全ての賽が六になる
右の二人を拾う前に、縄が先に走った。
濡れた索具は掌の中で膨れている。乾いた時より鈍い。水を吸った撚りが指の腹へ開き、握るたびに冷えた海藻の匂いが少しだけ上がった。けれど濡れた縄は、石へ噛めば離れにくい。俺は荷車の軸へ輪を落とし、腰を引いた。
車輪が半回りだけ滑る。
女を乗せた担架の角が、その半回りで石を逃げた。
「左へ寄せます」
レオンが列の肩を押した。剣は下げたままだ。柄の根に残った封緘紐の片端が、赤い光の中で細く揺れている。もう火は乗っていない。彼の手は、人の背と落ちてくる木片だけを見ていた。
ヴェスタさんの短剣が屋根の上で光った。濡れた幕の端が裂け、布が落ちる。下に人はいない。幕は石へ広がり、粉と水を吸って一枚の重い床になった。水を吸った布は音を消す。赤子の腕がかすめても、布の下で石が鈍く鳴るだけだった。
ガイウスさんが盾を踏み出した。
「そこだ」
声より先に、土の匂いが来た。乾いた土ではない。港の石の下から無理に起こされた湿った重さだ。足裏へ鈍い押し返しが入り、街路の口に低い壁がせり上がる。土は赤を吸わず、黒く濡れたまま固まった。
赤子の腕がそれを掻いた。
爪ではない。指の腹でもない。肉の端にある何かが、土の上をこする。壁は欠けたが崩れない。土の中に混じった小石が、歯の奥で鳴るような音を返した。
カイさんの光は、さっきより低かった。
白い袖が負傷者の肩の下へ入り、掌の光が皮膚の上へ薄く沈む。高く照らす光ではない。水に落とした灯のように、体の近いところで息をしている。カイさんの顔は明るくならなかった。手だけが次の手順へ動く。
その白い袖が次の負傷者へ移る脇で、石畳には胸の動かない男の手だけが残っていた。
カイさんの膝は濡れた石を擦り、白い布の端に赤い粉がついた。光は粉を払わない。血を見せないための灯でもない。まだ熱の残る肩、冷え始めた指、息の戻る胸の順に、近いものだけを拾っていく。
閉じた戸板が続いていた。
さっきまで人の声でいっぱいだった筋は、戸の向こうへ息を潜めている。窓の隙間に布が詰められ、落ちた幕は石の上で赤く濡れ、吊り灯の消えた硝子だけが鈍く夜を返す。焦げた梁の匂いが、湿った土と混じった。人の汗は遠い。
遠ざけるほど、泣き声は深くなった。
高くない。
腹の下へ沈む声だ。閉じた戸板の内側で薄く震え、屋根瓦の裏を伝い、最後に足裏の石へ戻ってくる。人がいない方へ流しているはずなのに、声だけは近い。濡れた腕は壁へ寄る速さを上げていた。さっきまで這う重さだったものが、音の方へずれる。壁。縄。石。倒れた車止め。触れた縁をなぞりながら、次々に伸びる。
「奥、右」
蒼凪さんの声が置かれた。
俺は返事をしないまま動いた。息は索具に使う。右の家の軒から落ちかけた梁へ縄を掛け、柱の残った部分へ回す。潮鎚の柄で縄の向きを押さえた。鎚頭の重さが、掌から肩へ抜ける。
梁が落ちる。
落ちる前に、横へ逸れる。
赤子の前へではなく、空いた車止めの影へ転がった。石が割れ、粉が跳ねる。赤子の腕の一本がその音へ寄り、梁ではなく俺の縄の張りへ触れた。
張りが変わる。
俺は腰を落とした。濡れた縄が掌を擦り、皮膚の下へ熱が走る。縄は切れていない。切れた縄より悪い軽さではない。まだ戻せる重さだ。右足の裏で石の割れ目を探し、踵をそこへ押し込む。足場が半寸だけ沈み、その半寸で肩が残った。
「ヒュウマ、荷車を残せ」
「はい」
蒼凪さんは空いた筋と壁を見ている。赤子そのものではなく、赤子が次に触れる幅を見ている。俺は荷車の軸へもう一度輪を掛けた。逃げるための車ではない。押されれば壁になる。引けば腕の向きを変えられる。
赤い光はまだ濃い。
