揺らめく赤の招待状
アルフレッドが盆を置く前に、フェリが魚の皿から顔を上げた。
サルマンディアは、総稽古の数日前に差しかかっていた。
薔薇の屋敷の食堂にも外のざわめきが薄く届き、窓の向こうでは祝祭用の布が朝から掛け替えられている。
通りの職人は脚立を立て、屋根の縁には白い花縄が増えた。
昼の光は窓枠で白く割れ、卓の上の皿へ浅く落ちていた。
魚の皮にはまだ熱が残り、香草と油の匂いが湯気の下で細く揺れている。
皿の縁に置かれた銀の匙だけが、外の騒ぎを知らない顔で冷えていた。
夜になれば港のほうから稽古の声が流れ、昼には婚礼船の支度を見に行く客が角を曲がる。
屋敷の壁を隔てても、人の数が増えた街は音の厚みで分かる。
車輪や靴や掛け声が重なる。
布を叩く風まで、食堂の静けさの外側にあった。
その全部を、フェリは魚の匂いより少し下に置いた顔で見ていた。
「凪様。マーレよりお届けでございます」
アルフレッドの声はいつも通り短かった。
盆の上には赤い封筒があった。
封筒というより、薄い板だった。
厚い紙を折ったものではなく、厚い紙に扉の役をさせている。
金の縁取りは昼の光を拾って、粉のように細かく瞬いた。封蝋には波と花の紋が押されている。赤い蝋の端はわずかに盛り上がり、砕けば指に粉が残りそうな厚さだった。
「手を拭いてから開けましょう。金が飯に落ちます」
ヒュウマが俺の皿の横へ布を置いた。
先に言うべきことは確かにそれだった。
俺は指を拭いた。
魚の油が布に移り、指先の熱だけが残る。
ラウリは腕を組み、紙と俺を交互に見た。イーリスは食事の手を止めて背を伸ばしていた。指先は膝の上で揃い、目だけは封蝋に刺さっている。
「招待状か」
「封蝋の厚みから申し上げますと、少なくともお詫び状ではございません」
アルフレッドは盆を少しだけ引いた。俺が手を伸ばす場所を、先に平らにするためだった。盆の底が卓を擦り、低い音を立てる。
「紙が重いです。盆の端を押さえます」
ヒュウマが手を添える。俺は封蝋を剥がした。音は小さかったが、食堂の全員がその音を聞いた。
蝋は割れるというより、乾いた殻のように外れた。
指の腹に赤い粉と金の粉が少し残る。
食事の熱を持った卓の上で、その紙だけが別の温度をしていた。
中には、さらに厚い紙が入っていた。
表には金で文字が刷られている。
紙の縁は硬く、持つと指へまっすぐ返ってくる。
曲げるための紙ではない。
見せるための紙だった。
千年海婚祭。タラッソガミア。記念総稽古。関係者席。
「全部、紙が先に胸を張っているな」
俺がそう言うと、フェリが尾を揺らした。
「胸のある紙は高いよ。丸めても鍋敷きにできない」
「鍋敷きにするご予定でしたか」
イーリスが目を細めた。
「しないよ。高い紙は、鍋敷きにする前に誰かが声を上げるからね」
「わたくしは声を上げます」
「ほら」
フェリは皿へ戻った。魚の骨が一つだけ、彼女の前で別の紙片のように整列していた。皿から上がる湯気は薄くなり、そこへ赤い紙の端が少しだけ映っている。
俺は招待状を開いた。
内側の紙は、外よりさらに白い。
指を滑らせると、紙肌は布より乾いていて石より柔らかい。
文字は整いすぎていて、書いた人間より印刷の機械が先に礼をしているようだった。
こういう紙は内容より先に儀礼を運ぶ。儀礼を剥がしてからでなければ、用件が見えない。
「読んでいただけますか、蒼凪殿」
イーリスの声には、物語を待つ人間の張りがあった。
「口上を全部か」
「すべてでなくとも。紙がそこまで装って来た以上、少しは舞台に上げて差し上げてもよろしいかと」
「紙が俳優か」
「この装いで黙っているのは失礼でございます」
ラウリがうなずいた。
「紙にも面子があるのか。町の祭りは大きいな」
ヒュウマは盆の端を押さえたまま、金の粉が卓へ落ちていないかを見ている。こういうとき、彼は紙の面子より床掃除を先に置く。
俺は招待状を少し持ち上げた。紙の厚みのせいで、手首に予想より重さが残る。
