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群青幻想  作者: 滄龍 青司
CantoⅠ
21/59

見過ごすことのできない

 雨の音が、宿の窓を一晩中叩いていた。


 細い雨ではなかった。硝子の外に水の幕が垂れ続けて、街灯の薄い光を滲ませている。軒から落ちる滴が途切れず、石畳の上で砕ける音まで部屋の奥に届いた。ヴェラーナ港の夜は潮の匂いを含むはずなのに、今夜は濡れた木材と冷えた石の匂いが強かった。


 俺は寝台の縁に座って、聖剣の鞘に手を当てていた。眠れない夜だった。昨日の打ち合わせから、街の輪郭が少しずつ重くなっている感覚があった。海守り衆の冷淡な対応、客員賢者の権能の質感、ガイウスが持ち帰ったアズリウムの刀の話。情報が溜まりすぎて、夜の中で整理できない。


 革鎧は椅子の背に掛けていた。深紅のサッシュだけは解かずに、腰の位置を何度も確かめた。鞘の白銀は薄暗い部屋でも鈍く見える。柄に刻まれた光神オルヴェリスの紋章へ指を滑らせると、いつもなら掌の奥で呼吸が整う。


 聖剣は普段、夜の不安を一拍だけ鎮めてくれる。鞘から薄く伝わる温度が、俺の胸の奥に届く。今夜もそれを期待して、鞘に手を当てていた。


 本物の勇者なら迷わないのかと、何度も考えた。答えは出ない。孤児院で年下たちの泣き声を聞いた夜も、旅の初日に眠れなかった夜も、聖剣は小さな火のように俺を支えてくれた。言葉ではなく、温度だけで十分だった。


 そして世界が一拍、薄くなった。


 雨の音が遠くなり、夜の街の輪郭が一段沈んだ。深淵的な質感、と俺の体が判断した。聖剣の鞘に当てた手の指先が一瞬、冷たくなった。


 胸の奥が引かれた。窓の外の闇が濃くなったわけではない。蝋燭の火が消えたわけでもない。それなのに部屋の隅が遠ざかり、床板の軋みまで水の底から響くように鈍った。俺は息を吸ったが、肺に入る空気も一段重い。


 ただし、聖剣は応えなかった。


 鞘の温度は普段と変わらない。剣身が光る気配もなく、胸の奥に届く感覚もなかった。俺は鞘から手を離して、立ち上がった。


 手のひらには白銀の冷たさだけが残った。拒まれたのではない、と自分に言い聞かせた。俺の中にある決意の形がまだ浅いのだろう。そう考えた方が動ける。考え込んで止まることだけは、今夜の俺の役目ではない。


 廊下に出ると、ヴァローが既に灰色のローブを羽織って立っていた。


「異変ですね」


 ヴァローは短く言った。月読みの魔導書を腰の左に下げ、短杖を右手に握っている。


 灰色の髪はまだ完全には結び直されていなかった。寝起きの乱れを残しているはずなのに、目だけはもう観察者の目になっていた。廊下の灯火に灰色の瞳が沈み、俺の背後の闇まで読もうとしている。


「闇属性の領域、ただし塔の体系に収まらない質感です。深淵的、と言うべきか」


「ああ」


 俺は短く返した。カイが部屋から出てきた。白い祭服、ロザリオを胸元で握っている。


 白い布は急いで羽織ったものだと分かった。襟元の紐が片側だけわずかに緩い。けれどカイの指はロザリオの紋章を確かめる時だけ乱れなかった。眠気よりも先に祈りが立つ男だった。


「《光神の祈り》のフィールドが、一拍だけ揺れました。光神の領域に届かない種類の闇です」


 ガイウスは廊下の奥に既に立っていた。盾を背負っている。


「行くか」


 ガイウスが短く問うた。


「ああ」


 俺は聖剣を腰に下げた。鞘の重さは普段通り、ただし俺の胸の奥に届くべき温度が今夜は届かない。


 革鎧の留め金を締める音が、廊下に小さく鳴った。ガイウスは盾の革帯を一度引き、カイは布袋を肩に掛け直した。ヴァローは短杖の先を床に触れさせず、宙で止めている。四人とも言葉は少ない。異変の夜には、無駄な確認より早い足がいる。


