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群青幻想  作者: 滄龍 青司
CantoⅠ
18/58

閑話休題:白鯨の宵

 満月が、カラヴェラの屋根の向こうに昇り始めていた。


 宿の二階の角部屋には、潮と木材の匂いが薄く残っていた。昼の熱を吸った壁が夜に向けて冷めていく頃で、窓枠の向こうには赤みの抜けきらない空が広がっている。


 蒼凪は窓を半分だけ開けた。海風が細く入り込み、白と青のローブの裾をわずかに揺らした。屋根の連なりの先では港湾の灯りが点々と灯り始めている。提灯の橙が夕方の終わりの光と重なり、坂の多い街を低く浮かび上がらせていた。海神祭の宵の質感だった。


「ヒュウマ」


 蒼凪が窓辺から振り返ると、ヒュウマは寝台の脇で潮鎚のベルトを外している途中だった。留め具が外れるたびに革が小さく鳴る。今夜は祭りに出るから、装備は宿に置いていく。普段着の革ベースの軽装に着替えていた。藍と砂色の重ね着、海守りの戦闘服の意匠を残しつつ、武装を外した形。


 左耳のプラチナのピアスが窓から入る光を拾った。短く整えた黒髪の下で、ヒュウマは手元を確かめてから顔を上げる。


「ええ」


「出るか」


「ええ、出ましょう」


 ヒュウマは短く頷いた。それから卓の上の小さな布袋を手に取った。中身は祭りの屋台で使う銅貨だった。布越しに硬貨が擦れて、乾いた音がする。蒼凪は壁際の椅子に掛けてあったローブの位置を直して、鏡を一度も見ずに身支度を整えた。前は普段通り、はだけている。


 鍛えた胸元と腹の線が灯りに出る。赤い短髪は指で一度だけ払われ、深い青の瞳が窓の外へ戻った。祭りの中で住民の視線がどう動くかは、二人とも織り込み済みだった。


 階段を下りる時、宿の女将が階下の卓の脇から短く声をかけてきた。手には濡れた布巾を持っている。祭りの客で忙しいはずだが、二人の足音を聞き分けたように顔を上げた。


「お祭りに出られるのですか」


「ええ」


「賢者殿も、海守りの当代殿も、お揃いで」


 女将は微笑んでいた。畏敬と親しみが混ざった笑みだった。目尻に小さな皺が寄り、視線は礼を失わない場所で止まっている。蒼凪は短く頭を下げ、ヒュウマも頷いた。それで会話は終わりだった。


 宿の戸を出ると、街の音が一段近くなった。子供の歓声、太鼓の遠い音、屋台の親父の呼び声。坂道の石畳には夕方の湿り気が残り、提灯の橙の灯りが港湾の方角に下がっていく道筋を照らしていた。


 二人は並んで坂を下り始めた。


──────────────────────────────


 商業街に出ると、屋台が両側に並んでいた。


 焼き魚の煙、酒の匂い、海藻の汁物の湯気。鍋の底で貝殻が触れ合う音がして、炭火の上では魚の皮が小さく弾ける。屋台の親父たちが竹串の魚を焼きながら声を張り上げ、子供たちが提灯の下を駆け抜けていく。蒼凪のローブの裾を、走り抜ける子供の手が一瞬掠めた。


 子供は振り返らない。蒼凪も足を止めない。人の流れは祭りの呼吸で伸び縮みしていて、二人の肩の近くを知らない腕や袖が何度も通り過ぎた。


「白鯨の張りぼてが向こうにいるな」


 ヒュウマが短く言った。視線の先、商業街の中央通りの方角に人だかりが見える。子供の歓声と太鼓の音が、その方角から重なって聞こえてくる。太鼓は腹に残る低さで、歓声はその上を跳ねていた。


「行ってみよう」


 蒼凪が短く返した。


 人だかりに近づくと、白い張りぼてが街の中央通りを練り歩いているのが見える。木枠に白い和紙を張った小型の白鯨の山車。背中の盛り上がり、丸い頭、扁平な尾びれ。簡略化されているのに、海のものだと一目でわかる形だった。