水面も石も、戸板の隙間も赤を返していた。赤子の腹の奥に透ける色も太いままだった。濡れた幕の皺だけが黒く、そこに溜まった水は夜を戻していた。
泣き声がもう一段下がった。
戸板の向こうで、誰かが息を飲む音がした。蒼凪さんの視線は戸板の隙間から、壁に触れる赤子の腕へ戻った。俺の足も、濡れた索具の輪を追って石の低いところへ戻る。赤子の腕が土の欠け目を押し、壁の根が鳴った。
背中で、ガイウスさんの盾が鳴った。
次の腕が来る。
俺は縄を引いた。
──────────────────────────────
鉄を引きずる音が、租借区の方角から二度した。
足音は静かだった。逃げる足ではない。追う足でもない。荷の置き場を知っている者が、濡れた石の上で滑らない幅だけを選んで歩く音だった。声のない灯が先に揺れ、次に濡れた敷石が白を返した。
白い手袋が先に赤を拾った。
ルッカ・ヴァレンティは、閉じた倉の影から出てきた。重礼剣を腰に佩いている。飾りでは済まない重さが、歩くたびに上着の裾をわずかに沈ませる。後ろには若衆の灯が一つ、少し離れてもう一つあった。どちらも声を出さない。灯だけが、遠くで息をしていた。
ルッカは赤子を見た。
次に崩れた壁を見た。
最後に蒼凪さんを見た。
「うちの荷だ。こちらでけじめをつける」
低い常体だった。詫びでも頼みでもない。帳面に残る損を、自分の手で線引きする声だ。赤い夜の中で、その声だけが乾いていた。
蒼凪さんは短く頷いた。
「地形を」
「奥の倉は空洞だ。上は落ちる。南壁は崩せるが、北は隣家まで持っていく。通路は荷車二台分。そこの係船鎖は太い。車止めは三つ、ひとつは石に食い込んでいる」
言葉に善意はなかった。
だから使える。
俺は足の向きを変えた。倉の空洞という言葉で、街路の奥行きが体の中で組み替わる。落としていい壁と、落としてはいけない壁。鎖の重さ。荷車二台分の幅。人を通すには広い。赤子を逸らすには狭い。
ルッカの言葉は地図ではなく、足場の高さになった。倉の上が落ちるなら音を作れる。南壁が崩せるなら、赤子の腕を寄せる影ができる。北が隣家まで持っていくなら、縄を掛ける時に肩を入れない。頭の中で線を引く前に、膝と踵が順に向きを変えた。
「倉の中に人は」
「いない。さっき払った。残っているのは湿った布と空箱だ」
「鎖は切れるか」
「切るな。外せ。切れば跳ねる」
ルッカの視線が俺の索具へ落ちた。
「海守り。鎖の輪へ縄を通せば、横に引ける。縦に引くな。石ごと抜ける」
「分かりました」
返事をした瞬間、手の中の縄の重さが変わった。綱では足りない。鎖を味方にする。俺は濡れた索具を短く持ち替え、係船鎖の輪へ走った。鎖は石に寝ている。赤い粉が溜まり、錆と海水の匂いがした。指を入れる隙間はない。潮鎚の尖った方で輪を持ち上げ、縄を通す。
鉄が冷たい。
港の鉄だ。
濡れていても芯に熱を持たない。縄が鉄へ触れた瞬間、掌の感覚が二つに分かれた。柔らかい膨れと、硬い丸み。引く方向を間違えれば、俺の肩が先に抜ける。輪の内側には海藻のぬめりが残り、縄の繊維がそこへ一度だけ沈んだ。引けば戻る。縦へ立てれば跳ねる。横なら、石の上を少しだけ眠ったまま滑らせられる。
「ガイウスさん、車止めまで」
「見えた」
ガイウスさんが盾を低く構え、土壁の端へ足を入れた。彼の靴底が石の目を潰す。土ではなく、重さで場を測る足だった。
「カイさん、左の陰に負傷者が残っています」
「分かりました。灯を落とします」
カイさんは光を高く掲げなかった。掌を胸の高さへ置き、白を布で半分隠す。光は戸板の隙間へ入らず、足元だけを拾った。逃げ遅れた男の肩が見える。息はある。
ヴェスタさんが屋根の上で舌打ちした。
「上、古いぞ」
「落とせる方だけ落とす」
