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群青幻想  作者: 滄龍 青司
CantoⅡ
128/133

耳を裂く産声

 半分だけ残っていた笑いが、喉の奥で止まった。


 俺は舞台の際にいた。低い柵の内側、仮に渡された板床の上。客席の熱と水の冷えが、前と後ろから同時に押してくる場所だった。濡れた木の匂いに、化粧油と灯油の甘さが混じっている。足裏の板は薄く湿り、踏むたび水の上へ置かれた板らしく沈んだ。


 ヴァローは俺の右にいる。紙挟みはもう見えない。片手だけが外套の胸元から離れて、重心を走れる位置へ置いていた。長い袖の端も揺れていない。目だけが、舞台と客席と出口の距離を冷たく往復している。


 警告は届いた。


 届いたからこそ、場は半呼吸だけ遅れた。客の何人かは笑いを残したまま口を開け、係員は手順の途中で固まった。誰もまだ次の足を出していない。手拍子の余韻だけが、天井の梁のあたりに薄く残っていた。


 その遅れへ、世界の方が踏み込んだ。


 床が下から跳ねた。


 板が鳴ったのではない。水上劇場を支える杭も、下の水も腹を突き上げられた。踵が板から一瞬離れ、膝が遅れて衝撃を拾う。椅子の脚が一斉に滑り、磨かれた床を引っかいた。灯の入った吊り具が揺れる。舞台の布が横へ振れ、金具の列が乾いた音を撒いた。


 床下で水がぶつかった。押し上げられた水圧が板の継ぎ目を叩き、釘の古いところから短い悲鳴みたいな軋みが出る。梁が一本、別の梁と噛み合わない音を立てた。足裏に返ってくる揺れが、横ではなく下から来る。


 次に、遠い崩落が来た。


 劇場の外。保税庫の方角。木材と石材と、積まれた荷の重みがまとめて落ちる音だった。家一つではない。倉の腹が割れ、中身を吐き、隣の壁まで引きずって倒れる音。低い轟きの後に、細かい破片が遅れて落ちる音が続いた。


 それを追って、産声が租借区を裂いた。


 赤子の声に似ていた。


 けれど小さくなかった。助けを求める高い声でもなかった。耳の穴から入る前に、頭蓋の内側を引っかく。歯の根が震え、目の奥へ赤い針を入れられたように痛む。水面へ声が落ち、劇場の下で幾重にも跳ね返した。足裏からも同じ声が上がってくる。耳と板と骨が、別々の場所で同時に聞かされていた。


 さっきまで係員が叫んでいた手順が、そこで消えた。


「置く」と言いかけた男は、台の上の道具を抱えたまま膝をついた。膝が床に当たる音だけが、やけにはっきりした。


「照らす」と続けるはずだった女は、灯を掲げた腕を落とし、火皿の赤を床へ近づけた。灯油の匂いが一段濃くなる。


「数える」と数札を握っていた若い係員は、札を掌の中で折った。木の薄い音がした。誰も数えなかった。


 客席が動き出した。


 悲鳴より先に、椅子が倒れた。横列の客が一斉に立つ。肩と肩がぶつかり、細い通路が詰まる。低い柵へ腰が当たり、柵の向こうの水がすぐ近くで黒く揺れた。落ちれば舞台の下へ吸われる。泳げるかどうかの話ではない。人の足と板と倒れた椅子が、上から降ってくる。


 俺は最初に出口を見た。


 左手奥の桟橋。客席の後ろを抜け、劇場の外へ出る細い首。そこへ人が集まり始めている。右には水。正面には舞台。後ろには崩れた椅子の列。退路は一本ではないが、使える道はすぐ一本になる。


 次に人の重心を見た。


 柵際の客は水へ傾く。中央の客は出口へ押す。舞台寄りの係員は道具を抱えたまま動けない。利き手に荷を持っている者ほど、倒れた時に受け身を取れない。悲鳴を上げる者より、声も出さずに目だけ開いている者の方が危ない。


 俺は左肩から入った。


 倒れた椅子を蹴って戻す。足元の板は濡れていた。赤い灯の油か水か、判じる暇はない。滑る前に踵を浮かせ、膝で吸う。腰の聖剣の柄が肋へ当たった。封緘紐が一度跳ねる。抜けない剣の重さが、今だけやけに明瞭だった。


