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群青幻想  作者: 滄龍 青司
CantoⅡ
133/136

薔薇の魔女の裁定

 ルッカの指は引き金の外で止まり、銃口は下がったままだった。


 鉄の冷えた音が、濡れた石の上で小さく鳴った。弾かれた水が銃身の下で震え、石粉を含んだ泥の薄い輪を作った。彼は硝子を抱くヒュウマを見て、それから自分の手を見た。白い手袋の甲に煤がつき、祝祭用の飾り綱の切れ端が袖口に絡んでいた。


 銃はまだ手にあった。


 ヒュウマの腕の中のものは、赤子だった形をかろうじて保っていた。軽い。抱き直しても重みが戻らず、濡れて硬い硝子だけが腕の中で温度を奪っていた。袖口に染みた水は冷え切り、前腕の内側へじわじわ広がった。肘を入れ替えるたび、硝子の丸い背が骨に当たり、異様な軽さだけがかえって形を強くした。泣き声はない。赤い色も、もう内側を満たしていない。


 ルッカは銃を鞘へ戻した。


 金具が閉じる音で、崩れた街路の空気が少し変わった。戦いの間合いではなく、帳面を開く距離になった。瓦の欠片を踏む足が止まり、誰の呼吸も浅く街路へ落ちた。


「返してくれ」


 ヒュウマは動かなかった。


「渡せません」


「これはシローネの荷だ。うちの名で入った。うちの帳簿に載って、うちの処分が終わっていない。現物を戻さなければ、どの欄も閉じられない」


「荷ではありません」


 ルッカの口元から、残っていた礼の形が落ちた。濡れた前髪の先から水が落ち、白い襟の端に黒い点を作った。


「荷として入った。そういう順序でここまで来た。硝子細工一箱。申告はそうなっている。中身が変わったなら、変わった後の記録をつける。割れたなら破片を回収する。燃えたなら灰を量る。消えたなら消失を証明する。そうしなければ、次に同じ荷が通る」


 ヒュウマは、硝子を抱える肘をほんの少し締めた。冷えた水が袖の中で動き、布が前腕に貼りついた。


「倉庫へ戻すものではありません」


「倉庫へ戻すと言っていない。回収して、処分する。残りを確かめる。誰の責でこうなったかを、書ける形にする」


「書くために渡すものではありません」


 レオンの聖剣は、半分から先だけに弱い白い光を残していた。光は刃の端で薄く揺れ、街路に散った石粉の白さと混じった。レオンは刃を見下ろし、最後の細い光が消えるまで待った。


 納刀の音は短かった。


 屋根の端からヴェスタが降りた。膝を曲げて石の上に着くと、彼女はルッカとヒュウマの間ではなく、崩れた壁の側へ立った。濡れた瓦が足の下で鳴り、すぐ静まった。ガイウスは盾を解かずに近づき、半身だけ皆へ向けた。盾の縁には湿った石粉が白くついていた。カイは死んだ男の傍に膝をついたまま、乱れた上着を直していた。男の名は誰の口にも出なかった。


 蒼凪がヒュウマの横へ来た。剣は手にない。手だけが空いていた。


「ルッカ。帳簿は、物を閉じるものか」


「物だけじゃない。運んだ人間と、場所と、責任だ。そこを曖昧にしたら、シローネの荷札は次から誰にも通らない」


「責任を置く先が要る」


「そうだ」


「ヒュウマは、これを何と呼ぶ」


 ヒュウマは蒼凪を見なかった。硝子を支える袖口が、指の下で濡れていた。掌の熱は硝子へ移らず、冷えだけが戻ってきた。


「送るものです」


 ルッカがすぐに返した。


「どこへ」


「海へ返すものです。俺の家では、そうします」


 ルッカの眉が動いた。


「家の作法で、シローネの帳簿は閉じられない」


「帳簿では送れません」


「だから実物が要ると言っている」


「実物だから渡せません」


 言葉が同じ場所を叩いた。だが、少しずつ違う角度だった。ルッカは処分を言い、ヒュウマは送りを言った。どちらも手順だった。どちらも、空の手で済ませる気配がなかった。崩れた街路の真ん中で、濡れた硝子だけが二つの手順の間に置かれていた。


