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群青幻想  作者: 滄龍 青司
CantoⅡ
123/129

災の字

 月の出の遅い夜は、港の影が先に間違える。


 宵の水路に月はまだなかった。軒の灯、船の灯、屋台の油皿、婚礼船の飾りに仕込まれた小さな火。そのどれもが、それぞれの影を床と水面へ落としている。普通なら影は灯の反対へ伸びる。近い灯の影は濃く、遠い灯の影は薄い。風が水を折れば、水面の影は遅れて乱れる。そこまでは、街の癖だった。


 今夜は、いくつかの影が灯を見ていなかった。


 桟橋の角で、樽の影が横へずれていた。灯籠は南側の軒にあり、樽の影は北へ落ちるはずだった。だが床板の継ぎ目を一本だけ越えて、影の先が西へ向いている。少しだけだ。酔った人間なら靴底の砂で片づける。水面の揺れと言っても通る。祝祭の支度で灯が増えすぎたせいだと言えば、それも通る。


 私は手控えを開いた。


 時刻。場所。床板の継ぎ目。灯の位置。影の向き。月のない時刻であること。


 筆先は湿った潮気で少し重かった。紙は塔の紙より柔らかい。サルマンディアの紙は塩を含むのか、折り目にわずかな粘りが残っている。書いた線が乾くまで、私は指を離して待った。待つ間に、近くの露店で貝を焼く匂いが来た。油は熱を含んで甘く、殻の焦げは舌の奥へ薄く苦いものを残した。温めた甘い酒の匂いがそこへ重なり、濡れた麻縄の匂いが足元から上がってくる。塔の夜より、ずっと腹に近い夜だった。


 赤い照り返しが床へ乗る場所もあった。


 そこは書かなかった。


 祝祭の灯で説明できるものは、数字にしない。婚礼船の紅布、店先の赤い油皿、水面で折れた灯。説明を外せないものを紙へ入れると、紙はすぐ人の願望を食う。私は赤を避け、月影の狂いだけを拾った。手控えの端に、小さく疑を置く。疑は軽い。軽いが、放っておくと紙から落ちる。


 港の奥では、夜の仕事がまだ続いていた。白布を軒へ掛ける者。仮設の棚へ札を下げる者。店の前で椅子を数える者。人の体温は、潮風に押されても消えない。肩と肩の間を抜けると、誰かの袖が外套に触れて乾きかけた布の温さが一瞬だけ残った。笑い声が薄く背中へ触れる。塔の渡り廊下では、人の声は石に吸われる。ここでは声が布と水に当たり、少し柔らかく戻ってくる。


 私は三つ目の影を書き留め、手控えを閉じた。


 紙の角が丸くなってきている。旅の紙はすぐ角を失う。角を失った紙ほど、持ち主の身体に近い。外套の内側へ入れると、薄い紙束が肋の下に当たった。塔を出る朝の辞令よりは厚い。あれよりは、こちらの方がまだ自分の手に近かった。


 宿へ戻ると、帳場の老人が顔を上げた。


「北便です。お連れの方ではなく、ノヴァ様へ」


 封書は、老人の手には少し重そうだった。


 暗い蝋。塔章。細い月の下に尖塔が並ぶ印。宛名の字は文献部門の手ではない。教会圏の書庫で訓練された写本係の字だ。塔の字より少し丸い。だが封の押し方は塔の作法に従っている。封筒の背は厚く、角が乾いていた。長い旅をした紙の丸さではない。近い場所で閉じられ、急いで便に乗った紙の硬さだった。


 早すぎる。


 私は封を切らなかった。帳場の灯の下で読む紙ではない。礼だけを言い、封書を外套の内へ入れた。今度は手控えの角とは違う場所で、封筒の厚みが肋へ当たった。歩く息に少し遅れ、硬い角だけが身体へ返事をしてくる。紙は軽い。軽いものほど、身体の内側へ場所を持つ時がある。


 共用室には、夕食の終わりの音が残っていた。


 ヴェスタは皿の上の魚の骨を器用に避けて、最後の身をパンに挟んでいた。カイは湯を入れた椀を両手で包み、診断所から持ち帰った紙を椅子の横へ伏せている。レオンは卓の端で水を飲み、ガイウスは背を壁に預けていた。彼の皿はもう空で、空であることに何の余韻もなかった。


