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群青幻想  作者: 滄龍 青司
CantoⅠ
20/57

夜に踏み越える

 雨は、夕方のうちに俺が読んでおいた。


 南西の海域から湿った空気が押し上がっていた。昼の終わりにはまだ雲の腹が白かったが、風の向きと気圧の沈み方は夜に降る形を取っていた。賢者なら半日前に分かる。俺はそれをヒュウマに短く告げて、夜まで待った。


 雨は街の音を一段薄くする。波の音は港の奥へ退き、住民の声は屋内に戻る。夜回りの足音は石畳に吸い込まれ、灯りの下だけが濡れた革のように光る。潜入には適した夜だ。雨を選んで動くのは、計算の一部だった。


 宿の二階の角部屋で、俺は海溝晶をベルトの内側に締め直した。白と青のローブの前は雨外套で覆う。胸元のプラチナの首飾りが肌に冷たく触れた。雨の匂いが窓枠の隙間から入り、部屋の油と木材の匂いを薄めていた。


 ヒュウマは潮鎚を背中に下ろし、海守りの索具を腰に巻いた。深い藍と砂色の戦闘服の上から革ベルトを一段絞る。左耳のプラチナのピアスが灯りを受け、雨の前の薄い光を小さく返した。雨外套は二人分、宿の主人から借りておいた。


「蒼凪さん」


「ん」


「俺たちは、間違ってないですかね」


 ヒュウマの声は普段より低い。海守りの当代としての声ではなく、十八の若さが奥に沈んだ声だった。俺は窓の外の雨の街を一度見てから、ヒュウマの方に視線を戻した。


「正しくはない。ただ、必要だ」


 言い切った瞬間、部屋の空気が少し重くなった。正しさという箱に入らない行為を選ぶ。俺はそれを分かっていた。ヒュウマも分かっていた。だからこそ、ここで軽い言葉は使えない。


 ヒュウマは短く頷いた。それで決意は確定した。ヒュウマの頷き方がいつもより一拍だけ深かったのを、俺は認識した。ヒュウマも「線を越える」感覚を、俺と共有している。


 俺は雨外套のフードを上げた。赤い髪が布の内側に収まり、視界の端が暗く狭まる。雨に濡れた街では、それくらいがちょうどいい。


「行こう」


「ええ」


 宿の階段を下りた。木の段は夜気を含んでわずかに軋む。女将は既に寝ていた、夜の街には誰もいない。雨の音だけが石畳に降りていた。


──────────────────────────────


 ヴェラーナ港の商家連合支部は、港湾近くの白い石造りの建物だった。


 先日俺が支部長と会った場所と、同じ建物だ。あの時は午前の光が建物の白さを際立たせていた。今夜は雨で、白い壁が一段沈んだ灰色に見える。窓枠の影も濡れて濃く、正面の灯りは消えていた。


 深夜の警備員が一人か二人、内部にいる気配だけが感じられた。支部の周りは港湾倉庫の匂いが濃い。濡れた麻袋、縄、古い木箱、海水。雨がそれらをまとめて平らにしている。


 俺は《潮見》で建物の輪郭を一拍読んだ。警備員の位置、書類庫の方角、退路の選択肢。午前の訪問で見た廊下の幅と階段の角度が頭の中で重なる。書類庫は二階の奥、商家連合の支部記録が保管されている部屋だ。


「裏口から入る」


 俺は短くヒュウマに告げた。


「ええ」


 ヒュウマは雨外套の裾を片手で押さえた。潮鎚の柄が外套の背に硬い線を作る。足運びは海守りのそれで、濡れた石畳でも音が立たない。雨の音が、俺たちの足音を一段薄くしてくれていた。計算の通りだった。


 裏手の路地は狭かった。壁と壁の間で雨が細く落ち、地面に溜まった水が靴底を浅く濡らす。裏口の金具は潮風で鈍く傷んでいたが、鍵の芯はまだ生きている。


 裏口の鍵は《滴見》で構造を一拍読んでから、海溝晶の指先で外した。賢者の手の動きは、市井の鍵には届きすぎる。小さな金属音が雨に消えた。罪悪感が一瞬、胸の奥で動いた。それを俺は地の文の隅に押し込んだ。今夜は罪悪感を抱える夜じゃない、線を越える夜だ。


