誰もいない舞台の上で
ラウリ殿の背が、赤い通路の人波を割っていた。
先頭に巨躯。中にイーリス殿。最後尾に私。避難する者たちの流れは劇場から遠ざかり、私たち三人だけがその流れに逆らっている。肩と荷の角が横から擦れ、濡れた外套の匂いと油皿の匂いが混じった。
足音が多い。
逃げる足音。立ち止まりかけて引き戻される足音。私たちの足音。濡れた石を蹴る音は低く、木橋へ乗るたび薄く跳ね返った。遠くで泣き声が一度だけ細く伸び、屋根の上で折れて戻ってきた。
ラウリ殿の背には、槍の長い線がない。
濃紺のローブの下で肩が動く。両腕は人を押しのけるためではなく、流れからはみ出しかけた客を壁側へ戻すために広がっていた。空の両手で、彼は前を開けている。武器を持たない大男は、武器を持つより場所を取る。だがその場所が、いま通路の幅を作っていた。
「右へ」
私が言うと、ラウリ殿は言葉より少し早く右の肩を落とした。倒れかけた若い係員が、その肩の外を滑って避難列へ戻る。肩先に触れた係員の手袋が赤く光り、すぐ人波に消えた。
イーリス殿はそのすぐ後ろを走っていた。
弓はない。腰に矢筒の揺れもない。肩から斜めに掛かるはずの楽器の箱もなかった。袖口から出た両手は空で、指だけが声の拍を探すように開閉している。歌い手が持っているのは、喉だけだった。
頬の白さは赤い灯の下でも隠れず、喉仏の上下だけがいつもより硬い。吸う息は深い。吐く息は短く、足音の間へ消えた。
赤は、進むほど濃くなる。
暗くなっているのではない。灯が消えたのでもない。光そのものに赤い粉が混ざり、壁の白布も、床の水跡も、人の顔の汗も、同じ色へ寄せられていく。私の影は足元で短くなり、次の灯の下でまた別の向きへ伸びた。灯の位置と影の向きが、欄の中で合わない。
最初から、合っていなかった。
水上劇場で悲恋歌劇を見た夜、私は舞台の月を見上げた。天井の投影だけではない。水面を経由して色を変えている。光源が一つではない。そこまでは演出として読めた。
演出であるなら、紙へ入れる必要はない。演出は観客を騙す仕事を持つ。品のある騙し方なら、むしろ舞台の財産だ。
だが舞台裏で赤い砂時計を見た時、別の欄が開いた。
古い金属枠。赤い砂。札の名は《朱月沙漏》。置き直された瞬間、下にあるはずの砂が細く上へ流れた。係の手は慣れていて、その一瞬を忙しさの中へ押し戻した。私もその場では押し戻した。
それでも、私の視線は止まった。
赤い月を見た後で、砂が上へ流れる器を見る。二つを同じ欄へ入れるには早い。早いが、別々に捨てるには線が近かった。私は赤そのものを数えなかった。祝祭の灯、舞台の紅布、水面の照り返しで説明できる赤は数字にしない。紙は、説明できるものまで食べると太りすぎる。
私は影だけを残した。
劇場の月の下で、影の角度が合わなかった。灯の反対へ落ちるはずの影が、ほんの少し別の方向へずれる。酔いでも、客席の揺れでも、舞台の熱でも片づく小さな狂いだ。だが小さな狂いは、同じ夜に三つ並ぶと欄になる。
だから北へ照会を出した。
月のこと。赤い砂のこと。古い金属枠のこと。名前は半分しか見ていないので入れなかった。塔へ投げる紙に半分の名を顔として載せれば、あとで訂す者の手を増やす。私は空欄のまま封をした。
照会を出した時点で、私の手元にあったのは違和感だけだった。影のずれは小さく、砂の逆流は一度しか見ていない。劇場の仕掛けだと言われれば、それを否定する数字もなかった。だから止めるための紙ではなく、探すための紙を選んだ。問いを細くすれば、返る答えも細い。だが太く書けば、こちらの推測が答えの形を先に決める。
いま足元を走る赤は、あの空欄の続きだった。
急がない照会ほど、返事が来た時には遅い。
その皮肉は、今夜だけは紙の外へ出て走っている。
「月読み殿」
ラウリ殿が低く言った。