「マーレより、千年海婚祭タラッソガミア記念総稽古の関係者席へ招く。日時は総稽古の夜。水上劇場。席は案内に従うこと」
「案内に従うこと、でございますか」
イーリスが小さく繰り返した。紙の命令形に、歌い手の舌が触れた。
「まだある」
「名でございますね」
アルフレッドが言った。彼はもう知っている口だった。届いた時点で宛名を見ている。だが中身を勝手に開ける人間ではない。だから盆に乗せて、紙の重さごと運んできた。
俺は視線を下げた。
「蒼凪。ヒュウマ。イーリス。ラウリ」
それで終わりだった。
短い間、食堂の空気が止まった。止まったのは事件ではない。紙が期待していた反応の置き場所を、全員が探しただけだ。
窓の外で誰かが布を張る声を上げた。屋敷の中では、皿の上の魚がまだ小さく熱を逃がしている。
「俺の名もあるのか」
ラウリが自分の胸を指した。
「ある」
「以前の劇場で海鳥の話をしすぎた覚えはある。招くほどか」
「招く側の基準は分からない」
「大きい男は席の端に置くと、後ろの客が困ります。案内に従いましょう」
ヒュウマがそう言った。ラウリはまじめにうなずいた。
「端に座る」
「まだ席は決まっていない」
俺が言うと、ラウリはまたうなずいた。うなずきの数だけ、紙の重さが減っていく気がした。
「わたくしの名も、ございますのね」
イーリスは声を抑えていた。抑えているぶん、喜びは形を変えていた。椅子の背へ伸びる指が、歌の前に弦を確かめる指に似ている。
「ある。舞台の関係者席だ」
「関係者」
イーリスはその語を一度だけ舌に乗せた。
「今まで、わたくしは縁の外から眺めることが多うございました。今回は、紙の上で名を呼ばれたわけでございますね」
「そうなる」
「紙に呼ばれるのは、声に呼ばれるより逃げにくいものです」
アルフレッドが茶を注ぎ直した。招待状の横へ湯気が立つ。湯気は金箔に触れず、少し横へ流れた。ヒュウマがそれを見て、招待状を半指ぶん奥へずらした。
「濡らすな」
「守ります」
短い返事だった。紙に対してではなく、卓全体への返事だ。茶の熱は近く、紙の白は乾いていた。その差が卓の上で見える。
フェリは自分の皿を見たまま、名のない部分に鼻先を向けた。そこには彼女の名はない。彼女はそれを、魚の小骨と同じくらいの重さで受け取った顔をした。
「猫の名がないね」
「ないな」
「紙は猫を招かない。賢い」
「招くと来るかどうか分からないからか」
「来るかどうか分かる猫は、猫じゃないよ」
その判断は、紙より正確だった。
イーリスが笑いを飲み、ラウリが考え込む。ヒュウマは俺の指先を見た。
「蒼凪さん、指先」
金の粉が親指に残っていた。食堂の光を拾って、皮膚の皺の中で細く光る。俺が布で拭く前に、フェリが皿の向こうから言った。
「凪の指が高くなった」
「価値は上がっていない」
「でも売る時に説明は増える」
「売らない」
「売らない指は、なおさら高い」
「その理屈はやめろ」
イーリスがとうとう笑った。ラウリも腹の底で笑う。アルフレッドは表情を変えないが、茶の位置を整える手がわずかに遅れた。
招待状は卓の中央で、何も言わずに全員を動かしていた。紙はそれだけで、十分に口数が多かった。
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夕方、招待状は食堂からサロンの小卓へ移された。
同じ薔薇の屋敷の中でも、場所が変わると紙の顔は変わった。
昼は喜劇の小道具だったものが、夕方には地図の端に置く石になる。
窓の外では花縄を掛け終えた職人が帰った。
通りに残ったのは釘を拾う子どもと、明日の屋台の場所を測る男たちだった。
サロンの空気は食堂より少し冷えていた。茶の香りも魚の熱もなく、木の床と薔薇の枝を通った夕風の匂いがある。小卓の上で赤い紙は静かに重く、開いたまま置かれていた。
俺は招待状を開いたままにした。
隣に帳面を置く。
書き込みは少ない。
日付と差出人。
名指しの四名。
関係者席。
