閑話休題:継がれる鮫の血脈
網は、朝の手に軽かった。
ラウリは腰まで海に入り、濡れた縄を肩へ回した。潮はぬるい。夜の冷えを残しているはずの浅瀬が、もう日を待っている温度をしていた。
夜明け前に確かめた結び目の感触が、まだ指の腹に残っている。骨の針を通した時、縄の毛羽が皮膚を薄く擦った。肩から胸へ続く刺青の近くで針先が止まり、ほんの少し身を引いたことをラウリは誰にも見せなかった。網の目はきつく張れば指を噛む。緩めれば水の中で開く。どちらも手が覚えていた。
沖の裂け目から、波が細く入ってくる。
珊瑚礁の切れたそこだけが、島の腹へ船を通す道だった。木の桟橋は黒い岩へ片足をかけ、もう片方を内側の砂浜へ伸ばしている。桟橋の杭には古い藻が絡み、乾いた縄が何本も吊られていた。縄の端は朝露を吸い、指でつまむと芯だけが冷たい。
その奥に村がある。
低い緑の丘が背を丸め、家々は風を避けるように寄り合っていた。山ではない。島の背骨だ。椰子の葉と干し網の間から、朝の煙が細く上がる。煙は白く、魚を焼く匂いがした。
父のカエラニが、隣で縄を引いた。
「今朝も軽い」
声は低かった。怒ってはいない。海を相手に怒るには、朝はまだ早い。
「軽い」
ラウリは答えた。
網の底が砂を擦った。重さはある。水を抱いた網と藻の重さだ。二匹の小魚と小さな蟹も入っている。だが腹に応える重さではない。肩へ回した縄は皮膚を押すだけで、背を沈ませるほどではなかった。
父は網の縁へ視線を落とした。
「破れは」
「ない。逃げられた感じでもない」
「なら、見た通りでいい」
見た通り。
海が少なく返した朝だった。
ラウリは網を引き寄せ、絡んだ藻を外した。小魚が銀に跳ねる。手の中で冷たく暴れた。彼はそれを桶へ入れ、蟹は指で摘んで潮だまりへ戻した。甲羅は指先より冷たく、脚の細い力だけが忙しい。
「お前はまだ食うところが少ない。大きくなれ」
蟹は横へ走り、石の下へ消えた。
父が少しだけ口元を動かした。
「蟹に説いても仕方ないぞ」
「聞くかもしれない」
ラウリは石の穴を見たまま返した。
「なら、戻るまで覚えておけ」
「戻るなら、もっと身をつけてからだな」
浜の上で年寄りの漁師が笑った。笑いは短い。次の縄を引く手は止めない。
「凪の年はある。騒ぐほどじゃない」
誰に向けた言葉でもなかった。
浜にいた者たちはそれぞれ頷いた。頷かない者も手を動かした。シレナ島では、言葉より先に手が返事をする。網を絞る指。桶を寄せる膝。濡れた布を腰へ挟む仕草。すべてが朝の会話の残りを引き取っていった。
ラウリは桶を持ち上げた。二十歳の身体は、島の男たちの中でも頭一つ抜けていた。濡れた縄を肩にかけると、木の棒を担いだように見える。外から来た者なら振り返る。島の者は、通る邪魔にならないよう少し足をずらすだけだ。
黒い岩の道を上がる。
足裏に砂が残った。岩と岩の隙間には、白い貝殻の欠片と塩が詰まっている。朝の道は硬い。干潮の時はさらに白く見えた。夜の水で冷えていた岩は、歩くうちに薄く温まりはじめる。足の裏だけが、夜と朝の境を先に知った。
村の女たちが、家の前で魚籠を洗っていた。子どもが二人、桟橋の方を見ている。目は魚籠へ行った。桶へ戻り、ラウリの肩の縄へ上がった。
軽い網は隠せない。
島の目は多い。責める目ではない。飯の量を測る目だ。今日の鍋に何が入るのか。それを誰もが朝のうちに知りたがる。洗い水の音も包丁を置く音も、その答えを待つ間だけ少し静かになる。
「二匹だ」
ラウリは子どもたちへ桶を傾けた。
「二匹!」
小さい方が声を上げた。
「お前の声の方が大きい」
「蟹は?」
「戻した」
「食べればよかったのに」
「身が少ない。次に会った時だ」
「約束したの?」
ラウリは少し考えた。
「挨拶はした」
子どもたちは納得した顔で走っていった。挨拶と約束の違いは、あとで大人に聞くのだろう。
広場へ入る前、ラウリは海へ向き直った。
浅瀬の外で、黒い背が短く見えた。マノーではない。もっと小さな海獣だ。水を割って呼吸し、すぐに沈む。遠くでホヌの甲羅も一つ揺れている。
ラウリは桶を片手に持ち替え、濡れた指を額に当てた。額の皮膚は冷たかった。海に入っていた手が、朝の空気に晒されて白くなっている。
「通る。邪魔はしない。腹を満たしたら礼は返す」
父は何も言わなかった。
それは教えられた言葉ではない。朝の手順だった。網を引く。返されたものを見る。返らなかったものも見る。通るものに挨拶をする。
海に住むものを、道具の名で呼ばない。
島では子どもでも知っていた。