前の通路が少し細くなっていた。劇場外周へ入る扉の前で、人の流れが二つに割れる。片方は広い階段へ、片方は港へ続く通路へ。私たちはどちらにも乗らない。濡れた木橋の継ぎ目が足裏へ細かく返り、逃げる者の荷紐が私の袖をかすめた。
「左の壁沿いです」
「分かった」
イーリス殿が息を整えずに言う。
「声を少し出します。通していただきます」
それだけで、彼の声は人波の上へ薄く乗った。怒鳴らない。押さない。けれど聞いた者の肩が、わずかに壁側へ寄る。楽器なしの声が、濡れた石と布の間で細い道を作った。
私たちはそこを抜ける。
泣き声は遠い。近いのは足音だ。自分の肺の下で熱に変わる息。短杖の握り革が掌へ貼りつく湿り。外套の内側で紙挟みの角が肋へ当たる感触。
紙はまだある。
だが今夜は、紙を出す場所ではない。
──────────────────────────────
関係者用通路の扉は、開いたままだった。
蝶番の片方が赤い光を拾っている。扉の向こうは白い壁と濡れた床、壁に沿って積まれた折り畳みの椅子、吊られた縄、半分閉じた小道具箱。人影はない。
敷居の内側に、片方だけの手袋が落ちていた。濡れた革の指が扉の方を向いている。その横には、踏まれて曲がった演目表と、口の開いた釘袋があった。釘は三本だけ床へ散り、赤い光を細く返している。誰かが急いで出た跡には見える。誰が、何人、どこまで出たのかは残っていない。
到着時に観測できる範囲では、劇場は無人だった。
それ以上は書けない。避難が終わったかどうかは見ていない。人がいないことと、全員が出たことは同じ欄へ入らない。
空気は赤い。舞台裏の白布は酒を吸った紙のように赤を含み、廊下の奥ほど濃くなる。足元には水が薄く伸びていた。潮ではなく、濡れた靴とこぼれた水桶が運んだ水だ。そこに私たち三人の影が落ちる。
その影の外に、小さな人型が立っていた。
黒い。
黒いと言っても暗闇ではない。赤い光の中で、そこだけが赤を拒むように縁を持つ。背丈は子供ほど。頭と肩と腕らしい輪郭がある。顔はない。音もない。
ラウリ殿が止まらずに踏み込んだ。
槍はない。
空の右拳が、影の胸へ入った。肉を殴る音ではない。濡れた布袋を壁へ押し潰すような鈍い音がして、人型の中心がへこんだ。影は壁へ貼りつき、輪郭の半分が潰れる。白壁の漆喰が拳の脇で細かくこぼれ、床の水に赤い粉を落とした。
次の瞬間、影の腕が返った。
爪の形だけが遅れて伸びる。ラウリ殿の左前腕を、赤い線が三本走った。布が裂け、皮膚が開く。裂ける音は小さい。血が出た。赤い光の下でも、血は別の赤だった。
双方に当たる。
私はその一往復だけを欄へ置いた。今夜の影は、こちらに触れられる。こちらも触れられる。どちらも比喩ではない。
「ラウリ殿、足元」
「見えた」
影は潰れたまま、床へ薄く広がった。そこからもう一つの腕が出ようとする。腕だけが先に床へ落ち、実体が遅れて持ち上がる。
「Gravitas ── 《引手 / Pull's Hand》」
短杖を横へ振る。
影の腕そのものではなく、床に落ちた濡れた椅子を引いた。引いた瞬間、短杖から手首へ重さが返った。椅子の脚が影の足元へ滑り、細い黒の輪郭を乱す。脚先が床の水を切り、金具が一度だけ甲高く鳴った。ラウリ殿の膝が入った。巨躯が通路の幅を塞ぎ、潰れた影を壁と床の間へ押し込む。
イーリス殿の声が後ろから通った。
「こちらへ。息を短く」
歌ではない。けれど声は廊下の梁に当たり、薄く残った。次に出た小さな影が、その声の残りに足を取られたように揺れる。仕組みは読めない。読めないものを、読めるものの顔で扱わない。
私は足元だけを見る。
小さな影が二つ、椅子の向こうへ滲んだ。左の一つは床へ先に影だけを落としている。右の一つは落としていない。なら左が来る。
「左です」
ラウリ殿の肘が左へ落ちた。骨と黒い布がぶつかる音。影の肩が潰れ、次の爪が壁を掻いた。白壁に黒い筋は残らない。代わりに赤い布くずだけが舞った。