これだけで足りる紙ほど、あとで足りなくなる。
「行くのですか」
イーリスが問うた。問いというより、答えの入口を開ける声だった。
「行く」
俺はそう言ってから、茶碗を置いた。陶器の底が小卓に触れ、乾いた音を立てる。
「監視はしない。租借区に張り付けば、こちらの紙まで向こうの紙になる。だが、招かれた席に座るのは別だ」
「客として、でございますね」
「客として座る。見るだけだ」
ヒュウマが窓の外を見た。通りの向こうで、職人たちが白と青の布を柱へ渡していた。
「早めに出ましょう。街も見たいです」
「そうする」
風をはらんだ青い布が柱の間で大きく膨らみ、ヒュウマの目がその端を追った。
ラウリは大きな手で招待状の端を押さえた。
金の縁には触れない。
彼なりの礼儀だった。
指の太さと紙の薄い硬さが、同じ卓の上で別々のものに見える。
「関係者席というのは、舞台へ近いのか」
「近いとは限らない。関係者の種類による」
「魚市の関係者席なら、魚に近い席だ」
「舞台は魚市ではない」
「だが、良い場所ほど水の匂いは近い。なら悪くない」
ラウリの判断は大きいが、雑ではない。場所の価値を鼻で測る人間は、紙に騙されにくい。
イーリスは招待状に目を落とした。
「わたくしの名があることには、意味がございます。以前、劇場に招かれた者をもう一度呼ぶ。そこには継続がございます」
「向こうが継続を作っている」
「あるいは、継続があると見せたい」
「どちらでもいい。こちらは座って見る」
「冷たいお返事でございます」
「熱い返事で席へ行くと、見落とす」
イーリスは微笑んだ。窓から入る夕方の色が、その横顔の輪郭を細くする。
「では、冷えた目で参りましょう。歌を聴く者としては惜しいことでございますが」
「お前は熱く見てもいい。俺が横で冷ましておく」
「頼もしいこと」
フェリは窓枠に移っていた。黒い背が夕方の薔薇に紛れ、尾だけが別の生き物のように揺れている。窓枠の木は日を吸ってまだぬるく、彼女の足先だけがそこを知っている。
「フェリさんは」
ヒュウマが言った。それだけだった。名がない者を、会議の外に置かないための一語だった。
フェリは振り返らなかった。
「猫はね、一番よく見える席なんだよ。誰もあたしの分の幕を引かないから」
窓の外の釘拾いが笑った声が、遠くで弾けた。小さな釘が石に当たる音も続き、夕方の通りへ落ちていく。
俺は招待状の名簿を見た。紙の上にある名と、紙の外にある位置。その両方を地図に置くと、欠けていた形が少しだけ合う。
「配置としては、悪くないな」
フェリの耳が片方だけ動いた。
「凪が褒めた」
「褒めていない。配置を評価した」
「それを褒めるっていうんだよ」
「猫にだけ通る辞書を持ち込むな」
「人間の辞書は、扉が多くて逃げにくい」
ラウリが深くうなずいた。
「猫の言うことにも一理ある。扉は少ないほうが逃げやすい」
「逃げる前提で会場へ行くのはやめろ」
「フェリさんは窓から入りますよ」
ヒュウマが言った。
ラウリがまた深くうなずき、フェリの尾が窓枠を一度叩いた。
イーリスの口元が細く上がる。
そこで話は閉じた。
ヒュウマの視線は、次の柱へ渡される布に残っていた。
俺は帳面に一行足した。
招待状は通行証ではない。だが、席は一夜の観測権になる。
書いてから、その行を丸で囲まなかった。帳面を閉じると、紙の端が乾いた音を立てた。
イーリスが俺の手元を見た。
「蒼凪殿」
「何だ」
「関係者席で、物語を見つけたら」
「持ち帰っていい」
「よろしいのですか」
「紙に載らないものは、お前の領分だ」
イーリスは少しだけ黙った。声を持つ人間の沈黙は、音より場所を取る時がある。
「承りました」
アルフレッドが背後で控えていた。
彼はこの屋敷の者ではない客たちの会議を、屋敷の会議として支えている。
茶が減れば足し、窓が冷えれば閉める。
結論が出れば、それに必要なものを先に探す。
「衣装のご支度は、過度になさらぬほうがよろしいかと存じます」
