赤き夜を駆ける
石畳が足裏で跳ねた。
港へ続く筋は赤かった。灯の赤ではない。火事の赤でもない。屋根の端と旗竿の先と逃げる人の頬を、下から薄く塗る赤だった。
俺は宿を出て三本目の筋を走っていた。腰の曲刀が鞘の中で腿を叩く。短剣の革帯が脇で鳴る。喉の奥に冷たい空気が刺さり、吐いた息が胸の下で熱に変わった。
靴底には、石の角が一つずつ返ってくる。乾いた石は硬く跳ねる。濡れた石は半歩だけ足を吸う。こぼれた果汁は甘く粘り、油は薄く滑る。踏み替えるたびに、街路が別の値段を足裏へ押しつけてきた。
ガイウスが左にいる。
重盾は背から下ろされていた。片手で革帯を掴み、もう片方で人波を割る。走り方は船乗りのものじゃない。山の獣が坂を下るみたいに、重さごと前へ落ちてくる。
少し前のことが、走りながら戻ってきた。
腹の底で音が鳴った。
耳では遅かった。まず卓の脚が鳴り、壁の皿が一枚落ちた。木の床が下から持ち上がり、酒の入っていない杯が端まで滑った。俺は椅子を蹴った。ガイウスは卓を片手で押し戻し、盾へ手を伸ばした。
誰かが外で叫んだ。
言葉にはならない。
次の瞬間には俺たちは外へ出ていた。戸口をくぐる時に、卓の角が膝へ当たった。痛みは残らない。残す値段じゃなかった。
正面から来た肩が胸へ当たった。
足裏で石が跳ね、宿の戸口は背中の奥へ消えた。
人の流れが正面から来た。
肩。
肘。
荷を抱えた腕。
火の入った小灯を掲げる手。
絹の幕を引きずる男。
片方だけ靴を履いた女。
逃げる人の足は同じ向きではなかった。誰かは港から離れ、誰かは横の筋へ折れようとしている。荷を捨てられない者は片腕だけが遅れ、子を抱えた者は胸から先に抜けてくる。赤い光の中で、顔よりも手の形が先に見えた。
荷の角が脇腹を擦った。濡れた麻袋の匂いが鼻を叩き、次の息で香辛料の粉が喉へ入る。逃げる人間は軽くない。抱えた箱も、背負った布も、捨てられないものほど重い。人波は正面から来るだけでなく、横からも背中からも絡みついた。
子供を抱えた老人の足が石畳の欠けに引っかかり、後ろの若者が腰を掴んで引き上げる。誰かの籠から果物が落ちる。丸い実が坂を転がり、俺の靴先で潰れた。甘い匂いが一瞬だけ立つ。
灯を掲げた手が揺れた。
油がこぼれ、火は消えずに石の上を細く舐めた。俺は踏まない。踏めば滑る。横へ半足ずらすと、濡れた土と果汁が靴底の溝へ入った。足が一拍だけ重くなる。
「レオンは」
俺は人の肩を避けながら言った。
「租借区だ」
ガイウスの返事はそれだけだった。
十分だ。
俺は低い荷車の軸を踏み、屋台の支柱へ手をかけて横へ抜けた。濡れた布が顔へ貼りつく。払いながら進む。ガイウスは避けない。避けるのではなく、当たる前に相手の荷を押し返し、人の足が残る幅だけ作る。
老婆が小箱を抱えたまま立ち止まりかけた。ガイウスの盾の縁が箱の角に触れる前に、俺は肘を入れて箱ごと横へ流した。文句は来ない。言葉より先に、次の人の背が押してくる。
人波は川じゃない。
網だ。
一度絡むと足を取られる。俺は網目を探し、ガイウスは網ごと押す。やり方は違う。向きは同じだった。
泣き声が遠くで揺れた。
届いたと思った次の息で切れる。次に石畳が震え、その後で屋根の瓦が鳴る。音の順番が悪い。光が先で、震えが次で、声が最後に来る。海なら風が先に教える。帆が先に答える。だが今夜の風は、港の方角を指さない。
俺は鼻で空気を吸った。
潮。
油。
酒。
踏まれた果物。
焦げた布。
人の汗。
それだけだ。
風が読めない。
見えているものと足裏へ来るものと耳へ来るものが、同じ値段で並ばない。銭を三つ置いたら、どれも別の屋台の釣りを返してくる。そういう嫌な乱れ方だった。
風は背を押すでもない。
横から切るでもない。