「下がります」
イーリス殿が一歩引く。空の両手が胸の前で開く。歌い手の手なのに、今は譜も弦も持たない。彼は喉だけで通路を測っている。
「ヴァロー殿、右奥」
「見ています」
小さな影が右奥の縄の影に重なった。縄の影は灯の位置と合っている。その上に乗った黒だけが、灯を見ていない。
「Gravitas Magna ── 《重落 / Heavy Fall》」
重さを掛ける。
影の足が、床へ沈むように止まった。質量が増えたわけではない。輪郭の動きだけが鈍る。術の返りが短杖から肘まで上がり、骨の内側を冷やした。ラウリ殿の拳が、そこへ落ちた。今度は壁ではなく床が鳴る。床板の下で水が震え、積まれた椅子が一つ遅れて肩をぶつけ合った。
通路の赤が、ひとつ濃くなった。
私は息を入れ直した。短杖の先が重い。支援に使う術は小さい。それでも連続させれば、掌の皮膚から順に温度が抜ける。戦闘魔法としては見栄えが悪い。だが今夜、見栄えは何の欄にも入らない。
返書は、数日前に届いていた。
暗い封蝋。塔章。厚い紙。最初の行に、挨拶ではなく等級が置かれていた。
確。記録名《災月沙漏》。
あの夜に見た札は《朱月沙漏》だった。劇場の札は祝祭の色を選んでいた。塔の写しは、別の字を置いてきた。災は記録法上の分類語である。祝祭の赤ではない。
古記録の写しには、世ならぬ月を奉ずる者が、教えを遠く伸ばすために赤き月を抱く器を作った、とあった。私はそれを異界の月と読み下した。そこまでなら、写しは渡してよい紙だった。
そこから先が、痩せていた。
何が起こるかの記載は、写しに含まれない。
何が起こるかは書かれていない。どう扱うべきかも書かれていない。数えた者がいて、名を置いた者がいて、分類した者がいた。だが起きる事柄の側へは紙が行っていない。
今、その紙が行かなかった側が目の前にある。
影は実体を持ち、こちらの拳を受け、こちらの皮膚を裂く。赤い領域は劇場から消えない。写しに書かれなかったことが、目の前で起きている。何なのかは、今も書けない。
だが操作はできる。
全区一斉点検の砂時計は、五分ほどで流れ終わるはずだった。点検用の器は、もう止まっていなければならない。止まっていれば、赤い領域も薄れる。薄れないなら、まだ回り続けている一基がある。
芯は劇場だ。
「奥へ」
私は言った。
「止まっていない基があります。舞台側です」
「なら通る」
ラウリ殿が血の出る腕を一度振った。血が床へ落ちる。拳を握り直すと、裂けた布の下で筋が動いた。
「歌い手殿、後ろだ」
「承知しました」
イーリス殿は振り返り、低い一節を開いた扉へ返した。敷居を越えかけた二つの影が、同じ場所で足を鈍らせる。声は扉の枠と狭い壁に幾度も当たり、薄く重なった。影は止まらない。だが追いつくまでの幅が生まれた。
私たちは影を潰し、重さを掛け、椅子を引き、通路を進んだ。
曲がり角では、吊られた白布が床まで落ちていた。赤を吸った布の向こうで、人型の輪郭が先に膨らむ。私は布の裾を杖先で払った。濡れた布は重く、杖の先へまとわりつく。ラウリ殿の肩が布ごと影へ入り、壁際へ押し込む。
イーリス殿の声がその背を越え、次の影の足を遅らせた。三人が抜けたあとで布が戻り、黒い腕だけが一度こちらへ伸びる。爪は私の外套の端を裂いたが、身体には届かなかった。
紙挟みの角が肋へ打ちつけられた。革越しに紙の束が鳴る。杖を持ち直した。
次の角には、転換用の細い台車が斜めに残されていた。車輪の一つが溝へ落ち、通路を半分塞いでいる。その下の黒だけが、台車の形より長かった。木枠には白い粉が残り、布を巻いた取っ手が水を吸って膨らんでいる。
「下です」
ラウリ殿は台車を持ち上げない。樫の枠へ片足を掛け、重さごと壁へ押した。下から伸びた爪が脛を狙う。イーリス殿の一節が低く重なり、黒い腕の伸びが鈍った。私は杖先で車輪止めを払う。台車が半尺だけ戻り、爪の手首を溝へ挟んだ。
