四人の到着
ヴェラーナ港の桟橋に降り立った時、夕方の光が薄く滲み始めていた。
聖オルヴェリス教会の中型輸送船は、帆に教会の紋章を掲げていた。白地に金の意匠、甲板に整えられた縄、必要最低限の弩と短い砲座。武装は最小限で、軍船ではなく派遣のための船だと一目で分かる。
中央大陸の本部から派遣された四人。表向きの理由は海賊事件の解決、密命は深淵なる神の討伐。私の見立てでは、後者は与太話の延長線にある。
船板から桟橋へ渡された板は、潮を吸ってわずかに軋んだ。海風は湿っていて、縄と魚油と濡れた木の匂いが混ざっている。港町の匂いだ。中央大陸の石造りの街にはない、肌にまとわりつく匂い。
レオンが先に桟橋に降りた。剣を腰に下げた、若い熱血の風貌。白を基調にした旅装と深紅のサッシュが、夕方の光の中で目立っていた。彼は密命を信じようとしている。信じることが彼の役目で、信じることが疑念の代わりになる。それが私には透けて見える。
カイが続いた。白い祭服、光神オルヴェリスの紋章を胸に下げている。柔和な顔、若い、信仰の言葉を素直に使う神官。足元の板が揺れるたび、胸元の紋章を指先で軽く押さえていた。レオンの実質的な保護者で、本人もそれを自覚している。
ガイウスが重盾と片手剣を担いで降りた。塊のような体格、土属性魔法の触媒を腰に下げている。背負った重盾が桟橋の光を鈍く返した。寡黙、実用的、四人の中で最も対等にやり合える相手。
私が最後に降りた。旅装の魔導士装束、灰色のローブ、短杖と魔導書。フード付きのマントが海風に煽られた。教会の意匠は肩の小さな紋章だけ。月読みの塔のプライドが、装束の色に出ている。
髪を束ねた紐を指先で確かめた。潮風は長髪に絡む。塔の研究室では風の心配など不要だったが、港ではそうもいかない。革のベルトの重さ、短杖の位置、魔導書の革表紙の感触。旅装は旅装で、観察の前に装備の沈黙を整える必要がある。
桟橋に立つと、私は空を一度見上げた。月はまだ昼間の薄い影、半月を過ぎて満ちる側に向かっている。今日と明日は中途半端な段階、戦闘になれば月相律は基本闇属性で運用するしかない。月が満ちる頃には、別の話だ。
街の住民が、桟橋の脇で四人を見ていた。視線の質感は警戒と興味と信仰的尊敬が混ざっている。網を肩に掛けた男、荷箱を抱えた少年、魚籠のそばに立つ女。誰も大声では話さないが、目だけはよく動いていた。
聖教会の派遣魔導士という肩書を、住民は把握しているらしい。事件の翌々日の街は、外から来る者を警戒する温度を一段上げている。救いを期待する目と、余計な騒ぎを嫌う目は同じ顔に宿る。観察する側には、そこが見分けやすい。
「ようこそ、ヴェラーナ港へ」
桟橋の端で、一人の男が四人を待っていた。地元の伝道師、聖オルヴェリス教会から半年前に派遣されたと聞いている。四十代の男、白い祭服、丁寧な笑み。海風の中でも襟元を乱さない程度には、場の見せ方を知っている。
「お待ちしておりました。本部からのご派遣、深く感謝申し上げます」
レオンが進み出て、伝道師に頭を下げた。熱血らしく、まっすぐに。腰の剣は揺れたが、姿勢は崩れなかった。
「お世話になります」
カイが続いて頭を下げた。白い祭服の裾を片手で押さえる所作は、育ちのよい神官そのものだった。ガイウスは無言で頷いた。私は短く礼を返した。それで四人の挨拶は終わった。
伝道師の丁寧の下には、何も置かれていない。教会の伝道師の応対の癖、私はそれを知っている。丁寧の下が空白なのは、こちら側が問わない限り向こうから何も出さない、ということだ。問わないのが、こちらの戦略だ。
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伝道師は四人を小教会まで案内した。
