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群青幻想  作者: 滄龍 青司
CantoⅠ
15/61

祈りと、還しと

 港の朝は柔らかい光に満ちていた。


 私は小教会の祭壇の前でロザリオを胸元に当てて短い朝の祈りを終えた。蝋燭の炎が祭壇の左右で揺れて白い壁に淡い影を作っていた。地元の伝道師は早朝の信徒の見送りに出ていて、教会の中には私一人だった。


 床石は夜の冷えをまだ少し残していた。膝を離す時に祭服の裾がかすかに擦れた。白い壁には光神オルヴェリスの紋章が控えめに掛けられている。大きな教会の堂々とした祭壇とは違う。けれど小ささの中に祈りの通った静けさがあった。


 聖典を腰の革紐に下げ直し、薬草と包帯の入った布袋を肩に掛けた。今朝の予定は、海賊事件で亡くなった信徒の遺族のもとへ伺うことだ。中央大陸から数年前に移住してきた家族で、亡くなった船員は地元の小教会に通っていた信徒だった。祈祷と、遺された家族の心のケアと、薬草・包帯の手当て。教会の伝道師から名簿を受け取って、二件の家を回る予定にしていた。


 布袋の中をもう一度確かめた。乾かした薬草。清潔な包帯。小さな軟膏の壺。神官の旅装には祈りだけでは足りない日のための実用品が詰まっている。救いは言葉で届く時もあり、布で巻いた手首の痛みが和らいだ時に届くこともある。


 蝋燭の火を消して教会の扉を開けた。海風が一拍だけ頬を撫でた。


 レオンは昨夜、宿の部屋で私と長く話さなかった。打ち合わせの後で疲れていたようだった。深淵なる神という言葉を彼は信じようと努めていた。私はその努力の重さを兄として知っている。本部が彼を派遣した理由を彼は完全には信じていない。それでも彼は派遣された以上は役目を果たそうとする。私はそれを支える側にいる。


 ヴァローの皮肉は鋭かったが、彼が打ち合わせの最後に皮肉を引っ込めた瞬間も私は見ていた。観察者の本懐は皮肉ではないと彼自身が言葉の外で示していた。ガイウスは寡黙だが四人の中で最も土台のように立ち続けている。私はその三人をそれぞれに支える役目を与えられている。今日の仕事はその役目の一日分だ。


 港湾に向かう坂を下りる途中で商人たちが店先で朝の準備をしていた。海賊事件の三日目、街は事件の輪郭を抱えたまま日常に戻り始めていた。海守り衆の若手が桟橋で旅人の身元を確認している姿が坂の途中から見えた。普段は行わない作業だと伝道師から伺っていた。


 店先の布はまだ湿り気を含んでいた。魚籠を運ぶ男の肩には潮の白い跡がついていた。焼きたての薄いパンの匂いが路地から流れてくる。日常は強い。人は悲しみを抱えたまま釜に火を入れ、戸板を開け、朝の代金を数える。


 遺族の家は港湾から少し離れた住宅街にあった。白い漆喰の壁、青い扉。中央大陸の意匠を控えめに残した家造りで、海洋同盟の港町の中では微かに浮いて見えた。


 青い扉の金具には磨かれた跡があった。細い窓枠の彫りは中央大陸の町家に似ている。海に寄せて暮らしながらも、遠い土地の形を家の隅に残している。その控えめなこだわりが胸に触れた。


 私は扉を叩いた。


──────────────────────────────


「光神のご加護を。聖オルヴェリス教会から伺いました、カイ・グレイスと申します」


 中から低く落ち着いた声が返ってきた。


「お入りください」


 扉を開けた女性は三十代半ばだった。目元が腫れていた。昨夜あまり眠れなかったらしい。服装は白い喪の布で髪を簡素にまとめている。私は深く頭を下げて家の中に入った。


 家の中には煮出した茶の匂いが残っていた。窓は細く開けられていて、港の音が遠く薄く入ってくる。床は丁寧に掃かれていた。悲しみの中でも家を整えようとした手の跡が見えた。