「なぜだ」
「関係者席の装いは、目立つほど関係が疑われます」
「分かった。普通にする」
フェリが鼻で笑った。
「凪の普通は、普通に普通じゃないよ」
「どこがだ」
「賢者の顔をして、普通の席に座ろうとするところ」
「顔は外せない」
「じゃあ少し難しいね」
ヒュウマが俺を見た。俺の手元では帳面の角が少し浮いていた。彼は小卓へ目を落とし、招待状を風の当たらない位置へ半指ぶんずらした。
紙の縁が小卓に擦れ、薄く乾いた音がした。窓の外で職人たちの声が遠のいていく。夕方の屋敷は、結論を聞くとすぐに古い静けさへ戻ろうとする。
俺は帳面を閉じた。招待状は小卓の上に残った。厚い紙は、まだこちらを見ている。
こちらも見る。そう決めた。
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招待状が届いた翌日、イーリスが祝祭の露店を見たいと言った。
ラウリは、屋台も露店だと言った。
二人の用件は同じ方角だった。俺とヒュウマもついていった。
市場へ入ると、ヒュウマは指輪の露店で足を止めた。銀の輪に彫られた波の形を見ていた。
通りには銀色の輪を並べた露店が出て、店主は花嫁用と花婿用を声で分けて売っていた。
分け方に根拠はない。
太い輪を男へ、細い輪を女へ向ける店もある。
逆に置いて笑いを取る店もあった。
槌で台を直す音が、隣の通りから短く響く。布を広げる店では、湿った麻と染料の匂いが風に乗る。焼き物を扱う露店の前だけは土の匂いが強く、指輪の銀の冷えた光とは別の手触りを街へ置いていた。
婚礼の祭りでは、客の指が財布より先に見られる。
「海守りの輪に似ているな」
「向こうは縄です。こっちは波だけですね」
ヒュウマは銀の輪の一つを光へ傾けた。細い波が縁を一周している。
人の肩が後ろから押し、俺の外套の裾が露店の箱へ触れかけた。ヒュウマの指が俺の袖をつまみ、半歩だけ隣へ寄せる。肩が通り過ぎると、手は離れた。
「細かいな」
「一本ずつ違います」
イーリスは別の露店で、紙製の花冠を指に掛けていた。買う気はない。指先で材を確かめ、縁の細工を見ている。紙の花は軽く、風が吹くたびに花弁の端が細かく震えた。
ラウリは焼いた貝の屋台の前に立ち、香りだけで産地を当てようとして店主を困らせていた。炭の煙が低く流れ、そこへ貝の汁が落ちて甘い音を立てる。
「北の浜だな」
「旦那、惜しいね。西の小島だよ」
「潮の匂いが北に似ている」
「それは焼いた炭の匂いだ」
店主は笑った。ラウリも笑った。貝は買った。食べる理由は、当たったかどうかとは別に存在するらしい。
その翌日、イーリスは水上劇場から漏れる稽古を聞きたいと言った。
ラウリは婚礼船を見たいと言った。
二人の用件は、また同じ方角だった。俺とヒュウマも同じ道を歩いた。
前の日には柱だけだった通りに、白と青の布が掛かっていた。
木槌の音はまだ眠い軒下に響き、足場の板が乾いた声で鳴る。職人は昼を待たず、柱の間へ次の布を渡していた。
昨日まで空だった壁には海の花嫁の絵が貼られ、白い衣の女が貝殻の縁に立っていた。
向かいの壁には、同じ女を船首に立たせた絵がある。
どちらが正しいかは、誰も気にしない。
祝祭の絵は、正しさより先に人を足止めする。
人波は通りごとに押し方が違った。食べ物の屋台が多い路地では足が遅くなり、布屋の前では腕を広げた客が流れを横へ割る。劇場へ近い道は、まだ始まっていない夜へ向かう者たちの歩幅で少し速かった。
港へ近づく道では、婚礼船の支度が進んでいた。
船はまだ水に出ていない。
通りから見える造船場の奥で、白い布と花綱に埋もれていた。
船体の縁には細い金の線が引かれ、舳先には海へ向けて開く花が取りつけられている。
職人が縄を締めるたびに、花が風で揺れた。
揺れ方は軽い。だが船体の下に置かれた支えは太い。縄の繊維は湿り、近くへ寄ると木と海水の匂いが鼻の奥へ残った。
「飾りのほうが重そうに見える」
「見えるだけです」