「遅かったな、月読みの先生」


 ヴェスタが言った。


「港は夜の方が口数が多い。君に似ています」


「俺は昼も多いぞ」


「では港より不利ですね」


 ヴェスタは鼻で笑った。笑ってから、私の外套の内側へ視線を落とす。封書の角が布を少し押していたのだろう。


「まだ紙か。飯より先に乾くものなんてあるのか」


「あります。まず返書。次に、君の冗談です」


「乾きすぎだろ」


 カイが小さく笑った。レオンは封書を見たが、問いは置かなかった。以前なら、劇の件かとでも言ったかもしれない。今夜は言わなかった。彼は水を置き、椀の縁に付いた水滴を親指で拭っただけだった。


 聞かない判断には時々、問いより重い形がある。


 私は椅子に座った。女中が温め直した粥を置いていく。港の粥は塔の粥より塩が利いていたが、ここまで歩く間に少し冷めていた。表面には膜が張り始めている。私は匙で膜を崩さず、椀の縁だけを持った。木の椀は人の手を覚えていて、外側だけがまだ温かい。内側の粥は先に冷め、麦の重さだけが匙の下に沈んでいた。


「今日は診断所が混んでいました」


 カイが言った。用件ではなく、卓に置くための生活の声だった。


「祝祭前は怪我も増えますか」


「怪我もあります。ただ、近ごろ夢見が悪いという方が続いています。働き詰めの人が多いので、そのせいかもしれません」


 夢。


 その語だけを、私は椀の縁で受けた。木の外側の温さが指に残り、粥の膜が灯を鈍く返している。カイはそれ以上を続けない。祈りの方へ寄せるでも不吉の方へ倒すでもなく、治療院の世間話として慎重に置いた。レオンも反応を大きくしなかった。ヴェスタはパンを噛み、ガイウスは短く言った。


「寝不足は腹にも来る」


「山の知恵ですか」


「身体の話だ」


「それは失礼。塔では夜食の冷め具合で同じ結論へ行きます」


「面倒な道だな」


「塔は近道を嫌います。ご存知でしょうが、遠回りの方が書類になります」


 ヴェスタがまた笑い、カイが湯を飲んだ。共用室の床板は、人が通るたびに一か所だけ鳴る。女中はその場所を避ける。避けきれない客が踏むと、卓の杯の水が少し揺れる。宿の夜は、港の夜より小さい音でできていた。


 封書の続きを、誰も聞かなかった。


 私は粥を少し食べた。冷めた膜の下で麦が重い。塩と魚の匂いが、紙の匂いを少し遠ざける。だが外套の内側では、返書の角が呼吸に遅れて肋へ触れていた。冷めた粥は腹へ落ちる。紙は落ちない。封筒の角だけが、食事の拍子から外れた場所で身体に当たり続けた。


 食べ終える前に、封蝋の暗い縁だけが灯の下で細く固く光った。


──────────────────────────────


 自室の窓は、港側へ小さく開いた。


 宿の上階は共用室より静かだった。下の皿の音は床を通る間に丸くなり、言葉ではなくざわめきになる。窓枠は潮を吸って黒い。指を掛けると、木の表面がわずかにざらついた。外には灯が多い。多すぎる灯は夜を明るくするのではなく、夜の向きをいくつも増やす。


 私は卓を窓へ寄せた。


 封書を置く。暗い蝋へ小刀の背を当てる。切るのではなく、封の端を浮かせる。蝋は見た目より硬く、刃を立てない角度ではなかなか剥がれない。欠けた粒が一つ、卓の木目へ転がって止まった。塔の封は雑に破っても読める。だが雑に破られた封は、後で紙の性格を変える。私は蝋の縁を残し、紙を開いた。中の束は、思ったより厚い。最初の一枚は返答書だった。次に写しの抜粋が置かれ、最後に照会継続の控えがあった。


 塔の文献部門は教会圏の主要書庫に写本函を置き、近い箱から一次応答を返す。


 それで間に合う種類の照会だった。


 親切ではない。親切なら薄くてよい。厚い返書は、すでに棚があることを示す。紙の端には新しい切り口があり、写しの頁だけは古い文面を連れているせいで指への返りが鈍かった。私が月と赤い砂と古い金属枠について抽象的に投げたものは、近い箱の中で待っていた。