蒼凪さんが言う。
「言われなくても、だ」
ヴェスタさんは短剣を支柱の縄へ入れた。布と木がずれ、湿った幕がまた一枚落ちる。幕の縁から水が飛び、赤い粉が短剣の刃へ貼りついた。赤子の腕はその音へ寄ったが、蒼凪さんは動かなかった。俺は鎖へ通した索具を腰へ回す。
ルッカは剣を抜かない。
荷車二台分の通路の奥に立っていた。車止めの向こうから、白い手袋の指で倉の角を示すだけだ。赤い夜の中で、彼だけ白が少し浮いて見えた。ルッカの目は蒼凪さんからレオンの剣へ移った。最後に俺の索具の上を通った。何も言わなかった。
赤子が鎖へ触れた。
鎖は鳴らない。重すぎて鳴る前に石へ沈む。俺は横へ引く。縄が手の中で捻じれ、鉄の輪が半寸だけ動く。赤子の腕がそちらへ滑る。壁ではなく、鎖の冷たい丸みに誘われる。腰へ回した索具が濡れた服へ食い込み、背中の布まで水を吸った。息を止めると、鎖の動きも止まる。息を細く出すと、輪が石を擦って進んだ。
「今」
蒼凪さんの声。
ガイウスさんの土が低く持ち上がる。壁ではない。石畳の下に、厚い舌を差し込むような起き方だった。赤子の腕の下で地面がわずかに高くなり、濡れた掌が滑る。
レオンが列の最後の男を左へ押した。
「走れ。止まるな」
男は走った。
泣き声だけが、走らない。
人が遠い方へ抜けるほど、声は底へ沈んでいった。赤子の腕がまた一つ、壁ではなく縄へ向いた。石を掻く音が細かくなり、索具の震えが肩へ上がる。掌の皮が濡れた繊維へ押し返され、家の戸板が内側から震えた。
蒼凪さんの顎が、倉の空洞へわずかに向いた。
「奥へ入れる」
俺は索具を持ち替えた。
──────────────────────────────
泣き声が変わった。
深くなったのではない。深さの底が、こちらへ近づいた。石の上を這う腕の音が細かくなる。濡れた指が縄を掻き、鉄を探り、壁の角を削った。削れた白い粉が赤い光に乗る。
俺は係船鎖を横へ引いた。
赤子の前腕が、鎖の丸みに絡む。絡んだように見えただけかもしれない。次の瞬間には別の腕が石を掻き、さらに別の手首が腹の下から出る。数える暇はない。数えたところで、足場の役には立たない。
「右を閉じる。車止めを」
蒼凪さんの声が途中で切れた。
切れ方が、変だった。
息が足りなくなったのではない。言葉を選び直したのでもない。途中まで張っていた縄が、刃も音もなく急に緩む時の切れ方だった。
俺は振り向いた。
蒼凪さんは立っていた。
足は石の上にある。肩も落ちていない。けれど動きだけが止まっている。顔の前に、硝子の薄い光沢が張っていた。赤い夜を細く折り、蒼凪さんの瞳だけを遠くする。叫ばない。手も上がらない。口はさっきの言葉の形のまま、次の音を置かない。
「蒼凪さん!」
俺の声は自分で思ったより大きかった。声が戸板へ当たり、戻ってくる前に泣き声へ飲まれた。
索具を手放すわけにはいかない。右腰の輪を一つ抜き、蒼凪さんの胴ではなく左腕の外側へ掛けた。人を縛るためではない。岸へ引くための掛け方だ。肩を痛めない角度。膝が抜けても頭を打たない幅。
引く前に、蒼凪さんの顔の前の光沢の奥に見えた。
知らない浜辺だった。
海は暗くない。赤くもない。波は低く、砂は湿っている。浜辺の上に小さな家がある。戸口が開いていた。内側に灯りがあり、外の風で火が細く揺れる。戸口の敷居には砂が薄く乗っている。蝶番は古いが、錆びてはいない。何度も開け閉めされた木の色だけが、そこだけ淡くなっていた。
戸口から漏れる灯りは、外の夜を押し返すほど強くない。砂の上に細い橙を置き、敷居の傷を浅く浮かせるだけだ。けれどその薄い熱が、さっきまでの赤い夜より近かった。波の湿りと火の乾きが、戸口の一線で触れている。