ラウリ殿の踵が落ちた。
黒は床の水へ潰れた。台車の上では、使われなかった小さな灯花が三つ揺れている。赤い光を受けても火は消えない。影だけが形を失い、火だけが元の位置へ戻った。
私たちはその横を抜けた。通路の後ろで、挟まれた車輪が遅れて一度鳴った。
一つの影を倒すたびに、床の水が黒く濁る。濁った水はすぐ赤い光を返す。匂いは薄い。血の鉄。濡れた板。古い舞台布。遠い泣き声は、壁の厚みでほとんど消えていた。
舞台袖へ出る。
小道具の棚があった。半分開いた箱。布をかけられた台。演目で使った白い花の枠。赤い紐の掛かった点検用の棚。
ケースは空だった。
古い金属枠の砂時計が収まるほどの窪みだけがある。布の縁には、赤い砂の細かな粉が一粒だけ残っていた。私は指で触れない。触れて読めるものではない。
窪みの四隅には、金属枠が擦った暗い跡が残っていた。ほかの小道具には薄く埃が乗っているのに、そこだけ布の色が新しい。包んでいたはずの布も、留め紐もない。持ち出された時刻までは読めないが、器がここにないことだけは確だった。
棚の脇から舞台へ続く床を見た。灯は壁側に一つ。床の継ぎ目から伸びる影は、半分だけ灯の反対へ落ちている。残る半分は舞台の方角へ細く引かれ、赤の濃い場所へ溶けていた。器の場所を示す証拠ではない。だが、いま進むべき勾配は同じ方を向いている。
「ここではありません」
「舞台だな」
ラウリ殿が言った。
イーリス殿は舞台の方を見た。耳を隠す髪の端が赤く染まっている。彼は空の両手を軽く下ろし、喉だけで一度息を整えた。
舞台から、音がしない。
無人の劇場で、音のないものだけが待っていた。
──────────────────────────────
水の匂いが近くなった。
舞台袖を抜けた正面、舞台中央に、一等大きな影が立っていた。
小さな影たちより背が高い。人の形に近いが、人ではない。肩から腕へ続く線が長く、頭の位置がわずかに後ろへずれている。顔はない。音もない。
その影は、赤く濁る砂時計を掲げていた。
古い金属枠。上下の硝子。内側で赤い砂が濁っている。掲げ方は、何かを見せる所作にも、捧げる所作にも見えた。崇めるようにも見えた。
見えただけだ。
観測できるのは、影が砂時計を掲げているという事実まで。そこに心を入れれば、紙はすぐ楽になる。楽な紙は、今夜もっとも信用できない。
その向こうで、床板の先に黒い水面が見えた。水上劇場の舞台は海に浮いている。今夜はその海まで赤い。波頭は黒いままなのに、波の腹だけが鈍く赤を返している。
ラウリ殿が舞台の縁で足を止めた。
彼の両手はまだ空だった。裂けた左腕から血が伝い、手首の鮫歯の化石へ触れる。化石が小さく鳴った。石と歯の中間の乾いた音だった。
私は舞台の縁と水面を見た。
赤い光は強い。だが水はまだ水として動いている。影の足は床を使う。水際は、床ではない。通路では使えなかった余白が、ここにはある。
「ラウリ殿」
彼がこちらを向く。
「水際が使えます」
それだけで十分だった。
ラウリ殿は舞台の端へ一歩出た。海へ膝をつくわけではない。両足を板へ置いたまま、空の右手を水面の方へ開く。手首の化石がまた鳴った。
「祖の歯よ、響け。水の底から、ここへ来い」
声は低い。
命じる声ではない。呼ぶ声だった。海の表面が一息だけ遅れて応えた。舞台板の端を叩く小波が冷えた匂いを上げ、ラウリ殿の足首へ細かな飛沫を散らす。
水面が割れた。
大きくはない。赤い波が細く左右へ退き、その隙間から長い影が上がる。最初に白い穂先が見えた。次に濡れた柄。水を含んだ樫の端。槍はまっすぐラウリ殿の掌へ向かい、彼の右手に収まった。水滴が舞台板へ散る。赤い光の中で、その水滴だけが一瞬白く見えた。