 裏口から建物の内部に入った。冷えた石の匂いと乾いた紙の匂いが混ざっている。ヒュウマが後ろで戸を一拍押さえて閉めた、雨が入らない動作で。手首の返しが静かだった。海守りの所作だった。


 階段を上がる。木の手すりは磨かれていて、商家連合の支部らしく手入れは行き届いている。二階の廊下に、警備員の足音は届かない。外の雨が屋根を叩く音だけが、上から薄く降りていた。


 書類庫は廊下の奥、扉に商家連合の紋章が刻まれている。商いと航路を示す形。表向きは港の秩序を支える印だ。今夜の俺には、扉を閉ざす飾りにしか見えなかった。鍵は、これも海溝晶の指先で外した。


 書類庫の扉を開けた瞬間、紙と埃の匂いが顔を撫でた。


 棚が壁を埋めている。航海記録、取引記録、評議会の議事録の写し、地域の地図、その他多数。革紐で綴じた束と蝋で封じた筒が並ぶ。湿気を避けるための香草が隅に吊るされていて、古い紙の匂いに苦味を足していた。


 賢者の眼で見ても、すべてを確認するのは一晩では届かない。棚の量が問題ではない。嘘と正しい数字が混ざっている。必要なものだけを選ばなければ、時間を食われる。俺は最初から、確保するものを絞っていた。


 西の海域への航路図、それと潮流図。次の目的地に踏み込むための、必須の物品。


 棚の三段目に、海域別の地図の束が並んでいた。背表紙は色で分けられ、端に小さな記号が焼き込まれている。俺は《滴見》で背表紙の文字を一拍読んで、目的の二冊を引き抜いた。商家連合の独自の海図、外洋寄りの深い場所まで描かれた航路図。それと、潮流の細部を記した実用図。


 紙は厚く、指先に油を含んだ滑りがある。海上で使うための加工だ。余白には近年の補記が細く入っている。風の変わり目、浅瀬の移動、商船が避ける暗い海域。公に出る地図より一段実用に近い。


 確保した。


 それから俺は、棚の奥の方角を一拍読んだ。


 異教徒側との連絡記録の片鱗が、奥の棚にあるはずだった。商家連合の中央大陸との取引記録、特定の符牒、深部の派閥の動き。それを確認できれば、ヒュウマの父の死の真相にも、マリヴェル家の没落の真相にも、一段近づく。


 ヒュウマは戸口側に立ち、廊下の気配を受けていた。俺の背中を守る位置だ。潮鎚の柄に触れた手が動かない。俺は海図を外套の内側に収め、奥の棚へ進んだ。


 それが、線をもう一段踏み越える瞬間だった。


──────────────────────────────


 奥の棚の前で、俺の《潮見》が一拍硬くなった。


 物陰に、誰かが立っている。


 警備員ではない。警備員の気配は二階の廊下の手前にある、ここまでは届かない。書類庫の中に、別の人物がいる。深夜の書類庫に、警備員ではない者が一人で立っている。


 その事実だけで、輪郭は決まった。


 俺は海溝晶を掌に乗せた。深海色の明滅が、書類庫の暗がりに薄く広がった。相手の呼吸は浅い。隠れる者の呼吸ではなく、待っていた者の呼吸だった。


「マリヴェルの末裔か」


 物陰から、低い声が届いた。


 中年の男だった。商家連合の中堅商人の装束、ただし装束の下に革鎧の気配。腹回りに商人らしい緩みはない。肩の置き方と膝の沈み方が違う。商人ではない、戦闘員の体の作りだ。


 手には短い刀、青みのある鉄。アズリウム製の刀。刃の色は雨雲の下の海に似ていた。街灯のない書類庫でも、金属の沈んだ青だけは見誤らない。


 俺は内で短く呟いた。商家連合の深部に、異教徒側の手先が潜んでいる。海賊側のアズリウムの刀の経路を辿る調査の延長線が、ここで実物として立ち上がった。


 男は俺の方に踏み込んできた。


 書類庫の床板が沈む。足音は小さい。商人の靴ではなく、戦うために裏を替えた靴だ。俺は《断絶境界》で男の刀の軌道を読んだ。賢者の眼で見れば、軌道は遅い。ただし、書類庫の閉鎖空間で短刀を扱う技術は熟練している。男は戦闘員として鍛えられている。


