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群青幻想  作者: 滄龍 青司
CantoⅠ
11/61

海に沈む

 港の前の海域に、海賊船が三隻浮かんでいた。


 港へ続く航路は夕方の光に濁っている。霧はもう薄い。けれど完全には晴れず、海面の上に灰色の膜だけを残していた。その膜の向こうに黒い煙が伸びている。煙の下に商船が一隻、動けないまま捕まっていた。


 中央に商船が一隻、停泊している。北東側に最も大きい一隻、北西側に中型が一隻、南西側に中型がもう一隻。三方から商船を挟む配置だった。商船の甲板には剣戟の音が見えない位置からも届いていて、悲鳴が一つ二つ海風に乗って薄く上がってきていた。


 最も大きい一隻は北東にいる。船腹が低く太く、艦砲の口が黒く並んでいた。あれが動けば商船の帆柱を折るだけでは済まない。北西の中型は商船の逃げ道を削っている。南西の中型は港へ戻る線を塞いでいた。


 港の鐘は断続的に鳴っている。警備の出動の兆候はあるが、間に合っていない。


 鐘の音は風に刻まれて届いた。急げ。集まれ。船を出せ。そのどれにも聞こえた。けれど港の動きは鐘より遅い。艦艇を桟橋から離すには人がいる。帆を張るには腕がいる。港の人間は走っているはずだが、海の上ではまだ何も変わっていなかった。


 うちの船は南東から近づいていた。小型の船体が波の尾根を越えるたび、舳先がかすかに鳴る。帆は風を取り、舵は細かく切られている。艫にいたリオンが舳先の方へ出てきた。短く整えた髪が潮風で少しだけ乱れている。潮焼けの肌と茶色の瞳に、迷いはなかった。


 俺は望遠鏡を蒼凪さんから受け取ったリオンの隣で、肉眼で海面を読んだ。海域の波紋、海賊船の傾き、商船の状態。北東側の一隻は海賊団の中核、艦砲を備えている。北西側はその支援、南西側は商船の逃げ道を塞いでいる。


 望遠鏡の筒を下ろしたリオンが、船縁に片手を置いた。船の揺れに膝を合わせている。俺より一つ上の若さが顔には残っているのに、進路を見る目だけはずっと海の年数を食っていた。


「南西の一隻に、こちらが最初に届く」


 リオンが言った。自船は南東側から接近している。海賊三隻のうち南西の一隻が、現在の進路で最も近い距離にあった。


 俺も同じ線を読んでいた。波の向き。船腹の影。商船からこぼれた荷の漂い方。南西の一隻は獲物に気を取られていて、こちらへ船首を向けきれていない。接舷するならそこしかない。


 蒼凪さんが頷いた。それから俺の方は見ずに、リオンに短く言った。


「《無光》で海賊三隻の視界を奪う。ヒュウマが南西の一隻に乗り込む。船員は商船救援に回せ」


 蒼凪さんの声は低かった。白と青のローブの前が潮風で開き、鍛えた胸元にプラチナの首飾りが冷たい光を返している。赤い短髪の下で深い青の瞳が、商船と海賊船を同じ盤面に置いていた。


 リオンは一度だけ海面を見た。若手の頭としての顔になる。すぐに問いを返した。


「《無光》の領域内、こちらも視界を失うか」


「俺と ヒュウマは領域内で動ける。船員は領域の外側で商船に近づけ」


「分かりました。蒼凪さん」


 短い返事だった。余分な敬意も怯えもない。必要な敬意だけがある。リオンは短く頷いた。それから舵の若手と他の船員に短く指示を出した。船員たちは武器を取り、救援用の綱と引き上げ具を準備し始めた。


 若手は五人いる。艫に一人、舵を押さえる。中央に二人、武器箱と救援具を分ける。舳先寄りに一人、投げ綱の輪を作る。帆柱の周りに一人、余った帆綱を足元から退かす。誰も大声を出さない。木箱の蓋が開き、短い槍の柄が夕方の光を拾った。


「引き上げ具は右舷。槍は中央に残せ。舵は今の角度を保て」


 リオンの声が低く通った。若手たちは返事を短く重ねる。怖さはある。手の甲の筋が硬い。けれど動きは止まらない。家を出る時に船に乗ってもらった一人が、いま俺の前で船を動かしている。その事実だけで胸の奥が少し熱かった。


