夜明けに還す
港の桟橋に船が着いたのは、日が完全に水平線の下に沈んでから半時ほど経った頃だった。
夜の港は灯りが多かった。窓明かり、松明、桟橋の低い火皿。水面に映ったそれらが細く裂けて、船腹の黒い擦れ跡を揺らしていた。
接岸の号令が飛んだ。綱が投げられ、桟橋の杭に巻かれる。濡れた麻の匂いが鼻についた。船体が木の桟橋に近づくたび、低い軋みが足の裏まで伝わってくる。
リオンが艫から短く指示を出していた。若手たちは艫、中央、舳先、帆柱周りの持ち場から動き、曳航の綱と帆を順に片付けていく。五人の動きは疲れていたが、止まらなかった。
港警備の艦艇は北東の海賊船の制圧を続けていた。商船は別の桟橋に曳航されていき、生存者と死者の運び出しが始まっていた。白い布がいくつか見えた。見えた瞬間、俺は目を逸らさなかった。
海守り衆の地元の詰所から年配の男が一人、急ぎ足でこちらに向かってくる。足音は桟橋の板を硬く叩いた。夜の湿気を吸った木が、その音を低く響かせた。
蒼凪さんが甲板の縁から立ち上がった。普段より時間がかかった。海溝晶の代償が、足の踏み込みに残っている。白と青のローブの裾が重そうに揺れ、革ベルトの海溝晶が灯りを冷たく返した。
赤い短髪の下で、深い青の瞳が海を見ていた。顔色は崩れていない。それでも膝の運びが、いつもより少しだけ遅い。俺は手を出しかけて、途中で止めた。
蒼凪さんは自分で立った。助けが要るなら、先に言う人ではない。だが本当に必要なら、俺が間に合わせる。それだけを胸の内で決めた。
俺は蒼凪さんの隣に立った。潮鎚の重みが背にあった。左耳のピアスが夜風で冷え、腰の応急処置の小袋が歩くたびに小さく揺れた。
年配の男が桟橋を渡ってきて、俺たちの前で頭を下げた。急いできたはずなのに、礼の形は崩れていない。港の人間が人前で背負うものを、きちんと背負っている礼だった。
「ヒュウマさん、蒼凪殿、援護感謝します。地元の海守り衆の長で、トルバと申します」
「ええ」
俺の返事は短かった。長く言えることがなかった。
「商船の遺族から、《魂の還し》の儀式を頼まれました」
俺の中で何かが一拍止まった。
桟橋の音が遠のいた。綱を締める音も、港警備の号令も、水を掻く櫂の音も残っている。残っているのに、胸の奥だけがひどく静かになった。
トルバさんは続けた。
「海に沈んだ者の遺品は上がっています。ただ、体が上がらない者が三名」
「三名」
声に出した数が、喉の奥で重くなった。三つ。まだ名前を知らない三つの生。船の上で手を伸ばせなかった三つの距離。
「明日の夜明け、お願いできますか」
明日の夜明け。海が夜を離す時刻。沈んだ者をこちらの時間に繋ぎ止めず、海に返すための時刻。
俺は即答した。
「ええ」
「やります」
声は普段より低かった。それでも、迷いはなかった。
救えなかった者を還す。海守りが生きている者だけを見る仕事なら、父さんは俺に印章を残さなかった。潮鎚だけではなく、あの小さな印章もまた俺の仕事だった。
トルバさんはもう一度頭を下げた。背中を折る角度が深い。頼む側の礼であり、同じ海に仕える者へ委ねる礼でもあった。
蒼凪さんが短く言った。
「ついていく」
俺は蒼凪さんを見た。蒼凪さんは俺を見なかった。海面の方を見ていた。海を沈めた後の青い瞳は、夜の水面よりまだ深く見える。
それきり、言葉はなかった。
「装束は、こちらの当代のを貸します」
「ありがとうございます」
トルバさんは桟橋の先まで送ってくれて、宿への道を指した。港近くの中規模の宿、家族経営、夕食を出してくれると短く説明した。それから自分の詰所へ戻っていった。
俺たちが桟橋を降りる時、船ではまだリオンと若手たちが事後の作業を続けていた。濡れた綱、裂けた帆、救助に使った道具。誰かが休むには、まだ早い夜だった。