 そして家の中に既に先客がいた。


 居間の卓の前に海守りの戦闘服を着た青年が一人、椅子に座っていた。革ベースの軽装、深い藍と砂色の重ね着、潮鎚を背中の革紐に下げている。左耳には小さなプラチナのピアスが光っていた。短髪の黒、茶色の瞳、褐色の肌。海辺で働く人の身体つきだった。


 彼は立ち上がった。立ち上がる時の姿勢が綺麗だった。十代後半か二十代前半の若さに似合わない落ち着き方をしていた。背は高く、肩の線は戦士のものだった。けれど威圧ではなく、場所を荒らさないための静けさをまとっていた。


「失礼します」


 青年が短く頭を下げた。


「ヒュウマと申します。海守り衆の方から聞き取りに伺いました」


「カイ・グレイスです。聖オルヴェリス教会から祈祷とご家族のケアに伺いました」


 私たちは互いに名乗った。距離は卓の長さ分。視線が一拍だけ交わった。海守りの青年の視線は警戒と短い興味のあいだを揺れていた。教会の神官という肩書を彼は普段あまり間近で見ない立場かもしれなかった。けれど私の挨拶を聞いた後で視線は穏やかな線に落ち着いた。


 奥さんは私たちを見比べて少し戸惑った顔をした。


「両方の方がいらしてくださって」


「もしご都合が悪ければ私の方は後でも構いません」


 私は柔らかく言った。ヒュウマさんが短く挟んだ。


「俺の方こそ続けてもらって構いません。聞き取りは急がなくても」


 奥さんは小さく頷いて奥の部屋に視線を向けた。


「子どもが奥で寝ています。昨夜ようやく」


 声が震えた。語尾を呑み込むように。


 私はロザリオを胸元で握り直した。


「どうぞお続けください。私は、子どもさんが起きてからでも構いません。先に祈りの場をお作りしてもよろしいでしょうか」


「お願いします」


 奥さんは深く頭を下げた。ヒュウマさんが椅子を一つ私のために引いてくれた。短い動作だったが自然な動作だった。私は会釈を返して卓の脇に薬草の布袋を下ろした。


 椅子の脚が床に触れる音さえ彼は小さくした。奥の部屋で眠る子どもを気遣っているのだと分かった。その気づかいは神官の所作とは別のところで身についたものだ。海で人を助ける者の手つきなのかもしれない。


──────────────────────────────


 奥さんは私とヒュウマさんを卓の前に座らせて、お茶を運んできた。


 茶は薄く湯気を立てていた。椀の縁には指の跡が少し残っている。眠れない夜のあとで何度も茶を淹れ直したのだろう。奥さんの手は赤く荒れていた。私は薬草の布袋の位置を少し引き寄せた。


「私が先に伺っていたのは昨夜のことです」


 奥さんは卓に椀を置きながら言った。


「ヒュウマさんが海守りの方として、海で亡くなった夫の遺品の引き取りについて説明に来てくださいました。それから、海賊の事件の聞き取りもと」


「私たちは夫が亡くなった海域がどこかをまだ知らされていません」


 奥さんの声は静かだった。


「海守りの方がそれを伺いに来てくださいました」


 ヒュウマさんが短く頷いた。彼は椀に手を伸ばさなかった。聞き取りの場で相手の言葉を遮らないために、手を膝の上に置いていた。


「商船は西の外洋寄りで、襲撃を受けました。逃げた海賊船はその方角に去りました。亡くなった方の体がまだ上がっていないお一人の中に、ご主人がいらっしゃいます」


 奥さんは目を伏せた。伏せた睫毛の下に涙が溜まり、落ちる前に彼女は息を整えた。泣くことにも力がいる。悲しみは人を崩すだけではなく、姿勢を保つための筋まで疲れさせる。


