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群青幻想  作者: 滄龍 青司
CantoⅠ
26/57

動けない

 港湾の音が、宿の窓の向こうから届いていた。


 海鳥の声が先に来た。続いて漁師たちの早朝の挨拶が石畳に落ちる。桟橋の板が軋む音は、波の間に低く混じった。どれも穏やかな朝の音だった。急いでいる音は、どこにもない。


 ヴェラーナ港の街は、いつも通りに目覚めていた。船を繋ぐ縄が擦れる音も、宿の下で水を汲む桶の音も、誰かを追う音ではなかった。人が生きるための音。今日も朝が来たと確かめる音。街そのものが急ぐ理由を持っていない朝。


 俺は寝台の縁に座っていた。


 左の掌を、聖剣の鞘に当てている。


 白銀の鞘は、寝起きの手に硬かった。革紐の縁が指の腹に触れて、そこだけがわずかにざらつく。金具は冷えきってはいない。部屋の空気と同じ温度に馴染んでいる。旅装の匂いと寝具の麻の匂いの中で、聖剣だけが静かに腰の高さにあった。


 剣身の温度は、伝わってこない。


 三日続いた沈黙が、今朝も続いていた。


 俺は手を離した。掌の中に残ったのは、鞘に触れていた形だけだった。温度ではない。重さでもない。ただ自分の指がどこに置かれていたかという記憶が、皮膚の上に薄く残る。


 立ち上がると、床板が小さく鳴った。


 窓の障子を半分開けた。薄曇りの光が部屋に流れ込む。光は寝台の上で止まっていた。敷布の皺を白くして、それ以上は進まない。動かない光だった。


 光神の象徴だと、教義書には書かれている。


 朝の光は世界を照らす。正しい道を示す。闇を払う。何度も読んだ言葉だ。孤児院の礼拝堂で、カイの隣に座って聞いた言葉でもある。まだ背が低かった頃の俺は、光が差し込む窓を見上げていた。光があれば道は見えるのだと、その頃はただ信じていた。


 今朝の光が、俺の鞘の上に落ちている。


 ただしそれだけだった。


 隣の部屋から、カイの祈祷の声が薄く届いていた。


 低く穏やかな声だった。慇懃な抑揚があり、言葉の終わりが細く整っている。聖オルヴェリス教会の朝の祈り。三日続けて、カイは朝の祈祷を欠かしていない。中央大陸を出てからも、嵐の夜でも、負傷者の手当てで眠れていない朝でも、カイは同じ時間に祈る。


 今朝の声は、普段より一音だけ低い気がした。


 気のせいかもしれない。


 俺は水差しの水で顔を洗った。冷たさが目の奥に入る。髪を手櫛で整え、白を基調とした旅装に腕を通した。革鎧の留め具を順に掛ける。胸元の銀の紋章を指で一度確かめると、金具は朝の空気を受けてかすかに冷えていた。


 聖剣を腰の左に下げた。


 深紅のサッシュを巻き直す。左から斜めに落ちる布が、鞘の重みを支える位置を探す。何度も繰り返した動きだ。手は迷わない。けれど今朝の深紅は、薄曇りの中で一段沈んで見えた。燃える色ではなく、濡れた布のような色。


 部屋を出る前に、もう一度だけ鞘を見た。


 何も返ってこなかった。


 廊下に出ると、カイの部屋の戸が開いていた。


「レオン」


 カイが祈祷の体勢から戻って、俺の方を見た。白い祭服の襟元に薄い金の刺繍が見える。胸元のロザリオは、まだ指先の熱を残しているように揺れていた。茶色の瞳が穏やかに俺を捉える。


「ああ」


 声は普通に出た。


「今日は、海守り衆の詰所ですか」


「ああ。お前も来てくれるか」


「ええ」


 カイはそれだけ言って、戸口の脇に置いていた布袋を肩に掛けた。薬草と包帯の入った袋だ。どこへ向かうにも、カイはそれを持っていく。戦闘のためではない。誰かが倒れた時のためだ。


「回り終わったら、商家連合ですね」


「ああ」


 三日連続で同じ問いと同じ答えだった。ただし行き先が変わっていた。一日目は商家連合。二日目は港湾の漁師組合。三日目の今日は海守り衆の詰所。回り終わったら、また商家連合に戻る。


