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群青幻想  作者: 滄龍 青司
CantoⅠ
13/57

線が増える

 ヴェラーナ港の朝は、海で死人が出た翌日の街の朝だった。


 潮の匂いはいつも通りに見せかけて、血と焦げた綱の匂いを薄く抱いていた。埠頭で網を干す手の動きが、いつもより一拍遅い。濡れた網から落ちる雫が板の上で小さく跳ねる。商船の修理の音が、断続的に響いている。


 住民が二人、声を低くして話している横を通り抜けるとき、片方が俺の白青のローブを一度見てから目を逸らした。視線の質感は、客員賢者への普通のものではなかった。何かを見た者の目、または聞いた者の目だった。海面を沈めた賢者、という形容が住民の口の中にあるらしい。


 俺は気づかないふりをして歩いた。賢者が海面を沈めるのを、街は遠目に見ていた。それを忘れさせるには、まだ時間が浅すぎる。


 白と青のローブの前を海風が押し開く。胸元のプラチナの首飾りが肌に冷たく当たった。革ベルトの海溝晶はいつも通りの重さで、昨日の海を知らない顔をしている。道具はそういうものだ。使った者の記憶までは持たない。


 街は事件の翌日の質感をそのまま着ている。傷の癒え方と似ている。表面はもう乾いているが、内側はまだ動いていない。


 俺は港湾近くの市場の方角に向かった。ヒュウマは詰所、俺は単独。今日の一日の段取りは、宿の朝食で決めた。夕方、宿で。それだけだった。


 朝食の塩気はまだ舌に残っていた。焼いた魚の脂と温かい汁。ヒュウマは食べる速度を昨日より戻していたが、箸を置く音だけは少し慎重だった。俺たちは余計なことを言わなかった。今日の街は言葉より先に読むものが多い。


 歩きながら、街を読んだ。


 商家の戸は開いている、ただし普段より早い時間ではない。戸板の内側で帳面を閉じる音がする。漁師の組は半分しか海に出ていない。桟橋に残った男たちは空の桶を洗いながら、海ではなく人の出入りを見ていた。


 海守り衆の若手が、港の入口で旅人の身元を確認している。普段はやらない作業だ。革袋の口を開けさせ、印章を確かめ、荷札の紐まで見ている。海賊事件の余波で、一段警戒が上がっている。


 市場の通路に入ると、籠を抱えた老婆が俺の進路の手前で一度足を止めた。それから道を譲った。譲るというより、距離を取った。賢者と直接すれ違うのを避ける動きだった。俺は会釈をしないで通り抜けた。会釈をする方が、老婆には気まずい。


 籠の中には小魚と根菜が入っていた。どちらも朝の市場なら珍しくない。ただ老婆の指が籠の縁を強く握っている。関節が白くなっていた。俺が通り過ぎると、その指が少しだけ緩む。恐怖は声より先に手に出る。


 途中、市場の天幕の影で商人たちが声を低くして話していた。


「聖教会の伝道師が、今朝早く小教会に入ったらしい」


「中央大陸から、勇者一行が向かってるって噂だ」


「海賊事件を聞いて、東の港から来るらしい」


 声は布越しに湿っていた。天幕の紐が風で鳴るたび、話し手たちは語尾を削る。聞かれたいのか聞かれたくないのか、その中間に噂はいる。


 別の天幕からは、別の声が漏れていた。


「あの、白青のローブの人だ」


「賢者だ。海面を沈めた人だ」


 声は止んだ、俺が通り過ぎる前に。


 俺は立ち止まらない。耳だけ働かせて歩いた。商家連合の周辺で噂が回っている。情報屋の言いそうな構造だ。畏敬と恐怖が混ざった噂は、調査には邪魔になる。


 市場の床板には潰れた果皮が張りついていた。魚の鱗、麻紐の切れ端、踏まれて黒くなった塩。普段なら雑多で済むものが、今日は妙に位置を持って見える。人の動きが細っているからだ。流れが細れば沈んでいたものが底から見える。


──────────────────────────────


 情報屋は市場の奥、布の天幕の下に机を出していた。年配の女、片目が白濁している。机の上には皺の寄った海図が一枚。煙管はない。


 天幕の布は古く、潮で端が硬くなっていた。机の脚の片方には貝殻が噛ませてある。海図の上には小さな石が三つ置かれていて、風でめくれないよう押さえていた。女の指は乾いている。港の女の手だが、魚ではなく紙を扱う時間の長い手だった。