ヒュウマは船を見たまま言った。
「下の支えが太い。水に落とす前の船です」
「落とす」
「陸の言い方なら、降ろします。海から見たら、落ちます」
「お前の言い方でいい」
彼は少しだけ目を伏せた。返事はなかった。返事がないほうが、言葉を受けたと分かる時がある。
イーリスは船の飾りを見ていた。白い布が風を受けるたび、目だけがその動きの後を追う。
「婚礼船は、海へ花嫁を渡すための船でございましょうか。それとも、海から花嫁を迎えるための船でございましょうか」
「両方と言われるだろうな」
「便利な答えでございます」
「祭りの答えは、便利なほど長持ちする」
ラウリが貝の串を持って戻ってきた。
「海は迎える時もあるし、持っていく時もある。どちらも機嫌の話だ」
「機嫌で婚礼をするな」
「人も機嫌でする」
否定できる材料が少なかった。イーリスが笑いを隠した。
その時、ヒュウマの指が俺の肘へ触れた。
「濡れてます」
造船場から流れた水が、石畳に薄く残っていた。俺が半歩下がると、指はすぐに離れた。舳先の花が風に裏返り、ヒュウマの目はそちらへ戻った。
昼を過ぎると、劇場のほうから稽古の声が漏れた。
水上劇場の入口は閉ざされている。
だが板を踏む音や、遠くへ投げる台詞の切れ端は水路を渡ってくる。
言葉は分からない。
音だけが分かる。
男たちの声が揃う。すぐにほどけ、また揃った。水路の面で一度丸まり、石壁に当たって薄く返ってくる。
イーリスが足を止めた。
「今のは、海へ向けておりますね」
「分かるのか」
「客へ向ける声ではございません。戻りを聞いて、次を置いています」
「戻り」
「水から返る音でございます。劇場で聞いた時も、あの方は海の返事を待ってから次を置いておられました」
アドニスの顔が一瞬だけ浮かび、劇場から返った次の声に消えた。
総稽古前日の昼、イーリスは告知札を一枚ほしいと言った。
ラウリは、先日の貝が本当に西の小島のものか確かめると言った。
二人の用件は、また同じ方角だった。俺とヒュウマも三度目の同じ道を歩いた。
前売りの札を売る小屋には、それまでの二日にはなかった長い列ができていた。
列の横では、子どもが赤い紐を売っている。
新月の夜に結ぶと願いが落ちない、と大きな声で言っていた。
願いは落ちるものではないと言いかけて、やめた。
祝祭の売り文句を削ると、街は少し寂しくなる。
子どもの声は人波の上をよく飛んだ。赤い紐は指先に絡められ、買わない客の目にも一度は触れる。近くの屋台からは焼いた砂糖の匂いが流れ、貝の匂いとぶつかって少し重くなった。
「願いを結ぶ赤い紐だそうでございます、蒼凪殿」
イーリスが一本を持ち上げた。
「買うのか」
「買いません。わたくしは落ちる願いより、落ちそうな歌のほうが気になります」
「どちらも拾うと増える」
「拾います」
ヒュウマが即答した。俺とイーリスが同時に彼を見る。
「何をだ」
「落ちたものです。踏まれます」
「願いもか」
「紐なら拾います」
イーリスは口元に手を当てた。笑いを隠しているが、肩が少し揺れている。ヒュウマはなぜ笑われているかを確認しなかった。落ちた紐は本当に踏まれるからだ。
水路の縁へ出ると、ヒュウマは欄干へ片腕を預けた。大潮へ向かう水に、赤い紐と紙の花が揺れている。
「水に映ると、花が増えますね」
「紐だ」
「遠目なら花です」
やがて俺たちは橋へ向かった。橋の手前は人が詰まり、荷を背負った男の肩がこちらへ押し返してくる。ヒュウマは俺の横へ寄り、同じ細い空きを抜けた。
夕方近く、屋敷へ戻る途中でラウリが追加の貝を買った。イーリスは結局、花冠ではなく小さな紙札を買った。そこには総稽古の告知文が刷られていた。イーリスはそれを招待状とは別の声で読み、少しだけ眉を寄せた。
「こちらの紙は、客を増やすための声でございますね」
「招待状とは違うか」
「違います。招待状は扉を開けます。この紙は、人の足を押します」
「押されている者が多い」
列はまだ伸びていた。