 中で若い男たちが担いでいて、山車は人の肩の高さでゆっくり揺れている。紙の腹に仕込まれた小さな灯りが内側から白を柔らかく透かした。子供たちが山車の周りを輪になって追いかけていた。


「シロガネサマ」


 子供の一人が、山車の方角に向かって手を振った。それから別の子供が真似をした。三人目、四人目。それぞれが「シロガネサマ」と短く呼びかけた。


 ヒュウマの頬が、提灯の光の下で一段だけ柔らかくなった。褐色の肌に橙が乗り、茶色の瞳の縁がわずかに明るい。蒼凪はそれを横目で見たが、何も言わなかった。


「あれが、シロガネサマか」


 蒼凪が短く問うた。形式的な問い方ではない。


「ええ。海神を象った白鯨です」


 ヒュウマは山車の方角を見たまま続けた。


「人格神ではない海神を人間が祈る時に、白鯨の姿で描く。シロガネサマと呼びます。海守り衆では特に親しまれている象徴です」


「子供たちの呼び方は、敬称付きなんだな」


「ええ。土着の信仰ではシロガネサマと呼ぶのが正しい作法です。子供も大人も、同じ呼び方をします」


 蒼凪は頷いた。賢者として海神信仰の知識は持っていたが、その呼び名はこの土地に来てから深く受け取るようになった。ヒュウマの口から聞くと、書物に置かれていた言葉が一段だけ肌の温度に近づく。


 山車が通りの先の角を曲がっていく。和紙の尾びれが最後に揺れ、子供たちがそれを追いかけた。人混みが薄くなると、焼けた魚と甘い酒の匂いがまた前へ出てきた。


「腹が減ったな」


 蒼凪が短く言った。


「ええ。屋台の方へ」


 二人は屋台の並ぶ通りに戻った。


──────────────────────────────


 屋台の親父は五十代の体格のいい男だった。


 腕は太く、焼き台の前で長く働いてきた色に焼けている。竹串に焼き魚を刺して塩を振りながら、客の銅貨を受け取っている。指先の動きは早い。魚を返す、塩を振る、紙を広げる。どれも同じ流れの中に収まっていた。


 蒼凪とヒュウマが屋台の前に立つと、親父は手元の作業を止めずに視線だけ寄越した。視線が一拍だけ蒼凪のローブの胸元に留まる。それからすぐに作業に戻った。慣れた屋台の親父の視線の動かし方。


「焼き魚を二つ」


 ヒュウマが短く言った。


「銀貨一枚」


 親父は竹串を二本、紙に包んで差し出した。魚の皮は焦げ目をまとい、腹のあたりから脂が薄く光っている。蒼凪が銀貨を一枚置いた。銀貨は炭粉のついた板の上で鈍く鳴った。


「お祭りに、賢者殿と海守りの当代殿か。今宵は何かが起こりそうだな」


 親父は軽く笑った。皮肉ではない、屋台の親父の気さくさだった。隣の鍋から海藻の汁物の湯気が立ち、親父の笑い声に混じって魚の脂が炭へ落ちる音がした。


「何も起こらん」


 蒼凪が短く返した。


「そりゃ結構」


 親父はもう一度笑って、次の客の方に視線を移した。


 蒼凪とヒュウマは屋台から少し離れた場所で立ったまま焼き魚を齧る。皮は熱く、歯を入れると中の白い身がほぐれた。塩がきつめに振ってあった。海洋同盟の港町の祭りの味。ヒュウマが普段の食卓で出す塩加減より一段上だ。


「塩が強いな」


 蒼凪が短く言った。


「祭りの味です」


 ヒュウマが短く返した。


 それから二人とも、しばらく何も言わずに焼き魚を食べた。提灯の橙の光が、二人の手元の竹串の先を照らしていた。人が通るたびに光が遮られ、魚の脂の照りが見えたり消えたりする。


