硝子の泣き声の果てに
濡れた索具が、ヒュウマの掌の中でさらに沈んだ。縄の繊維は水を吸って太り、握り込むたびにざらついた塩と砂を皮膚へ押し返した。
戸板の赤が薄くなった。水路の水面に張りついていた赤い照りもほどけ、石の隙間へ沈んでいた黒が、夜の色を取り戻し始めた。港の筋はまだ無人で、倒れた戸板の裏に溜まった水だけが、細い泣き声に合わせて震えていた。
泣き声は止まらなかった。高くも低くもなりきれず、薄い喉を通ったまま削れていく音だった。空気の上を滑る声ではない。濡れた石の上を爪で引くように、短く欠けながら続いていた。
レオンの聖剣には、刃の半ばで止まった光が残っていた。根元から半分だけ白く満ち、そこから先は濡れた鉄の色を保っている。柄の根では、封緘紐の切れた片端が、濡れて細くなったまま揺れた。
ヒュウマの足元には潮鎚があった。柄に付いた水が石へ落ち、巻いた縄へ吸われていく。索具は手首に絡み、濡れた縄の重みが肘まで引いた。引けば張る。緩めれば石へ落ちる。その二つだけが掌に残った。
屋根の縁で、ヴェスタの幕が夜風に押されて膨らんだ。幕の下から伸びた縄は次の梁へ移り、瓦の角を濡らしている。ガイウスは盾の縁を上げたまま、膝を落として石を踏んだ。盾の裏から水が垂れ、靴の前に小さな丸を作った。
カイは、すでに動かない男のそばにいた。男の肩を支えていた手を離さず、もう片方の手で街路側を塞ぐように体を斜めにした。石の上に広がった黒い水は、それ以上広がらなかった。
フェリシアは石の上にいた。口を閉じ、片膝を立てた姿勢のまま、レオンの剣に残る光を見ていた。黒い髪の先から落ちる滴が、彼女の袖を小さく叩いた。
車止めの奥では、ルッカが影から半身を出していた。白手袋の指先は濡れていない。腰の白い鞘は斜めに下がり、石に触れる寸前で止まっていた。彼の背後の木箱にも、荷車にも、人の気配はなかった。
蒼凪は水路脇に立っていた。肩はまだ低く、濡れた髪が頬に貼りついている。海溝晶を収めた手を胸元の近くに置き、もう片方の指をゆっくり開いた。指先から落ちた水が、石に当たって小さく割れた。
「ヴァローの見立てが通っている」
その声は泣き声の下を通り、街路の石に落ちた。
異形の赤子の手が、ぴたりと止まった。
石を掻いていた爪が、割れた目地の中で止まり、白く濁った指が縮んだ。背を丸め、肩をすぼめ、体全体が一度だけ小さくなる。赤い光はその輪郭から削げ、胸の奥で細く瞬いた。光は薄い布を裂かれるように痩せ、濡れた皮膚の下で頼りなく明滅した。
蒼凪が目を細めた。顔の向きだけが、異形の赤子から近い壁へ流れる。
「痩せている。だから近いものを壊す」
「抑えは続けます。壁から剥がします」
「縄の余りを残せ。跳ね返る」
泣き声の底が、割れた。
縮んだ体が内側から膨らんだ。首が伸び、肩が吊り上がり、腹の下で石が軋む。さっきまで小さくなっていた手が、石畳の目地を深く掴んだ。
ヒュウマは濡れた縄を腰へ半周回し、壁の角から少しだけ外した。結び目を殺さず、戻すための余りを掌へ残す。縄は冷たく、手首に巻いたところだけ体温を奪っていった。
ヒュウマの掌で、索具が跳ねた。
──────────────────────────────
掻く手が止まったまま、異形の赤子は膨れ上がった。