家へ戻ると、飯の匂いが先に迎えた。
シレリオ家は広場から少し奥へ引いた場所にある。村の家々より海に近く、裏手の坂を下れば黒砂の浜へ出られる。壁は白く塗られていない。潮に晒された木が、年ごとに色を深くしていた。戸口の木は朝でも湿りを含み、手を置くと掌に古い塩のざらつきがつく。
炉のそばには、アリイが置いた椀があった。
粥には砕いた芋と少しの魚が入っていた。魚は少ないが、葱と塩で匂いはよい。焼いた貝の身が、父の椀とラウリの椀へ一つずつ落とされた。椀の縁は熱く、持ち上げると掌の厚いところからじわりと温まる。
マエアは炉端に腰を下ろし、まだ眠そうな顔で椀を覗いた。
「兄さん、網は?」
「軽い」
「じゃあ粥を重くして」
「俺に言うな。鍋に言え」
「鍋は返事しない!」
「蟹より難しいな」
マエアは口を尖らせた。十五の妹は、朝から声の出る生き物だった。髪を結ぶ紐は片方だけ緩み、頬に煤がついている。炉の熱で頬だけ赤く、足元の板はまだ夜の冷えを残していた。
祖母は奥の席で干した葉を刻んでいた。手は遅いが、刃の音は揃っている。
「鍋は返事をするよ」
祖母が言った。
「焦げた時だけね」
マエアが椀を抱えた。
「それは怒ってる返事」
「怒る前に火を見るんだ」
アリイが椀を渡した。
ラウリは椀を取り、熱い粥を息で冷ました。塩気が喉を開く。魚の身は小さい。だが朝の腹は温まった。椀の底から上がる熱は、濡れた肩の冷えを少しずつ戻していく。彼は二口で椀の半分を空け、アリイに見られて速度を落とした。
「噛みなさい」
「噛んでいる」
「飲んでいる音がしたよ」
「粥は半分、飲むものだ」
「残り半分を噛みなさい」
父が静かに笑った。
ラウリは言い返さず、次の一口を噛んだ。芋が舌に崩れる。魚の骨が一本、歯に当たった。小さな骨でも、朝の口の中でははっきり分かる。
戸口で羽音がした。
海鳥が一羽、屋根の端に降りていた。白い胸に朝日が当たる。餌を待つ顔ではない。島の鳥は家の音を聞き分ける。人の声が高い家には近づき、包丁の音が多い家には長く留まる。
ラウリは粥を飲み込み、戸口へ出た。
「東の入り江へ行くなら、カレオの家へ寄れ。網は軽いが潮は穏やかだと伝えろ」
鳥は首を傾げた。
「あと、マエアがまた煤をつけている」
「兄さん!」
中から声が飛んだ。
鳥は羽を鳴らした。用を聞いたのか、腹を空かせただけかは知れない。ラウリは小さな魚の尾を摘み、屋根の低いところへ投げた。
鳥は空中で魚の尾を嘴に挟み、黒い岩の道を越えて飛んでいった。
マエアが頬を袖で擦って出てきた。
「煤、ついてた?」
「ついていた」
「今は?」
「広がった」
マエアは両手で頬を覆った。
父が椀を置いた音がした。
朝の飯は終わる。終われば、祭祀の手伝いが始まる。
ラウリは残りの粥を飲み、椀の底を見た。魚の油が小さな輪になって浮いていた。指の腹にはまだ縄の張りが残り、掌には椀の熱が残っている。
軽い網の日の、朝の輪だった。
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貝殻を擦る音が、広場の朝を先に起こした。
白い貝殻は広場の縁に敷かれている。飾りではない。濡れた足で踏めば音が変わる。重い荷を置けば欠ける。走る子の軽さまで音に出た。
ラウリは膝をつき、割れた貝殻を拾い分けた。湿ったものは指に吸いつき、乾いたものは爪に軽く鳴る。朝の広場には、濡れた布の匂いが低く残っていた。そこへ魚の匂いと塩、乾きかけた縄の青い苦みが順に混ざる。
隣で父が、素焼きの壺の水を替えている。壺は三つ。沖の水と内湾の水。それに井戸の水。どれも同じ水ではない。混ぜる順も決まっていた。間違えれば祖母が咳払いをする。祖母は広場にいない日でも、咳払いだけはどこかから聞こえる気がする。
鮫歯の飾りは低い杭に吊られていた。
風に鳴る。乾いた小さな音だ。怖がらせるためのものではない。近づく者に、ここから先は声を落とせと知らせる。
広場には朝から人が来ていた。
隣の島から来た女は、足に巻いた布を何度も結び直していた。小さな息子が熱を出しているという。父は子どもの額へ手を当てなかった。壺の水を小皿へ取り、母親へ渡した。
「飲ませるのは少しでいい。残りは戸口へ置いておけ」
「はい」
「夜に熱が上がるなら、舟では戻るな。空いた床を使えばいい」
女は布袋を差し出した。中には乾いた豆と、小さな銅貨が一枚あった。
父は銅貨を取らず、豆の半分だけを布へ戻した。
「子どもに食わせておけ」
女は頭を下げた。