 蒼凪のローブの胸元に、焼き魚の脂の薄い跡が一瞬付きそうになった。ヒュウマが横から手を伸ばして、紙の包みを一段持ち上げた。脂は布に落ちた。


「ありがとう」


「ええ」


 それで会話は終わりだった。


 竹串を捨てて、二人はまた歩き始めた。蒼凪は指先についた塩を紙で拭い、ヒュウマは布袋の口を確かめた。通りの先ではまた太鼓が鳴った。


──────────────────────────────


 商業街の三本目の路地の手前で、年配の男が二人を呼び止めた。


 蒼凪が以前、評議会の縁で会った商家の主だった。六十代、白い髭、商人としての品のいい笑み。祭りの夜でも衣服は乱れておらず、袖口には淡い香の匂いが残っている。背後には商家の者たちが数人立ち、通りの端で主の歩調に合わせていた。


「蒼凪殿、お祭りに出られるとは珍しい。ヒュウマ殿も、お揃いで」


「ええ」


 蒼凪が短く頭を下げた。ヒュウマも頷いた。


「今宵の灯籠は、流されますか」


「ええ、二つ」


 蒼凪が短く返した。


 商家の主は微笑んだ。それから一拍だけ、蒼凪とヒュウマを順番に見比べた。視線の質感は穏やかだった。ただし二人の連れ立ち方を一瞬だけ確認する眼の動きだった。


「お二人で、ということですか」


「ええ」


「結構なことです」


 主はもう一度微笑んで、それから別の方角に歩いていった。連れ立った商家の人々が、主を待っていた。白い髭が提灯の灯りを拾い、人混みの中へゆっくり沈んでいく。


 その場に残った二人は、しばらく何も言わなかった。ヒュウマが短く息を吐いた。


「お二人で、と言いましたね」


「ああ」


「いつものことです」


「いつものことだな」


 それで会話は終わりだった。二人は路地の中に入り、人混みから離れる方角に歩いた。路地には商業街の熱が少しだけ薄まり、石壁に反射する太鼓の音が丸く聞こえた。


 別の角で、海守り衆の若手が二人と擦れ違った。ヒュウマの仲間だった。若手はヒュウマに短く頭を下げ、蒼凪にも一段深く頭を下げた。視線が一拍だけ蒼凪のローブの胸元に留まったが、すぐに前に戻された。海守りの若手の作法だった。


「ヒュウマさん、今宵の奉納は」


「俺は出ない。今年は当代の方々に任せる」


「分かりました」


 若手は短く頷いて、別の方角に去っていった。歩き出す背筋は祭りの若者ではなく、役目を帯びた者の固さを残していた。


「お前が出る年もあるのか」


 蒼凪が短く問うた。


「ええ。何年かに一度、5代目の血筋として奉納の所作を担う年があります。今年は別の方の番です」


「そうか」


 蒼凪は頷いた。ヒュウマの海守りの当代としての位置を、住民の視線の中で何度も確認している夜だった。けれどその位置の重みがヒュウマの普段着の軽装の中では、いつも通りの温度で収まっていた。


──────────────────────────────


 子供が一人、二人の前に走り込んできた。


 七歳ほどの男の子だった。白鯨の張りぼての山車を追いかけてきたが、人混みの中ではぐれたらしい。片方の草履の紐が緩んでいる。膝を擦りむいていて、目に薄く涙が溜まっていた。声を上げて泣く直前の顔だった。


 ヒュウマは膝を折って、子供と目線を合わせた。砂色の衣の裾が石畳に近づき、手のひらは子供を急かさない位置で止まった。


「迷ったか」


「うん」


「親はどっちに」


 子供は商業街の中央通りの方角を指した。ヒュウマは頷いて、革ベルトの脇から海守りの薬油の小瓶を取り出した。小瓶は使い込まれていて、栓の周りに油の艶がある。指に薬油を一滴垂らして、子供の膝に塗った。


 子供の肩が小さく跳ねた。ヒュウマの指はすぐに力を抜き、擦りむいた周囲だけを薄くなぞる。


「これで痛みが少し引く。中央通りまで一緒に行く、立てるか」


「うん」


 子供は頷いて、立ち上がった。ヒュウマが立ち上がりながら、子供の手を取った。手を引く力は強くない。子供が自分で歩ける分だけの余白を残していた。蒼凪は二人の少し後ろから歩いた。