 関係者席の方が視界に入った。


 蒼凪殿が立っていた。立つより前に、目が出口を測っている。ヒュウマはその左で足元を見た。水へ傾いた椅子を蹴って戻し、そこへ手をついた客の肩を押し上げる。イーリスはまっすぐに息を吸い、客席の上を通る声で方向を置いた。


「壁沿いにお進みください! 水際へ寄らず、前の方の肩を見て!」


 言葉は柔らかい。だが通った。歌い手の声が、ざらついた悲鳴の上に一本の線を引く。声の届いたところだけ、視線が水から壁へ戻った。


 ラウリは喋らなかった。巨体を横にして、関係者席と通路の間に壁を作る。押されて倒れかけた客を前腕で支え、足の幅だけ通路を広げた。蒼凪殿はその隙間を抜ける。逃げる足ではない。出口へ出て、外を見に行く足だった。外套の裾が揺れても、歩幅は乱れない。


 別の方向では、アドニスの声が立っていた。


「水際からお離れください! 桟橋は一列で進みます。係の手を取ってください!」


 温かい声だった。舞台に乗る時と同じ、遠くまで届く声。けれど中身は飾られていない。出口へ押すのではなく、水から離す。客を柵から剥がす。倒れた椅子の上をまたがせず、奥の広い床へ逃がす手順に変えている。


「灯を下げてください! 床を照らします。足元を見て!」


 マーレの係員たちが彼の声に戻された。二人が灯を床近くへ下げる。一人が水際に背を向け、客を支える。もう一人は落ちかけた子供の襟を掴み、柵の内へ引き戻した。水が柵の下で跳ねた。指先まで冷える音だった。


 劇場の内側には、まだ人が多すぎる。


 俺とヴァローも出口へ向かった。走る方向だけ見れば、客と同じだった。客の流れの中で、二人の顔は保税庫へ向いていた。


 産声は外から来た。


 保税庫の方角から来た。


 ヴァローが俺の横へついた。肩をぶつけず、人の流れの隙間だけを選んで進む。彼の足取りは速いが、跳ねない。滑る床へ余分な力を入れず、倒れた椅子の脚を見てから踏む。濡れた板の上で、靴音がほとんどしなかった。


「左です」


 短い声。


 俺は左へ半歩ずれた。直後、後ろから押された男が俺の右肩の場所へ倒れ込む。俺はその背を片手で起こし、出口側へ向けた。男の口が動いたが、声は産声に潰された。


 また床が揺れた。


 舞台の奥で大道具の支柱が外れ、布の壁が倒れた。重い布は音を吸ったが、下にあった木箱を巻き込んで床へ落とす。赤い灯が横へ流れ、長い黒が水へ落ちる。波に引かれ、細い人の腕みたいに揺れた。


 俺は柄を押さえた。


 俺は掌で、跳ねる封緘紐を革へ押しつけた。硬い繊維が指へ当たり、掌の下で細く跳ね返る。


 桟橋の口に人が詰まる。


 板の幅は二人分。そこへ五人が入ろうとする。肩が噛み合い、誰も進めない。後ろから押しが来る。前の男の足が水側へ滑った。桟橋の板が鳴り、下の水が暗く口を開ける。


 俺は腕を入れた。男の襟を掴み、内側へ引く。


「足を戻せ! 右へ!」


 男は何か言い返したが、声にならなかった。膝だけが動いた。足裏が板を取り戻す。ヴァローがその隣で、倒れた灯の柄を拾って横へ置いた。燃えた油が床で薄く伸びる前に、別の係員が布を被せた。焦げる匂いが一瞬だけ立ち、すぐ水の匂いに潰された。


 アドニスの声がまた通る。


「押さないでください! 前が進めば、後ろも進みます!」


 その言葉で全員が従うわけではない。だが一列目の肩が少し下がった。下がれば、二列目が前へ出る。人の波は力で止めるより、先頭の足を戻す方が早い。


 俺たちはその波の脇へ入った。


 出口までは、流れと同じ向きだった。


──────────────────────────────


 外へ出た瞬間、空に月がなかった。


 ないはずの月を探したのではない。上を見た時、夜の黒がどこにも黒くなかった。劇場の屋根の縁も通路の石も、遠い塔の線まで赤い光の中へ沈んでいた。濡れた屋根瓦が赤く光り、排水の溝にも同じ色が走っている。


