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群青幻想  作者: 滄龍 青司
CantoⅠ
16/57

沈んだ海面、歪む輪郭

 港の朝は薄い水色の空に始まった。


 窓の外では、港の鐘がまだ低い余韻を残していた。潮風は夜の冷えを少しだけ含んでいて、宿の廊下の板を踏む足裏に朝の湿り気が伝わる。俺は白い旅装の襟元を直し、深紅のサッシュを腰の左へ引き寄せた。


 聖剣の鞘の重みが、いつもの場所に収まる。白銀の鞘は静かだった。柄の紋章に指先が触れると、冷たい金具が皮膚を押した。俺は革鎧の留め金を一つずつ確かめる。胸元、脇腹、肩。どれも普段の動作だが、今朝は指に力が入った。


 海賊事件の現場検証。ヴァローと二人での聞き込み。見極めるべき相手の権能の質感。


 言葉にすれば整っている。けれど整っているほど、胸の中では別のものが沈んでいく。俺は剣帯を軽く引き、鞘が歩きに合わせて揺れすぎないことを確かめた。装備を整えるのは戦いの前だけではない。話を聞く時にも、俺は勇者として立つ必要がある。


 宿の階段を下りると、食堂には朝の湯気と焼いた魚の匂いが満ちていた。パンを切る音、椀を置く音、港の宿らしい短い会話。昨日よりも少しだけ街が日常へ戻っている気配がある。


 ヴァローは既に席についていた。灰色のローブの袖を捲り、月読みの魔導書を卓の脇に置いている。短杖は椅子の背に斜めに掛けてあった。湯気の立つお茶を一杯飲む姿は静かで、眠気も焦りも外へ出さない。皮肉屋の朝らしく静かな佇まいだった。


「お早うございます、レオン」


「お早う」


 俺は短く返して向かいの席に座った。椅子の脚が床板を軽く鳴らす。宿の女将がパンと魚の塩焼きを運んできた。魚の皮には焦げ目があり、塩が白く浮いている。ヴァローは食べ終えていたらしい。自分の皿は既に脇に寄せてある。


「順番を確認しましょう」


 ヴァローが切り出した。声は朝の空気に合うほど低い。眠そうではない。ただ、無駄がない。


「港警備の詰所、商船の生存者、漁師の聞き取り。それから海守り衆の詰所」


「いい」


「最後の一つは、私の見立てでは情報が出にくいでしょう」


「海守り衆か」


「土着の信仰圏の核です。聖教会への警戒は、彼らの方が一段強い」


 俺は頷いた。ヴァローの観察は昨夜から一段先を読んでいる。あの夜の最後、彼は皮肉を引っ込めた。結論を急ぐな、と言った。その声音は今朝もまだ残っている。


 俺はパンを齧った。外は硬く、中は少し温かい。魚の身を一口運ぶと、塩気が舌に乗った。特別に旨いわけではない。けれど喉を通る。食欲は戻っている。それでいい。


「昨夜より顔色はましですね」


 ヴァローが湯呑を置きながら言った。


「お前にそう言われると、ましではなさそうだな」


「観察結果です」


「なら受け取っておく」


 短い掛け合いで終わった。互いにそれ以上踏み込まない。俺は水を飲み、魚の骨を皿の端に寄せた。


 カイは今朝も信徒の家を回ると言っていた。ガイウスは武器商街で港の警備の詳細を詰めると。それぞれの仕事を、それぞれが進める。カイの祈りは住民の肩を少し軽くする。ガイウスの交渉は通りと港の安全を固める。俺たちは現場検証だ。


「行こう」


 俺は席を立つ。椅子の下で床板が鳴った。ヴァローも短く頷いて立ち上がり、魔導書を腰に戻した。


 宿を出る前に、俺はもう一度だけ聖剣の鞘へ手を触れた。冷たさは変わらない。光もない。ただ重みだけがある。その重みを腰に置いたまま、俺たちは朝の港へ出た。


──────────────────────────────


 港警備の詰所は港の北端にある。


 宿から北へ向かう道は、荷車の轍が乾ききらずに残っていた。魚を積んだ籠、濡れた縄、帆布を抱えた若い水夫。街は動いている。けれど人の視線は時々こちらへ流れた。俺のサッシュを見る目、腰の聖剣を見る目、そしてヴァローの灰色のローブを見る目。聖教会の旗が掲げられた小さな建物の前では、足を止めて祈る者と見上げるだけの者が分かれていた。