 中央通りに出ると、母親らしき女が人混みの中で慌てて子供を呼んでいるのが見えた。髪を結う紐が少しほどけ、手には買ったばかりらしい小さな包みを握っている。ヒュウマが手を上げると、母親は気づいて駆け寄ってきた。


「すいません、すいません、ご迷惑を」


「迷惑じゃない。膝を擦りむいてた、薬油を塗ったから少し休ませてやってくれ」


「ありがとうございます、海守りの方ですね。本当にありがとうございます」


 母親は何度も頭を下げた。子供が母親の手に戻った。ヒュウマは短く頷いて、それで終わりだった。子供は振り返って一度だけヒュウマを見たが、すぐに母親の袖を握った。


 二人はまた歩き始めた。


「お前は、子供の扱いが慣れているな」


 蒼凪が短く言った。


「海守りの仕事です」


 ヒュウマは短く返した。それ以上は語らなかった。


 蒼凪は横目でヒュウマの横顔を見た。提灯の橙が、ヒュウマの頬の輪郭を照らしていた。海守りの当代としての落ち着きと子供に膝をついた瞬間の柔らかさが、同じ顔の上で一段ずつ重なっていた。蒼凪は何も言わなかった。何も言わずに、ただその顔を一拍だけ見た。


 それから、視線を前に戻した。


──────────────────────────────


 商業街の外れの広場で、白い髭の老人が子供たちに昔話を聞かせていた。


 広場には屋台の密度が少し減り、かわりに腰掛け用の低い木箱がいくつか置かれていた。腰を下ろした老人の周りに五、六人の子供が集まっている。子供たちは膝を抱えたり、手にした菓子を忘れたりしていた。蒼凪とヒュウマは人混みの後ろから、老人の声を一段薄く拾った。


「シロガネサマはな、始まりの海から島々を持ち上げてくださったんだ」


 老人の声は低かった。波の音を長く聞いてきた喉の声だった。子供たちが息を呑んでいた。


「世界の最初には、海しかなかった。シロガネサマが海の底からゆっくりと浮かび上がって、背中で島を一つずつ持ち上げてくださった。それで、わたしたちが立てる場所ができた」


 子供の一人が短く問うた。


「いまは、シロガネサマはどこに」


「海と陸の境界を、ずっと泳いでおられる。海の側と、陸の側、両方を見てくださっている」


「見えるの」


「見える者もいる、見えない者もいる」


 老人は微笑んだ。皺の深い手が膝の上でゆっくり重なる。


「見える者には、見える時に見える。それでいい」


 子供たちは黙って頷いた。すぐ近くの屋台では油の跳ねる音がしているのに、老人の周りだけは一枚薄い布をかけたように静かだった。


 蒼凪は人混みの後ろで、ヒュウマの方を一度見た。ヒュウマの視線は老人の方に向いていた。ただし瞳の奥が、老人の言葉を子供の頃の何かに重ねている目だった。蒼凪はそれを見た。それから、また視線を前に戻した。


 老人の昔話が終わって、子供たちが散っていった。忘れていた菓子を慌てて齧る子、老人に礼をして走る子、まだ海の方角を見ている子。蒼凪とヒュウマは、その場から離れた。


「いい話だった」


 蒼凪が短く言った。


「ええ」


 ヒュウマは短く返した。それ以上は何も言わなかった。


 二人は歩き続けた。商業街の活気が背中の方角に薄くなっていって、海岸線の方向の音が増えてきた。波の音と、灯籠を流す住民たちの低い声、月の光に反射する海面の薄い輝き。砂の匂いが混じり始め、足元の石畳には細かい白砂が残っている。


 蒼凪は海岸線の方角に歩く流れに、自然に身を任せた。ヒュウマも、同じ歩調で隣を歩いていた。


──────────────────────────────


 海岸線の砂浜は、商業街から一段下がった場所にあった。


 坂を下りると灯りの色が変わった。提灯の橙は背後へ退き、満月の白い光が前に広がる。満月が、海面の中天よりやや手前の位置で輝いている。満月の光が海面に長い柱のように落ちて、波の動きに合わせて揺れていた。