 灯が赤いのではない。


 光そのものが赤かった。


 水路に立つ柱の影が濃くなる。人の足元から伸びた影は、その人の動きより先に曲がった。壁に張りつく黒は、背丈だけ人に似ていた。頭と肩のある形でいくつも落ち始める。誰の影ともつながらない。持ち主のいない黒い人型が、石畳と壁と水面に増えていく。


 産声は遅れて来た。


 口を開けたものの居場所さえ掴めないほど、音の到着がずれている。先に地面が震える。影が濃くなり、その後で耳が裂かれる。体が順番を間違える。踏む前に滑った気がし、避ける前にぶつかった気がする。


「影が先です」


 ヴァローが言った。


「音が遅い」


 それだけで十分だった。


 俺は足裏の感覚へ意識を落とした。赤い光を見すぎると、距離が狂う。石畳の継ぎ目を見る。濡れた板の縁を見る。肩のぶつかる角度を見る。人がどちらへ逃げたがっているかは、顔より腰に出る。


 劇場を出た客の流れは、広い通りへ向かっていた。水路から離れ、建物の壁沿いに低い広場を避ける流れだ。アドニスと係員たちの声が後ろで続いている。水から離す。足元を見る。一列で進む。手順の声は戻りつつあった。


 俺とヴァローは、その流れの端を走った。


 最初は同じ方向。劇場の出口から離れるためには、誰もが同じ細い通路を抜けるしかない。人の肩が俺の胸へ当たる。肘が腰の柄へ触れる。誰かの濡れた髪が頬を掠めた。油と水と汗の匂いが一緒に来る。息を吸うたび、喉にぬるい塩気が貼りついた。


 通路の終わりで、流れは右へ折れた。


 俺たちは左へ折れた。


 保税庫の方角。崩落の音と産声が来た方角。


 流れを左へ抜ける。次の角を曲がった瞬間、人の流れと正面からぶつかった。向こうから逃げてくる者たちだ。顔は赤い光で同じ色に染まり、目だけが白く開いている。荷を抱えた人足が肩で突っ込んでくる。背後を見ながら走る女の足が石の段差に掛かる。


 足裏が石を噛む前に、別の肩が左腕へ当たった。濡れた袖が滑り、掴む場所が一瞬なくなる。俺は肘ではなく背中へ衝撃を流した。胸を開けば後ろの子供に当たる。体を薄くして、壁の粗い石へ肩甲骨を擦った。石の粒が布越しに皮膚を削る。


 俺は女の肘を取って起こした。


「壁沿いへ! 水から離れろ!」


 言ってから、声が少し荒いことに気づく。だが女は頷く代わりに走った。動けるならそれでいい。


 ヴァローが俺の左へ抜けた。


「水路側は駄目です」


 逃げる人足に短く置く。敬体は崩れない。だが足は止めない。彼は人の顔ではなく、影の向きを見ていた。建物の壁に落ちる黒が、音の来る前に濃くなる場所を選んで避けている。


「次、右肩」


 俺は右肩を引いた。反対から担架板を持った係員が走り抜ける。板の端が俺の胸の前を掠めた。半寸遅ければ肋に入っていた。板の上には誰も乗っていない。空の板だけが先に運ばれている。


「見えているのか」


「遅れを見ています」


 ヴァローの返答は乾いていた。


 次の角が迫る。ヴァローの目が壁の黒を追う。俺は肩で、逆流する人足を外へ流した。二人ぶんの足が同時に角を曲がる。


 地鳴りが続く。


 石畳の下で、大きな車輪が回っているような低さだった。通路の脇の水が細かく震え、係留された小舟の舷が杭へ当たる。こつ、こつ、と規則のない音。赤い光の下で、小舟の影だけが先に立ち上がった。黒い人型になって壁へ貼りついた。


 持ち上がりかけた視線を、石畳の継ぎ目へ落とす。次に避難者の踵。次に肩の傾き。黒い人型は壁の端で膨らんだが、足裏の石が先に来た。呼吸を二つに分ける。吸う分と、声を出す分。剣の鍛錬で、連続して踏み込む時と同じだ。息を全部使うと、次の足が浮く。


 赤い光は水にも落ちていた。水面が揺れるたびに、壁の黒い形が何度もほどける。ほどけた端が足元へ来るように見えた。俺は濡れた敷石の高い方へ爪先を置き、滑りかけた荷車の軸を膝で押し戻した。木の軸が膝皿へ鈍く当たり、痛みが遅れて来る。