泣き声の細い上澄みが消え、下から濁った空気が噴き出した。喉に詰まった音が一度石に落ち、次に港の筋を押した。戸板が倒れたまま跳ね、水路の水が縁を越えて石へ溢れた。靴底の下で、街路そのものが低く鳴った。
最初に抜けたのは係船柱だった。
屋根の縁で、ヴェスタが叫んだ。
「右から、鎖ごと来るぞ!」
「盾、前」
「索具を腰へ回します!」
ガイウスの盾の縁が上がった。ヒュウマの声は縄の下で短く切れた。
鉄の輪が巻きついた石柱が、根元の石畳ごと持ち上がった。目地が四角く割れ、はめ込まれていた石が下から剥がれ、砂と貝殻の粉が夜へ舞った。石が抜けた穴から、古い潮の匂いが一気に上がった。
柱に巻かれた鎖は、遅れて持ち上がる。
重い輪がひとつずつ跳ね、尻尾のように後ろへしなった。鉄と鉄がぶつかる音は、ひとつずつ違う高さで鳴った。
ヒュウマは左足を引いた。濡れた石に踵が滑り、靴底が石粉を噛んで止まる。手の索具を腰へ巻き込み、腕ではなく背中で引いた。潮鎚の柄がくるぶしに当たり、冷たい金具の感触だけが足首に残った。
係船柱が横へ振られた。
鉄輪が頭の高さを横切った。風が先に来た。髪が横へ引かれ、次に鎖の重さが空気を裂いた。ヒュウマの頬の前で、青白い粒が一つ止まった。粒は水の滴ほどの大きさで、角を持ち、回らずに空中へ留まった。
鉄輪の軌道が半寸だけ逸れた。
鎖はヒュウマの前髪を掠めず、背後の戸板を叩いた。戸板は中央から折れ、古い釘を吐いて水路へ落ちる。跳ねた水が首筋へ飛び、冷たさが襟の中へ入った。鉄輪は石壁に食い込み、輪の半分を残して止まる。壁の割れ目から砂が降り、ヒュウマの肩を白く汚した。
ガイウスの盾が鈍く鳴った。盾の縁を斜めに出し、飛んだ石片を一つ受ける。石片は盾で砕け、破片の粉が彼の頬へ散った。ガイウスは足を替えず、盾の裏で肩だけを沈めた。
異形は、腕を横へ薙いだ。
腕の先が倉の壁へ触れた。触れた瞬間、壁が内側の中身を吐き出した。板が剥がれ、扉が外れ、蝶番が二つ空中で回った。棚板が斜めに割れ、釘を打たれた面を外へ向けて飛ぶ。布袋は腹を裂かれて粉を撒き、乾いた豆が石に跳ねた。
蝶番は喉の高さに来た。釘は目の高さで黒く光った。棚板の裂け目は薄い刃になり、湿った空気を切って音を立てた。
ヴェスタの縄が屋根から落ちた。幕が一度膨らみ、飛んできた板の前に斜めに張る。板は幕を裂き、速度を落として石へ刺さった。裂けた布は濡れた旗のように垂れ、下の水溜まりへ端を沈めた。布の裂ける音が、金属の音の合間に乾いて混じった。
カイは死んだ男の上へ身を伏せた。飛んだ釘が背後の石に当たり、火花ではなく白い粉を散らす。彼の袖の背を、細い木片が擦って裂いた。腕の下の男は動かなかった。
フェリシアの前に、青白い粒が二つ浮いた。蝶番の回転がそこで鈍り、片方は彼女の肩の上を通って後ろの石へ落ちた。もう片方は斜めに弾け、誰も立っていない細い筋へ入った。
最後の破片だけが、妙な集まり方をした。
釘も棚板も、布を噛んだ木片も、同じ細い路地へ吸い寄せられるように寄った。路地には壊れた籠と水桶しかなかった。破片は籠を潰し、水桶を裂き、そこへ折り重なって落ちた。落下の音が遅れて重なり、空の桶がひとつだけ転がった。
泣き声がまた太くなった。
異形が係留船へ腕を伸ばした。水路の先に繋がれていた小型船は、灯を持たなかった。帆は畳まれ、甲板には網と樽だけが積まれている。舫い綱は片側だけ残り、船腹は石の縁にこすれて黒く濡れていた。