熱い場所と冷たい場所が筋の中で入れ替わる。角を曲がれば港の匂いが濃くなるはずなのに、古い井戸の底みたいな湿りが鼻へ来る。足裏の震えだけが前から来て、耳の奥では遅れて泣き声が膨らむ。
一つの路地は蒸し風呂みたいに熱く、次の軒下は急に肌が冷えた。火のない赤が、体温だけを間違えさせる。額の汗は冷たいのに、胸の奥だけが煮える。人の吐く息と潮と土の湿りが、筋の中でぶつかっていた。
「読めねえ」
「何が」
「風だ」
「なら目で見ろ」
ガイウスは走ったまま言った。
そういう男だ。
坂の上で筋が切れた。
屋根が低くなり、港へ下る広い通りが一瞬だけ見えた。赤い光がそこに溜まっている。屋根越しに、何かの背が動いた。
でかい。
屋根より高い肩。丸く膨れた胴。手とも脚ともつかないものが石を掻いている。遠すぎて顔は赤の向こうに潰れ、どちらが前かも分からない。柔らかい全身だけが港の灯へ這っていた。
肩の下で瓦がずれた。
ひとつの屋根が波をかぶった船みたいに沈み、次の屋根が持ち上がる。赤い光は背の下から漏れていた。火ではないのに、影だけが燃えた後みたいに濃い。
全身が見えたのは、その一度だけだった。
次の屋根が視界を塞ぐ。
俺の足が速くなった。
考えが追いつく前に、足が先に値段を払った。腰の曲刀が鞘の中でまた腿を打つ。手は柄へ行きかけたが、走るのに邪魔だ。指を離し、代わりに短剣の革帯を押さえた。
背中の汗が冷えた。
靴底はもう人の落とした物を選ばない。割れた皿。濡れた布。細い木片。踏めるものだけが足の下へ来て、踏めないものは腰が勝手に避けた。
「兄貴」
「ああ」
「乗るぜ」
「落とすな」
「乗れ ── 《疾風走り / Wind Stride》」
足裏へ風が噛んだ。
石畳の欠けが低くなる。人の肩の間が広くなる。俺は屋台の布を蹴り、灯籠の吊り縄を潜り、転げた樽の上を踏んだ。ガイウスの重さが隣で半歩遅れる。それでも遅いだけだ。あの盾は、落ちてくる岩みたいに必ず来る。
風は味方の顔をしていない。
それでも足へ噛んだ分だけ、俺は前へ出る。肺が広がり、喉の痛みが薄くなる。代わりに腿の裏が熱を持った。ガイウスの靴音は後ろへ落ちず、半歩のまま横に残る。
赤い光が強くなるほど、足元の影は黒く細くなる。影の隙間へ足を置き、踏み切る。濡れた石の返りだけは最後まで嘘をつかない。俺はその硬さを拾って、港の赤へ折れた。
──────────────────────────────
曲がり角の先で、逆向きの影が正面から来た。
俺は最初に武器を見た。潮鎚。長い黒髪。開いたローブの前。白い聖剣の鞘。若い海守りの肩。最後に、金髪の顔。
レオンの顔だった。
息が喉で止まった。
顔色は悪い。目の下に影がある。唇の色も薄い。だが立っていた。足は石の上にあり、腰には剣があり、こちらを見ていた。
「待たせたな、勇者様」
「ヴェスタ。ガイウス」
声は短かった。
いつもの熱が半分削れている。残った半分で立っている声だった。
蒼凪はレオンの少し後ろにいた。視線は俺たちではなく、筋の奥と屋根の崩れと人の流れを行き来している。ヒュウマはその隣で潮鎚を低く持ち、逃げる人の肩がぶつからない幅を作っていた。
近づいたせいで、赤い光は遠景ではなくなった。
建物の影が赤く縁取られ、石畳の割れ目にも薄く色が溜まっている。泣き声が来るたび、その赤が揺れたように見えた。実際に揺れたのは、俺の膝かもしれない。
筋の奥で、腕の一本が屋根の間へ滑り出た。肘から先だけで家の間口を塞ぎ、石へ置かれた掌は荷車より大きい。指の脇では、別の指が柔らかな肉へ沈みかけていた。
泣き声が来た。
さっきまで風に拾われていたものが、ここでは石の下から来る。低い。腹へ落ちる。胸板を内側から押され、膝が笑った。
俺の手は腰へ行った。
曲刀の柄。
革の巻き。
カシラの形見の重さ。
抜く前に足が出た。
「ヴェスタ!」
レオンの声が刺さった。