「前を見るな!」


 俺は逃げてくる少年に言った。


 少年は前を見ていなかった。後ろを見ていた。保税庫の方角から目を離せないまま、足だけこちらへ走っている。俺はその肩を壁へ向けた。


「足元だ! 壁へ沿え!」


 少年の目が一度だけ俺へ来る。すぐに足元へ落ちる。石の段差を越えた。動ける。


 ヴァローが足を止めた。


 ほんの半呼吸だけだった。


 俺も止まる。正面は細い橋。橋の向こうから人があふれている。渡れば保税庫に近づく。だが橋の下は水で、欄干は低い。今の流れで突っ込めば、誰かが落ちる。


「水から離す」


 ヴァローが言った。


「橋は使わない」


「回る!」


「左の倉裏です。影は薄い」


 左の倉裏は狭い。だが水から離れている。俺は先に入った。肩幅ぎりぎりの路地。壁の石は湿っていて、袖が擦れる。頭上の干し縄が揺れ、赤い光を細かく切る。どこかで香辛料の袋が破れたのか、辛い匂いが鼻を刺した。血の匂いではない。それだけでまだ走れる。


 後ろから逃げる足音が詰めてくる。前は狭い。止まれば背中から潰れる。俺は右掌を壁へ当て、石の冷えで歩幅を測った。左の肘が木戸へ当たり、古い板が低く軋む。濡れた土と香辛料が混ざって、息の奥だけが熱くなった。


 倉裏を抜ける間も、産声は追ってきた。


 遠いのに近い。外からではなく、耳の奥で生まれる。歯を噛むと、声が顎の骨で増える。噛まない。舌を上顎から離す。息を短く吐く。


 聖剣の柄が何度も腰へ当たった。


 抜けない剣。抜いてはいけない剣。封緘紐は革の上で小さく跳ねる。そのたびに、俺の指が勝手に柄へ寄りかけた。爪が革へ触れる前に、逃げてきた男の肩が胸へぶつかる。路地の壁が肘を打つ。指は柄から離れ、男の背を出口の方へ押した。


 路地が開けた。


 赤い光が一気に広くなる。空がない。月もない。ただ、赤く濡れた夜だけが上に広がっている。黒い人型の影が、広場の石の上にいくつも落ちていた。


 広場へ出た足裏が、一瞬だけ深く沈む。石畳は沈まない。沈んだのは体の方だった。狭い路地で畳んでいた肩が戻り、胸へ入った息が赤い光でざらついた。


 その向こうに、保税庫方面を見通せる広場があった。


 蒼凪殿たちは、もうそこにいた。


──────────────────────────────


 最初に見たのは並びだった。


 広場の出口は三つ。俺たちが出た倉裏。右手の水路へ続く低い道。正面、崩れた保税庫方面へ開く大きな口。人は右から左へ流れている。水路へ近づく者を、ヒュウマが片手で戻していた。ラウリは広場の端に立ち、逃げる人の列と崩れた倉の間に巨体を置いている。イーリスは壁際へ声を通し、蒼凪殿は正面を見ていた。


「レオン」


 蒼凪殿が俺を見ずに呼んだ。


「動ける」


 俺は答えた。


「ヴァロー」


「観察中です」


 それだけで確認は終わった。


 ヒュウマが俺の横へ一瞬だけ目を向ける。


「足場、中央が割れます!」


 丁寧な言葉のまま、視線は足元にあった。広場の石畳が、中央から斜めに割れている。水ではない。土でもない。崩れた倉から流れた粉と赤い灯の煤が、割れ目の縁に溜まっている。細いひびの奥から、冷えた空気が漏れていた。


 その時、割れ目の右側が靴一足ぶん沈んだ。


 俺は踏み出しかけた右足を引く。爪先の先で石の縁が欠け、赤い煤と一緒に裂け目へ転がった。腰を落とした拍子に、聖剣の鞘が腿へぶつかる。


 割れ目の狭いところを一歩で越える。着地した直後、踏み切った側の石が半枚ぶん落ちた。背中へ冷えが走った。


 そこで、ようやく正面のものを見た。


 保税庫の一部が崩れていた。屋根は片側へ落ちた。太い梁が折れ、壁の白い石が腹を割っている。積まれていた木箱と布包みが広場へ散り、壊れた樽から濃い酒の匂いが流れていた。酒は石の低いところへ溜まり、赤い光を受けて黒く光っている。