桟橋から港湾沿いの道へ入ると、石畳に潮が薄く残っていた。船から下ろされた樽、乾ききらない網、布で覆われた荷。どれも日常の形をしているが、街全体の息は浅い。海賊事件の後の港は、普段より少しだけ音が硬い。
小教会は港湾近く、白い石造りの小さな建物だった。正面の扉には簡素な紋章が刻まれている。壁は潮でわずかに曇り、窓枠には新しい補修の跡があった。中央大陸の大教会に比べれば、村の祠ほどの規模だ。
海洋同盟内では、聖オルヴェリス教会の地位はこの程度に過ぎない。皮肉屋の私には、この規模の小ささが教会の海洋同盟内での影響力の薄さを物語っているように見える。だからこそ、本部はこの地を勢力拡大の足がかりにしたい。勇者一行の派遣は、その意図の延長線にある。
伝道師は四人を客間に通した。客間には小さな卓と椅子が四脚、壁際に予備の椅子が二脚。お茶と簡素な菓子が出された。茶は薄く、菓子は硬い。だが旅人に出すには十分で、教会の慎ましさを見せるには都合がいい。
レオンは座る前に剣の位置を直した。カイは紋章が卓に当たらないよう胸元を整えた。ガイウスは椅子の強度を一瞬見た。私は窓の位置と扉までの距離を見た。習慣は、本人の信条よりも正直だ。
「海賊事件の経緯を、簡単にお伝えします」
伝道師は丁寧に話し始めた。一昨日の海賊三隻による商船襲撃、港警備の対応の遅れ、商船の損害、そして援護に入った客員賢者の存在。
彼の説明は整理されていた。不要な感情は削られ、被害の数字は曖昧に置かれ、教会の立場に関わる部分だけが滑らかだった。悪い話し方ではない。むしろ、組織に属する者としては模範的だ。
「客員賢者の蒼凪殿が、海賊撃退に大きく貢献されました」
伝道師がその名を口にした瞬間、私の中で塔の記録が一つ開いた。
マリヴェルの蒼凪。賢者の階位、水属性の派閥出身。
それだけだ。塔の記録には、それ以上の情報がない。容姿、能力の詳細、戦闘の癖、本人の経歴の細部、いずれも記されていない。マリヴェル家の没落の事情も、塔は把握していない。塔が把握しているのは、蒼凪が賢者の階位を取得した事実と出身派閥の系統だけ。
薄い記録は、時に空白より厄介だ。空白なら空白として扱える。だが断片だけがあると、人はそこに自分の知る像を貼り付ける。塔の魔導士である私も、その癖から完全には逃れられない。
「マリヴェルの、蒼凪殿ですか」
「ご存知でしたか」
「塔の記録にあります」
伝道師は丁寧に頷いた。それ以上は問わなかった。問わないのは礼儀ではない。彼自身もまた、与えられた情報以上に踏み込まないよう訓練されている。レオンが質問した。
「賢者が、なぜここに」
伝道師は短く返した。
「カラヴェラ評議会から派遣されて、別の調査をなさっていたところで、海賊事件に巻き込まれた、と伺っています」
「協力できれば心強い」
カイが柔らかく言った。言葉の端に疑いはなかった。レオンは頷いた。ガイウスは黙ったまま、お茶を一口飲んだ。茶器を置く音だけが、客間の中でやけに実用的に響いた。
私は何も言わなかった。マリヴェルの蒼凪、海賊事件で貢献した賢者。情報を組み立てるには、まだ点が足りない。点が足りないまま線を引く者は、研究者ではなく占い師だ。
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伝道師との挨拶を終えて、四人は街に出た。それぞれの方角に分かれて情報収集をする段取りで、夜の宿で集まることにした。
小教会の外に出ると、夕方の光はさらに薄くなっていた。港の方から鐘の音が一つ聞こえ、魚を焼く匂いが路地から流れてきた。事件の街でも、腹は減る。生活とはそういうものだ。