「海守りの儀礼で海に沈んだ方の魂を還すことができると伺いました」


「ええ」


 ヒュウマさんが短く返した。


「ただ、それは海神信仰の方の儀礼です。光神オルヴェリスの信徒の方には、別の道がございます」


 ヒュウマさんの言い方は丁寧だった。海守りの当代として信仰の境界を慎重に扱う姿勢が、その一文の中に収まっていた。私はその気配を聞いて胸の奥が一段穏やかになった。


「光神のご加護を信仰の道として歩んでこられたご家族には、教会の祈祷でご主人の魂を光の道へ送り出すことができます」


 私は柔らかく挟んだ。


「それは海守りの方の儀礼とは、別の道です。けれど、目指している場所は近いところにあると私は思っています」


 奥さんは私とヒュウマさんを順番に見て深く頷いた。迷いを消しきれない顔だった。けれど迷いがあるまま選ぶことも、遺された者の大切な仕事なのだと思う。


「夫は信徒でした。教会の祈祷をお願いします」


「承知いたしました」


 私はロザリオを胸元で握り直した。ヒュウマさんが立ち上がろうとした。


「私は聞き取りはまた後日でも」


「いえ」


 奥さんが短く首を振った。


「立ち会っていただけますか。海で逝った夫を見送る場に海守りの方がいてくださると、私には支えになります」


 ヒュウマさんは一拍止まった。それから座り直した。


「お役に立てるなら」


 短い返事だった。けれど語尾の収まり方が奥さんの言葉を静かに受け止めていた。彼が席に戻る時、潮鎚の革紐が背でかすかに鳴った。その音は家の中の静けさを壊さずに沈んだ。


──────────────────────────────


 奥さんは祭壇代わりの小さな卓を家の奥の部屋の入口に整えてくれた。亡くなったご主人の小さな肖像画、海から戻ってきた遺品の指輪、家族で一緒に過ごした朝食の小さな器。それらが布の上に並んだ。蝋燭が一本、奥さんの手で点された。橙の炎が白い壁に揺れた影を伸ばした。


 肖像画の男は穏やかに笑っていた。額の端は少し擦れている。何度も手に取られたものだ。指輪には塩の白さがまだ残っていた。小さな器の縁には欠けがあり、日々の食卓で使われてきた年月が見えた。


 私は祭壇の前に立った。ヒュウマさんは少し離れた壁際に控えめに立ってくれた。


 私は聖典を開かなかった。覚えている祈祷だった。ロザリオを胸元で握って目を閉じた。


「光神オルヴェリス、秩序の主、贖罪の道を示す方よ」


 声は低く穏やかに。


「貴方の信徒、この家の支えだった者が海の道に逝きました。海の暗さの中で迷うことなく光の道へ導き給え」


 家の中の空気が一拍だけ薄く沈んだ気がした。


 私は祈り続けた。聖典の言葉を順に。蝋燭の炎が穏やかに揺れて、家の中の壁の輪郭が薄く優しくなっていく。直接見えるものではない。ただ家の中の音の輪郭が一段柔らかくなる。海風の音が遠くに退き、近くの音だけが穏やかに残る。蝋燭の油の匂いと薬草の布袋から漏れる微かな草の匂いが家の中に薄く広がっていく。


 祈りの途中で自分の呼吸の深さが変わる。胸の奥で言葉が沈み、そこからまた静かに浮かび上がる。光神オルヴェリスの名は、私にとって道の形そのものだ。秩序。贖罪。迷う者に差し出される光。悲しみを消すのではなく、悲しみを抱えたまま歩ける道。


 奥さんは卓の前で頭を下げ続けている。肩が震えている。声は出していない。


 私はロザリオを握り直した。胸の奥で目の前の家族の悲しみを受け取る。重さはある。けれど受け取ることが私の役目だ。受け取ることが私の動かなさの形だと、それだけは肌で感じている。


 祈祷の途中で奥さんの肩の震えが一段穏やかになる。家の奥で寝ていた子どもの寝息が一瞬深くなる。それが家族にとって今夜以降の眠りに繋がる質感であってほしいと私は祈る。教義の外の祈りだが、祈りには違いない。


 ヒュウマさんの気配は壁際にあった。踏み出さず、退きすぎず、ちょうど家族の悲しみを囲む外側に立っている。海守りとしての距離なのだろうか。若いのにその距離を知っている人だと感じた。


