同伴者一名
革筒の口から、細い紙片が出ていた。
前の晩にヴァローが抱えて上がったものだ。
宿の共用室には、朝の粥の湯気と焼いた魚の匂いが残っていた。夜の酒を拭いた卓の板はまだ湿り、肘を置くと薄く冷たい。窓から入った朝の光が、その湿りの上で平たく伸びている。女中が皿を置くたびに、木の表面に残った水気が細く光った。
粥は熱すぎず、椀の縁に指を添えるとぬるい熱が皮膚へ移る。焼いた魚の皮はまだぱりついていたが、皿の底では油が白く曇り始めていた。宿の朝は忙しい。皿の音と椅子を引く音が重なる。戸口では、誰かが靴裏の泥を落としていた。
ヴェスタはまだ眠そうな顔でパンを割っていた。指先についた粉を払うでもなく、欠けたパンの角をそのまま口へ運ぶ。
ガイウスは椀を持つ前に窓の外を見た。外の通りで荷車が軋み、彼の目がその音の方へ動く。
カイは教会支部へ持っていく包帯の袋を椅子の横に置き、口の紐を確かめている。布袋は夜のうちに乾いていたが、結び目だけが指の熱でやわらかくなっていた。
ヴァローは、いつもの席へまっすぐ来た。
革筒は肩に掛けたままだった。筒の革は夜から乾ききっていて、外套の脇に当たるたびに軽い音を立てる。昨夜は自室へ持って上がったものだ。今朝は卓まで連れて来た。筒の口から出た紙片の端には、総稽古の夜と書かれていた。
それは返書そのものではない。
返書から切り出された後の小さな札だった。紙の端はまっすぐではなく、手で切った繊維がわずかに毛羽立っている。
墨は乾ききっていて、朝の湿りを吸っていない。ヴァローの指先には細かい紙粉がついていた。
乾いた紙を何度も押さえた指の跡だけが、白い端に薄く残っている。
俺は水の杯を置いた。
杯の底が卓の湿りに吸いつき、短い音を出した。聞くより先に、ヴァローが紙挟みを卓へ置く。金具が濡れた木に触れ、朝の皿の音とは違う硬さで鳴った。彼は革筒を椅子の背へ掛けず、足元へも置かなかった。肩に掛けたまま、紙だけをこちらへ出す。
「レオン。総稽古の夜、同行を頼みます」
朝の卓で、魚の湯気だけが細く上がった。
「同行か」
「マーレ側から、正式な立ち会い枠が出ました。外部の学術立ち会いです。条件は同伴者一名まで。現場で記録の照合を取ることも許されています」
ヴァローの声は乾いていた。
頼みごとの声ではある。だが、そこに余計な熱はない。紙の上の言葉を、紙から外へ出しただけの声だった。紙挟みの縁を押さえる指だけが、卓の湿りを避けて浮いている。
「学術立ち会い人は私です。君は、その同伴者です。門ではその名で入ります」
秘密の話ではなかった。
窓から朝の光が入る。光は卓の皿と紙挟みの端へ乗った。金具が細く光り、すぐに曇る。宿の朝は、マーレの紙まで日常の上に置いてしまう。粥の湯気と焼いた魚の匂いが、紙の乾いた繊維と同じ卓にあった。
俺は紙を見た。
文字を読むのは、ヴァローの方がずっと速い。古い字も欠けた記録も、俺より彼の目に合っている。俺の目が拾えるのは、紙の外側だった。
門の幅。人の足。手が止まる場所。通れば誰かの肩がぶつかる角。
紙の上にないものを、一組余分に見る目なら俺の身体にもある。
その役で入るのだと分かった。
学者のふりをするのではない。剣を隠して潜るのでもない。外部の学術立ち会いに許された一組の目として、ヴァローの横に立つ。
ヴェスタがパンを噛み切った。
「同伴者一名って、魚の買い出しみてえな言い方だな。勇者の兄ちゃん、荷札でも下げるか」
ガイウスが椀を置いた。
「盾より目が要る夜か」
カイは紙挟みではなく、ヴァローの手元を見ていた。
「手続きの上で、レオンでよいのですね」
三人の声が、同じ言葉の周りへ違う角度で立った。
ヴェスタは売り場の値札みたいに受けた。ガイウスは装備の不足として測った。カイは門で止められない形を確かめた。俺はそれを聞いていた。聞いてから、自分の手が杯から離れていることに気づいた。
剣に触れてはいない。
それでも身体はもう立つ方へ寄っていた。椅子の脚が床板をわずかに鳴らす。膝の裏に、立つ前の重さが来ていた。