俺の足が止まる。止まったというより、石へ縫い付けられた。レオンは一歩こちらへ寄った。肩で息をしている。それでも目だけは曲がらない。
「刃を向けるな。攻めた奴から止まる。蒼凪殿の言葉だ。怒ってもいい。怖くてもいい。ただ、あれにぶつけるな」
レオンは肩で一度、息をした。
「『感情を与えるな』。そういうことだ」
句だけが硬かった。
前後の言葉はレオンのものだった。けれどその一句だけ、別の刃みたいに真っ直ぐこちらへ来た。俺はまだ柄を握っていた。革が掌の汗を吸う。奥歯が鳴りそうになる。
蒼凪は同じことを言わなかった。
ただ俺の手を見た。
次に筋の奥を見た。
柄に掛かった指が浮いた。
汗を吸った革が掌から離れる。曲刀は初めから鞘の中にある。手は盾の横の空間へ落ち、そこで短剣の革帯に触れた。刃の重さが腰へ戻り、足だけが前を向いた。
ガイウスが盾を下ろした。黒鋼が石へ触れ、重い音を落とす。
「殴らん。壁なら作れる」
言葉が短い。
短いほど重い。
盾の縁が半歩、俺の前へ入った。ぶ厚い黒い面が、赤い光を少しだけ切った。ガイウスは俺を見ない。見ないまま、低く言った。
「間に来い。教えてやる」
俺は言い返さなかった。
俺は盾の横へ入った。左肩のすぐ前に黒鋼の縁がある。右には空いた筋がある。前には赤い光がある。盾の陰に入ると、泣き声は遠くならないのに胸へ来る圧だけが少し変わった。
ガイウスの足は広い。
右足が石の割れ目を踏み、左足が濡れた土を押す。盾は前だけを塞いでいない。俺が抜ける細い幅と、人が逃げる広い幅を同時に残している。殴るための立ち方じゃなかった。
黒鋼の横には、肩一つぶんの空きがある。広すぎれば人が流れ込む。狭すぎれば俺が出られない。盾の角度は、泣き声で膝が緩む人間の逃げ道まで数えていた。
蒼凪の声が落ちた。
「右の筋へ流す。奥の口を塞ぐ。人は左」
「了解しました」
ヒュウマが短く返し、逃げる二人の間へ身体を入れた。潮鎚の柄を斜めに立て、押されて倒れかけた男の背を受ける。盾ではない。柄と肩と足の置き方で、そこに岸を作っている。
若い母親の肩がその岸へ当たり、転ばずに左へ流れた。ヒュウマの手は母親を掴まない。潮鎚の柄を少し寝かせ、抱かれた子の足がぶつからない高さへ逃がす。子の靴の泥だけが柄に付いた。
レオンは避難列の側へ出た。
「港へ行かない。左だ。灯の少ない方へ!」
声は大きい。だが続かない。言い切った後で胸が沈む。すぐに次の人へ手を伸ばした。
蒼凪の視線が短く動く。
筋の奥。
屋根の欠け。
逃げる人の肩。
ガイウスの盾。
そこへ俺の足が乗る。言葉にする前に、次の形が出来ていく。俺は倒れた屋台の台を蹴り、ガイウスの盾の右から前へ出た。後ろでヒュウマの潮鎚が石を擦る音がした。レオンの声が左でまた短く上がった。
一団の走りが組み変わる。
前を俺が拾う。重いものをガイウスが受ける。人の肩をヒュウマが流す。蒼凪の目が空いた筋を選び、レオンの声がそこへ人を送る。赤いものはまだ筋の奥だ。けれど近いものの圧は、もう背中に指を掛けていた。
足音の数が変わった。
ばらばらだった靴音が、盾の重い音と潮鎚の擦る音を芯にして並び直す。逃げる足はまだ震えている。荷も落ちる。誰かの声も割れる。それでも、行き場のない音ではなくなった。
走り直した。
──────────────────────────────
白い袖が赤い粉の中から出てきた。
最初に見えたのは袖だった。次に担架布。最後に、肩から斜めに掛かった包帯袋。袋は見た目より重そうで、カイの身体を片側へ少し引いている。白い布に赤い粉が付いていた。息は乱れているが、目はまっすぐだった。
「カイの兄ちゃん。その袋、船底の石かよ」
口の端だけが戻った。
半分だけだ。
カイは袋を押さえ、こちらへ来た。
「包帯です。少し、重くなりました」
「だろうな」