 港の北端へ近づくと、潮の匂いに木材と油の匂いが混じった。詰所の前には短い旗竿があり、港警備隊の印が朝風に小さく揺れている。扉は開いていた。


 隊長は四十代の男で、昨日の朝にも別の用件で会っているらしい。厚い肩をした実務家の顔だった。俺たちが部屋に入ると、椅子から立ち上がって短く礼を返した。


「聖教会派遣の勇者一行の方、お越しいただきありがとうございます」


「お忙しい中、お時間をいただいて感謝します」


 俺は深く頭を下げた。ヴァローは横で短く礼をするだけにとどめた。隊長は俺たちに椅子を示し、自分も座り直して業務的な表情に戻った。


 壁には港の簡易地図が掛かっていた。赤い印がいくつか打たれている。海賊三隻の襲撃位置、商船の針路、港警備の艦艇の移動。机の上には報告書が積まれ、端の方に砂粒が乾いて残っていた。


 隊長は海賊三隻の襲撃の経緯から話し始めた。商船の損害、港警備の艦艇の対応、そして客員賢者の援護。淡々とした口調が続く。言葉は乾いているが、乾いているからこそ現場の重みが消えない。


「客員賢者の蒼凪殿の援護がなければ、商船は失っていました」


 隊長は短く言葉を置いた。形式ではない、実務家としての評価だ。俺はその言葉を胸に置いた。まず救った事実がある。そこを見落としてはいけない。


「援護の内容は」


 ヴァローが横から質問した。


「海上での魔法戦闘です。海賊船三隻のうち、一隻が沈没しました」


「沈没の質感は」


 ヴァローの言い方は丁寧だったが、観察者の質問の鋭さがあった。隊長は一拍止まってから返した。視線が机の報告書へ落ちる。


「海面が深く沈んだと現場の隊員は報告しています。海面が下方にへこんで船ごと吸い込まれた、と」


「水属性の魔法で、ですか」


「私には魔法の専門知識はありません。ただ、現場の隊員は『普通の水属性魔法ではない』と言いました」


 隊長の指が報告書の端を押さえた。紙は動かない。声も動かない。けれど普通ではないという言葉だけが、部屋の中で少し重く残った。


「沈没の前に、別の現象があったと伺いました」


 ヴァローが続けた。


「ええ。海域全体が闇に飲まれたとの報告があります」


「闇に」


 俺は思わず聞き返した。


「夕方でしたが、援護が始まった直後に海域全体の光が一拍遅れて消えたと複数の隊員が報告しています。海面も、空も、船の輪郭も、ほぼ見えなくなった、と」


「夜の闇とは違ったのですか」


「夜には星か月の薄い光があります。あの闇は光そのものが奪われた質感だったとの証言です」


 俺は息を一拍止めた。隊長は事実だけを並べていた。余計な恐れも、賛辞も添えない。だからこそ、光そのものが奪われたという言葉が直に胸へ入ってくる。


「援護に入った客員賢者の船、商船、海賊三隻、いずれも闇の中で動きを失いました。海賊側は統制を崩し、商船は救援に動けず、港警備の艦艇も接近を遅らされた、ということです」


「賢者殿は、その闇の中で」


「動かれていたようです。闇の中で海賊船を一隻沈める動作を完了されました」


 ヴァローが俺の方を一拍だけ見た。灰色の瞳が細くなる。観察者の眼が、その情報を一段深く受け取っている合図だった。


 俺は隊長の顔を見た。隊長は俺たちを怖がらせようとしているわけではない。蒼凪殿を悪く言うつもりもない。ただ報告として必要な線を並べている。戦場を生き延びた者の言葉は、余分な熱を落とすほど重い。


「ありがとうございます」


 俺は短く礼を言う。ヴァローも短く頭を下げた。


 詰所を出る時、北端の風が顔を叩いた。潮と乾いた紙の匂いが鼻の奥に残っている。俺の中で一つの輪郭が薄く立ち上がった。


 海面が深く沈んだ。海域全体が闇に飲まれた。光そのものが奪われた。


 事実の言葉が三つ並んだ。事実だけなら援護として整理できる。商船は救われた。海賊船は沈んだ。港の被害は抑えられた。けれど三つを並べると、言葉の重みが一段増した。読み手の俺は、その重みを評価する判断軸をまだ持っていない。