人の列は短くても、肩の熱は近い。ひとりが進めば後ろの者の息が動き、潮風がそれをほどいていく。濡れた布の匂いが先に去る。次は汗。最後に壺の水の冷たい匂いだけが残った。
次に来た漁師は、網の端を持ってきた。結び目がほどけかけている。祭祀官へ見せるものではないと普通なら言う。だがこの島では、海へ出るものは祈りだけでは足りない。
ラウリは網を手に取り、指で撚りを確かめた。縄は乾ききる手前で、指先に細かく引っかかった。
「ここが甘い」
ラウリが結び目を引いて見せると、漁師は眉を寄せた。
「昨日直したのに」
「濡れたら開く」
「若いのに、よく見るな」
「若くても網は見る」
漁師は歯を見せた。島の者ではない。笑う前に目で値を測る癖があった。
父はそのやりとりを聞いていたが、口を挟まなかった。手順を任された場所で、ラウリが間違えれば後で直すつもりなのだろう。今は、直されなかった。
それが少し嬉しかった。
広場の反対側で、背の細い男が書き板を抱えていた。テオドロだ。数日前から島に滞在している。学者だと紹介されていた。朝の広場を歩く時も、足の置き方が遠慮深い。だが目は忙しい。
彼の目は貝殻の並びから壺へ移った。鮫歯の吊られ方で止まり、ラウリが網の結び目を直す指まで追った。
何も聞かなかった。
テオドロの後ろには巡礼者が二人いた。ひとりは布の傷んだ袖を握り、ひとりは腰の袋を両手で抱えている。島へ来る者は、最初に桟橋で見られる。次に黒い岩の道で見られる。そして広場で、ようやく声を出す。
広場へ来る頃には、巡礼者の肩から力が少し抜けていた。列の中の体温は、待つうちにゆっくり下がる。潮風が吹くたび、袋の口から乾いた豆の匂いがほんの少し立った。
「シレリオ家は」
袖の傷んだ男が、喉を鳴らした。
「沈んだ王国の祭祀官の末裔だと聞きました」
父は壺の蓋を閉じた。
「そう呼ぶ者がいる」
「なら、舟の名を見ていただきたいのです。祖父の舟で、もう誰も乗らない。捨てるのは、できない」
男の声は大きくない。生活の困りごとを抱えて来た声だった。
父はラウリへ目を向けた。
「白い皿を」
ラウリは広場の端から皿を取った。粗い土の皿だ。底に塩が残っている。父は内湾の水を少し落とし、男に舟の名を言わせた。
舟の名は古かった。言い慣れた人間の口で、形が丸くなっていた。
父はその名を繰り返さない。
ただ皿の水を、貝殻の縁へ静かに捨てた。水が白い殻の間へ入り、乾いた塩を少しだけ湿らせた。
「板を割るなら、潮の引く朝でいい。船底の釘は海へ投げるな。抜いたら、家の戸口へ置いておけ」
「戸口へ」
「家の者が外すまでは、そのままでいい」
男は唇を結んだ。
父の言葉はそこで終わった。広場にいた者たちも、それ以上を足さなかった。皿の水だけが貝殻の間へ残った。
ラウリは皿を洗い、元の棚へ伏せた。指についた水はすぐに乾かず、土の皿のざらつきだけが残った。
テオドロの筆が、そこで一度だけ止まった。すぐまた動く。彼は父を見ず、皿を見ていた。
昼が近づくと、広場の匂いが濃くなった。
潮。乾いた貝。魚の血。壺の水。人の汗。
それぞれが同じ場所に溜まるのではない。風が桟橋の方から入ると、まず魚の血の匂いが薄くなる。次に濡れた布がほどける。最後まで残るのは、手のひらと首筋にこもる人の熱だった。
ラウリは素焼きの壺を運び替えた。壺は見た目より重い。中の水が揺れ、腕に鈍く返る。巡礼者の子どもが、その腕を見上げて口を開けたままになった。母親が慌てて頭を押さえる。
ラウリは壺を置いてから、子どもへ手を振った。
子どもは母親の後ろへ隠れた。隠れたまま、また見た。
父が低く言った。
「怖がらせんでいい」
「振っただけだ」
「その手なら、子には大きい」
ラウリは自分の手を見た。確かに大きい。壺の口を塞げるほどではないが、小さな子には充分だった。
「小さく振ればいいのか」
「小さくしてみろ」
ラウリは指二本だけを動かした。
子どもは笑った。
父は壺の蓋を整えた。
「それでいい」
午後の祭祀は、浜へ移った。
海へ出る男たちが網を置き、女たちは干した布を広げた。祝うためではない。塩を含ませる。風を通し、次の潮で使うためだ。布は水を含むと重く、二人で持っても端が低く垂れた。手首の内側へ湿りが移り、乾く前の塩が白く浮いた。
広場の道具は祭りの日だけのものではなかった。白い貝殻も鮫歯も壺も、毎日の手で少しずつ傷んでいく。
ラウリは父の後ろで水を持ち、呼ばれれば渡した。呼ばれなければ立っていた。立っているだけでも、見ることは多い。
父の手は速くない。
水を置く。名を聞く。足元を見る。頼みをひとつだけ選ばせる。