 蒼凪は硝子を見た。


「亡骸か」


 ヒュウマの顎が小さく下がった。


「俺は、そう扱います」


「ルッカ。帳簿は亡骸を扱えるか」


「扱う。扱わなければならない。荷の中から出たなら、なおさらだ。名前がなくても、形が変わっても、捨てたとは書けない」


「なら、名は」


「名はない。だから荷の番号で追う」


 ヒュウマの手が硝子の背を押さえた。赤子に似た丸みは硬く、抱く腕の側が形を合わせていた。


「番号で送るものではありません」


「名がないから番号になる。そうしなければ、誰かが勝手に持ち去ったことになる」


「持ち去りません。返します」


「それを誰が確認する」


 ヒュウマが息を吸った。濡れた袖が胸に触れ、冷えが喉まで上がった。声は低いまま、初めて少し硬くなった。


「俺です」


「君の家の海で、君の家の作法で、うちの荷が消える。そう書けと言うのか」


「うちの荷ではありません」


「では何だ」


 ヒュウマはすぐには答えなかった。答えの代わりに、腕の中の硝子を見た。輪郭は赤子のものに近かったが、肌も髪もなく、口も目も閉じた形のまま固まっていた。首に当たる細いくびれも、握りしめた形のままの手も、硝子の中へ沈んだまま動かなかった。


 蒼凪が、ルッカへ向けていた体を少しずらした。


「問いを変える。これは、誰の物かではなく、何かだ」


 ルッカは蒼凪を見た。


「何かを決めても、うちの記録は消えない」


「消せと言っていない。順番を聞いている。物なら帳簿。亡骸なら送り。どちらでもないなら、先に別の扱いが要る」


「別の扱いを誰が決める」


「ここにいる全員ではない」


 ガイウスの盾の縁が、足元の石に触れた。硬い音が短く跳ねた。


 ヴェスタが屋根を見上げた。


「来る」


 蒼凪も顔を上げた。港の外縁、崩れた街路の先で、まだ光ではない揺れがあった。風に混じって、事務の号令のような声がいくつも重なった。声は瓦の欠け目に当たり、石壁の割れた面で細く返った。次いで、歩く者の金具が鳴った。濡れた道を選んで踏む足音が、近づくたびに低くなる。


 その奥で、手灯りの列が細く伸びた。


 ルッカは白手袋についた煤を払った。払っても黒は広がっただけだった。


 ヒュウマは硝子を抱いたまま、海のある方へは向かなかった。


──────────────────────────────


「灯りを内側へ寄せてください。崩落線の外へ出る方を数えます」


 声が先に来た。


 割れた道の向こうで、号令は人の列より早く届いた。次に、徒歩の金具音が来た。濡れた石、割れた瓦、落ちた飾り柱の破片がそれぞれ違う高さで音を返した。歩く間隔は一定で、壊れた街路をまっすぐ来るのではなく、沈んだ場所を避けて折れながら近づいていた。


 そのあと、灯りが来た。低い手灯りと、係員が掲げる青白い標識灯。破れた祝祭の幕の下を、黒い服の男たちが規則正しく進んでくる。先頭を歩くダイダロスは、汚れた街路にも足取りの高さを変えなかった。


 灰白の巻き髪も白い礼服も、崩落の粉塵の中で一箇所も乱れていない。血色の薄い肌は濡れた石と同じ冷たさで灯りを返し、淡い薔薇色の瞳はほとんど瞬かなかった。長身の輪郭は人のものとして均整が取れすぎており、歩いてきたというより、そこへ置かれた展示品に近かった。


 隣のアドニスは、濡れた外套の裾を片手で押さえ、もう片手に薄い帳面を持っていた。帳面の角は湿り、頁の縁がわずかに反っていた。


 ダイダロスは一同の前で止まった。


「生存者確認、優先搬送、火元遮断、沈下箇所の封鎖。順路です」


 誰も返事をしなかった。


 ダイダロスは、ルッカの手、ヒュウマの腕、カイの膝元の死んだ男、レオンの鞘、ガイウスの盾、ヴェスタの足元を順に見た。視線は長居しなかった。見たものが、そのまま項目へ入っていく速度だった。


「マーレ租借区外縁の三街区で外壁の破断。港倉庫二棟の屋根落ち。臨時観覧席の脚部損傷。水路側の舗装沈下、現時点で七箇所。負傷者は搬送済みが二十一名、歩行可能な申告者が三十八名。行方確認中が十二名です」