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宿の女将が夕食を運んできた。
港近くの宿らしく、壁には潮の染みが薄く残っていた。階下からは皿の触れ合う音と、遅れて戻った客の低い声が上がってくる。ランプの火は小さく、卓の端に置かれた水差しを琥珀色に照らしていた。
魚の塩焼き、汁物、パン、海産物の小皿。卓に並べられた料理は、普段なら俺が蒼凪さんの皿を整える側だった。骨の少ないところを寄せる。汁の器を近くに置く。水を切らさない。
今夜は出てきた料理に手を伸ばすだけだった。
女将は俺たちの顔を見て、余計なことを言わなかった。皿を置く手つきだけが少し丁寧だった。港の宿は、海から帰った人間の顔を見慣れている。
魚の身を箸でほぐした。一口運んだ。塩がきつく感じた。普段の感覚では、ちょうどいい塩気のはずだった。
舌の上で魚の脂がほどける。焼き目の香ばしさも分かる。分かるのに、喉が途中で動きを忘れた。飲み込むまでに少し時間がかかった。
汁を一口。それで止まった。魚介の出汁がよく出ていて、冷えた体にはちょうどよい温かさだった。湯気が頬に当たり、鼻の奥を少しだけ緩める。
パンを半分まで齧って、残りを皿に置いた。表面は硬く、中はまだ柔らかい。指に粉がついた。俺はそれを払わずに、しばらく見ていた。
蒼凪さんは普段の量を食べていた。ただ、いつもより早く食べ終えていた。魚の骨を皿の端に寄せ、汁の器を空にする動きに無駄がない。
俺が食べないので、蒼凪さんも長く食卓に座らないという配慮なのかもしれなかった。そういうことを、蒼凪さんは説明しない。
「食べておけ」
蒼凪さんが短く言った。断定ではない、軽い促しだった。
「ええ」
俺は返した。それでも、食事の量は増えなかった。
蒼凪さんは何も言わなかった。俺の皿を片付けない。自分の皿だけ整えた。
その距離がありがたかった。無理に食べさせない。けれど放っておくわけでもない。蒼凪さんの沈黙は、いつも置き場所が正確だった。
ランプの油の匂いが部屋に漂って、宿の女将の足音が階下で聞こえていた。夕方の終わりの時間が、宿の薄い壁の向こうで沈んでいった。
港はまだ眠らない。窓の外では荷車の車輪が石畳を擦った。誰かが低く名前を呼び、すぐに声を落とす。運ばれるものが何かを、宿の客たちは皆知っている。
俺は水を飲んだ。冷たさが喉を落ちて、胃の底に小さく沈んだ。空腹はある。けれど体のどこかが、食べることを後回しにしていた。
蒼凪さんは席を立ち、寝台の方へ移った。白青のローブの前はいつものように開いている。鍛えた胸と腹の輪郭は崩れていないが、肩の動きに疲労の影があった。
俺は皿の上のパンを見た。半分残ったそれは、俺が今夜できなかったことの形に見えた。
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俺は宿を出て、海守り衆の詰所まで歩いた。蒼凪さんは部屋に残った。
夜の街は、事件の後の気配で満ちていた。戸口に立つ商人たちは声を低くし、港の方へ何度も目を向ける。船大工の作業場からは木を叩く音が続き、修理用の板が何枚も壁に立てかけられていた。
リオンは船に残っているはずだった。若手たちと装備を点検し、曳航で傷んだ綱を分け、使えるものを選んでいるだろう。俺が儀式に向かうなら、船を明日も動かせる状態にしておく人間が必要だった。
詰所の灯りはまだ落ちていなかった。戸の前に濡れた砂が散っている。中では数人が書き付けを作り、別の若手が遺品の包みを棚へ運んでいた。潮、墨、濡れた布の匂い。
詰所では、トルバさんが装束を一式用意して待っていた。
「これが当代の儀式装束です。少し大きいかもしれません」
深い藍色、銀の刺繍、海神の貝札を模した飾りが胸の位置に縫いつけてある。儀式用の白い布が一枚、別に折り畳まれている。
