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群青幻想  作者: 滄龍 青司
CantoⅠ
17/56

歌わない

 ヴェラーナ港の朝は、苔の匂いから始まりました。


 旅籠の屋根裏の窓を押し開けると、湿った海風が顔を撫でていきました。潮と苔と古い木材。三つの匂いが薄い層になって、麦藁の寝床の上まで入り込んできます。階下では女将が朝の鍋を磨いていました。金属を布で擦る乾いた音が、梁の隙間を伝って細く届きます。


 わたくしは淡い金茶の髪を紐で一つに束ねました。耳の先が外へ出ないように、布を軽く巻き直します。完全に隠すつもりはありません。ただ街中で無用に目立つ必要もない。長い旅で覚えた加減でした。


 小型の弦楽器は昨夜のうちに乾いた布で拭いてあります。木肌に残る塩気を指先で確かめてから、もう一枚の布で包みました。肩から斜めに掛けると、楽器の重みが胸の前で静かに落ち着きます。麦藁の寝床の上には薬草の小袋を残しました。苦みのある匂いが薄く漂っています。


 今朝は楽器を鳴らさない予定です。観察の日、と昨夜のうちに決めてあります。


 階段を下りると、旅籠の板床が短く鳴りました。女将は炉のそばで鍋を傾けていました。磨き上げた底に朝の光が鈍く映っています。わたくしの足音に気づくと、女将は手を止めて短く頭を下げました。


「お早う。今日も街か」


「ええ、街の音を拾いに参ります」


「事件の三日目だ、口の堅い住民が多いよ」


「拾える分だけで結構です」


 女将は短く頷きました。慇懃な客には慇懃な応対が返ってきます。海洋同盟の港町の女将は、流浪の歌い手にも丁寧な距離を保ってくれる方が多い。差別はありません。ただし距離はある。それで十分です。


 戸口を出ると、街角の苔が朝の光に薄く濡れていました。石畳の目地に残った水が細く光っています。市場の通りはまだ開きかけでした。商人たちが店先で野菜を並べ直し、魚籠を水で洗い、布屋が畳んだ反物を軒下へ運び出しています。


 坂の途中からは桟橋の方角が見えました。海守り衆の若手が旅人の身元を確認しています。普段はやらない作業です。革紐の帳面を開き、荷札を見て、船の名を聞く。手つきに慣れはなく、けれど退く気もない。海賊事件の余波で、警戒が一段上がっているのでしょう。


 街は今、観察者には透明に近い。


 緊張した街は、住民の動きに細かい癖を浮き上がらせます。普段は隠れている輪郭が、緊張の中で表に出る。声を潜める角度。目を逸らす速さ。足を止める場所。そういうものを拾うのが、わたくしの仕事の一部でした。


──────────────────────────────


 市場の通りを歩く間に、断片的な声が薄く届いてきます。


「聖教会の船が、昨日着いたって」


「勇者一行が乗ってる、らしいわ」


「あの白青のローブの賢者と、同じ街に揃ったね」


 声はそこで止みます。わたくしが天幕の影を通り過ぎる前に、野菜を並べていた女が口を閉じました。それで構いません。声が止まる位置に立つこと、それも観察の一つの手法です。沈黙は時に、言葉よりもよく街の温度を示します。


 別の天幕の影では、別の声。


「賢者殿は、海面を沈めた人だ」


「あれは普通の魔法じゃない、と漁師が言ってた」


「闇に飲まれて、それから海そのものが食べたって」


 闇に飲まれて、海そのものが食べた。住民の口の中の輪郭が、賢者殿の権能を二段構造で描いています。光を奪う領域と、海面を深く沈める力。二つの異質な現象を併用する賢者の姿が、住民の畏怖の中で濃く描かれていました。


 わたくしは立ち止まりません。視線は露店の果物へ向けたまま、耳だけを働かせて歩きました。熟れた柑橘の匂い。干した魚の塩気。麦粉の袋からこぼれる粉の乾いた匂い。市場は賑やかな顔を保とうとしていますが、声の底に硬さがあります。


 事件の三日目の街は、普段より口が緩みやすい。緩い街は、観察者には透明に近い。これで二度目の同じ感想です。観察者の癖というものでしょう。


 市場の奥の小さな籠売りの天幕で、老婆が一人で籠を編んでいました。麦藁の質感が市場の埃と混ざって、黄色みを帯びた光の中に沈んでいます。指は節くれ立っていましたが、動きは水のように滑らかです。一本を押し込み、一本を折り返し、また一本を沈める。


