨の古い線がまだ残っている。消えかけた彫り跡ほど、かえって輪郭が沈む。
イーリスが船首の方角に立っていた。
風が淡い金茶の髪を流していた。耳の輪郭は髪と布で隠れている。けれど俺の眼にはその尖りが薄く見えた。緑の弓は背中に戻されて、矢筒も腰の右に納まっている。
戦闘の名残を、長命種の佇まいの中に静かに沈めていた。
歌い手はもう歌っていない。だがさっきの詩の余韻だけが、俺のマナの底に薄く残っていた。船の揺れと混じって、鎮められた消耗がゆっくり戻ってくる。
ヒュウマが俺の隣に並んだ。
潮鎚は背に下ろしていた。海守りの索具を腰の右で確かめる動作は、もう出ていなかった。左肩に傷はない。革の表面にも矢の擦れは残っていない。
「蒼凪さん」
「ん」
「あの矢を、止めてくれて、ありがとうございます」
ヒュウマが短く言った。
弓兵が放った矢。ヒュウマの左肩を狙った矢。《雷水弾》で止めた瞬間。ヒュウマが感謝を口にする声を、俺は静かに受けた。
「ああ」
俺は短く返した。
「お前が傷つけられる前に、止めた」
それだけ言った。
ヒュウマは頷いた。それ以上は何も言わなかった。
あの雨の夜から続いているものがある。俺の腕を掴んだ手。傷つけた者の重さ。俺の罪だと言った声。ヒュウマがそれを自分のものとして背負うと決めた目。今日の矢は、その延長にある。
守ったから帳消しになるものではない。
だが守る判断が間に合った。そこだけは事実として置ける。
俺の海溝晶は、ベルトの内側に静かに納まっていた。掌に乗せていた時の深海色の明滅も、雷の紫も、氷の白も、もう走らない。戦闘の中で引いた色は、すべて内側に戻っていた。
それでも、戦闘の手応えは残っていた。
普段の俺なら、中堅戦闘員相手に《重圧》を一度発動していた可能性が高い。今日は使わなかった。三人の連携で、権能の出番がなくなった。これは、戦力構造が変わったということだった。
俺は内で短く判じた。
支えられている、と読めた。
イーリスの詩が、俺のマナを軽減しヒュウマの動きを速くする。イーリスの矢が、敵の動きを削る。ヒュウマの盾が、俺の詠唱を守る。三人がそれぞれの役目を最大化した結果として、俺の権能が要らなくなっていた。
俺一人なら、もっと派手に戦っただろう。
ヒュウマと二人なら、もっと泥臭く戦っていたはずだ。
三人になると、戦闘が一段静かになった。
それは、悪くない事実だった。
静かになるというのは弱くなることではない。無駄な出力が減る。傷を受ける前に削る。詠唱が通る前に守られる。支援が流れを作り、前衛が隙を固定し、魔法が決める。
役割が噛み合うと、戦闘は荒れない。
イーリスが船首から振り返って、俺の方を見た。慇懃さの輪郭の中で、ニコニコが薄く滲んでいた。長命種の作法と若い遊び心が、同じ顔の中に同居していた。
俺は短く頷いた。
イーリスも頷きを返した。それ以上の言葉はなかった。
風が三人の上を一度に通った。ヒュウマの黒い短髪と俺の赤い短髪が同じ方向に流れて、船首のイーリスの淡い金茶の髪も同じ風を受けていた。
ヒュウマのプラチナのピアスが昼下がりの光を一度受けて、それから影に戻る。俺の胸元のプラチナの首飾りが、ローブのはだけた縁で薄く揺れた。
帆布が風を含む音、舳先が波を割る低い音、海守り衆の若手の船員が艫で短く声を上げる音。船の音が、戦闘の名残を少しずつ薄めていった。
船は、西の方角に進んでいった。海洋古代遺跡の柱の影は、もう海面の向こうに見えなかった。昼下がりの海面の水色が、穏やかなまま広がっていた。