 そしてヒュウマさんが壁際から小さく声を出した。


「俺も先日《魂の還し》を行いました」


 声は囁きだった。祈祷を妨げない音量だった。


 私は目を閉じたままその言葉を受け取った。海守りの儀礼。海で亡くなった方の魂を還す儀式。私は耳にしたことがあったが間近で聞くのは初めてだった。


 ヒュウマさんは続けなかった。それだけ言ってまた壁際で控えめに立ち続けていた。私の祈祷を妨げない位置でただ立ち会っていてくれた。


 私は祈祷を最後まで続けた。


「光の道は迷う者にも開かれています。贖罪の道は逝きし者にも続いています」


「光神のご加護がこの家の上に、この海の上に」


 声を止めた。


 奥さんが深く頭を下げた。声を出してありがとうございますと言う。語尾が震えていたが、はっきりとした言葉だ。


 私は頭を下げ返した。言葉を足しすぎてはいけない時がある。祈りの後の沈黙は、祈りの一部として残すべきものだった。


──────────────────────────────


 奥さんが奥の部屋へ子どもの様子を見に行く。私は卓の前に立ったままヒュウマさんの方に視線を向けた。


「ヒュウマさん」


「ええ」


「先ほどの儀礼のお話を後でもう少しお伺いしてもよろしいでしょうか」


 ヒュウマさんは短く頷いた。


「俺の方こそ教会の祈りを間近で見させてもらいました」


「あなたの儀礼はいつ」


「先日です。この港の海岸線で夜明け前に」


 先日。海賊事件で亡くなった商船の死者の中の別の方々の魂をヒュウマさんが還した。同じ事件の死者を別の体系で送る役目をヒュウマさんが担っていた。私はその事実を教会の名簿の外で初めて受け取った。


 教会の名簿には信徒の名がある。誰のために祈るべきかが記されている。けれど名簿の外にも人がいて、家族がいて、見送る者がいる。その当然のことが、この家の薄い光の中で急に近くなった。


「あなたが還された方々と私が今日祈った方は、同じ事件で亡くなられた方々ですね」


「ええ」


「異なる信仰の方々を、それぞれの体系で私たちは見送っている」


 私は自分の声がいつもより一拍ゆっくりだったことに自分で気づいた。


 ヒュウマさんが短く頷いた。


「俺の儀礼は海神の側です。海で逝った方の魂を本来あるべき場所へ還す。家族のもとへ、海そのものへ」


 家族のもとへ。海そのものへ。その言葉は短かったが、彼の中では長い時間を通ってきた言葉のように聞こえた。私はそれを勝手に深く覗こうとはしなかった。ただ声の重さだけを受け取った。


「光神の祈祷は光の道へ送り出す。秩序の中の光の場所へ」


 私は静かに繋いだ。


「異なる体系で目指している場所は、近いところにあると私は感じます」


 ヒュウマさんが卓の上の蝋燭の橙の揺らぎを一度だけ見た。それから私の方に視線を戻した。


「同じと言ってもいいかは俺には分からない」


「ただ、あなたの祈りも俺の儀礼も同じものを目指しているのかもしれません」


 その言葉を聞いた瞬間、私の胸の奥で何かが静かに開いた。


 教義の中で「光神の救済」と「他の信仰の儀礼」は別々の道として教えられてきた。教会の本では、それぞれの信仰には敬意を払うが光の道こそが秩序であり救いであると書かれていた。私はそれを素直に受け入れて神官の道を歩んできた。


 けれどヒュウマさんの言葉は私の中の教義の枠の外から別の角度で響いてきた。彼の儀礼と私の祈祷が「同じものを目指しているのかもしれない」という気づきは、教義の外で受け取った気づきだった。


 それは光神オルヴェリスへの信仰を揺らすものではなかった。むしろ私の知る光の道が、世界の中でどのように人を支えているのかを少し遠くから見せてくれるものだった。祭壇の前だけでは見えない角度。聖典の文字だけでは触れられない温度。