レオンは街の中心の広場へ。住民の声を直接聞きたいらしい。熱血らしい選択だ。期待と不安が混ざった場所へ、自分の足で向かう。彼の長所であり、時に短所でもある。
カイは小教会に残った。地元の信徒の状況を把握する、と。柔和な選択だ。信徒の不安を聞くには、彼の顔が最も向いている。本人はそういう役目を苦にしない。
ガイウスは武器商街へ。港の警備状況、海賊の動向、戦闘の準備。実用的な選択だ。彼は武器を見る時、言葉よりも手の重さで判断する。商人にとっては扱いにくく、職人にとっては楽な客だろう。
私は情報屋を当たることにした。皮肉屋らしい選択だ。公式の窓口は整った言葉を返す。街の底に近い者ほど、整える前の言葉を持っている。
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ヴェラーナ港の情報屋は、市場の奥に机を出していた。年配の女、片目が白濁している。机の上には皺の寄った海図が一枚。煙管はない。海図の端は何度も折られ、指の脂で黒ずんでいた。
市場の奥は、表通りよりも一段湿っていた。魚籠の水、野菜の泥、樽から漏れた酒。そこに銅貨と噂が流れ込む。皮肉屋同士の会話は、いつも短く済む。
私は銅貨を一枚置いた。机の木目に銅貨が沈むような音を立てた。
「教会派遣の魔導士か」
「そうです」
女は私の肩の小さな紋章を見て、それからローブの色を見た。教会より塔を先に読んだ目だ。濁っていない方の目は、十分に働いている。
「マリヴェルの、と聞いた賢者の話か」
「ご存知でしたか」
「街じゅうで噂になってる。海面を沈めた賢者、海賊船を一隻、海ごと沈めたって」
私は片目で女を見返した。
海面を沈めた、海ごと沈んだ。住民の口は、現象としてそれを描く。原理は分からない、塔の記録にも該当する事象は登録されていない。水属性の魔法で海面を沈めるという発想は、塔の通常の魔法体系にはない。何らかの権能か、何らかの神格魔法か、いずれにせよ塔の管轄外の現象だ。
「住民の誇張ですか」
「誇張じゃない。三隻の海賊船のうち、一隻が沈んだ。海面が深くへこんで、船ごと吸い込まれた、と。商船の生存者がそう言ってる」
女の声は乾いていた。噂を売る者は、大げさに言う時と大げさにしない時を分ける。今の声は後者だった。
「興味深い」
私は短く返した。塔の記録の蒼凪は、賢者の階位と水属性の出身派閥だけが情報の輪郭だ。海面を沈める権能の名前も、その出力の理論も私の手元にはない。観察できる範囲の情報がないということは、結論を出してはならない、ということだ。
女の指が海図の端を押さえた。そこには港湾と近海の線が引かれている。正確な海図ではない。だが商人と船乗りと情報屋が使うには、この程度の歪みの方がかえって役に立つ。
「街の中で、賢者を見ましたか」
「見た。白青のローブ、客員賢者だ。市場の方を歩いていた」
私は銅貨をもう一枚置いた。情報屋は受け取った。受け取る速度に迷いはない。値段を上げなかったのは、私が追加で聞く内容を予測していたからだろう。
「もう一つ。聖教会の伝道師は、最近の動きを把握してるか」
「把握してるさ。ただし、表には出さない」
「そうでしょうね」
私は店を出た。海図はそのまま机に残してある。女は次の客を見るために、すでに私から視線を外していた。よい情報屋は、客の背中を長く見ない。
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市場の通りに出ると、商人たちの会話が断片的に耳に入った。
「聖教会の船が来たらしい」
「勇者一行が乗ってる」
「賢者と勇者の両方が、この街に揃った」
声は布の隙間から漏れていた。天幕の影、干した魚の棚、香辛料の袋。人は噂をする時、正面ではなく横を向く。横を向いた声ほど、よく広がる。