 その上に、何かがいた。


 息を呑んだ。


 空気が喉の奥で止まり、胸へ落ちてこない。足裏は着地した場所から動かなかった。


「一体、あれは――」


 声はそこで切れた。


 赤子だった。


 そう呼ぶしかなかった。


 巨大な胎児にも見えた。丸めた背だけで、崩れた倉の屋根を半分覆っている。腹は梁を跨ぎ、重さで残った石壁を外へ膨らませていた。


 膝を腹へ寄せている。そう見える膝は一つではない。腹の下に幾つもの関節が畳まれ、脛と腿の境が肉の中で押し合っていた。踵のない足がある。指が七本に枝分かれした足もある。足首の先が掌へ戻り、濡れた指を開閉するものまであった。


 腕も数えられない。肩から伸びた太い二本の下で、別の上腕が皮膚を内側から押している。石を掴む手の脇に、手首だけのものがぶら下がる。指だけが柔らかな脇腹から生え、次の瞬間には肉へ沈んだ。


 皮膚は柔らかく、赤い光を内側から透かしていた。ところどころに硝子質の光沢があり、濡れた膜が張った肉みたいに見える。だが膜ではない。皮膚でもない。目で触るたびに、輪郭が少しずつずれる。


 顔は一つではなかった。


 丸い頭部の正面へ、作りかけの顔が幾つも押し合っていた。頬の下から別の頬がせり上がる。こめかみでは閉じた瞼が二列に並び、その下で鼻孔だけが息を吸う。顎の脇には小さな口があった。耳の近くにも、歯のない裂け目が開きかけている。


 どれが正面なのか定まらない。一つの顔がこちらを向くたび、他の顔は肉へ沈む。額が滑った後に別の鼻が出る。正面の口だけが先に開いた。頬に埋まった別の口は、半呼吸遅れて同じ形を取る。目より先に口が泣こうとしていた。


 泣くための口が、顔より先にできていた。


 産声が来た。


 広場の何人かが止まった。


 全員ではない。逃げる者は逃げた。荷を捨てて走る者もいる。倒れた人を担ごうとする係員もいる。イーリスの声に従って壁へ寄る客もいる。


 けれど、泣き声に掴まれた者だけが別の動きをした。


 広場の端にいた係員が、手に持っていた灯の柄を落とした。火皿は石へ当たり、赤い火をこぼさず横倒しになる。男は膝をつかない。立ったまま泣き始めた。声を出して泣いているのではない。顔だけが泣く形になり、涙だけが頬を滑った。


 崩れた荷を運ぼうとしていた人足が、肩の縄を外しかけたまま止まった。両手が胸の前で中途半端に浮く。顔の前に、薄い膜めいた光沢が浮いた。


 硝子の薄膜に似ていた。


 張りついてはいない。覆ってもいない。ただ顔の前に、そこだけ空気が硬くなったような反射がある。広場の赤がそこで細く折れ、向こう側の瞳だけが遠く見える。中身は外から見えない。男の瞳はその内側へ向いていた。


 別の女も止まる。泣く。手を伸ばす。膜の兆しが頬の前にだけ出る。指先は何も掴んでいないのに、開いた手の形だけが誰かを待っていた。


 三人。四人。


 それ以上は見えない。走る人の背が視界を切る。ラウリが巨体で一人を受け止め、壁際へ押し戻す。ヒュウマは倒れかけた係員の肘を取るが、顔の前の光沢には触れない。蒼凪殿も触れない。イーリスは声を止めず、壁沿いの列を進める。


 止まった者たちの周りだけ、空気の厚さが違った。広場の赤い光は同じなのに、顔の前の反射だけが別の水面みたいに揺れる。泣き声はそこへ吸われるように細くなり、吸われた後で俺の耳の奥へ戻ってきた。涙は外へ流れているのに、声だけが内側へ閉じ込められているようだった。


 ヴァローが俺の隣で、赤子と止まった人々を交互に見ていた。


「掴まれる者が限られます」


 声は低い。


「条件は未確定」


 その言い方が、かえって場を冷やした。正体の知れないものを決めつけずに置く声だった。俺は頷いたかどうか覚えていない。


 赤子がもう一度泣いた。


 今度は俺の耳へ来た。


 いや、耳ではない。


 喉を内側から掴まれた。


 息が止まる。足裏の石の固さが消える。広場の赤が、目の前で薄く伸びた。蒼凪殿の背も、ヒュウマの肩も遠のく。ラウリの巨体もヴァローの白い横顔も、赤い布の向こう側へ押しやられる。