 三日目の朝の決まり事だった。


 俺たちは宿を出た。


──────────────────────────────


 ヴェラーナ港の朝の街は、薄曇りの光に穏やかに満ちていた。


 石畳の通りに人影は多くない。漁師は既に港に出ている。商家の早朝の業務はまだ始まっていない。住民は宿の朝餉の最中だ。どこかの台所から焼いた魚の匂いが流れてきて、潮の匂いと重なった。


 街そのものが、急ぐ理由を持っていない朝だった。


 俺たちは北へ歩いた。宿の前の通りを抜け、港湾沿いに出る。桟橋には小型船が幾つも並び、帆柱が薄い空に線を引いていた。縄を結ぶ男が手を上げる。俺が会釈を返すと、その男はすぐに自分の作業へ戻った。


 勇者一行が通っても、街は止まらない。


 それがいいことなのか、悪いことなのかは分からなかった。


 カイは俺の半歩後ろを歩いている。足音は柔らかい。旅靴の底が石畳を叩く音にも、神官の所作が残っていた。胸元のロザリオは服の下に隠れているが、時々小さく触れる音がする。銀が布に擦れる音。祈りの名残。


 海守り衆の詰所は、港湾の北側にある。


 歩いて十五分。石組みの建物。海守り衆の紋章が掲げられた門。潮風を受けて濃くなった石壁には、古い傷と補修の跡が見える。海に近い建物の顔だった。三日目の朝の道は、もう何度も歩いた道でもある。


 一日目にも前を通った。二日目にも遠くから見た。


 その時は、まだ別の手があると思っていた。


 詰所の門の前に、海守り衆の若手が二人立っていた。どちらも若いが、立ち方に揺れがない。肩の力は抜けている。けれど目は海の方を外していない。剣士の立ち方とは違う。海を見る者の立ち方だった。


「光神のご加護を」


 カイが慇懃に挨拶した。


「ご無事で」


 若手の一人が短く返した。


 礼節の枠の中の温度だった。教会の祈りとは違う。海守りの言葉は、波に向けて置かれるように短い。それでも相手を拒む響きではなかった。


「担当の方に、お話を伺いたい」


 俺は短く告げた。


「少々お待ちください」


 若手はそれだけ言って、詰所の中に入っていった。


 残った一人は門の前に立ったままだった。俺たちの方角を見ていない。海面の方角を見ている。海鳥の動きを読んでいる。船の出入りを見ている。風の変わり目を見ているのかもしれない。


 俺たちを表で待たせる。


 それが今朝の応対だった。


 俺は門の前で立ち止まった。カイも俺の半歩後ろに静かに並ぶ。背後の通りを荷車が一台通った。車輪が石の継ぎ目で跳ねて、乾いた音を立てる。荷台には樽が積まれていた。魚油か、塩漬けか。潮と油の匂いが一瞬だけ強くなる。


 待たされる時間の始まりだった。


 港湾の音が、相変わらず穏やかに続いていた。海鳥が一羽、詰所の屋根の上を旋回した。翼の白が薄曇りの中で鈍く光る。漁師の小型船が一艘、桟橋から離れていく。船尾で男が縄を巻き取り、舳先で別の男が手を振った。


 海守り衆の中堅戦闘員が一人、詰所の門の前を通り抜けた。俺たちには軽く目礼するだけで、別の方角に歩いていく。腰に巻いた索具が歩調に合わせて揺れていた。誰も急いでいない。


 俺だけが、急いでいる。


 左手が、聖剣の鞘に触れた。


 指が先に動いた。考えるより早かった。鞘の白銀に革手袋越しの感触が伝わる。硬さ。滑らかさ。金具の位置。すべて知っている。けれどその奥から来るはずのものは、今朝もない。


 応えはない。


 俺は手を離した。


 カイがロザリオを胸元で握り直した。短い祈祷の所作だった。口は動かない。ただ指先だけが動く。親指が小さな紋章の縁をなぞり、すぐに止まった。祈りの言葉を声にしない時のカイは、いつもより静かに見える。


 時間が、過ぎていった。


 五分か、十分か。


 短い時間ではないが、長い時間でもない。礼節の枠の中の、ちょうど断りきれない長さの時間だった。相手が遅れているわけではない。こちらを追い返しているわけでもない。けれど扉は開かず、俺たちは門の外にいる。