ラウリはその順を目で追った。迷った手順は、夜に父へ聞けばいい。
夕方の風が変わる。
広場の貝殻が鳴った。乾いていた縄の匂いが少し戻り、魚の匂いは浜の方へ押し出された。人の肩の熱も、日が傾くと急に軽くなる。
テオドロは最後まで広場の外縁にいた。口伝のことも、家の奥の祭壇の間のことも聞かなかった。島の者がどこで声を落とすかを、彼なりに見ていたのかもしれない。
父は片づけの終わりに、ラウリへ空の壺を渡した。
「奥へ戻しておけ」
「沖の水は」
「沖は明朝でいい。今夜は内湾だけ残しておけ」
「高潮が近いからか」
父はすぐには答えなかった。
壺の口に布をかけ、結び目を確かめる。布はまだ湿っていて、結び目を締める指が少し沈んだ。
「近い」
それだけだった。
ラウリは壺を抱え、広場から家へ向かった。白い貝殻が足の下で鳴る。乾いた音は、朝より少し低かった。
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カエラニは、槍の柄をラウリの掌へ渡さなかった。
家の奥の祭壇の間は、昼でも暗い。
窓は小さい。海に向いた壁の高いところに一つだけ開いている。そこから入る光が、木の棚を斜めに撫でた。棚には小さな皿がある。乾いた紐と名の刻まれた古い木片も並んでいる。
床はよく磨かれていた。
ここに入る前、ラウリは足を洗った。砂の粒が残っていないか、指の間まで見た。洗い残しがあれば、父の目がそこで止まる。今日は止まらなかった。
厚い戸の向こうで、家の音が丸くなっていた。マエアの声と炉の蓋が当たる音は、壁に触れたあとで小さく戻ってくる。祭壇の間だけ、息の近さが違う。ラウリが膝を動かすと、床が低く鳴った。
槍は、父の膝の上にあった。
長い。
家の中では、さらに長く見える。片端の白い刃は布で包まれている。もう片方の丸い打撃部は、油を吸った木が鈍く光っていた。ラウリは子どもの頃からこの槍を見てきた。だが祭壇の間で父の膝にある時は、同じ槍ではない気がした。
部屋の隅の水皿が、ごく小さく揺れていた。誰も触れていない。戸の外を誰かが通ったのか。あるいは風が高い窓を押したのか。その程度の動きだった。揺れはすぐ消え、皿の縁に光だけが残った。
「触っていいか」
父はラウリを見た。
「何を確かめる」
「重さ」
「朝の重さでは足りんか」
「朝は父さんの道具だった。今は違う」
父の目が少し細くなった。
「今は何だ」
ラウリは答えようとして、口を閉じた。
祭壇の間の空気は、広場より乾いている。潮の匂いはある。だが潮だけではない。古い木と油と、火を小さく使ってきた匂いが床に染みている。息を吸うと喉の奥で止まり、すぐには下りていかなかった。
「家のものだ」
父は槍の柄を指で押さえた。
「それでは半分」
「海のものか」
ラウリは父の手元を見た。
「それも半分。なら、残りは」
答えはまだ二つに割れたままだった。
その考えは口に出さなかった。ここで言うには、子どもの理屈に聞こえる。
父は槍を持ち上げた。
天井に当たらない角度を、身体が知っている。長い柄が低く回り、布で包まれた刃がラウリの前へ来た。柄の端が掛け木の近くをかすめ、木が短く鳴った。父の手は柄の中央から離れない。
「次の高潮の夜に、家督を渡す」
父の声は低かった。
祭壇の間の壁に、言葉が吸われた。
ラウリは息をした。喉が乾いていた。
「俺に」
ラウリは槍を見たまま聞いた。
「ほかに誰がいる」
「マエアは」
「あれは騒がせておけ」
「祖母は」
「祖母の番は、もう終わった」
ラウリは父の顔を見た。冗談ではない。試している声でもない。朝の海を見て、軽い網を軽いと言う時の声だった。
「次の高潮」
ラウリは言葉をなぞった。
「そうなる」
「なら、マノアラニは」
「儀式になれば、海へ入る」
「俺が受けるのか」
「受けられるなら、受けてみろ」
胸の奥が熱くなった。
最初に来たのは喜びだった。
それを隠す余裕はなかった。ラウリの目は槍へ行った。父へ戻り、また槍へ落ちた。マノアラニ。子どもの頃から名を聞き、近づきすぎれば祖母の杖が飛んできた槍。海へ出る父の背にあった。広場では低い杭の影に置かれ、祭壇の間では誰の手にも余る長さを持つ槍。
その槍を、受ける。
「マノーも来るのか」
口から先に出た。
父は眉を上げた。
「槍より先に、それを聞くか」
「槍もだ。だが、マノーは」
「怖くないか」
「怖い。だが先に見たい。声を聞けるのか。近くまで来るのか。父さんの時はどうだった」
言葉が多い。
