厄災の後の日常
封蝋の割れる音が、朝の玄関広間にひとつ落ちた。
割れた蜜蝋は爪の先ほどの欠片になって、黒い小盆の底で鈍く光った。紙の縁は夜の湿りを吸って、乾いたものより指へ遅れて離れる。
ディーノ・ベラルディは銀盆を持ち替えた。右の盆には名刺。左の盆には伺い状。黒い小盆には評議会筋の封書。蜜蝋の匂いと濡れた外套の匂いが混じり、磨いた大理石の床は外から来た靴裏の水で細く曇っている。
厄災の夜が明けた朝、主と客人たちは壊れた港の高台から歩いて戻った。ディーノの手帳にはその欄だけ、濡れた外套、白布、湯、担架を使わず、という短い語が並んでいる。
その後の館は、眠る暇より先に門を開けた。
「ディーノ、名刺は右の銀盆へ。伺い状は封蝋の色で分けなさい」
アルフレッドの声は低く、玄関広間の床をまっすぐ渡った。黒燕尾服の裾は濡れていない。白手袋の指先だけが紙の厚みを測り、封蝋に触れる前で止まる。
「承知いたしました、執事頭」
ディーノは答え、銀盆の縁を指で押さえた。盆の上では紙が少し滑る。乾いた紙と湿った紙で、重さが違う。濡れた伺い状は盆へ置いた瞬間に音が低くなり、名刺は軽く鳴って端へ寄る。指先を覆う白手袋越しでも、その差だけは分かった。
「ディーノさん、それは礼状でございます。返書の束へ」
メリッサが横から言った。声は柔らかい。柔らかいまま、逃げ道を閉じる。
「失礼いたしました、メリッサ様」
「宛名もご確認を。賢者様宛ては黒盆、海守り殿宛ては港湾組合の束でございます」
「はい」
リーナが階段側から小走りに戻ってきた。両手で白い布を抱え、足元は速いのに踵の音だけは抑えている。息を吸う前から、メリッサの視線が彼女の髪の乱れを一つ拾った。
リーナは片手で髪を直し、もう片方の手で布を持ち直した。抱えた布の端は湿っておらず、麻の乾いた匂いがディーノの盆の上まで届いた。急いだ息だけがまだ浅く、布を抱え直すたび肩が上下した。
「ディーノさん、港湾組合のお使いは湯をお出ししますか?」
その日、リーナの声に疑問の形がついたのはそこだけだった。本人も言った後で気づいたらしく、唇を薄く閉じる。
「湯だけで結構でございます。長く座らせません」
メリッサが答えた。
「リーナ、湯をお持ちなさい。砂糖は不要です」
アルフレッドが続ける。
「承知いたしました」
リーナは布をディーノへ渡し、湯の方へ向かった。角を曲がる時に一度だけ速度が上がったが、盆を持つ前には戻るはずだった。メリッサの目がそれを見送り、帳面へ短く線を引く。
玄関の外には馬車が二台。歩いて来た者が四人。門番の後ろではさらに三人が待っている。誰も大声は出さない。だが声を低くしても、急ぐ者の肩は上がる。礼状を持つ手は強くなり、伺い状の角は湿った指で少し曲がる。
扉が開くたび、外の空気が広間へ押し寄せた。濡れた革靴、焦げた羊毛、水を含んだ車輪の木の匂い。客は一人ずつ入ってくるのに、気配だけは列のまま入ってくる。声を抑えた人数の重みで、玄関広間の天井が低くなったように感じられた。
「厄災について、お館さまのご見解を直接伺いたい」
最初の客は、評議会の徽章を襟につけた老紳士だった。外套に雨はない。革の書類筒だけが脇に抱えられ、封蝋には評議会の印が沈んでいる。
アルフレッドは頭を下げた。
「お館さまへの面会はお受けいたしかねます。伺い状をお預かりいたします」
「急を要する」
「その旨も書面へお願いいたします」
老紳士の指が書類筒の蓋から離れた。肩書は門を越えても、階段までは上がらない。ディーノは筒を黒い小盆へ載せた。
続いて入った女は、花籠を胸の高さに抱えていた。深い色の外套に灰がついている。港に近い地区から来たのだろう。靴底に白い砂と黒い煤が重なっていた。
「せめて賢者様と海守り様へ、お礼だけでも」
アルフレッドはもう一度頭を下げた。
「お二方への面会はお受けいたしかねます。お品はお預かりいたします」
「お怪我は。お二方とも、歩けるのでしょうか」
「ご無事でございます。賢者様は評議会へ、海守り殿は救援へ向かわれます」
それで客の肩が下がった。二人が動いていると分かった形だった。ディーノは花籠を受け取る。重い。薔薇ではない。市場で手に入る白い小花と香草を、急いで束ねたものだった。
籠の持ち手は濡れていた。編み目の間に水が入り、握ると指の腹へ冷たさが残る。香草の青い匂いの奥に、港から上がった煙の匂いも細く混じっていた。
「お預かりいたします」
「必ず、お渡しを」
「承知いたしました」
ディーノは返事をしてから、花籠の持ち手を布で包んだ。籠の底に水が染みている。床へ置けば跡が残る。彼はリーナが戻る前に脇卓へ移し、皿受け用の浅い陶器を下へ入れた。
メリッサが小さく頷く。
「結構でございます」