 あの朝の桟橋では、船はすぐ動いた。


 声が出て、返事があり、縄が解かれた。船が海に出た。すべてが一息で繋がっていた。今は違う。言葉は礼節の中を進み、手続きの前で止まる。足は石畳の上で止まる。海だけがそこにある。


 担当の海守り衆が、ようやく出てきた。


 中堅の戦闘員、五十代の男だった。海守りの戦闘服を着ている。布地は使い込まれているが乱れていない。海守りの索具を腰の右に巻き、手は空いている。いつでも結べる手だと思った。縄でも、関係でも、境目でも。


 視線は穏やかだった。


 ただし冷たい。


 礼節の核を持っている人物の温度だった。拒絶ではない。怒りでもない。相手を立てたまま線を引く者の眼だ。


「お待たせいたしました。海守り衆のサーガと申します」


「聖教会から派遣された勇者一行のレオン・ソルです。神官のカイ・グレイスが同行しております」


「お話を、伺います」


 サーガは門の内側で立ち止まった。中へ促さない。外で話を終えるつもりだ。俺はそれを見て、息を一つだけ整えた。


「船を、お借りしたい。マリヴェルの蒼凪殿の追跡のためです」


 サーガは俺の方を一度見た。


 視線が一瞬、聖剣の鞘の上で止まる。


 それから視線を俺の眼に戻した。


 俺の掌がわずかに強張った。鞘の上に手は置いていない。だが、そこに見られたという感覚だけが腰の左に残る。聖剣を持つ者として見られたのか。応えていない剣を下げる者として見られたのか。サーガの眼は、どちらとも言わなかった。


「申し訳ありません」


 サーガは静かに言った。


「海守り衆の船は、海守りの依頼で動きます。教会派遣の方の依頼につきましては評議会を通していただく必要がございます」


「評議会の手続きは、どのくらいかかりますか」


「最短で三日、長ければ十日でございます」


 三日。


 言葉が胸の内側で止まった。


 ここまでの三日と、これからの三日が繋がる。桟橋の朝から数えた三日。沈黙が続いた三日。さらに待つ三日。長ければ十日。その数字は刃ではない。だから痛みとしては来ない。ただ鈍く置かれる。石のように。


「他の手立ては」


「商家連合経由でのご依頼、または漁師組合への直接のご依頼。どちらも海守り衆の判断とは別系統でございます」


 サーガの声に、感情の揺れはなかった。礼節の核が完璧だった。言葉は整っている。こちらが踏み込める隙間は少ない。少ないのに、まったくないわけではない。その少しの隙間が、逆に踏み込ませる。


「現在、海守り衆の船は」


 俺はもう一段、踏み込んだ。


 サーガの瞼がわずかに下がった。迷いではない。答える範囲を測る所作だった。


「サルヴァトーレ家の海守りの当代が同行されているご依頼があり、長期で出払っております」


 サーガはそう言った。


 俺の左手が、聖剣の鞘の上で止まった。


 サルヴァトーレ家の海守りの当代。


 あの方の名だった。


 三日前の桟橋で凛とした声で「船を出してください」と告げた青年。あの声は、港の風に散らなかった。海守り衆の若手の船員が即座に応えた声も覚えている。迷いのない返事。綱が解ける音。板が鳴る音。船腹を波が叩く音。


 船は出航した。


 あの依頼が、いま長期で続いている。


 俺は表情を動かさなかった。


 サーガの眼は静かにこちらを見ている。カイは半歩後ろで何も言わない。港湾の音は途切れない。詰所の屋根の上で海鳥がもう一度鳴いた。どれも、さっきと同じ朝の音だった。


「他に、ご依頼の方法は」


 俺は普段の温度で問い直した。


「評議会、商家連合、漁師組合。三つの経路がございます。海守り衆として、どの経路にもご依頼の通りに対応いたします」


「分かりました。商家連合に伺います」


「光神のご加護を」


 サーガは慇懃に礼をした。海守り衆の男が、教会の言葉で俺たちを送り出す。その礼はきれいだった。けれど門は開かない。


 俺たちは、詰所の門から離れた。


 カイが、俺の半歩後ろで何も言わなかった。


 歩きながらロザリオを胸元で一度握り直した。それだけだった。俺はその音を聞いた。銀が布に触れる、小さな音だった。問いでも、慰めでもない。カイがそこにいるという音。


──────────────────────────────


 商家連合の支部の建物は、港湾近くの白い石造りだった。


 白い石は薄曇りの下で、明るいというより乾いて見えた。窓枠は磨かれている。入口の金具も新しい光を返している。港町の商人たちが客を迎える顔だ。海守り衆の詰所が潮に耐える建物なら、こちらは人の目に耐える建物だった。