食卓に湯気が立っている。二人分の器が向かい合い、片方の椀の縁に光が乗っていた。もう片方には小さな欠けがある。卓の板目は海風で少し膨れ、湯気はまっすぐ上がらず、戸口から入る風に押されて斜めに流れた。湯気の下には、湯を入れたばかりの木の匂いがある。塩を含んだ湿りと、乾ききらない布の匂いも少し混じっていた。
戸口の柱に、見慣れた索具が立てかけてある。
革と海獣の腱を撚った輪。俺の腰にあるものと同じ形。乾いていない。使った後の重みを残したまま、そこに置かれている。縄の下端から落ちた水が、柱の根元へ暗い点を作っていた。点は一つではなく、乾きかけたものと落ちたばかりのものが重なっている。濡れた繊維は、浜の家の中まで少しだけ港を連れてきていた。
人はいない。
声もない。
湯気だけが上がる。灯りが戸口から砂へ漏れる。索具の濡れが、柱の木へ暗い跡を作っている。
俺は歯を噛んだ。
肩から入る。索具を短く持ち、蒼凪さんの前へ体を差し込む。潮鎚の柄を石へ突き、支点にした。濡れた縄が腕へ食い込む。引く。蒼凪さんの体は軽くない。人間の重さだ。止まった人間の重さは、船から落ちかけた人の重さに似ている。自分で戻ろうとする力が遅れる分だけ、こちらが先に足場を作る。
左足を石の割れ目へ入れ、右膝を少し外へ逃がす。膝を正面に置くと、一緒に持っていかれる。肩は先に入れるが、腰は遅らせる。縄を引く腕だけで戻そうとすれば、相手の肩が抜ける。胸を蒼凪さんの外側へ当て、息を吐きながら、潮鎚の柄を支点に半歩ずらす。
硝子の光沢が歪んだ。
赤い夜が割れるのではなく、蒼凪さんの瞳だけがこちらへ戻る。膝が落ちた。俺は左肩で受け、頭が石へ行かないように脇を入れる。蒼凪さんの手が宙で遅れて動いた。俺の外套ではなく、索具の濡れたところを掴もうとして止まる。
「ヒュウマ」
声が遅い。
一拍では足りない遅れだった。遠い港から戻ってきた船の声みたいに、波を越えてから届いた。蒼凪さんの膝はまだ立たない。息は入っているが、胸の下で引っかかっている。指は俺の手首の近くで止まり、何かを確かめる前に石へついた。
「動けますか」
「少し待て」
短い。
けれどいつもの短さではない。言葉の後ろに、まださっきの灯りの残りがある。俺は体をずらした。
その時、俺の索具が軽くなった。
切れていない。
切れた縄より悪い軽さでもない。
けれど張りの先が、こちらではない場所へ沈んだ。
泣き声が俺の骨へ入った。
街路が遠くなる。赤い光が薄く伸び、戸板も壁も鎖も足裏の石も、布の向こう側へ押しやられる。自分の呼吸だけが近い。いや、近いのは呼吸ではない。
桟橋。
濡れた木の匂い。
海が上がった後の、少し甘く腐りかけた板の匂い。足裏で覚えている。朝でも夜でも、戻る船が近づく前にはその匂いが少し変わる。板と板の隙間に海水が残り、踏むと下から泡が一つ上がる。裸足ではないのに、足の裏が板の反りを知っていた。
船が戻ってくる。
波の向こうから、船首が見える。帆は畳まれている。舷に水が流れ、板の継ぎ目から雫が落ちる。船はまっすぐ来ない。潮に押されて、少し斜めに桟橋へ寄る。近づくたび、船腹を叩く水の音が低くなった。舫いの輪が船べりで揺れ、濡れた縄が木に触れる前の音を持っている。
桟橋に誰かが立っている。革帯が見えた。古い革。よく濡れ、よく乾き、癖のついた帯。縁に潮の白が残っている。手はそこへ下がっている。指が帯へ触れているのか、ただ近くにあるのか、そこまでは見えない。
父らしい輪郭だった。
顔は分からない。
逆光でもない。霧でもない。ただ顔だけが、見ようとするほど粗くなる。肩の幅。革帯。船から上がる時の重心。そこだけが戻ってくる。
帰ってくる。
それだけだった。
俺は一歩、桟橋へ出そうとした。