その一言で、ディーノの肩の力がひと息ぶん正しい場所へ戻った。
階上では扉が開き、すぐ閉じた。奥様の部屋へ入った古参のメイドが、階段の上から降りてくる。言葉は長くなかった。奥様は客へ会わない。評議会の伺い状は受ける。礼の品は宛名を確かめる。婚姻契約の照会は東応接棟へ。花はメリッサへ。紙はアルフレッドへ。
それだけで玄関広間の流れがまた動いた。
「菓子箱はこちらでございますか」
別の客が箱を差し出した。箱には金の紐が掛かっている。祝祭用の贈答に使う紐だった。指先にまだ新しさがあり、結び目だけが不自然に固い。
金の紐は乾いていた。乾いているから余計に、結び目を作った時の慌て方が残っている。祝いのために用意された箱が、礼の言葉とともに差し出される。紙箱の角はきれいなまま、差し出す手だけが強張っていた。
「お預かりいたします。どなた宛てでございますか」
ディーノが尋ねると、客は少し言葉を迷わせた。
「賢者様と、海守り様へ」
「二つに分けて記録いたします」
メリッサが横から静かに入った。
「菓子箱は一箱でございます。宛名は代表を一名へ。添え状に皆様のお名前をお書きくださいませ」
「あ、では」
客が慌てて紙を探す。ディーノはすぐに小さな書き台を出し、インク壺を開けた。客の指は震えていた。黒いインクが一滴、紙の手前で丸く膨らむ。
メリッサは拭き取る布を置いた。
「急がなくて結構でございます。名は略さずお願いいたします」
「はい。失礼いたしました」
「失礼ではございません。記録に残すためです」
その声で、客は少し息を取り戻した。紙に名前が増えていく。菓子箱の重さは変わらないが、扱う手順は変わる。ディーノは箱を盆へ載せ、宛名の写しを挟む場所を空けた。
次の客は菓子も花も持っていなかった。両手で抱えているのは、薔薇色の封蝋が残る婚姻契約の控えだった。
「立会いの日取りは、どうなりますでしょうか」
「日取りは当館から改めてお知らせいたします。契約についてのお尋ねは書面へお願いいたします」
アルフレッドが答えると、客は控えを開いた。ディーノは書き台をもう一つ出す。礼状と契約の照会は、同じ紙でも戻る先が違った。
外の門で馬が小さく鼻を鳴らした。
その時、西館へ続く廊下からヒュウマ様が出てきた。上衣は救援用の軽いものに替わっている。髪はまだ濡れていない。だが袖口には温室の白い湿りがついていた。毎朝、ヒュウマ様はロサ・テンプスの隅にある小さな温室へ寄る。ディーノはその戸を開けたことがない。曇った硝子越しに見えるのは、白布と棚と、奥へ置かれた硝子の像のようなものだけだった。
ヒュウマ様は玄関広間の手前で足を止めた。
「温室を見てきました。港へ回ります。戻りは日暮れ前後です」
「海守り殿、馬車は右手でお待ちです」
アルフレッドが答える。
「ありがとうございます」
「お手元の包帯は」
「港で汚れます。戻ってから替えます」
「承知いたしました。汚れた布は玄関でお渡しください。こちらで処分いたします」
ヒュウマ様は一度頷いた。客の一人が身を乗り出しかける。海守り殿、と呼びかける前に、アルフレッドの身体が半歩だけ前へ出た。大きな影が、客とヒュウマ様の間へ静かに置かれる。
「ご用件は私が承ります」
その短さで足りた。
ヒュウマ様はディーノの横を通る時、銀盆を避けて少し肩を引いた。灰と潮の匂いはまだ薄い。戻る頃には濃くなっている。ディーノはそう思い、すぐに手帳へ書かず頭の中へ置いた。今は玄関の紙が先だった。
続いて凪様が降りてきた。
廊下の奥から歩く姿は、急いでいないのに誰よりも早く玄関へ届く。赤い短髪には乱れがなく、白と青の衣は評議会へ出るために整えられていた。疲れは顔色の底に残っている。けれど靴音は乱れない。客たちは一斉に目を上げ、すぐ下げた。どこまで見てよいか、誰も知らない顔だった。
「評議会へ行く。戻りは夜になる」
凪様が言った。
「承知いたしました、凪様」
アルフレッドが答える。
「お館さまへは」
「戻ってから話す」
「では、そのように」
メリッサが帳面へ書き込む。ディーノは黒盆の封書を一束にまとめ、評議会からの使いへ受け取りの札を渡した。黒盆の底で封蝋が触れ合い、乾いた豆を転がすような音がした。
「凪様へ、港側の議場に直接お届けするものはございますか」
「この束だけだ。ほかは置いていく」
凪様は黒盆の一番上を指先で軽く押さえた。紙の束が沈む。ディーノは両手で盆を上げた。
「お預かりいたします」
「頼む」
短い言葉だった。客への言葉ではなく、仕事を渡す言葉だった。ディーノはそれが胸へ入る前に頭を下げた。
門が開く。ヒュウマ様の馬車が先に出る。少し間を置き、凪様が評議会の使いと並んで石段を下りる。街へ向かう道には、まだ割れた敷石がある。馬車の車輪はそこを避け、歩く者の靴底は石の浮いたところを覚えながら進む。