──────────────────────────────


 商船の生存者は商家連合支部の小部屋で待っていた。


 支部は港に面した通りから一本奥に入った場所にあった。表の広間では商人たちが低い声で帳簿を交わしている。香辛料の匂い、乾いた革袋の匂い、インクの匂い。奥の小部屋へ案内されると、外のざわめきは厚い扉に吸われた。


 三十代の男で、商人の助手、左腕に怪我の包帯。包帯はまだ新しく、肩から肘にかけて布が重ねられている。椅子に座って俺たちを迎え入れた。声は弱かったが目は曇っていない。昨日も別の人物が聞き取りに来たらしいと、生存者は短く告げた。


「客員賢者の蒼凪殿、と伺いました」


 俺はその名を反芻した。昨日の聞き取りは蒼凪本人だったらしい。住民が「海面を沈めた賢者」と呼ぶ男が、生存者を直接訪ねていた。事実の重みが胸に薄く沈んだ。


「あなたは聖教会から来られた勇者一行の方ですね」


「ええ」


 俺は短く頷いた。


「海賊事件の経緯と、ご主人を救った援護の内容について、お伺いできますか」


「お話しします」


 生存者は卓の上で両手を組んだ。怪我をしていない右手が、包帯の巻かれた左腕を庇うように添えられている。指先にはまだ力が入りきらないらしい。それでも視線は逃げなかった。


「海賊三隻に襲われたのは事件当日の夕方でした。私たちは中型商船、貨物と乗員あわせて十数名。海賊側は三隻、二隻が大型、一隻は小型でした」


「援護に入られたのは」


「客員賢者の蒼凪殿と、海守り衆のサルヴァトーレ家の当代の方です」


 俺の中で名前が一つ増えた。海守りの当代、サルヴァトーレ家。海守り衆の若手の方ではなく、当代を名乗る人物が直接戦闘に入っていた。


「お二人は連携して援護されました」


 生存者は続けた。


「賢者殿が魔法を、海守り殿が前衛を、というように」


「賢者の魔法の内容は」


 ヴァローが横から短く問うた。


 生存者が一拍止まった。喉が上下し、視線が卓の木目へ落ちる。それから言葉を選びながら言った。


「上手く言えません。最初に来たのは、闇でした」


「闇」


「ええ。まだ夕方の薄い光が残る時刻でした。それが賢者殿の詠唱の直後に、世界の光が一段ずつ落ちていったんです」


 生存者は卓の上の両手を一度握り直した。包帯の布がわずかに擦れる。


「海面の色も、空の色も、船の輪郭も、すべてが暗い深海色に沈んでいきました。やがて仲間の顔も、自分の手も、海面も、何も見えなくなりました。完全な闇です」


「夜の闇とは違いましたか」


 ヴァローが横から質問を挟んだ。


「違います。夜には星か月の薄い光がある。あの闇は光そのものが奪われた質感でした。音も、海風も、すべてが一段遠くなり、私たちは闇の中で動けませんでした」


 俺は息を呑んだ。音も海風も遠くなる闇。見えないだけではない。世界との距離が引き離されるような暗さ。そう聞こえた。


「海賊側も、闇の中で命令の声が乱れていました。連携が完全に破綻していたと、聞こえる範囲では」


「闇の中で、賢者殿は」


「動いておられました。何かが動く気配だけが届いていました」


 生存者は声を一段落とした。部屋の外のざわめきが遠のく。俺は無意識に背筋を伸ばしていた。


「それから、海面が沈み込みました。低く重い破裂音が一つ、海そのものを通る音でした。私の胸の中で内臓が一拍揺れた感触もあった、とも言えます。それから大きな波が広がって、海面が下方にへこんだんです。真っ黒な渦が一瞬広がり、船が消えました」


 俺はもう一度息を呑んだ。


「真っ黒な渦」


「ええ。私の目には、そう見えました。海そのものが船を食べたような、という感想を抱きました」


「他の方の証言も、同じですか」


「他の生存者にも聞いていただきたいのですが、皆同じことを言っています。闇に飲まれて、それから海そのものが食べた、と」


 ヴァローが俺の方を一度見る。視線が一拍だけ交わった。俺はヴァローの視線の意味を内的に受け取る。観察者の眼が、闇と沈み込みの二つの現象を一段深く受け取っている合図だ。