 返書の最初の行は、挨拶より先に等級を置いていた。


 確。記録名《災月沙漏》。


 紙が、そこで一度こちらを見た。


 私は息を吐いた。手紙には名を書かなかった。あの夜、舞台裏で見た札は半分だった。赤い砂が上へ流れたこと。古い金属枠。エレオノーラが奥へ下げたこと。そこまでは書ける。だが半分しか検めていない名は、照会に入れない。通称を記録名の顔で台帳へ持ち込めば、あとで訂す者の手が増える。


 返書は、こちらが空けた名の欄へ別の名を入れてきた。


 次の段は、古記録の写しだった。文語の癖が強い。写本係の手で読みやすく直されているが、古さは残っている。頁の紙は少し厚く、指で押さえると沈むより先に乾いた抵抗が返ってきた。宿の蝋燭は塔の閲覧灯ほど白くない。行の間に影が溜まり、古い言葉の角だけが沈まずに残っている。


 世ならぬ月を奉ずる徒、勢い盛んなりし頃、その教えを遠く伸ばさんがため、赤き月を抱く器を作る。


 世ならぬ月。


 私はそれを異界の月と読み下した。


 数百年前。異界の月の信奉者の勢力が強かった時期。異教徒の勢力を伸ばすために制作された器物。返書が渡してよいのは、そこまでだった。そこから先は、写しの側が急に痩せる。頁の余白は、古い沈黙のまま残されていた。


 推。来歴の古記録の写し。


 災は記録法上の分類語である。


 何が起こるかの記載は写しに含まれない。


 その一行は欠落というより、紙の向こうで閉じられた扉のようだった。何が起こるかは書かれていない。どう扱うべきかも書かれていない。数えた者がいた。名を置いた者がいた。だが、起きる事柄の側へは紙が行っていない。


 最後の結句だけが、塔らしく短かった。


 観測して数字を揃えよ。


 私は返書を伏せた。


 窓の外では、祝祭の灯が水面に折れている。港は紙の上の文語を知らない。知らないまま、灯を足し、床を直し、白布を結び、朝の点検票を重ねていく。知らないことは罪ではない。だが知らないまま手順が進むと、手順の方が世界の顔になる。


 私は市街図を出した。


 折り癖はすでに卓の上で方向を持っていた。開いても、四隅のうち二つが戻ろうとする。昼のうちに見た点検札の通り道を、薄い灰で置く。水上劇場。桟橋の仮設床。楽団席の昇降口。祭具を置く仮設区画。搬入路の門。札を持つ係は朝ごとに歩く場所を変えていた。街の者はそれを、祝祭前の安全確認として見ている。私もその説明を退けない。退けられないものを退けた瞬間、記録は願望になる。


 次に、月影の狂いだけを置いた。


 樽の影。低い棚の影。桟橋の杭の影。月のない時刻に、灯の向きから少し外れていたもの。赤い照り返しは数に入れなかった。紅布と油皿と水面で説明できるものは、ここへ置かない。夢見の話も、まだ置かない。カイの一言は受け取ったが、紙に載せるには足が足りない。


 点が増える。


 増えたから確かになるわけではない。疑は束ねても疑である。推へ上げるには、別の目と別の手順が要る。確にするには、もっと要る。私は確の欄を空けた。推の欄にも書かなかった。別紙の隅へ、小さく置く。


 札の通り道と、影の狂いの点が、同じ場所をいくつも踏む。


 そう書いてから、私は筆を止めた。


 踏む、という語は強い。道が意思を持ったように見える。私はその語を消し、並ぶ、と書き直した。並んだから同じものとは限らない。札の物と、返書の記録名が同じものとも限らない。危険かどうかも、まだ紙の上では決まらない。


 重なってしまったが、まだ推でしかない。


 その苦さだけが、口の奥に残った。


 返書の封蝋を小さな重しにして、市街図の端を押さえた。封の暗い赤は、宿の蝋燭の光では黒に近い。塔の封は、外の灯を受けてもあまり色を変えない。紙の余白に、古記録の文語が沈んでいる。そこに何が書かれていないかを、私は見ていた。