「先に立つ。理由はあとで司祭様に聞く」
言ってから、少しだけ早かったと思った。
ヴェスタが口の端を上げた。ガイウスは椀へ戻った。カイは俺を見て、それから小さく目を伏せた。兄の顔ではない。神官の顔でもない。どちらでもある顔だった。
ヴァローは紙挟みをわずかに手前へ引いた。
「便利な司祭様ですね」
「便利だぞ。俺が子どもの頃から、大体あとで怒ってくれた」
「それは立派な制度です」
ヴェスタが笑った。
「制度になったぞ、勇者の兄ちゃん!」
「なら書類にしろ」
ガイウスが言った。
「司祭が怒る」
ヴェスタはまた笑った。カイは止めなかった。朝の卓に、軽い声が戻った。女中が隣の卓で皿を重ね、その音が笑いの下を通っていく。
ヴァローはその間に、紙を一枚だけ俺の前へ滑らせた。日時と門の名と、同伴者の欄。俺の名はまだ入っていない。空いた欄が、こちらを向いていた。紙は思ったより薄く、卓の湿りを避けるように端が少し反っていた。
「名は、君が了承した後で書きます」
「今書こう」
「結論が早い」
「いつものことだ」
「ええ。観測の範囲では」
ヴァローはそこで筆を取った。
筆先が紙に触れる前に、彼は一度だけ息を止めた。止めた息の理由までは見えない。見えたのは、紙の端を押さえた指が白くなったことだけだった。卓の湿りが紙へ移らないよう、彼は端だけを浮かせている。
俺の名が細い字で欄へ入る。レオン。ソル。白い紙に黒い字が載ると、それだけでまだ離れた場所の夜が朝の卓まで近づいた気がした。
卓上の粥は冷め始めていた。
魚の皮に残った油が白くなり、椀の縁には麦の薄い膜が張る。紙が乾くまでの短い時間に、朝は何も知らない顔で進んだ。女中が隣の卓を拭き、外の通りで荷車が軋む。カイの包帯袋の口紐が椅子の脚に触れて揺れた。
俺はその先を聞かなかった。
ヴァローも言わなかった。
紙は乾くまで、卓の上で黙っていた。
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その日から、街の赤は一日ごとに濃くなった。
最初は、屋台の布の端だけだった。次の日には橋の欄干へ赤い結び飾りが増えた。さらに翌日には水上劇場へ向かう通りの柱にも、薄い赤の布が巻かれた。朝の光では明るい飾りに見えた。夕方になると、同じ赤が油皿の火を拾う。店の戸板や濡れた石へ薄く移った。
俺は水ではなく、人を見ていた。
一日目の朝は、教会支部の診断所だった。
軒下の列は、前に見た時より短くなっていた。短くなったぶん、列の途中で曲がる場所が変わっている。前は組合の窓口まで伸びていた肩の列が、今は支部の横の小さな庇で一度折れる。
番号札を受けた者だけが窓口へ回る。
白い紙を受けた男は、胸に押し当てるのではない。片手で乾かしながら歩いていた。
診断所の入口には、朝の水を吸った砂がたまっていた。足裏で踏むと固く、乾いた所へ出ると急に軽くなる。列の人間は、その境目で歩き方を変えた。
痛む足を庇う者は乾いた床へ急ぎ、腰を押さえる者は庇の柱に肩を逃がす。紙を受ける手は、どれも荷を持つ手より高く上がった。
カイは判を押し続けた。
俺は入口の真正面に立たない。そこに立つと列の肩が硬くなるからだ。
柱の影に寄り、足元の砂がたまる場所を避ける。落ちた番号札を拾う時だけ手を出す。拾った札は受付の台へ戻す。
痛む肩へ手を伸ばすのはカイの仕事だ。俺の手は、その前の空きを作るだけでよかった。
「出口で」
カイが前に言った言葉は、朝の足元で役に立った。
判をもらった男ほど、段差を見なくなる。安堵の方が先に足を進めるからだ。腰を庇う者が紙を懐へ入れる。空いた手で軽い籠を持とうとする。手首を布で巻いた者は、紙を持つ手と荷を持つ手を間違える。俺は声をかけるより先に、籠を台へ戻した。
紙を受け取った男は、支部を出て右へ行った。
組合へ戻る道ではない。古い倉の裏側へ伸びる細い通りだ。そこには軽い仕事の札が掛かっている。空き瓶の洗い場。布の干し場。祭りの花縄をほぐす卓。荷を担ぐ列から外れた者が、紙を持って別の持ち場へ歩いていく。