 音だけが残った。


 耳の奥に薄い皮が張った。外の声はそこで丸まり、泣き声だけが骨へ入る。喉の奥は冷えたのに、胸の内側だけが熱を持った。息を吸おうとすると、吸う前の小さな音が先に来る。


 小さな体温があった。


 孤児院より前の記憶は、形を持たない。壁の色も床の木目も、誰の手だったかさえ長い間どこにも置けなかった。けれど体温だけは残っていた。胸の近くにいた小さな熱。腕の内側へ収まる重さ。泣く前に息を吸う、短く湿った音。


 呼んでいた音があった。


 俺の口が覚えていた音だ。


 顔はなかった。


 何度探しても、そこだけが抜けていた。訓練場の隅で夜明けを待つ間にも、顔を探した。孤児院の寝台で目を開けた時も、剣の柄を握って昔へ手を伸ばした時も顔だけはなかった。空白は空白のまま、俺の胸の奥へ沈んでいた。


 泣き声が、その空白へ顔を置いた。


 小さな頬。


 濡れた睫毛。


 唇の端に残る息。


 俺を見上げる目。


 知らない顔だった。俺の中になかったはずの顔だった。その顔がこちらを向いた瞬間、胸の奥の隊列が崩れた。前へ出す足も引く足も、全部が順番を失う。


 俺は息を吸った。


 吸えなかった。


 小さな手が、俺の指を握っている気がした。指の腹に、熱がある。あまりに軽い熱だ。握り返したら壊れる。離したら消える。その中間の力を、体が勝手に探した。


 広場の泣き声がまた遠のく。代わりに腕の内側だけが重い。そこに何も乗っていないのに、肘を少し曲げなければ落としてしまう気がした。指の関節が勝手に丸まり、腰の柄から離れた。


 赤い広場が遠い。


 剣の柄が遠い。


 俺の胸だけが、近すぎる。


「レナ」


 名前だけが出た。


 出た瞬間、足がずれた。


 広場の石が戻る。戻ったのに、俺の体は構えを失っていた。右足が前にありすぎる。左足の踵が浮いている。腰の向きが赤子ではなく、声のない場所へ向いている。隊列から一歩外れた兵みたいに、俺だけが正面をなくしていた。


 聖剣の柄が腰で重い。


 封緘紐が指に触れていないのに、触れた気がした。喉の奥には、さっきの名前の形が残っている。舌がその音から離れない。胸の内側に、小さな熱の跡がある。


 俺はよろめいた。


 ヒュウマが動こうとしたのが視界の端で見えた。だがその前に、蒼凪殿の声が落ちた。


──────────────────────────────


「レオン」


 短い声だった。


 慰めではない。問いでもない。俺の名前を、今の足場へ置く声だった。赤い光の中で、声だけが色を持たなかった。


 次に、蒼凪殿の指が俺の肩の布を軽く引いた。引き寄せるのではない。倒れた重心を戻すだけの力。俺はその力に遅れて、自分の足を見た。


「足を置け」


 俺は左足の踵を下ろした。


 石の固さが戻る。割れ目の縁の砂が足裏で潰れる。息が少し入る。喉にはまだ名前の形が残っている。胸にも熱がある。だが正面が戻った。赤子。崩れた倉。止まった係員。逃げる人。水路。港へ続く灯。


 蒼凪殿はそれ以上言わなかった。


 赤子が崩れた梁の上で身じろぎした。腹を下にする。前へ出た腕は三本あった。一本は人の腕をそのまま太くしていた。一本には肘が二つある。残る一本は掌から直接肩へ続き、五本より多い指で石を掻いた。


 その後ろでも別の指が肉の表面へ浮いた。皮膚を破らず開閉し、手首へ育つ前にまた沈む。腹の下では脚らしいものが押し合っていた。三つの膝が別々の向きへ曲がり、一つの足は前へ蹴りながら別の足に踏まれている。