「商家連合の方角だ」


 ヴァローが短く告げた。観察者の眼が異変の発生地点を読んでいた。


 俺は雨外套を羽織って、四人で宿を出た。


──────────────────────────────


 雨の街は、深夜の闇に沈んでいた。


 戸を開けた瞬間に冷たい水気が顔へ当たった。宿の軒下から一歩出るだけで、外套の肩が重くなる。港の方角から吹く風に雨が斜めに流れ、路地の壁を濡らしていた。遠くの船灯も霞み、街そのものが濡れた布で包まれたように見える。


 石畳に雨が叩きつけて、足音を一段薄くしてくれていた。四人で駆ける。剣士の踏み込み、灰色のローブの裾、白い祭服の柔らかな足音、塊のような重い足音。それぞれの所作が雨の中で重なる。


 俺は先頭を走った。腰の聖剣が腿に触れるたび、鞘の重さだけが現実に戻してくる。温度は来ない。来ないなら、俺の足で埋めるしかない。


 商家連合の支部までの道は、宿から坂を下りて港湾近くまで進む。深夜の街には人通りがない。雨の音と、俺たちの足音だけが石畳の上にある。


 坂の途中で閉じた露店の帆が風に鳴った。樽の影、荷車の車輪、水路の縁。昼なら商人たちの声が重なる道が、今は息を殺している。ヴァローのローブが濡れて脚に絡んだが、彼は速度を落とさなかった。カイの祭服は白く浮いて見え、ガイウスの盾は黒い壁のように雨を弾いた。


 支部の方角に近づいた時、ヴァローが短く告げた。


「もう一段、力が動きます」


 その瞬間だった。


 商家連合支部の正面玄関が、内側から吹き飛んだ。


 低く重い破裂音、空気を通る音ではない、海の底を通るような音。瓦礫が外に向かって飛散する。扉の木材と金具と石壁の一部が、雨の闇の中に散った。


 胸骨の奥まで音が入ってきた。耳を打つのではなく、腹の中から持ち上げるような響きだった。雨粒が一瞬だけ押し返され、黒い水煙が支部の前に広がった。砕けた木片が回転しながら街灯の光を横切る。


 支部前の通りには、傘を差した二人の住民が立っていた。中年の男と女。瓦礫が二人の方角に届くのが、駆けながら見えた。


 男が女を庇おうと肩を入れた。けれど重い梁の破片は速かった。傘が折れ、布が雨に叩き伏せられる。女の悲鳴は破裂音の後に遅れて届き、俺の足がさらに前へ出た。


 そして吹き飛んだ扉の跡から、二人の影が飛び出してきた。


 白青のローブの男。海守りの戦闘服を着た若い男。


 雨の闇と、まだ薄く残る深淵的な質感の中で二人の輪郭がはっきり見えた。白青のローブの男の鍛えた胸、海守りの戦闘服の若い男の潮鎚を背中に下げた所作。


 若い男の動きは戦闘員のものだった。逃げ足ではない。状況を切り開いた後の離脱で、肩と腰の動きに無駄がない。白青のローブの男はそれよりも静かだった。濡れた裾が脚に絡むはずなのに、速度の芯が乱れない。


 俺と男の視線が、一拍だけ交わった。


 雨の中、白青のローブの男の瞳が俺を見ていた。深い青、深海のような色。落ち着いていた。動揺の質感は感じられない、ただし俺を「分かっている」眼でもなかった。


 あの眼は逃げる者の眼ではなかった。勝ち誇る者の眼でもない。俺たちがここに来ることを計算していたような色はなく、かといって偶然に驚いた揺れもない。ただ目の前の雨と石畳と俺たちを、同じ平らな温度で受け取っていた。


 それから二人は雨の闇の中を駆け抜けて、別の通りの角に消えた。


 ヴァローが俺の隣で短く呟いた。


「あれが、マリヴェルの蒼凪か」


 街中で見た男だった、と俺はヴァローの内的な訂正を察した。観察者の眼が、自分の前の判断を訂正する瞬間だった。


 ヴァローの声に皮肉はなかった。驚きも薄い。ただ記録の欄を書き換える時の硬さがあった。前に見た輪郭と今見た輪郭が重なり、彼の中で別人という札が剥がれたのだろう。


 俺は二人の方角を一拍だけ見た。それから、視線を瓦礫の方角に戻した。


 男が瓦礫の下に倒れている。女が膝をついて夫の腕を握り、泣いている。


 俺の判断は、一拍で決まった。


「カイ」


「ええ」


「ガイウス、瓦礫を持ち上げる」


「ああ」


 ヴァローが「観察を続けます」と短く言って、周囲の闇を読み始めた。


──────────────────────────────


 瓦礫の下から男を引き出した。


 ガイウスが盾を一度地面に置いて、両手で瓦礫の主柱の梁を持ち上げた。塊のような体格の力技だった。俺は男の上半身を支えて、ゆっくりと引き出した。男の右の腿に深い裂傷、左肩に打撲、頭から血が薄く流れている。意識は薄い。