白い手が船を掴んだ。
船腹が潰れ、木が割れる音が水の中でくぐもった。音は港へ広がる前に、水の底で一度丸められた。
次に船そのものが引き寄せられ、石へ叩きつけられた。
中の水が先に飛んだ。樽はそれより遅く跳ね、網はさらに遅れて広がる。錨綱は重い蛇のように甲板から滑り、空中で輪をほどいた。
船底が割れた。
竜骨が外へ出て、街路へ滑った。黒く湿った骨のように、石の上を音を立てて進む。油が水に広がり、木片がその上で回った。
重い波が街路へ来た。
ただの水ではなかった。油、木片、釘、縄、割れた硝子を抱え、船の内側の臭いをそのまま押し出してきた。魚の鱗の乾いた臭い、古い樽の酸い匂い、濡れた油の重さが鼻の中へ入った。波の先ではなく、腹の部分が盛り上がっていた。人の腰ほどの高さを持つ水の塊が、遅れて押し寄せる。
レオンが剣を上げた。まだ半ばで止まっている白い光が、波に反射して彼の首筋を照らした。
「波が来る!」
「横腹を取る。前を空けろ」
ヒュウマは索具を引き寄せ、割れた戸板の手前から足を退いた。縄を引く手に、波の腹が近づく振動が先に来た。
薄い船板が飛んだ。
板は刃のように細く、油を引いていた。レオンの首筋へまっすぐ入る。皮膚の直前で、青白い粒がひとつ光った。板の角度が変わる。白い皮膚を切らず、後ろの戸板へ突き刺さった。戸板の表面が裂け、ささくれがレオンの髪へ降った。
レオンは顎を下げただけだった。足は滑っていない。剣の半分の白は揺れず、先端の暗い部分だけが波の黒を受けた。
蒼凪が前へ出た。
波の前に立つのではなく、その横腹を受ける位置へ移った。石の上に足を置き、両膝をわずかに曲げる。水を吸った裾が脛に張りつき、片足の爪先が石の割れ目へ入った。押し寄せる水の圧が、蒼凪の足元の石だけを先に震わせた。
海溝晶が胸骨の前に上がった。蒼凪は握り込まなかった。両手の指の腹で、薄い結晶の縁を挟む。親指の爪が白くなりすぎない力で止まり、手首は身体の中心に揃った。結晶の向こうに、波の腹が重なった。
ヒュウマの耳に、水の内側の音が入った。波の表ではなく、下で木片がこすれ合う音。網の鉛が沈もうとして沈めない音。割れた硝子が水の中で触れ合い、短く鳴る音。その奥で、港の底が低く息を吸うように鳴っていた。
蒼凪の息が、一度だけ落ちた。
「潮よ、叫べ。淵よ、吼えろ。」
足元の水が逆さに吹いた。石の目地から塩の泡が立ち、波の下へ潜るように流れた。泡は蒼凪の足元を避けず、爪先の周りで白く砕けた。
「蒼き円環を棺と成せ。」
波の腹がねじれた。前へ倒れる力を保ったまま、横へ回り始める。油の薄い光が輪を作り、木片がその縁へ貼りついた。圧が胸の高さへ集まり、ヒュウマの肋骨の内側まで重く押した。
「見たものは裁かれ、立つものは砕かれる。」
鉄釘が水の中で向きを変えた。立ち上がる釘の列が、次の瞬間には水へ寝かされる。網の鉛が輪の底へ引かれ、竜骨の端が回転に巻き込まれた。
「絶叫と咆哮を一つに撚り、刃も祈りも剥ぎ取れ。」
泣き声と水音が重なった。どちらが先か分からないほど低くなり、石畳の下から港全体を震わせた。ヒュウマの歯が奥で触れ、索具を握る指が一つずつ濡れた縄へ食い込んだ。
「ここに開くは海淵の顎。」
輪の内側が黒く沈んだ。水面がそこだけ下がり、割れた船板も釘も縄も、輪の底へ向いて傾く。波の腹は、もう前へ進まない。置かれた範囲の中で回り切り、外へ押し出す力をなくしていく。