布地に指を触れた。厚みはあるが、重すぎない。潮を吸っても動けるように作られている。肩の合わせは俺より少し広く、袖は長い。年配の当代が使ってきた形なのだろう。
普段の戦闘服とは別の格式の装束だった。深い藍と砂色の俺の服は、走るため、泳ぐため、誰かを引き上げるためのものだ。目の前の装束は、立つためのものだった。
父さんの代から続く儀式の重みが、布の手触りに残っていた。俺が子供の頃、父さんは儀式の前に同じような布を膝に置いていた。指の腹で刺繍の乱れを確かめ、印章を磨き、俺に火皿へ近づきすぎるなと言った。
その声を思い出すと、胸の奥が少し狭くなる。
「明日の夜明け、海岸線の祭祀の岩で。遺品はこちらで用意します」
「ありがとうございます」
トルバさんは頷いた。疲れた顔だった。けれど目は濁っていない。港を預かる人間の目だった。
詰所の若手の一人が、装束を受け取る俺を一度じっと見た。視線は短かった。海守り当代として若くして名が通っていることへの敬意と儀式を任せる年配からの委ね、その両方が視線の中にあった。
俺はその視線を受けた。背筋を伸ばす。十八の体に合わない重さは、今さら珍しいものではなかった。
若手は視線をすぐ手元の書類に戻した。筆先が紙を擦る音がした。生存者の数、死者の数、上がった遺品。書かれるたびに、夜の出来事が形を持つ。
俺は装束を抱えて宿に戻った。
帰り道の街は、行きより静かに感じた。実際には音が減ったわけではない。俺の腕の中の装束が、音の向こう側へ意識を引いていた。肩に布の重みが乗り、胸の内側に別の重みが増えていく。
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部屋の戸を開けると、蒼凪さんは寝台に座って待っていた。
声はかけてこなかった。深い青の瞳だけが、俺の腕の中の装束を一度見た。それから俺の顔へ戻る。赤い髪は少し乱れていたが、姿勢は整っている。
俺は装束を卓に置いた。父の印章を懐から出して、布で磨いた。
儀式の触媒になる印章、父さんの最後の繋がり。丸みを帯びた縁には、指で触れてきた年月の滑らかさがある。細い溝には潮が入りやすいので、儀式の前にはいつも丁寧に拭う。
布で磨く動きは、潮鎚を磨く時とほぼ同じ静けさだった。手が少し遅い、それは自分でも分かっていた。
潮鎚を磨く時は、次に動くための準備だ。印章を磨く時は、戻らなかった者のために立つ準備になる。同じ手の動きなのに、指の奥に残る重さが違った。
蒼凪さんは寝台に座ったまま、俺の作業を見ていた。声をかけなかった。
沈黙が長くなる。ランプの火が小さく鳴り、外の廊下を誰かが通った。足音は戸の前を過ぎて、階段の方へ消えた。
しばらくしてから、俺が口を開いた。
「蒼凪さんは、儀式は見たことありますか」
「ある」
蒼凪さんは短く返した。
「父の死後、家を出る前に一度」
「マリヴェル家の」
「家のものではない、海守り衆の儀式だ。家の遠縁が頼んだ」
「そうですか」
それきりだった。
蒼凪さんは寝台に座り続けて、俺は印章を磨き続けた。蒼凪さんがマリヴェル家のことを口にする頻度は少ない。今夜は儀式の話だから、家の遠縁の話に触れた。それだけのことだった。
それでもそれだけのことが、いつもより少し近い距離で響いた。
父の死後。家を出る前。その二つの言葉の間に、俺が見ていない時間がある。蒼凪さんが見せない時間でもある。俺はそこへ踏み込まなかった。
踏み込まないことが、遠ざかることとは限らない。近づくために、立ち止まる場所もある。
印章の縁を拭き終えると、布にうっすら黒い筋がついていた。俺は布を折り返し、もう一度だけ表面を拭った。父さんの指の形など残っているはずがない。それでも磨くたびに、あの人の手の大きさを思い出す。