 わたくしは籠を一つ買う体で近づきました。


「お婆様、こちらの籠を一つ」


「銀貨一枚」


 老婆は短く言いました。視線は手元の麦藁に留まったまま、こちらを見ません。見ないまま客の靴音を聞き、衣擦れを聞き、財布の重さまで測るような方でした。


 わたくしは銀貨を一枚置いて、丸い取っ手のついた籠を手に取りました。編み目は細かく、縁の締め方に癖がない。長く同じ仕事を続けた手の品でした。


「街の様子を、少し」


「事件の話か」


「ええ」


「賢者殿のことなら、わたしは何も見ていない。桟橋の方の漁師に聞いてくれ」


 老婆は手を止めません。麦藁を編む動きが、慣れたリズムで続いています。知らないという言葉には、知らない以上のものが混じることがあります。恐れ。距離。あるいは、言葉を選ぶ知恵。


「お婆様は、海守りの方々をどう思いますか」


 老婆が一拍だけ手を止めました。麦藁の端が指の間で静かに止まります。それから、また編み始めました。


「海守り衆は、海の側の人だ。賢者殿は、外から来た人だ。事件で連携したのは事実だが、外から来た人を信じるかどうかは、別の話だよ」


「外から来た人」


「聖教会の伝道師も、勇者一行も、賢者殿も、皆そうだ。あんたもね」


 老婆は短く頷きました。差別ではなく、事実の言葉でした。海洋同盟の港町の住民の側の温度が、麦藁を編む手の動きの中に薄く沈んでいる。外から来た者は、助けても外から来た者であり続ける。歌を聞かせても、祈りを運んでも、海を鎮めても。


「籠、ありがとうございます」


 わたくしは短く頭を下げました。老婆は短く頷き返した。それで会話は終わりです。


 外から来た人。わたくしの輪郭が、老婆の口の中で他の三者と並んでいる。聖教会の伝道師、勇者一行、賢者殿、流浪の歌い手。海洋同盟の住民から見れば、いずれも同じ温度の他者でした。事実の言葉として受け取ります。


 買った籠は軽く、布袋の中で乾いた音を立てました。その音まで、今日の街の素材の一つです。ただし素材であることと、すぐ歌にすることは違います。


──────────────────────────────


 港湾の桟橋に出ると、午後の光が斜めに海面を切っていました。


 朝よりも風が丸くなっています。帆柱の縄が揺れ、船腹を叩く波が低く響く。商船の修理の音が、断続的に上がってきます。木槌の音。濡れた板を引き上げる音。誰かが短く合図する声。海守り衆の小型船が二隻、桟橋に繋がれていました。


 海面は穏やかで、海賊船が沈んだ海域はもう見えない場所にありました。住民の証言の中の「真っ黒な渦」も、今はどこにもありません。海は出来事を飲み込み、表面だけを静かに戻す。その静けさが人を落ち着かせることもあれば、余計に口を重くすることもあります。


 桟橋の中ほどで、わたくしは足を止めました。


 少し離れた場所で、勇者一行のうちの二人が桟橋を歩いていました。剣士風の若い男と、灰色のローブの魔導士。二人とも、商船の事件の調査に向かっている所作でした。剣士の方は熱血らしい直球の歩き方をしています。足裏を隠さず、肩の向きも隠さず、必要なら正面から扉を叩く方の歩き方です。


 魔導士の方は違いました。視線は前へ置きながら、周囲の反応だけを薄く撫でている。灰色のローブの裾は潮風で小さく揺れ、腰の左に下げた書物が歩みに合わせて重く沈みます。剣士と魔導士では歩幅が違っていました。それでも歩調は合っています。長く一緒に動いてきた組み合わせの動きでした。


 わたくしは桟橋の縁に立ち、海面の方角に体を半分向けました。観察者の位置です。視野の端に二人を入れて、視線そのものは海に向ける。観察対象には、観察されている事実を悟られない方が結果が綺麗に出ます。


 二人が小教会の方角に折れる。剣士の方の歩幅が、海守り衆の詰所の前で一瞬遅くなる。詰所の扉は閉まっていましたが、窓の内側に人影があります。魔導士の方は気づかないふりで歩き続けます。詰所の前を素通りしたい。けれど一瞬だけ目を向けた。そういう剣士の所作でした。