 筆の線が乾くまで、手は動かせなかった。濡れた墨はごく薄く光り、乾くにつれて紙の中へ沈んでいく。下の共用室で、誰かが椅子を引いた。遅れて笑い声が来る。ヴェスタの声ではない。宿の客の声だ。笑いは薄い床を通る間に、ただの低い揺れになる。灯が一つ、風で傾いた。卓の上で、地図の影が少し動く。


 私は確の欄を、白いまま残した。


──────────────────────────────


 数日の間に、港の白布は増えた。


 朝は釘と縄の音で始まり、昼は合唱の声で膨らみ、夕方には屋台の油の匂いが水路の端まで来た。夜には赤い照り返しが床の端へ乗る日があった。人は祝祭の灯だと言い、婚礼船の紅布だと言い、足を止めずに通り過ぎた。私もそれを紙の数字にはしなかった。


 立ち会いの申し入れは二度戻り、三度目でようやく通った。


 教会派遣の学者という肩書きは、こういう時だけ役に立つ。塔の名だけなら門で止まる。教会の名だけなら劇場の事務へ回される。両方を薄く重ねると、見学ではなく立ち会いという言葉になる。総稽古までの日数は、片手で足りるところまで減っていた。


 朝の桟橋は、夜よりずっと露骨だった。


 濡れた床板。昨日の雨ではなく、夜の潮を吸った湿り。仮設床の下で水が柱を叩く音。一定ではないが、忘れかけた頃に次が来る。古い綱のけば立ち。滑車は油の匂いより先に軋みを知らせ、耳の奥へ細い金属の線を残した。祭具を置く仮設区画では棚の木がまだ新しく、白い布の折り目が指を拒むほど硬かった。祝祭の表側は華やかだが、朝の裏側は手と足でできている。


 係が三人いた。札を持つ者、票を書く者、実際に覗く者。全員、眠そうな顔をしていない。眠そうにしている余裕がない顔だった。


 そこへ、エレオノーラが来た。


 薄灰の上着。髪はきっちりまとめている。目元には眠りの不足がある。疲れを隠しているというより、疲れを礼儀の形に折り畳んで持っている人だった。彼女は革板を抱え、こちらへ一礼した。


「お待たせいたしました。マーレ・パラデイソス、テクネ局ヒポクリテスのエレオノーラ・ヴィダルと申します」


 定型は疲れより強かった。


 私は礼を返す。


「月読みの塔のヴァロー・ノヴァと申します」


 顔は前に見ている。舞台裏で、赤い砂時計を奥へ下げさせた声も覚えている。だが名を交わしたのは初めてだった。名は顔に遅れて来る。遅れて来た名ほど、紙の上では強い。


「本日は立ち会いの許可をいただき、感謝いたします。ヴィダル殿」


「ノヴァ様のお申し出は、教会派遣の学術確認として受けております。現場の妨げにならない位置でお願いいたします」


「妨げるほどの体格ではありません」


「それは、妨げない理由には少し足りません」


 彼女は丁寧に言い、係へ目を向けた。係はすでに棚を開けている。布包みが出てきた。古い金属枠の砂時計。布は半分だけ払われる。砂は赤い。下にあるはずの砂が、細く上へ流れている。そこまでは、あの夜に見たものと同じだった。


 札は、まだ係の指に隠れていた。


「桟橋下、三つ目」


 札を持つ係が言う。声は朝の水に削られて、乾いて聞こえた。


 別の係が床へ膝をついた。仮設床の板を一枚持ち上げ、下の留め具を覗く。水の匂いが強くなる。床板の下で、水が柱を叩いた。膝をついた係の袖口が濡れ、彼は気にせず手を入れた。指先で金具を揺らす。


「緩み」


「交換」


 票を書く係がすぐに書いた。声は重ならない。誰も驚かない。驚かないことが、この手順の強さだった。


「事故票は」


「未発生。点検票へ」


 字句は短い。


 落ちなかったものを、落ちなかったうちに紙へ入れる。人を守る手順としては、正しい。私はその正しさを見ていた。床板の裏で、水がまた柱を叩いた。係は留め具へ新しい楔を入れ、結び目を締め直す。濡れた袖口から水が一筋落ちる。票を書く手は止まらない。点検票は、起きなかったことを数える紙だった。


