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群青幻想  作者: 滄龍 青司
CantoⅠ
24/57

先回りされる

「今、なんと言った」


 俺は机に肘をついて、額を掌で支えていた。


 指の隙間から対面の男が見える。淡い金茶の髪を一つに束ねたエルフの吟遊詩人。緑がかった灰色の瞳を細めて、イーリスはニコニコしていた。


「ですから、わたくし二人にお供させていただきたいのでございます」


 同じ言葉だった。


 桟橋で聞いた申し出と、語尾の揺れまで変わらない。音の置き方。息の抜き方。最後に薄く笑みを残す作法。慇懃さの形だけが綺麗に残り、その内側に何があるのかは読めない。


 俺は額を支えていた掌を机に下ろした。


 船室の机は幅があった。地図を広げるためのものだ。木目には古い潮の染みが沈んでいて、指先で触れると少しだけざらつく。油皿の灯りが机の端で薄く揺れていた。窓から入る朝の光の方が明るい。それでも誰も油皿を消していない。


 消すという小さな判断すら、いまは場の外に置かれていた。


 ヒュウマが俺の左隣に座っている。


 潮鎚は背から外されて脇に置かれていた。いつでも掴める距離だ。膝の上の手は一度握られ、ほどかれ、また握られる。茶色の瞳が俺とイーリスの間を行き来した。普段なら人を落ち着かせる目だ。今はその落ち着きの底に、薄い揺れが立っている。


 海守りの当代としての顔は崩れていない。


 ただし十八歳の若さは隠しきれない。父の名に触れられた直後の揺れは、指の力の入り方に出ていた。


 俺は内で短く息を吐いた。


 どうして、こんなことになってしまったのだろうか。


 朝に島へ着いた時点で、俺はこの船室でこういう向かい合い方をするとは考えていなかった。住民に話を聞き、島の出入りを確かめ、海図の印を検証する。それだけのはずだった。


 だが状況は別の形で開いた。


 俺は机に下ろした掌の熱を感じた。木の冷たさが皮膚に移り、その冷たさが桟橋の濡れた板の感触に変わっていく。


 いつも俺は起点まで戻る。


 情報が多すぎるときほど、最初の手触りに戻す。朝の光。雨上がりの空気。桟橋の木組みの軋み。起きた順に並べ直すことで、いまの形を測る。


 俺は今朝の桟橋を、頭の中でもう一度なぞった。


──────────────────────────────


 雨上がりの薄曇りは、夜の間に切れていた。


 春の十一日目の朝だった。海守り衆の小型船はヴェラーナ港から西へ二日進み、商家連合の海図に印が打たれた小島へ着岸した。


 外洋寄りの空気は澄んでいた。潮の匂いは港町より鋭い。魚と湿った縄と木の匂いが、朝の冷えた空気の中で分かれている。島は小さな漁村だった。住民は数十人程度。外からの訪問者は珍しい場所だと、桟橋に出た時点で分かった。


 桟橋は石ではなく木組みだった。


 潮で濡れた板が靴底の下で鳴る。踏むたびに低く軋み、板の間から薄い海の光が見えた。縄を掛ける杭には古い傷が重なっている。網を干す木枠が村の入り口に並び、塩漬けの魚を広げた台が朝の光を受けて白く浮いていた。


 俺は桟橋に降りた。


 ベルトの内側に指を滑らせ、海溝晶の位置を確かめる。冷たい。深く沈む色をした石は、まだ何も言っていない。ヒュウマが続いて降りた。足運びは軽いが、降りた瞬間に周囲を一度見渡す。救援者の癖だ。


 海守り衆の若手の船員が艫で繋留索を結んでいた。


 結び目は速かった。湿った縄を掌で締め、杭に掛け直す。こちらを見る目に余計な問いはない。ヒュウマが船を出せと言えば即座に動く者たちの目だ。


「住民に話を聞こう」


 俺はヒュウマに告げた。


「ええ」


 ヒュウマの返事は短い。いつもの落ち着きに戻っている。前夜のことは互いに言葉にしていない。けれど消えていない。あの夜に共有した重さは、船底の潮音のように低く続いていた。