 体の下で木箱が潰れた。乾いた木の破裂音が、産声に混じる。潰れた箱の角が肉の下へ沈み、次の瞬間には見えなくなった。


 その時、警備の一人が動いた。


 若い男だった。兜の紐が片方だけ外れ、頬へ垂れている。手に槍を持っていた。逃げる人の列から外れ、広場の中央へ踏み込む。止める声が誰かから出たが、槍の方が早い。


 男は走った。


 腰が前へ出すぎている。怒りか恐れか、どちらにしても足が速さに追いついていない。槍の穂先だけが赤い光を拾い、真っ直ぐ赤子の腹へ向かう。靴底が割れ目の砂を蹴り、細かい粉が後ろへ散った。


 穂先が刺さった。


 刺さったように見えた。


 柔らかい肉がへこむ。だが裂けない。血も出ない。槍の穂先は表面を押す。次の瞬間、濡れた布に押し返されたように横へ滑った。傷は残らなかった。肉のへこみだけが戻り、赤い光沢が同じ場所を覆う。槍を握る男の肩だけが、遅れて震えた。


 赤子の口が開いた。


 泣き声が一段深くなった。


 高い声ではない。低くなった。腹の底へ落ちる声だった。広場の石がその音を受けて震え、割れ目の砂が小さく跳ねた。逃げる人の列が乱れる。ラウリの腕が二人を受け止める。イーリスの声が一瞬だけ細くなり、すぐ戻る。


 槍を突いた警備兵が止まった。


 足を引くことも、槍を戻すこともしない。両手は槍の柄を握ったまま、肘だけが中途半端に曲がっている。顔が赤子を見ていた。次に、涙が落ちた。


 顔の前に、薄い光沢が浮いた。


 さっきの係員たちと同じ兆し。硝子の薄膜に似た反射が、男の目の前にだけ置かれる。男の瞳はその奥へ沈んだ。槍の柄から力が抜け、穂先が石へ落ちる。音は小さい。だが周囲の人間は、その小ささにかえって怯えた。


 恐怖が広がった。


 声ではない。足の下がる音、息を呑む音、荷を落とす音。人が同時に半歩退く時の、ざらりとした気配。広場の縁にいる者まで、赤子から距離を取ろうとした。濡れた石の上で靴底が擦れ、逃げる列の形が一度膨らむ。


 赤子の輪郭が濃くなった。


 さっきまで重なっていた顔の境目が、赤い線で分かれた。頬の下に頬がある。顎の脇にも小さな口が浮く。頭の表面を這っていた瞼には、濡れた睫毛まで見え始めた。


 三本の腕それぞれに、肩と肘が浮き出す。腹の下で潰れていた膝も、一つずつ石から浮き上がった。数が減ったのではない。どれもが別の手足として、はっきりした。頭と胴の境が暗く沈む。赤い光を透かしていた肉の縁に、黒い影が細く乗った。


 大きくなったのではない。そこにいるものとして、石の上へ重く置かれた。


 ヴァローが警備兵を見た。次に赤子を見る。最後に、広場に広がる影を見た。


「攻めた者から止まります。輪郭は、逆に濃くなる」


 乾いた見立てだった。


 言い切りすぎない。だが逃がさない。足裏が広場の石へ固まった。柄へ寄りかけた指も、革に触れる手前で止まった。


 蒼凪殿が短く頷いた。


「そう見ていい」


 蒼凪殿の目は赤子に向いたまま。声は静かだった。


「感情を与えるな」


 その言葉で、喉の奥に残っていた名前が硬くなった。


 蒼凪殿は続けた。


「欲も、恐れも、哀れみも、あれの前に置くな」


 俺は息を吐いた。


 舌を上顎から離す。歯を噛まない。足裏へ石の角を戻す。喉にはまだ名の音がある。胸にも小さな熱がある。指先は柄の革へ触れかけたまま、力の入り方だけを変えた。


 ヒュウマが膜の出た警備兵へ近づきかけた。


 蒼凪殿の左手がわずかに上がる。止める形だった。ヒュウマは足を止める。視線は警備兵の足元に残る。槍の位置、倒れた時の向き、周囲の流れ。触れずに、倒れても踏まれない幅を作るための位置へ移った。


 イーリスは壁際の列へ声を通し続けている。


「止まらずお進みください! 前の方の肩を見て。水路へ降りないでください!」


 声は乱れない。けれど目は赤子から離れない。ラウリは広場の端で両腕を広げ、後ろから押された客を受ける。


「下がるなら壁だ! 水へ寄るな!」


 低い声が、人を押し戻した。


 蒼凪殿が崩れた倉の向こうを見る。


 港の方角だ。


 人と灯が多い。水上劇場よりさらに明るい。船着き場の灯が並び、避難の列もそちらへ流れつつある。赤い光の中でも、港の灯は別の熱を持って見えた。赤子の顔は定まらないまま、その明るい方角へ向いた。腹の下の梁がずれ、柔らかい肩が残った壁を押す。向いたという事実だけで、足が冷えた。