夜が更けた。俺は装束を一度試着した。サイズ感を確認するためだった。
鏡はないので、自分の姿は見えなかった。袖の長さを確認して、胸元の貝札の位置を直した。銀の刺繍がランプの火を拾い、布の藍が夜の色に沈む。
肩は少し余る。裾もわずかに長い。けれど動けないほどではない。儀式は走るものではない。立つことができればいい。
白い布を手に取り、腰の位置で合わせてみる。結び目が正面に来ないよう少しずらした。父さんが昔、儀式の布は真ん中で主張させるものではないと言っていた。
「悪くないな」
蒼凪さんが短く言った。
俺は返事をしなかった。何か返すと、声の形が崩れそうだった。装束を脱いで、丁寧に畳んだ。
布を畳むたび、指先に織り目の硬さが残る。胸元の貝札を内側へ向けないように整え、白い布は上に重ねた。父の印章は懐へ戻す。戻した瞬間、胸が少し重くなった。
蒼凪さんはその間も、急かさなかった。寝台の縁に肘を置き、ただ見ていた。あの夜に蒼凪さんの弱さを覗いた時のことが、ふと胸をよぎった。
今夜は逆だった。俺の手の遅さ、食べられなかった皿、印章を磨く沈黙。隠しているつもりのものが、たぶん隠れきっていない。
それでも蒼凪さんは、整えようとしなかった。俺が自分で置ける場所に、置かせてくれていた。
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夜明け前に俺は目を覚ました。
眠ったのか、目を閉じていただけなのか分からない。窓の外はまだ暗い。けれど完全な夜ではなく、遠い空の底に灰色が混じり始めていた。
蒼凪さんは既に起きていた。ローブを直し、海溝晶のベルトを締め直していた。儀式に同行するための準備だった。
白と青のローブの前を整え、革ベルトの位置を確かめる。プラチナの首飾りが喉元で小さく光った。体の動きは昨夜より少し戻っているが、足元にはまだ重さが残っている。
俺は寝台から起き、顔を洗った。水は冷たかった。手の甲の薄くなった擦り傷にしみる。痛みは小さい。けれどその小ささが、今朝の体をこちらへ戻した。
装束に袖を通す。少し大きい布が肩に乗り、胸元の貝札が肌の前で落ち着く。父の印章を懐に入れると、布越しに硬い形が分かった。
宿を出たのは、空がまだ夜と昼の中間色だった頃だった。階下では女将がすでに起きていて、竈の火を見ていた。俺たちに気づくと小さく頭を下げたが、言葉はなかった。
外へ出ると、潮の匂いが濃かった。夜の冷えが石畳に残り、靴底から体へ上がってくる。港の方では灯りがまだいくつも揺れていた。
海守り衆の若手が桟橋まで案内してくれた。無名の若手だが、歩く位置が丁寧だった。先に立ちすぎず、俺たちの足音を確かめながら道を選ぶ。
船の方では、リオンが装備を確認している姿が見えた。短く整えた髪に朝前の灯りがかかり、潮焼けの肌が暗く見えた。こちらへ来ることはない。今は船を保つ役目がある。
俺は短く目だけで合図した。リオンも作業の手を止めず、小さく頷いた。
港の海岸線、祭祀の岩は港の北側の小さな岬にあった。そこへ向かう道は砂を含んでいて、歩くたびに音が柔らかくなる。
岩は黒く、潮で削られて滑らかになっている。その手前の砂浜に、人が集まり始めていた。夜明け前の光では、顔より輪郭が先に見える。
商船の遺族が五、六名、布をかぶった服装で静かに立っていた。色の薄い布、握られた手、砂に沈む靴先。誰も大きく泣いていない。泣く力を夜の間に使い果たしたような静けさだった。
港の海守り衆、地元の若手数名がトルバさんの後ろに並んでいた。港の住民が十名ほど、海岸線の手前で集まっている。皆、夜明けの薄い光の中で輪郭だけが見える。
トルバさんは俺を見ると、深く頭を下げた。言葉はない。ここから先は、儀式の言葉が先に立つ。
蒼凪さんは海岸線から少し離れた、岩の上に立った。白青のローブが夜風に揺れていた。儀式の参加者ではない、観察者の位置だった。