私は立ち止まらない。耳だけ働かせて歩いた。事件の余波で街の口は普段より緩くなっている。緩い街は、観察者には透明に近い。
誰も真実を語ろうとしているわけではない。ただ、自分が見たものと聞いたものを市場の値札のように並べている。その並べ方に、街の不安の形が出る。信仰、商売、恐れ。三つは港町でよく混ざる。
別の天幕の影では、別の声。
「あの白青のローブの人だ」
「賢者だ。海面を沈めた人だ」
声は止んだ、私が通り過ぎる前に。私は歩く速度を変えなかった。止まった声は、続いた声よりも情報が多い。彼らは私を教会の者と見た。あるいは、塔の者と見た。
そして市場の通路の向こうの通りに、白青のローブの男が見えた。
距離は十数メートル、街の通行人の隙間から輪郭だけが見える。荷車が間に入り、次に人の肩が遮り、また白青が覗いた。私は歩きながら観察した。立ち止まらない。立ち止まれば、観察していることが向こうに伝わる。観察者の動きは、対象に気づかれない時に最も精度が出る。
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男はローブの前がはだけていた。鍛えた胸が、夕方の光の中で見えていた。
塔の一般的な賢者像とは違う。
賢者は、塔の記録の中では痩身の研究者の像で固定されている。室内型、教養人、戦闘よりも理論。塔の記録の蒼凪に容姿の詳細は記されていない。賢者の階位を取得した者の標準的な像を当てはめれば、目の前の男はその像から外れる。男は戦士の鍛え方をしている。
肩の線も違った。机に向かう者の肩ではなく、体ごとぶつかる距離を知っている肩だ。呼吸も浅くない。海風の中で自然に胸が動いている。研究室の空気で固まった魔導士の身体ではない。
男の歩き方を観察した。踏み込みが軽くて速い。賢者の落ち着いた歩幅とは違う。戦場慣れした男の、地形を読む足の運び。
市場の石畳は均一ではない。荷車の轍で沈んだ場所、雨水の溜まる窪み、魚油で滑る石。男はそれを見てから避けているのではない。足が先に知っている。そういう歩き方だった。
そして、男の連れ。
横に、海守りの戦闘服を着た若い男が並んで歩いている。潮鎚を背中に、革ベースの軽装。潮と陽に慣れた肌、肩に乗った実戦の重さ。賢者がそういう連れを持つのは違和感だ。塔の記録の中の賢者像と、海守りの戦士は並ばない。
私は《翳り見》を一拍だけ働かせた。物事の隠された側面を見抜く能力。男の輪郭の向こうにあるもの、男が表に出していないものを読む。
視界の端が少し暗くなる。音が遠のき、対象の輪郭だけが皮膚の下から浮く。魔法使いの気配は、衣服では隠れない。よく研がれた刃物が布の下でも刃物であるように。
読めた範囲では、男は確かに魔法使いの気配を持っている。賢者の格に近い、あるいはそれ以上の気配。
ただし容姿と気配のズレが、私の判断を保留させる。気配は賢者の格に届くが、容姿は賢者像から外れている。同じ街に賢者の格に届く魔法使いが複数いる、という可能性は低い。だが、ゼロではない。
塔の記録は最小限だ。容姿の詳細はない。私の手元には、男を「マリヴェルの蒼凪である」と確定させる材料がない。逆に、目の前の男は塔の一般的な賢者像から外れている。
「白青のローブの人間なんて、いくらでもいる」
私は内心で結論を出した。客員賢者は海洋同盟内に複数いる、白青のローブはマリヴェルの蒼凪の専有色ではない。観察できる範囲では、目の前の男はマリヴェルの蒼凪ではない可能性が高い。
別人判断のまま、私は反対方向に視線を戻した。
男と海守りの戦士は、通りの向こうを歩き続けている。私の方には気づいていない。二人組の輪郭が街の通行人の中に消えていくのを、見送らない。