玄関広間へ戻ると、次の客がすでに帽子を取っていた。
「勇者様へのお礼は、こちらでは」
アルフレッドの白手袋が、紙の束の上で止まる。
「当館ではお預かりいたしかねます」
「では、どちらへ」
「後日、オルヴェリス教会のサルマンディア支部へお願いいたします」
客は困ったように帽子を抱え直した。ディーノはその間に濡れた床を拭く。リーナが湯を運び、メリッサが宛名を直す。アルフレッドは扉の前に立ったまま、客を一人ずつ止め、通し、預かり、断った。
濡れ布はすぐ黒ずんだ。靴裏から来た水は大理石の目地へ入り、拭けば消える。だが次の足がまた曇りを作る。ディーノは膝を折るたび、銀盆の縁に紙が触れる音を聞いた。
朝は終わらない。
だが館は、朝を終わらせるために動いていた。
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勝手口の戸が内側から二度鳴った。
厨房の者が開けるより早く、透真が顔を上げた。包丁を置く音は小さい。だが厨房の中でその音を聞いた者は全員、今から入ってくる人間が食事より先に世話を必要としていると分かった。
炉口から上がる熱で、厨房の硝子は曇っていた。湯を張った鍋の蓋が震え、煮崩れた米の甘い匂いが火の匂いと重なる。表玄関の冷えとは別の場所だった。
ヒュウマ様が入ってきた。
潮と灰の匂いが先に来る。髪には白い砂がつき、袖口は濡れていた。手の甲に擦り傷があり、指の間に細かな黒い汚れが残っている。歩ける。背筋も立っている。けれど靴底を上げるたび、床へ残る水の形が重い。
濡れた布から落ちた水は石床で丸くならず、灰を含んで鈍く広がった。ヒュウマ様が勝手口の框を越えると、外の潮気が厨房の火に触れる。匂いだけが一瞬荒くなった。
「ヒュウマ、そこへ座れ。先に水だ」
透真が言った。
「透真さん、港の方が」
「港の話は飲んでからだ。手の傷も洗う」
「浅いです」
「砂が残ってる。化膿したら人を運べない」
ヒュウマ様は反論のために息を吸った。透真はその前へ水の椀を置いた。椀の位置がうまい。立っていても受け取れる高さで、受け取ると座るしかない距離に椅子がある。
椅子の脚はあらかじめ引かれていた。座れば勝手口の風を背に受けず、湯の鍋にも近すぎない場所だ。透真は椀を置いた手で椅子の背を指先だけ押し、床の石目に沿わせた。
「傷のある手をこっちへ。ほら」
「……分かりました」
ヒュウマ様は椀を受け取り、水を飲んだ。一口目が喉を通る音まで、厨房の火の中へ落ちる。透真は濡れ布を取り、手の甲を見た。指先を押す。ヒュウマ様の眉がかすかに動く。
「痛むか」
「動かせます」
「聞いたのは痛みだ」
「少し」
「それでいい。隠す元気は飯の後に使え」
厨房の端で、ディーノは濡れた外套を受け取っていた。今日の布は昨日より重い。水だけではない。灰が入ると布は手に沈む。リーナが替えの布を棚から出し、汚れ物の籠を一つ増やした。
外套の裾から、白い砂がぱらぱらと落ちた。濡れた羊毛は手袋へ貼りつき、持ち上げると腕の筋へ重さが残る。ディーノは布を二つ折りにして、濡れた面が内側へ来るよう持ち替えた。
「ディーノさん、外套はこちらへ」
「助かります、リーナさん」
「洗い場へ先に回します。砂が落ちますので」
「床は私が」
「いえ、床は私も見ます」
言いながらリーナは足元の水を避け、濡れ布を差し出した。手際はまだ若い。けれど水滴が広がる前に布が来る。ディーノは受け取り、勝手口の石を拭いた。
透真はヒュウマ様の手を湯で流し、布で押さえる。湯に落ちた砂は底で黒く集まり、血ではない赤みが皮膚の擦れた場所だけに浮いた。手当ての熱と厨房の熱は違う。手当ての熱は、触れたところだけを狭く熱くする。
「今日は何人」
「数えてません」
「数えられない数か」
「運んだのは七人です。水を汲んだのは、覚えていません」
「じゃあ、飯は二杯だ」
「一杯で」
「二杯だ。数が合わない」
ヒュウマ様はそこで返事に詰まった顔をした。厨房の者たちの手が止まるほどではない。けれど火のそばにいた若い下働きが、鍋の蓋を閉めるタイミングを少し遅らせた。
透真は帳面を開いた。献立の横に食材の残りが書かれている。魚の欄だけ、白い。朝に引いた線が夕方になっても増えていない。
「明日の白身は無し。干し物を戻して、根菜で量を作る」
透真が言った。
「漁は出ていないのですね」
メリッサが厨房の入口から声をかけた。帳面を抱え、袖口を汚さない位置で立っている。
「出てません。出ても港に戻す場所が足りない。魚より先に板と縄です」
「帳面へ記します。フェリ様の小皿は」