水上劇場へ続く道は、すでに祭りの夜を先に作り始めている。
稽古の声。
焼いた貝の匂い。
赤い紐。
紙の花冠。
婚礼船の白。
どれも明るい。
明るいものが多いほど、見えない場所は増える。
ヒュウマが俺の横に戻ってきた。手には、半分ほど食べた貝の串があった。
「西の小島でした」
「分かったのか」
「北の浜より甘いです。ラウリさんほど細かくは分かりません」
ラウリが貝の串を一本差し出した。
「食え。祭りで腹を空かせると、匂いに負ける」
「俺は匂いに負けない」
「負けた顔をした者は、たいていそう言う」
イーリスが紙札を扇のように揺らした。
「では、蒼凪殿が匂いに負ける前に戻りましょう。物語が始まる前に賢者が貝に敗れるのは、少々配役が難しゅうございます」
俺は貝を一本受け取った。熱かった。殻の近くに残った汁が指へ少し移り、香りは強い。負けではない。必要な補給だ。
ヒュウマは自分の串から最後の貝を外し、白い婚礼船のほうへ顔を向けた。
三度同じ通りを歩いたが、同じ街だった日は一度もなかった。
人が増えた。布も増えた。願い事を結ぶ赤い紐まで増えた。
総稽古は、明日の夜だった。
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「月、出てましたか」
水路端で、ヒュウマがそう言った。
総稽古の前夜だった。
屋敷へ戻る道は昼より細く見えた。
通りの飾りが増えたせいではない。
人が減り、残った光が水へ寄っているせいだった。
足裏に触れる石は昼より冷えていた。
水路の縁に近い段は湿り、靴底を置くたびにわずかに重い音を返す。
欄干越しの水は近い。
身を乗り出さなくても、そこにある冷えが膝の下へ上がってくる。
水路の石縁には赤い色が乗っていた。火の色ではない。花の色でもない。水面が揺れるたび、石畳の裏側から赤が返ってくる。
俺は顔を上げた。
月はない。
新月の近い夜だった。空は暗く、雲の切れ目にも白い輪は見えない。ヒュウマも同じように上を見て、それから水面へ視線を落とした。
「空にはありません。水だけ赤いです」
「そうだな」
赤は、説明を求めるほど強くはない。
だが無視して歩きすぎるには、目に残った。
水路の先では、祝祭の布が夜風に揺れている。
赤い色はその布にも少しだけ乗り、すぐに消えた。
欄干の影も、足元で短くほどけた。水の揺れに合わせて、石畳の継ぎ目が細く赤を返す。踏むと消え、足を離すとまた別の場所に戻る。
俺は道の端に寄り、自分の帳面を開いた。紙は暗がりで薄く見える。灯りを増やせば赤まで増える気がして、手元の明かりだけで足りることにした。
見上げた。
月はない。
記した。
水路の赤。月なし。総稽古前夜。
閉じた。
ヒュウマは水路の先で、赤をまとった祝祭の布を見ていた。
「行くか」
「はい」
屋敷へ戻るまで、赤は何度か足元に現れた。曲がり角の水たまり。橋の下。磨かれた店の戸板。どれも同じ色には見えない。けれど同じ箱に入れてよい程度には似ていた。
石段を上がるたび、靴裏の湿りが一段ずつ薄くなる。水から離れても、足首にはまだ冷えが残った。夜の通りは静かで、遠くの祝祭の布だけが風に擦れていた。
薔薇の屋敷の門灯は、いつも通り淡かった。アルフレッドが扉を開ける。彼は俺たちの靴元を見て、濡れ具合だけを確認した。
「お戻りでございます」
「ああ」
「湯をご用意しております」
「助かる」
フェリは階段の途中にいた。黒い体が手すりの影に重なっている。
「赤い足で帰ってきたね」
「足は赤くない」
「水の話だよ」
「見たのか」
「猫は床を見る」
それだけ言って、フェリは上へ消えた。窓の外へ出ていたのか、屋敷の床だけで見たのかは分からない。聞いても答えは半分だろう。
ヒュウマは階段の下で足を止めた。
俺の部屋は西の間にある。ヒュウマの客間は、そこから少し離れていた。
「おやすみなさい、蒼凪さん」
「ああ。おやすみ」
俺たちは並んで階段を上がった。
手すりは冷え、指に磨かれた木のなめらかさが残る。