「巻き込め、何もかも ── 《海淵渦 / Maelstrom》」
水が沈んだ。
巨大な手で下へ押されたように、油も木片も硝子も釘も、ひとまとめに黒い穴へ落ちた。落ちる途中で回り、沈む途中で砕けた。音は高くならなかった。水中から響くような低い唸りだけが続き、最後に石の上へ薄い泡を残した。
渦の外側で、ルッカが半歩だけ退いた。
砕けた船板が白手袋の指を掠めた。手袋の表に、細い黒い線が走る。ルッカはその指を広げず、傷のある手を体側へ下ろした。足元の水は彼の靴先の前で止まり、そこから先には進まなかった。
蒼凪の手は胸の前で止まったままだった。海溝晶の縁から水が落ち、石へ当たる。蒼凪の肩がわずかに上下し、次の瞬間には手が下がった。結晶の下を伝った水だけが、指の間を細く切って落ちた。
異形の赤子の体は、渦に削られた波の向こうで揺れていた。大きさはまだ街路を塞ぐほどある。だが赤い光はさらに薄くなり、肉の下から透けるような白が混じった。
レオンが踏み込んだ。
濡れた石に靴底を置き、左肩を前へ出す。半ばで止まった光を持つ聖剣が、異形の赤子の腕へ入った。切っ先は通った。肉の表面を裂き、薄い線を作る。深くは入らない。刃は白い脂のようなものを押し、すぐに抜けた。
「通る。だが浅い――」
傷口から白い光が溢れた。
血ではなかった。裂け目の中から、細い白が噴き、腕の輪郭へ流れた。溢れた分だけ、異形の赤子の外形が痩せた。膨らんでいた肩が削げ、指の節が一回り細くなる。白い光は石へ落ちる前にほどけ、濡れた夜へ消えた。
異形の赤子がのけぞった。
泣き声は短く割れ、また細くなった。巨体の奥で何かが空気を吸い、街路に散った木片が震える。ヒュウマの足元では、沈みきらなかった硝子のかけらが水面に浮き、赤を失った夜の黒を映した。
──────────────────────────────
透明な管が、萎びた体の外に浮いた。
それは皮膚を破って出ているようには見えなかった。異形の赤子の背から少し離れた夜の中に、濡れた硝子の管が一本、ゆるく弧を描いている。太さはヒュウマの手首ほどあり、内部には白い光が薄く流れていた。
管の先は、上へ向かって消えていた。
屋根の高さを越え、切れた帆柱の影を越え、赤の戻らない夜の黒へ入る。どこかで繋がっている形は見えない。夜の途中で、急に輪郭だけが失われる。臍の緒のような形だけが、港の上に残った。
蒼凪が顔を上げた。濡れた髪が顎から離れ、首筋に水が走る。
「あれを斬れるか」
「高い。屋根からでも届かない」
レオンが管を見上げた。
透明な管は、屋根の縁よりさらに上でゆっくり波打っていた。聖剣の先に残る暗い刃が、その高さを測るようにわずかに上がり、止まった。
蒼凪の足が、水路の縁へ移った。
「足場を作る。前だけ見ていろ」
「前だけ見る。蒼凪殿、頼む」
レオンは管から視線を外さなかった。
蒼凪の左手が下がり、水路の水面に向いた。右手は海溝晶を胸の前へ戻さず、腰の横で開いた。割れた船から流れ出た水が、街路の低いところに残っていた。水路の水と船の水が、別々の冷たさを持ったまま震えた。
最初に水路が吹き上がった。
細い柱になって跳ね、すぐに曲がる。次に割れた船から溢れた水が追い、太い帯になってその下へ入った。二つの水は空中で絡み、一本の弧を作った。街路から屋根の高さへ、屋根の高さからさらに上へ伸びる、夜空へ向いた橋だった。