 アドニスが帳面を開いた。紙が湿気を含んで軽く鳴った。


「劇場裏手の控え車庫は閉鎖しました。宿泊棟の東側は人を抜き終えています。市場側の火は、露店二列で止まっています」


「死者は」


 レオンの声だった。


 ダイダロスはカイの傍を見た。


「当方の確認では、この場の一名のみです。追加確認は続行中です」


 カイの手が死んだ男の袖口を整えた。顔には布が掛けられている。名札はなかった。袖に残った煤は、整えても布地の織り目へ沈んだままだった。


 ルッカが低く言った。


「総稽古は」


 アドニスが答えた。


「続行は困難です。祝祭本体も、現時点の施設状態では予定通りには扱えません」


 ダイダロスが補った。


「中止または停止の見込みです。正式な発表は、上位の確認後になります」


 ルッカは唇を結んだ。すぐにほどいた。濡れた白手袋の指が、袖口の飾り綱を一度だけ押さえた。


「シローネが運んだ荷については、こちらで処分する」


 ダイダロスの視線が硝子へ移った。


「その荷とは、ヒュウマ様が保持している硝子を指しますか」


「そうだ。うちの搬入記録にある。ここで起きたことの全部を、シローネの外へ押し出す気はない。だからこそ、現物を返してもらう」


 ヒュウマは首を横へ振った。


「渡せません」


 ダイダロスはその拒否を帳面へ書くような間で受けた。風で手灯りの火が細くなり、彼の頬の影だけが動いた。


「マーレとしては、当該物品の扱いを確定できません。搬入元はシローネ商会。受入区画は当方。現保管者はヒュウマ様。いずれも、この場で単独の処分権を主張するには不足します」


 ルッカが一歩前へ出た。濡れた石の上で靴底が止まり、黒い水が脇へ押し出された。


「不足はそちらにもある。あれを置いた区画はマーレだ。総稽古で全区画を動かしたのもマーレだ。安全のための装置が本当に安全だったのか、誰が確認した」


 アドニスが帳面の頁をめくった。紙の端についた水が、指先で細く伸びた。


「総稽古前の保全確認は三度。北水路、劇場上部、租借区外縁。該当装置の点検記録は残っています」


「記録が残っているから事故が消えるわけじゃない」


 ダイダロスは少しも声を変えなかった。


「消えません。ですから数えています。どこで壊れ、誰が運ばれ、どの順に閉じるかを、今ここで切り分けます」


「切り分けるなら、うちの荷も戻せ」


「戻す先は、責任を置く先と同じではありません」


 ルッカの白手袋が握られた。煤が皺に入った。


「言い方を変えるな。マーレは、シローネの荷を受け入れた。その荷の中にあったものが、街を巻き込んだ。なら、シローネに現物を戻して、こちらで処分するのが筋だ」


 ダイダロスはアドニスから帳面を一枚受け取った。


「受け入れました。搬入欄はあります。札もあります。ゲート通過の印もあります」


「なら」


「ただし、それは申告内容に基づく受け入れです」


 ルッカの目が細くなった。


「今度はシローネが隠したと言うのか」


「言っていません。確認しているのは、申告された内容と実際に置かれた荷の差です」


 ヒュウマの腕の中で、硝子を支える袖口から水が一滴落ちた。石に吸われず、丸く残った。灯りの揺れが、その小さな水面にだけ映った。


 蒼凪が口を挟んだ。


「差があるとして、マーレの装置は消えない」


「消えません」


「シローネの申告も消えない」


「消えません」


「ヒュウマの家の送りも消えない」


 ダイダロスはヒュウマへ向いた。


「それも、消えません。ただし当方の手続きでは扱えない種類です」


 ヒュウマは短く言った。


「扱ってほしくありません」


「承りました。承りましたが、扱わないことをもって、責任の所在を空にすることはできません」


 ルッカが吐き捨てるように言った。


「空にする気はない。俺が引き受ける」


「ルッカ様個人ではなく、シローネ商会としてですか」


「そうだ」


「商会として引き受けるなら、申告の差も同じ帳面に載ります」


 ルッカは答えなかった。


 遠くで、別の灯りが揺れた。海側ではない。劇場の方角だった。灯りというより、動く影が幾つか、割れた道を選びながら近づいていた。先ほどのマーレ隊より列は崩れており、足音はまとまらず、途中で止まる影もあった。