 俺は机に銅貨を一枚置いた。


 銅貨は海図の端に触れて、乾いた音を立てた。女はすぐには取らない。俺の顔ではなく、ローブと首飾りと革ベルトを順番に見た。それから残っている片目を細める。


「客員賢者か」


「ええ」


「マリヴェルの、と聞いた。前の島からも噂が回ってきている。それと、昨日の海面の話も」


 俺は短く頷いた。家名を言わない。情報屋もそれ以上は問わなかった。海面の話、と情報屋は言った。海賊船を沈めた話、ではない。情報屋の言葉の選び方は、この街の住民の口の選び方と同じだった。


 白濁した片目は動かない。もう片方だけが値を測っている。名を呼ばないことにも値がある。呼ばせないことにも値がある。俺が黙れば、女も黙る。市場の奥で長く生きている者は、余計な踏み込みを安売りしない。


「中央大陸の船の出入りについて」


「ああ」


 情報屋は片目で俺を見た。それから、海図の南東側を指で撫でた。


「最近、中央大陸からの船が増えている。昔は月に一隻あるかないか、最近は週に一隻のペースだ。商船連合の名簿には載らない。夜明け前か日暮れに出入りしている」


 指先が海図の沿岸をなぞる。港の名前ではなく、潮の抜け道を撫でている。正式な航路に乗らない船は、港の正面からは見えない。だが積み荷は街に入る。人も話も金も入る。


「商家連合は」


「把握している。表には出さない」


 俺は地の文の中に、その情報を一度沈めた。


 表に出さない情報は、表に出したくない情報とは違う。出した瞬間に値を失うものもあれば、出した瞬間に誰かの足を引くものもある。商家連合はおそらく後者を嫌っている。あるいは両方だ。


「逃げた海賊船の方角は」


「西の外洋寄りだ。あの方角には深海領域がある。商船が消えている海域と、同じ方角」


 俺は一拍止まった。先日の議事場で、俺自身が予見として口にした海域だ。あの予見と別の事件が、同じ海域で交錯している。


 海図の西側は余白が多い。島の名より波の印が増える場所。人が線を引ける範囲が細っていく場所。そこへ逃げたという事実は、逃走ではなく選択に近い。偶然なら偶然でかまわない。だが偶然が三つ並ぶと、賢者は箱を用意する。


 情報屋に銅貨を追加で置いた。


 女は今度もすぐには取らなかった。銅貨の縁が海図の皺に乗って少し傾く。市場のざわめきが布の外を流れている。俺たちの間だけ、潮が引いたように音が薄い。


「もう一つ。聖教会の動きは」


「伝道師が今朝早く小教会に入った。中央大陸から船で着いたばかりだ。勇者一行は向かってる、という噂がある。商家連合の周辺で聞け」


「分かった」


 女はここで初めて銅貨を二枚とも指の下に寄せた。受け取る動きに感謝はない。取引の完了だけがある。その乾き方は嫌いではない。


 俺は店を出た。海図はそのまま机に残してある。


 天幕の影から市場に出ると、海風が斜めに吹いていた。市場の通路、商人の声、海守り衆の若手が確認する旅人の身分票、その上を歩く犬。すべてが俺の知覚に断片的に入ってくる。


 犬は魚の骨をくわえていた。若手の一人が犬を追い払う。その手つきまで普段より固い。笑いが薄い。叱る声が短い。旅人は荷袋を胸に抱えたまま、港の奥を見ないようにしている。


 今日の街は、普段より広く読みやすい。事件の余波が住民の動きに緊張を一段加えていて、その緊張が街の輪郭をくっきりさせている。


 緊張した街は、賢者の目には透明に近い。


──────────────────────────────


 商家連合の支部は港湾近く、白い石造りの建物だった。潮で曇りやすいはずの壁はよく磨かれている。入口の石段には砂が少ない。金を扱う場所は、まず足元を整える。


 受付で身分を伝えると、支部長が直接対応すると言われた。受付の男は表情を変えなかったが、羽根ペンを置く角度だけが少し慎重になった。客員賢者という肩書と昨日の噂が、ここでも同じ机に置かれている。