「賢者殿への評価は」


 俺は質問を続けた。


「感謝しています、命を救っていただいた」


 生存者は短く頷いた。その言葉だけは迷わなかった。怪我をした左腕の上に右手が置かれる。痛みを確かめる仕草ではなく、生きていることを確かめる仕草に見えた。


「ただ、と言いますか」


「ただ」


「あの力は、恐ろしい力です」


 生存者は声を一段落とした。


「救われた事実と恐ろしいと感じる事実が、同居しています。賢者殿を悪く言うつもりはありません。ただ、あの闇の質感と海面の沈み方は普通の水属性魔法ではないと私には感じました。光を奪う魔法は、聖教会の方々の中にもおありかもしれません。けれど、あの闇は別のものでした」


 俺は短く頷いた。生存者は俺の頷きを受けて、少し肩の力を抜いた。自分の感じた恐ろしさを否定されなかったことに、安堵したようにも見えた。


「お話、ありがとうございました」


 俺は深く頭を下げた。ヴァローも短く頭を下げた。


 部屋を出る道で、俺の中の輪郭が一段濃くなった。光が奪われた闇の領域、海面の深い沈み込み、低く重い破裂音、真っ黒な渦、海そのものが食べる感触。証言の言葉が幾重にも積み上がっていた。


 生存者の感情が「救われた」と「恐ろしい」を同居させている。どちらか一方ではない。命を救った手が恐怖を残す。その矛盾を、彼はごまかさずに抱えていた。事実だけなら援護として整理できる。けれど闇と沈み込みの二段構造は、賢者の通常の体系で説明がつくとは思えなかった。


 ヴァローが横から短く言った。


「光属性ではない、闇の領域を作る賢者がいるとは」


「闇属性ですか」


「闇属性であれば、月読みの塔でも扱えます。ただし、領域の質感がこちらの体系には収まりません」


「月読みの塔の闇属性とは違う」


「夜の闇は、星と月の光を残す。あの闇は、光そのものを奪うとの証言です。塔の闇属性魔法では、光そのものを奪う領域は作れません」


 ヴァローの口調は皮肉ではなかった。観察者の眼が、闇の質感を一段深く読んでいた。


 通りへ出ると、昼の光が強くなっていた。白い壁が眩しい。だからこそ余計に、光そのものが奪われるという証言が胸に残った。俺はその光の中で、鞘の重みをもう一度感じた。


──────────────────────────────


 漁師の聞き取りは港の南側の桟橋で行った。


 南側へ向かう道は狭くなり、網を干す杭が増える。潮の匂いは濃くなった。干された網には小さな鱗が光り、風が吹くたびに乾いた音を立てる。桟橋の板は陽に焼けていて、踏むと低く軋んだ。


 老人で、海賊事件当日の夕方に桟橋から戦闘の様子を一部目撃した一人。日焼けした皺の深い顔、煙管をくわえているが火は点していない。煙管の先には古い歯形がついていた。何度も噛みしめてきた道具の跡だった。


「聖教会の方ですか」


 老人は煙管を一度離して俺たちを見た。視線は警戒寄りだった。敵意ではない。けれど受け入れる色でもない。海洋同盟の港町での聖教会への警戒の温度が、老人の顔の皺の深さに混ざっていた。


「ええ。勇者一行で、聞き取りに来ました」


 俺は柔らかく言った。老人は煙管をもう一度くわえた。火は点さない。灰もない。ただ口に置いている。話す前に海を見るための間合いのようだった。


「事件の話ですか」


「ええ。海賊船が沈んだ瞬間を、ご覧になったと伺いました」


「見ましたよ」


 老人は短く返した。


「桟橋の上から、海域全体を見ていました。最初は、闇でした」


「闇」


「夕方の海域が、急に夜よりも深い闇に飲まれました。光そのものが消えた、と言うべきか。桟橋の上の私には、海賊船も、商船も、賢者殿の船も、すべての輪郭が見えなくなりました」


 老人は煙管を口から離した。視線は海へ向いたまま動かない。


「闇の中で、海賊たちの叫び声だけが薄く届きました。それから低く重い音が一つ、海の底から押し上がってきた音。それから海面が深く沈んで、船が吸い込まれたんです」


「どう見えましたか」


「海そのものが食べたように見えました」


 老人は煙管を一度握り直した。指は節くれ立ち、爪の際に黒い汚れが残っている。海で生きてきた手だった。


「あの闇と、海の沈み方。あれは普通の魔法じゃない。何か別のものです。あれだけのことを、人がやっていいのか、私には分かりません」


 俺は息を呑んだ。老人の感情は、生存者の感情よりも一段強く「恐ろしさ」の方角に傾いていた。命を救われた者ではなく、海を見てきた者の言葉だ。闇の領域と海面の沈み込みを併用する賢者の輪郭が、住民の畏怖の中で一段濃く描かれている。