ただの見物ではない。距離を置き、場を乱さず、必要なら届く位置。蒼凪さんらしい立ち方だった。
俺は装束に身を包んで、祭祀の岩の前に立った。装束は少し大きかったが、姿勢で支えた。海風が袖を一度撫でていった。潮の匂いが、普段より濃く感じられた。
背に潮鎚はない。儀式の場に持ち込むものではなかった。腰の小袋も外している。今の俺にあるのは装束、白い布、父の印章、小刀。
トルバさんが、布で包まれた小さな袋をいくつか俺の前の砂の上に並べた。故人の遺品。商船の死者三名分の所持品が、布の中で静かに収まっていた。
布越しに硬い形が見える。指輪かもしれない。小さな道具かもしれない。誰かが日々触れていたものは、持ち主の体がなくても重さを残す。
俺は父の印章を胸に当てた。印章が肌に触れた瞬間、わずかに温かくなった気がした。気のせいかもしれなかった。気のせいではないかもしれなかった。
目を閉じる。父さんの背中を思い出す。儀式の前に海を見ていた背中。あの時の俺は、父さんが何を見ているのか分からなかった。
今は少しだけ分かる。海を見ているのではない。海へ向かう者と、海に残された者の間に立つ場所を見ている。
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俺は右の指先を、儀式用の小刀で小さく切った。
刃は薄く、よく研がれていた。痛みは鋭いが浅い。血が一滴、指先に滲んだ。夜明け前の光の中で、それは黒に近い赤に見えた。
海面に向けて、指を傾けた。
血が海面に落ちた。
その瞬間、海面に薄い波紋が広がった。深海色ではない、海そのものの色の波紋だった。波紋は祭祀の岩の前から外側に向かって、ゆっくりと広がっていった。
誰かが息を呑む音がした。すぐに消えた。
海面から薄い光が立ち上った。霧のような光、ただし夜明けの光とは別の色だった。海そのものから滲み出す光だった。
派手な光ではない。目を焼くものでもない。ただ水の内側に灯が入り、薄い幕になって立ち上がる。そんな静かな光だった。
潮の匂いが一段濃くなった。海風が止まったように感じた。実際には風は吹いていた。ただ儀式の領域の中で、世界の音が一段遠くなった。
砂を踏む音も、服が擦れる音も、遠い港の声も残っている。残っているのに、耳へ届く前に海の向こうで丸くなる。
俺は古い海守りの言葉で祈り始めた。普段の口から出る言葉ではない、5代目の血が呼び出す言葉だった。
「海に還る者よ、海に還る道を、海守りが示す」
声は低く出た。自分の声なのに、少しだけ自分のものではない。父さんの声の高さを覚えている体が、その形を真似ているのかもしれない。
「迷う魂よ、本来の場所へ」
遺品の包みの上を、薄い光が撫でた。布の端が風もないのにわずかに震えた。俺は視線を逸らさず、祈りを繋ぐ。
「家族のもとへ、海そのものへ」
海面の薄い光が、ゆっくりと外側に広がっていった。光の中に、形を持たない三つの輝きが見えた。三つは、海の方角に向かってゆっくりと進んでいった。
それは人の形ではない。顔も手もない。けれど三つが三つとしてそこにあることだけは分かった。名を知らないままでも、数だけは確かだった。
それから海面のあちこちに、散らばる光が現れた。生存者の喪失感、遺族の中に残る悲しみ、それらが薄く海に流れていく。光の数は数え切れなかった。
悲しみが消えるわけではない。消していいものでもない。ただ尖ったまま胸を裂き続けるものを、海が少しだけ受け取る。儀式はそのためにある。
遺族の一人が、膝をついた。両手を砂の上について、深く頭を下げた。声は出していなかった。ただ、肩が震えていた。
隣の人が手を伸ばしかけ、途中で止めた。その人もまた、唇を噛んでいた。支えることと、支えないで隣にいること。その間で手が揺れていた。