 三日前の夜、ここの正面玄関が内側から吹き飛んだ。


 先日の事件の現場だった。


 瓦礫の処理は既に終わっていて、扉も新しく付け替えられている。焦げた木の匂いも、割れた石の粉も、表には残っていない。新しい扉はまだ色が若い。周囲の石壁に比べて、木目だけが少し浮いている。


 商家連合の動きは速かった。


 早い処理は、隠したいものがあるときの動きの速さでもある。


 俺は扉の前で一拍止まった。


 あの夜の音が、頭の奥で短く戻る。人の声。崩れる音。風に混じった粉塵。灯りが揺れて、誰かが名を呼んだ。けれど目の前には、何もなかったような扉がある。事件は閉じられた形で立っている。


 カイが隣で黙っていた。


 俺たちは正面玄関から入った。


 中はよく磨かれていた。床石に曇りはない。壁際には商家連合の印が入った布が掛けられている。受付の卓の上には書類が整然と積まれ、砂時計が静かに落ちていた。香の匂いが薄く漂う。血や焦げではなく、客を迎えるための匂いだ。


 受付の女性に、支部長との面会を申し入れた。


「お待ちください」


 短い時間、待たされた。


 海守り衆の詰所より、一段短い時間だった。商家連合の方が、礼節の温度が表面的に丁寧。相手を待たせすぎない。けれど奥へ通すわけでもない。見える場所で待たせる。見せたいものだけを見せる。


 待っている間、俺の視線は床の継ぎ目に落ちていた。


 新しい石が二枚、入口近くに入っている。周囲より白い。そこにあった破損が何だったのかは、もう分からない。分からないようにしてある。商家連合の手は、見せるものを整える手でもある。


 支部長が、奥の部屋から出てきた。


 四十代の女性。商家連合の支部長の正装。今日は雨外套を羽織っていない。生地の濃い上着に、細い金具が並んでいる。先日の夜の事件の現場で出会った人物だった。商人としてのキレが、立ち方に出ている。


 背筋はまっすぐだった。


 足の置き方に無駄がない。笑みはある。けれど眼は計っている。こちらの言葉の重さ。持っている権限。引き出せる情報。渡してよい範囲。そのすべてを、一呼吸の間に並べている眼だった。


「勇者一行の方々、ご来訪ありがとうございます」


「マリヴェルの蒼凪殿の件で、ご協力をお願いしたい」


 俺は短く告げた。


「ご懸念は、承知しております」


 支部長は冷静に返した。


「商家連合は中立を保ちます。先日の事件は内部の問題として処理しております。特定の方の追跡につきましては、お手伝いできる範囲を超えております」


 言葉はなめらかだった。


 中立。内部の問題。処理。範囲を超える。


 どれも壁を作る言葉だった。壁は荒くない。むしろ磨かれている。こちらが手を掛けても、指が滑る。


「事件の経緯について、再度の確認を」


「先日お伝えした通り、内部の問題でございます。事件の詳細につきましては商家連合の管轄として処理し、結審しております」


「結審、と」


 俺はその言葉を反芻した。


 舌の上に、硬い響きが残った。終わったという意味だ。少なくとも、彼女たちの中では終わったことにしている。何が起きたのか。誰が何を知っているのか。何を表に出さないのか。それらをまとめて蓋をした言葉。


「左様でございます」


 支部長の眼が、一度だけ俺を捉えた。


 商家連合の隠匿の核が、その視線の中にあった。何かが沈んでいる、それは確かだった。だが手は届かない。沈んでいるものは、海の底の荷ではない。商人たちの帳簿と約束と沈黙の奥にある。