追えば情報は増える。だが追うという行為そのものが、相手にこちらの関心を渡す。今の私にはそこまでする理由がない。情報が薄い時ほど、人は動きたくなる。そこを止めるのも技術だ。
観察を続ける、結論を急がない。それが私の口癖だ。だが今回の判断は、結論寄りだ。塔の記録の薄さが、私の判断を保留から結論に押し上げた。情報がないから、別人と判断する。情報がないから、追わない。
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夜、宿のレオンの部屋で、四人が集まった。
宿は港湾近くの中規模、教会派遣の便宜で部屋を確保してある。廊下には古い油の匂いが残り、階段は人が通るたびに低く鳴った。机の上に地図が広げられ、夕食の皿が片付けられた後だった。窓の外は夜の港、海風が部屋の隅に薄く流れ込んでいた。
皿に残った香草の匂いと、蝋燭の焦げた匂いが混じっている。レオンは椅子の背に手を置いて立ち、カイは地図の端がめくれないよう押さえていた。ガイウスは壁に近い椅子を選んだ。私は窓と扉の両方が見える位置に座った。
レオンが先に話し始めた。
「街の住民は、海賊事件で疲れてる。けど、勇者一行が来たことを期待してる声もあった」
彼の声はまっすぐだった。広場で何度も同じ質問を受けたのだろう。期待される者は、期待の重さを顔ではなく肩で受ける。レオンの肩には、それが少し乗っていた。
カイが続けた。
「小教会の信徒は数十人、規模は小さいですが、信仰は厚いです。明日の朝、共同の祈りの場を持ちます」
カイの指は胸元の紋章に触れていない。報告の時は、彼は神官ではなく聞き手になる。信徒の不安を吸い込んできた顔をしていた。
ガイウスが短く言った。
「武器商街では、港の警備の人員不足を聞いた。中型艦艇一隻、小型船三隻。海賊三隻に対しては不十分だった、と」
ガイウスの報告は余分を含まない。武器商主、鍛冶屋、港警備。おそらく三軒以上は回っている。それでも口に出すのは必要な骨だけだ。
三人が私の方を向いた。私の番だった。
「情報屋から聞いた話です」
私は卓の上で短杖を一度撫でた。木と金属の継ぎ目が指先に触れる。こういう時、触媒は思考の重しになる。
「客員賢者のマリヴェルの蒼凪が、この街にいる。海賊撃退に貢献した、と」
「賢者が」
レオンが目を上げた。
「俺たちと同じ目的か」
「カラヴェラ評議会の派遣で、別の調査をしていた、と伝道師は言っていました。海賊事件は偶発的な遭遇です」
「目的が違うなら、無関係ですね」
カイが柔らかく挟んだ。
「その通りです、表向きは」
私は一拍置いてから、続けた。
「ただし、住民の噂では『海面を沈めた』『海賊船を海ごと沈めた』という声もあります。塔の記録には、水属性魔法でそれをする例は登録されていません。原理が分からない権能を持つ賢者が、たまたま同じ街で動いている」
言葉を置くと、部屋の空気がわずかに重くなった。海賊事件は過去の被害として語れる。だが原理の分からない力は、未来の危険として机の上に残る。
「警戒すべきですか」
カイが短く返した。
「結論を急ぐな」
私は皮肉屋の口調で締めた。
「観察できる範囲では、まだ何も決まっていない。先方は別の調査をしている。我々の任務とは、表向きは交わらない」
レオンが机に手をついた。指先が地図の港湾線に触れていた。
「明日、賢者を訪ねるのもありだな」
「いえ」
私は短く返した。
「それは避けた方がいい。先方からの接触を待つ方が、こちらの動きを見せずに済みます」
「同意する」
ガイウスが頷いた。彼の同意は短いが、重い。レオンは少し迷ったが、結局は頷いた。熱血は判断を早める。だが彼は、仲間の言葉を聞ける熱血だ。