 ヴァローが横から短く挟んだ。


「人がやっていいのか、というのは」


「魔法の話じゃない。海の話です」


 老人は煙管を口に戻した。


「海守り衆と海神信仰の人間にとっては、海はただの戦場ではないんです。海そのものが食べたという形は、海への礼儀の問題でもある。光を奪う領域を海上に張るのも、同じ系譜の話です」


「礼儀ですか」


「賢者殿が悪い人だとは思っていません。ただ、あれだけの力を、海に対して使うのは、海の側からすればどう映るか、と」


 老人は短く首を振る。それ以上は語らない。海を見る横顔に、俺たちへ説明しきる気配はなかった。わかる者にはわかる、という沈黙でもない。わからない者へ渡しすぎる必要はない、という線引きだった。


 俺は短く頭を下げて礼を言った。老人は煙管を口に戻して、こちらに目もくれない。会話は終わったという合図だ。


 桟橋を離れる道で、ヴァローが横から短く言った。


「興味深い」


「興味深い、というのは」


「住民の畏怖の構造が思っていたより深い、ということです。それから、闇と沈み込みの二段構造の方も」


「二段、というのは」


「光を奪う領域と、海面を深く沈める権能。二つの異質な現象を、賢者殿は同一の戦闘の中で併用しておられる」


 ヴァローの口調は皮肉ではなかった。観察者の眼が、二つの現象の併用の質感を読んでいた。


「観察できる範囲では、現象の質感は深淵的な質感に近い」


「闇の領域と、海面の沈み込み、両方が」


「両方です。闇属性魔法で領域を張る賢者は塔にもいます。水属性で海面を操る者もいます。ただし、両者を併用して海域全体を支配する権能は、私の知る通常の体系には登録されていません」


 俺は短く頷いた。桟橋の向こうで波が低く崩れる。あの穏やかな海面が深く沈んだのだと考えると、背中の革鎧の下に汗がにじんだ。


「結論を急がない、と昨夜お前は言った」


「ええ」


「俺もそう思う」


 ヴァローは一拍だけ俺の方を見て、それから視線を前に戻した。皮肉は出さなかった。俺の言葉を、観察者として受け止めていた。


 俺は海を振り返らなかった。振り返れば、穏やかさに引きずられて判断を軽くしてしまいそうだった。証言は証言として持つ。今見える海だけで、あの日の海を上書きしない。


──────────────────────────────


 海守り衆の詰所は港の中ほど、海岸線に近い場所にあった。


 南側の桟橋から戻る道で、街の温度が変わった。商家の通りよりも声が低く、歩く人の足取りが固い。海守り衆の詰所へ近づくほど、聖教会の紋章へ向けられる視線は短くなった。長く見ない。けれど見ないわけではない。その短さの中に、慣れた警戒があった。


 白い石造りの平屋、入口に海神を祀る小さな祠があった。祠には乾いた花と小さな貝殻が置かれている。祠の前で老人が二人、何か低い声で話していた。俺たちが近づくと話が止んだ。一人が短く頷いて道を譲った。譲るというより、距離を取った動きだった。


 詰所の中に入ると、潮で白く曇った窓から光が差していた。壁には縄と救難用の鉤が掛かっている。机の前に若手の海守りが一人座っていた。二十代前半の男で革ベースの軽装。潮鎚は壁の脇に立てかけてある。柄には使い込まれた手の跡があった。