 俺は漁村の入り口へ目を向けた。


 老人が一人、桟橋の端で網を繕っている。指が細い。だが動きは正確だった。切れた糸を拾い、針を通し、引き締める。小さな音が一定の間隔で続く。聞き込みを始めるなら、あの老人が最初だ。


 商家連合の印がこの島に打たれていた意味。


 外部から来た船。西へ向かった人間。遺跡に関わる可能性。ここで拾える情報は限られているが、限られているからこそ順番が要る。


 俺は老人の方へ歩き出そうとした。


 その時だった。


「ご無事で何より」


 声は桟橋の縁の方角から届いた。


 低く穏やかな声だった。音の表面は柔らかい。だが言葉の置き方が整いすぎている。慇懃な輪郭。聞き覚えのある声。こんな島の朝に聞くはずのない声。


 俺は視線を向けた。


 桟橋の外れに岩場がある。濡れた石の上に、深い緑のローブの男が座っていた。膝の上には小さな弦楽器。弦に指は置かれていない。弾くためではなく、持っていることで本人の輪郭を完成させる道具のように見えた。


 フードは下ろされている。


 淡い金茶の髪が風に流れ、肩のあたりで束ねられていた。髪と布が耳の形を隠している。だが隠し方が上手いほど、俺にはそこに隠す理由が見える。緑がかった灰色の瞳が細められ、朝の光の中で静かに笑っていた。


 イーリス。


 俺は半歩だけ足を止めた。


 ヒュウマも止まる。右手が自然に潮鎚の柄へ伸びた。反射に近い。敵意を感じたからではない。知らない相手が、こちらの到着を待っていた。その事実に身体が先に応じた。


 俺の感度は別の方角へ向いていた。


 海溝晶を掌に乗せる。深海色の明滅が朝の光の中に薄く広がった。俺は《断絶境界》を内側で起こす。見るのは一点だけだ。敵意の境界線が立つかどうか。


 立たなかった。


 境界線は静かなままだった。


 前にカラヴェラで対話したときと同じだ。イーリスは俺たちに敵意を持っていない。それは前回確認している。今日も同じ確認ができた。得られたのはそれだけだった。


 俺の《滴見》は、イーリスの本質に届かない。


 これも前回と変わらない。エルフの個人としての隠し方の練度。観察系の読みを表面で受け止める才。表層は読める。耳の尖り。声の深さ。所作の作法。旅の長さが足に残したわずかな重心。


 それより奥に届かない。


 桟橋の上で、同じ壁をもう一度確認した。


「ヒュウマ」


 俺は短く呼んだ。


「ええ」


「俺たちが知っている人だ。敵ではない」


 ヒュウマの右手が潮鎚の柄から離れた。だが完全には緩まない。手の位置はすぐ戻せる距離に残っている。ヒュウマはイーリスを知らない。前にカラヴェラで話した時、ヒュウマは別行動だった。


 イーリスは岩場から立ち上がった。


 動きはゆっくりだった。ただ遅いのではない。急ぐ必要がない者の速度だ。膝の上の弦楽器を片手で支え、ローブの裾を整え、岩場から桟橋へ足を移す。濡れた木の上でも足音はほとんど立たない。


 長く生きる者の佇まいは、立ち上がるだけで場の時間を変える。


 イーリスは俺たちの前で慇懃に礼をした。


「マリヴェルの蒼凪殿、サルヴァトーレ家のヒュウマ殿」


 二人の名前を順に呼んだ。


 家を含めた呼び方だった。公的な温度を選んでいる。俺が半歩前に出ると、ヒュウマは自然に左後ろへ位置を取った。守るための位置であり、俺に場を渡す位置でもある。


「なぜ貴方が、ここにいる」


 声は荒げなかった。


 温度だけを下げた。賢者として人前で話す時の温度。そこに前回の応酬の続きを少しだけ混ぜる。相手をもてなすためではない。選ぶための声だ。


 イーリスは礼の姿勢から戻り、俺を見た。


「貴方がここに来ることを、わたくしは知っていたからでございます」


 答えは慇懃だった。


 だが内容は一段深かった。偶然ではない。聞き込みの前に現れた者が、こちらの到着を知っていたと言っている。俺は視線を細めた。


「どうやって」


 イーリスは少しだけ視線を落とした。


 弦楽器の胴に指が触れる。弾かない。音は出さない。沈黙を一度整えてから、また俺を見る。その動きの中に慇懃さの作法と別のものが混じっていた。語り部の顔。狩るのではなく、物語の輪郭を測る目。