「今日は空です。匂いだけでごまかすと、後が怖い」
その時、黒猫が配膳口の下から出てきた。
フェリ様は音もなく歩き、空の小皿の前へ座った。皿には湯で温めた跡だけがある。魚はない。骨もない。塩抜きの汁すらない。黒い尾が床を一度叩いた。
「フェリ様、皿を押しても魚は増えません」
透真は鍋を見たまま言った。
フェリ様は前足を伸ばし、空の小皿を前足ひとつぶんだけそっとディーノの方へ押した。陶器が石床を擦る音は小さい。だが厨房の全員が聞いた。
ディーノは膝を折り、皿を受け取った。
「失礼いたしました、フェリ様」
返事はない。フェリ様は目を細め、空になった場所へ座り直した。抗議は済んだらしい。済んだだけで、許されたわけではなさそうだった。
透真が短く息を吐く。
「干し貝の戻し汁なら出せます。魚じゃありません」
フェリ様の尾がもう一度動いた。
「承知ということで」
「透真さん」
メリッサが静かに呼ぶ。
「はい」
「フェリ様のご意向は、断定せず記録します」
「はい。空皿、尾二回。干し貝は保留」
「結構でございます」
ディーノはそのやり取りを手帳へそのまま書きそうになり、やめた。書くなら小皿の数と、魚の欄だけで足りる。フェリ様の尾の回数は、透真の帳面に入る。
ヒュウマ様の前には深い椀が置かれた。米と根菜を崩した粥に、細く裂いた鶏肉が入っている。上には香草がほんの少し。港の匂いを塗り替えるほど強くない。
椀の外側は熱く、木の受け皿には湯気の水が細くついた。匙を差すと、粥は重く割れて戻る。受け皿の水が、椀を持ち上げるたび細い輪を残した。
「先に半分」
透真が言った。
「残りは」
「半分食べてから考える」
「透真さん、救援の者にも」
「鍋はもう出した。お前の椀はここ」
ヒュウマ様は匙を持った。手の甲の布が少し浮く。透真が無言で押さえ直す。ヒュウマ様は礼を言おうとして、口より先に粥を食べた。
それで透真の眉が少しだけ下がった。
厨房の外では、夜の灯が入れ替わり始めた。表玄関の灯は落とされ、勝手口の灯は残る。門番が一度だけベルを鳴らす。評議会からの馬車ではない。薬草を届けに来た庭師の荷車だった。
リーナが荷を受け取り、棚へ運ぶ。腕に抱えた袋の口から乾いた草の匂いが漏れた。薬草の粉が袖口へつき、彼女は肘で棚の戸を押さえながら札の向きを揃えた。
「メリッサ様、薬草は西館分と厨房分に分けます」
「西館分を先に。厨房分は透真さんへ渡してください」
「承知いたしました」
「袋の名札を外さないように」
「はい」
リーナの返事は短かった。朝より息が整っている。走る日ほど、彼女は夕方に背筋の線が一本通る。
夜が深くなる頃、凪様が戻った。
評議会帰りの外套は乾いていた。乾いているのに重そうだった。肩に雨はない。かわりに紙の匂いがついている。アルフレッドが扉を開け、ディーノが手袋を持ち、メリッサが帳面を閉じずに待った。
「戻った」
凪様の声は短い。
「お帰りなさいませ、凪様」
アルフレッドが頭を下げた。
「奥様は」
「お部屋でございます。お食事の後でお通しします」
「分かった」
厨房へ通されると、透真はすでに椀を一つ置いていた。
「凪様、水からです」
「粥でいい」
「水も粥も出ます。選ぶところではありません」
凪様は透真を見た。透真は鍋を見ている。見返していないのに、引く気配がない。
ヒュウマ様が椅子から少し立ちかけた。
「蒼凪さん、こちらへ」
「座っていろ」
凪様が言う。
「俺はもう座りました」
「なら食え」
「食べてます」
透真が二人の間へ水を置いた。椀は二つ、匙も二つ。
「会話は噛まなくていいです。米を噛んでください」
凪様は水を飲み、椀を受け取った。
「悪くないな」
「まだ食べてません」
「匂いだ」
「では食べてからもう一度お願いします」
凪様は返事をせず、匙を取った。ヒュウマ様も自分の椀へ戻る。二つの椀から湯気が上がり、厨房の火の熱と混じった。
椅子の位置は近すぎず、手を伸ばせば水だけが届く距離に置かれていた。厨房の端に、救援から戻った濡れた外套と、評議会から戻った乾いた外套が別々の籠へ収まっている。
西館の奥では、イーリス様が杯を両手で包んでいた。声は戻っているはずだったが、歌はない。喉に触れた指がすぐ杯へ戻り、温かさを確かめるように縁をなぞる。ラウリ・シレリオ様は左腕を布の内へ収め、右手だけでパンを割った。大きな身体は椅子に収まっている。収まっているだけで椅子が務めを果たしている顔になる。
ディーノは水差しを替え、皿の戻りを見た。西館の皿は音を立てないよう布の上へ置かれ、厨房へ戻る頃には湯気を失っていた。空いた杯の底には、薬草の香りが丸く残っている。
フェリ様の小皿は空のまま戻った。戻ったというより、厨房の前から消えて、食堂の窓辺に置かれていた。皿の縁には干し貝の汁が少しだけ残っている。