 次は祭具を置く仮設区画だった。


 棚の入口に赤い紐が掛かっている。係は布包みを持ったまま、棚の前へ立つ。紐の結び目を指で確かめ、砂時計を覗いてから棚の上段を見上げた。棚には花輪の枠、白い飾り板、灯を下げる小さな金具が並んでいる。朝の光では、どれもただの道具に見えた。


 その時、札が私の側へ向いた。


 小さく、《朱月沙漏》と書かれている。


 私は一歩だけ近づいた。


 エレオノーラの視線が来る。係の手も止まる。私は札そのものへ指を伸ばさなかった。外部の手が触れれば、次の紙に余計な注が要る。


「ヴィダル殿、札の名をもう一度見せてください。私は今、字を疑っています」


 エレオノーラは係へ目を向けた。係は札を少し上げる。朝の光が札の面に乗った。墨は古くない。何度か書き直された札ではない。街の現場で使うための、読みやすい字だった。白札の端がかすかに揺れ、小さく乾いた音を立てた。


 朱。


 そう書いてある。


 だが私の手元の返書には、別の字がある。紙の厚みと封蝋の暗い赤と、写しの文語が一度に肋の下へ重く戻ってきた。


「朱ではない。災の字だ」


 口に出した声は、思ったより低かった。


 係は意味を測れない顔をした。エレオノーラはすぐに問い返さなかった。彼女は札を見た。それから私の顔ではなく、私の手元へまっすぐ目を落とした。私が何かを出すかどうかを待っている顔だった。実務者の顔だ。


 私は返書を出さなかった。


 ここで古記録の写しを広げれば、現場は紙を見る場所になる。いま現場は、床と綱と棚を見る場所だった。その順番を壊すほどの確は、私の手にはない。


 係は少し待ってから、手順へ戻った。砂時計を覗く。棚の上段を見る。金具の一つを指して、別の係へ確認を頼む。金具は締め直され、票へ入った。事故はない。落ちたものもない。怪我人もない。


「未発生。点検票へ」


 二度目の同じ声が、朝の仮設区画に落ちた。


 エレオノーラは革板へ短く書き足した。そこに何を書いたかは見えない。彼女の字は細く、速い。疲れた人の字ではなく、疲れていても崩す余裕のない人の字だった。


 点検が終わると、係は布を戻した。砂時計はまた半分隠れ、札の字も布の端に沈んだ。赤い砂だけが、布の隙間で細く上へ流れていた。


「この手順は、吊り灯の綱の一件からですか」


 私は聞いた。


 エレオノーラは革板を閉じかけた手を止めた。


「はい。最初は水上劇場の吊り灯です。綱の芯が切れかけておりました。落ちる前に見つけました」


「それで毎朝に」


「水上劇場の朝点検を毎朝へ切り替えました」


 一段。


 彼女はそこで言葉を切った。紙をめくり、次の頁を押さえる。


「三日分で、桟橋側の留め具、転換卓の棚、ほかにも小さな処理が出ました」


「それで周辺の区画へ」


「はい。舞台だけでは足りません。客の通る道、裏方の通る道、祭具を置く場所。朝の最初に、同時に回します」


 二段目。


 係が布包みを棚へ戻す。札の束が腰の高さで揺れた。白札の端が朝の光を受け、小さく鳴る。人を守る紙の音だった。守っているから、止める理由が薄くなる。


「総稽古の日は」


 私が言うと、エレオノーラの目元の疲れが一瞬だけ濃くなった。


「後ほど、確認いたします」


 そこで、彼女は一度だけ水路の方を見た。


「ここでは、係の手がまだ動いておりますので」


 正しい返答だった。


──────────────────────────────


 帰り際の水路は、朝の人で混んでいなかった。


 混む前の道だった。屋台はまだ火を入れきっておらず、油の匂いより濡れた木の匂いが勝っている。水路の端では白布を畳んでいた若い係が、縄の端を歯で噛んで固く結び直していた。遠くで合唱の声が試しに上がり、すぐに止まった。街は起きているが、まだ表の顔にはなっていない。


 エレオノーラは革板を腕に抱え直した。


「ノヴァ様。先ほどの字について、伺います」


「札の名と、塔の記録名が違います」


 私は言った。返書の束は外套の内側にある。出さない。出せないのではなく、出すだけの強さがない。紙を出せば、紙の重みで相手を動かせるような顔になる。いまの紙は、そこまで重くない。