 商人としての作法の中で、彼女は俺の手の届かない場所に立っていた。


 俺は拳を握らなかった。


 左手は鞘の近くにある。そこに力を入れれば、誰にでも見える。だから手は開いたままにした。聖剣は腰にある。けれどここで抜くものではない。抜いたところで、この扉は開かない。


「西の海域への航路情報を、お借りすることは」


 俺は別の角度から踏み込んだ。


 支部長の笑みが薄く変わった。断る準備ではない。既に断る言葉を持っていた者の顔だった。


「商家連合の航路情報は、商家連合の独自の財産でございます。教会派遣の方への共有は評議会を通していただく必要がございます」


「評議会の手続きは」


「最短で三日、長ければ十日でございます」


 海守り衆と同じ答えが、商家連合からも返ってきた。


 評議会の壁が、二重に立ちはだかった。


 同じ数字だった。三日。十日。朝に聞いたばかりの長さが、別の口からもう一度置かれる。数字は偶然ではない。街の仕組みがそうなっている。俺たちが外から来た者である以上、その仕組みの外側に立っている。


「ありがとうございました」


 俺は短く礼を返した。


 支部長は慇懃に礼をした。


 その礼に乱れはなかった。こちらを追い返す礼でもない。迎え入れる礼でもない。必要な距離を保つ礼だった。


 俺たちは、商家連合の支部から離れた。


 通りに出ると、薄曇りの光が相変わらず穏やかに広がっていた。商家連合の建物の白い壁が光の中で一段沈んで見える。新しい扉の木目が、光に薄く照らされていた。三日前の夜の破壊の跡は、もうほとんど見えなかった。


 見えないことが、残っている証拠に見えた。


 通りでは、昼の支度が始まっていた。店先に布を出す商人。樽を転がす若者。水桶を抱えた女。誰も支部の扉を見ない。もう終わったものとして、街の中に戻されている。俺たちだけが、そこにまだ夜の形を見ている。


 カイが、俺の隣で短く言った。


「商家連合は、何かを抱えていますね。あの方々も、苦しいのかもしれません」


「ああ」


 カイの声には責める響きがなかった。支部長の眼を見ても、まず苦しさを受け取る。カイはそういう男だ。俺はその声を聞きながら、新しい扉の木目をもう一度見た。


「ヴァローも、同じことを言っていました。観察できる範囲ではまだ手が届かない、と」


「ああ」


 俺は短く返した。


 それ以上の言葉は、二人とも口にしなかった。


 言えば、何かの形になる。形になれば、次の言葉が必要になる。けれど今あるものは、支部長の視線と新しい扉と同じ数字だけだった。俺たちはそれを持ったまま歩くしかない。


 歩く道は、昼下がりの薄曇りの中で続いていた。


 光が石畳の上に静かに落ちていた。人の影は短くも長くもならない。雲が太陽を覆っているせいで、街全体が同じ薄さの中に沈んでいる。俺の影も、カイの影も、輪郭が柔らかかった。


──────────────────────────────


 夕方、俺たちは宿の食堂で四人で集まった。


 宿の食堂は港町の小さなもので、夕方の客は少ない。壁には古い網が飾られている。窓際には海風で色の抜けた木の鉢が置かれていた。主人が俺たちのために、一つの卓を空けてくれている。


 海守り衆向けの素朴な料理が並ぶ。


 焼き魚、塩漬け、海藻の汁物、麦の固いパン。


 湯気が薄く立ち上がっていた。焼き魚の皮は少し焦げている。塩漬けの皿には小さな木匙が添えられていた。汁物には細い海藻が沈み、湯気と一緒に磯の匂いが上がる。旅の食事としては十分だった。


 ヴァローが灰色のローブの裾を払って椅子に座った。


 月読みの魔導書を膝の上に置いている。革装の表面は旅の埃で少し白くなっていた。ヴァローは指先でその埃を一度払った。表情は変わらない。だが本を置く動きだけは丁寧だった。


 ガイウスが盾を背負ったまま入ってきた。


 椅子に座る前に、山岳地方の毛皮のマントを一度寄せる。港町の湿気を吸って、毛皮はいつもより重そうに見えた。ガイウスはそれを気にする顔もせず、卓の前に座った。背中の盾が椅子の背に低く当たる。