 海守り衆の対応で何かを受け取った後の歩き方です。怒りではありません。苛立ちとも少し違う。急ぎたい足を理性で抑えたような、若い膝の硬さが見えました。


 別の方角からは、白い祭服の若い神官が現れます。商船の遺族の家を回っているらしい。柔らかな顔、肩に掛けた薬草の布袋、午後の光の中で穏やかな歩み。人の戸口に立つことに慣れた足取りでした。彼は剣士と魔導士とは別行動で、それぞれの仕事を進めている構図です。


 四人のうち三人を、桟橋から半時のうちに観察できました。残る一人、寡黙な重盾戦士は街の別の方角で動いている様子です。武器商街の方角から、革鎧の重い足音が午前のうちに薄く届いていました。音だけでも体の使い方は出ます。盾を背に負う者の足は、重さに逆らわず沈む。


 四人が同じ街に揃い、それぞれの仕事を進めている。その構図の真ん中に、白青のローブの賢者と海守りの当代がいる。両者は今日、桟橋には現れない様子でした。直接の遭遇を、双方が避けているのか。あるいは、ただの偶然なのか。わたくしには判じかねます。


 蒼凪殿とヒュウマ殿の姿も、桟橋にはありません。先日会った二人の足取りを思えば、街のどこかで別の方角に動いているのでしょう。あの若い救援者の手と、白青のローブの静かな背。二つの輪郭は、ここにいなくても街の話の中に影を落としています。


 ただ構図そのものは、整っていました。


 歌に編むという選択肢が、わたくしの胸の奥で一拍だけ揺れる。


 ただし、揺れただけです。今日は観察の日、と昨夜のうちに決めてあります。楽器は肩にあり、弦は布の下で黙っています。黙っているものは、黙っている時にだけ保てる重さがあるのです。


──────────────────────────────


 灰色のローブの魔導士が桟橋を戻ってきたのは、それから半時ほど後のことでした。


 魔導士は商船生存者の家から戻ってきた所作でした。手には何も持たず、月読みの魔導書を腰の左に下げています。潮風に乾いたローブの裾がわずかに跳ね、靴底には路地の湿り気が薄く残っていました。聞き取りを終えた者の足です。


 視線は前方に向いていますが、観察者の眼が周囲を薄く撫でているのが分かりました。同業の眼です。観察を仕事にしている者は、同業の眼を一目で見分けます。見る場所よりも、見ない場所の選び方に癖が出るからです。


 わたくしは桟橋の縁から動きません。観察対象が観察者である場合、こちらが動くと先方の観察を強める結果になります。動かないのが、観察者同士の作法です。足裏の重心を変えず、呼吸の深さも変えない。海を見る客の形を保ちます。


 魔導士の歩みが、わたくしから三歩の距離で薄く遅くなる。


 視線が一拍交わりました。


 互いに会釈はしません。沈黙の応酬です。先方の眼が、わたくしの輪郭を一段深く読もうとしているのが分かりました。月読みの塔の魔導士であれば、観察を補助する魔法を持っている可能性が高い。塔の研究者の典型的な眼の使い方でした。


 その眼は刃ではありません。けれど触れた場所の薄皮を、静かに測る道具ではある。骨格。呼吸。布の結び目。荷の重心。旅をする者の足の癖。そういうものを順番に読む眼です。


 わたくしは表情を変えません。慇懃な笑みも警戒の眼も、出さない。観察者として、相手の観察を受けるだけの姿勢を保ちます。受け流すのではありません。受ける。受けたうえで、届く場所と届かない場所を分けておく。


 先方の眼が、わたくしの耳の上の毛束に一瞬だけ留まる。


 風が一拍、髪を撫でていく。


 それで耳の先がほんの一瞬だけ外に出たのが、自分でも分かりました。布の端が持ち上がり、尖った輪郭が光に触れる。観察者の眼を持つ者であれば、その一瞬で耳の尖りを読みます。先方は読んだはずです。


 ただし、それ以上は読めなかったはずでした。


 物理的な特徴は読まれて構いません。耳の尖りも、声の質感も、長命種の所作も、表に出てくる輪郭は隠しません。隠せるものではない、と長年の流浪の中で受け入れています。隠すのは、その下の領域です。本質の方は、観察者の眼が届かない場所に置いてあります。これはエルフという種族の防御ではない、わたくし個人の選択と鍛錬の重なりでした。


 旅を始めた頃は、もう少し粗い隠し方をしていました。森の外の街で耳を見られ、珍しがられ、歌より先に血筋を尋ねられたこともあります。あの頃に覚えたのは、隠すことではありません。見られても、見せない場所を残すことです。