重い荷から外された足が、軽い仕事へ向かう。片方の肩だけを上げて歩く男。白い紙を濡らさないように、身体から少し離して持つ女。籠を持ち直す前に、紙を帯へ差す若い職人。
荷の重さは変わっても、歩く先は消えない。足裏が乾いた石を探し、濡れた轍を避けて進む。
支部の白い壁に、朝の赤い布の影が揺れた。
次の日の昼は、名簿の前だった。
組合の中は外より暑い。人の息と乾きかけた墨に、昼の油の匂いが混じっている。
白い控えはもう白いだけではない。指の脂と湿った風を吸い、端がわずかに反り始めている。
名を書いた者は別の列へ行く。名を戻された者は古杭の看板のある詰所へ向かう。判をもらった者は、軽い荷を持つ方へ回される。
強い者だけが前へ出るのではない。
曲がる肩、動かない腰、まだ使える手首。それぞれが、別の仕事の前へ立たされていく。床板は踏まれるたびに低く鳴り、列の進み方で音の間隔が変わった。重い荷の列は鈍い。軽い仕事へ回る列は、紙の擦れる音が先に動く。
昼の名簿には増える名前と減る名前があった。
新しく戻った名には、墨がまだ盛り上がっている。古い欄から消えた名には、横に薄い線だけが引かれている。理由は紙に出ない。ブルーノさんはそこを指でなぞらず、次の行へ行く。行く前に、ほんの少しだけ待つ。
古杭の看板は、昔より低い位置に戻されていた。
戸口より低く、通る人間の目が一度引っかかる高さだった。ブルーノさんは看板の下で釘を受け取る。若い職員に場所を示した。声は少なかった。木へ釘が入る音だけが乾いていて、祝祭の太鼓より先に耳に残った。
看板が壁に戻ると、古い文字の溝に残っていた黒ずみも一緒に戻った。
そこへ、朝に支部で見た手首の男が来た。
彼は本人控えを折らずに持っていた。ブルーノさんの前で紙を出し、組合の若い職員が名簿の新しい欄へ印を置く。
男は重い荷の列ではなく、祭具の木箱へ薄い布を巻く卓へ向かった。
椅子に座る前に、一度だけ手首を見た。痛みを確かめるためではない。そこが今日の仕事に足りるかを測る目だった。
紙が動いた後で、人が歩く。
俺はその道を見ていた。
祝祭の赤は、昼になると食べ物にも混じった。砂糖を煮詰めた菓子に赤い蜜が掛かる。焼いた貝の横には赤い香辛料が置かれた。
子どもの手首には細い赤い紐が増える。屋台の女は売れ残った紐を手の甲へ巻いて数えている。
赤い油皿は夕方になる前から試され、芯の焦げる匂いが通りの熱に混じった。
三日目の夜は、古杭と夜番の側だった。
夕方には、宿の前を夜番の者が通る。
ガイウスが夜の街場を見て回る日もあった。ヴェスタは屋根と路地と、酒の匂いの濃い角をよく見た。二人とも口数は少ない。ヴェスタは少なくしようとしても多いが、それでも仕事の時は足の方が先に喋る。ガイウスは最初から足と盾の人間だ。
夜の荷場は、昼より遠く感じた。
小屋の灯は小さく、見張りの手元だけを照らしている。そこにマルコが立っている日があった。俺は名を呼ばなかった。彼も近づかなかった。灯の横で顎をわずかに引いた。すぐ通路へ目を戻した。
それでよかった。
名は、呼べば届くとは限らない。
届いたせいで、余計な場所へ落ちる時もある。
夜警の者たちは声で名を呼ばなかった。灯の下に置かれた小さな板を指で示す。戻った者がそこへ木札を置く。声は使わない。木札が板に触れる乾いた音で足りる。誰かが遅れれば、見張りの男が通路を見た。名前ではなく、空いた場所を見る。
俺は灯の外側を歩き、縄の輪が濡れた石へ触れないようにした。転がっていた木片を足で寄せた。見張りの邪魔にならない場所に立つ。何かを壊さずに立つ場所は、剣を抜く場所より細い。
数日の間に、祝祭は街の表へ上がってきた。
赤い布。白い花。婚礼船の飾り。合唱の声。焼いた貝の匂い。油皿の熱。紙札を売る子どもの声。どれも明るい。明るいものが多いほど、俺はその後ろの列を見た。紙を受けた人がどこへ行くか。判をもらった身体がどの道を通るか。夜番の灯がどの角を照らすか。