 刀が一閃。棚の角をかすめ、乾いた紙の束が震えた。俺は半歩下がってかわした。胸元の首飾りが揺れ、冷えた金属が肌を叩く。


 書類庫の戸の方角で、ヒュウマが異変を察知して駆けつけてくる気配があった。《救い手》の感度だ。ヒュウマは遅れない。


 俺は詠唱を始めた。


 低い、深い、海の底にしか届かない言葉。喉を通る音が自分の身体の奥へ沈む。海溝晶の深海色が、書類庫の中で深く沈んでいく。書類庫の温度が一段下がる。紙の音が一拍遠くなり、雨の音が消える。


 闇が降りてきた。


 書類庫の中の光が一拍遅れて沈んだ。棚の隙間、床に落ちた細い光、男の刃に乗った青。すべてが黒に飲まれる。俺とヒュウマの感覚だけが、闇の中で届いている。男の輪郭は、俺には見える。男には、俺の輪郭が見えない。


 男が短く呻いた。位置を見失った声だった。


 ヒュウマが書類庫の戸を開けて入ってきた。潮鎚を構えている。暗さの中でも姿勢は崩れない。俺は男の位置をヒュウマに伝える、闇の中で感覚を共有する。言葉にするより早く、ヒュウマの足が動いた。


 ヒュウマが前に出た。男が刀を振った、ただし方向が外れている。刃はヒュウマの肩から半尺外を走る。ヒュウマの潮鎚が、男の刀の柄を打ち砕いた。骨に響く鈍い音が闇の中で重なる。男が膝をついた。


「動くな」


 ヒュウマの声は低かった。男は動かなかった。膝をついた男の肩だけが細かく上下している。砕けた柄の破片が床に落ち、棚の下へ転がった。


 俺は《無光》の領域を維持したまま、男の腰の小袋に手を伸ばした。革の小袋は装束の内側に半分隠れている。連絡記録の符牒、または取引記録の一部。確保できれば、と思った。


 ただし男の小袋に手を伸ばした瞬間、警備員の足音が階下から近づいてくるのが感覚に届いた。複数。雨の音の中でも届く速度だった。男が叫んでいない、ただ俺の《無光》の闇が建物の二階に漏れ始めている。雨と闇の対比が、警備員に異変を伝えてしまった。


 時間がない。


 俺は男の小袋を諦めた。指先が革に触れたところで止まる。欲を出せば失うものが増える。航路図と潮流図は確保している、それで十分だ。ヒュウマに短く告げた。


「離脱する」


「ええ」


 俺は《無光》を解除した。書類庫の闇が、一拍で薄くなる。雨の音が戻り、紙の匂いが近くなる。男は膝をついたまま動かない、ヒュウマの潮鎚の威圧で。俺たちは書類庫の戸を出た。


 廊下の警備員が、二階の階段を上がってくるのが見えた。三人。剣を抜いている。濡れた外套の匂いはない。建物の内側を守っていた者たちだ。賢者と海守りの当代を相手に、剣で立ち向かう構え。商家連合の警備員の役目を、彼らは果たそうとしていた。


 正面突破は無理だ。階段を下りるルートは塞がれている。


 俺は廊下の窓の方角を一拍読んだ。窓は二階、地面まで五メートル弱。ヒュウマの《救い手》があれば、降りられる。ただし、窓は鉄格子で塞がれている。格子を抜く時間はない。


 俺は判断した。


 正面玄関を、《重圧》で吹き飛ばす。


──────────────────────────────


 階段を駆け下りた。警備員の三人が、廊下の手前で剣を構えている。


 一人目は足を止めない。二人目は俺の右を塞ぎ、三人目はヒュウマの潮鎚の間合いを外そうとしている。訓練された動きだ。だが相手が悪い。


 俺は《断絶境界》で警備員の剣の軌道を逸らした。剣先が俺の肩を越え、壁の漆喰を浅く削る。ヒュウマが潮鎚で警備員の一人を弾き飛ばす、別の一人を肘で止める。三人目が剣を振った、俺は半歩下がってかわす。


 足元の水滴が跳ねた。誰かの靴が床を滑り、剣の柄が壁に当たる。俺の外套の裾が警備員の袖に触れた。そこで止まれば捕まる。止まらない。


 正面玄関までの数メートルを、二人で抜けた。


 玄関の扉の前で、俺は海溝晶を掌に乗せた。


 詠唱は短い。《重圧》の規模を絞る計算は、俺の中で一拍で終わった。扉と扉の周りの石壁を破壊する範囲、それより先には届かないように。建物の正面の通りは深夜で、人通りはほぼない。雨の夜の《重圧》の余波で巻き込まれる住民の数を、俺は最小限と見積もった。