自分の耳にも、その速さが残った。広場では父の後ろで黙っていられる。海へ出れば、波の音に合わせて待てる。だが今は、胸の内側が網の中の魚みたいに跳ねた。
父は槍を膝へ戻した。柄が布の上へ落ち着く時、低い音が床へ返った。狭い部屋で、その音は思ったより近かった。
「問いが多い」
「悪いか」
「悪くない。返事は急がんでいい」
「急いでいる」
「見れば分かる」
父は布に包まれた刃へ手を置いた。
「マノーが来るかは、お前が決めることではない。槍も、欲しいだけでは足りん」
「何が足りない」
「夜まで待てばいい」
「今は」
「今は、飯を食っておけ」
ラウリは目を瞬いた。
「飯」
「腹が鳴っている。先に食えばいい」
父の口調はいつものものだった。
ラウリは少しだけ笑った。
「それは分かる」
「分かるなら、椀を空けろ」
「儀式の前に、俺の飯は増えるのか」
「アリイに聞けばいい」
「母さんは減らすと言う」
「なら、減ると思っておけ」
「家督を渡す話より厳しいな」
父は笑わなかった。
だが目の底に、少しだけ光が動いた。
「ラウリ」
呼ばれて、背が伸びた。
「はい」
「今、嬉しいか」
「怖くもある」
「なら、どちらも祭壇へ持って入れ」
父はラウリの顔から目を離さなかった。
ラウリは頷いた。喉の奥に残っていた熱が、少しだけ下がる。下がっても消えない。槍の長さが、胸の中へ一本入ったようだった。
「父さん」
「何だ」
「俺は、当主になるのか」
父はすぐ答えなかった。
祭壇の間の外で、マエアの声がした。何かを落としたらしい。アリイの声が続く。祖母の咳払いも聞こえた。戸で丸くなった家の音が、部屋の端へ転がってくる。
家が動いている。
父はその音を聞いてから、槍を横へ置いた。
「炉の火は、誰が見る」
「母さんだ」
父は続けた。
「布と塩が足りなければ」
「俺が数え直す」
父は一度だけ頷いた。
「なら、鍋が焦げる前に見ておけ」
それならいい。
ラウリは頷いた。
父は立ち上がり、マノアラニを壁の高い掛け木へ戻した。長い柄が収まると、掛け木が短く軋んだ。部屋の暗さが少し戻った。
「卓では俺から言っておく」
「マエアが騒ぐ」
「騒がせておけ」
「母さんは椀の数を直す」
「直してもらえばいい」
「祖母は」
父は戸へ手をかけた。
「祖母が何を言っても、聞いておけ」
それにも頷けた。
ラウリはもう一度、祭壇の棚を見た。小さな皿。乾いた紐。古い木片。そこにあるものは、どれも軽そうに見える。
どれも軽いのに、どこへ指を掛けるべきか迷った。
だが、言わなかった。
言えば、自分の言葉ではなくなりそうだった。
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「次の高潮の夜、ラウリへ家を渡す」
「兄さんが当主? じゃあ朝飯の魚、兄さんの分から減らす。偉い人は我慢するんでしょ!」
「魚は減らさない。塩と布を数え直す」
「カノアは、初日に炉の鍋を落としたよ」
シレリオ家の当主は、まず台所で試されるらしい。
マエアは椀を抱えたまま、口を開けてラウリを見た。
それから、吹き出した。
「兄さん、今の顔!」
「どんな顔だ」
「魚を取られたマノー」
「マノーは魚を取られる側ではない」
「じゃあ、魚を待っている兄さん」
「それは普段の俺だ」
アリイが炉のそばで蓋を開けた。
「普段より大きい顔をしている」
「母さんまで言うのか」
「事実は言う」
卓の上には固めに炊いた穀がある。粥ではない。小魚を炙ったものも並んでいた。魚は多くない。皿の中央に寄せられ、家族全員が少しずつ取る形だった。焼いた芋と海藻の酢漬けが隙間を埋めている。穀には豆の粉が少し混じり、噛むと舌の上で乾いた甘さが残った。
マエアは箸を伸ばし、魚の一番焦げたところを取った。
「当主になるなら、兄さんはもっと低い声で喋るの?」
「今も低い」
「低いけど、飯の話になると速い」
「大事な話だからな」
「家督より?」
「飯を食わない当主はすぐ倒れる」
祖母が小さく笑った。
「倒れる前に座りなさい」
ラウリは座っていたが、背が伸びすぎていたらしい。肩の力を抜いた。卓の縁が、膝に当たる。子どもの頃は遠かった卓が、いつの間にか低くなっている。椀の底にはまだ熱が残っていて、持ち替えるたびに指の節を温めた。
アリイの手が、皿の数を確かめた。
魚。芋。海藻。塩。油。干し葉。
指は速くない。止まる場所が決まっている。干し魚を入れた壺の蓋を少し開ける。残りを見て、閉じる。棚の上の布を一枚下ろし、儀式に使う分だけ畳み直す。銅貨の入った小袋は広げず、重さだけを掌で測った。布は古い塩を含んでいて、指先で押すと乾いた粒が擦れた。