ヴァローは、昼の宿で紙を整えることが増えた。
革筒はいつも椅子の横にあった。筒の革は朝より夕方の方が乾いて見えた。紙を抜き差しするたびに、薄い擦れ音がした。俺は杯を取り、通りを行く赤い布へ目を戻した。
一度だけ、支部の前で夢見が悪いという話を聞いた。
女が小さく言い、修道女が湯を勧めた。それだけだった。俺の足は出口の段差に残り、その話は列の中で別の咳に紛れた。
カイは時々、支部から戻ると湯を両手で包んだ。
「今日は、捻挫の方が多かったです」
「祭りの支度か」
「脚立から下りる時に急いだ方が多いようです。明日はもっと増えるかもしれません」
「俺はどこに立てばいい」
カイは短く考えた。
「紙を受け取った後の段差です」
「そこは今日も危なかった」
「安心した足は、少し急ぎます」
言われてみれば、そうだった。
判をもらった男は、安心して足を速める。手首を押さえていた者は紙を懐へ入れる。空いた手で荷を持とうとする。痛む場所は変わらない。紙を受け取ると人は先へ行きたがる。
俺は翌日も、出口の段差に立った。
誰かが落とした木札を拾う。擦れた床板を踏む前に声をかける。荷を持ち替える間だけ道を広げる。剣は抜かない。光も出さない。立つだけで足りる場所もある。
足りない場所もある。
それはまだ、見えていなかった。
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総稽古の日、宿の前では荷が先に分かれた。
朝から通りの音が違った。屋台は昼より前に火を入れる。職人は最後の布を張る。劇場の方角から楽の試し音が水路を越えて来た。まだ夜ではないのに、人の歩き方が夜へ寄っている。用事のない者まで、どこかへ向かっている顔をしていた。
宿の入口に、俺たちは立っていた。
カイは白い神官服の上に外套を羽織り、包帯の袋を肩に掛けている。いつもの祈りの道具に、今日は水筒がもう一本増えていた。袋の口は一度結ばれていた。俺が横から見て緩いと分かった。俺は結び目を指で押し込む。カイは何も言わずに肩の掛け紐を直した。
「教会支部へ詰めます。祝祭の前で人が増えますから。小さな怪我も、夜になると帰り道を遅くします」
「一人で足りるか」
「支部の方々もいます。私は、救護の手が届きにくい時に動けるようにしておきます」
カイはそう言い、俺の胸元でなく左の腰を見た。
聖剣の柄がそこにある。
俺の手は柄を過ぎ、鞘の吊りを押さえた。歩くたびに、いつもの重さが腰へ返った。
宿の壁には、粗い地図が広げられていた。支部は市街の内側にある。水上劇場へ向かう流れとは別の線だ。昼は近く見えた通りも、夜の人出が入れば遠くなる。鐘楼の音は劇場までは届きにくい。劇場の楽も、支部の奥までははっきり届かない。
地図の上では、鐘楼と劇場は同じ紙の上にいた。
外へ出ると、そうではない。水路の風が音を折る。橋の下をくぐる声は低くなり、屋台の呼び込みは角で切れる。鐘楼の金属の音は高い所から落ちるが、劇場の稽古音は水の上を滑って遠ざかる。二つは途中で混ざらない。
「遅れる時は、宿の帳場へ一言」
「分かった」
カイは包帯袋を肩へ掛け直した。
ヴェスタは宿の庇に背を預け、通りの奥を見ていた。額の青と黄色の布が風でわずかに動く。腰の曲刀は客の多い通りでは邪魔になるはずなのに、身体の方が先に隙間を見つける男だった。
「俺とガイウスの兄貴は宿場側だ。水上劇場の灯は遠くで拝むくらいだな」
「拝むのか」
俺が聞くと、ヴェスタは歯を見せた。
「遠けりゃ何でも拝める。近いと銭が飛ぶからな」
ガイウスは重盾の吊りを確かめていた。
「宿と街場だ。遠いぞ」
「遠いな」
「遠いと言った。聞いておけ」
「聞いた」
地図の上では指二本ぶんだった。実際には人の肩と荷車がそこへ入る。屋台の火と橋の混み具合も入る。
ガイウスの重盾が通るには、回り道も要る。盾の縁は壁際の籠に当たり、狭い橋では人を待たせる。