「聖教会の方々、ですか」


 若手は立ち上がった。礼儀は尽くしていた、ただし表情は冷淡だった。声には棘がない。だから余計に距離がはっきりしている。


「ええ。勇者一行で、海賊事件のお話を伺いに来ました」


 俺は深く頭を下げた。ヴァローも短く礼をした。若手は短く頷いて椅子を勧めた。俺たちは座った。椅子の硬い座面が革鎧越しに伝わる。


「事後処理のお取り組み、お疲れさまです」


 俺は柔らかく切り出した。若手は短く頷くだけだった。


「海賊船の制圧、商船の救援、援護の連携、すべて海守り衆の方々の働きが大きかったと伺っています」


「お役目です」


 若手は短く返した。それ以上は語らなかった。言葉の端を伸ばさない。こちらが入り込む隙間を残さない話し方だった。


「援護の連携の内容について、少しお伺いしてもよろしいですか」


 俺は質問を続けた。


「客員賢者の蒼凪殿とサルヴァトーレ家の当代の方が、援護に入られたと伺いました」


「ええ」


「援護の内容を、海守り衆の方の側から、お聞かせいただけますか」


 若手は一拍止まった。目だけが俺からヴァローへ移り、また戻る。それから事務的な口調で返した。


「商船の救援を最優先に、海守り衆と賢者殿の連携で対応しました」


「もう少し、詳しく」


「詳しくは、申し上げる立場にありません」


 若手の声は冷たくはない。ただ、業務的な拒絶の温度がある。礼儀の枠の中で、最小限のことしか共有しないという姿勢だった。扉は開いているのに、内側へ進ませない。そういう応対だ。


「賢者殿の魔法について、海守り衆の方の所感は」


 俺はもう一段踏み込んだ。


「賢者殿の魔法については、お答えする立場にありません」


「お答えする立場、というのは」


「私は若手です。当代の方や長のトルバさんに、ご質問いただくのが筋です」


「では、トルバさんにお会いできますか」


「あいにく、本日は港湾の業務で外出されています」


「お戻りはいつ頃ですか」


「未定です」


 俺は短く頷いた。アウェーの構造が、若手の言葉の背後で動いていた。長のトルバも当代のサルヴァトーレ家の人物も、俺たちには会えない。礼儀の枠の中で二人とも遠ざけられている。


 ヴァローが横から短く挟んだ。


「興味深いですね」


 ヴァローの口調は皮肉が一段強かった。観察者の防御として、皮肉を仮面にした言葉だった。灰色の瞳が若手の返答を見ている。攻めているのではない。測っている。


「興味深い、と言いますと」


 若手が短く問い返した。


「聖教会の派遣に対するお応対が、海守り衆の方の温度として一段測りやすいということです」


 ヴァローの皮肉は鋭かった、ただし礼儀の枠は崩していなかった。若手は一拍止まってから返した。


「お応対に粗相があれば、お詫びいたします」


「粗相ではありません」


 ヴァローは短く首を振った。


「海洋同盟内での、聖教会の立ち位置の話です。それ以上はありません」


 若手は黙る。沈黙は認める言葉でも否定する言葉でもなかった。ここではそれが返答なのだと、俺にもわかった。


 ヴァローは短く頭を下げて立ち上がった。俺もそれに合わせて立つ。


「お時間をいただきありがとうございました」


 俺は深く頭を下げた。若手も短く頭を下げた。礼儀は崩れていなかった。けれど詰所の中の温度は、最後まで冷淡だった。


──────────────────────────────


 詰所を出た時、俺の胸の奥で別の感情が一瞬燃えた。


 勇者として住民の不安を鎮めに来たつもりだった。けれど海守り衆は俺たちを「外から来た客人」として礼儀の枠に押し込めて、詳細を共有しない。お飾りの自覚を、現場の対応が直接押し返してくる。俺の存在が海洋同盟内では象徴として通用しないという現実が、若手の冷淡な言葉の背後で動いていた。


 俺は剣の柄に手をかけそうになって、止めた。


 止めて、息をついた。


 指先に残った熱が恥ずかしかった。抜く相手などいない。若手は礼儀を守った。俺も礼儀を守った。なのに胸の奥だけが遅れて燃えた。燃えたものを外へ出せば、俺は勇者ではなくなる気がした。


 ヴァローが横で短く言った。


「気にしないでください、レオン」


「気にしていない」


 俺は短く返した。声が一段硬かったかもしれなかった。ヴァローはそれ以上は言わなかった。彼が皮肉を重ねなかったことに、俺は少し救われた。


 桟橋の方角に視線を戻した。海面は穏やかだった。陽光が細かく砕け、波の上で白く散っている。海賊船が沈んだ海域は、もう見えない場所にあった。住民の証言の中の「真っ黒な渦」は、今はどこにもない。事実は事実として残っているが、現場には残っていない。


「次は」


 ヴァローが短く問うた。


「宿に戻ろう」


 俺は短く返した。


「観察結果を整理する時間が、要る」


 ヴァローは短く頷いた。


 桟橋の道を二人で歩いた。足元の板の隙間から、海の黒い影が見える。子どもが遠くで水桶を運んでいたが、俺たちの方を見るとすぐに視線を逸らした。聖教会の勇者という印は、中央大陸では道を開く。ここでは同じ印が距離を作る。