 梁は雨を吸って重くなっていた。ガイウスの腕に筋が浮き、肩の金属板が低く軋む。それでも彼の呼吸は乱れない。山の戦士の力は、こういう時に余計な言葉を必要としなかった。


 俺は膝を石畳につけた。冷たい水が革の隙間から染みたが、気にしている暇はない。男の背に腕を回すと、濡れた外套ごしに体温の弱さが伝わった。血と雨が混ざり、俺の指にぬるい感触を残す。


 カイが膝を折って、男の傷の上に手を翳した。


「Sana, manus lucis」 (癒せ、光の手よ) ── 《浄化の手 / Healing Hand》


 カイの掌から薄い光が広がった。男の腿の裂傷が、ゆっくりと閉じていく。打撲の腫れが引き、頭の血が止まる。男の呼吸が、一拍ずつ落ち着いていった。


 薄い光は雨の中でも消えなかった。白い祭服の袖が泥で汚れているのに、カイの掌だけは静かに明るい。光は傷口を焼くのではなく、乱れた肉を元の場所へ戻すように広がった。男の喉から漏れていた荒い息が、少しずつ人の呼吸に戻る。


 女が両手を口元に当てて、震えている。


「夫は」


「命に別状はありません」


 カイが柔らかく告げた。


「お願いします、お願いします」


 女は何度も頭を下げた。


 傘はもう半分折れていた。女の髪は雨で頬に張りつき、手の甲には小さな擦り傷がいくつもあった。彼女自身も無事ではない。けれど目は夫の胸だけを見ている。夫の呼吸が戻るたび、女の肩が小さく震えた。


 俺は女の前で膝を折った。女の眼を真っ直ぐ見た。


「事件のことを、伺ってもよろしいですか」


 女は頷いた、ただし涙が止まらなかった。


「突然、扉が吹き飛んだんです。私たちは夜回りの帰りで、支部の前の通りを歩いていました。何もしていません、何も」


「賢者らしき人を、ご覧になりましたか」


 俺は短く問うた。


 女は首を振った。


「黒い影が雨の闇の中を駆け抜けたのは見ました。けれど誰だったのか、私には分からない」


「白青のローブの男、ではなかったか」


「申し訳ありません、私には何も見えませんでした。扉が吹き飛んだ瞬間に、私は夫を庇ってうずくまったんです。雨の音と、衝撃で、視界が」


 女の声は震えていた。


 俺は短く頷いた。それ以上は問わなかった。


 知っていることを絞り出させるような問いは、ここでは違う。彼女が見たのは夫が倒れる瞬間で、聞いたのは木と石の砕ける音だ。勇者の名を背負っていても、恐怖の直後に答えを要求する権利までは持っていない。


 男の意識が戻った。カイが「ご無理なさらず」と柔らかく告げた。男は瓦礫の方角を一度見て、それから俺たちを見た。


「何が、起こったのですか」


 男の声は弱かった。


「商家連合支部の正面玄関が、内側から吹き飛びました。あなたは瓦礫の下に下敷きになっていた」


 ヴァローが短く分析を告げた。


「事故ではない、外からの衝撃です」


 男は驚いた。


「私は、何も。気がついたら下敷きになっていた」


 俺は男の言葉を、胸の奥に置いた。


 被害者は何が起こったか分からない。賢者の姿を見ていない、名前を知らない、動機も知らない。ただ、扉が吹き飛んで、下敷きになって、傷ついた。事実だけがそこにあった。


 俺は立ち上がった。雨が顔を撫でていた。


 夫婦を巻き込んだ者がいる。商家連合の支部に押し入って、扉を吹き飛ばして、雨の闇の中を駆け抜けて消えた者がいる。


 その者に理由があるのかもしれない。商家連合に隠しているものがあるのかもしれない。ヴァローなら材料が足りないと言うだろうし、カイならまだ確定できないと言うだろう。俺もそれを軽く見たくはない。