 支部長は四十代の女だった。商人としてのキレが、座り方に出ている。背筋を伸ばしすぎない。手を遊ばせない。机の上の書類を一度だけ揃えてから、俺の方を向いた。


 書類の束には封蝋が三色あった。港内、外洋、中央大陸。おそらく分け方はそんなところだ。支部長の指は迷わず白い封蝋の束を下に入れた。見せる情報と見せない情報を、座る前にもう決めている。


「客員賢者の蒼凪殿、まずは昨日のご援護に、ヴェラーナ商家連合支部として深く感謝申し上げます。商船の損害は出ましたが、貴殿のおかげで全損は免れました」


 支部長は短く頭を下げた。形式ではない、実務家としての謝意だった。


「結構です」


 俺は短く返した。


「お話、短く済ませていただいて構いません」


「ありがとうございます」


 支部長は頷いた。商人としての時間感覚が、俺と一致していた。


 余計な礼を重ねれば、昨日の損害に対する言い訳が混ざる。支部長はそれをしない。損害は損害として処理する顔をしている。助かった分も、失った分も、別々の帳面に載せる人間だ。


「中央大陸との交易」


「増えています。誰の船かは特定しにくい。複数の商家が独自に取引している、と見ています」


「聖教会の動きは」


 支部長が一拍置いた。


「中央大陸の本部から、勇者一行を派遣する指示が出たそうです。海賊事件の解決が表向きの理由です」


「表向き、というのは」


「聖教会は、最近、海洋同盟内での影響力を強めようとしています。海賊事件はその口実かもしれません」


「具体的には」


「分かりません。教会は組織です。組織には、政治的な側面があります」


 支部長は淡々と言った。商人として、教会と距離を測る癖がある言い方だった。


 言葉の端に敵意はない。嫌悪もない。ただ近づきすぎないための物差しがある。商家は祈りだけで帆を張らない。帆布、釘、香辛料、債務。どれも風より重い。


 俺は短く頭を下げて、支部を辞した。話したのは数分。それで十分だった。


 廊下へ出ると、受付の男が目線だけで俺を追った。さっきより少しだけ距離が短い。商家連合の建物の中では、海面を沈めたという噂よりも使える情報の方が強い。そういう場所は読みやすい。


──────────────────────────────


 港警備の詰所まで歩く道で、俺は港湾を一度見下ろした。


 商船の修理の音が、断続的に上がってくる。槌が板を打つ音、縄を締め直す音、誰かが短く数を数える声。損傷した船体の横腹には新しい木板が当てられていた。昨日の穴はまだ塞がりきっていない。


 海守り衆の小型船が二隻、桟橋に繋がれている。一隻は俺たちが乗ってきた船、もう一隻は地元の海守り衆。俺たちの船には、リオンが残って若手たちと装備の点検を続けていた。遠目にも動きが速い。短く整えた髪と潮焼けの肌が、桟橋の白い光の中で目立つ。


 若手の一人が濡れた綱を持ち上げ損ねる。リオンが横から手を添えて、何か短く言った。声までは届かない。だが叱責ではなく、手順を戻す声だと分かる。あの船だけは昨日から続く時間をまだ片付けていない。


 海面は穏やか、風は弱い。ただし南西寄りの空に薄い雲が立っていた。あの雲は、深海領域の方角の海風が押し上げている。


 街の異変が、海の異変と同じ場所で動いている。


 港警備の詰所は港の北端だった。石壁は古く、入口の脇に槍が三本立てかけてある。中へ入ると汗と革と乾いた紙の匂いがした。夜の警戒が明けたばかりの場所の匂いだ。


 隊長は四十代の男、業務的な口調だった。ただし俺が部屋に入ると、椅子から立ち上がって短く礼を返した。


「客員賢者殿、昨日の援護、感謝します。あれがなければ商船は失っていた」


「結構です」


 俺は短く返した。隊長は座り直して、業務の表情に戻った。


 机の上には港湾図と聞き取りの紙束がある。紙の角は揃っていない。商家連合と違い、ここは整えるより先に受け止める場所だ。隊長の右手にはインクが付いている。今朝まで書いていた跡だった。