 俺に読めるのはそこまでだった。


「貴方の父上の軌跡を、わたくしは知っていたからでございます」


 イーリスはそう言った。


 そして視線をヒュウマへ向けた。


 桟橋の上で、ヒュウマの息の継ぎ目が止まった。


──────────────────────────────


 朝の光は穏やかだった。


 桟橋の濡れた木組みの上を薄く滑り、板の隙間に水色を落としている。海面は外洋寄りの澄んだ色をしていた。遠くで海鳥が鳴く。老人の網を繕う音が続く。木枠に干された網が風でわずかに揺れる。


 日常の音は途切れていない。


 けれど俺たち三人の周りだけが、別の層に沈んだ。


 俺はヒュウマを見なかった。


 意図して見なかった。見ればヒュウマは自分の揺れを意識する。意識すれば抑えようとする。抑えるために、余計な力を使う。いま必要なのはヒュウマを立たせておくことではない。場を俺が持つことだ。


 ヒュウマの息の止まりは左側で分かる。


 海守りとしての落ち着きが揺れた。ヒュウマの父は十二年前に海難で亡くなっている。表向きは事故。けれど薄い疑念は残っていた。九日前の碇島で時期の一致を確認したときも、二日前の船室で罪悪感を共有したときも、その疑念は形を変えながら近づいてきた。


 今日は別の角度から立ち上がった。


 父の言葉。西の海。辿りきれなかった経路。並べれば一本の線に見える。だが線にするにはまだ早い。今ここでヒュウマをその線の上に立たせるのは危うい。


 俺は視線をイーリスに保つ。


「待ってもらおう」


 短く告げた。


「貴方の言葉、確認させてもらう」


 イーリスは慇懃に頷いた。焦る気配はない。こちらの揺れまで観察しているのかもしれない。そう見える程度には、ニコニコが崩れない。


「わたくしは急ぎません、蒼凪殿」


 その返しも穏やかだった。


 俺は左の手のひらを半歩だけ上げた。ヒュウマの方角へ。見るなという合図ではない。動かなくていい。声を出さなくていい。いまは俺が持つ。そういう合図だ。


 ヒュウマはそれを読んだ。


 息がゆっくり戻る。腰の右で索具を確かめる動作が一度入る。指先が革に触れ、戻る。声はまだ出ない。だが立っている。崩れていない。


 俺はイーリスへ問いを戻した。


「もう一度聞く。貴方が知っているのは、何の軌跡だ」


 イーリスは少し考える素振りを見せた。


 長く生きた者が、言葉を軽く扱わない時の間だった。風がローブの裾を揺らす。淡い金茶の髪が頬の横で小さく動く。それからイーリスは静かに言った。


「貴方たちが追っている経路を、十二年前に辿ろうとして辿りきれなかった人がいました」


 一拍。


「サルヴァトーレ家の方でした」


 桟橋の木組みが潮の動きで軋んだ。


 俺はヒュウマを見なかった。見なくても分かる。息がもう一度沈んだ。表情は崩していない。声も出していない。膝も動かない。ただ呼吸の輪郭だけが、海の底へ落ちるように一瞬消えた。