 住民たちが家族や友人と連れ立って、波打ち際で灯籠を流している。白い和紙の灯籠が海面に並んで揺れ、徐々に沖の方角に流れていく。十、二十、もっと多い数の灯籠が、満月の光と提灯の灯りの中で白く点々と流れていた。


 足元の砂は昼の熱をほとんど手放していた。波が寄せるたびに湿った縁が光り、引くたびに小さな泡が残る。遠くの家族連れの声は低く、祭りの商業街とは違う慎ましさがあった。


 二人は屋台で買った灯籠を一つずつ手に持っていた。白鯨の形を簡略化した白い和紙の灯籠、中に細い蝋燭。屋台の女将が火を点けてくれてあった。紙の腹の中で火は小さく揺れ、手元の骨組みを薄く浮かび上がらせていた。


 人気のない端の方の砂浜を選んで、二人は波打ち際の手前で立ち止まる。


 蒼凪が先に膝を折る。砂がローブの膝の下で薄く沈んだ。はだけた胸元に海風が触れ、赤い髪の先が月の光を受ける。ヒュウマも蒼凪の右隣で膝を折る。肩が一拍、触れるか触れないかの距離。


「お前が先に流せ」


 蒼凪が短く言った。


「いえ、蒼凪さんが先にどうぞ」


「俺は海神の代行者だ。お前の方が海守りの当代として、先に流す筋だ」


 ヒュウマは一拍だけ黙った。それから灯籠を両手で抱えて、波打ち際にゆっくりと押し出す。指先が水に触れる直前で止まり、灯籠だけが波の上へ渡された。灯籠は水面に浮かんで一拍ためらってから、月の光の柱の方角にゆっくりと流れ始めた。


 蒼凪も続いて、灯籠を波打ち際に置く。蒼凪の灯籠も水面に浮かび、ヒュウマの灯籠の少し後ろを追うように流れ始めた。二つの白い灯籠が満月の海面に並んで揺れ、ゆっくりと沖の方角に進んでいく。


 細い蝋燭の火は風に折れそうで折れない。波が来るたびに白い紙の腹が上下し、二つの灯りの間隔が近づいてはわずかに離れる。やがて流れがそろい、灯籠は月の柱へ向かう線の上に乗った。


 二人は膝をついたまま、灯籠が見えなくなるまで眺めた。


 肩は触れていない。ただし触れるか触れないかの距離のまま、二人とも動かなかった。


 波の音だけが砂浜の上に薄く広がっていた。


「亡くなった人の名前は、書かないのか」


 しばらくしてから、蒼凪が短く問うた。


「ええ」


 ヒュウマは灯籠の流れる方角を見たまま返した。


「父のことは、もう海に還しました。十二の時に、別の儀礼で」


「そうか」


「灯籠は、その後の祈りです。誰かのため、ということではなく」


「ただの祈りだな」


「ええ」


 それきり、二人とも何も言わなかった。膝の下の砂が少し冷たくなり、遠くで別の灯籠を流す家族の低い声が波に混じった。


──────────────────────────────


 灯籠が、月の光の柱の中に消えていった。


 それから、ヒュウマが短く話し始めた。


「俺の家に、シロガネサマの小像があるんです」


 蒼凪は隣で黙って聞いていた。


「居間の海の見える窓辺に置いてあります。木彫りで白く塗ってあって、年季でところどころ塗装が剥げている。手のひら大の大きさです。祖父か曽祖父の代から伝わるものだと、父が言っていました」


 ヒュウマの声は波より少し上に置かれていた。大きくはないが、途切れない。海風が言葉の端を持っていき、月の光が横顔の線を静かに残した。


「お前は、毎日」


「ええ。朝、海に出る前に短く頭を下げる。夕方、海から戻った後にも、もう一度。子供の頃から、ずっとそうしています」


 ヒュウマは少し笑った。声は出さなかった、ただ口の端が一段だけ柔らかくなった。


「子供の頃に海岸線で遊んでいた時、遠くに白鯨らしき影を何度か見た気がするんです」


 蒼凪は頷いた。ヒュウマの声を遮らない頷きだった。


「本当に白鯨だったのか、波と光の屈折の幻だったのか俺には分からない。父も見たかもしれないし、見ていないかもしれないと言っていました。海守りの子供は、そういう記憶を抱える者が少なくない、と」