先端から凍った。
水の端が白く曇り、次に透明な氷へ変わる。凍りは下へ戻ってこず、上へ伸びる水の形に沿って進んだ。弧の縁は薄く、中央は足一つ分より少し広い。内側に水の筋が残り、外側は夜の黒を映した。
冷気が落ちた。
ヒュウマの水を吸った袖が硬くなり、指の間の索具が冷えた。息が白くなったわけではない。ただ、鼻の奥に石と氷の匂いが入り、歯の裏が冷えた。氷の弧は軋みながら伸び、透明な管の下へ届く高さで止まった。高くなるほど傾きはきつく、弧の裏側には水の筋がまだ細く動いていた。
レオンが走った。
最初の一歩は濡れた石だった。二歩目で氷に乗る。氷の幅は広くない。靴の外側が縁から半分はみ出し、足裏の中心だけが弧を掴んだ。氷は沈まない。だが踏むたび、内部の水の筋が白くひび割れ、細い音を立てた。
ヒュウマの掌で、索具が自然に張った。氷へ伸びるわけではない。ただ、走る背中の下で何かが切れれば、体は石へ落ちる。縄の重さが肩へ来て、ヒュウマは反対の足を石の隙間へ押し込んだ。
レオンの剣の光が動いた。
半ばで止まっていた白が、呼吸に合わせるように先へ進んだ。ゆっくりではない。走る足が氷を叩くたび、白い光が一寸ずつ刃を満たす。柄の根の封緘紐の片端が後ろへ流れ、湿った夜気の中で細く震えた。
「境を閉ざし、内と外を分かつ」
声と同時に、レオンの足が弧の中腹を駆け上がった。氷の曲がりに体を合わせ、膝を深く入れる。滑る足ではなかった。靴底が白い傷を氷に刻み、その傷の上を次の足が踏み越える。
管は上で揺れた。透明な外皮の中を、白い流れが細く走る。異形の赤子の背に近い部分が一度膨らみ、体全体がそれに合わせて震えた。
レオンは止まらない。
腕が後ろへ引かれ、聖剣が肩の後ろへ入る。刃の白はさらに先へ届き、残っていた暗い部分を押していく。白い光は刃の縁まで満ち、走る足の震えを細く返した。
「戻らぬ線を刻め」
レオンが高台へ届いた。
弧の最上部は、平らではなかった。足を置ける幅だけがあり、その両側はすぐ夜へ落ちている。氷はそこで太くなり、透明な内部に水泡を閉じ込めていた。レオンの左足がその高みに刺さるように止まり、右足が後ろへ引かれる。氷の下から、押し殺したような軋みが返った。
下で、異形の赤子が手を伸ばした。
長く細くなった腕が氷の弧へ届こうとする。爪が空を掻き、届かず、空気だけを裂いた。その動きで管が引かれた。透明な管は張り、弧の上のレオンの前へわずかに降りる。
蒼凪は下から見上げていた。右手を上げない。水を足さない。弧はすでにそこにあり、氷の軋みだけが残った。
ヒュウマの喉に塩水の味が来た。索具を握る指の皮がふやけ、縄の繊維が爪の下へ入る。走る足音は、氷を通って細く響いた。三つ目の言葉が、港の空へ上がった。
「断ち切る ── 《断絶境界 / Cut Boundary》」
レオンが跳んだ。
氷から足が離れ、体が管へ向かう。剣の輪郭が深海色に締まり、刃そのものが激しく白く光った。白は周囲を照らすというより、刃の内側で燃えた。光の縁がまっすぐ伸び、夜の中で一本の線を取る。
「うぉおおおッ!!」
咆哮は一度だけだった。
肩から腕へ、腕から剣へ、体の全部がその声に押される。レオンは空中で腰をひねり、白い刃を透明な管へ叩き込んだ。管の表面が一瞬だけ硬く光り、次に音もなく割れた。