 それでも、傷ついた住民は目の前にいた。


 それは、見過ごすことのできない事実だった。


──────────────────────────────


 商家連合支部の中から、人が出てきた。


 四十代の女、商家連合の支部長の正装。雨外套を羽織り、護衛を二人連れている。深夜の事件の対応に即座に出てきた所作だった。


 濡れた石段を下りる足が乱れない。外套の下の正装は暗い色でまとめられ、襟元の金具だけが灯りを拾った。護衛二人は瓦礫と俺たちを交互に見ていたが、支部長の目は最初から散らばらなかった。


 支部長の視線が、瓦礫を持ち上げる俺たちに一瞬だけ向いた。革鎧の胸元の紋章、聖剣の鞘、白い祭服、灰色のローブ。順番に、ただし速い。商人の眼の判断の速度だった。


「勇者一行の方々ですね」


 支部長は冷静だった。商人としてのキレが、座り方ではなく立ち方に出ていた。


「事件は商家連合の管轄として処理いたします。お引き取りください」


 俺は半歩前に出た。


「住民が傷ついている」


「ご懸念は理解します」


 支部長は短く返した。


「ただし、商家連合支部に侵入した者がいます。賢者の方が、こちらに侵入されました。事件は内部の問題として処理します」


「賢者」


 俺はその言葉を反芻した。支部長は名前を出さなかった。ただ「賢者」と言った。


 雨の音の奥で、支部の中から人の動く気配がした。書類棚を閉じる音、倒れた椅子を起こす音、低く交わされる指示。支部長はそのすべてを背中に置いて、俺たちの前で門のように立っている。


 ヴァローが俺の隣で短く呟いた。


「私の眼には、揃いつつあります」


 それから声を一段高くして、支部長に短く問うた。


「賢者の方の動機は」


「商家連合の管轄として調査します」


 支部長は冷たく返した。


「勇者一行の方々のご介入は、ご遠慮ください」


 俺は支部長の顔を見た。商人としての冷静さの下に、何かが沈んでいる。動揺、ではない。隠匿の温度、と俺は内的に判断した。商家連合は、事件をなかったことにしようとしている。


 隠す者の顔は怯えるとは限らない。むしろ支部長の眼はよく乾いていた。壊れた玄関よりも、倒れた住民よりも、事件の扱いを先に秤へ載せている。そういう速さが、俺の腹の奥を冷やした。


「住民の救援は」


「商家連合で手配します」


「いえ」


 カイが膝を折ったまま、男の傍らで短く挟んだ。


「私が引き続き、お手当てを続けます」


 支部長は一拍止まった。それから短く頷いた。


「神官の方のお手伝いは、感謝いたします。ただし事件の調査は、商家連合の管轄です」


 俺は短く頷いた。これ以上、商家連合を押しても情報は出てこない。それは支部長の表情で分かった。


 支部長の後ろで護衛の一人が手を動かした。警備員らしき者たちが出てきて、壊れた扉の木材を脇へ寄せ始める。早い。あまりにも早い。驚きより処理が先に立つ場所には、処理される前の事実が埋められやすい。


 ガイウスが俺の隣で短く言った。


「材料が足りねえな、いま押すには」


 ヴァローが続けた。


「読み切れていません、まだ」


 俺は短く頷いた。


「明朝、もう一度集まろう」


 支部長が一礼して、護衛と共に支部の中に戻っていった。瓦礫の処理は商家連合の警備員が始めていた。雨の中で、彼らの動きは早かった。


 俺は雨外套のフードを直して、夫婦の方角を一度見た。


 カイが男の傷の手当てを続けている。女が夫の手を握って泣いている。


 男の顔色は戻りつつあった。カイの光が薄くなっても、呼吸は落ち着いている。女は何度も礼を言おうとして、そのたびに言葉が涙で潰れた。カイは頷くだけで受け止め、包帯を濡らさないよう布袋から取り出していた。


 見過ごすことのできない事実が、雨の夜にあった。


 俺の胸の奥で、聖剣は黙ったままだった。


 俺は鞘に手を当てた。応えはない。普段なら住民を守る決意の瞬間に、鞘から薄い温度が伝わるはずだった。今夜は何もなかった。


 雨で冷えた指先が白銀に触れる。鞘の表面は滑らかで、いつもと同じ重さを腰に預けている。ただ、胸に届くものがない。俺を押し出す光も、背中を支える熱もない。


 俺は鞘から手を離した。


 聖剣は応えない。ただし、俺の中の決意は揺らがない。応えないのは、俺の決意がまだ足りないからだ。俺自身が一段強く動かなければ、と内的に判断した。


 そう決めるしかなかった。理由の分からない沈黙を、足を止める口実にしたくなかった。勇者一行がここにいるのは、街の不安を眺めるためではない。住民を守るためだ。


 雨の音が、街の上に降り続いていた。


──────────────────────────────


 翌朝、ヴェラーナ港の小教会で四人が集まった。


 雨は上がっていたが、街はまだ濡れていた。小教会の石段には水が残り、靴底が低く鳴った。扉を開けると湿った木の匂いと蝋燭の薄い匂いが混ざっていた。夜の事件から少し時間が経っただけなのに、朝の光は何事もなかったように壁を照らしている。