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地図の上で、レオンの指が一度だけ止まった。
窓の外で船の縄が鳴った。港の夜は静かではない。水の音、板の音、遠い人声。だが部屋の中だけは、その瞬間に音が薄くなった。
「我々の任務」
レオンは言葉を選んでいた。
「深淵なる神、というのは、本当にいるのか」
部屋に短い沈黙が降りた。
カイが一度、光神の紋章に手を当てた。形式的な動作で、本心の動きではない。幼い頃から身についた所作が、考える前に先へ出たのだろう。
「本部はそうおっしゃっています、レオン」
「本部、か」
レオンは机の地図を見ていた。視線は港の線を追っているが、実際には別の場所を見ている。
「俺はその名を聞いて育った。教会の本に、深淵なる神の話は載ってる。だが、信徒の中で実際に深淵なる神を見た者を、俺は知らない」
「与太話の延長線、ですか」
ガイウスが短く問うた。実用家らしい問い方だった。信じるか信じないかではなく、役に立つ話かどうかで切る声だ。
「そう言われても、否定できない」
レオンは頷いた。
「ただ、本部が我々を派遣したのは、深淵なる神の討伐のためだ。海賊事件は表向きの理由、本来の目的は別にある。それは事実だ」
「事実、というよりは、本部の言い分です」
私は短く挟んだ。三人が私の方を見た。
「私は皮肉屋ですから、本部の言い分を、そのまま事実とは受け取りません。聖教会本部の意図は、海洋同盟内での勢力拡大、その手段として勇者一行を派遣している。深淵なる神の討伐ができてもできなくても、本部にとっては大差ありません。象徴の派遣そのものに価値がある」
言い切ると、蝋燭の火が小さく揺れた。海風が窓の隙間から入っている。言葉に反応したわけではない。だがこういう時、人は火の揺れにも意味を見たがる。
「ヴァロー」
カイが咎める声を出した。柔和な咎め方だった。声を荒げず、こちらを傷つけるつもりもない。ただ線を引くための声。
「本部の意図への懐疑は、別にお持ちになっても構いません。ですが、レオンの前で、それを言うのは」
「言ってもいい、カイ」
レオンが遮った。
「俺も、薄々分かってる。本部が俺を派遣したのは、深淵なる神を倒すためだけじゃない。俺が選ばれた理由を、俺は完全には信じていない」
レオンの声は揺れていなかった。揺れていなかったが、奥に何かが沈んでいた。
その沈み方は、疲労ではない。諦めでもない。もっと長く胸の底に置かれていたものだ。彼はそれを見せないようにしてきた。だが今夜は、地図の上に少しだけ置いた。
「ただ、俺は派遣された。派遣された以上、役目を果たす。深淵なる神が与太話だとしても、俺はその与太話を追う。それが今の俺の仕事だ」
カイが短く頷いた。ガイウスは黙ったまま、視線で同意を返した。私も短く頷いた。皮肉は引っ込めた。
観察者の本懐は、皮肉ではなく観察だ。今のレオンに必要なのは、私の言葉でさらに傷口を開くことではない。彼がどの程度沈み、どの程度立っていられるかを見誤らないことだ。
「結論を急ぐな、と私は言いました」
私は卓の短杖を握り直した。
「深淵なる神も、マリヴェルの蒼凪も、結論はまだだ。明日以降、観察を続けましょう」
レオンが頷いた。地図の上の指が、ようやく動き出した。止まっていた時間が、そこで少しだけ流れ直した。
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打ち合わせの最後に、私はもう一つ言った。
「街で白青のローブの男を見ました」
三人の視線が私に集まった。レオンはすぐに顔を上げ、カイは少し眉を寄せた。ガイウスは姿勢を変えない。ただ目だけがこちらへ向いた。