 蒼凪さんが俺の方を見た。


「ヒュウマ、乗り込んだら、潰す相手は最小限でいい。動きを止めるだけでいい」


「ええ」


「《重圧》は俺が出す、お前は前衛として保て」


「分かりました」


 俺は短く答えた。敵を倒すための戦いではない。商船に手を届かせるための時間を作る。その違いを蒼凪さんは言葉にしなくても分かっている。俺も分かっていた。


 蒼凪さんは甲板の中央に進み出た。海溝晶を腰のベルトから取り出した。掌を上に向けて、海溝晶を二十センチほどの空中に浮かべた。深海色の明滅が、夕方の薄い光の中で鋭く見えた。


 革ベルトから離れた海溝晶は、掌に触れていないのに沈むように浮いていた。青ではない。黒でもない。底のある色だった。海の上にありながら、海の底を連れてくる色。蒼凪さんの指がかすかに開き、白いローブの袖口が湿った風を受ける。


 俺は船首に立った。潮鎚を背中から下ろして、右手で柄を握った。索具の結び目を確認した。応急処置の小袋の蓋を閉じた。


 深い藍と砂色の戦闘服が水気を吸って、肌に少し重く貼りつく。左耳のプラチナのピアスが冷える。手の甲の古い擦り傷はもう薄い。けれど柄を握ると、傷の場所だけが皮膚の奥で思い出すように張った。


 潮鎚の重みは背から手に移った。海守りの道具で、武器でもある。船を支える。人を引く。敵の腕を止める。使い道が多い分だけ、握る側の迷いがそのまま動きに出る。俺は息を吐いて、足裏を甲板に置き直した。


 自船と海賊船の距離が縮まっていく。


 商船の甲板で誰かが倒れた。遠すぎて顔は見えない。布の色も分からない。ただ体の重さだけが、木板に落ちる音として届いた。俺はそちらへ意識を伸ばしそうになり、潮鎚の柄を握り直した。


 蒼凪さんの唇が動き始めた。


──────────────────────────────


 詠唱は、夜の岩場のときより長かった。


 あの時の岩場は湿った石の匂いがした。足元は固く、波は下から来ていた。今は違う。足元も海の上にある。船板の下に水がある。水の下にさらに深いものがある。蒼凪さんの声はその底へ向けて、まっすぐ落ちていった。


 低く、深く、海の底にしか届かない言葉。海溝晶の深海色が、掌の上で深く沈んでいく。海域の温度が一段、また一段と下がる。海風が止まったように感じる。実際には風は吹いているが、《無光》の前兆として世界の音が遠くなっていく。


 帆の鳴る音が薄くなる。綱が軋む音が遠ざかる。若手の呼吸も船底の水音も、厚い布の向こう側へ移されたみたいに鈍くなった。俺の耳はまだ音を拾っている。けれどそれは耳の仕事ではなく、《潮見》の奥に混ざる振動に近かった。


 蒼凪さんの詠唱は途切れない。赤い髪が潮風に揺れても、目線は海溝晶から動かない。深い青の瞳に夕方の光が落ちた。白と青のローブの裾が甲板を擦り、濡れた布の匂いが少しだけ届く。


 そして、闇が降りてきた。


 夕方の薄い光が、一拍遅れて沈んでいった。海域全体が、ゆっくりと夜の闇に変わる。急激ではない。ただし、確実に。海賊船の上、商船の上、自船の上、すべての光が一段ずつ落ちていく。海面そのものも、暗い深海色に変わった。


 闇は幕ではなかった。塗りつぶすものでもない。水がしみるように甲板の隙間へ入り、帆の影へ入り、人の目の裏へ入っていく。夕方の金色が指の間から抜け落ち、灰色だけが少し残り、その灰色もすぐに沈んだ。


 海賊船の方角から、声が上がった。狼狽の声、命令の声、互いを呼び合う声。互いに見えていない、聞こえていない。連携が、一拍で破綻した。


 怒鳴り声が重なった。誰かが船縁にぶつかる。剣が甲板を叩く。桶か何かが転がり、すぐ止まった。北東の大きい船では号令が飛んでいるはずなのに、声の先が散っている。中型二隻も同じだ。三方に張った網が、目の前でほどけていく。


 商船の方角だけは別だった。そこには怯えと痛みの声がある。暗くなって助かった者もいる。逆に、暗くなって足場を失った者もいる。俺は全部を拾いそうになる感覚を押さえた。いま拾いすぎると、足が前へ出なくなる。