 海守り衆の詰所の白い石造りが、午後の太陽の下で一瞬赤く滲んだ。光が壁を斜めに切る角度のせいだった。血の色ではない。夕方にもまだ早い。そうわかっていても、俺の胸は一度だけ強く脈打った。


 俺は視線を前に戻した。歩いた。


──────────────────────────────


 宿の二階の部屋に戻ったのは午後の遅い時間だった。


 階段を上がる足に、朝より少し重さがある。革鎧を脱ぐほどではない。けれど肩の留め金の下に汗が乾き、サッシュの端が腰に張り付いていた。部屋の窓は半分開いている。潮風と夕方前の光が、卓の上へ斜めに入っていた。


 ヴァローが地図を卓の上に広げて、聞き取りの内容を順に並べた。港警備隊長の証言、商船生存者の証言、漁師の証言、海守り衆の冷淡な対応。情報の質感が、それぞれ違う温度で並んだ。


 俺は水を一口飲み、卓の向かいに立った。地図の紙は少し湿っている。港の線、航路の線、詰所の印。昼に歩いた道が、紙の上では驚くほど短い。


「観察できる範囲では」


 ヴァローが切り出した。


「賢者の魔法の質感は、通常の水属性魔法の体系には収まりません。住民の証言は二段構造で一致しています。第一段は光を奪う闇の領域、海域全体に展開された、夜の闇とは異質の光の不在。第二段は海面の深い沈み込み、低く重い破裂音、真っ黒な渦、船を海ごと飲む現象」


 ヴァローは指を一本立て、それから二本目を立てた。指先は細く、魔導士らしく傷が少ない。けれど今日の指は、紙の上で戦場の線を引いている。


「闇属性魔法で領域を張る賢者は塔にもいます。水属性で海面を操る者もいます。ただし、両者を一つの戦闘の中で併用して海域全体を支配する権能は、私の知る通常の体系には登録されていません。これは何らかの神格魔法か、秘匿された体系の可能性が高い」


「深淵側の力かどうか」


「断定はできません」


 ヴァローは短く首を振った。


「私の見立てでは、深淵的な質感に近い。ただし近いだけです。同じだとは言えない」


「近い、と言うのは」


「光を奪う領域は、深淵の側の権能の質感に重なります。海面が深く沈む現象も、深淵への通路を開く動作に近い質感があります。二つを併用する賢者の輪郭は、私の手元の知識では深淵側の体系に最も近い場所に置かれます」


 ヴァローは一拍置いた。窓の外から、港の掛け声が薄く届く。


「ただし賢者殿はそれを商船の救援のために使ったというのが住民の証言です。深淵側の力であれば、商船を救う動機は説明しにくい」


 俺は地図の上の港の輪郭を一度撫でた。紙のざらつきが指先に残る。線の上に人がいる。救われた商船があり、恐れた住民がいる。俺たちへ閉じた詰所がある。


「住民の畏怖が、賢者殿への評価を『敵か味方か』の境界線の手前まで押している」


「ええ」


「海守り衆は、賢者殿を信頼している。けれど詳細を俺たちには共有しない」


「アウェーの構造です」


 ヴァローは短く返した。


「聖教会の象徴は、海洋同盟内では通用しない。住民は賢者殿への畏怖を抱きつつ、海守り衆の方を信頼している。私たちは外から来た者として、信頼の温度差の外側に立つ」


 俺は短く頷いた。言葉はわかる。頭では整理できる。けれど胸の奥には、海守り衆の若手が礼儀正しく拒んだ温度が残っている。俺は一拍置いて、自分の中の言葉を確かめてから口にした。


「結論を急がない、と昨夜お前は言った」


「ええ」


「俺はその姿勢を、内的に取り入れたい」


 ヴァローが俺の方を一拍だけ見た。視線が交わった。皮肉は出てこなかった。


「観察者の本懐は皮肉ではなく観察だと、お前は示した」


 俺は続けた。


「俺は勇者として、判断を急ぎたい性分だ。けれど今回は、急ぐべきじゃない。賢者殿が敵か味方か、俺の腹ではまだ決まらない。住民の証言は重い。お前の観察も重い。けれど、商船を救った賢者を、俺は一度の聞き取りで深淵側に置きたくない」