 アドニスがその方角を見た。


「劇場側から、人が来ます」


 ダイダロスは帳面を閉じなかった。


「では、証言を増やしましょう」


──────────────────────────────


 足音は乱れていた。


 先に見えたのは、止まった沙漏を抱えたヴァローだった。両腕で抱えているのに、器の底が少しずつ落ちていく。重さは肩から肘へ降り、肘から手首へたまっていた。彼の肩は上下し、外套の端には細かい硝子の粉がついていた。濡れた布の上で粉は白く伸び、歩くたびに少しずつ落ちた。


 後ろにイーリスが歩いている。喉に片手を添え、口を開かない。声にならない息だけが胸の上で止まり、吐くたびに唇の端が震えた。ラウリは左腕を外套の内側へ入れ、右手でイーリスの歩幅を測るように進んでいた。自分の歩幅を削り、イーリスが立ち止まりかけるたびに半歩だけ待った。


 ヴァローは近づききる前に止まった。沙漏を抱えた腕が下がる。底の丸みが腹へ当たり、息を一つ押し返した。ラウリが半歩出たが、ヴァローは首だけで制した。


「このまま、ここで述べます」


 ダイダロスが答えた。


「お願いします」


 ヴァローは腕の中の沙漏へ目を落とした。


「完全に停止しています。砂は落ちていません。器の外装にも破断はありません」


 アドニスが帳面を構えた。ダイダロスは半歩横へ避け、ヴァローとルッカ、そして硝子を抱くヒュウマが直線にならない位置に立った。壊れた街路の上で、人の立つ場所だけが細く作り直された。


 ヴァローは息を整えた。胸が上下しても、抱えた沙漏は動かなかった。


「まず物証です。塔からの返書があります。記録名は災月沙漏。現物の札は朱月沙漏。字が一つ異なります。返書には、用途の説明がありました。ただ、一行が欠けていました」


 ルッカが言った。


「欠けた一行で、何がわかる」


「欠けているから断定できない、ということがわかります」


 ダイダロスの目が細くならなかった。声も変わらなかった。


「続けてください」


 ヴァローは沙漏の縁を握り直した。指先は濡れていないのに、白く滑りそうに見えた。器の底が腕を下へ引き、彼は顎を一度引いて支えた。


「次に観測です。総稽古中、街の広い範囲で異常な夜が続きました。劇場側では、音と灯りのずれ、時間の伸びに似た現象を確認しました。沙漏はその間、作動を続けていました。停止後、異常が保たれていた範囲は縮小しました」


 ラウリがイーリスの背へ手を添えた。イーリスは喉に指を当てたまま、ただ立っていた。吸い込んだ息は、声になる前に薄く崩れた。


 ヴァローは続けた。


「最後に推測です。観測は、装置が加速に関与した可能性を示しています。ただし、単独で全てを引き起こしたとは言えません。硝子の器、総稽古の条件、装置の作動、その三つを同時に扱う必要があります」


 ルッカがダイダロスを見た。


「つまり、マーレの装置が押した」


 ヴァローがすぐに言った。


「私は、押した可能性を述べています。断定ではありません」


「可能性でも十分だ。うちの荷だけでこうなったわけじゃない」


 ダイダロスはヴァローではなく、ルッカへ向いた。


「当方の装置には運用実績があります。設置以降、近接事故の件数は減っています。総稽古で広範囲に用いた理由も、混雑と停電のリスクを下げるためです」


 ルッカが返す。


「減っていた装置が、この夜だけ別の働きをしたのなら、実績は盾にならない」


「盾ではありません。比較対象です。実績を消すには、今回の異常と装置の作動を結ぶ立証が必要です」


 ヴァローが沙漏をわずかに上げた。上げたというより、落ちる前に戻した程度だった。


「そこは、私も同じ留保です。作動と停止の前後は示せます。中で何が起きたかまでは、ここでは示せません」


 蒼凪が言った。


「装置だけでない。器もある」


 ルッカはすぐに引き取った。


「器はシローネが持ち込んだ。それは消さない。だが、受け入れた区画で、マーレの仕組みに乗った。うちへ全てを戻して終わる話ではなくなった」


 ダイダロスは紙を一枚めくった。


「戻して終わる話ではない、という点は一致します。ですから当方からも確認します。シローネ商会は、当該物品を硝子細工一箱として申告しました」


「そうだ」


「搬入欄、札、ゲート通過記録、全てあります」


「だから受け入れた」


「申告と異なる荷を当方の区画へ置いた事実は、推測ではありません」


 ルッカの手袋の指先が、壊れた飾り綱を潰した。濡れた糸が平たくなり、煤が白い布へ移った。


 ヒュウマは硝子を抱いたまま、目だけを伏せた。蒼凪は硝子と沙漏を見比べた。レオンは黙って鞘の頭に親指を置いた。カイは死んだ男の布を押さえ、ガイウスは盾を半歩前へ出した。ヴェスタは崩れた壁の上端を見て、落ちそうな石の位置だけを覚えるように目を動かした。