 俺は《潮見》の感覚で、敵の位置を把握していた。蒼凪さんの感覚も、領域の中で俺に届いていた。背中側に、蒼凪さんの存在がはっきりとあった。二人で一つの戦闘単位の、海上版だった。


 蒼凪さんが海域を沈める。俺がその中で前に立つ。陸でやった時より距離は広い。波が間にある。船が揺れる。けれど背中の感覚は変わらない。そこにいる。崩れない。俺が前へ出る理由として、それだけで足りた。


 闇の中で、俺の感覚だけが届いている。


 リオンの声が領域の外側ぎりぎりから届いた。舵へ短く指示を出している。若手たちは自分の目を頼りにしていない。綱の位置、足元の板、互いの肩の距離。それを覚えたまま船を動かしている。海守り衆の船だ。目だけで動く船ではない。


 自船が南西の海賊船の側面に接舷した。船員が綱を投げて固定する音、それも闇の中ではくぐもって聞こえた。俺は船首から跳んだ。


 足が甲板を離れる。潮風が腹の下を抜ける。闇の中で海面は見えない。けれど波の高さは分かる。船と船の間にある水の息遣いも分かる。俺は潮鎚の柄を胸の前に寄せ、着地する場所だけを見た。


──────────────────────────────


 海賊船の甲板に着地した瞬間、潮鎚を構え直した。


 板は濡れていた。魚油と火薬の匂いが混ざっている。踏み込んだ足の下で、誰かが落とした短刀が小さく滑った。俺は靴底をずらして避ける。潮鎚の先を低く置き、肩の力を抜いた。


 甲板の上の海賊は六、七名。武器は剣と短刀。闇の中で、俺の輪郭が彼らには読めない。彼らの輪郭は、俺には見える。


 見えると言っても目で見ているわけじゃない。波を乱す足音。濡れた袖が空気を切る音。息の熱。船板にかかる重さ。人は動けば海の上に跡を残す。俺の中の《潮見》は、その跡を拾っていた。


 最初の一人が剣を振った。照準が定まっていない。俺は潮鎚の柄で受けた。海水が刃を撫でて、刃先が斜めに滑る。男の踏み込みが崩れた瞬間、潮鎚の鈍器部分で肩を撫でた。男は膝をついた。


 骨を砕くほど入れない。肩の動きだけを止める。男の剣が落ち、甲板を跳ねた。膝が落ちる音を聞いてから、俺はもう次へ目を向けていた。


 二人目が短刀を構えて踏み込んできた。索具を引き抜いて、手首に巻きつける。引いた。男が地面に転がった。索具を解いて、すぐ次の三人目の剣を潮鎚の柄で逸らした。


 二人目は受け身を取れずに背中を打った。息が抜ける音がした。三人目の剣は重かったが、闇の中で間合いを測れていない。柄で刃を横へ送る。空いた肘を潮鎚の端で押す。男の体が半回転し、帆柱の根元に肩からぶつかった。


 四人目が背後から来るのを、《救い手》の感覚で察知した。潮鎚の柄を後ろに突き出した。柄の先が腹に入った。男が呻いて倒れた。


 《救い手》は敵を見つけるためのものじゃない。落ちる者、沈む者、手を伸ばす者を拾う感覚だ。けれど背後から来た男の体重は、次の瞬間には誰かを海へ押す重さにもなる。だから俺は止めた。倒れた男の呼吸が続いていることだけを確認する。


 四人。


 残り二、三名は船尾の方に逃げる音がした。俺は追わない。甲板の中央で位置を保つ。蒼凪さんの詠唱完了を待つ。


 逃げる足音は軽くない。恐怖で乱れている。追えば止められる。けれど俺が船尾まで動けば、中央が空く。蒼凪さんの力が降りる場所で俺が保つべき線は、ここだった。


 船尾の方で誰かが縄に足を取られた。罵声が上がる。別の一人が帆綱を切ろうとしている。俺は潮鎚の柄を甲板に一度触れさせた。濡れた木を通して船体の震えが掌に返ってくる。まだこの船は沈んでいない。まだ形を保っている。


 俺の背中側で、蒼凪さんの感覚が深く沈んでいくのを感じた。海溝晶の明滅が、領域全体に広がっていく。詠唱が、《重圧》の段階に入っている。


 その重さは先に音を奪った。海賊の叫びが遠くなる。自分の呼吸が胸の内側へ沈む。足元の海が、船を支える水ではなくなる。何かを受け止めるために口を閉じた大きな面へ変わっていく。