ヴェスタなら屋根を選ぶかもしれない。だが夜の祝祭で屋根を走れば、別の騒ぎになる。
ヴェスタが肩を揺らした。
「勇者の兄ちゃんは素直な日があるな!」
「今日だけだ」
「じゃあ高い日に当たったわけだ」
カイが小さく笑った。ガイウスは笑わないが、盾の吊りを直す手が一度だけ遅れた。
ヴァローは一歩離れて立っていた。
灰色の外套。革筒。紙挟み。いつもの短杖。支度は変わらない。だが、歩き出す前に門の方角を見た時間だけが長かった。視線は水上劇場ではなく、そこへ行く途中の道を測っているように見えた。
「行けるか、ヴァロー」
「歩く距離としては問題ありません」
「距離以外は」
「観測の範囲では、距離も十分に厄介です」
「それなら行けるな」
「君の判断は、時々とても雑です」
「今さらだ」
俺はサッシュの位置を直した。
剣の柄へ手が寄りかける。指はサッシュの端を直し、腰から離れた。紙の前。列の前。待つ人の前。身体の芯はもう、港の方へ向いていた。
宿の前の道は二つに割れた。
カイは支部の方へ向かう。ガイウスとヴェスタは宿場通りを港の外側へ戻る。俺とヴァローは、水上劇場の灯が立ち上がる方角へ歩き出す。
誰も長く振り返らなかった。
祝祭の支度は、人の別れを待たない。荷車が通り、屋台の男が声を上げる。白い花を抱えた娘が俺たちの間を小走りに抜けていった。花の匂いは軽く、すぐ焼いた貝の匂いに押された。
カイの白い背が通りの角で消える。
鐘楼の方から、遅れて低い音が来た。
ガイウスの重い足音が反対側へ遠ざかる。
盾の金具が一度だけ鳴り、人波の向こうで途切れた。
ヴェスタの声が一度だけ屋台に引っかかり、笑いに変わって消える。
その笑いも、水路を渡る楽の音には届かなかった。
俺は前を向いた。
ヴァローの足音は、俺の半歩後ろではなかった。横にあった。紙挟みが脇で小さく鳴る。その音を聞きながら、俺たちは租借区へ向かった。
──────────────────────────────
租借区の門には、二つの列があった。
片方は赤い紙を持つ客の列だった。厚い招待状。金の縁。封蝋の跡。係が紙を受け取り、名を確かめる。礼を返す。紙は係の手から客へ戻る時、灯に正面から当てられた。文字より先に紋を見せるための動きだった。
衣の明るい人間が多い。顔には劇場へ向かう前の熱があり、声は抑えていても先へ走っていた。靴音も軽い。新しい靴と磨いた靴が多く、敷石の上で薄く跳ねる。招待状の紙は厚く、端が指の腹へ沈むように見えた。受け取る係の手も、そこだけゆっくりになる。
もう片方は、薄灰の札と点検票を持つ者の列だった。
俺たちはそちらへ入った。
エレオノーラの細い字で整えられた紙が、ヴァローの紙挟みに入っている。外部の学術立ち会い。立ち会い人の名。同行の欄に俺の名。紙は招待状より薄い。だが、門の係は先にそちらを見た。赤い紙は席を開ける。薄灰の紙は、通る順を変える。
紙が違うと、門の触れ方も違う。
客の紙は両手で受け取られ、灯の前で開かれる。戻る時には軽い礼がつく。点検側の紙は片手で受け取られ、隅の印だけを灯に当てられる。戻る先はヴァローの紙挟みだった。赤い列には広い導線がある。薄灰の列は細いが、係の身体が先に道を開けた。
係は俺の腰を見た。聖剣は帯剣を許された。ただし門の手続きとして、柄に封緘紐を掛けられた。手は早く、声はなかった。俺はその間、剣を押さえなかった。押さえれば、相手の手まで止めることになる。
手が柄の手前で止まった。
抜ける剣を持っているのに、抜く形ではない。腰の重さはいつも通りなのに、指だけが別の道を覚えさせられた。俺は手を開き、サッシュの端を直すふりで戻した。
ヴァローの紙は戻された。
客の列は右へ流れ、俺たちは左へ通された。案内板には、千年海婚祭記念総稽古と書かれていた。文字は祝祭の形をしている。だが、俺たちの足元には客用の花飾りがなかった。低い灯と細い白線。係の立つ角があるだけだった。
門をくぐると、売り声が背中で薄くなった。
一歩目で、靴音が変わる。