「街の札は《朱月沙漏》。塔の記録には《災月沙漏》があります。確かなのは、その名が記録にあることだけです」


 エレオノーラは黙って聞いた。


「いま貴方がたの使っている器と、記録の器が同じだとは言い切れません。来歴の写しも推です。ですが、災は記録法上の分類語です。祝祭の色を示す字ではない」


「分類語」


 彼女は繰り返した。声に驚きはない。驚く前に、置く棚を探している声だった。


「その分類の中身は」


「ここで言えるものはありません。写しにもありません」


 これは、正確だった。正確であることが、薄かった。


 水路の水が低く動いた。朝の光はまだ弱く、白布の影は淡い。彼女は革板の角を親指で押さえた。指の爪に紙の粉がついている。


「点検票では、事故は未発生です」


 エレオノーラは言った。


「今朝も、先ほどの桟橋も。舞台の吊り灯も、落ちる前に見つけております。負傷者は出ておりません。現場でいま一番重い紙は、それです」


「分かります」


「止めれば、落ちるかもしれないものを見逃します」


「それも分かります」


「では」


「点検が人を守っているのは分かります。だから厄介なのです」


 彼女は返事をしなかった。


 その沈黙は拒絶ではない。こちらの言葉を、予定表と点検票と人員表のどこへ置けるか測っている沈黙だった。置ける場所が少ないのだろう。少ない場所へ無理に置くと、紙は折れる。折れた紙は、現場で人を守らない。


 少しして、彼女は言った。


「祭具を置く仮設区画の一部については、毎朝から隔日へ改めます。人の出入りが少ない場所に限ります。水上劇場、主要な桟橋、客の通る道は毎朝を維持いたします」


 譲歩は一つだけだった。


 具体的で、狭く、反論しにくい。そこに誠実さはある。誠実さがあるから、なおさら動かない。


「総稽古の夜は」


 私は聞いた。


「全区一斉で行います」


 エレオノーラは、今度はすぐに答えた。


「全座組、衣装、楽団、仮設通路、観覧の導線。全て同じ夜に動きます。点検をばらすと、かえって人が迷います。総稽古の夜だけは、動かせません」


 全区一斉。


 言葉は白い紙の上で乾いていそうだった。現場の足と手を束ねるための言葉。そこへ私の返書は入らない。入ったとしても、角だけが出て引っかかる。


「ご指摘は記録いたします」


 エレオノーラは続けた。


「また、総稽古の夜の全区一斉点検について、ノヴァ様に正式な立ち会い枠をご用意いたします。外部の学術立ち会いとして、同伴者一名まで。記録の照合が必要であれば、その場でお取りください」


 警告への返答が、席になった。


 拒まれたのではない。追い出されたのでもない。席を出された。こちらの言葉は現場を止める手ではなく、現場を見る目として手順の中へ静かに置かれた。丁寧で、整っていて、逃げ道がない。


「ありがたく受けます」


 私は言った。


 言わない選択はなかった。席を受ければ、点検は動く。席を受けなければ、点検は動く。ならば見る方を選ぶ。半分しかないものは、閉じるより持つ方がましだ。塔で一度そうして失敗し、それでも閉じなかった紙がまだ手元にある。


 エレオノーラは一礼した。


「詳細は宿へお届けします。ノヴァ様のご懸念も、添えておきます」


「懸念という語は便利ですね」


「便利でない語は、会議を通りにくいので」


 疲れた本音が、礼儀の下から少しだけ出た。


 それきり、彼女は現場へ戻った。白い上着の背は、朝の人の流れにすぐ混じった。革板の角だけが、歩くたびに腕の内側へ当たっているように見えた。


 私は水路の縁に立った。


 塔では発見より誤記の訂正に名前が残ります。残念ながら、正しい仕組みです。


 過去に言った言葉が、声ではなく紙の裏から戻ってきた。


 正しい仕組みだった。誤記の訂正に名が残る。閉じた台帳を開き直す者が、後の計算を守る。発見の名より、訂正の名が長く棚に残る。塔はそれで千年単位の暦を保ってきた。私はその仕組みを嫌ってはいない。嫌えないほど、身体に入っている。