 先方の眼が、一拍だけ止まりました。


 読めなかった、という反応です。観察者には、読めない瞬間が必ずあります。読めない事実を観察者として認識する一拍の停止が、わたくしには見えました。そこを慌てて埋める者は、推測を事実のように扱います。先方はそうしませんでした。


 わたくしは慇懃な笑みを浮かべる。慇懃の作法のまま、先方に短く声をかけました。


「ご機嫌よろしゅう」


「ご機嫌よろしゅう」


 先方も短く返す。声の温度は丁寧、ただし丁寧の下に皮肉が薄く混じっています。観察者として鍛えた皮肉の使い方。相手を刺すためではなく、距離を測るための細い針です。


「素晴らしい街ですね」


 わたくしは表面的な言葉を置く。桟橋には潮の匂いがあり、修理の音があり、閉じた口の住民がいる。素晴らしいという言葉は、時に最も薄い布になります。


「そう見える日もあります」


 先方が皮肉で返した。皮肉の角度は鋭い、ただし攻撃ではない。観察者として、相手の出方を読むための一手でした。


「街の温度を、お読みになっておられる」


「貴方も、そのようですね」


「わたくしは流浪の歌い手です。月読みの塔の方ですか」


「そうです」


「塔の方が、海洋同盟の港町に」


「教会の派遣で参りました。事件の調査です」


 短い対話でした。互いに正体は最低限のところまで明かす、ただし本質は出さない。観察者同士の作法でした。名は出さず、肩書きだけを置く。足元の線を一本引き、そこから先へ踏み込むかどうかは相手に任せる。


「歌い手の方は」


 先方が短く問う。


「街の音を拾いに」


「ええ」


「歌になりそうな素材は」


「今日のところは、まだ判じかねます」


「判じかねる、というのは」


「歌に編むかどうか、まだ決まらないということです」


 先方が一拍だけ視線をわたくしから逸らす。それから、また視線を戻した。海面を見たのではありません。言葉を置く場所を測ったのでしょう。


「結論を急がないのは、観察者として正しい姿勢です」


「貴方もまた、そのようでいらっしゃる」


「ええ」


 それで会話は終わりです。互いに短く頭を下げて、先方は桟橋を歩き続けました。月読みの塔の魔導士、闇属性の中階か高階寸前、観察者として鍛えた眼を持つ方。皮肉の作法は塔の研究者らしい、ただし攻撃的ではない。観察者の本懐は皮肉ではなく観察、その姿勢を保とうとしておられる。


 先方の灰色のローブの裾が、桟橋の風に一瞬だけ群青に深まったように見えた。光の屈折のせいかもしれません。灰色の糸に海の色が重なっただけかもしれない。いずれにせよわたくしの目には、その一瞬が記憶に残ります。


──────────────────────────────


 桟橋を離れて、わたくしは旅籠の方角に戻り始める。


 午後の光が街の屋根を金色に近い橙に染め始めていました。海風が緩やかに吹いて、潮の匂いが街並みに薄く広がる。軒先の濡れた布が風を含み、店じまいにはまだ早い市場の声が少し低くなっています。市場の老婆の麦藁の籠が、肩に下げた布袋の中で軽く揺れました。


 街の構図が、半日のうちに整いました。


 勇者一行四人、それぞれの仕事を進めている。剣士は港警備、魔導士は現場検証、神官は遺族の家、重盾戦士は武器商街。蒼凪殿とヒュウマ殿は街のどこかで別の方角に動いている。海守り衆は土着の核として、外から来た者全員に同じ温度の警戒を保っている。


 肩の布袋の中で、麦藁の籠が軽く揺れました。老婆の手の動きが思い出されます。迷いのない編み目。余計なことを言わない口。外から来た者を外から来た者として扱う、あの平たい温度。


 歌に編むかどうか、まだ決めません。


 決めないというのは、わたくしの作法でした。月読みの塔の魔導士の言葉を借りれば、結論を急がない。皮肉の作法を借りずに、その言葉だけを受け取ります。彼の皮肉は彼のものです。わたくしの歌は、わたくしのものです。


 旅籠の階段を上る前に、わたくしは坂の途中で一度立ち止まりました。


 街の屋根の向こうに、港湾の海面が見えていました。海面は穏やかで、夕方の橙が薄く反射しています。海賊船が沈んだ海域は、もう見えない場所にあります。けれど人の口の中では、今も黒い渦が回っている。見えないものほど、言葉の中で長く残ることがあります。