 闇の中で、俺は商船の方角を一瞬だけ感じた。


 商船の方から、何人かが海に落ちる音がした。


 それは小さい音ではなかった。人の体が水に入る音は、荷が落ちる音と違う。息がある。手が動く。服が水を吸う。落ちた直後の泡が、皮膚のどこかを擦るように俺の中へ来る。


 引き上げる音は、それより少ない。


 綱が張る音はあった。若手の誰かが声を抑えて踏ん張る音もあった。けれど足りない。落ちた数と上がる数が合わない。俺の体が商船の方へ動きかけた。膝が半分だけそちらを向く。


 俺は手を止めない。甲板の中央で、潮鎚の構えを保つ。商船の方角の感触を、頭の隅に置く。数えるのは、後でいい。


 後でいい、と言い聞かせる。今ではない。今数えたら、俺はこの甲板から動いてしまう。俺が動けば南西の一隻がまた商船に刃を向ける。救うために、いまは見ない。救うために、いまは数えない。


──────────────────────────────


 蒼凪さんの詠唱が、止まった。


 海溝晶の深海色が、領域全体に深く広がった。海上の温度がもう一段、下がった。海賊船の周囲の海面が、わずかに沈み始める感触があった。


 その瞬間、俺の足裏から船の浮力が少しだけ抜けた。板が下へ逃げる。膝を緩めなければ体が遅れる。潮鎚を斜めに構え、柄の端を甲板へ落とす。木が鈍く鳴った。


 南西の海賊船の頭上に、見えない一点が降りた。


 見えないのに分かった。そこだけ海が上を見るのをやめた。空気が押され、帆が内側へへこむ。逃げた海賊の一人が声を出そうとして、喉の奥で潰したような音だけを漏らした。


 最初に来たのは、海面の沈み込みだった。


 海賊船の周囲、半径三十メートルほどの海面が深海色の波紋とともに、深く沈み込んだ。円形に、海面が押し下げられる。海賊船の船体が、その沈み込みの中央で傾く。


 船は水の上に浮いているはずだった。けれどいまは、水ごと押さえられている。船腹が軋む。帆柱の付け根が嫌な音を立てる。甲板の上に転がっていた剣が、中央へ向かって滑った。


 それから、破裂音が来た。


 低く、重い、深海から浮上してきたような音。空気を通る音ではない、海そのものを通る音。領域全体に響いた。俺の胸の中で、内臓が一拍だけ揺れる感触があった。


 息が止まる。喉の奥に鉄の味が上がった。俺の体が直接殴られたわけではない。けれど海を通った重さが骨に触れた。蒼凪さんの力は敵だけを綺麗に選ばない。海上で出すというのは、こういうことだった。


 そして、波が来た。


 海面の沈み込みの外側から、円形に大きな波が広がった。自船が大きく揺れた。北西の海賊船が揺れた、北東の海賊船が揺れた、商船が揺れた。すべての船が一瞬、海上に浮き上がるような揺れに見舞われた。


 自船の方から綱の悲鳴が聞こえた。リオンが何かを短く叫ぶ。若手が返す。商船では誰かがまた倒れた。北東の大きい船の艦砲が船腹の中で鳴り、固定具がぶつかった音がした。


 俺は潮鎚の柄で甲板を抑えた。《救い手》の感覚で、足元を保った。海賊船は、もう保てなかった。


 南西の海賊船は立ったまま、瞬間的に海面ごと沈み込んだ。それから、浮き上がってきた。だが、浮き上がってきた船体は、もう船ではなかった。マストが折れていた。甲板は中央に向かって潰れ、船尾の方から海水が侵入していた。


 折れたマストが斜めに落ち、帆が濡れた獣の皮みたいに甲板へ広がる。逃げた海賊たちが船尾で倒れている。水が板の継ぎ目から吹き上がり、足元を洗った。俺は倒れている者の位置だけを感覚で拾った。沈む前に拾える者はいる。だがこの船の形はもう戻らない。


 船は沈み始めた。


 船尾が先に重くなる。水が腹へ入る。折れた帆柱がもう一度軋み、潰れた甲板の中央から泡が湧いた。俺は潮鎚を持ち直し、戻る線を探した。自船との綱はまだ生きている。リオンたちが固定を切らずに保ってくれていた。