 ヴァローは短く頷いた。


「同意します」


 その短い同意に、余計なものはなかった。慰めでもない。評価でもない。観察者として、今の判断を並べた同意だった。だから俺は受け取れた。


「明日以降、観察を続けよう」


「ええ」


 ヴァローは地図を畳んで卓の脇に置いた。それから月読みの魔導書を腰に下げ直した。革の表紙が鈍い音を立てる。皮肉屋の仮面は、午後の対話の中で一段引っ込んでいた。観察者の本懐が、彼の佇まいに残っていた。


「カイには」


 ヴァローが短く問うた。


「今日の聞き取りの内容を、共有する。ただ、賢者殿への疑念は、まだ薄い形で。カイは穏やかな性質だ、深淵という言葉を急いで耳に入れる必要はない」


「同意します」


「ガイウスにも、共有する」


 ヴァローは部屋を出ていった。短く頷いて、扉を閉めた。


 扉が閉まる音の後、部屋の中に紙と潮の匂いだけが残った。俺はしばらく地図の畳まれた端を見ていた。閉じた紙の中に、今日聞いた声が全部挟まれているような気がした。


──────────────────────────────


 俺は窓辺に立った。


 港湾の夕方の光が、街の屋根を金色に近い橙に染めていた。白い壁は昼の眩しさを失い、影の輪郭が長く伸びている。海風が緩やかに吹いて、潮の匂いが薄く広がっていた。海面は穏やかだった。海賊船が沈んだ海域は、もう見えない。住民の証言の中の「真っ黒な渦」も、今はどこにもない。


 俺は窓辺で胸の中の輪郭を一度確かめた。


 賢者殿の輪郭は、歪んでいる。光を奪う闇と、海面を深く沈める力。二つを併せて使う賢者の姿は、ヴァローの口でも深淵側の体系に近いと言われた。けれど、商船を救った男が深淵側だとは、俺の腹はまだ言わない。海守り衆も、賢者殿を信頼している。俺の手元には、まだ足りない。判断を急がないと俺は決めた。それでいい。それでいいはずだ。


 ただ俺の胸の奥で、別の輪郭も歪み始めていた。


 勇者として住民の不安を鎮めに来たつもりだった。けれど海洋同盟内では、俺の象徴は通用しない。お飾りの自覚を、海守り衆の冷淡な対応が直接押し返してきた。本物の勇者の血統が断絶しているという疑念は、誰にも口に出していない。けれど胸の奥に薄く沈んでいる。今日の聞き取りで、その沈み方が一段深くなった気がした。


 孤児院で初めて聖剣の名を聞いた夜を、ふと思い出した。年下の子どもたちは眠っていて、窓の外に冬の月があった。俺はまだ剣を持つ前で、勇者という言葉だけが遠く光っていた。手を伸ばせば届くものではないと知りながら、それでも光の方へ顔を向けていた。


 今の俺の腰には聖剣がある。けれど重みは光そのものではない。鞘、柄、金具、革帯。手にあるものは確かだ。届いていないものも確かにある。その二つを同時に持つことに、俺はまだ慣れていない。


 それでも、と俺は思った。


 派遣された以上は役目を果たす。信じることが疑念の代わりになる。昨夜の打ち合わせで、俺は自分にそう言い聞かせた。今日の聞き取りで、その言い聞かせが少し弱くなった気もする。けれど崩れてはいない。


 俺は窓辺から離れて、卓の上の地図をもう一度開いた。紙が乾いた音を立てる。海賊船が沈んだ海域、商船の航路、海守り衆の詰所、賢者殿が今もどこかで動いている街の輪郭。地図の上に、いくつもの線が交差していた。そのどれもが、まだ完全には繋がっていなかった。


 繋がっていないものを、無理に繋げるな。ヴァローの言葉はそういう形で俺の中に残っている。俺の性分は、道が見えたら進みたい。敵が見えたら斬り込みたい。住民が不安なら、すぐに安心させたい。けれど今日の現場は、それだけでは届かなかった。


 ヴァローの足音が階段の下で聞こえた。カイへの共有を済ませて戻ってきたらしい。廊下の床板が短く鳴り、また静かになる。俺は地図を畳んで卓の脇に置いた。


 明日も、聞き取りを続ける。観察を続ける。結論を急がない。


 俺は剣の柄を一度撫でた。聖剣の鞘が、夕方の光の中で薄く光った。光は弱かった。本来の戦略級権能はまだ届かない。今は届かなくていい、と俺は自分に言い聞かせた。今日の俺は、判断を急がない姿勢を一つ手に入れた。それで一日分の役目だ。


 窓の外で、水色の空が深い藍に沈み始めていた。

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