それ以上は軽くならなかった。
カイの後ろからも人が流れてくる。腕を押さえた男。額を布で巻いた女。泣く子を抱えた若い父親。教会の方から来た流れと、港から逃げる流れが同じ辻でぶつかっていた。カイはその逆を辿ってきたのだと、足の向きで分かった。
靴の先には赤い粉が厚く付いていた。
白い袖の内側にも、細かい土が入り込んでいる。包帯袋は一度どこかへ置かれた跡があり、底の布が湿っていた。走って来た者の荷ではない。拾い上げ、詰め直し、また肩へ掛けた荷だ。
袋の紐は肩へ食い込み、白い衣の下で布を斜めに引いている。カイの手首だけが、袖口から熱を持って見えた。包帯を運ぶ手は震えていない。震える暇を、指がまだもらっていなかった。
「負傷者が支部へ来始めました。私は先に出ました」
「正解だぜ。ここは魚箱がひっくり返ってる」
「箱なら、まだ戻せます」
レオンが短く言った。
「ヴァローの見立てだ。劇場へ戻った三人が向こうで動いている」
「三人」
カイが受ける。
「俺たちは人の流れを空ける。あれの進む先も空ける」
それだけだった。
言葉は足へ落ちた。
人を逃がす。
進む先を空ける。
俺の目は辻の石へ戻った。逃げる足が滑る場所。荷が詰まる場所。曲げれば空く場所。包帯袋の紐が鳴り、カイの手が袋の口へ掛かった。
蒼凪が辻の奥を見た。
「壁際、止まっている」
カイが先に動いた。
崩れた屋台の横に、港の人足らしい男が立っていた。片手には麻縄の束。腰には鉤。足は石の上にある。逃げる人が横を抜けても、肩が触れても、男は動かない。
顔の前に薄い硝子の照りがあった。
灯を反射しているのではない。赤い光も、周りの火もそこだけ別の角度で返っていた。男の目はその奥へ沈んでいる。
縄を握る指は固まっていた。
麻の繊維が爪の脇へ食い込んでいる。鉤の先が揺れず、帯の金具だけが逃げる人の風で小さく鳴った。肩は立っている。膝も折れていない。けれど歩く場所が、男の足の下から消えているみたいだった。
指の節は白く、縄の湿りが皮膚へ移って黒く見えた。赤い粉が爪の間で固まり、手の甲に細い裂け目を作っている。あの手は、さっきまで何かを結ぶ手だった。今は結び目の中に閉じ込められている。
「聞こえますか」
カイが近づく。
返事はない。
「手を見せてください。痛むところがあれば、私が見ます」
男の指は縄を握ったままだ。指先の色が白い。呼吸はある。胸は動いている。だが声の行き場がない。
カイは男の手首へ触れた。
「Sanctus ── 《浄化の手 / Purifying Touch》」
白い光が指の間で広がった。
温かい色だった。教会の灯に似ている。朝課の時間を知らない俺でも、目をそらす色ではなかった。
光は男の手首を包み、肘へ薄く流れた。
顔の前の照りは残った。
カイの手が離れない。
祈りの声も続かない。カイは男の名前を知らない。男は返さない。白い袖だけが赤い粉の中で揺れ、触れた手の形を保っていた。
男の胸は動いている。
それだけは動いている。
逃げる人の影が何度も横切り、顔の前の照りに赤い線を置いていく。白い光はその線をほどかない。手首の上で細く残り、カイの指の間で静かに薄くなった。
白い祈りは柔らかい。けれど男の顔の前にある反射は硬い。刃ではないのに、光をはね返す角があった。カイの指先の温度だけが男の脈を探り、赤い照りはその少し上で冷たく残っている。
「カイ」
レオンが呼んだ。
カイは手をゆっくり離した。男の縄を、落ちても足に絡まない位置へ移す。それから近くの係員に目で合図した。係員は震えたまま頷き、男の周りへ人がぶつからない幅を作る。
カイは戻ってきた。
その目がレオンへ止まった。
一度だけだ。
長くは見ない。けれど神官の目は、包帯を巻く前に傷の深さを測る。レオンの肩。頬。剣を下げる手。そこへ視線が止まり、すぐに袋の口へ戻った。