受けた掌が、槍の重みでわずかに沈んだ。軽い幻でも、光で作った形でもない。濡れた柄が革の巻きへ水を滲ませ、樫の打撃部から海水が糸を引く。白い穂先は波の冷たさを残したまま、舞台の赤を細く割った。潮の匂いが血と古い布の匂いへ入り、それまで劇場に籠もっていた空気を一度だけ動かした。
海が槍を運んだ。
観測としては、それ以上を持たない。
私は舞台中央へ目を戻した。
「読む」
私が言う。
「縫います」
イーリス殿が答える。
「打つ」
ラウリ殿が槍の柄を低く構えた。
三つの声が、三つの場所を取っただけだった。
大きな影の足元で、黒が床へ落ちた。
本体より先に、影だけが板を走る。半呼吸遅れて、腕が来る。長い爪の形をした一撃。先に床へ落ちた黒が右へ流れている。
「影が先です。右へ」
ラウリ殿の巨体が右へ沈んだ。爪が空を裂く。音はない。だが爪の通った後で、舞台の赤い光が細く切れたように見えた。
「左、戻ります」
私が言い切る前に、ラウリ殿は槍をまだ何もない左の空間へ置いた。
穂先が先にいた。
次の瞬間、影の腕がそこへ実体を持った。白い穂先が黒い輪郭の内側へ届く。刺さる音はなかった。かわりに硝子を爪で擦ったような感触が歯の根へ来た。影の腕が縮み、大きな影の肩が一寸だけ落ちる。
掲げた砂時計は傾かなかった。
大きな人型は刺された腕を引き、残る腕を床へ落とした。黒い掌が板へ先に開く。実体が重なった時、舞台板が手の形に沈み、釘が二本跳ねた。ラウリ殿は追わず、槍の石突で釘を外へ弾く。跳ねた一本が水へ落ち、そこで初めて小さな音がした。
私は床へ残った掌の形を見た。消えるまでの長さは、さっきの腕より短い。読める差ではある。次にも同じとは限らない。
読みが、初めて攻撃になった。
小さな影が舞台袖から波のように押し出した。
無音だった。足音も、息も、床板の軋みもない。動くものがあるのに音がないことが、音よりも強く耳に触れる。赤い光の中で、人型がいくつも薄く立ち上がる。
イーリス殿が息を吸った。
歌が出た。
言葉としては短い。旋律としては、舞台の梁へ届いた。楽器はない。けれど劇場そのものが、彼の声を薄く抱えた。声は袖の暗がりへ伸び、雑な影の輪郭へ針を通すように走る。
「נֶצַח ── 《永唱 / Eternal Chant》」
詠唱の後で、彼は歌を切った。
切った瞬間、小さな影の爪が彼の喉元をかすめる。イーリス殿は半歩退き、空の両手を開いたまま身をひねった。歌は止まった。だが床に残った声の薄い線は、すぐには消えなかった。小さな影の足が、その線を踏むたびに遅れる。
「今です」
ラウリ殿の槍が横へ薙いだ。樫の打撃部が二つの影をまとめて床へ叩き、穂先が三つ目の中心を突く。手首の化石が、濡れた音を挟んで鳴る。
大きな影が、再び動いた。
影が床へ落ちる。
一つではない。
右。左。正面。背後へ回る細い黒。どれも同じ速度で床を走り、どれも半呼吸後に実体が来そうに見える。さっきの読みでは足りない。右と言えば、左が来る。左と言えば、正面が来る。どれかが本物だという前提が、すでに遅い。
ラウリ殿の槍が中央へ戻る。
穂先をどこへ置いても、残りの黒が死角になる。イーリス殿の歌の余韻は小さな人型を遅らせているが、中央のものには届ききらない。舞台の板には同じ形の黒が四つ走り、水面にも二つ映っていた。上の四つと下の二つは、動く拍まで揃っている。
私は灯を見た。
舞台上の灯は赤に呑まれている。天井から吊られた複数の灯が別々の角度で床を照らし、黒の縁を濃くしたり薄くしたりしている。だが水際の低い灯だけは、波に揺れて上下する。その光を受けた硝子の濁りも、同じ幅で動く。床の黒が作る濃淡のうち、一つだけ、その揺れを受けていなかった。
濃さではない。
光への遅れだ。
時間が止まったように見えた。
止まってはいない。私の判断が遅れただけだ。