 扉の厚み。金具の位置。石壁の脆い線。外へ押し出される破片の角度。頭の中で数を並べる。雨の通りに人がいないという前提を置く。置かなければ、ここで詰む。


 詠唱を完了した。


 掌の海溝晶から、深海色の波紋が一拍広がった。扉の方角に、見えない一点が降りた。


 扉が、内側に圧縮された。木材と金具と石壁の一部が一瞬でへこんで、それから外に向かって吹き飛んだ。


 低く重い破裂音が、雨の夜に響いた。


 俺とヒュウマは吹き飛んだ扉の跡を抜けて、外に出た。


 雨。石畳。建物の正面の通り。


 濡れた空気が肺に入った。屋内の紙と埃の匂いが剥がれ、港湾の塩気が鼻の奥に戻る。俺の計算は、ここまでは正しかった。


 ただし、計算しきれていなかった。


 扉の正面の通りの向こう側に、傘を差した住民が二人立っていた。男と女、夜回りの帰りらしい中年の二人。男は片手に小さな灯りを持ち、女は濡れた肩を傘の内側に寄せていた。雨の音で、俺の《潮見》が外の住民の存在を一拍読み損ねた。雨は街の音を薄くする。それは潜入の利点だったが、外の住民の気配を読む俺の感覚も一段薄める。


 《重圧》の余波で吹き飛んだ扉の破片が、住民の二人に届いた。


 男が膝をつく。傘が地面に落ちて、女が叫び声を上げて男に駆け寄った。灯りが石畳を転がり、雨で火が弱くなる。男の手が腹のあたりを押さえた。女の声は雨の夜でも消えなかった。


 俺は一瞬、足を止めた。


 ヒュウマの手が、俺の左の腕を握った。一拍だけ、強く。


 雨外套越しでも指の強さが分かった。止まるなという合図だった。救いたいという衝動を飲み込んだ手でもあった。ヒュウマの革手袋が濡れて、俺の腕の布を冷たく押している。


「蒼凪さん」


「離脱する」


 俺は短く返した。住民の方角に振り返る選択は、しなかった。ヒュウマの救援を待っている時間はない。建物の中の警備員が追ってくる、それから街の住民が騒ぎを聞きつけて集まってくる。


 俺たちは雨の中を駆け出した。


 その瞬間、通りの北側の方角から駆けてくる足音が届いた。


 複数。四人。


 俺は走りながら《潮見》で輪郭を読んだ。


 剣士の踏み込み、灰色のローブの裾の動き、白い祭服の柔らかな足音、塊のような体格の重い足音。


 勇者一行だ。


 夜の街の中で、異変を察知して駆けつけてきた。剣士、魔導士、神官、重盾の戦士。聖剣を腰に下げた若い男が先頭にいる。雨を切る走り方が速い。遅れずに続く三人の呼吸も崩れていない。


 四人が建物の正面の通りに到達した瞬間、俺とヒュウマは雨の闇の中を駆け抜けて別の通りの角を曲がった。


 四人の視線が俺の方角を向いたのを、走りながら《潮見》で感じた。


 ただし、四人は俺たちを追わなかった。膝をついた住民の方角に、剣士が先に駆け寄る。神官が続いた。白い祭服の裾が水を跳ね、膝をつく音が届く。魔導士が俺の方角を一拍だけ見つめた、観察者の眼で。重盾の戦士が盾を構えて周囲を警戒した。


 俺は走り続けた。


 雨が顔を撫でていた。頬に当たる水の冷たさだけが、妙にはっきりしている。ヒュウマの足音は横にあった。乱れていない。ただし呼吸の底に、さっきの住民の声が沈んでいるのが分かった。


──────────────────────────────


 ヴェラーナ港の街の北の外れ。海守り衆の地元の詰所からは離れた小さな路地に、俺たちは入った。


 路地の奥の石壁の影で、俺は足を止めた。ヒュウマも止まった。雨の音が、路地の中では一段濃く聞こえる。狭い壁に反響して、空から降る音と地面で跳ねる音が重なる。走った熱が胸の内側に残っていた。