 十二年前の海難。表向きの事故。薄々の疑念。


 それらが今、別の角度から立ち上がろうとしていた。


 俺は短く息を吐いた。


「ヒュウマ」


 視線はイーリスに置いたまま、声だけを左へ渡す。


「聞こえている」


「ええ」


 返事は短い。震えてはいない。だが普段より一段低い。海守りの当代の声が、個人の重みを押し込めている。


「後で話す」


「ええ」


 それで確認は終わった。


 ヒュウマは俺の判断に任せる。俺が場を引き取る。ヒュウマは横で聞く。十二年前の重みはいったん俺たち二人の間で閉じる。それから後でゆっくり開く。


 俺はイーリスへ視線を戻した。


「貴方がヒュウマの父上を知っていた事実を、貴方の口から聞いた。それは、貴方が今ここにいる理由として重い」


 俺は言った。


「ただし、俺の眼は貴方の本質に届かない」


 イーリスは頷いた。


 否定しない。驚かない。俺の言葉をそのまま机の上に置くような所作だった。桟橋に机はない。それでも対話の形だけが、すでにそこにできている。


「俺の《断絶境界》は、貴方に敵意の境界線を立たせなかった。前にカラヴェラで会ったときから変わっていない。ただし貴方の動機の根源は、俺の《滴見》では読めない。これも変わらない」


 声に出して事実を並べる。


 声にすることで、俺自身の内側にも並ぶ。そういう手順だ。


 イーリスはまた礼をした。


「観察者として、わたくしは貴方の眼に届かない領域を意図的に保っております」


 隠していることを隠さない。


 その態度がまた読みにくい。嘘をつくより厄介だ。隠す範囲を自分で決め、その線だけを見せてくる。境界を見せることで、奥をさらに遠くする。


「ただし、それは敵意ではございません。わたくしの本懐の輪郭でございます」


「貴方の本懐は」


 俺は問うた。


「物語を見届けることです」


 イーリスは答えた。


 迷いはなかった。


「短命種の物語を、わたくしはいくつも見送ってまいりました。ただし、世代を跨いで続く軌跡は稀でございます」


 イーリスの視線がヒュウマへ少し動く。すぐに俺へ戻る。ヒュウマを刺激しすぎない距離を測っている。あるいはそう見せている。


「貴方の父上が辿った経路を、貴方たちが今辿り直しておられる。これを見届けることは、わたくしにとって意味を持ちます」


 イーリスは「歌に編む」とは言わなかった。


「見届ける」と言った。


 言葉の選び方が違う。街角で銀貨を集める吟遊詩人なら、歌にするというはずだ。だが今は違う。記録より前の位置に立っている。語る前に見る。編む前に残す。そこまでは分かる。


 なぜ見届けたいのか。


 なぜ世代を跨ぐと知っているのか。


 なぜ十二年前の父の動きに触れているのか。


 問えば半歩は深まるだろう。だが半歩ずつだ。核心へは届かない。イーリスは答えているのに、答えの奥が空白のまま残る。


 俺の構造化が、追いつかなかった。


 箱に入らない、と俺は内で読んだ。


 普段の俺の思考は、情報を箱に入れて整理する。短期と長期、攻めと守り、確定と未確定、自分の時間と人に頼める時間。置く場所を決めれば、次にやることが見える。見えない時は箱の作り方を変える。


 だがイーリスの動機はどこにも入らない。


 敵か味方かでは割れない。利害だけでも測れない。観察者という言葉は形になるが、そこに血の温度がない。父の軌跡を知る者。俺の眼に届かない者。敵意の線を立てない者。三つ並べても、同じ箱に収まらない。


 俺は内で息を吐いた。


 俺の眼が、届かない相手だ。


 ただし、敵ではない。


 それが俺がこの瞬間に確定できる、すべてだった。


──────────────────────────────


「申し出をさせていただいてよろしいでしょうか」


 イーリスは慇懃に問うた。


 場の重さを承知した上で、なおその声は柔らかい。柔らかいからこそ質が悪い。こちらが緩めば、いつの間にか主導権が移る。俺は短く頷いた。


「貴方たちの旅路にわたくし、お供させていただきたいのでございます」


 申し出は静かだった。


 だが桟橋の空気が一段変わった。ヒュウマの息が左でわずかに動く。老人の網の音は続いている。海鳥の声もある。それなのに、言葉だけが桟橋の中央に残った。


 イーリスはニコニコしていた。


 慇懃さの内側に遊び心がある。若い顔にも見える。だが同じ顔の奥に、長い時間を通った者の冷静さもある。どちらが本物かは読めない。あるいは両方本物なのだろう。


「等価交換、として」


 イーリスは続けた。


「わたくしが知る情報を、旅路の中で少しずつ貴方たちにお渡しいたします。一度に全てではございません。わたくしの観察の蓄積から、貴方たちの旅に必要な範囲で適切な時にお渡しする所存でございます」