床へ落ちた多重の影を、灯の向きではなく砂時計の位置で見る。掲げた腕。硝子の赤。赤い光が硝子に入り、床へ薄い濁りを返す。その濁りに触れている黒だけが、縁を一度失った。
本物は、濃いものではない。
「読みを直します」
私は短杖を下げた。
「薄い方。正面ではありません。左奥」
ラウリ殿の槍が左奥へ向く。だが距離がある。大きな影はそこからさらに退く。舞台の中央から水際へ、黒い足が滑る。
イーリス殿が前へ出た。
彼は床を見ていた。舞台板を。水で濡れ、赤い光を吸い、さっきまで役者の足を支えていた板。切られ、釘で留められ、塗られ、死んだ木。
イーリス殿の口から、読めない古語が落ちた。
「עֵץ זָכַר、|קוֹל יָשֵׁן《コール ヤシェン》」
舞台板の木目が動いた。
絵ではない。光の揺れでもない。板の表面に走っていた古い筋が、眠っていた川のようにうねる。釘の周りが低く鳴り、死んだ木の継ぎ目が持ち上がった。大きな影の足元だけが沈む。退こうとした先の板が縦に立ち、黒い輪郭の背を塞ぐ。
由来は読めない。
ただ持ち上がった木の端が、赤い光を薄く削った。
ただ木が、彼の声に応えた。
「ラウリ殿」
「足りる」
ラウリ殿は槍を短く持ち替えた。穂先を前に、樫の打撃部を後ろに。次の瞬間には逆へ。両端が手の中で入れ替わる。大きな体の動きに遅れて、手首の鮫歯の化石が乾いた音を連ねる。
「アウ、来い ── 《アウ憑き / Marlin Possession》」
低い声が舞台へ沈んだ。
裂けた左袖の下で祭祀の刺青が青白く浮き、長い吻を持つカジキの輪郭が、肩から腕、槍の白い穂先までをひと息に走った。
ラウリ殿の踏み込みが変わった。
床板が軋むより先に、槍の穂先が走る。水面から細い飛沫が上がり、穂先の軌道へ沿った。刺突は一つに見えた。だが手元では、穂先と打撃部が二度入れ替わっている。一度目は足を止める。二度目は掲げた腕を下げる。三度目の突きだけが、影の中心へ届いた。
大きな影の輪郭が、内側から折れた。
声はない。
倒れる音もない。
ただ掲げられていた砂時計だけが、赤い光の中で遅れて離れた。
──────────────────────────────
砂時計が落ちた。
大きな影が崩れた後、掲げていた腕の形だけが薄く残り、その先から硝子の器が滑った。赤い砂が内側で濁る。金属枠が赤い光を拾う。落下の線は短いはずなのに、私の目には長く見えた。
ラウリ殿が槍を手放した。
白い穂先が舞台板を打つ。樫の打撃部が跳ねる。彼の両手が空になり、そのまま硝子を受ける。巨躯の掌の中に、古い金属枠が収まった。小さくはない器が、彼の手では小さく見えた。
金属枠の角が、裂けた左腕を支える掌へ食い込んだ。布の赤が広がる。ラウリ殿の膝が落ちかけ、舞台板を踏み直して止まった。受けた重さは器の大きさに合わない。彼の肩が沈んだ分だけ、手首の化石が触れ合って鳴った。
砂時計の中では、赤い粒がまだ走っている。
音は、ほとんどなかった。
割れなかった。
それだけで十分なはずだった。
砂が、上にも下にも流れていた。
上の硝子から下へ落ちる。下の硝子から上へ昇る。中央のくびれで二つの流れがぶつかり、赤い粒が霧のように濁る。向きが二つある。始点が二つある。終点がない。
私は見た。
見ても、欄にならない。
「読めません」
声に出した。喉が乾いている。
「ここから先は、私の外です」
ラウリ殿が私を見る。判断は短かった。彼は砂時計を私へ手渡した。金属枠は熱いのに、硝子だけが冷たい。熱は皮膚の上を刺し、冷たさはその奥へ沈む。内側で流れる砂の音が掌へ直接触れる。ざらざらと鳴るのではない。骨の内側を細かい粉で擦られるような音だった。
重い。
器としての重さではない。持つ者の肘を下げ、胸の前で抱え直させる重さだ。私は短杖を持つ指を一度開きかけ、開けないまま握り直した。
ラウリ殿は槍を拾い直した。