 地元の伝道師は早朝の信徒の見送りに出ていて、教会の中には四人だけだった。光神オルヴェリスの紋章のステンドグラスから、朝の光が斜めに差し込んでいた。白と橙と薄い赤の混合、光神の象徴の意匠。光が四人を照らしていた。


 木の長椅子には誰も座っていない。祭壇の布はきちんと整えられ、銀の燭台だけが静かに立っている。窓の色硝子を抜けた光は床に分かれて落ち、俺たちの靴先を白、橙、薄い赤に染めた。


 俺は祭壇の前に立った。聖剣を腰に下げたまま、鞘に手を当てた。応えはなかった。昨夜と同じ沈黙が続いていた。


「観察結果を、整理しよう」


 俺は短く告げた。


 ヴァローが先に切り出した。


「昨夜の権能は、二段でした。第一段は光を奪う闇の領域、街の北半分まで一拍滲みました。これは塔の闇属性魔法の体系には収まりません。光そのものが奪われる質感です。第二段は単体貫通の圧縮、扉と壁の一部を吹き飛ばした衝撃の質感は、海面を深く沈める現象と同じ系譜と読めます」


 ヴァローは灰色のローブの袖を一度払った。


「先日の住民の証言で集めた、海賊船が沈んだ時の現象と一致します。光が奪われる闇、海面の深い沈み込み、低く重い破裂音。海賊事件で発動された権能と、昨夜の権能は、同一の体系です」


 言葉だけを聞けば冷静な分析だった。けれどヴァローの指は短杖の表面を一度だけ撫でた。未知のものを前にしている時の所作だと、最近は分かるようになった。彼は焦らない。ただ、自分の知る枠の外にあるものを枠の外として認める。


 カイが続けた。


「商家連合支部への侵入と、住民への巻き添えの被害。住民は傷ついていますが、命に別状はありません。神官として、引き続き手当てを続けます」


 カイの白い袖口には、昨夜の泥の薄い跡が残っていた。洗っても落ちきらなかったのだろう。彼はそれを隠さない。胸元のロザリオを握る指の力だけが、いつもより少し強かった。


 ガイウスが短く挟んだ。


「賢者の動機が、まだ分からねえ」


 ガイウスは長椅子の横に立ち、盾を背から下ろして足元に置いていた。彼の言葉は短い。短い分だけ、余計なものが入らない。動機が分からない。その一点が、俺たちの前に重く置かれた。


 俺は四人の言葉を、一度頭の中で並べた。それから、視線をヴァローに向けた。


「ヴァロー、お前は街中で白青のローブの男を見たと先日言っていた」


「ええ」


 ヴァローは灰色のローブの袖を一度払った。


「先日は別人と判断しました。塔の記録の蒼凪と、街の男の容姿が違う、と。ただし昨夜、扉から飛び出してきた男の輪郭を、私は読み直しました。先日の街の男と、昨夜の男は、同一人物です。マリヴェルの蒼凪、と確定します」


「翳り見の弱点だな」


「ええ。前提が観察より強くなる瞬間が、また露呈しました」


 ヴァローは短く認めた。観察者として自分の弱点を認める瞬間に、皮肉は混じらなかった。


 その無皮肉さが、かえって重かった。ヴァローは自分の見立てを軽く扱わない。だからこそ訂正も軽くない。塔の記録、街中の輪郭、雨の夜の男。三つが重なって、ようやく彼は前の判断を捨てた。


 俺は短く頷いた。


「マリヴェルの蒼凪が、商家連合支部に押し入って、住民を傷つけて、雨の闇の中を駆け抜けた」


 俺は事実を一度、声に出した。


 言葉にすると胸の中で形が固くなる。白青のローブの男の眼、女の震える声、支部長の冷えた返答。ばらばらだったものが一本の線になりかける。だが、線の途中には大きな穴があった。