誰も、その手を大げさに見なかった。
凪の年はある。
そういう年の卓だった。
マエアは魚を半分かじり、すぐに父へ顔を向けた。
「父さん、兄さんが当主になったら、私の仕事は増える?」
「増えると思っておけ」
「何が?」
「兄をからかうなら、先に布を畳め」
「それは仕事じゃない。罰」
「なら、罰も増えると思え」
「ひどい!」
「声が大きい」
アリイの一言で、マエアは両手で口を塞いだ。塞いでも目は騒いでいる。
ラウリは魚を食べた。焦げた皮が苦い。身は小さいが油があった。塩が舌に当たり、そのあとで脂が遅れて広がる。喉を通ると、少し腹が落ち着く。
「ノエラには、明朝の鳥で知らせる」
アリイが言った。
嫁ぎ先の島から戻る潮ではない。だから来ない。それだけが卓に置かれた。マエアは少し唇を尖らせたが、すぐ芋を取った。
祖母が湯をすすった。湯気が白く立つ。祖母の皺の奥に、火の色が入った。
「カノアも、若い時はよく食べた」
「祖父さんが?」
ラウリは聞いた。
祖母は頷いた。
「祭壇の前で緊張して、戻ってから鍋を空にした。緊張は腹に来る人と、喉に来る人がいる」
「兄さんは腹!」
マエアが即座に言った。
「まだ決めてない」
ラウリは言い返した。
「分かるよ。兄さん、今も芋を二つ取った」
「一つは大きさが半分だ」
「数は二つ」
「母さん」
ラウリはアリイを見た。
アリイは布を畳みながら言った。
「数は二つ。量は一つ半」
マエアが勝った顔をした。
「半分はどこへ行った」
「兄さんの言い訳」
「それは食えない」
「だから魚を減らす」
「戻ったな、その話に」
父は黙って食べていた。
父が黙ると、卓の音がよく聞こえる。箸。椀。炉の薪。外の潮。屋根で何か小さなものが歩く音。食べる速さもそれぞれ違った。マエアは熱いものに息を吹きすぎる。祖母は湯で口を湿らせてから少しずつ食べる。父は魚を小さく分け、皿の上に残る塩まで箸で集める。
ラウリは父を見た。
カエラニはいつも通りに見えた。魚を小さく分ける。芋を食べ、湯を飲む。だが槍を膝に置いていた時の声が、まだ耳に残っている。家督を渡す。その言葉が、卓の上の皿や布や小袋へ静かに触れていた。
魚の焦げた皮も塩の量も、鳥へ持たせる言伝も同じ卓に載っている。
「何を見ている」
父が言った。
「父さんの皿」
「魚はやらん」
「見ただけだ」
「見ているだけでも減る」
マエアが笑いすぎて、湯をこぼしかけた。
アリイが布巾を投げた。正確にマエアの膝へ落ちる。
「拭きなさい」
「こぼしてない!」
「こぼす前に拭く」
「それは先読みがひどい」
「あなたは読める」
祖母がまた笑った。笑いは声にならず、肩だけが揺れる。
卓は騒がしい。
騒がしいまま、夜は深くなった。
食後、アリイは儀式に使う布を広げた。白ではない。海水で洗った布だ。日に干され、古い塩を含んでいる。マエアは文句を言いながら端を持ち、ラウリは反対側を持った。
布は長い。
マエアの腕では余る。ラウリの腕でも、張りすぎると父に見られる。布の端をつまむ指には、塩のざらつきが残った。引けば織り目が鳴る。ゆるめれば床へ触れる。
「強く引かずに持っておけ」
父が言った。
「破れるか」
「布を怒らせんでいい」
「父さんも鍋みたいなことを言う」
「鍋より先に覚えておけ」
マエアが笑った。
アリイは笑わず、布の端を揃えた。指先が小さく動く。必要な幅だけを折り、余りは元の棚へ戻した。
ラウリは布を畳み終え、戸口へ出た。夜の島は昼より近い。黒い岩の道は、月が出るまで深く沈む。広場の鮫歯が、風でかすかに鳴っている。
夜の潮が、家の下でゆっくり動いていた。
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今夜、ラウリは口伝の残りを受ける。幼い頃から少しずつ聞かされてきた。だが最後の部分だけは、家を継ぐ者にしか渡されない。
祭壇の間へ入る前、祖母は炉の火を短くした。
火は消さない。消せば部屋が冷えすぎる。大きくすれば、壁の影が動きすぎる。祖母は薪を一本だけ残し、灰を寄せた。橙の線が細く残る。
ラウリは戸口に立っていた。
足は洗った。手も洗った。髪は首の後ろで結んだ。上衣は脱ぎ、火の色が肩から胸へ続く刺青に落ちていた。いつもの身体なのに、皮膚が少し遠く感じる。長く座る前から、膝の奥に重さが来ていた。喉は乾いているのに、水が欲しいとは思わなかった。
父は奥にいた。