片手で柄を取り、もう片方で血の流れる腕を一度だけ締める。咳が出かけたが、彼は飲み込んだ。飲み込んだ後で、喉の奥に血が戻った音がした。
イーリス殿が私を見た。
その顔は、舞台の赤の中でも白い。整った顔立ちは崩れていない。慇懃な歌い手の顔のまま、喉だけが少し強張っていた。彼は空の両手を胸の高さで開く。
「ヴァロー殿。」
声は静かだった。
「ここから先、わたくしは声が出なくなるかもしれませんが――、それでもよろしければこの舞台に幕を下ろしましょう」
私は頷いた。
言葉にすれば遅れる。彼も答えを待たなかった。空の両手を開いたまま、一歩前へ出る。弓もない。楽器もない。残っているのは声だけだ。その声を、彼は舞台の中央へ置いた。
イーリス殿は空の客席へ深く一礼し、身を起こす勢いのまま両腕を天井へ向けて大きく掲げた。淡い緑の光が袖口と髪の縁から滲み、赤い舞台の上で、彼の輪郭だけを別の色に染めた。
「נֶצַח ── 《総休止 / Generalpause》」
宣言の後で、最初に砂の擦れる音が消えた。
無音。
それは一瞬だった。次に波が舞台の下を叩き、ラウリ殿の血が板へ落ちた。さらに遅れて、遠い泣き声が梁を渡ってきた。劇場の音は続いている。掌へ直接触れていた細かな擦過だけがなくなり、その不在がほかの音を遠ざけていた。
泣き声は一度だけ天井の高いところへ触れ、細くなって水面へ落ちた。距離は変わっていない。赤の勾配も消えてはいない。止まった器を抱く私の腕に、夜の続きだけが重さを返した。
私の手の中で、砂が止まった。
上へ流れていた粒も、下へ落ちていた粒も、くびれの真ん中で固まった。赤い霧が硝子の内側へ貼りつき、動かない。器は熱いまま。硝子は冷たいまま。私の掌の震えだけが、遅れて戻ってきた。
何が起きたのかは分からない。
観測できるのは、砂が止まったことだけだ。
赤が一段引いた。
劇場の白布が、白へ少し戻る。水面の赤い腹が痩せる。舞台中央に残っていた大きな影の輪郭は薄くなり、小さな影たちの縁も紙を水へ入れた時の墨のようににじんだ。
消えない。
通路の奥にはまだ黒がある。舞台袖の床にも、壁の縄の影にも、細い人型が残っている。港の方角だけ、遠くで赤がまだ濃い。私は一瞥だけして、目を戻した。遠景は遠景の欄に置く。
イーリス殿が息を吐いた。
声にならなかった。
もう一度、口を開く。喉が動く。空気だけが出る。彼はそこで無理に音を作らなかった。片手を喉へ当て、もう片方を舞台板へ下ろす。長い指が木目に触れた。木目はもう動かない。
「歌い手殿」
ラウリ殿が低く呼んだ。
イーリス殿は振り向き、頷いた。発話はない。
ラウリ殿の咳が今度は止まらなかった。肩が一度大きく沈む。口元を手の甲で押さえ、赤いものを拭う。腕の傷は布を濡らし続けている。槍を持つ手首の化石が、震えで小さく鳴った。
私のマナも底に近い。
短杖を握る指に、さっきの重さが残っている。掌の中心は砂時計で塞がっている。もう片方の手で杖を持てるが、詠唱を重ねれば次の一手は細くなる。細い線でも線は線だ。だが太い橋の顔をしてはいけない。
「ラウリ殿、通路を」
「俺が受ける」
「イーリス殿は中央へ」
イーリス殿がまた頷く。声はない。彼は舞台中央から少し後ろへ下がり、木目の立った場所を踏まない位置へ移った。喉を押さえる手はすぐ下ろした。
ラウリ殿は槍を構え直した。
穂先は通路へ。樫の打撃部は水際へ。どちらにも届く角度。巨躯の足元に血が落ちる。彼は血を避けず、足を置き直した。濡れた板が低く鳴る。
通路へ、影がまた滲んだ。
一つではない。薄い輪郭が壁から剥がれ、床の水跡へ落ち、また立つ。赤は引いた。砂は止まった。それでも影は続く。声のないイーリス殿が中央で両手を開き、ラウリ殿が槍を前へ出し、私は止まった砂時計を胸の前で抱えたまま、舞台と通路と水際の線を読む。
ここから先は、持久戦だ。