上階の廊下へ出ると、ヒュウマは客間の並びへ折れた。俺はその先へ進み、西の間へ向かう。
足音が遠ざかり、少し遅れて扉の閉まる音がした。
俺は自分の部屋へ入った。机の上には昼に整理した紙がある。招待状の写し。街で拾った告知文。イーリスが買った紙札の写し。潮の簡単な書き付け。どれも灯りの下では普通の紙だった。
窓を開けると、遠くの水路が細く見えた。赤はもう見えない。見えないから消えたとは言えない。消えていないから何かだとも言えない。
帳面を開き、さっきの一行を見た。水路の赤。月なし。総稽古前夜。
その下には何も足さなかった。
机の引き出しを開け、帳面を入れる。引き出しを閉じる。木の音が部屋に残った。
俺は灯りを落とした。
眠りはすぐには来なかった。だが、来ないものを追いかけるほど起きている理由もなかった。
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招待状は、門で俺の名より先に働いた。
総稽古の夜、租借区の入口は祝祭の外縁とは違う明るさを持っていた。
街の屋台は客を誘うために光る。
こちらの灯りは、人を選ぶために立っている。
白い柱の間に係が並ぶ。
紙を受け取り、名を見る。
通す者と止める者がそこで分かれていた。
門の前の空気は乾いていた。港の近くにいるはずなのに、ここだけ紙を湿らせないための距離が置かれている。敷石は磨かれ、靴音が余計なものを持たずに返ってきた。
俺たちは四人で並んだ。俺。ヒュウマ。イーリス。ラウリ。
「招待状、出します」
ヒュウマが言った。俺は紙を渡した。係の男は封の紋を見て、名簿へ目を落とした。蒼凪。ヒュウマ。イーリス。ラウリ。声に出されるたび、紙の上の名が門の内側へ移る。
「お待ちしておりました。関係者席へご案内いたします」
係は礼をした。門が開く。開いた音は軽かった。重いのは、その先にある白い建物のほうだった。
マーレの本社は、夜でも白かった。
石の壁が灯りを受け、港の水気を吸わずに立っている。
前の広場は磨かれ、靴音が遠くへ抜けた。
祝祭の街とは違う匂いがした。
香料と潮と、紙を保つ乾いた空気が混ざっている。
広場には音の切れ目があった。
門の外の売り声は背中で薄くなり、内側では係の靴と布の擦れる音だけが先に立つ。
進むべき向きは、灯りの間隔と人の立つ位置で決まっていた。
ヒュウマが半歩後ろで周囲を見た。
「右の列です。係が呼んでます」
「分かった」
イーリスは扇を持っていない手で、衣の袖を整えた。ラウリは肩幅を少し狭くする努力をしていた。努力は見えるが、結果はあまり変わらない。
本社前広場の内側で、レオンが足を止めた。
「蒼凪殿」
「ああ」
ヴァローが紙挟みを胸に寄せた。
「賢者殿。こちらも、見るだけです」
「なら、同じだな」
レオンはうなずいた。ヴァローは視線を下げた。
それで終わった。
係の導線は止まらない。向こうも立ち話をするつもりはなかった。こちらもない。すれ違いの余白だけが残り、すぐに広場の音に薄まった。
「レオン殿とヴァロー殿も、招かれていたのですね」
イーリスが小声で言った。
「そうらしい」
イーリスは二人の背を一度だけ見送り、前へ向き直った。
ヒュウマは係の示す道へ視線を戻した。
広場を抜けると、水上劇場へ続く石の道に入った。道の脇には低い案内板が立っている。劇場。関係者入口。搬入通路。文字は白地に黒で、祝祭の飾りより読みやすい。さらに奥の区画に、別の板があった。
保税庫。関係者以外立入禁止。
その表示で、俺は初めてその語を今夜の場所に置いた。建物は遠い。白い壁の低い倉があり、扉の前に係が立っている。中は見えない。
石の道の途中で、布壁が風を受けて一度ふくらんだ。奥の倉はその向こうに見えたり隠れたりする。門の広場とは音が違い、ここでは搬入用の足音が低く短く止まる。
その傍に、ルッカがいた。