 蒼凪殿の輪郭は、住民の口の中で深淵的に描かれている。けれど商船を救った賢者を深淵側に置く理屈は、わたくしの眼には届きません。


 あの方は自分の周囲に余白を置く方でした。カラヴェラで見た時も、言葉の奥に触れられない部分を残していた。けれど触れられないことと、恐ろしいものだと決めることは違います。届かないものを、届かないまま置いておく作法があります。


 ただしその評価をいま歌に編むのは、早すぎます。


 歌は人の口に乗ると、戻らない。吟遊詩人が軽く弾いた一節でも、港から港へ渡るうちに形を変えます。賢者殿を黒く歌えば、黒いものとして残る。救いを歌えば、救いとして残る。どちらもまだ早い。今日の街は、まだ音を集めるだけの日でした。


──────────────────────────────


 旅籠の屋根裏に戻ると、夕方の薄い光が小窓から斜めに入っていた。


 麦藁の寝床に、薬草の小袋がそのまま残っている。朝と同じ位置です。けれど部屋の匂いは少し変わっていました。海風の湿り気が弱まり、木の壁に溜まった昼の熱が薄く残っています。屋根裏の梁には埃がかかり、光の筋の中で細い粒がゆっくり動いていました。


 弦楽器の布包みを肩から下ろして、寝床の脇の卓に置きました。肩に残った重みが、少し遅れて消えます。それから布を一枚剥がして、楽器の弦を一本だけ撫でる。指の腹に金属の冷たさが触れました。


 弦は鳴りません。撫でただけで、強さを与えなかったから。


 歌わない日の作法です。


 撫でて確かめる、ただし鳴らさない。今日の観察の重みを楽器の弦に一度だけ預けて、それ以上は出さない。明日も歌わないかもしれません、明後日は歌うかもしれません。物語の構造が動く速度に合わせて、わたくしの歌は出るか出ないかが決まります。


 蝋燭の火を点ける。火口が小さく赤くなり、すぐに橙の舌が立ちました。蝋燭の橙が、屋根裏の壁に薄い影を作った。麦藁の寝床の麦藁の色が、蝋燭の光の中で一段静かに沈む。薬草の小袋の紐も、昼より濃い影を床に落としました。


 カラヴェラでの蒼凪殿との対話を、一瞬だけ思い返しました。


「俺たちを歌に編むな」


「歌に編まれることが、貴方の何を脅かすのですか?」


「そうだろうな」


「また、お会いするでしょう」


 蒼凪殿は、わたくしの耳の尖りまでを一瞬で読みました。本質はその先で止まっている。月読みの塔の魔導士も同じです。届かない事実を慌てて埋めない作法を、両者は備えていました。


 それは珍しいことです。読めないものを前にした時、多くの方は物語を急ぎます。恐ろしいから怪しい。分からないから悪い。優しいから正しい。人は空白を見ると、持っている色で塗りたくなる。わたくしも歌い手である以上、その誘惑を知らないわけではありません。


 ただし上質な素材を、上質なまま編むのは早すぎます。


 今日見たものは、まだ乾いていない麦藁に似ています。無理に編めば形にはなりますが、しなやかさを失う。市場の老婆の指は、それを知っていました。乾き具合を待ち、曲げる向きを見て、力を入れる場所だけを選ぶ。歌もおそらく同じです。


 弦楽器の布を元に戻して、卓の上に置く。布の端を揃え、革紐を軽く巻きました。薬草の小袋を寝床の脇に並べ直した。旅の道具は少ない方がよい。少ない道具ほど、置き方にその日の心が出ます。


 蝋燭の火を消そうとして、一拍だけ手を止めます。


 明日も同じ街で観察を続けるかもしれません。明後日は別の街に移るかもしれない。流浪の歌い手の予定は、風と財布と物語の気配で変わります。けれど今夜だけは、この屋根裏の薄い光がわたくしの場所でした。


 蝋燭の火を消す。


 屋根裏が薄い闇に沈む。麦藁の寝床の麦藁の色も、楽器の木目も、薬草の小袋も、闇の中で輪郭だけが残っていました。窓の外で、ヴェラーナ港の夜が薄く深まっていく。遠くで誰かが戸を閉める音がして、海の底のような静けさが戻りました。


 歌わない日の終わりは、いつも穏やかです。

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