俺も見た。
勇者様の胸の上下が少し速い。立っている位置は正しい。正しいが、余裕の分だけ削れている。俺の視線はそこへ留まり、すぐ前へ外れた。
カイの視線もレオンの横顔から剣の鞘へ落ち、次の負傷者の腕へ移った。
包帯袋の紐が鳴る。
「負傷者はこちらで受けます。動ける方から、順に」
声は柔らかい。
柔らかいまま、足は止まらない。
カイは袋を腰の前へ回した。片手で口を開き、片手で布を引く。布の端が赤い粉を払って白く出る。近くの女が腕を差し出し、カイは膝を落として高さを合わせた。祈りが届かなかった手の形は、次の傷へそのまま移る。
女の腕には細い石片が刺さっていた。カイの指が布を当てると、女の肩が遅れて震えた。包帯の白はすぐに赤を吸い、赤い粉とは違う湿りへ変わる。カイは結び目を作り、余った端を邪魔にならない長さに折った。
ヒュウマが辻の奥で人を抱え上げる。ガイウスが盾を前へ出す。蒼凪の視線が次の筋へ飛ぶ。レオンが人の流れを曲げる。
三つ目の持ち場が立った。
俺は短剣の柄を確かめ、前へ出た。
──────────────────────────────
屋根の切れ目で、赤い肩が横切った。
全身ではない。
屋根より上にある柔らかい肩だけ。そこへ何本かの腕が絡み、瓦の列を押した。瓦は一枚ずつ落ちない。屋根の端ごとめくれ、下の木組みが折れた。粉塵が赤い光を吸い、街路へ垂れた。
泣き声が戻った。
さっきより近い。耳ではなく歯の根に来る。逃げる人の足が一度重くなる。子供の泣き声はその下へ沈み、人の怒号も短く切れる。
蒼凪が立ち止まらないまま言った。
「左の口。人を抜く。ガイウス、奥」
「ああ」
「ヴェスタ、先」
「任せろ、賢者様」
「ヒュウマ、右の影」
「行きます」
言葉はそれだけだった。
俺は先へ出た。屋台の骨を踏み越え、折れた柱の下を潜る。風はまだ読みにくい。だが瓦礫の中の空気は別だ。崩れた隙間から抜ける息なら、海賊の船倉でも読んできた。
倒れた屋台の脚が斜めに突き出ていた。
俺は膝を畳み、肩を先に通す。曲刀の鞘が木へ触れそうになり、腰を捻って抜けた。背中を粉塵が擦る。喉へ石の味が入る。吐き捨てる暇はない。
建物の肩が崩れた。
音が先に来ない。
壁の上が赤い粉になり、次に梁が落ちる。最後に足裏へ衝撃が来た。石畳が下から跳ねる。逃げる人の列が右へ寄る。誰かが荷を落とす。鳴った鍋が転がり、ガイウスの盾へ当たって止まった。
粉塵の下に、空気の細い動きが二つあった。
片方は浅い。
もう片方は途切れ途切れ。
「下だ。二人!」
俺は叫んだ。
ガイウスが盾を傾ける。ヒュウマが潮鎚を背から抜く。蒼凪の視線が瓦礫の線を一つ飛ばし、残った壁の角へ止まる。
「右から掘る。上は支えろ」
「重いな」
ガイウスが短く言った。
俺は崩れた板の隙間へ手を入れた。熱い。石の粉が爪の間に入る。奥で誰かの指が動く。生きている指だ。俺は短剣の柄で板の割れ目をこじる。ヒュウマの潮鎚の尖端が石の継ぎ目へ入り、低い音で割った。
板の下は狭い。
指が動いた場所へ、俺の手はまっすぐ入らない。掌の皮を擦り、手首を横に倒す。爪の先が布へ触れた。布の向こうで肘らしい骨が跳ねる。息が一つ返ってきた。
瓦礫は手を嫌う。割れた板の毛羽が掌へ刺さり、瓦の縁が指の腹を削る。力を入れると滑る。抜くと奥の息が遠くなる。俺は短剣の柄を噛ませ、石と木の間へ肩の重さを預けた。
頭上で梁が鳴った。
乾いた音だった。
ガイウスの肩が、ほんの少し遅れた。
遅れはそれだけだ。
次の瞬間には盾が梁の下へ入っていた。黒鋼の縁が木を受ける。ガイウスは膝を落とし、盾の下端を石へ噛ませた。靴底が粉を押し退ける。腰が沈む。腕が動かない。
《不動の構え》だった。
詠唱はない。
梁の重さが盾へ乗る。木がきしむ。ガイウスの首の筋が浮いた。歯は噛まない。声も出さない。盾と腕と脚だけで、落ちる時間を止めている。