 カイは食堂に入った瞬間にロザリオを一度握り、それから手を膝に戻した。


 四人が揃った。


 宿の主人が水を置いていく。俺が礼を言うと、主人は軽く会釈して厨房へ戻った。食堂の隅では、港の男が二人だけで静かに酒を飲んでいる。笑い声は小さい。夕方の食堂は、昼の喧騒を終えた後の息をしていた。


 俺は焼き魚に箸をつけた。


 皮を割ると、湯気が小さく上がる。白い身がほぐれた。箸を動かす手は、いつも通りだった。腹は空いているはずだった。朝から歩き、話し、断られ、また歩いた。体は食べ物を求めている。それでも口に運ぶまでに、一拍かかった。


「武器商街の方は」


 俺はガイウスに短く問うた。


 ガイウスは水を一口飲んでから答えた。


「武器商主、鍛冶屋、港警備。三軒回ったが、新しい話はねえ」


 低い声だった。いつも通りの短さだ。報告の中に飾りがない。どこへ行き、何がなかったか。それだけが卓の上に置かれる。


 ガイウスは焼き魚の身を一切れ取った。


「アズリウムの流出経路も、商家連合の深部に手は届かねえ。山の方がマシだ」


 最後の一言は、自分への独白に近い温度だった。


 ガイウスは塩漬けに箸を伸ばした。塩気の強い欠片を口に入れ、ゆっくり噛む。海の食べ物を好んでいる顔ではない。けれど残す顔でもない。山の男は、出されたものを実用として食べる。


「武器商主は何か隠していたか」


 俺は聞いた。


 ガイウスは首をわずかに横へ振った。


「隠すほどの腹はなさそうだった。怖がっちゃいたがな」


「何をだ」


「商家連合だろうよ」


 それだけ言って、ガイウスは汁物に口をつけた。熱かったのか、眉がわずかに動く。すぐに表情は戻った。余計な説明はない。だがそれで十分だった。港の武器商街にも、同じ壁が伸びている。


「塔の記録は」


 俺はヴァローに視線を移した。


「読み切れていません、まだ」


 ヴァローは灰色のローブの肩を一度払った。


「賢者殿の権能の体系について、塔の記録と照合を進めています。私の知る限り、海神代行者という体系は塔の記録の外。先日のご証言を踏まえても、もう一段の材料が要ります」


 ヴァローは麦のパンを一切れ取った。固いパンを指で割る音がする。彼はその断面を一瞬だけ見てから、皿の端に置いた。食事をしている時でも、ヴァローは何かを観察しているように見える。


「近い記録もないのか」


「近いだけなら幾つかあります」


 ヴァローは水を飲んだ。


「けれど近いという言葉は危うい。月と灯火はどちらも夜に見えますが、同じものではない」


「結論を急ぐな、か」


「ええ。言うまでもなく」


 いつもの調子が少しだけ戻った。皮肉というほどではない。ヴァローが自分の位置を確認する時の言い方だった。


 彼は続けた。


「商家連合の深部の隠匿も、観察の範囲を超えています。何かを抱えていることは確かです、ただそれ以上は読めません」


「分かった」


 俺は短く返した。


 分かったと言っても、何かが進んだわけではない。分かったのは、分からない場所の形だけだ。海守り衆。商家連合。漁師組合。武器商街。塔の記録。全部が別の方向から同じ場所を指して、そこで止まっている。