断面から白い粒が散った。
管の切れた面は広がらなかった。白い粒だけが縁からこぼれ、夜の中で細かくほどける。上へ続いていた先は、切られた形のまま暗さへ溶けた。下へ残った部分は、異形の赤子の背から離れ、ゆっくり落ちるように消えていく。
レオンの体が氷の弧へ戻った。
足が縁を踏み、氷が大きく鳴った。ヒビが一筋走り、内側の水泡が白く潰れる。彼は膝をつき、剣を横へ流して重さを逃がした。柄の紐が彼の手の甲に貼りつき、白い刃の光が少しだけ脈を打った。
──────────────────────────────
透明な管の残りは、夜へ溶けた。
異形の赤子の体が見る間に痩せた。肩から肉が落ち、腕の長さが縮み、腹の膨らみが内へ戻る。赤い光はさらに弱くなり、皮膚の下で滲む白だけが残った。
泣き声の高さが変わった。
低い底がなくなり、細い上だけが残る。街路を押す音ではない。水路の縁で聞こえるほどの高さに近づき、空気を震わせる力を失っていく。ヒュウマの耳の奥で、さっきまでの破壊音の残りが遅れて消えた。
車止めの奥から、ルッカが出た。
最初の一歩で、水溜まりが靴の周りへ割れた。白い靴先は油の照りを押し分け、黒い筋を作る。二歩目で彼の肩が街路の明かりへ出る。赤い光が薄くなったせいで、白い服は夜の中で乾いた布の色を取り戻していた。
白手袋の片方には、船板に掠られた黒い線が残っていた。ルッカはその手を振らない。指を閉じ、体の横へ置く。もう片方の手が、腰の重礼剣へ下りた。
レオンが氷の低いところから声を飛ばした。
「ルッカ、待て!」
「商品でなくなった。処分する」
敬語はなかった。
ルッカが鞘を少し引き上げた。白い鞘は濡れた夜の中で、木でも金でもない硬い光を返した。口金の周りには細い継ぎ目があった。鞘尻は重く、歩みに合わせてわずかに沈む。水を踏む音だけが、彼の足元で一定に続いた。
重礼剣が抜かれた。
刃は広く、儀式用の飾りを持っている。だが先端は鈍くない。濡れた空気を押し分けると、刃の厚みで水の粒が左右へ分かれた。ルッカは剣を肩の高さに構えず、低く持った。膝は曲がり、足の幅は狭い。処理台に近づく職人のような足取りで、痩せた異形の赤子へ近づいた。
《処刑執行》
ルッカの最初の剣は、横ではなかった。下から上へ、短く入る。刃が異形の赤子の脇を裂き、白い光が細く吹いた。二本目は逆から下りた。肩の骨に見える膨らみを断ち、刃は石へ当たる寸前で止まる。
剣が続いた。
大振りではない。ひとつずつ、同じ高さへ戻らずに入る。足首を替え、腰を回し、刃の重さを次の刃へ渡す。異形の赤子の腕が跳ねるたび、ルッカは一歩だけ角度を変えた。白い服の裾は水を吸い、石に近い部分だけ暗くなった。
切られるたび、赤い輪郭が削げた。白い光が漏れ、漏れたところから形が痩せる。細い指がさらに短くなり、顔にかかっていた皮のひだが下へ落ちた。泣き声は刃の間で途切れ、また続く。喉から出る高さは、すでに街路を押さない。
ルッカは鞘を抜いた手へ戻した。
白い鞘が横から入る。剣ではない重さが、異形の赤子の腹へ当たった。鈍い音がした。腹が凹み、そこから白い光が布のように漏れる。二度目の鞘打ちは肩へ入った。骨の形をしていたものが潰れ、赤い皮膚が石へ散った。
ガイウスの盾が少し下がった。盾の縁に付いた水が線になって落ちる。彼は前へ出ない。カイも動かない。ヴェスタの破れた幕だけが屋根から垂れ、風に押されて水を落とした。