「ありがとうございます、ヒュウマさん」


 私は頭を下げた。


「あなたのお言葉を、私は教義の外で初めて受け取りました」


 ヒュウマさんは短く首を振った。


「俺の方こそ教会の祈祷を初めて間近で見ました」


 奥さんが奥の部屋から戻ってきて、子どもがぐっすり眠っていますと安心した声で告げる。私とヒュウマさんはそれぞれの仕事の続きをしばらくの間進めた。私は薬草と包帯を奥さんに渡して傷んだ手の手当てを少し手伝う。ヒュウマさんは商船の生存者の話を奥さんから簡潔に聞き取る。質問は短く、丁寧だ。


 奥さんの指先には細かなひびがあった。私は軟膏を薄く伸ばし、包帯を巻きすぎないように整えた。手当てをする間、奥さんは何度か奥の部屋に視線を向けた。眠っている子どもの息を心で数えているようだった。


 ヒュウマさんは問いを急がなかった。どの船員が最後にご主人を見たのか。遺品は誰の手で戻されたのか。商船に乗る前の言葉は何だったのか。必要なことだけを尋ね、答えが詰まるとすぐに待った。


 聞き取りの中でヒュウマさんは時々、卓の上の蝋燭の橙の揺らぎを一瞬だけ見ていた。そしてこちらに視線を戻して奥さんの言葉に耳を傾けた。何かを胸に抱えている気配が彼の手の動きに薄く残っていた。けれど私はそれを問わなかった。彼の領分を尊重するのが神官としての作法でもあった。


──────────────────────────────


 二件目の遺族の家は港湾近くにあると伝道師の名簿に記されていた。私は奥さんにまた伺いますとお伝えして家を出た。ヒュウマさんも聞き取りを終えて立ち上がった。


 奥さんは扉の内側で何度も頭を下げた。私はご無理なさらずとだけ添えた。言葉は少ない方が届く時もある。青い扉が静かに閉まると、家の中の祈りの匂いが一筋だけ外へ流れて消えた。


「同じ方角ですね」


 私が言うとヒュウマさんは短く頷いた。


「途中までご一緒しても」


「ええ」


 二人で家を出て午後の港の道を歩き始めた。光は柔らかな橙に傾き、空の高い場所から斜めに射している。海風が緩やかに頬を撫でて、潮の匂いが街並みに薄く広がる。坂の上から港湾の桟橋に着岸している聖オルヴェリス教会の中型輸送船が見えた。光神オルヴェリスの紋章の旗が夕方寄りの光の中で揺れている。


 その船を見て、私は中央大陸から渡ってきた日のことを少し思い出した。甲板の揺れ。白い帆。レオンが水平線を見ながら黙っていた背中。ヴァローが風向きを読み違えない顔で海を見ていた横顔。ガイウスが荷の固定を黙って手伝っていた手。


「あなたは勇者一行の方ですか」


 ヒュウマさんが短く問うた。


「ええ」


 私は柔らかく返した。


「勇者一行の神官として、レオンと共に派遣されています」


 ヒュウマさんは短く頷いた。それ以上は問わない。私の方も彼の聞き取りの細部については問わない。互いの仕事の領分を自然に保つ歩き方だった。


「ヴェラーナ港にはいつまで」


「分かりません」


 ヒュウマさんが短く返した。


「事件の事後処理が落ち着くまではもう少し」


「私たちもしばらくはこの街に滞在します」


「そうですか」


 会話は短かったが沈黙は重くなかった。歩く速度が自然に合っていた。十八歳の前衛戦士と聞いていたが、隣を歩くヒュウマさんの所作は年齢の若さを感じさせなかった。海守りの当代として若くして名が通っているのは、こういう所作が住民の信頼を引いてきた結果なのかもしれなかった。


 足音が石畳に並んだ。私の旅靴は乾いた音を立て、ヒュウマさんの靴は少し低い音を返す。彼は道の端を歩いた。すれ違う荷車の邪魔にならず、こちらが車輪に寄りすぎない位置を自然に選んでいる。


 途中で住民の幾人かがヒュウマさんに頭を下げた。ヒュウマさんは短く頷き返した。儀式装束ではない普段の海守りの戦闘服を着ていても、住民は彼を当代として認識していた。私の白い祭服にも住民の幾人かが視線を寄越した。教会の神官への視線は警戒と興味と信仰的尊敬が薄く混ざったものだった。海洋同盟内の小規模な小教会の温度が視線の質感に表れていた。