 俺は内で判じた。


 情報の出し方を、イーリスは自分の手の中に置くつもりだ。一度に全て渡さない。旅の中で少しずつ。適切な時に。誰にとって適切なのかは明言しない。


 同行を許せば、情報はイーリスの歩幅で流れる。


 ただし断る選択肢はここにない。


 サルヴァトーレ家の父上を観察していた事実。十二年前に父が辿りきれなかった経路を、俺たちが今辿っている事実。その情報を持っているのはイーリスだけだ。


 ヒュウマの父の死の真相に向かう経路を、俺たちはすでに進んでいる。


 その道の先に灯りを持つ者を、外に置いたまま進むのは愚かだ。灯りが罠でないとは限らない。それでも闇の中で目を閉じるよりはましだ。


 イーリスもそれを分かって申し出ている。


「もう一つ、お渡しできる情報がございます」


 イーリスはさらに言った。


「光の教会から派遣された四人の方々の動向を、わたくしは別の経路で把握しております。本部の意図、内側の構造、貴方たちをどう追跡するか。これも旅路の中で、適切に」


 俺は短く頷いた。


 先日ヒュウマに伝えた輪郭の奥。聖オルヴェリス教会の表向きの説明と、その裏で動くもの。光の教会から派遣された四人は、もうこちらの旅路に絡んでいる。イーリスはそこにも網を伸ばしている。


 網というより、歌の届く範囲か。


 いや、まだ比喩に逃げるべきではない。観察の経路がある。それだけで十分だ。


「貴方の観察は、広い」


 俺は言った。


「百五十年ほど、各地を流浪してまいりました」


 イーリスは慇懃に答えた。


「観察できる範囲は、自然と広うございます」


 自然と、という言葉の軽さが引っかかる。


 百五十年の流浪を自然で片づける。人間の人生を複数重ねる時間を、言葉ひとつで平らにする。その平らさが長命種の距離なのだろう。


 俺は息を一度吐いた。


 それからヒュウマへ視線を向けた。


 ヒュウマの茶色の瞳は俺を見ていた。表情は普段の落ち着きへ戻りつつある。完全ではない。十二年前の重みを内側へ沈め、外側の顔だけを戻している。海守りの当代として人前に立つ顔だ。


 判断を委ねる目だった。


 ただ放棄ではない。俺に丸投げする目ではなかった。一緒に背負う前提で、いまは俺に先頭を譲る目だ。あの夜に共有した罪の重さと、同じ場所から伸びている目だった。


 俺は小さく頷いた。


 ヒュウマもわずかに顎を引いた。


 それで十分だった。


 俺はイーリスへ向き直る。


「船室で、続きを話そう」


 短く告げた。


「桟橋の上で話す内容ではない」


 イーリスは慇懃に頷いた。


「承知いたしました」


 俺はヒュウマの方角へ半歩だけ手のひらを向けた。ヒュウマは俺の左後ろに戻る。続く位置は変わらない。だが歩き出す前に、潮鎚の柄へ視線だけを落とした。持っていくべき重さを確認する目だった。


 海守り衆の若手の船員が艫の作業を終えて、こちらを見ていた。


 俺は短く合図を送った。船室を一つ借りる。しばらく入らないでくれ。言葉にしなくても通じる範囲を選んだ。若手の船員はすぐに頷いた。余計な問いはない。


 俺たちは桟橋を戻った。


 先に俺が歩く。半歩遅れてイーリスが続く。さらに半歩後ろの左にヒュウマ。三人分の足音で、木組みの軋みが深くなる。濡れた板は滑りやすい。俺は靴底の感触を測りながら進んだ。


 桟橋の縁では小さな波が板の下に当たっていた。


 ぱしゃりという軽い音。縄が杭に擦れる乾いた音。老人の網針が糸をくぐる細い音。どれも朝の音だ。だが俺の頭の中では別の音が鳴っていた。箱に収まらない情報が、棚からはみ出していく音に近い。