レオンは氷の弧の低いところから街路へ戻った。片膝を石へつき、聖剣の光を下へ向ける。刃の白はまだ残っていたが、ルッカの前へは出ない。呼吸で肩が上下し、濡れた封緘紐の片端が手首へ貼りついた。
ルッカの剣が、細かくなった。
滅多切りは荒く見えなかった。切る場所が決まっているように、刃が上から下、右から左、次に斜めへ入る。薄くなった肉を刻み、膨らみを削り、まだ赤く残る線を消していく。白いものは刃の間からあふれ、ルッカの袖口を照らした。
異形の赤子の手が、ルッカの膝へ伸びた。
指はもう長くない。濡れた石を擦り、彼の靴先へ届く前に落ちた。ルッカは足を引かず、剣の腹でその手を押さえた。白い鞘が上へ回る。口金の継ぎ目が、蒼白い光を受けて黒く開いた。
濡れた夜に、乾いた音が一つ鳴った。
鞘の内側で密封されていた火薬が弾けた。爆音は短く、硬かった。水も油も木も含まない、乾いた破裂だった。街路の水面が一斉に跳ね、戸板の影が一瞬だけ白く浮いた。ヒュウマの胸骨に音が当たり、背中の縄が震えた。
その後に、大きな音は戻らなかった。
煙は少なかった。白い鞘の口から細い灰が流れ、濡れた空気にすぐ潰れる。異形の赤子の体は石の上で弾み、赤い残りをさらに失った。腹の膨らみが縮み、腕が幼い形へ戻り始める。
顔の線も変わる。裂けていた口が小さくなり、声だけが先に本当の赤ん坊の高さへ近づいた。
ルッカは剣を引いた。
手順は止まらない。白い鞘が腰へ戻り、彼の右手が鞘の内側から銃を抜いた。短い銃だった。白い外装の中に金属の黒があり、銃口だけが濡れた夜を吸っていた。
ルッカは構えた。
ヒュウマが呼んだ。
「ルッカさん!」
腕は伸びすぎない。肘が少し残り、白手袋の指が引き金へかかる。銃口は、痩せた体の中心へ向いた。狙いはぶれなかった。彼の靴の下で、割れた硝子が一つ砕けた。
撃たなかった。
対象の形が、銃口の前で崩れていった。処分されるための大きさを失い、街路を塞いでいた体が腕に収まるほどへ縮む。赤い皮が薄くなり、硝子の色が下から戻る。泣き声は高く、小さく、濡れた石の上で震えた。
ルッカの指は引き金にかかったままだった。
銃口の先で、赤子の腕が空を掴んだ。細い指は何も掴めず、すぐ胸の方へ丸まる。体の外に残っていた白い光が一筋だけ流れ、手首の形を小さく削った。
ヒュウマが動いた。
──────────────────────────────
石を蹴る音が、ヒュウマの足元から出た。
濡れた索具が掌から滑り、手首に絡んで止まる。潮鎚はそこに置いたままだった。水溜まりを踏む。油の照りが靴の前で割れ、割れた硝子が靴底の下で鳴る。膝の高さまで水が跳ね、冷たい粒が腿に散った。
ルッカの銃口はまだ下りていない。
ヒュウマはその前を横切らなかった。石の割れ目を選び、赤子の横へ回り込む。膝をついた。冷えた石が膝の骨に当たり、濡れた布を通してすぐ痛みに変わる。片手を赤子の背へ入れ、もう片方の手を頭の下へ差し込んだ。
軽かった。
今夜の騒ぎに釣り合う重さではなかった。街路を壊し、船を砕き、石を抜いた体の残りは、濡れた布一枚より少し重いだけだった。ヒュウマの腕は、来るはずだった重みに備えて沈みすぎた。肘が石へ近づき、慌てて持ち上げると、赤子の体は腕の中で簡単に浮いた。
泣き声が胸元へ来た。