足裏が石を失う。
「ヒュウマ」
蒼凪さんの声が遠い。
遠いのに、今度は俺を呼んでいる。膝が立っていない声だ。支える側ではなく、地面から出した声だった。
影が先に落ちた。
見上げるより早く、街路の赤が暗くなる。赤子の泣き声がさらに下がる。空からではない。港の構造物の上から、大きなものがずれている。マストか、荷上げ用の横木か、どちらにせよ人の腕で受ける重さではない。
「ヒュウマ! 上だ、落ちるぞ!」
ヴェスタさんの叫びが、泣き声を裂いた。
音はその後から来た。
木が根元から割れる。
鉄の金具が引き千切れる。
荷上げ用の横木が屋根の縁を薙ぎ、梁と瓦を抱えたまま傾いた。巻きついていた濡れ縄が弾け、鞭のように赤い夜を走る。瓦がばらける。横木の太い影が、俺の頭から足元までを一息に塞いだ。
落下の風が髪と外套を押し潰した。石の粉が目に入り、埃が喉へ入る。
俺は体の前後を失った。桟橋が消え、船が消え、父らしい輪郭も消える。戻ってきたのか、俺が戻されたのか、分からない。体は石の上にあるはずなのに、落ちるものの影が胸の内側まで入ってくる。
潮鎚を上げるには遅い。
縄を引くには近い。
蒼凪さんの声が、さらに遠くなった。
膝が立たない。
俺の膝も、立たない。
泣き声だけが深くなった。
──────────────────────────────
埃が落ちた。
最初に分かったのは、音がないことだった。
梁が落ちた後の音がない。石が跳ねる音も、瓦が体へ当たる音もない。痛みもない。肺だけが埃を吸い、咳をしようとして止まる。俺は目を開けた。
それから、体が痛みを探し始めた。
首。肩。肋。腰。膝。どこか一つが先に熱くなるはずだった。船から落ちた時も、綱で引き戻された時も、痛む場所は遅れて名乗る。けれど名乗る場所がない。肘を曲げる。指を握る。肺の奥に埃が刺さるだけで、骨の奥へ響く痛みが来ない。
梁は右に落ちていた。
太い木片は肩一つ分だけ離れて石へ突き刺さり、瓦はその外側へ散っている。縄は俺の足元を避けて弧を描き、木片は掌の届くところで止まっていた。石も、瓦も、梁も、全部が俺を中心に避けている。
無傷の円があった。
広くない。寝返りを打てば外へ出るほどの幅だ。けれどその幅の内側に、落ちたものが一つもない。円と呼ぶには歪んでいる。人の形に沿ったわけでもない。肩の横だけ少し広く、足元は狭い。自然に空いた隙間なら、こんなふうに物が線をそろえない。瓦の欠片も、木片の棘も、そこで止まっていた。
円の外ではまだ粉が落ちていた。
円の内側だけ、粉の降り方まで遅い。
人型のフェリシアが、円の端に立っていた。
片手を前へ出している。姿はいつもの少女のままだ。黒髪は肩の下でまっすぐ落ち、毛先だけが気ままに跳ねている。薄いオリーブの肌も、眠たげな目も変わらない。けれど声だけが違った。
大人の女の声だった。
「運が良かったわね、海守り」
俺は咳を飲み込んだ。
返事は出ない。索具を握ったまま、手の中の濡れだけを確かめる。指は動く。肩も動く。潮鎚は少し離れているが、届く。石の粉が唇の裏に入り、血ではない苦さが残った。
フェリシアは俺を見下ろしたまま、口元をわずかに緩めた。
「今の偶然は、高くついたわよ」
それだけで、彼女は蒼凪さんへ顔を向けた。
蒼凪さんはまだ膝をついていた。その目が俺の顔に一度だけ長く止まり、それから外れた。片手で石を押さえ、もう片方の手をゆっくり上げる。息は戻っている。声はまだ低いところから出た。
「凪。今夜だけはあんたたちに私の幸運を分けてあげる。私と一夜限りの契約をなさい」
「対価は」
「明日の夕餉。透真の豪華絢爛船盛フルコース」
蒼凪さんの指が、石の上で一度だけ止まった。