 小型船の船腹へ着く。


 深い藍色の木の表面が朝の光を受けて鈍く光っていた。俺は船縁に手をかけて甲板へ上がる。掌に湿った冷たさが残った。ヒュウマが続く。動きは慣れている。イーリスは最後に乗った。細身の身体なのに、足場の変化にまったく揺れない。


 甲板を舳先側から船室へ向かう。


 海守り衆の若手の船員は艫に下がっていた。こちらに背を向ける形で索具を整えている。聞かない距離を作るための所作だ。訓練されている。


 船室の戸の前で俺は止まった。


 取っ手は冷たかった。潮を含んだ金具の感触が指に残る。戸を引くと、古い蝶番が低く軋んだ。中には朝の光が先に入っていた。油皿の灯りがまだ点いている。昼には不要な薄い灯りだが、窓から差す光と重なって机の端に淡い影を作っていた。


 船室の空気は桟橋より少し温かい。


 木と油と湿った布の匂いが混じっている。船底の方から潮の音が低く届く。外の網の音はもう遠い。海鳥の声も、戸を挟んだだけで別の世界の音になる。


 俺は机の一方に座った。


 イーリスは対面へ回る。緑のローブの裾を整え、弦楽器を膝に置いた。フードは下ろしたままだ。淡い金茶の髪が肩の前に少し落ちる。指でそれを戻す所作が自然すぎて、どこまでが作法でどこからが素なのか判じきれない。


 ヒュウマは俺の左隣に座った。


 潮鎚を背から外し、脇へ置く。手の届く距離。膝の上で両手を組み、一度ほどく。茶色の瞳が俺を見てから、イーリスへ移る。まだ不安は残っている。だが立ち直るための場所を自分で作っている。


 俺は机に肘をついた。


 額を掌で支える。指の隙間からイーリスが見える。桟橋で聞いた申し出の重みが、船室の狭さの中で別の形になる。ここでは逃げ場が少ない。だからこそ話せることもある。


 沈黙が落ちた。


 船底で潮の音が低く続く。油皿の火が小さく揺れる。誰も消さない。俺は内で整理を始めようとして、すぐに止まった。置き場所が足りない。


 イーリスは少しだけ間を取った。


 それから慇懃に口を開いた。


──────────────────────────────


「ですから、わたくし二人にお供させていただきたいのでございます」


 イーリスは同じ言葉を繰り返していた。


 船室で聞くと、言葉の輪郭が変わる。桟橋では朝の光の中に置かれた申し出だった。ここでは机を挟んだ契約に近い。語尾の揺れ方は同じだ。だが狭い船室に収まった分だけ、逃げ場が減っている。


 俺は額を支えていた掌を下ろした。


 掌の下に木のざらつきが戻る。机の端に油皿の薄い光が伸びていた。窓の外には桟橋の一部が見える。船はまだ繋がれたままだ。旅は止まっているのに、話だけが次へ進んでいる。


 ヒュウマが俺の左隣で膝の上の手を握り直した。


 一度。二度。三度目は途中で止めた。自分の癖に気づいたのだろう。茶色の瞳は俺を見ている。俺の判断を待っている。その目に焦りはない。痛みはある。だが痛みを理由に場を壊すつもりはない。


 俺は短く息を吐いた。


 桟橋から船室へ戻るまでの間に、俺は頭の整理を試みていた。


 情報の流れ。エルフの個人としての隠匿。世代を跨ぐ軌跡。サルヴァトーレ家の父上。十二年前の経路。光の教会から派遣された四人の動向。並べる場所が足りない。


 普段なら新しい箱を一つ作る。


 未確定の情報は未確定のまま置く。利害は利害で分ける。危険は危険で別に置く。ヒュウマに伝える時間と、俺が先に抱える時間を分ける。そうすれば動ける。


 今日は箱を作る前に、棚そのものが歪む感覚があった。


 イーリスの動機が場所を取らない。取らないのに、全ての情報の間に入り込む。父の軌跡を知る。教会の動向を知る。敵意はない。本質は読めない。同行を求める。どれも別の場所に置けるはずなのに、並べると一つの形にならない。