本当の赤ん坊の高さだった。薄く、細く、吸って吐く間に途切れる。音は港の壁を押さない。ヒュウマの袖の内側だけを震わせる。赤子の背は湿っており、ところどころに硝子の硬さが戻っていた。肩は小さく、首は支えなければ後ろへ落ちる。
ヒュウマは頭を手のひらへ乗せた。髪の代わりに、細い硝子の筋が指へ触れた。まだ温度が残っている部分と、すでに冷えた部分が混じっていた。赤い光は皮膚の下で糸のように細くなり、脈に合わせて弱く動く。硝子の筋は硬いのに、根元だけが湿って柔らかかった。
ルッカが銃を下ろした。
腕が下がり、銃口が石へ向く。白手袋の指は引き金から離れた。彼は銃をしまわない。持ったまま、半歩後ろへ下がった。白い靴の周りで水が戻り、油の照りがまた繋がった。
フェリシアが、片手を石から離した。
それだけだった。立ち上がらず、声も出さず、濡れた指先を膝の上へ置く。黒い袖の端から水が落ち、彼女の足元に小さな円を作った。顔は伏せず、ヒュウマの腕の中を見ていた。
レオンは剣を下げた。刃の白はまだ完全には消えず、半ばから先へ淡く残っている。彼の肩は上下していた。氷の弧は背後で軋み、先端からひびが入り始めていた。高いところの透明な部分が夜に溶けるように曇り、細かい氷片が水路へ落ちた。
ガイウスの盾は下がったが、手からは離れなかった。ヴェスタは屋根の縁から降りず、破れた幕の端を縄で巻き取った。カイは死んだ男の肩を覆うように布を寄せた。誰も声を出さなかった。
蒼凪がゆっくり近づいた。
足音は水の上を短く叩いた。蒼凪は膝をつかなかった。ヒュウマの傍らに立ち、腕の中を見下ろす。海溝晶はもう胸の前にはなく、濡れた手の中で下がっていた。髪の先から落ちた滴が、ヒュウマの袖に当たり、赤子の頬には触れなかった。
赤子の手が動いた。
小さな指が開き、ヒュウマの袖の縫い目へ触れた。掴む力はほとんどなかった。指は布の上を滑り、爪の形を残さずに落ちる。泣き声が一度だけ高くなり、すぐ細くなった。
ヒュウマは腕の角度を変えた。
頭が落ちないように、肩と肘の間で浅いくぼみを作る。濡れた袖が赤子の頬に貼りつき、冷たすぎるところへ手のひらを当てる。重さは相変わらず軽い。軽すぎて、腕の筋肉だけが余った力を持て余し、肩が硬くなった。
赤い光がさらに細くなった。
胸の奥で、針の先ほどの赤が震える。次にそれも薄くなり、硝子の透明が下から増えた。皮膚の色は消え、頬の丸みだけを保ったまま硬い透明へ戻っていく。動いていた指が止まった。開ききらず、握りきらず、布の上で止まる。
音はしなかった。
腕の中の形が、赤子のまま硝子へ戻った。髪の筋も、頬の曲線も、薄く開いた口も、そのまま透明な硬さに変わる。泣き声は途中で切れた。口は開いているのに、空気は出なかった。ヒュウマの手のひらに残っていた温度だけが、ゆっくり硝子へ吸われた。
短く、高く、弾んだ笑い声が一度だけした。
すぐに波の音へ戻った。
ヒュウマの喉が動いた。腕の中の硝子を見下ろしたまま、濡れた息を一つ吐く。肩に残っていた力が少し落ち、索具が手首でゆるく揺れた。
「蒼凪さん」
「ああ」
赤の消えた港に、水面の黒が戻っていた。
戸板の影は壁へ貼りつき、割れた端だけが水路の揺れを受けて動いた。冷えた石の上で、油の薄い光が細く切れ、遠い波が係船地帯の外から低く寄せた。どこかで係船鎖が一つ鳴り、遅れてもう一つ鳴った。
夜の港に、泣き声はもうなかった。