逡巡はそこで終わった。
「3隻までだ」
フェリシアは答えない。
口元だけが緩む。
「薔薇の言ってた通り、狡猾になってきたわね。あんた」
声に幼さはなかった。
黒猫の軽さもない。夜の港の石が、その声の下で少し冷える。フェリシアの肌の縁から、緑と金の光が滲み始めた。衣の端にも同じ色が走る。赤い光とは混じらない。混じらないまま、別の色として彼女の輪郭だけをなぞる。
足が地を離れた。
靴先が石から指一本分浮く。次にもう少し。風はないのに髪の端だけが持ち上がる。濡れた石の上に、彼女の影だけが薄くなる。港の赤はその下を流れているのに、影の縁へ入れない。緑と金は肌の内から灯っているように見えた。骨の形ではない。血の脈でもない。外側の輪郭だけが、見えない指でゆっくりなぞられていく。
月のない港の空で、フェリシアの背後だけが白くなった。
大きな月が現れた。
街の赤い夜のどこにもなかった白だ。水面にも石にも落ちず、彼女の後ろだけにある。丸く、大きく、近すぎる。手を伸ばせば触れそうなのに、距離を測ろうとすると足裏が迷う。倉の屋根の高さでは測れない。マストの先でも届かない。背後にあるはずなのに、彼女の肩より少し大きく見え、港の空よりはるかに重く見えた。
フェリシアは右手を胸の前へ寄せた。指先が細い輪を描き、黒い石のついた指輪が白い月を受けて光る。
「運命の魔女の名の下に命ずる。」
顎がわずかに上がる。
声は港の壁にぶつからない。まっすぐ上へ伸び、月の白へ吸われる。次の言葉の前に、彼女の左手がゆっくり開いた。掌の中に何もない。けれど開かれた指の間で、緑と金が細い糸のように張る。
「明日を知らぬ盲いた織り手、賽を振る見えざる手よ。今宵一夜、我が座より降りて、我と誓いし黒き茨の徒へ侍れ」
白い月の表面に、細い線が入った。
まだ割れない。硝子へ爪を置いた時のような、見えるだけの線だ。フェリシアは視線を下げ、俺たち一人一人ではなく、石の上の影の並びを見る。浮いたまま、足先が赤い粉を踏まない高さで止まっている。
「災いの目は伏せられよ。恵みの目のみ天を向けよ」
今度は手を上げなかった。
人差し指だけを曲げる。賽を転がす前に、卓の端を軽く叩くような所作だった。月の線が増える。白は白のまま、赤に染まらない。港の赤い光がその下で鈍く見えた。線は音を出さず、月の表だけを走る。けれど戸板の奥で、それまで続いていた小さな物音が消えた。
最後に、フェリシアは顎を引いた。
眠たげだった目が、少しだけ細くなる。
「——汝の名は、幸運」
白い月が割れた。
音が大きかった。
硝子の大皿を空で砕いたような音が、人気のない街路へ落ちる。戸板が震え、係船鎖が石の上でかすかに鳴った。音は一度で終わらない。屋根の下を走り、倉の空洞へ入り、そこから湿った布へ吸われて戻ってくる。水路の水面が細かく震え、赤い光の上に白い揺れが一枚乗った。
割れた白は破片にならず、青白い粒へほどける。粒は落ちながら回った。
小さな立方体だった。
賽だ。
面が回り、角が白く光る。赤い夜を切るように、いくつもの賽が降ってくる。蒼凪さんの肩へ。俺の手の甲へ。レオンの剣を握る手へ。ガイウスさんの盾の上へ。ヴェスタさんの短剣を持つ指へ。カイさんの白い袖の先へ。
粒は冷たくない。
熱くもない。
襟の内側へ一つ入った時、首筋の皮膚が薄く持ち上がった。服の繊維に角が触れ、すぐ抜ける。手の甲へ落ちた粒は、肌へ沈む前に一度だけ回った。角が皮膚を切ることはない。けれど触れた場所だけ、湿った夜から切り離されたように乾く。
手の甲に、黒い薔薇が浮いた。
棘のある小さな文様。薔薇の館の夜に見たものと似ている。だが今は刺さらない。触れられた事実だけが、皮膚の下を通る。文様は一瞬だけ濃くなり、すぐに薄く沈んだ。