 港湾近くの分かれ道で私たちは立ち止まった。


「私はこちらの方角です」


 私が言うとヒュウマさんは短く頷いた。


「俺は港の方へ。詰所に戻ります」


「ヒュウマさん」


 私は一拍置いて続けた。


「もしまたどこかでお目にかかる機会があれば」


「ええ」


 ヒュウマさんが短く返した。


「光神のご加護が貴方の道にもありますように」


 私は深く頭を下げた。ヒュウマさんも短く頭を下げた。


「ありがとうございます」


 それで別れた。


 彼の背中は港の方へ下りていった。深い藍と砂色の服が夕方の光に沈み、潮鎚の革紐が歩調に合わせてわずかに揺れた。私はその背を見送ってから、名簿に記された二件目の家へ向き直った。


──────────────────────────────


 私は二件目の家へ向かう道を一人で歩く。


 午後の光が街の屋根を金色に近い橙に染めている。海風が緩やかに吹いて、潮の匂いが薄く広がる。私はロザリオを胸元で握り直し、ヒュウマの言葉をもう一度頭の中で受け取り直した。


「同じものを目指しているのかもしれません」


 教義の中で私はそれを別々の道として教えられてきた。けれど今日、教義の外で別の角度から受け取る。海守りの儀礼と教会の祈祷が異なる体系で同じものを目指しているという気づき。それは教義の枠を否定する気づきではない。むしろ教義の枠が世界の中で果たしている役割の一つの形を、別の角度から照らす気づきだ。


 教会の枠の中で生きてきた私にはその気づきは新鮮だ。けれど不安にはならない。光神オルヴェリスの教義は私の中で揺らがない。ただ、教義の外にも近いところを目指している道があると肌で受け取る。それだけのことだ。


 孤児院にいた頃、私は祈りの言葉を真っ先に覚えた。食事の前の祈り。眠る前の祈り。誰かが熱を出した夜に唱える短い祈り。言葉はいつも私の手の中にあった。けれど今日の言葉は私の手の外から来た。だからこそ、胸の奥で静かに開いたのだと思う。


 レオンに戻ったらこの出会いを話そうと思う。いや、話さない方がいいかもしれない。レオンは今、本部の意図と自分の役目の間で揺れている。教義の外の気づきを、いま彼に伝える必要はない。彼が落ち着いた時に伝えればいい。


 ヴァローには話さないでおこう。彼の皮肉は今日の出会いの質感を別の方向に削ってしまうかもしれない。観察者の本懐は皮肉ではないと彼自身が示した夜だったが、昨夜の彼が今日の彼であるとは言い切れない。


 ガイウスにはもしかしたら話してもいい気がする。彼は実用家だ。教義の枠の外の話を、別の角度で受け止めてくれそうに思える。


 私は二件目の家の前で扉を叩いた。


 ロザリオが胸元でゆっくりと一度揺れた。


 扉の向こうで足音がした。私は息を整え、白い祭服の袖を指先で軽く直した。今日の二つ目の祈りも、最初の祈りと同じ重さを持っている。悲しみに順番はない。


──────────────────────────────


 二件目の遺族の家を辞して私は小教会へ戻った。


 外に出た時には夕方の色が濃くなっていた。二件目の家でも祈りは長くなった。幼い子はいなかったが、老いた母親が何度も同じ話を繰り返した。私はその話を急がせなかった。亡くなった人の名を何度も呼ぶことが、その人を家の中にもう一度座らせる時間になるからだ。


 伝道師は信徒の見送りから戻っていて、教会の中で簡素な夕餉の準備をしている。光神オルヴェリスの紋章のロザリオを胸に下げ、白い祭服の袖を捲り、台所で湯を沸かしていた。四十代の男で、海洋同盟内に半年前から派遣されている穏健派の伝道師。本部の意図とは少し離れた場所で純粋に布教に向き合っている人だ。


 小さな鍋から湯気が立っていた。硬いパンと薄い豆の煮込みが卓に置かれている。大きな教会の食堂ではない。けれど疲れた日の夕餉としては十分だった。伝道師の袖口には水滴がついていた。