「港へ入る前に倒す」


 蒼凪殿が言った。


 赤子が這った。


 前へ出た三本の腕が、同時に石を掻いた。一つの掌は梁を掴む。もう一つは指を裏へ折り、手の甲で体を押した。三本目は隣の腕へ絡み、そのまま肉の重さに潰される。


 腹の下では幾つもの脚が順番なく蹴った。前へ出る足と後ろへ戻る足が、同じ石の上でぶつかる。膝の一つが腹の側面へ沈み、代わりに別の踵が濡れた皮膚から押し出された。


 頭の側面にある顔が石へ擦れた。正面とは別の口が開き、産声が二つ重なった。どちらも同じ喉から出ているはずなのに、片方だけが半呼吸遅れて耳へ来る。


 腹を引きずる。崩れた梁が下で折れた。石の破片が広場へ転がる。柔らかい体が木箱を潰し、酒と油と湿った布の匂いが一度に立つ。泣き声は止まらない。泣きながら動く。泣くために動くのか。動くたびに泣くのか。順番がない。


 腹が擦れた下で、石畳の粉が湿った音を立てた。木の箱は割れる前に潰れ、布包みは中身ごと平たく伸びる。酒の甘い匂いの上へ油の重さが重なり、鼻の奥が焼けた。避難列の後ろが一度押され、壁際の灯が揺れる。人の足音が広場の端で細くなった。


 進む先にいた人足が止まった。


 逃げ遅れたのではない。足が動かなくなった。顔の前に、また薄い光沢が浮く。隣の男はそれを見て逃げた。全員ではない。掴まれた者だけが、列から抜けた杭みたいに立つ。


 赤子の肩が倉の残った壁へ当たった。


 壁が割れた。大きな音ではなく、石の内側がほどける音だった。上の方から白い粉が落ち、赤い光を受けて血の煙みたいに見える。俺は粉を視界の端へ流し、足元の割れ目へ爪先を戻す。


 足裏へ返る震えが変わった。さっきまで下から来ていた地鳴りに、前から押される重さが混じる。割れ目の砂が爪先へ寄り、濡れた木片が靴底の下で砕けた。港へ向かう灯の列は遠いのに、赤子が一度這うたび近くなる。避難する人の背と灯の間に、黒い影が細く伸びていく。


 ヴァローが低く言った。


「進路上を空けるしかありません」


「止めるのは」


「通常の攻めは危険です」


 短い。


 十分だった。


 俺の指は、腰の柄へ行っていた。


 聖剣の柄。革の巻き。封緘紐の硬さ。指先が紐に触れる。封じられた剣は、抜かれる前から重い。いつもの剣の重みではない。前へ出ろと命じる重さでも、斬れば終わると告げる軽さでもない。


 赤子がまた泣く。


 口の奥に、あの名が戻りかける。俺は歯を噛まない。舌を離す。息を細く吐く。足裏の石を踏み直し、指の腹を封緘紐へ移した。紐の硬さが爪の下へ入る。腰の剣はまだ鞘の中にある。前で這う赤子の腹が石を押し、避難列の灯がまた一つ揺れた。


 俺は封緘紐に指を掛けた。


 結び目の硬さが爪へ当たる。湿気を吸った繊維は固く、細いのに石の角みたいだった。引けばほどけるのか。切らなければならないのか。指には答えがない。それでも力が入りかけた。


 至近で、蒼凪殿の指が動いた。


 横へ払う所作だった。


 俺の指には触れていない。剣にも鞘にも触れていない。ただ空中で、細い線を払っただけだった。俺の手は紐に掛かったまま、半寸も動かない。指と柄の間には、赤い光と冷えた空気だけがあった。


 次の瞬間、封緘紐だけが断たれた。


 音はほとんどなかった。


 硬い繊維がぷつりと切れ、短い紐の端が二つに分かれる。片方は柄の根元に残り、片方は俺の指の下を滑って石へ落ちた。赤い光の中で、紐はただの黒い線になった。


 聖剣は抜けていない。


 鞘も鳴っていない。


 蒼凪殿は赤子の方へ向いた。


「行くぞ」

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