梁は止まったように見えて、細かく震えていた。盾の縁から木屑が降る。ガイウスの肘の下で革帯が伸び、肩の布が引き裂ける。足の甲へ瓦が落ちても、膝の高さは変わらない。
盾の黒い面に梁の重さが沈んでいく。木と鋼の間で、湿った粉がすり潰される匂いがした。ガイウスの足元の石は細く割れ、割れ目へ土が詰まる。あの一枚が沈めば、下の呼吸も潰れる。
「出すぞ」
俺は板を跳ね上げた。
一人目は若い女だった。額に血。息はある。俺は肩の下へ腕を入れ、瓦礫から引きずり出す。曲刀の鞘が石に当たる。邪魔だ。鞘ごと腰へ押しつけ、左腕だけで女を抱えた。
女の髪に細い木片が絡んでいた。
払わない。
払う手があるなら肩を支える。俺は腰を落として女の足を瓦礫から抜いた。靴が片方ない。踵が石へ当たり、かすれた息が漏れる。生きている息だ。
白い袖が受けた。
カイは言葉を足さない。膝をつき、女の頬へ手を当てる。光が短く灯る。袋から包帯が出る。指が動く。袖口に赤い粉が増える。
二人目は小柄な男だった。
胸の上に梁の破片が乗っている。俺一人では抜けない。ヒュウマが索具を投げた。縄が男の脇の下へ回り、潮鎚の柄が支点になる。ヒュウマは腰を落とし、引くのではなく浮かせた。水面から人を上げる時の動きだ。
索具は一度で決まらない。
粉で滑り、男の肘の下へずれた。ヒュウマは潮鎚の柄を半寸だけ寝かせ、縄の角度を変える。柄の広い面が瓦礫へ当たり、石の欠片が飛んだ。男の胸が一度大きく沈む。
縄は湿っていた。粉と汗を吸って、手の中で太く感じる。ヒュウマの指が結び目を押さえ、潮鎚の柄に縄を噛ませる。引く向きを少し変えるだけで、男の身体へ来る痛みの形が変わる。ヒュウマはそこを見ていた。
「合わせます」
「こっちだ」
俺は男の肩を掴んだ。
ヒュウマが息を吐く。索具が張る。男の身体が瓦礫から滑った。俺の腕へ重さが来る。カイの方へ渡す前に、落ちてきた小石が背へ当たった。
それで終わりじゃなかった。
上から瓦の列がほどけた。小石ではない。割れた瓦と細い木片が、梁の下で手を動かすガイウスと男を受けるカイの間へ散った。カイの手は男の首へ向かっている。ガイウスの盾は梁から外せない。
俺の右手が空いた。
短剣では届かない。
「逸らせ ── 《風払い / Windward Guard》」
風が刃にはならず、皮膚を横から叩いた。
落ちてきた瓦の角が半歩ずれる。木片はカイの袖を掠めず、石畳へ斜めに刺さった。粉塵だけが顔へ来る。ガイウスの首筋へ落ちるはずだった破片は盾の外へ流れ、黒鋼の縁で割れた。
俺の掌が痺れた。
風の形は見えない。見えたのは軌道が変わった物だけだ。カイの指は止まらず、男の首へ触れた。ガイウスの膝も落ちない。ヒュウマの索具が緩まず、俺の腕へ男の重さが残った。
カイが俺の肩へ触れた。
「Benedictio ── 《祝福の盾 / Blessing Shield》」
薄い光が皮膚の上を走った。
服の下で温度だけが一枚増える。俺は男を抱え直し、カイへ渡した。カイの指が男の首へ触れる。呼吸を確かめる。次に手のひらが胸へ置かれた。
「Sanctus ── 《浄化の手 / Purifying Touch》」
白が揺れた。
蒼凪とヒュウマが、一枚の静かな絵みたいに見えた。
赤い粉の向こうで、蒼凪の目が人の流れと崩れる屋根の間を往復していた。ローブの前が風で開き、鍛えた胸に赤い光が滑る。指先が動くと、近くの係員がその方角へ走った。
蒼凪の靴はほとんど動かない。
動かないのに、周りの人だけが動いていく。倒れた屋台の脚へ係員が縄を掛ける。肩を押された老人が左へ抜ける。怪我人を抱えた若者がカイの前で膝をつく。蒼凪の視線が移るたび、空いた場所が先に見つかる。
ヒュウマはその半歩前にいる。