透真はそれを見て、帳面へ短く書いた。
空皿、受領。
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木が石へ返る音がした。
板張りの廊下ではない。大理石の玄関でもない。館の地下から石段を上がってくる、短く乾いた音だった。
ディーノは替えの水差しと汗拭き布を抱え、地下へ続く石段で足を止めた。朝の灯りは階段口までしか届かない。薔薇と蝋の匂いは一段ごとに薄れ、乾いた木と古い革の匂いへ変わっていく。
地下修練場には二人いた。
アルフレッドと凪様だった。
声はない。
アルフレッドは黒一色の簡素な修練着に替え、長い木杖を持っていた。大きな身体は石床の上でも足音を響かせない。角の影が黒い磨石へ伸び、杖の先が床すれすれで止まる。凪様も、いつもの白と青のローブではない。袖のない簡素な修練着をまとい、薄い稽古靴を履いて木剣を下段に構えていた。赤い短髪の生え際に汗がにじみ、首筋へ一本だけ落ちている。
凪様の稽古靴が古い床を擦る。壁の木剣と短槍は動かず、革の胴当てだけが二人の起こす風をわずかに受けた。
杖が動く。
凪様の肩が開く。
木と木は強く当たらない。音は短く、乾いている。受けた後の足が半歩下がり、すぐ戻る。アルフレッドが杖の握りをわずかに変える。それだけで、次に来る線が変わる。凪様はそれを追い、追いきれないところで止まる。止まってから、もう一度始める。
杖先が床を掠めるたび、薄い埃が縁だけ上がった。肩、肘、手首。動く場所は大きくない。音も増えない。二人の呼吸だけが、地下の石壁に浅く返る。
ディーノは水差しを石台へ置き、畳んだ布を横へ重ねた。
二人は見ない。礼も言わない。礼を受ける場所ではなかった。水差しが必要になればそこにある。それだけでよい。
彼は灯を少し落とし、石段を上がった。背後でまた靴底が床を擦る。木が短く鳴る。階段口の向こうでも、朝の鳥はまだ声を出さない。
昼が近づくと、街の音が窓まで上がってきた。
祝祭用の白い布は、半分だけ外されている。外された布は濡れた石の上に置けないので、職人たちは棒へ巻き、軒下へ運んだ。花縄はところどころ切られ、まだ使える部分だけ籠へ戻される。広場へ向かう道には材木が積まれ、割れた敷石の上に仮の板が渡されていた。
槌の音が遠くから上がる。板を打つ音と、縄を引いて柱へ巻く音は違った。祝祭布を外す職人の手は早いが、乱れていない。濡れた裾だけは棒へ巻くたび重さを増し、二人の手がそこへ来るたび速さを落とした。
青白の旗が、救援の集まる場所を示している。
風が吹くたび、旗は祭りの飾りのように揺れた。だが下にあるのは屋台ではない。水桶。担架。縄。釘。布袋。炊き出しの鍋。急ごしらえの机。そこで名を書き、怪我の軽い者を座らせ、重い者を奥へ送る。
館の窓から見える街は、祝うために用意した手を、そのまま片づけと手当てに回していた。
玄関の列から、勇者様が厄災を斬り伏せたらしい、という声が聞こえた。メリッサのペンは止まらず、アルフレッドは次の名刺を受け取った。
午後、沙漏を東廊下の仮置き室から奥の保管室へ移す手順が入った。
前触れは鍵束の音だった。アルフレッドが仮置き室から現れ、ディーノとリーナは壁側へ下がった。アルフレッドの背後には古い台車がある。車輪には布が巻かれ、金具の鳴りを抑えていた。台車の上には厚い覆いを掛けた箱が載っている。箱そのものは大きくない。だが台車の沈み方が、普通の荷ではないことを示していた。
覆いの布は厚く、角で折れずに丸く張っていた。台車の木枠は磨かれているのに、持ち手の内側だけ色が濃い。車輪に巻かれた布は二重で、継ぎ目の糸が床へ触れるたびに鈍い擦れ音を残した。
「この台は私が運びます。皆は壁側へ下がりなさい」
アルフレッドが言った。
「承知いたしました、執事頭」
ディーノは両手を前で揃えた。
リーナは半歩下がりすぎ、背中が壁に当たった。小さな音が出る。メリッサが視線だけを向ける。リーナはすぐ姿勢を直した。
「記録は移動時刻と置き場所だけでございます」
メリッサが帳面を開く。
「開封はありません」
アルフレッドが答えた。
箱の覆いは動かない。布の端には黒い留め紐があり、結び目はアルフレッドの側だけへ向いていた。ディーノはそれ以上見なかった。台車の車輪が床の継ぎ目を越える。布を巻いていても、かすかな重さの音が残る。
途中の扉は先に開けておく。曲がり角には人を置かない。床の濡れはないか。敷物の端はめくれていないか。ディーノは順に見る。見るものは多い。台車が通り過ぎれば、次の角へ歩を移す。