 闇の領域が、ゆっくりと薄れていった。蒼凪さんの《無光》が解除される。海域に夕方の光が戻ってきた。日はもう水平線の手前まで降りていて、光は赤みを帯びていた。


 闇が退くと、世界は前より広く見えた。広く見える分だけ、壊れたものも見える。商船の帆には裂け目があり、北西の海賊船は帆を乱している。北東の大きい船はまだ船首をこちらへ向けていた。港の灯りは遠くで薄く瞬き始めている。


 俺は海賊船の甲板から、自船に戻った。


 跳ぶ直前、倒れていた男の一人が水に滑りかけた。俺は索具を投げて腕に絡め、甲板の残った梁へ引っ掛けた。助けたと言えるほどではない。沈むまでの時間を少し伸ばしただけだ。けれど手は勝手に動いた。


 自船の船縁を掴む。若手の一人が俺の腕を取った。俺は潮鎚を先に上げ、それから甲板へ戻る。膝に重さが来た。闇の中で拾った音が、遅れて体の中に残っていた。


──────────────────────────────


 蒼凪さんは甲板の縁に座っていた。


 ローブの裾は水で濡れている。海溝晶を腰のベルトに戻していた。掌の中央に薄い赤い線、岩場のときと同じ場所だった。だが、今回は線が深い。詠唱の代償は、海上の方が大きかった。


 赤い線は細い。けれど浅くない。血が大きく流れているわけではないのに、皮膚の奥まで切られているように見えた。蒼凪さんの掌は閉じられていない。指は開いたまま、膝の上に置かれていた。


 白と青のローブは濡れて肌に貼りついている。鍛えた身体の輪郭が布の下で硬く出ていた。胸元のプラチナの首飾りが赤い夕光を拾う。深い青の瞳はまだ海面を見ている。呼吸は乱れていない。乱れていないように、整えられていた。


「ヒュウマ」


「ええ」


「無事か」


「無事です。蒼凪さんは」


「問題ない」


 蒼凪さんの声に揺れはなかった。揺れはなかったが、ローブの裾を払う手がいつもより遅かった。


 その遅さを、俺は見ないふりができなかった。けれどここで言葉を重ねても、蒼凪さんは同じことを言う。問題ない。そう言う声は本当に問題がない時と、問題を今は扱わない時でほとんど変わらない。


 リオンがこちらへ一度だけ目を向けた。俺と蒼凪さんの間に割って入らない。すぐ艫へ戻り、舵の若手に指を二本立てて合図した。船は商船に寄りすぎず、港警備の艦艇が入る線を空けている。まだ戦いは終わっていなかった。


 北西の海賊船は、パニックの中で逃走を始めていた。中央海域の方角に、帆を広げて遠ざかっていく。北東の海賊船は、まだ戦闘続行の構えだった。だが、その北東の方角に港警備の艦艇が一隻、ようやく接近してくるのが見えた。中型一隻、海賊一隻に対しては十分だった。挟み撃ちの形になる。


 北東の船は大きい。艦砲もある。けれど動きが遅れた。南西の一隻が沈んだことで、三方の網が破れた。北西は逃げている。残った中核は商船と港警備の艦艇、そしてこちらの船に角度を挟まれる。


 港警備の艦艇から、合図の旗が上がった。


 赤と白の旗が夕光の中で振られる。風が弱まり、旗の動きは少し鈍い。けれど合図は読めた。援護確認。商船救援継続。北東の一隻を抑える。リオンも同じ意味を読んだはずだ。


「海守りの船、援護感謝」


 艦艇の指揮官の声が、海風に乗って薄く届いた。リオンが手を上げて応えた。


 リオンの手は若い。けれど上げ方は若くない。船の代表として返す角度を知っている。艦艇の指揮官もそれを見たはずだ。俺はその横顔を見て、短く息を吐いた。頼んでよかった、と今さら思う暇はなかった。


 俺は甲板の縁に立った。


 商船の甲板を見た。


 さっきまで遠くて音だけだった場所が、今は夕方の赤い光の中に見えている。帆柱の下に割れた樽が転がっている。縄が切れている。木箱が砕け、布と干した果物らしきものが混ざって甲板に散っていた。血の色は夕光に紛れて、最初は分かりにくかった。


 商船の甲板には、布をかけられた体が並んでいた。数えるまでもなく、六体、七体、それ以上。商人と乗組員の姿が見えた。生存者もいる、十名ほど、自船と港警備の船で救助される段取りに入っている。