 ルッカは低く言った。


「中身を全部知っていた者はいない」


 ダイダロスは答えた。


「知識の有無と、申告との差は別です」


「知らないものをどう書く」


「知らないものとして書く方法はあります。硝子細工として書いた方法もあります。選ばれたのは後者です」


 ヴァローが口を開いた。


「ただ、塔の返書が来るまで、私も記録名の差を持っているだけでした。用途の危険を、明確に述べる材料は欠けていました」


 ダイダロスはヴァローへ顔を向けた。


「ヴァロー様の留保は承知します。ですが、留保は当方の装置だけに向けられるものではありません」


「はい」


「シローネの申告にも、塔の返書にも、劇場側の観測にも、留保はあります」


「はい」


 ルッカが割って入った。


「留保を積んでいけば、誰も手を出せなくなる。その間に現物がどこかへ回される。だから俺は今、引き取ると言っている」


 ヒュウマが答えた。


「渡せません」


 三度目の拒否は、いちばん静かだった。


 ルッカはヒュウマへ向き直った。白い靴先が硝子の方へ半寸だけ進んだ。


「君の腕に置いたままでは、何も閉じない」


「閉じなくていいものがあります」


「それを決める権限が、君にあるのか」


 ヒュウマは答えなかった。蒼凪が代わりに言った。


「ルッカにもない。ダイダロスにもない。ヴァローにもない。ヒュウマだけにもない」


「では誰にある」


 蒼凪の視線が、皆の背後へ向いた。


 誰も足音を聞かなかった。


──────────────────────────────


 振り向いた時には、エヴァンジェリーネとアルフレッドが立っていた。


 アルフレッドは黒い外套を濡らしもせず、片手に白い包み布を持っていた。エヴァはその前に出ていない。背の高い若い女の姿で、瓦礫の街路にまっすぐ立っていた。だが彼女がそこにいるだけで、ルッカの手袋、ダイダロスの帳面、ヴァローの沙漏、ヒュウマの腕の硝子が、同じ高さの卓へ置かれたように見えた。


 手灯りは増えていない。誰かが席を作ったわけでもない。ただ壊れた港の空間だけが、急に狭くなった。硝子を抱く腕と帳面を持つ手と沙漏の底が、ひとつの平らな面に並んでいた。