磨かれた広場だった。敷石は夜の灯を受けて白く、靴底の音が余計な湿りを持たずに前へ抜けた。
門外の屋台では貝を焼く匂いがしていたはずだ。内側では紙と香料と潮だけが残る。
係の導線は言葉より先に分かる。灯の間隔。人の立つ位置。開けられた線。行ける場所と止まる場所が、床の上に置かれていた。
門外の声は、戸を閉められたわけでもないのに切れた。売り子の伸ばす語尾だけが石の縁で薄くなり、次の足音に負ける。客の靴は明るく鳴る。点検側の靴は、広場の端を選んで低く進む。
本社は、夜でも白かった。
その白さが、港の水気を受けつけない顔で広場の奥に立っていた。窓の枠まで白く、灯を返して少し冷たい。祝祭の赤はここでは控えめだった。赤は客の紙や衣の端に残り、石の上では薄くなった。
ヴァローは紙挟みを脇に持ち、案内の線を見ていた。
俺はその横を歩いた。
本社前広場の内側で、見覚えのある白青が見えた。
蒼凪さんがいた。
半歩後ろにヒュウマさん。イーリスとラウリさんも同行している。四人とも客の導線にいた。俺たちとは違う紙で、同じ広場の中へ入っている。
足が先に止まった。
「蒼凪殿」
「ああ」
ヴァローが紙挟みを胸に寄せた。
「賢者殿。こちらも、見るだけです」
「なら、同じだな」
俺はうなずいた。ヴァローは視線を下げた。
立ち話にはならなかった。
係の導線は止まらない。向こうの四人もこちらの二人も、止まるために門をくぐったわけではない。すれ違う幅だけが広場に残る。すぐ靴音へ戻った。
ヒュウマさんは蒼凪さんの半歩後ろにいた。いつもと同じ距離に見えた。イーリスさんは袖を整え、ラウリさんは肩をわずかに狭くして通った。広場の白い石は、全員の足音を同じ明るさで返した。
すれ違ってから、俺はヴァローを見た。
彼は驚かなかった。
問いも置かなかった。
紙挟みを元の位置へ戻し、係が示す左の導線へ足を進めている。俺も遅れず歩いた。背後の売り声は、もうほとんど届かない。客席へ向かう足音と点検へ向かう足音が、広場の途中で一度だけ近づいた。また別れた。
本社の白さが背中へ遠ざかる。
水上劇場の方から、まだ開かない幕の気配だけが来ていた。
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仮設区画へ入ると、灯の色が客のためのものから手のためのものへ変わった。
飾りは少ない。白布はあるが、垂らすためではなく隠すための布だった。柱の根元には砂がたまり、搬入の木箱には番号が打たれている。
花の匂いより木屑の匂いが強い。濡れた縄の匂いもあった。
遠くの劇場から楽の音が来る。ここでは、その音が布で薄くなった。足元の水の音と混ざった。
全区一斉点検は、列ではなく流れだった。
係が前へ出る。別の係が票を持つ。もう一人が灯を持つ。ヴァローはその外側に立つ。俺はさらに一歩外で、通路を塞がない場所を選んだ。
最初は灯具だった。
真鍮の小さな皿が棚に並び、芯は短く切られている。皿の下には油を受ける浅い器があり、布の端が触れないように細い金具で押さえられていた。
火はまだ入っていない。だが油の匂いはもうあり、喉の奥に薄く残った。
近づくと皿の金属が昼の熱をまだ抱えていて、手を伸ばす前から皮膚が知る。
「置く」
係が赤い砂時計を低い台へ置いた。
布を半分払う。古い金属枠。細い赤い砂。札には《朱月沙漏》とある。札は現場の物として台に立てられた。俺の目には、その名で呼ばれている道具に見えた。
「照らす」
灯が近づく。
棚の下、綱の結び目、床板の隙間。光は短く置かれ、すぐ次へ移る。係の手は説明しない。照らし、見る。票の端へ線が入る。誰かが息を止めるほどのことは、まだ起きない。
俺は、係の足を見ていた。
右へ寄ると、次の箱を持つ者が通れない。左へ寄ると、布壁の杭に肩が当たる。通路は客席の廊下より細い。手に道具を持つ人間にはさらに細い。俺が半歩下がると、灯を持つ係が通った。腰の剣が箱に触れそうになり、身体を斜めにする。
剣は、ここでは幅を取る。