台車は直線より曲がり角で重く見えた。アルフレッドは肩で押さず、腕の幅だけで向きを変える。ディーノは先回りして扉の金具を持ち、リーナは廊下の端へ掛かった房飾りを壁側へ寄せた。誰の靴も台車の前へ出ない。
アルフレッドが台車を止めたのは、奥の保管室の前だった。
鍵束が鳴る。扉が開く。空気が少し冷える。メリッサが時刻を書く。ディーノは廊下の両端を見る。リーナは持っていた布を握り直し、何も拭かずに待った。
箱が室内へ入る。
扉が閉まる。
鍵が戻る。
「ディーノ」
アルフレッドが呼んだ。
「はい」
「この廊下の清掃は夕刻に。水を使わず、乾いた布で行いなさい」
「承知いたしました」
「リーナ」
「はい」
「厨房へは、夕刻の通行を避けるように。中身は不要です」
「承知いたしました」
メリッサが帳面を閉じた。
「結構でございます。リーナ、今の順で透真さんへ」
「はい、メリッサ様」
リーナは背筋を伸ばして歩き出した。走らない。だが歩幅はいつもより少し速い。ディーノはその背を見送り、保管室の扉へ目を戻した。
扉はただの扉の顔をしていた。
それで十分だった。
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温室の戸にかかった金具が、夜風で小さく鳴った。
ディーノは角灯を持ち、ロサ・テンプスの石畳に立っていた。夜の庭は昼より広い。薔薇の枝は黒く重なり、葉に残った水だけが灯りを細く返す。小さな温室は庭園の隅にあり、外から見れば古い硝子棚を少し大きくしただけの建物だった。
硝子の外側は曇っている。昼の熱が夜の湿りに押され、四角い面の下へ水滴が集まっていた。角灯を上げすぎると光は跳ね返る。下げすぎると金具の陰が石の段差へ落ちる。
中には入らない。
戸のそばにはヒュウマ様がいた。救援帰りの上衣ではなく、洗った後の軽い服に替わっている。だが手の甲の布はまだ新しい。温室の曇った硝子に、彼の肩の線が薄く映る。奥には白布をかけられた台と、お預かりの品がある。灯りの角度で、硝子の像のようなものの輪郭だけが一瞬立ち、すぐ湿った白に沈んだ。
凪様が庭の通路から来た。
評議会から戻った後、食事を取り、奥様の部屋へ上がり、また降りてきたのだろう。外套は着ていない。袖口だけを整え、足元の濡れた石を避けずに歩く。
石畳には夜露が降りていた。凪様の靴底とヒュウマ様の靴底では、水の広がり方が違う。近づくほど、二人の間に残る距離だけが灯りの外へ置かれた。
ヒュウマ様が振り向いた。
「蒼凪さん。あの夜、俺は」
そこで言葉が止まった。
凪様が半歩、近づいた。灯りの中へ入りかけ、すぐ手前で止まる。ディーノは角灯を持つ手を少し上げた。二人の顔には当てない。足元の石と、温室の戸の金具だけを照らす。
「ああ」
凪様が言った。
それだけだった。
風が薔薇の枝を動かした。葉の水が一滴落ち、石に当たる。温室の中では何も動かない。白布の端も、棚の影も、夜の湿りの中で静かに止まっている。
ヒュウマ様は温室の戸へ向き直った。曇った硝子に、顔の輪郭は映らなかった。
「……明日は東の岸へ回ります。水の引きが悪い家が残っています」
凪様は彼を見ていた。見てから、温室の戸へ視線を移した。
「分かった。評議会で先に通す」
「お願いします」
短い言葉だった。そこで二人は並んで歩き出す。館へ戻る道は同じだ。凪様が先に行くわけでもなく、ヒュウマ様が支えるわけでもない。足元の石が濡れているところだけ、二人の歩幅が同じになる。
角灯の光は二人の背ではなく、足元へ残った。石の冷えが靴底越しに上がり、角灯を持つ手まで夜気へさらされる。二人の足音は庭の出口へ近づくにつれ、濡れた石の上で聞き分けられなくなった。
ディーノは角灯を持ったまま、最後に温室の金具を確かめた。掛かっている。戸は閉じている。棚の影は動かない。角灯を下げ、中へ視線を入れずに戸の下へ回す。水は入り込んでいない。石の継ぎ目に土が浮いていないことも確かめる。
見るな。だが見落とすな
ディーノは金具へ指を添え、布の畳み目を直した。角灯を少し下げ、温室の前の敷石に残った泥だけを布で拭った。
館の扉へ戻ると、アルフレッドが待っていた。
「戸は」
「閉じております、執事頭。水の入り込みもございません」
「結構です」
凪様とヒュウマ様は先に中へ入っていた。ディーノは角灯を壁の金具へ戻した。
温室の金具はもう鳴らなかった。
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「門の掲示板に布告が出ておりました。千年海婚祭は中止と」
昼の玄関で、客の声が紙より先に入ってきた。
男は息を切らしていた。使いではない。近くの通りで店を持つ者らしく、袖に飾り紐の繊維がついている。手には写しが一枚。貼り出しを見て、その場で書き取ってきたものだった。字は急いでいる。けれど中止の二字だけは大きく、紙の中央で黒く乾いていた。