港の住民の中の老人は両手を合わせていた。口は動かさず、目を閉じている。まぶたの下に深い皺が寄り、祈りの形だけがそこに残った。
トルバさんが俺の儀式の進行を見守りながら、一度頷いた。同じ役目を背負う者としての敬意の動作だった。
蒼凪さんは岩の上から、俺を見ていた。普段の《滴見》や《潮見》の視線ではなかった。観察者の視線、ただし観察ではない、何か別の質感の視線だった。
俺は儀式の中で、その視線を背中に感じていた。振り返らなかった。
振り返れば、たぶん少し楽になる。けれど今は海を見る。三つの輝きが進む先から目を逸らさない。それが俺の立つ場所だった。
──────────────────────────────
その時だった。
俺の耳に、別の音が届いた。
海風でも、波音でもない。人の声に近い音。だが、言葉ではなかった。音節の連なり、リズムだけが伝わる音。俺の頭の中で、その音が一瞬広がった。
それは、碇島の長が言っていた音と同じリズムだった。
「中央大陸の言葉」
長は配達で鍛冶場に行った時に、それを聞いたと言っていた。同じリズムが、儀式の領域の中で一瞬だけ響いた。
意味は分からなかった。
音は短く、すぐに崩れそうだった。けれど崩れきる前に、胸の奥へ落ちた。知らないはずの音が、どこかで聞いたことのある揺れ方をする。
碇島の長の声が脳裏をよぎった。中央大陸の言葉。あの時は情報として聞いた。遠い場所の言葉として、俺は箱の外に置いていた。
今は違う。海の儀式の内側で、そのリズムだけが俺の耳に触れている。
ただ胸の奥に、別の感触が降りてきた。
父さんが、何かを伝えようとしている。
そういう、気がした。
確証はなかった。幻視ではなかった。聴覚と直感の境界の、かすかな何かだった。儀式の領域の中で、海と父さんの記憶が一瞬触れ合った。
父さんの顔が見えたわけではない。声を聞いたわけでもない。けれど印章の重みが胸で変わった。ほんの少しだけ、内側から押されたような気がした。
俺の指先から落ちた血は、もう海に混じっている。三つの輝きは進んでいる。祈りを止めてはいけない。今ここで立つ俺は、疑問のためではなく還すためにいる。
音は消えた。
海面の三つの光が、海の方角に沈んでいった。散らばる光も、ゆっくりと海に吸い込まれていった。
俺は祈りの言葉を、最後まで唱えた。
古い言葉が喉を通るたびに、胸の奥の感触が沈んでいく。消えるのではない。沈む。あとで拾うために、いったん海底へ置かれるような沈み方だった。
最後の音を海へ返すと、俺は指先を白い布で押さえた。血はもう止まりかけていた。痛みが戻ってくる。世界の音も少しずつ近づいてきた。
──────────────────────────────
海面が普段の色に戻った。
夜明けの光が水平線から上がってきて、海岸線が金色に染まった。遺族と住民が、静かに散り始めた。誰も大きな声を出さない。砂を踏む音だけが、朝の中で薄く重なった。
トルバさんが俺に頭を下げた。
「ヒュウマさん、ありがとうございました」
「ええ」
俺は短く返した。
海守り衆が遺品を回収して持ち帰った。布の包みは来た時と同じように小さい。けれど中の重さは、少しだけ場所を変えた気がした。
俺は祭祀の岩の前に、しばらく立ち続けた。
朝の光が装束の銀糸に触れていた。袖の余りが風で揺れる。右の指先は白い布の下でじんじんと痛んだ。その痛みが、今の俺を海岸へ繋ぎ止めている。
蒼凪さんが岩の上から海岸線に降りてきた。砂を踏む音が、二つだけ近づいてきた。蒼凪さんは俺の隣に立った。
俺は振り返らないまま、海面を見ていた。
「蒼凪さん」
「ん」
「儀式の途中で、変な音が聞こえました」
「変な音」
「言葉、ではない、音節の並び」
「海風でも、波音でもない」
蒼凪さんが一拍止まった。