 フェリシアの姿は、街路のどこにもなかった。いつからいないのか、誰も言えなかった。


 エヴァは最初にヒュウマを見た。


「海守りの末裔。そなたの腕は、空ではなかった。されどそれは、人の亡骸ではない」


 ヒュウマの肩が下がらなかった。腕も緩まなかった。


「では、何ですか」


「願いを孵す器じゃ。人の形を取った。声を上げた。熱も重みも借りた。じゃが、亡骸ではない」


 ルッカが口を挟んだ。


「器なら、なおさらうちの荷だ。シローネの搬入物だ」


 エヴァはルッカへ顔を向けた。声は低いが、刃にはならない。


「商人。そなたの帳面は、運んだ箱を追う。そこまではよい」


「では返還を」


「急ぐな。帳面は、箱の中で起きたことを産んではおらぬ」


 ダイダロスが言った。


「マーレの記録でも同様です。当方の装置は、保全目的で設置されました。実績もあります」


 エヴァの目だけがダイダロスへ移った。小さな顔の中で、視線の先だけが硬くなった。


「実績とは、昨日まで水が静かだったと書くことじゃ。今日の濁りを洗う布にはならぬ」


 ダイダロスは表情を動かさなかった。


「承知しました。では、本日の記録として扱います。装置の作動、停止、被害範囲、全て記録します」


「記録は石の表面を撫でる。中で割れたものを戻しはせぬ」


 アドニスがほんの少し帳面を下げた。紙の縁から水が一滴落ち、靴先の黒へ消えた。ダイダロスは続けた。


「それでも、手続きは必要です。誰が何を置き、どの設備が関わり、どの損害が生じたかを分けなければ、復旧も補償も進みません」


 エヴァは唇の端も上げなかった。


「手続きは、乾いた皿を並べるには便利じゃ。海水を盛る皿を間違えれば、卓ごと腐る」


 ルッカが声を低めた。


「その卓から、シローネだけを外す気はない。器を運んだ責任は取る。だから現物をこちらへ」


「責任を取る者ほど、物を抱きたがる。商いではそれでよい」


 エヴァはヒュウマの腕の硝子を見た。


「じゃが、これは商いの終い札では足りぬ」


 ヴァローが沙漏を抱え直した。息が細くなる。器の底が腕を押し下げ、言葉の前に喉が一度鳴った。


「エヴァンジェリーネ様。私は、器と沙漏と総稽古の条件が重なった可能性を述べました。沙漏が全ての原因だとは言えません」


「言えぬものを言わぬのは、まだよい」


 エヴァは沙漏を見た。その時だけ、目の温度が変わった。声は変わらなかった。


「妾が知っておったのではない。起きたことが語っておる。器は願いを食う。沙漏は人の夜を整えるために置かれた。総稽古の港には、明日を待つ者、売り上げを待つ者、名を待つ者、舞台を待つ者が満ちていた。お主らは、それぞれの理由で熱を集めた」


 ルッカが言った。


「シローネは品を運んだ」


「運んだ」


 ダイダロスが言った。


「マーレは安全のために運用しました」


「運用した。安全という名札をつけてな」


 ダイダロスは退かなかった。


「安全という名札ではありません。危険を下げるための設備です」


「危険を下げる手が、別の危険の椀を傾けた。そういう夜じゃ」


 ヴァローが頷いた。


「停止後に範囲が縮んだことは、観測として残せます」


「残せ。だが、それだけで断つな」


 蒼凪が口を開いた。


「器は、願いを食った。沙漏は、夜を整えた。港は、願いで満ちていた。すると、何が起きた」


 エヴァは蒼凪を見た。


「凪。器は、人の形を借りて孵ろうとした。沙漏は、人の卓へ載せるには古すぎる夜を、この港の手順へ押し込んだ。港の手順は、善意で動いていた。商人の手も、マーレの手も、海守りの腕も、勇者の刃も、学者の返書も、それぞれ自分の務めを果たした」


 レオンが低く言った。


「果たして、死者が出た」


「出た」


 エヴァはレオンを見た。


「その名のない者を、人の法で弔うのはお主らの務めじゃ。そこは奪わぬ」


 カイの手が布の上で止まり、それからまた動いた。布の端を直す指だけが、冷えた空気の中で静かに働いた。


 ルッカがもう一度、ヒュウマへ向いた。


「それでも、器はシローネの荷として入った。ここで魔女が何と言おうと、帳簿に残る。俺は空欄を残せない」


 エヴァはルッカへ戻った。


「空欄が嫌いか」


「嫌いじゃない。危険だ。空欄は、次の荷の影になる」


「なら、空欄ではなく、薔薇の館へ移管と書け」


 ルッカの声に、敬語が戻った。煤のついた白手袋が、胸の前で商談の高さへ戻る。


「移管先として、正式にお受けになるのですか」


「妾が受ける。お主の帳面には、返還不可、薔薇の館預かりと書け。処分済みとは書くな。売買外とも書け」


 ダイダロスがすぐに言った。


「当方の記録にも必要です。マーレ区画内で確認された危険物の移管として」


 エヴァがダイダロスへ向いた。


「記録という語で包めば、舌が綺麗になると思うでない」


「危険物という語を避ける必要がありますか」


「人の箱へ入らぬものを、箱の名で縛るな」


 ダイダロスは浅く頭を下げた。


「では、名称未確定物の保全移管とします」


「勝手に記せ。ただし、お主の記録が物を持つのではない」


 アルフレッドが前へ出た。白い包み布を広げ、ヒュウマの腕の下へ差し入れる。布は湿った空気の中でも白く、街路の煤を受ける前の紙のようだった。ヒュウマは腕を引かなかった。布は硝子の下を受けたが、重みはヒュウマの腕に残ったままだった。


「布だけです」とアルフレッドが言った。


 ヒュウマは頷いた。


 ヴァローの腕の沙漏へは、アルフレッドが革の帯を掛けた。器の底を支え、落ちかけた重さを少しだけ分ける。革が沙漏の腹を押さえた瞬間、ヴァローの肩がわずかに下がった。ヴァローの指は帯を離さなかった。