 イーリスは俺を待っているのか。


 それとも、ただ慇懃なニコニコを保っているだけか。


 判じきれない。その判じきれなさを、イーリスは自覚している。自覚した上で何も足さない。厄介だな、と内で思った。


 俺は机の上で指を組んだ。


「条件がある」


 俺は告げた。


 イーリスの瞳が細いまま、わずかにこちらへ向く。聞く姿勢は整っている。ヒュウマの呼吸も左で少し落ち着いた。


「同行を許す。ただし俺の《断絶境界》の判定が、いつでも作動する状態を保つ」


 イーリスは慇懃に頷いた。


「了解いたしました、蒼凪殿」


 返事は早い。条件を予測していたのだろう。あるいはどんな条件でも、まず受けるつもりだったのかもしれない。


「敵意の境界線が立った瞬間、俺は貴方を切り離す。貴方の本質を読めない事実は変わらないが、敵意の境界線は俺の眼で確実に判定できる。前に会ったときに確認している」


「左様でございます」


 イーリスは微笑んだまま言った。


 その微笑みは崩れない。脅しを受けても、拒絶に近い条件を示されても、礼の形を保つ。腹が立つほど整っている。


 俺は続けた。


「貴方の動機は、俺の眼に届かない。届かないものを、俺は箱に入れない。ただし敵ではないと判定した相手を、外に置いておく選択も俺はいま取れない」


 言葉にすると、少しだけ形になる。


 読めないものを読めたふりはしない。分かったふりもしない。箱に入らないものを無理に押し込めれば、他の判断まで歪む。それは避ける。


「貴方を内側に入れる。ただし内側に入れたまま、距離は俺が決める」


 イーリスは深く礼をした。


「左様で結構でございます」


 声に不満はない。


 ただ受け入れたというだけでもない。どこかで、その条件ごと観察対象にしている気配がある。俺の言葉を聞き、距離の決め方を測り、ヒュウマの反応も同時に見ている。


 イーリスは少しだけ視線を落とした。


 膝の上の弦楽器に指が触れる。弾かない。弦は鳴らない。次に顔を上げた時、緑がかった灰色の瞳の奥に別の温度が薄く滲んでいた。前にも見た伝承者の質感。長く見て、長く残す者の目。


 根源は届かない。


 それでいい、と俺は決めた。届かないことを条件に含める。届かないまま運用する。今できるのはそれだ。


 俺はヒュウマを見た。


 ヒュウマは俺を見ていた。茶色の瞳が俺の判断を確かめている。そこには反対も賛成も先に出ていない。俺がどこまで引き受けたのかを見て、自分も同じ重さの場所へ立つつもりの目だった。


 ヒュウマは小さく頷いた。


 俺もわずかに頷き返す。


 それからイーリスへ視線を戻した。


「同行を許す」


 俺は短く告げた。


「ありがとうございます」


 イーリスは慇懃に礼をした。


 その後で、ニコニコの輪郭が一段強くなった。嬉しさにも見える。企みの成功にも近い。長く探していた物語の入口を見つけた顔にも見える。どれも否定できない。


 俺は内で短く息を吐いた。


 頭を抱える感覚はまだ消えない。


 それでも判断は下った。


 ここから先、イーリスは外側の観察者だけではなくなる。内側に入る。だが距離は俺が決める。敵意の境界線が立てば切り離す。ヒュウマの父に関わる情報は、俺たち二人の間で扱う。イーリスの情報は使う。イーリスの読めなさは、読めないものとして置く。


 それが今日の結論だった。


 船室の窓から朝の光が机の上に薄く伸びている。油皿の火はまだ消えていない。小型船は桟橋に繋がれたまま、船底で潮の音を低く受けていた。外にいた老人の網の音は、ここまでは届かない。


 机の対面でイーリスは慇懃に座っていた。


 緑のローブの裾は整えられている。淡い金茶の髪は肩の前で静かに落ちている。緑がかった灰色の瞳を細めて、イーリスはニコニコしていた。膝の上には小さな弦楽器がある。弾く気配はない。


 俺の左隣で、ヒュウマが膝の上の手をゆっくり開いた。


 指の力がほどける。潮鎚の方へ視線を一度落とし、また戻す。父の話は終わっていない。むしろ始まったばかりだ。だが今は、船室の机を挟んで三人が座っている。


 船底で潮の音が、低く続いていた。

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