 波打ち際では、水が砂を撫でて戻っていく。ヒュウマの手は膝の上に置かれたまま動かない。左耳のピアスが月の光を受け、白く小さく光った。


「シロガネ、と呼んでたか、子供の頃」


 蒼凪が短く問うた。


 ヒュウマは一拍だけ黙った。それから、頷いた。


「ええ。シロガネ、と。敬称が落ちる時もありました。子供だったので」


「いまも、呼ぶ時はあるか」


「ええ、稀に。誰にも聞かれない場所で、独り言のように」


 満月の光が、ヒュウマの横顔を一段だけ明るく照らした。海守りの当代としての落ち着きの下に、子供の頃の親しみが薄く滲んでいた。蒼凪はそれを見た。けれど、何も言わなかった。何も言わずに、ただヒュウマの方角に視線を一拍だけ留めた。


 それから、視線を海面に戻した。


「あれは、見えたのかもしれないな」


 蒼凪が短く言った。


「シロガネが」


「ああ」


「そうかもしれません」


 ヒュウマも短く返した。それきり、二人とも何も言わなかった。


 灯籠が、月の柱の中で見えなくなった。


 満月の海面が、波の動きに合わせて静かに揺れていた。


──────────────────────────────


 二人は波打ち際から立ち上がった。


 砂を払って、灯籠を流した跡を一度だけ振り返る。海面には、もう灯籠の白さは見えない。住民たちが流した他の灯籠は、まだ少し離れた場所で揺れている。二人の灯籠はもっと沖の方角に流れていったらしい。


 蒼凪のローブの膝には細かな砂が残っていた。ヒュウマが自分の裾を払った後、蒼凪の膝元へ視線を落としたが、手は伸ばさなかった。蒼凪が自分で払う。砂は夜の光を受けて一瞬だけ白く散った。


「戻るか」


 蒼凪が短く言う。


「ええ」


 二人は砂浜から坂を上って、商業街に戻った。祭りの賑わいは、まだ続いていた。屋台の親父たちが客を呼ぶ声、子供たちの歓声、太鼓の遠い音。二人はそれらの音の中を、並んで歩いた。


 歩く速度は、自然に合っている。


 宿の方角に向かう坂の途中で、満月が屋根の上に高く昇る。月の光が、二人の影を石畳の上に並べて映していた。影と影の間隔は、肩の幅一つ分。触れていない、ただし離れすぎてもいない。


「悪くない夜だったな」


 蒼凪が短く言った。


「ええ」


 ヒュウマは短く返した。


「明日は」


「いつも通りです」


「いつも通りだな」


 宿の戸の前で、二人は一度足を止めた。中からは女将が片付けをする音が聞こえる。遠くの太鼓はまだ鳴っているが、戸を開けるとその音は木の壁に遮られて少し丸くなった。それから戸を開けて、階段を上った。


 二階の角部屋に戻ると、蒼凪は窓辺に立った。窓の外、港湾の方角にまだ祭りの灯りが点々と残っていた。海面は満月の光の下で穏やかだった。灯籠はもう見えない場所まで流れていた。


 ヒュウマは寝台の脇で、革ベルトを外し始めた。留め具を外す音が小さく落ちる。布袋は卓の上に置かれ、中の銅貨がわずかに鳴った。潮鎚は壁際に静かに立てかけられている。


 二人は、それぞれの作法でその夜を畳んだ。


 部屋の灯りを消す前に、蒼凪は窓を一度だけ閉めた。窓ガラスの向こうで、満月が海面に長い柱を作っている。窓が閉まると海風は細く途切れ、部屋の中には祭りの煙と潮の名残だけが残った。


 ヒュウマの方は、もう寝台に横になっている。


 蒼凪も自分の寝台の方に歩いた。


 肩は、触れなかった。ただし触れるか触れないかの距離のまま、夜は穏やかに深まっていった。

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