 エヴァは二つを同じ視界へ入れた。白い包み布と革の帯が、硝子と沙漏を同じ卓の上へ近づけていた。帳面の紙、白手袋、濡れた硝子、止まった砂が、朝の前の灰色に並んだ。


「誰の手かを問うな。問えば、お主らはまた人の法で裂く」


 ルッカはすぐに言った。


「責任を問わないのでは、補償が動きません」


「補償は人の被害へ向けよ。壊れた屋根、沈んだ道、失われた命、止まる商い。そこは逃げるでない」


 ダイダロスが言った。


「マーレも復旧と補償の手続きを進めます。装置の関与は調査対象とします」


「調査はよい。だが、お主らの手続きは、いつも物を先に檻へ入れる」


「檻ではありません。保全です」


「名を変えても、鉄は鉄じゃ」


 ルッカが白手袋を外しかけ、やめた。濡れた革が指の節で引っかかり、また元へ戻った。


「では、硝子も沙漏も薔薇の館へ。シローネは搬入責任を認め、以後の処分権を放棄する。それでよろしいですか」


「放棄ではない。手の届かぬ場所を知るだけじゃ」


 ダイダロスが続けた。


「マーレは、当方区画内での保全対象として、引き渡し記録を作成します」


 エヴァは短く返した。


「お主は本当に、紙を抱かねば歩けぬのう」


 ダイダロスは答えた。


「歩けます。ですが、紙がなければ、後続が同じ場所で止まります」


「それだけは、少しは聞ける」


 アドニスが小さく息を吐いた。帳面の角が濡れて、紙が波打っていた。


 蒼凪がエヴァへ問うた。


「人の法でないなら、何で分ける」


 エヴァは首を横へ振った。


「分けぬ」


「預かるだけか」


「預かり、閉じる。閉じられぬなら、近づけぬ」


 ヒュウマが静かに言った。


「海へは」


「今のこれは、そなたの家の海へ返すものではない」


 ヒュウマの指が布を強く押さえた。布越しでも硝子の冷えは消えず、指の腹だけが白くなった。


「では、俺の腕は」


「運ぶ腕じゃ。最後まで落とすでない」


 ヒュウマは頷いた。


 エヴァはルッカとダイダロスを見比べた。


「人の法が届かぬ物を、人の卓で分けるでない」


 誰もすぐには言わなかった。


 波の音が、港の壊れた石の下から低く上がった。灯りの芯が一つ、風で暗くなった。ダイダロスの帳面の頁が震え、ルッカの手袋から煤が落ち、ヴァローの沙漏の砂は止まったままだった。


 エヴァは続けた。


「ここから先は、魔女の領域じゃ」


 アルフレッドが白い布の端を整えた。硝子はまだヒュウマの腕にあり、沙漏はまだヴァローの腕にあった。ただ、二つの下には薔薇の館の布と帯が入っていた。


 ルッカは深く息を吐いた。礼を作るには短く、反論を続けるには長い息だった。


「承りました。シローネは、薔薇の館預かりとして記録します。処分済みとはしません」


 ダイダロスも頭を下げた。


「マーレは、名称未確定物の保全移管として記録します。復旧と調査は、別途進めます」


 エヴァはダイダロスにだけ言った。


「別途という札を増やすほど、手は増えぬぞ」


「承知しています」


「承知という語も、便利じゃな」


 アドニスが帳面を閉じた。湿った紙束が重く重なり、革表紙の下で小さく沈んだ。


 レオンがようやく前へ出た。


「死んだ男の扱いは、俺たちで進める」


 ダイダロスはレオンへ向いた。


「身元確認に当方の人員を出します」


 カイが布の上から男の肩を押さえた。


「それは受ける」


 ガイウスが盾を少し下げた。


「道を空ける。搬送に使え」


 ヴェスタは崩れた屋根を見上げた。


「上はまだ落ちる。人を寄せるな」


 ダイダロスは短く頷き、後ろの係員へ指示を送った。声は一定で、人数と場所だけが動いた。係員たちは灯りの高さを変え、崩れた壁から半歩ずつ人を外へずらした。


 エヴァはもう何も言わなかった。アルフレッドが半歩後ろに立ち、白い布の端を手の内で整えた。


──────────────────────────────


 帰る者と残る者が分かれた。


 石の上には、さっきまで同じ輪の中にいた足跡がいくつも重なっていた。濡れた砂利が踏まれて黒くなり、割れた瓦の角だけが白く見えた。灯りを持つ者は崩れた屋根の下へ向かい、帳面を持つ者は残った。硝子を抱く側は、港の高台へ続く道の方へ向きを変えた。