祖母も入る。アリイは戸の外で水の皿を置いた。マエアは騒がなかった。騒がないことが、いちばん騒がしい合図だった。
「兄さん」
小さく呼ばれた。
ラウリは振り返った。
「何だ」
「終わったら、何か食べる?」
「たぶん」
「たぶんって何」
「腹が聞いていない」
マエアは眉を寄せた。
「それ、かなり大きなことだね」
「そうだな」
アリイがマエアの肩へ手を置いた。
「外で待つ」
マエアは頷いた。
祖母が戸の内側から呼んだ。
「ラウリ」
彼は祭壇の間へ入った。
戸が閉じる。
外の家の音は、小さくなった。
そこから先の言葉は、部屋の外へ出なかった。
火が短く燃えた。水の皿が一度だけ動いた。床の木が、膝の重さで低く鳴った。風が高い窓を撫で、潮の匂いが薄く入った。ラウリは何度か瞬きを忘れた。次に目を閉じた時、まぶたの裏に火の細い線だけが残った。
夜は長かった。
長かったはずなのに、夜の折り返しはラウリの中に残っていなかった。
膝の皮膚は板の硬さを覚えている。足の甲は冷え、背中だけが火で温かい。喉は乾き、唾を飲む音が自分の内側で大きく聞こえた。言葉が通るたびに、胸の奥のどこかが少しずつ位置を変えていく。何を聞いたかではなく、聞いた後に身体の中で何が閉じたかだけが残った。
戸が開いた時、炉の火はさらに短くなっていた。家の中は静かだった。アリイは座ったまま顔を上げ、マエアは膝を抱えていた。戸の外の空気が戻ってくる。灰と粥と干した布の匂いが一度に入り、祭壇の間でこわばっていた喉をゆっくりほどいた。祖母は最後に出てきた。
父は何も言わない。
ラウリも何も言えなかった。
言葉がなくなったのではない。口の中へ戻って、置く場所を探している。さっきまでの自分なら、問いを続けたはずだ。マノーは来るのか。槍はどう受けるのか。海は拒むのか。
問いは残っている。
だが、すぐ口に出す形を失っていた。
マエアが立ち上がりかけ、アリイの手で止まった。
祖母はラウリの前へ来た。小さな手で、彼の胸の前の空気を撫でる。触れはしなかった。
「閉じる場所を忘れなければいい」
それだけ言った。
ラウリは頷いた。
声は出なかった。
翌朝から、潮を数えた。
ひとつ目の朝は、黒い岩の濡れた線を見た。どこまで潮が来たか。どこで止まったか。父は棒で印をつけず、白い貝殻を一枚だけ置いた。
「流れたら」
ラウリは聞いた。
「流れたと分かればいい」
父はそう答えた。
ふたつ目の昼は、内湾の水を壺へ入れ替えた。壺の内側に塩の輪が残る。ラウリは指で触り、舌に乗せた。塩は強い。風の向きが変わる前の味だった。
「舐めんでいい」
父が言った。
「確かめた」
「口で確かめるものは少ない。覚えておけ」
「飯は」
「飯は別でいい」
みっつ目の夕方は、広場の貝殻を整えた。マエアが手伝いに来て、真面目な顔をしていたのは最初だけだった。すぐに欠けた貝殻で目の形を作り、アリイに見つかって戻された。
「兄さん、緊張してる?」
マエアが小声で聞いた。
「している」
「ほんとに?」
「嘘をつく理由がない」
「兄さんでも緊張するんだ」
「する。腹も減る」
「それはいつも」
「だから迷わない」
マエアは少し笑い、欠けた貝殻を桶へ入れた。
不漁の網は、相変わらず軽かった。
だが浜は暗くならない。小さい魚は焼かれた。貝は汁になった。マエアが豆を焦がしかけた。アリイが鍋を上げて間に合わせた。
四つ目の夜、ラウリは父と浜へ下りた。
儀式の前の夜だった。
黒砂は冷えていた。昼の熱を手放し、波の湿りを含んで締まっている。遠くの桟橋は影になり、杭の先だけが星の下に立っていた。内湾の水は静かだ。外の礁に当たる波だけが、低く続いている。
父はマノアラニを持っていなかった。
手ぶらだった。
ラウリは少し目を見開いた。槍がない父は、ただの父に見える。だが海を前に立つと、やはり祭祀官だった。
「聞きたいことがあるなら、聞けばいい」
父が言った。
「多い」
ラウリは夜の海を見た。
「なら、一つにしろ」
問いは多い。口伝の夜から、さらに増えた。増えたのに、軽く出せなくなった。胸の中で、網の目のように絡んでいる。
「頼んで、来なかったらどうする」
父は海を見たまま答えた。
「頼めば来てくれる。だが断られた日を覚えているのが祭祀官だ」
言葉は波音に混ざらなかった。
浜にそのまま残った。
ラウリは喉の奥で息を止めた。断られた日。そんなものがあるのかと聞きたかった。父の顔が、あると答えている気もした。
「父さんは、覚えているのか」
「ああ」
父はそれ以上を言わなかった。
ラウリは自分の足元を見た。波が届き、引く。砂に沈んだ足指の周りで、小さな泡が消える。戻り波は足首を横から押し、踏み直さなければ膝の奥まで揺れた。