「蒼凪さん」


「ん」


「住民が、傷ついた」


「ああ」


 俺は雨外套の襟元を一度握り直した。指先が冷たかった。海溝晶を扱った手の感覚が遅れて戻ってくる。掌の奥に、さっきの圧力の残りがまだある。


「俺は《重圧》の規模を絞る計算をした。住民の被害は最小限のつもりだった。ただし、計算しきれなかった」


「俺の方角は」


「見ていない、雨の音が街の輪郭を一段薄くしていた。俺の《潮見》が、外の住民の気配を読み損ねた」


 言葉にすると、事実はさらに重くなる。言い訳にはならない。計算の前提が欠けていた。欠けたまま発動した。結果として、破片が住民に届いた。


 ヒュウマは短く頷いた。それから、俺の方を見た。雨外套のフードの下で、ヒュウマの目が一拍だけ揺れていた。海守りの当代としての所作の下で、住民を救えなかった事実がヒュウマの中にも沈んでいた。


 ヒュウマは救うために動く人間だ。腕を掴んだのも、俺を止めないためだけではない。あの場で自分の足を住民へ向けなかったことを、あいつ自身が腹の中へ沈めている。


「勇者一行が、現場に来た」


 俺は短く続けた。


「俺たちが住民を傷つけた、と彼らは認識する。俺の《重圧》の発動を、彼らは目撃した。深淵側の力で住民を傷つけた賢者、と読まれる」


「商家連合は」


「事件を隠匿する可能性が高い」


 俺は内で計算を進めた。雨の音、警備員の数、書類庫の男、アズリウムの刃。頭の中で箱を分ける。表に出る事件と、消される記録。勇者一行の記憶と、商家連合の処理。


「商家連合の深部に、異教徒側との繋がりがある。書類庫で遭遇した男が、それを示している。商家連合は深部の腐敗を公にできない、事件そのものをなかったことにする処理を選ぶ。表向き、俺の名前は公的記録から消える」


「ただし、勇者一行の認識には残る」


「ああ」


 ヒュウマは短く息を吐いた。雨外套の胸元が、一拍だけ上下した。濡れた布が肩に張りつき、潮鎚の重みが背中の線を強くしている。


「俺たちは、明日の朝に出航する」


 俺は短く告げた。


「西の海域へ。航路図と潮流図は確保した。次の目的地への準備は、揃った」


「ええ」


「勇者一行が独自に追跡する可能性は高い。ただし、俺たちは止まれない」


 ヒュウマは頷いた。


「俺もです」


 短い返事だった。昨夜の俺の言葉「正しくはない、ただし必要だ」をヒュウマが受け止めて、責任を共有する声だった。


 俺は雨外套のフードを一度押し下げた。湿った布が額に触れる。呼吸を一つだけ整えた。整えたところで、胸の奥に沈んだものは消えない。


 線を越えた。一線ではなく、二線も三線も越えた。マリヴェル家の没落の真相究明への執着が、俺をここまで押した。住民を傷つけた事実は、俺の中に沈んだ。罪悪感は明日以降の俺の中で、深く重く育っていく。


 ただし、止まれない。


 西の海域に、俺たちが探していたものがある。航路図と潮流図がそれを示している。アズリウムの鉱脈、異教徒の拠点、ヒュウマの父を殺した者ども、マリヴェル家を陥れた者ども。すべてが、西の方角にある。


「行こう」


 俺は短く告げた。


「ええ」


 ヒュウマが短く返した。


 俺たちは路地の奥から、雨の街の方角に出た。詰所には戻らない。別の路地を抜けて、港湾の桟橋まで急ぐ。夜の港は荷の山が黒く沈み、雨に濡れた杭が低く光っていた。


 海守り衆の小型船が一隻、桟橋に繋がれている。出航は明日の朝だが、今夜のうちに船で待機する選択を俺は決めていた。艫にはリオンが残っていた。短く整えた髪が雨に濡れ、潮焼けの肌が灯りの下で鈍く見える。


 リオンは俺たちを見て、呼びかけずに短く頷いた。問いは飲み込んだ顔だった。海守りの若手の戦闘服の上に外套を羽織り、艫の綱を押さえている。ヒュウマが先に乗り、俺は続いた。船板が足の下で低く鳴った。


 雨が二人の影を、石畳の上で薄く撫でている。


 夜の街の南の方角で、勇者一行が住民の救援に動いている気配が《潮見》で薄く届く。聖剣の光が雨の夜に薄く灯っているのが感覚に届いた。遠い光だ。だが消えない。


 俺は振り返らなかった。


 夜は、まだ終わっていなかった。

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