紙は薄く、握られていた縁だけが細かく波打っていた。走ってきた息の荒さより、銀盆へ置かれる前の紙音の方が玄関ではよく通った。
アルフレッドは写しを受け取らず、まず男へ椅子を示した。
「お知らせに感謝いたします。写しは盆へお願いいたします」
男ははっとして、紙を銀盆へ置いた。指が紙から離れるまで、ディーノは盆を動かさない。湿った指先が文字を擦ることがある。急いでいる紙ほど、扱いは遅くする。
メリッサが横へ来た。
「掲示の場所は」
「表門から港へ下りる広場です。ほかにも貼ると、役人が」
「承知いたしました。ご自身の店は」
「飾り紐を下げております。売るどころでは」
「では、湯をお持ちします。座ってお待ちくださいませ」
男は断りかけたが、メリッサの声を受けて椅子へ腰を下ろした。断るための力まで、外へ置いてきた顔だった。リーナが湯を運ぶ。砂糖はない。白い杯だけが盆の上で温かい。
「ディーノさん、花瓶は婚礼用から応接用へ替えます」
リーナが小声で言った。
「お願いします、リーナさん。白い小花は残してください」
「承知いたしました」
「花縄の控えは」
「メイド長へ回します」
メリッサが写しを見た。目の動きは早い。だが紙をめくる手は急がない。写しの端を押さえた指先は、文字の上を踏まない位置にあった。
「控えを取ります。客室札は祝祭客から臨時来客へ替えます。婚礼用の香は本日で止め、薬草香を薄く」
「承知いたしました」
ディーノは答えた。
「厨房へは私が」
「いえ、ディーノさんは表札を。リーナ、厨房へお願いします」
「はい」
アルフレッドが玄関の奥から声を落とした。
「ディーノ、表の札を差し替えなさい。リーナ、花は下げず水を替えなさい」
「承知いたしました、執事頭」
二人の返事が重なる。重なっても、どちらが答えたかは足が教えた。ディーノは表へ向かい、リーナは花鋏を持って内側へ走る。走ると言っても、客の前では速歩きの範囲に収める。角を曲がった後で少しだけ音が増えた。
厨房では、透真が祝祭客用の献立札を紐から外していた。紙を抜いた紐は捨てず、輪にして釘へ掛ける。
札を抜かれた紐の輪が、釘の上で一度揺れて止まる。竈の火は変わらないまま、湯気の量だけが表向けに増えていく。手は同じでも、触れるものの順が変わる。婚礼用の札は乾いた音で束ねられ、臨時来客用の白い札が浅い箱から出された。
「透真さん、表の湯を二つ増やします」
メリッサが入口から言った。
「分かりました。大鍋はこちらで、やかんを表へ回します」
「表の方へ出す茶請けは」
「祝いの名札だけ外します。味まで変える必要はないでしょう」
「ええ。小皿へ分けてくださいませ」
「リーナ、戸棚の白い皿を。金縁じゃない方だ」
「承知いたしました」
リーナが戸棚を開け、積まれた皿へ両手を添えた。透真は湯の上がる時刻を聞き、メリッサは表へ運ぶ順を帳面へ入れる。厨房もまた、布告を読まずに形を変えた。
ディーノは表札を替えた。
千年海婚祭御用の札を外す。木札の裏には、臨時来客受付の文字がある。普段なら年に数度しか使わない札だ。今日の木は少し乾いて見えた。釘穴へ掛けると、門の外から見える館の顔が変わる。
道の向こうでは、職人が白い布を巻いていた。昨日まで高く張られていた布が、人の肩の高さへ降りてくる。花縄は切られ、使える花だけが水桶へ入れられる。掲示板の前には人が立ち止まり、声を抑えて紙を読む。読んだ後、港の方を見る者もいれば、店へ戻る者もいる。
館の中では、客室の札が外れた。
婚礼客用の香は箱へ戻される。赤い紐は束ね直され、汚れたものと使えるものに分けられる。湯の用意は増える。椅子の数も増える。礼の客と契約の客と評議会筋を同じ卓へ通せば、返す先を誤る。メリッサはそこを間違えない。
花瓶の水は冷たく、茎の切り口から淡い苦みの匂いが立った。白い小花は低い器へ移され、赤い紐の代わりに細い麻糸で留められる。皿は枚数を増やしても飾りを減らし、湯は冷める前に表へ届く距離で回された。
夕方、イーリス様は西館の窓辺で杯を受け取った。今日も言葉はない。喉へ手を当て、掲示板の方角を一度だけ見てから、杯を両手で包む。ラウリ・シレリオ様は左腕を布の内に収めたまま、右手で椅子の背を引いた。座る前に、リーナが杯を右側へ置き直す。彼は目だけで礼をした。
ヒュウマ様は戻りが遅かった。
勝手口ではなく、表門から入った。外で誰かに呼び止められたのだろう。袖が少し乱れている。アルフレッドが門の内側で止め、汚れた布を受け取った。
「海守り殿、厨房に湯がございます」
「ありがとうございます」