潮鎚の広い面で落ちた柱を横へ受け、尖端を石の割れ目へ差す。索具が腰からほどけ、二人の男の腕へ回る。あの場所だけ、人が倒れない。
「蒼凪さん、右は持ちます」
「任せる。次は奥」
「はい」
短い。
それだけで右の空きが埋まる。
蒼凪の指が奥の街路を指した。
「ガイウス。そこの口」
ガイウスが梁を捨てるように離れた。捨てたのではない。ヒュウマが潮鎚の柄を差し、木の重さを一呼吸だけ受けた。その間にガイウスが前へ出る。
盾の下端が石を割る。
ガイウスは片膝をつき、人が抜けた後の街路の口へ盾を向けた。赤い肩はまだ屋根を三つ挟んだ先にある。
「立て ── 《土壁 / Earth Wall》」
石畳の継ぎ目から土が持ち上がった。
乾いた土ではない。港の下の湿った黒い土が、石を押し上げる。低い壁がまず腰まで立ち、次に人の背より少し高くなる。端は荒い。真ん中は厚い。街路の口を塞ぐには足りる。
土の匂いが急に濃くなった。
海のそばの土だ。湿っていて、古い藻と錆びた釘の匂いが混じる。石の下にあった冷えが表へ出て、足首にまとわりついた。赤い光を浴びても、壁の表面だけは暗く濡れていた。
壁の向こうは空いた筋だった。
人はいない。灯も少ない。さっきまで逃げ遅れた荷車があったが、ヒュウマの索具で横へ寄せられている。土壁はその口だけを塞ぎ、左右の屋根には届かない。上には赤い空が残っていた。
ガイウスの息が重くなった。
「そう何枚も立たん」
「一枚の値段が高いな、兄貴」
「なら安い物を足せ」
「得意だぜ」
俺は走った。
祝祭の綱が頭上を横切っていた。幕。紙灯。幟柱。港の夜を飾るはずだったものが、赤い光の中でまだ揺れている。倒せば空の道を塞げる。綱や幕の真下には低い屋根と空の筋があり、赤い肩は二軒向こうを這っていた。
短剣の柄へ指を掛けた。
曲刀は腰で重いまま、鞘の中から動かない。
短剣を抜いた。
一本目の綱を切る。乾いた麻が弾ける。幟柱が軋み、屋台の残った屋根へ倒れた。二本目。幕が落ちる。三本目。吊り灯の列が斜めに沈み、低い屋根の間を塞いだ。
切った綱の端が頬を打った。
麻の毛羽が皮膚へ刺さる。吊り灯の油が散り、火の消えた硝子が足元で割れる。俺は破片を踏まない。屋台の梁へ着地し、沈む前に次の支柱へ飛んだ。
「賢者様、倒せる!」
「左二本。奥の幕も」
「高くつくぜ」
「後で請求しろ」
蒼凪は説明しない。
指すだけだ。
俺は笑わなかった。短剣を逆手に持ち替え、足場の悪い屋根の縁へ飛ぶ。風はまだ信用できない。だから足で読む。瓦の浮き。梁の向き。布の重さ。切った後に倒れる角度。
奥の幕は濡れていた。
夜露ではない。誰かが運んでいた水が掛かったのだろう。布は見た目より重く、綱を切ってもすぐには落ちない。俺は支柱へ足を掛け、短剣をもう一度入れた。繊維が粘り、刃の根がきしむ。
濡れた幕から、古い染料と水桶の匂いが立った。布の端は指へ貼りつき、引けば爪の下まで冷える。落ちた幕は石を叩かず、重い魚みたいに潰れて街路へ広がった。
奥で人の列が詰まった。
レオンが走った。
「頭を下げろ!」
避難者の上、崩れた二階から大きな梁が滑り出した。誰かが見上げる。遅い。梁は赤い粉を引きながら落ちてくる。真下には子を抱いた女と、荷車を押す男がいる。
レオンの手が聖剣の柄へ行った。
初めて、鞘が鳴った。
柄の根には、切れた封緘紐の片端だけが残っていた。もう片端は柄にも鞘にもない。レオンはそれを見ない。剣を抜き、振り向きざまに火を乗せた。
「Ignis ── 《焔刃 / Flame Edge》」
炎の刃が飛んだ。
赤い夜の赤とは違う。もっと鋭い火だった。梁の端を焼き切り、落ちる角度を変える。大きな木片は二つに分かれ、避難者の頭上を越えて左右の壁へ落ちた。火の粉が赤い光に混ざる。焦げた木の匂いが鼻を刺した。
レオンの剣は、落ちてくる物へだけ向いていた。