 蒼凪は、石の上に残っていた潮鎚を拾った。柄の濡れを払わず、片手に提げた。水を吸った柄は重く、手の中で冷えていた。


 エヴァとアルフレッドは、薔薇の館の布と帯を確かめた。蒼凪はヒュウマの横に立ち、ヒュウマは硝子を抱えたまま、白い布の端を腕の内へ入れた。布が入っても荷は軽かった。軽いままなのに、両腕の位置だけが下がっていく。イーリスとラウリは、その傍で足を止めた。


 レオンは死んだ男の傍に戻った。カイは布を掛け直し、ガイウスは盾を掲げたまま搬送の道を空けた。ヴェスタは崩れた屋根の下へ人を入れないよう、石を蹴って境を作った。ヴァローは沙漏を抱えたまま、その側へ残った。


 ルッカとダイダロスは、壊れた街路の上で向かい合っていた。アドニスが二人の間に帳面を開き、項目だけを読み上げる。濡れた紙は反り、インクの先を待つ欄が灰色の灯りを受けていた。


「搬入元。シローネ商会。受入区画。マーレ外縁倉庫。申告。硝子細工一箱。現物。名称未確定。移管先。薔薇の館」


 ルッカが言った。


「返還不可。処分未了。薔薇の館預かり」


 ダイダロスが言った。


「保全移管。調査継続。復旧費用は被害区分ごとに算定」


「シローネの負担分は、申告差の確認後に協議する」


「マーレの負担分は、装置関与の調査後に協議します」


「逃げるなよ」


「逃げません。記録に残します」


 ルッカは短く笑わず、ただ顎を引いた。


「その記録で首を締める日が来るぞ」


「締まるなら、緩める手順を作ります」


 アドニスは二人の声を同じ紙へ落とした。灯りの端で、インクが黒く太った。ペン先が一度止まり、濡れた紙の繊維へゆっくり沈んだ。


 革の帯が鳴った。


 ヴァローの腕から沙漏を下ろす時、器は見た目より重かった。アルフレッドが支え、ラウリが右肩を入れた。左腕は外套の内に収めたまま、動かさない。沙漏の底が胸へ当たり、ラウリの膝が少し沈んだ。足裏の下で、濡れた石がわずかに滑った。


「俺が持つ。左は使わん」


 ヴァローはすぐに離せなかった。指が帯に残り、爪の色が薄くなった。ラウリは沙漏を右肩と胸で受け、少し体を斜めにした。息を吐く時だけ、右の肩が下へ落ちた。


「落とさない」


 それだけで、ヴァローの手は外れた。


 イーリスはラウリの横に立っていた。喉に添えた手は下がらない。唇は開かない。白い息だけが、明け方の冷えた空気に薄く出た。


 東の空が白んだ。


 最初の光は、海からではなく、壊れた瓦の隙間に差した。夜の間はただ黒かった隙間が、淡く縁を持ちはじめた。濡れた石が薄く明るくなり、誰かの落とした銀の留め具が光った。踏まれた祝祭の紙片は石へ貼りつき、朝の冷えで端だけが硬くなっていた。


 青白い賽の粒は、契約を交わした九人の肌の下でゆっくりとほどけた。


 イーリスが空を見上げた。


 唇が震えた。声は砂を含んだように掠れて、けれど港の冷えた空気を渡った。


「……朝、です」


 ラウリが沙漏の重みを右肩で受け直した。ヴァローはその声に顔を上げ、すぐに俯いた。蒼凪はイーリスへ歩み寄り、何も言わずに水筒を差し出した。イーリスは両手で受け、少しだけ口を湿らせた。


 高台の道に、学者の姿が一人あった。防災の腕章をつけ、潮位を書き留めている。港を見下ろし、崩れた石垣と水の高さを同じ紙へ記していた。


 エヴァは高台へ続く道を見た。


「夜が明けた。凪、歩けるな」


 蒼凪は頷いた。


 ヒュウマの荷の奥で、低い音が一度だけ鳴った。


 硝子を抱く腕と、沙漏を担ぐ肩と、朝の光を受けた足が、壊れた港の高台へ向かって歩き出した。

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