 逃げた海賊船は西の外洋寄り、追跡は外洋に出る前に見失ったと隊長は告げた。


「商船の生存者の聞き取りで、海賊側の言葉に聞き慣れない響きが混じっていた、と一人が言っていました」


 俺は頷いた。


「会えますか」


「商家連合経由で、午後に許可を取ります」


「お願いします」


 隊長は返事の代わりに紙束を一枚引き抜いた。手続きに必要な紙だろう。余計な確認はない。昨日の援護への礼と今日の業務が、同じ机の上で混ざらずに置かれている。


 俺は詰所を出た。それで午前が終わった。


 外へ出ると、陽は少し高くなっていた。港湾の板は乾き始めている。だが修理中の商船の影だけは黒い。船腹の下に溜まった水が、まだ昨日の夜を残していた。


──────────────────────────────


 午後、商家連合支部の一室で、俺は商船の生存者と会った。


 部屋は小さかった。小窓が一つ、机が一つ、椅子が二つ。壁は白いが、角に潮の染みが残っている。外の音は薄く届いた。槌の音、帆布の擦れる音、遠くの掛け声。港は部屋の外でまだ動いている。


 生存者は三十代の男、商人の助手、左腕に怪我の包帯。椅子に座って俺を待っていた。声は弱いが、目は曇っていない。


 包帯は新しい。左袖は肘のあたりで切られていた。右手は膝の上に置かれ、指先だけが時々布を押す。痛みを確かめているのではなく、話す順序を探している動きだった。


「客員賢者の蒼凪殿、と伺っております。昨日、私たちを救ってくださった方だ、と」


 生存者は短く頭を下げた。怪我の包帯のある左腕を、そのまま膝の上に置いていた。


「結構です」


 俺は短く返した。


 礼を受け取るために来たわけではない。相手もそれを察している。助かった者の感謝は重いが、調査の場では重さを横に置く必要がある。置ける相手なら話は早い。


「お聞きになりたいのは、海賊側の言葉のことですね」


「そうです」


 俺は椅子に座った。生存者は一拍置いてから、話し始めた。


「海賊たちは、こちらの言葉で命令していました。ただ、一瞬、別の言葉を交わしていた瞬間があった」


「いつ、誰が」


「襲撃の中盤、海賊団の頭らしき男と、副官らしき男が、こちらに聞こえないと思ったのでしょう、別の言葉で短く話しました」


「内容は」


「分かりません。ただ、リズムが違いました」


「リズム」


 生存者が小窓の方を見た。それから、視線を俺に戻した。


 小窓から入る光が男の頬を細く照らす。昨日の恐怖はまだ体のどこかに残っているはずだ。だが言葉を探す目は逃げていない。内容を知らないと認めた上で、聞こえたものだけを差し出そうとしている。


「説明しにくい。ゆっくりした音節の連なり、子音が多い言葉でした」


 俺の中で音が三つ、重なった。


 碇島の長が言った「中央大陸の言葉」。ヒュウマが昨日の儀式の中で聞いた音。そして今、生存者が言う「リズム」。


 三つが同じだ。


 俺は地の文の中で、それを線として置いた。点を線にする作業は、いつも一拍遅れて自分の中で起こる。


 遅れるのは感情ではない。情報が沈む場所を探す時間だ。碇島の潮の匂い。昨日の儀式の音。小窓のある白い部屋。その三つが別々の箱から出て、同じ机の上に並んだ。


「その海賊団の頭の特徴は」


「背の高い男でした。フードを被っていた、顔は見えなかった」


 俺は一拍止まった。


 碇島の長の証言にあった二人組。背の高い男と小柄な男。海賊団の頭は、その背の高い男と同じ可能性がある。確証はない。フードと背の高さだけでは特定できない。だが、線の上に乗る。


「副官は」


「もう少し小柄でした。同じくフードを被っていました」


 二人組の構造が、海賊団の頭と副官の構造と一致する。俺は生存者の顔を一度見た。生存者は小窓の方角に視線を逸らしていた。証言の重みを、自分でも理解しているらしい。


 部屋の外で誰かが廊下を通る。足音が近づき、離れていく。生存者の肩がわずかに揺れた。昨日の甲板の音と混ざったのだろう。俺は追加で詰めない。ここで押せば証言は濁る。


「ありがとう」


 俺は短く礼を言って、部屋を出た。生存者は椅子に座ったまま、頭を下げた。


 廊下に出て扉を閉めると、白い壁の明るさが少し眩しかった。線は増えた。だが線が増えるほど、地図は簡単にはならない。むしろ余白の重さが分かる。


──────────────────────────────


 支部の建物を出ると、午後の光が港湾を斜めに照らしていた。


 石段を下りる足元に、細い影が伸びる。朝より風が乾いている。商家連合の建物の中で整えられた情報は、外へ出た瞬間に潮の匂いを取り戻した。


 俺は宿に戻る道、港湾を見下ろす坂の上を通った。


 新しい船が一隻、桟橋に近づいていた。


 帆に大きな旗。光神オルヴェリスの紋章。聖オルヴェリス教会の中型の輸送船だった。武装は最小限、ただし甲板に数人の人影が見える。フードを被った神官、剣を腰に下げた男、革鎧の戦士、杖を持った人物。距離があるので顔は見えない。