「数える」
別の係が金具を数えた。
一つ。二つ。三つ。
声は小さく、数字というより手順の音だった。票の係が頷く。俺はその頷きの後で、人がどこへ動くかを見る。金具を見る者は棚へ行く。票を見る者は次の柱へ行く。灯を持つ者は、通路の先へ行く。
ヴァローは、赤い砂時計の前で止まった。
手は伸ばさない。
札へ視線を置く。台の端。棚の下。床の継ぎ目。水路へ続く低い隙間。目はそこを順に動いた。紙挟みは胸の前ではなく、左の脇にある。指は閉じていた。何かを書き取る時の手ではない。数える時の手だった。
係が台を動かす。
「返す」
砂時計は布の中へ戻された。
赤い砂の線だけが、最後までわずかに見えた。布が落ちると、それも消えた。係はもう次へ向かっている。手順は一つの道具に長く止まらない。止まれば、後ろの手が詰まる。
次は舞台道具だった。
白い飾り板。花嫁の衣の裾を支える細い棒。海の波をかたどった軽い木枠。どれも客席から見れば柔らかい飾りになる。
近くで見ると、角と釘と重さがあった。
木枠の下端は膝の高さにある。後ろ向きに運べば人の脛へ入る。飾り板の裏には補強の板が走り、指を挟む隙間がある。
低い台に赤い砂時計が置かれた。
灯が裏側へ入る。
留め具の数だけが短く読まれた。
俺は道具を見ていない係の背中を見た。抱える者の肩がどちらへ下がるか。棒が通路のどこへ飛び出すか。次に来る人間の手が空いているか。
灯の熱は近く、係の袖の影が飾り板の裏で揺れた。
点検は物を見る仕事に見える。だが人が怪我をするのは、物が戻る時だった。
ヴァローは木枠では止まらなかった。
止まったのは、札の束が棚へ戻る時だった。彼は札の枚数を目で追った。戻された位置を見た。棚の脇に置かれた搬入札へ視線を落とした。搬入札には区画の名と番号だけがある。彼はそこでも何も言わない。紙挟みの角を親指で押さえただけだった。
搬入路へ出ると、別の点検が始まった。
木箱には赤い小札と灰色の小札が掛かっている。赤い札は舞台へ出る物、灰色の札は戻す物らしい。係はそれを説明しない。手で分ける。票へ線を引く。灯を一度だけ当てる。箱の横を抜ける肩は近く、俺の剣の鞘が木に当たる手前で止まった。
箱の木は冷えていた。昼に運ばれた熱は表面から抜け、角だけが手袋の布へ硬く返る。縄は濡れていて、握る係の指に薄い水がついた。赤い砂時計は別の箱へ移り、札と一緒に布へ戻った。
仮設柵も見られた。
腰の高さの柵は、水際に沿って立っている。客の目には境目になる。裏方の足には障害になる。低い杭は濡れていて、上端だけが乾いていた。俺が手を乗せると、木の冷えが掌へ返ってくる。釘の頭は沈んでいる。一本だけ斜めに光った。
灯が釘の頭へ寄る。
杭の数だけが短く読まれた。
係の声は変わらない。俺の足は変わった。柵の外へ身体を寄せると、通路の内側に二人ぶんの幅ができる。道具を抱えた若い係が、礼を言わずに通った。言わない方が速い。俺も頷かない。頷けば肩が出る。
棚の点検では、ヴァローの動きがわずかに変わった。
低い棚に布が掛かり、布の中には小さな箱が並んでいた。係は箱を開けず、札だけを返した。赤い砂時計はそこでも一度だけ台に置かれた。灯に当てられ、戻された。
ヴァローは棚の前で足を止め、棚板の高さを見た。次に床板の隙間を見る。水路側の柵を見る。戻された砂時計の布を見る。視線の順が、さっきより速かった。紙挟みはまだ開かない。
「ヴァロー」
俺は低く呼んだ。
「道が細い。前に出るなら言え」
「承知しています」
返事は短かった。
それ以上はない。
俺は頷き、次の角へ立った。角の向こうには布壁があり、その隙間から保税庫の遠い壁が見えた。低い白い倉だった。劇場の飾りと違って、壁は薄く光を返すだけだ。扉の前に係が立っている。人は少ない。布壁の柱が視界を切り、見えたり隠れたりする。
中は見えない。
扉の形と、前に置かれた灯だけが見えた。
そこから先は、俺の場所ではなかった。
新月の夜だった。