「動機は分からない。商家連合の支部長は事件を内部の問題として処理する、と」


「商家連合の対応は、隠匿の温度がありました」


 ヴァローが短く挟んだ。


「支部長は何かを隠しています、ただし材料が足りない、断定できません」


「カイ」


 俺はカイの方を見た。


「お前はどう思う」


 カイはロザリオを胸元で握ったまま、一拍考えた。それから、柔らかく返した。


「住民が傷ついた事実は、神官として見過ごせません。ただし蒼凪殿の動機が分からないまま、敵対者として確定するのは、私の中ではまだ揃わない。住民の救援を続けながら、追跡することは、両立できると思います」


 カイの声は穏やかだった。穏やかだからこそ、折れない芯が分かった。傷ついた者を手当てする。分からないものを分からないままにしない。どちらも彼の中で矛盾していない。


「ガイウス」


「対峙する覚悟は要る」


 ガイウスが短く返した。


「対峙したくねえ、と俺は先日言った。だが、対峙する場面が来た。それは事実だ。追うなら追う、それで俺の役目は決まる」


 彼は自分の盾を見下ろさなかった。見下ろすまでもなく、役目は手の中にあるのだろう。前で構える。必要なら押し返す。ガイウスの世界では、決まった役目は長い説明を欲しがらない。


 俺は四人の言葉を、もう一度頭の中で並べた。


 ヴァローは断定しない。カイも敵対者として確定しない。ガイウスは対峙の重さを認める。俺の中にも、結論を急がないという姿勢は残っている。先日ヴァローから受け取ったものだ。住民の証言だけで誰かを光の外に置きたくない、と俺は思っていた。


 けれど昨夜は、住民が傷ついた。


 ステンドグラスの光が、祭壇の前を照らしていた。光神オルヴェリスの紋章が、白と橙と薄い赤で四人の影を撫でた。光は俺を正面から照らしていた。


 俺は鞘に手を当てた。


 応えはなかった。


 聖剣は黙ったままだった。


 普段なら、決意の瞬間に鞘から温度が伝わる。剣身が薄く光る。胸の奥に感覚が届く。今朝もそれを期待していた。けれど、何もなかった。


 俺は鞘から手を離した。


「追跡する」


 俺は短く告げた。


「マリヴェルの蒼凪を、追う。動機を確認する。住民を守る役目は、勇者一行が担う」


 声に出した瞬間、胸の奥で何かが固まった。聖剣の温度ではない。誰かに与えられた確信でもない。足りない材料を足りないと認めたまま、それでも前に進むための決意だった。


「材料が足りません」


 ヴァローが短く挟んだ。


「断定するには早い。私の眼には、まだ揃っていません」


「観察を続けながら、追う」


 俺は短く返した。


「観察と追跡は両立する。お前の眼は、追跡しながらでも働く」


 ヴァローは一拍止まった。それから、短く頷いた。


「同意します。ただし、私の眼は私の眼で動かします」


「分かった」


 カイが柔らかく挟んだ。


「住民の救援は、引き続き私の役目として続けます」


「ああ」


 ガイウスが頷いた。


「俺は前で構える。盾の役目は変わらん」


 四人の役目が、それぞれの言葉で確定した。


 俺は祭壇の前に立ったまま、ステンドグラスの光を一度見た。光が俺を照らしている。光神オルヴェリスの象徴が、俺の決意を支えている、と俺は内的に判断した。


 ただし、聖剣は黙ったままだった。


 俺は鞘にもう一度、手を当てた。応えはない。


 俺の決意が、まだ足りないのか。それとも別の理由があるのか。俺には判じきれなかった。


 判じきれないものを抱えたまま、進むしかない。俺が選ばれた理由を完全に信じきれない夜は何度もあった。それでも腰の聖剣を外したことはない。今朝も同じだ。温度がなくても、重さはある。


 ただし、決意は揺らがなかった。光が俺を照らしている。俺自身が一段強く動かなければ、と俺はもう一度、内的に判断した。


「行こう」


 俺は短く告げた。


 四人が祭壇の前から、小教会の戸口に向かった。


 ヴァローのローブの裾が色硝子の光を踏み、カイの白い祭服が薄く橙に染まる。ガイウスは盾を背負い直し、扉へ向かう前に一度だけ肩を回した。俺は最後に祭壇を振り返らず、戸口の明るさを見た。


 ステンドグラスの光が、四人の背中を撫でていた。


 俺の腰の聖剣の鞘から、最後まで温度は伝わってこなかった。

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