 船体は商船ほど腹が深くない。軍船ほど刃を向けてもいない。見せるべき紋章をよく見せる形だ。帆の白が夕方の光を受けて、港の水面に明るい筋を落としている。光は柔らかいが、旗は柔らかくない。


 来たな。思ったより早い。


 港湾近くの住民が、船を見上げて噂を始めていた。聖教会の船だ、勇者一行が乗ってる、海賊事件を聞いて来たらしい。声は静かだったが、緊張が一段加わっていた。


 噂は朝より形を持っていた。伝道師の影、中央大陸の船、商家連合の沈黙。そこへ実物の旗が入る。人は見えるものを中心にして話を組み直す。港の空気が一度そこで結ばれた。


 住民の一人が、坂の上の俺の方を一度見た。顔は分からない、距離がある。だが視線の質感が、俺をその噂の中に置いていた。海面を沈めた賢者と、勇者一行と、海賊事件、すべてが住民の口の中で並んでいる。


 俺は立ち止まらない。坂を下りて、宿の方角に進んだ。


 街の異変、海の異変、外側から入ってくる新しい力学。同じ街で同じ午後に、すべてが並んでいる。


 噂になるのは、調査には邪魔になる。賢者が動く前に、街が賢者を語り始める。語られた賢者は、語られた通りにしか動けなくなる。海面を沈める力は、街に対する形容としては大きすぎる。次の街に移るとき、この形容は俺より先に着く。


 坂の途中で、港の鐘が短く鳴った。着岸を知らせる音だ。甲板の人影が動き、桟橋の人間が綱を受ける。光神オルヴェリスの紋章が風で揺れた。その白さは、港の傷口には少し明るすぎた。


──────────────────────────────


 宿の二階の角部屋に戻ると、ヒュウマは既に詰所から戻っていた。窓辺に立って、港湾の方角を見ている。


 深い藍と砂色の戦闘服に、外の光が細く当たっていた。背の潮鎚は壁際に置かれている。左耳のプラチナのピアスが、窓から入る金色を少しだけ返した。肩は落ちていない。だが立ち方は昨日より静かだった。


「お帰りなさい」


「ただいま」


「あの船、見ました」


 ヒュウマは振り返らずに言った。


「見たな」


「聖教会の」


「ああ」


 俺は卓の傍らの椅子に座った。木の椅子が小さく鳴る。朝食の皿はもう下げられていた。卓の上には水差しと空の杯だけがある。宿の部屋は昼の熱を少し含んでいた。


 今日の一日の点を、ヒュウマに順番に共有した。情報屋から聞いた中央大陸の船の増加。商家連合支部長の所感。港警備の隊長の話。商船の生存者の証言。「同じリズム」の三つ目の点が並んだこと。海賊団の頭が「背の高いフードの男」だったこと。碇島の二人組と構造が一致する可能性。


 話している間、ヒュウマは窓辺から動かなかった。右手が窓枠に触れている。指先の力は強くない。海守りの当代として聞いている顔と、昨日の儀式の音を覚えている顔が同じ横顔の中にあった。


 ヒュウマは黙って聞いていた。聞き終わってから、短く返した。


「線が増えましたね」


「増えた」


 それきり、しばらく二人とも何も言わなかった。ヒュウマは窓辺から動かなかった。俺は卓の上で指を一度組んでから、また解いた。


 沈黙は空白ではなかった。今日拾った情報が部屋の中で位置を変えている。情報屋の天幕、支部長の机、隊長の紙束、小窓のある部屋。どれも別の場所なのに、同じ港の風を吸っていた。


 ヒュウマが窓の外を見る。俺はその背中を見る。整理して伝える時間は必要だったが、すべてを言葉で閉じられるわけではない。海が見える部屋では、黙って並べる方が正確なものもある。