 では、訂正されなかった名が街を歩く時、誰が数える。


 答えは返ってこなかった。


 水路の向こうで、係が札の束を持って走った。白札が揺れる。赤い紐が朝の光を受ける。人を守る手順は、今日も正しく歩いていた。


──────────────────────────────


 その夜、宿の卓はいつもの音を持っていた。


 皿が重なり、女中が床板の鳴る場所を避け、ヴェスタが魚の量について店の者と短くやり合い、カイが湯を頼み、レオンが明日の歩く先を確認し、ガイウスが食べ終えた皿を静かに押した。誰かの椀から湯気が上がり、すぐ薄くなる。厨房では、鍋の蓋が一度鳴った。


 私は卓を通り過ぎた。


「食わないのか」


 ガイウスが聞いた。


「食べます。先に紙を置きます」


「紙は逃げん」


「意味は逃げます」


 ガイウスは少し考えた。


「なら置け」


 それで会話は終わった。生活の音は生活の音として残り、その間を紙だけが通った。


 自室へ戻ると、窓の外はまだ明るかった。月ではない。港の灯だ。水面に灯が折れ、白布の裏を照らし、遠い桟橋の床へ赤い色が薄く乗っている。私は窓を閉めた。外の音が少し遠くなる。紙の音が戻る。


 卓へ、順に置いた。


 塔の返書。写しの抜粋。封蝋。市街図。月影の手控え。点検立ち会いの許可を知らせる紙。エレオノーラの字は細く、余白を無駄にしない。正式な立ち会い枠、同伴者一名まで。総稽古の夜。全区一斉点検。


 私は革筒から、古い束を出した。


 疑の束。


 塔を出る時に持ってきたものとは別の束も、ここへ来て増えた。港の月影。舞台裏の赤い砂。封書の控え。今夜、新しい頁を足す。紙の角はまだまっすぐだった。旅に入ればすぐ丸くなるだろう。丸くなった角だけが、あとで手の中に残る。


 確の欄は、空けた。


 《災月沙漏》という名の記録が在ることだけを、別の小さな欄へ置く。札の物と同じかどうかは、推の端へも乗せきれない。地図の点は疑の束へ入れる。夢見の一言は、まだ欄の外へ置く。赤い照り返しも、欄の外へ置く。祝祭の灯で説明できるものは、ここでも数字にしない。


 紙を分ける作業は、感情を分ける作業ではない。


 不吉に見えるものを不吉と書けば、紙は楽になる。だが楽な紙は、あとでよく嘘をつく。私は筆を置き直し、返書の最後の一行をもう一度見た。


 観測して数字を揃えよ。


 塔の声だった。


 親切でも警告でもない。手順だけを残す声。半分だけ信じ、半分だけ捨てるなという声ではない。半分を半分のまま持つなら、数字を増やせという声だった。塔はそうしてきた。私も、そうしてきた。閉じた台帳の外で、紙の角を肋に当てながら。


 総稽古の夜は、全ての札が同じ夜に動く。


 それより数字の揃う夜はない。


 良い夜、とは書かなかった。良いという語は、こういう時に足を滑らせる。私は手控えの端を少し切り、細い紙片を作った。切った端から紙の粉が指先へ残る。そこへ時刻の欄を空けたまま、細い字で短く書く。


 総稽古の夜。


 墨が乾くまで待った。


 待っている間、呼吸だけがやけに大きかった。吸うたびに喉の奥が乾き、吐くたびに目の表面が少し張る。下の共用室からヴェスタの笑い声が一度上がり、すぐに皿の音へ戻った。カイの声は聞こえない。レオンの足音も分からない。ガイウスの椅子が引かれる低い音だけが、床を通って来た。床を通った音は角を失い、丸くなって足元に溜まる。生活は、紙を待たない。だから紙は、生活の後から追うしかない。


 私は乾いた紙片を、新しい頁の端に挟んだ。


 返書を畳む。封蝋の欠けを小袋へ入れる。市街図を折る。月影の手控えを重ねる。点検立ち会いの紙を最後に置く。全部を革筒へ入れると、紙は内側で少し抵抗した。筒の中は乾いた油の匂いがする。塔を出る朝から変わらない匂いだ。指先には、細い紙粉と乾いた墨のざらつきが残っている。


 私は革筒の紐を締めた。


 締め切る前に、紙片の端だけが残った。


 革筒の口から、総稽古の夜と書いた端だけが細く出ていた。

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