俺は海を見たまま続けた。言葉にすると、胸の奥の感触が形を持ちすぎる気がした。けれど言わないままだと、あの音が俺の中で勝手に広がる。
「碇島の長が言ってた、中央大陸の言葉」
「あれと、同じリズムでした」
蒼凪さんは何も言わなかった。俺の言葉を、受け止めていた。
それが分かった。相槌を急がない沈黙だった。問いで崩さず、推測で塞がず、俺が置いた形のまま見ている沈黙。
「父さんが、何かを伝えようとしている、気がしました」
口にした瞬間、喉が少し詰まった。父さんという言葉は、儀式の中よりも蒼凪さんの隣で言う方が難しかった。
「分かりません、ただ、そういう気がした」
蒼凪さんが短く返した。
「整理しなくていい」
「ええ」
その言葉で、肩の奥に入っていた力が少し抜けた。
整理しなくていい。名前をつけなくていい。確証にしなくていい。今の俺が持っているのは、ただの音と感触でいい。
蒼凪さんが一拍置いてから、右手を伸ばした。俺の左の肩に、軽く置いた。重みはほとんどなかった。数秒、蒼凪さんの手が肩にあった。それから、離れた。
手の熱だけが残った。強く支えられたわけではない。引き寄せられたわけでもない。けれどそこに触れられたことで、俺は自分の肩がどれほど硬くなっていたかを知った。
蒼凪さんは何も言わなかった。俺も何も言わなかった。
二人で海岸線を歩いて、宿の方角に戻り始めた。
足元の砂は朝の光で白く見えた。波が寄せては引き、儀式の跡を少しずつ均していく。俺たちの足跡も、たぶんすぐ消える。
消えることが、なかったことになるわけではない。海はそういう場所だった。
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宿に戻る道で、住民の何人かが俺に頭を下げた。
俺は短く頷き返した。長い言葉は要らなかった。彼らが俺に礼を言っているのか、海へ礼をしているのか、死者へ礼をしているのかは分からない。その全部かもしれなかった。
蒼凪さんは隣を歩いていた。足取りはまだ普段より重い。けれど歩幅は乱れていない。白青のローブの裾が朝の風で揺れ、海溝晶は革ベルトの上で静かに収まっていた。
儀式装束は宿の前で脱いで、海守り衆の若手に返した。若手は両手で受け取り、深く頭を下げた。俺は白い布だけを少し見てから、装束の上に戻した。
普段の海守りの戦闘服に戻った時、肩が少し軽くなった気がした。
深い藍と砂色の革が体に馴染む。背に潮鎚を戻すと、いつもの重みが戻った。戦うため、走るため、飛び込むための重み。儀式の布とは違うが、どちらも俺のものだった。
宿の朝食が出てきた。女将は昨夜と同じように余計なことを言わず、焼いた魚と温かい汁を卓に置いた。小さな皿には海藻の和え物が乗っている。
昨夜より、料理に手を伸ばす速さが少し戻っていた。箸を取る指が迷わない。魚の身をほぐし、口へ運ぶ。塩の味も普段の感覚に近づいていた。
まだ完全ではない。けれど飲み込める。汁の温かさが胃に落ちて、体が遅れて朝を思い出す。
蒼凪さんが朝食を食べながら、短く言った。
「悪くないな」
朝食の話なのか儀式の話なのか、両方の含意があった。
「ええ」
俺は返した。
蒼凪さんはそれ以上言わなかった。俺も聞かなかった。卓の上には湯気があり、窓の外には港の朝がある。それだけで十分な時もある。
窓の外、港の朝が始まっていた。商船の生存者の運び出しがまだ続いていた。負傷者を乗せた担架がゆっくり運ばれ、港の人間が道を空ける。
リオンたちの船も、朝の作業に入っているはずだった。綱を干し、傷んだ道具を分け、次に海へ出られるよう整える。昨日から続く時間は、まだ終わっていない。
死者の体が港の方角に運ばれていく音は、もう聞こえなかった。
海に沈んだ三人の名前を、俺はまだ知らない。
けれど、海は知っている。