「賢者と呼ばれる者にしては、体格が異質だった。鍛えた胸、戦士のような所作。塔の一般的な賢者像とは違う。同じ街にもう一人、別の客員賢者がいる、ということでしょう。白青のローブは、マリヴェルの蒼凪の専有色ではありません」
報告しながら、私は市場で見た男の歩幅を思い返していた。軽く速い踏み込み。視線の置き方。潮鎚を背負った連れとの距離。どれも塔の記録の空白を埋めるには使えない。使えない情報は、判断の根拠にはならない。
「気のせい、ということもあります」
カイが柔らかく挟んだ。
「気のせいではない」
私は短く返した。
「観察は確かです。ただ、塔の記録は最小限で、蒼凪本人の容姿は記されていない。判断は、塔の一般的な賢者像との照合にすぎない。観察できる範囲では、私が見たのは別人です」
カイはそれ以上、食い下がらなかった。彼は人の善意を信じるが、私の観察の精度もそれなりに信じている。そこが彼の厄介な美点だ。
「別人、か」
レオンが繰り返した。
「白青のローブの人間なんて、いくらでもいるしな」
「その通りです」
私は短く返した。レオンは肩の力を一段抜いた。同じ街に賢者風の男が複数いるというだけの事実は、レオンには都合がよかったらしい。賢者と勇者が同じ街に揃った、という重みが一段下がる。
ガイウスは短く息を吐いた。疲れた息ではなく、話を区切るための息だ。窓の外では港の灯りが揺れていた。地図の端が風でめくれ、カイがそれをそっと押さえた。
それで、打ち合わせは終わった。
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私は自分の部屋に戻った。
宿の三階の角、窓から港湾と空が見えた。廊下の灯りは薄く、床板は昼の湿気をまだ含んでいる。部屋に入ると、海風の匂いが先にあった。月が、空の中天を超えた位置にあった。半月過ぎ、満ちる側に向かっている。明日の夜には、もう少し満ちている。
机に月読みの魔導書を広げた。革表紙は旅の湿気でわずかに硬さを変えていた。月相の暦を確認する。明日も中途半端な段階、戦闘になれば基本闇属性で運用する。月相律はまだ遠い。
短杖を一度撫でた。闇属性の触媒、塔の研究室で使われる実用品。飾りは少ない。私にはそれでいい。派手な杖は、魔法より先に持ち主を語りすぎる。
魔導書を閉じて、窓辺に立った。
マリヴェルの蒼凪が、この街にいる。街で見た男は別人、観察は確かだ。塔の記録は最小限、私の判断は塔の一般的な賢者像との照合にすぎない。情報がないから、別人と判断する。情報がないから、追わない。観察者の本懐としては、それでいい。
それでも、白青のローブの輪郭は目の奥に残っていた。鍛えた胸、軽い踏み込み、海守りの戦士との距離。塔の記録が薄いほど、観察したものの鮮明さが逆に浮く。だが鮮明さは証拠ではない。
深淵なる神。本部は我々をその討伐のために派遣した。レオン本人も、薄々勘づいているはずだ。本部の意図は深淵なる神の討伐ではなく、勇者一行を派遣すること自体にある。象徴の派遣、海洋同盟内での勢力拡大、できてもできなくても本部は損をしない仕組み。
レオンはその仕組みの中で、自分の役目を信じようとしている。皮肉屋の私から見れば、その努力は与太話を追う努力と区別がつかない。だが、皮肉を返すべき場面は終わった。打ち合わせの中で、私は皮肉を引っ込めた。観察者の本懐は、皮肉ではなく観察だ。
明日以降、直接接触の機会を待つ。観察を続ける。結論を急がない。
月が満ちる頃には、何かが見えるだろう。
私は窓辺から離れて、寝台に座った。短杖を枕元に置いた。月読みの魔導書を、灯りの届く場所に開いておいた。蝋燭の光が革表紙の端を淡く照らしている。
夜は、観察者の時間だ。