ヒュウマ様はそのまま厨房へ向かった。透真はすでに水を出している。ディーノは表札の位置をもう一度見てから、玄関の灯を入れた。
夜、凪様が戻った。
その日は馬車ではなく、徒歩だった。靴底に石の粉がついている。外套の肩には紙の角が当たった跡があり、袖口には黒いインクが薄く移っていた。アルフレッドが扉を開ける。メリッサが帳面を持つ。ディーノは濡れ布ではなく、乾いた布を出した。
「評議会で確認した。布告の通りだ。祝祭は止まる」
凪様は玄関広間でそう言った。
「承知いたしました、凪様」
アルフレッドが答える。
「帳面へ入れます」
メリッサが言った。
凪様は頷き、階段の方へ目を上げた。上からは足音がした。軽く、古い床板を起こさない歩き方だった。奥様が降りてくる時、館の空気は先に道を空ける。
エヴァンジェリーネは階段の途中で止まった。金の髪はほどけておらず、室内着の上から薄い羽織を掛けている。顔色は読ませない。手すりに置いた指だけが、いつもより血の気を失って見えた。
アルフレッドが頭を下げる。
「お館さま」
奥様は玄関の写しと、凪様と、床に並ぶ外套を順に見た。
「祭りを止めるにも布告が要る。人の街は、よく紙を食うのう」
それだけ言って、奥様は階段を上がった。
誰も追わなかった。アルフレッドは頭を下げたまま一呼吸置き、顔を上げる。メリッサは帳面の頁を替えた。透真が厨房から顔を出し、凪様の方へ顎を少し動かす。凪様は何も言わず、そちらへ歩いた。ヒュウマ様は厨房の入口で場所を空けた。
「蒼凪さん、水」
「分かっている」
「食事は」
「まだです」
「なら一緒だ」
透真が二人へ椀を置いた。
「お二人とも、まず座ってください」
メリッサの帳面に、夜の手順が増えていく。婚礼客の部屋を臨時来客用へ。香の箱を下げる。赤い紐を乾いた棚へ。花を白へ寄せる。門の札を朝まで残す。表玄関の水桶を二つ。厨房の干し物を戻す。西館の杯を温める。温室の戸を夜番で確認する。
紙へ書かれるたび、館の中の物が一つずつ向きを変えた。札、花、香、皿、湯。祝うために置かれていたものは、用件を受ける高さへ下げられる。手の届く場所が変わり、運ぶ道が短くなる。
ディーノは灯を持ち、廊下を回った。
表玄関の灯は二つ残す。東応接棟の窓は閉める。保管室の前は乾いた布で一度拭く。ロサ・テンプスへ出る戸の鍵を確かめる。温室の金具は掛かっている。中の白布は動かない。水の入り込みもない。
夜番の廊下では、同じ歩数が長く聞こえる。灯を減らすと壁の白さが引き、扉の把手だけが指先の高さで残った。遠い厨房からは鍋蓋の触れる音がして、西館では杯を置く小さな音がそれより遅れて返ってくる。
西館では、イーリス様の杯が空になっていた。ディーノは新しい湯を置く。イーリス様は片手を喉へ、もう片方を杯へ添えた。声は出さない。だが指の礼は確かだった。
ラウリ・シレリオ様の部屋の前には、右側へ寄せた台がある。杯も皿も右に置かれている。左腕を動かさずに済む位置だ。ディーノは台の足が敷物へかかっていないことを見て、台の角度を一呼吸かけて直した。
階段の三段目にはフェリ様がいた。
「こんばんは、フェリ様」
ディーノが小声で言うと、黒猫は尾だけを動かした。干し貝の皿は空になっている。皿の縁はきれいだった。厨房へ戻せば、透真が明日の帳面へいつもより柔らかい線を足すだろう。
玄関へ戻ると、アルフレッドが扉の内側に立っていた。
「夜番へ渡すものは」
「表札、温室、保管室前、厨房の干し物でございます」
「結構です。灯は」
「玄関に二つ、西館に三つ。厨房は料理長の判断で」
「承知しました」
アルフレッドが頷いた。短い言葉だったが、ディーノの胸には長く残った。承知しました、と執事頭が言う時、仕事は次の手へ移っている。
メリッサが帳面を閉じる音がした。
リーナは花瓶の水を替えていた。白い小花だけが残り、赤い紐は外されている。手元は疲れているのに、茎の長さは揃っていた。透真は厨房で鍋の蓋を少しずらし、火を小さくした。凪様とヒュウマ様の椀は空に近い。奥様の盆は二階へ運ばれ、戻ってこない。
館の外では、掲示板の前の人影が減っていた。紙はまだ貼られている。夜風に端が鳴る。祝祭用の布を外した通りは、いつもより広く見える。広いのに、歩く者は端を選んだ。壊れた石を避けるためだ。
ディーノは最後の灯を下げた。
玄関の真鍮が暗くなる。廊下の白壁が夜へ戻る。帳面は閉じられ、銀盆は布を掛けられ、空の皿は厨房へ下がる。明日の朝にはまた門が開く。礼状も、婚姻契約の照会も、評議会の使者も来る。二階へ上がれない伺い状も届く。評議会へ出る者がいて、港へ戻る者がいて、二階で会わない主がいる。
そのすべてのために、館は眠りすぎない。
厨房の残り火が低く赤く残っていた。