次の声は出なかった。
俺がさっき引き出した男の一人が、カイの膝の前で横になっていた。胸は動かない。首に当てたカイの指が止まった。
白い光が、手の中で揺れる。
カイの唇が少し動いた。声にはならない。もう片方の手は包帯を掴んだまま、ほどく途中で止まっている。近くで別の子が泣く。係員が負傷者を運ぶ。ヒュウマが柱を支え直す。レオンが人を左へ送る。
男の手だけが、石の上で動かなかった。
火の粉が一つ落ちた。
男の指の横で消えた。
カイの光は手の中に残っている。残っているのに、男の胸は持ち上がらない。俺は屋根の縁からそれを見た。足の下で濡れた幕がずれる。短剣を握る指に力が入った。
カイは包帯を置いた。
次の負傷者へ手を伸ばした。
その手は、さっき止まった形からそのまま動いた。白い袖の先が粉を払い、別の肩の下へ入る。光は短く沈み、また別の皮膚の上で細く灯る。男の手だけが石に残り、周りの足音は止まらない。
泣き声が壁を越えて来た。
赤ん坊の形をしたものが、土壁のある筋の手前へ来ていた。壁との間には、まだ家二軒ぶんの石畳がある。屋根の間から見える肩と腕だけが、土の立つ口へ近づく。
誰も前へ出ない。
レオンは剣を下げたまま、人の列を押す。ガイウスは次の壁を立てる場所を探す。ヒュウマは索具を巻き直す。蒼凪は壁と空いた筋を見ている。俺は短剣を握ったまま、次の綱の位置を目で拾う。
前へ伸びた手の一つが、壁まで半軒を残して石を掻き直した。
丸い胴の向きがゆっくり変わる。壁のない街路の空が、その先だけ暗く開いていた。赤い光はそちらへ伸び、屋根の影が横へ流れた。
柔らかい重さは空いた筋へ逸れていく。
人のいない筋だ。さっき幕を落とした向こう側。灯の少ない方。土壁はそのまま街路の口に立ち、泣き声だけが上を越えて来る。壁は声を止めない。足音も震えも、石を伝ってこちらへ残る。
空いた街路は、思ったより広かった。
両脇の家は古く、戸板は閉じている。落ちた幕が濡れた屋根の間で沈み、吊り灯の消えた硝子が赤を鈍く返す。焦げた梁の匂いと湿った土の匂いがそこで混ざり、逃げる人の汗だけが少し遠のいた。
勝ちの声は出ない。
泣き声だけは、壁を越えたままだった。
「次」
蒼凪が言った。
「奥の口。倒せる物を倒す。負傷者はカイへ」
「壁は」
ガイウスが聞く。
「一枚で足りる。足りなければ布で足す」
「なら動ける」
「ヒュウマ、右の二人」
「拾います」
「レオン、列を左へ」
「任せろ」
俺は短剣を指の中で回した。
塞ぐ。
倒す。
引く。
渡す。
手順は単純だ。単純なほど、止めたら終わる。俺は低い屋根へ飛び、幕の濡れた端を掴む。赤い粉が掌へ貼りつく。背中でガイウスの盾が鳴る。左でレオンの声が走る。右でヒュウマの索具が張る。後ろでカイの白い袖がまた膝をつく。
幕は重い。
水を吸い、粉を吸い、人の手の脂まで吸っている。俺は短剣で端を裂き、柱へ絡んだ綱を足で外した。布が落ちる時、下の石が見えなくなる。そこに人がいないことだけを確かめ、俺は次の縄へ手を伸ばした。
綱は濡れていて、指の中で膨れていた。麻の毛羽がふやけ、切るたびに刃へ絡む。短剣を引く。繊維が鳴る。もう一度引く。切れた端が手首へ巻きつき、ほどく前に次の支柱が軋んだ。
ガイウスの盾がまた鳴った。
今度は梁ではない。逃げる荷車の車輪が盾へ当たり、跳ね返らずに止まった音だ。レオンの声がすぐ横から左へ流す。ヒュウマの索具が荷車の軸を捕まえる。カイの白い袖が、倒れた女の肩の下へ入る。
盾の音。
索具の音。
足音。
泣き声。
どれも終わらない。男の動かなかった手は、石の上に残ったままだ。けれど別の手が伸び、別の肩が上がり、別の足が左へ逃げる。俺の掌には麻の湿りが残り、短剣の刃には布の繊維が絡んでいる。
石畳は、次の足を待っていた。
俺の手は、まだ次の縄を探していた。