「お疲れさまです」


「ええ」


 私は頭を下げた。


「本日はお祈りを二件、無事に終えました」


「お役目、ありがとうございます」


 伝道師は短く頷いた。


 その言葉は形式ではなかった。彼はこの街で信徒の名を一人ずつ覚え、必要なら家まで歩く人だ。中央の大きな祭壇からは遠い場所で、白い祭服の裾を港の埃に汚しながら祈っている。私はその姿に頭が下がる思いがした。


 私は祭壇の前で夜の祈りを短く唱えた。蝋燭の炎が橙に揺れた。今朝と同じ位置の蝋燭だが、夕方の光の中では炎の橙が一段濃く見えた。


 祈りの言葉の中で私はもう一度ヒュウマの声を頭の中で受け取り直した。海守りの儀礼。同じものを目指しているのかもしれない。教義の外の言葉。


 光神オルヴェリスの教義は世界の秩序の道を示している。けれど世界には教義の枠の外にも人を支える道があるのだと今日、肌で知った。それは教義を疑う気づきではない。教義が世界の中の一つの道として他の道と並んで存在していると知る気づきだった。私の中の信仰は揺らがない。ただ世界の広さを一つ知った。


 祭壇の白い布に夕方の影が落ちていた。私はロザリオを握り、掌の中の銀の冷たさを確かめた。銀はすぐに体温を吸って温かくなる。祈りもそうであってほしい。最初は冷たい言葉に聞こえても、人の手の中で温度を持つものになってほしい。


 明日、私は再び信徒の家を回る。レオンとヴァローとガイウスもそれぞれの仕事を続ける。勇者一行の任務は海賊事件の解決と密命の追跡。密命の方は私には分からないことが多い。レオンが信じようとしているもの、ヴァローが皮肉で覆っているもの、ガイウスが寡黙に受け止めているもの。それぞれの三人を私は支える側にいる。


 レオンには休む場所が必要だ。ヴァローには言葉を置ける沈黙が必要だ。ガイウスには傷を負った時に迷わず戻れる手当てが必要だ。私は大きな決断をする立場ではないかもしれない。けれど人が立ち続けるには、目立たない支えが必要な時もある。


 夜の祈りを終えて蝋燭の火を消した。


 蝋燭の橙の最後の光が白い壁に短く揺れて消えた。


──────────────────────────────


 宿の私の部屋に戻るとレオンが部屋の戸を一度叩いて顔を見せた。


 彼の髪は少し乱れていた。外を歩いた後らしく肩に港の埃がついている。疲れている顔だったが、目の奥にはまだ明日のことを考えている光が残っていた。レオンは昔からそうだ。休めと言われても心だけが先に走ってしまう。


「カイ、今日はどうだった」


「ご家族のもとへ二件、お祈りに伺いました」


「お疲れ」


 レオンは短く言った。それから私の方を一度見てもう一度短く言った。


「カイ、お前がいてくれて助かる」


「お役目です」


 私は柔らかく返した。


 それだけでは足りない気もした。けれど今日の私は、ヒュウマの言葉をまだ胸の中で静かに持っていた。今すぐレオンへ渡すより、祈りの中で少し整えてからの方がよい。そう思った。


「お休みなさい、レオン」


「お休み」


 レオンは戸を閉めて自分の部屋に戻った。


 私はロザリオを枕元に置いた。聖典は腰の革紐から外して卓の上に置いた。薬草の布袋は明日の朝の準備のために入口の脇に下ろした。


 包帯は少し減っていた。薬草の匂いは布袋の口からまだ薄く漂っている。今日触れた手の震え、頭を下げた肩、眠っていた子どもの寝息。それらが一日の終わりになっても消えずに残っていた。


 寝台に腰を下ろして、ようやく一日の重さが肩から下りていくのを感じた。今日の重さは悪くない重さだった。


 光神オルヴェリス、秩序の主、贖罪の道を示す方よ。


 胸の中でもう一度、短く祈った。


 明日もお役目を続けます、と。

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