簡単な言葉ばかりだった。口伝の夜を通った後では、どれも重さが違った。ラウリは一度、足元の砂を踏み直した。
ラウリは海を見た。
マノーの背は見えない。ホヌも見えない。星の下の水は黒く、ただ動いている。
「父さんは、怖かったか」
「怖かった」
父の返事は早かった。
「今もか」
「今も変わらん」
ラウリは少し驚いた。
父の怖い顔を、彼は見たことがない。怒った顔ならある。疲れた顔もある。網の軽い朝の顔も知っている。布施を返す時の顔も、祭壇の間の顔も知っている。
怖い顔は知らなかった。
「見えない」
ラウリは父の横顔を見たまま言った。
「見せんでいい」
「隠すのか」
父は波へ目を戻した。
「しまっておく」
その違いは、今なら少し腹に落ちる。
ラウリは頷いた。
父は砂の上に腰を下ろした。ラウリも隣に座る。二人の影が後ろへ伸びた。海の方には影ができない。波が来るたび、足元だけが消えて戻る。長く座ると膝の内側に冷えが溜まり、砂に触れた踵が少しずつ沈んだ。
しばらく話さなかった。
沈黙は重くない。ただ、次の波まで言葉を置かない方がいい時間だった。
浜の上では、夜の虫が鳴いた。遠くで犬が一度吠えた。家の方からは、マエアの小さなくしゃみが聞こえた気がした。
「聞こえたか」
ラウリが言った。
「何が」
「マエア」
「この距離で聞こえるなら、明日は浜の端まで届く」
「騒ぐだろう」
「騒がせておけ」
父がそう言ったので、ラウリは笑った。
笑いはすぐ潮に吸われた。だが少し楽になった。
翌日の朝、島は早く起きた。
広場の白い貝殻は洗われ、鮫歯の飾りは掛け直された。壺にはそれぞれ水が入り、布の端は揃っている。アリイは炉の火を小さく保ち、祖母は祭壇の間で最後の皿を拭いた。
マエアは何度も外へ出た。
「落ち着かない」
「落ち着け」
ラウリが言うと、マエアは振り返った。
「兄さんに言われたくない!」
「俺は座っている」
「身体だけでしょ」
言い返せなかった。
昼は長かった。
潮が満ちるまでの時間は、いつもより遅い。ラウリは何度も黒い岩へ下り、濡れた線を見た。父は止めなかった。止めない代わりに、三度目からは一緒に来た。
「数えすぎか」
ラウリが聞いた。
「数は合ったか」
「合った」
「なら、浜へ来い」
父は短く答えた。
夕方、巡礼者たちは広場の外へ下がった。島の者も、声を落とした。テオドロは広場の縁に立っていた。筆は持っていない。書き板も閉じている。彼は浜へは下りない場所を選んだ。
その距離を、島の者は見ていた。
夜が来る。
満ちた潮が内湾へ入った。桟橋の杭が低く見える。黒砂の浜は狭くなり、白い貝殻の列が波に近づいた。
ラウリは上衣を脱いだ。
夜気が肌に触れる。刺青の線が冷え、すぐに身体の熱を取り戻した。アリイが肩へ布を掛け、すぐ外した。掛けるためではなく、塩の跡を払うためだった。
「食べた?」
マエアが小声で聞いた。
「食べた」
「足りた?」
「今は足りている」
「終わったら?」
「その時に聞け」
マエアは頷いた。騒がないまま、頷いた。
祖母は浜の上で杖をついていた。風に揺れない。小さい身体が、黒い砂にしっかり立っている。
父が家から出てきた。
槍を持っていた。
夜の中で、槍は長かった。白い刃の布は外されている。刃は月を映さず、海の光だけを薄く返した。丸い木の端は父の手の中にあり、柄の油が暗く光った。父が一歩進むたび、柄の重みが腕から肩へ移っているのが見えた。
広場の鮫歯が鳴る。
誰かが息を呑んだ。
父はラウリの前で止まった。
槍を差し出さない。
ラウリも手を出さなかった。
出しかけた指を、握り込んだ。今、受け取るものではない。父の手から自分の手へ移るだけなら、祭壇の間で終わっていた。浜まで来た意味がない。
父は海へ向いた。
波が足首まで来る。引く。次は少し高い。高潮の夜の水は、内湾の奥まで息を入れてくる。濡れた砂は足裏を包み、体重をかけるたびに沈んだ。戻り波が踝を押し、立っているだけで身体の芯を探られる。
父は一歩進んだ。
ラウリは後ろに立つ。マエアの息。アリイの手。祖母の杖の先。島の者たちの沈黙。巡礼者の遠い気配。全部が背中にあった。
海は前にある。
父は槍を横に持ち替えた。
長い柄が、夜の水の上で低く伸びる。白い刃が一度だけ波に触れた。水が刃を舐め、黒く落ちた。父の腕に重みが移り、柄の先が沈む。夜の水は冷たく、近くに立つラウリの足首までその冷えが上がってきた。
カエラニの手が、槍を夜の海へ沈めた。