彼は倉の前で誰かの書類を受け取り、顔を上げた。距離があった。声は届かない。広場との間には白い柱と搬入用の布壁があり、さっきの余白はその向こうに沈んでいる。俺と目が合うと、彼は小さく頭を下げた。俺も同じだけ返した。ルッカはすぐ書類へ戻る。こちらへ近づくこともなかった。
「蒼凪さん」
ヒュウマが低く呼び、劇場へ続く石の道へ顎を向けた。
「ああ」
俺は案内板から視線を外し、彼と並んだ。
劇場の入口で、アドニスが待っていた。
「お越しいただき光栄です。お席へご案内いたします」
相変わらず、舞台の外でも舞台の上に立つ声だった。けれど今日は大きすぎない。周囲には係がいる。職人と楽人が行き交い、衣装を抱えた者も混じっている。彼はその流れを乱さない高さで礼をした。
「招待に感謝する」
俺が言うと、アドニスは深く礼を返した。
「今宵は総稽古です。幕の内側がまだ息を整えております。どうぞ、客席からご覧ください」
俺がうなずくと、アドニスは目を細めた。
「それが最もありがたい夜もございます」
アドニスは俺たちを関係者入口から通した。
通路の壁には海の花嫁の意匠が繰り返されていた。
白い衣。
青い波。
赤い花。
それらが順に現れる。
足元には水の音がした。
劇場が水の上にあることを、床が先に知らせてくる。
通路の空気は広場より少し湿っていた。足音は石ではなく板に変わり、靴底の下で短く沈む。布壁の向こうで誰かが道具を動かし、金具の触れ合う音がすぐに布へ吸われた。
イーリスの息が少し変わった。歌い手が舞台裏の空気を吸った時の呼吸だ。
「これは、客席に入る前から始まっておりますね」
「始まってはいない」
「始まる準備もまた、物語でございます」
「今日は客だ」
「はい。客として黙ります」
黙ると言った人間の声ではなかったが、イーリスは本当にそのあと黙った。
ラウリは通路の梁を見上げた。
「水の上に、よくこれだけ組む」
床が一度、小さく揺れた。ヒュウマの手が俺の背へ触れる。
「平気だ」
「はい」
手はすぐに離れた。通路の先で白い衣が風をはらみ、水から返った光が裾を走った。
「綺麗ですね」
ラウリがうなずいた。
客席へ出る直前、アドニスが足を止めた。
「こちらです」
関係者席は、舞台の全体が見える位置にあった。
近すぎず、遠すぎない。
花嫁の衣の裾が見える。
船の影も見える。
海へ向ける声の道も見える。
席の前には低い柵があり、その向こうで水が黒く揺れていた。
椅子は整然と並び、脚の下の床板は乾いているのに冷えを含んでいた。柵の向こうの水は近い。身を乗り出さなくても、下で小さく動く気配が靴底へ届く。
俺たちは順に座った。
ヒュウマは俺の左へ座り、舞台へ顔を上げた。
イーリスは背を伸ばし、手を膝の上で重ねた。
ラウリは椅子の脚を一度だけ確かめ、壊さない角度を見つけたらしい顔で腰を下ろした。
アドニスは前方で別の客へ礼をしていた。広場のほうはもう見えない。保税庫の案内板も劇場の外へ戻る。ルッカの姿も白い本社の壁も、客席に座れば同じだ。ここでは水と舞台が前にあり、俺たちは紙の名で置かれた席にいる。
低い柵の上に灯りが細く並び、椅子の影が足元へ落ちた。水の匂いが近い。床は動かず、下の水だけがかすかに息をしている。
その息は大きな揺れではない。椅子の脚の下を通り、靴底の薄いところへ冷えだけを返す。柵の影は水面でほどけ、また床へ黒く戻った。
舞台には、海の花嫁のための支度が整っていた。
白い布が風を待ち、船の影が水の上に落ちている。
白い布に水の光が走るたび、ヒュウマの目もその先へ動いた。
声はまだ上がらない。
客席のざわめきも低く抑えられていた。
総稽古の夜は、本番のふりをする。
その下に本番ではない顔を隠している。
俺は足元を見た。
水が揺れていた。そこに、昨夜見た赤があった。強くはない。名をつけるほどでもない。だが黒い水の下から細く返り、椅子と柵の影をほどいていた。
俺は見上げた。空には月がない。
帳面は出さなかった。
赤は、まだ何の意味にもならず足元の水で揺れていた。