 カイは食事に手をつけていなかった。


 海藻の汁物の湯気を、静かに見つめていた。湯気は細く上がり、途中で崩れて消える。カイの茶色の瞳は、その消え方を追っているように見えた。祈りの時とは違う沈黙だった。


 それから、ロザリオを胸元で一度握り、汁物に口をつけた。


「熱いか」


 俺は思わず聞いた。


 カイは器を置いて、柔らかく首を振った。


「大丈夫です」


 それだけだった。


 大丈夫という言葉は、食べ物の熱さだけを指しているのかもしれない。そうでないのかもしれない。俺はそれ以上聞かなかった。


「明日、評議会に陳情を出す」


 俺は短く告げた。


「最短で三日、長くて十日。それでも、待つしかない」


 カイが俺を見た。


「ええ」


 短い返事だった。


 ヴァローが灰色のローブの裾を一度払った。


「評議会の手続きは、必要でしょうね。並行して商家連合の深部の観察を続けます」


「ああ」


「ただ、期待はしない方がいい」


 ヴァローはパンを手に取ったまま言った。


「手続きは道であると同時に、止めるための柵でもあります」


「分かっている」


 俺の声は低くなりすぎなかった。


 ガイウスは何も言わなかった。塩漬けを噛みながら、視線を卓の縁に落としていた。山の方がマシだ、という独白をもう一度内側で繰り返している顔だった。


 四人で食事を続けた。


 会話は、それ以上は続かなかった。


 焼き魚の骨が皿の端に残る。麦のパンは固く、噛むたびに顎に力がいる。汁物の湯気は少しずつ薄くなった。カイはゆっくり食べている。ヴァローは時々魔導書の表紙に指を置く。ガイウスは黙って食べる。


 俺は箸を持ったまま、卓の上の光を見ていた。


 宿の食堂の油皿の灯りが、夕方から夜の質感に切り替わる時間だった。窓の外の港湾が夕暮れの薄い橙に染まる。橙の光が卓の上で止まっていた。色だけが穏やかに沈んでいる。


 街はまた、急がない夜に入っていく。


 俺たちだけが、昼の続きにいた。


「レオン」


 カイが小さく呼んだ。


「何だ」


「無理はしないでください」


 カイの声はいつも通りだった。柔らかい。押しつけない。けれどその言葉だけで、俺がどこかを強く握っていることを知っている声だった。


「ああ」


 それ以上は言わなかった。


 俺は焼き魚を半分残して、箸を置いた。


「先に部屋に戻る」


「ええ」


 カイが短く返した。


「お休みなさい、レオン」


 ヴァローも灰色のローブの裾を一度払った。


「明日も、観察を続けます」


「頼む」


 ガイウスは短く頷いた。


 その頷きだけで、明日も動くという意味になる。ガイウスの言葉は少ない。けれど席を立つ時、背負った盾の重さが静かに鳴った。あの盾があるから、俺は前に出られる。それは分かっている。


 俺は食堂を出た。


 階段を上がる足音だけが、宿の廊下に響く。


 途中で一度、下の食堂からカイの低い声が聞こえた。言葉までは分からない。ヴァローが短く返す。ガイウスの椅子が軋む。仲間たちはまだ卓にいる。俺だけが、先に夜へ入っていく。


──────────────────────────────


 宿の自室の窓辺に、俺は立っていた。


 夜の薄曇りの先で、月が出ている。月光が窓の障子を半分開けた隙間から差し込み、床の縁を白く照らす。月相は満月過ぎ。下弦に向かっている。半月までは届いていない。それでも光は十分に強い。


 月光は窓辺の床の上に静かに落ちていた。


 昼の光より冷たい。けれど弱くはない。床板の傷を白く浮かせ、椅子の脚の影を細く伸ばす。障子の桟が影を作り、床に四角い枠を置いていた。部屋の中に小さな窓がもう一つできたようだった。


 俺は窓辺の椅子に座った。


 聖剣を膝の上に立てかける。


 鞘の白銀が月光の中で薄く光っていた。昼の薄曇りの下で見た時より、輪郭だけがはっきりする。柄の光神オルヴェリスの紋章も、細い線だけが見えた。剣身は、鞘の中で黙ったままだった。


 俺は左手を、鞘の上に置いた。


 応えはない。


 三日続けて、応えない。


 今夜も応えない。


 俺は手を離した。それから、もう一度置いた。掌の角度を変える。指の位置を変える。鞘の中央から鍔元へ移す。どこに触れても同じだった。白銀の鞘は、ただそこにある。神器の形をした静かなものとして、俺の膝に重みを預けている。


 応えはない。


 手を離して、窓の外の月光の海を見た。


 海面に月光の筋が一本通っていた。海そのものは穏やかだった。波の山も立たない夜だった。港の沖に並ぶ船の影が、黒く低く浮かんでいる。縄の音はここまでは届かない。ただ光だけが、海の上に細い道のように伸びている。