 布は足りていなかった。顔だけを隠された者もいる。肩から先が出ている者もいる。海水で濡れた袖が風に少し動き、その動きに一瞬だけ息があるように見えた。だが違う。動かしているのは風だ。


 若手の二人が商船側へ救援用の綱を渡していた。片方が船縁に腹を押しつけ、もう片方が腰を支える。引き上げ具の木枠が軋む。濡れた手が滑り、すぐ別の手が重なる。声は抑えられているが、全員の息が荒い。


 海面に、まだ何かが浮いていた。


 人の形をしていた。動かない。


 顔は見えない。服の色も海水で分からない。片腕だけが水面の上へ出て、指が少し曲がっている。波が来るたびに肩が上下する。自分で浮いているのではない。海が持ち上げて、落としている。


 商船の方角で、海守り衆の若手が海から人を引き上げる作業を続けていた。引き上げる音と引き上げられない音の差が、俺の感覚に届いていた。


 引き上げる音には重さの先がある。綱が張り、人の体が船縁に触れ、誰かが息を詰めて受け止める。引き上げられない音には先がない。水面が閉じる。泡が消える。綱が空で戻る。俺の中で、その差だけがやけに鋭かった。


 死者の体が、港の方角に運ばれていく。海面に、まだ浮かない者がいる。沈んでいく場所は、闇の中で俺が感じていた場所とおそらく同じだった。


 俺は名前を知らない。商船の積み荷も知らない。どこの港から来て、誰に会いに行く途中だったのかも知らない。知らないまま、体の重さだけを先に受け取っている。海守りはそういう仕事だ。名前より先に腕を伸ばす。声より先に水へ入る。


 あの闇の中で俺は何人を救えなかったか、まだ数えていない。


 数えるのは、後でいい。


 後で必ず数える。港に着けば、布の数を見て、名を聞いて、残った荷を運ぶ人間の顔を見る。家族がいれば伝える声を聞く。数えることから逃げられない。けれど今は、まだ海の上だ。まだ引き上げる手がいる。


──────────────────────────────


 蒼凪さんは甲板の縁に座ったまま、海面を見ていた。視線は商船の方角に向いていない。海賊船が沈んだ方角でもない。日が降りていく水平線の方角に向いていた。


 水平線の手前で、日は赤く薄くなっている。金色だった海面はもう冷えて、赤と灰色の間で揺れていた。沈んだ海賊船の破片がその上に散っている。割れた板、切れた帆布、樽の蓋。どれも波に同じように運ばれる。


 俺は蒼凪さんの方を一度見た。


 蒼凪さんは俺の方を見なかった。


 二人とも、何も言わなかった。


 言えば、何かが形になる。形になったものは扱わなければならない。蒼凪さんの掌の赤い線も、商船の布の数も、海面にまだ残る人の形も。いまは全部が夕方の光の中で濡れている。乾く前に言葉を置く場所がなかった。


 リオンが舵の若手に合図を出した。帆が少し角度を変える。船体が港の方へ向き直る。若手の一人はまだ海面を見ていたが、別の若手に肩を叩かれて持ち場へ戻った。戻った足取りは重い。それでも戻る。船は動かなければならない。


 自船は港に向かって進み始めた。港の灯りが、夕方の終わりの光の中で点々と灯り始めていた。商船は曳航される。港警備の艦艇は、北東の海賊船の制圧を続けている。


 曳航の綱が張る。商船の船首がゆっくり動いた。傷ついた船体は水を噛みながら進む。船腹には黒い擦れ跡があり、帆の裂け目から赤い空が見えた。港の灯りはまだ小さい。けれど船の進む先に確かに増えている。


 北東では艦艇の号令が飛んでいた。海賊船の帆が半分下ろされる。抵抗の声はまだ残っているが、先ほどの勢いはない。北西の海賊船は遠くなり、中央海域の灰色へ逃げ込もうとしていた。追う船は今はいない。こちらには商船がある。


 海面に浮かんでいた人の形が、海風に押されて少し動いた。


 俺の手は船縁を握っていた。指先に木のささくれが刺さる。痛みは小さい。小さい痛みだけが、いま自分の体の輪郭を教えてくれた。俺はそれを抜かずに、港の灯りを見た。


 海に沈んだ者の名前を、俺はまだ知らない。知らないまま、運ぶことになる。

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