蒼凪さんの指にも、同じ黒が一瞬だけ出た。ガイウスさんの盾を押さえる手、ヴェスタさんの指の節、レオンの柄を握る手、カイさんの袖口からのぞく手首にも、黒い花弁が浮いて沈む。誰も数えない。粒は数えられるものではなく、降って、触れて、消えた。
いく筋かの青白い粒は、夜へ消えた。
ルッカの立つ車止めの影には落ちなかった。彼は白い手袋を下げたまま、降る賽と俺たちの手を見ている。意味を拾おうとする顔ではない。荷の行き先を見届ける目だった。
回っていた賽の一つが、崩れかけた庇の上で止まった。
止まった面は見えない。けれど次の瞬間、庇が外れた。落ちるはずだった横木の前へ斜めに噛み、重さを一度だけ受ける。横木は軌道を変え、赤子の腕ではなく空の木箱を潰した。木箱が割れ、湿った布だけが跳ねる。
その一度だけで足りた。
ガイウスさんの盾が間に合い、レオンが一歩分の空きを作る。蒼凪さんの膝が立つ。俺の索具は切れず、係船鎖の輪が石に寝たまま半寸戻った。赤子の腕は横木ではなく、潰れた木箱の湿った布を掴んだ。布は裂け、赤い粉だけが飛ぶ。
誰も声を上げない。
声を上げる前に、フェリシアが笑わず言った。
「今宵は大盤振る舞いよ。全ての賽が六しか出ない夜に、感謝なさい」
泣き声は止まっていなかった。
赤子の腕がまた石を掻く。フェリシアの白い月はもうない。砕けた後の青白い粒だけが、夜の隙間へ沈んでいく。俺は立とうとした。膝は動く。体は戻る。蒼凪さんもゆっくり立ち上がった。
その横で、聖剣の封緘紐の片端が、レオンの柄の根で揺れた。
──────────────────────────────
フェリシアがレオンへ向き直った。
浮いたままではない。石の上へ降りている。けれど足音はしなかった。彼女の衣の縁には、まだ緑と金が薄く残っている。白い月の名残ではない。港の赤とも違う。
「オルヴェリスの尖兵。何をしているの」
レオンの肩がわずかに動いた。
彼は剣を構え直さない。抜いた剣の刃は赤い夜を受けている。火はない。柄の根には、切れた封緘紐の片端が残っていた。あの黒い線が、今は濡れた革へ貼りついている。
「俺は」
そこまでで止まった。
フェリシアは待たない。
「あの異形は人々の願いの塊。神性を帯びているわ。神を斬りに海まで来たのでしょう、お前は」
泣き声が低く続く。
赤子の腹の奥で赤が揺れている。街路の石も、水路の水面も、同じ赤を返す。レオンはその赤を見ていない。フェリシアを見ている。いや、フェリシアの声の向こうに、自分の剣を置かれたような顔だった。
「けれど倒せはしない。今のままではね」
フェリシアの声は短い。
そこへ理由は付かない。
「その剣も神の血を吸わないで久しいはずよ。そろそろ務めを果たしても良い頃合いなんじゃないかしら」
カイさんの息が止まったのが分かった。祈りの形ではない。ただ、胸の高さで一度止まる息だ。ガイウスさんは盾を下げない。盾の縁が赤を受け、腕の筋がそこを支えている。ヴェスタさんは屋根の縁で体を低くしたまま、何も言わない。ルッカは車止めの向こうにいる。白い手袋に青白い粒はない。荷車二台分の通路の奥まで声は届いているはずなのに、彼の足は踏み込まない。
フェリシアが、ほんの少しだけ首を傾けた。
「ねぇ、あなたもそう思うでしょ?」
誰も答えなかった。
赤子も答えない。
泣き声だけが街路を満たす。けれどその中に、別の静けさが置かれた。長い。長すぎるほどではない。船が桟橋へ寄せる前、舫いを取る者が縄の輪を手にしたまま波の拍を待つくらいの長さだ。
水路の赤が揺れる音まで薄くなった。