 街の音は、遠かった。


 夜回りの足音、海鳥の声、波の音。


 すべて穏やかな音だった。急いでいる音は、どこにもない。朝と同じだった。街は朝も夜も、俺の内側の速さとは別の速さで動いている。急いでいない。止まってもいない。ただ続いている。


 鞘の温度は普段通りだった。


 冷たくも温かくもない、ただの鞘の温度。


 剣身が応えていれば、ここに薄い温度が伝わる。


 三日前の夜まで、それは時々伝わっていた。あの夜から、伝わっていない。


 その薄い温度を、俺は何度も確かめていた。戦いの前。祈りの後。長い移動の夜。仲間が眠った後の火のそば。いつも明確だったわけではない。声が聞こえるわけでもない。ただ鞘の奥で、火種のようなものが残る時があった。


 それが、今はない。


 俺は聖剣を見た。


 この剣を受け取った日の礼拝堂を思い出した。高い天井。白い石。光神オルヴェリスの紋章。司祭たちの声。孤児院から連れてこられた俺は、膝をつき、両手で聖剣を受けた。重さに腕が沈みそうになった。だが顔は上げた。


 見ている人が多かった。


 カイもいた。少し後ろで、祈る手を強く握っていた。俺が振り返った時、カイは笑っていた。泣きそうな顔でもあった。その顔を見たから、俺は立ち上がれた。


 あの日から、剣の重さはずっと腰にある。


 窓の外の月光の海を、もう一度見た。


 海面の月光の筋が、一筋だけ揺れた。海鳥が水面の近くを飛んだのかもしれない。あるいは小さな魚が跳ねたのかもしれない。揺れはすぐに戻った。月光がまた動かなくなった。


 動かない光。


 朝の寝台に落ちていた光も、同じだった。


 俺は窓辺の椅子に座ったまま、しばらく月光の海を見ていた。


 聖剣は膝にある。重い。だが戦いの重さとは違う。抜けば振れる。走れば支えになる。けれど今の重さは、動きの中で消えない種類のものだった。膝の上に置いているだけで、腿の筋肉がじわりと疲れる。


 俺は聖剣を寝台の脇に立てかけた。


 鞘の先が床に当たって、小さな音を立てる。その音は部屋の中で短く終わった。手を離すと、聖剣は暗がりの中で静かに立った。月光はそこまで届いていない。白銀の鞘は、光を失うと壁の影に近い色になる。


 寝床に入った。


 月光が寝台の縁まで届いている。動かないまま。


 寝具の麻の布は少し硬かった。肩に掛けると、昼の潮気を含んだような匂いがする。宿の洗い場の石鹸の匂いも混じっていた。俺は仰向けになり、天井を見た。


 長い時間、見ていた。


 天井の木目は、昼には気にしたこともない形をしている。節の黒いところが小さな穴に見えた。梁の影が部屋を横切っている。月光の届かない場所は、ただ黒い。目が慣れても、黒は黒のままだった。


 宿の廊下の足音は、もう聞こえない。


 隣の部屋のカイの祈祷の声も聞こえない。


 三日目の夜が、静かに更けていった。


 明日、評議会に陳情を出す。最短で三日、長くて十日、それでも待つしかない。海守り衆の船は、あの方の依頼で長期に出払っている。商家連合の深部は、観察の範囲を超えている。塔の記録は読み切れていない。


 並んでいるのは、事実だけだった。


 事実は便利だ。形がある。口にできる。仲間に伝えられる。紙に書ける。評議会へ提出できる。けれど事実は、胸の奥に沈んだものの名前にはならない。名前にならないものは、声にできない。


 俺は天井を見たまま、目を閉じなかった。


 月光が薄い銀色の筋として、寝台の縁にまだ届いていた。その筋は少しずつ動いているはずだった。夜が進めば、月も傾く。けれど見ている間は動かない。時間が進んでいることだけが分かり、光そのものは止まって見える。


 聖剣の鞘の方角に、視線を一度動かした。


 鞘は暗がりの中で立てかけられたままだった。月光は鞘の上には届いていなかった。


 俺は視線を天井に戻した。


 窓の外で海鳥が一度鳴き、それから静かになった。寝具の麻の布が、肩のあたりで薄く擦れる音を立てる。月光の銀の縁が、夜の進みに合わせて少しずつ寝台の縁から退いていく。


 夜は、まだ更けきっていなかった。

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