──────────────────────────────


「あの船の人たち」


 ヒュウマが沈黙の中から言った。


「どういう組織なんですか」


 俺は窓の方を見た。聖オルヴェリス教会の旗が、桟橋に着いた船の上で揺れている。夕方の光が金色に滲み始めていた。


「正式名称は聖オルヴェリス教会、光神オルヴェリスを祀る組織宗教だ」


 俺は窓の方を見たまま、続けた。


「中央大陸では国教に近い。海洋同盟内では少数派、小教会と伝道師しかいない」


 ヒュウマは頷いた。質問は重ねなかった。


「教義は『光は秩序、秩序は富、罪は秩序の証』」


 俺は一拍置いた。


「戒律を守る者は、光属性の神格魔法を授かる。俺の海神代行者権能と、系統は同じだ。属性が違うだけ」


「同じ系統」


「神との契約による神格魔法、という意味では同じ。中身は違う。光属性は浄化、回復、悪を払う、そういう方向だ」


 ヒュウマは窓辺で静かに聞いていた。俺は言葉を選び直した。


 光は人を安心させる。港の住民ならなおさらだ。夜の海で灯台が見えれば、人はそこに帰る道を見る。だが灯台は誰のために建てられ、誰が油を買い、誰が管理するのか。そこまで考える者は多くない。


「教会には、勇者を擁立する制度がある。聖剣を持つ者、世代に一人」


「あの船に」


「乗ってる、はずだ」


 それから俺は窓の外に視線を固定したまま、もう一段声を落とした。


「ただし、最近の勇者は『お飾り』だという噂もある」


 ヒュウマが俺の方を一度見た。俺はヒュウマの方を見ない。


「本物の血統が、断絶している。教会が孤児を象徴として擁立している、と。賢者の間ではそう言う者もいる」


 ヒュウマは黙っていた。そういう沈黙を選べるのは、聞く側の強さだ。若さはある。だが聞いた言葉をすぐに感情へ流さないところが、ヒュウマの厄介な美点でもある。


 それから、もう一段。


「教会も組織だ。光が秩序、秩序が富、というのは、現代では別の意味も持つ」


「別の意味」


「中央大陸では、教会が金融貸付業を実質的に握っている。商家にとって、教会は信仰の組織であり、債権者でもある」


 ヒュウマは頷いた。質問は重ねなかった。


 窓の外で、教会の船から荷が下ろされている。箱の形までは見えない。だが人の動きには規律がある。祈るためだけの一行ではない。港に降りる前から、自分たちがどう見られるかを知っている動きだ。


「警戒しますか」


 しばらくしてから、ヒュウマが短く問うた。


 俺は窓の外をもう一度見た。船は桟橋に着岸していた。


「警戒する、というほどではない。距離は測る」


「分かりました」


 それきり、二人とも何も言わなかった。


 部屋に夕方の色が増えていく。白い壁が少しずつ金に寄り、卓の影が長くなった。ヒュウマの横顔は窓の光を受けて静かだった。俺はその静けさを、急いで言葉にしなかった。


──────────────────────────────


 夕方の光が、港湾の屋根を完全に金色に染めた。船の甲板の人影は減っている。街のどこかに移動したらしい。


 港は昼より静かだった。修理の槌音も間隔が空いている。屋根の上を渡る風に、濡れた綱の匂いが混ざる。教会の旗はまだ見える。だが光の中で白くなりすぎて、かえって輪郭だけが残っていた。


 俺は窓辺に立って、港湾を見下ろした。ヒュウマが俺の隣に立った。距離は腕の長さ。


 近すぎない。離れすぎてもいない。潮鎚を背負っていない分だけ、ヒュウマの肩の線がよく見えた。昨日の儀式で聞いた音は、あの体のどこかにも残っている。俺の中に線として置かれたものは、ヒュウマの中では別の形で重さを持っているはずだった。


 街の異変と海の異変が、同じ午後に並んだ。外側からも力学が入ってきた。神殿探索の本業に戻る前に、もう一つの問題が立ち上がっている。それをヒュウマに整理して伝える時間は、もう過ぎていた。並んで立つ時間が、整理の時間を引き継いでいた。


「ヒュウマ」


「はい」


「明日、もう一日この港にいる。教会の動きを見たい」


「分かりました」


 それで決まった。


 夕方の光が、二人の影を窓辺に並べていた。

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