石の上では、粉がまだ少し落ちている。落ちる粉の音はしない。係船鎖だけが、さっき動いた分を思い出すように、石の上でかすかに鳴った。レオンの胸が一度だけ上がる。息はすぐ吐かれない。肩へ逃げず、胸の奥で細く止まった。
レオンの右手が柄を握り直した。
強く握ったのではない。指の位置を一つずつ確かめる握りだった。親指が革の巻きを押さえ、薬指が封緘紐の片端へ触れかけて止まる。濡れた黒い紐は革へ貼りつき、指先が触れる前から少しだけ震えている。レオンの手の甲には、さっき沈んだ黒い薔薇の跡がもう見えない。見えないのに、その場所だけ赤い光を返さなかった。
カイさんの止まった息が、まだ戻らない。
ガイウスさんの盾は動かない。
ヴェスタさんは屋根の上で、次に飛ぶための膝を作ったまま止まっている。短剣の刃に赤い粉がつき、そこへ青白い粒の残りが一つ触れて消えた。蒼凪さんはレオンではなく、剣の根元を見ている。さっき石へついた指の先が、まだ少し遅れている。ルッカは通路の奥で、倉の壁とレオンの剣の間に視線を置いた。
刃は動かない。
斬らない。
刃の根に、遅れて光が満ちた。
先端からではない。柄に近いところ、刃と鍔の境目から、白い光が内側へ入っていく。水を吸った布へ色が広がるのとは違う。火が走るのとも違う。金属の奥に、ずっと空いていた場所があり、そこへようやく潮が戻るように見えた。
光は速くない。
刃の根にまず細い白が溜まる。そこから、金属の筋を一つずつ拾う。鍔に近い影が消え、刃の腹が薄く曇り、次に曇りの奥から白が押し上がる。レオンの手は動かない。指だけが革へ沈み、封緘紐の片端が光の縁で黒く細くなる。
レオンは息を吐かなかった。
カイさんも祈らない。
蒼凪さんの指先が石を押す。そこから俺の視線は、赤子の腕、係船鎖、落ちかけた庇、手元の索具へ移った。
聖剣の光は、刃の半ばまで満ちたところで止まった。
止まったのか、そこから先を待っているのかは分からない。剣は言葉を持たない。けれど返事の代わりに、光だけがそこにあった。
赤子が泣いた。
今度の泣き声は、細かった。
止まってはいない。低さも残っている。だが腹の底へ沈む前に、どこかで細くなる。濡れた板を叩く波が、一枚薄くなった時の音に似ていた。俺は赤子の腹を見た。
透ける赤が、遅れて細くなっていた。
石畳を塗っていた赤も、水路の水面を覆っていた赤も、同じ速さではない。まず腹の奥。そこが一番遅く、けれど一番はっきり痩せた。次に水の上。水面の赤は縁からではなく、流れの真ん中で細くなり、黒い筋を一つ戻した。最後に街路の低いところ。石と石の隙間へ溜まっていた赤が、潮の引く跡みたいに薄くなる。
戸板の隙間に残っていた赤も、少し遅れて鈍った。
吊り灯の消えた硝子は、赤だけでなく夜の黒を返し始める。濡れた幕の上では、赤い粉が粉のまま沈み、水だけが黒く見えた。遠い水路の奥でも、赤が一本細くなった。すぐ戻るのか、このまま削れるのかは分からない。泣き声は続いている。
誰も勝ったと言わなかった。
理由を知っている顔もない。
フェリシアはレオンの剣を見たまま、口を閉じている。蒼凪さんは赤子を見る。ガイウスさんは盾の縁を上げ、ヴェスタさんは屋根の上で次の縄を探す。カイさんの白い袖が、倒れた男の肩へ戻る。ルッカは車止めの影から倉の壁を見ている。
俺は濡れた索具を握り直した。
縄はさっきより重い。
水を吸っただけではない。引いてきた人の重さ、逸らした梁の重さ、見えた桟橋の重さまで、撚りの中へ入り込んだようだった。掌の皮が少し浮き、縄の繊維がそこへ食い込む。指を開けば落とせるはずなのに、指は開かなかった。鎖の輪、荷車の軸、戸口に立てかけられた索具、桟橋の板。全部が手の中で同じ濡れ方をしていた。
遠くの赤が痩せるたび、手の中の濡れた索具だけが重くなった。