空に月はない。水路の上は黒く、灯を拾う場所だけが細く動いている。なのに水面には赤い照り返しがあった。劇場の赤い布も油皿も、水の上では同じ色になった。
赤は水面で揺れた。
足元の柵の影が、その上で細く曲がる。
ヴァローはそこでも足を止めた。
水面。柵の影。台へ戻された札の方角。彼の視線は、そのあたりを何度か往復した。紙挟みの角が指へ食い込んでいるように見えた。手は開かない。筆も出さない。
係はもう先へ進む。
灯が水際の低い柵をなぞった。
杭の数だけが読まれ、すぐ先の係へ返った。
俺は通路の外側へ立ち、劇場から流れてくる歓声を聞いた。まだ本番ではない。総稽古の夜だ。客はそれでも客席に座り、座組は本番の息で動く。失敗もやり直しも、今夜なら演出の中へ紛れる。
その紛れやすさだけが、胸に薄く残った。
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港の灯が、いっせいに点いた。
最初は水上劇場の縁だった。低い灯が一つ、二つと起きる。続いて桟橋の先。婚礼船の飾り。観客席の柵。劇場へ向かう通路の柱。離れた水面に白と橙が走り、黒かった水が急に広くなった。
祝福の画だった。
灯が起きるたびに、硝子の小さな覆いが熱を持つ。油の匂いが夜気へほどけ、火の芯が一斉に低く鳴った。布が温まる。白い花飾りの影が床板へ落ちる。水上劇場の下では、水が光を受けて細かく返した。客席の柵を倍の数にして揺らした。
客席の身体が動いた。
座っていた者が背を伸ばす。子どもが膝の上で身を乗り出す。誰かが息を呑む。別の誰かが小さく笑う。笑いは広がらず、幕の前で吸われた。始まりの前の静けさは、静けさではなかった。全員が同じ方へ息を向ける音だった。
白い布が光を受け、青い波の模様が風でふくらむ。花飾りは水の上で倍に増える。船の影は客席の下へ伸びた。楽が近くなる。まだ幕は上がっていないのに、客席の息が一段そろうのが分かった。人は明かりがそろうだけで、始まりを信じる。
俺は足を止めそうになった。
きれいだったからだ。
剣を抜かずに見てよい光が、そこにあった。戦場の白ではない。詠唱の光でもない。誰かを導くための灯で、誰かを選ぶための灯ではない。屋台の油皿より整い、本社の白い灯より温かい。港の夜が、今だけ全員を招いているように見えた。
そのすぐ横で、点検は終わりへ近づいていた。
最終区画は水上劇場に近い仮設区画だった。会場の周りを最後に回る、と係は手順だけで示した。
客席からの笑い声が近い。座組の掛け声も近い。
舞台の向こうで誰かが高く声を張る。返った音が水面を渡ってくる。近すぎるせいで、こちらの足音まで芝居の一部に混じりそうだった。
係が低い棚へ砂時計を置く。
「置く」
灯が寄る。
「照らす」
白い布の裏、床板の下、柵の根元。
「数える」
ヴァローの歩幅が変わった。
最初は、一瞬だけだった。係の半歩後ろにいた足が、灯の前へ出そうになって止まる。彼は水面を見た。次に柵の影を見た。それから、戻された札の方角へ顔を向けた。紙挟みを開かない。むしろ閉じたまま、外套の内へ仕舞った。
それで俺の背中に火が入った。
紙挟みを仕舞ったヴァローの両手が空いた。
次に動くための手だった。
ヴァローは水と影をもう一度見た。歩く速さが変わる。係が次の手順へ移る前に、彼は導線の外へ出た。走るための足だった。
俺は追った。
腰の左で、聖剣の柄に掛かった封緘紐が視界の端で跳ねた。
抜けない。
その事実より先に、足が前へ出た。
劇場は近い。客席のざわめきが近い。座組の声が近い。仮設区画の柵を抜けると、水面から冷えが上がった。走ると、灯の影が横へ切れる。ヴァローの灰色の外套が前で揺れた。彼は舞台へ届く距離まで出た。
客席からは、こちらも演出の一部に見えたかもしれない。
走る男。追う俺。灯のそろった夜。開演前のざわめき。誰かが笑ったのか、歓声だったのか。判じる前にヴァローの声が飛んだ。
「離れろ。これは演出ではない」
水面の赤が、柵の影を細くほどいた。




