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群青幻想  作者: 滄龍 青司
CantoⅡ
124/127

閑話休題:継がれる鮫の血脈

 網は、朝の手に軽かった。


 ラウリは腰まで海に入り、濡れた縄を肩へ回した。潮はぬるい。夜の冷えを残しているはずの浅瀬が、もう日を待っている温度をしていた。


 夜明け前に確かめた結び目の感触が、まだ指の腹に残っている。骨の針を通した時、縄の毛羽が皮膚を薄く擦った。肩から胸へ続く刺青の近くで針先が止まり、ほんの少し身を引いたことをラウリは誰にも見せなかった。網の目はきつく張れば指を噛む。緩めれば水の中で開く。どちらも手が覚えていた。


 沖の裂け目から、波が細く入ってくる。


 珊瑚礁の切れたそこだけが、島の腹へ船を通す道だった。木の桟橋は黒い岩へ片足をかけ、もう片方を内側の砂浜へ伸ばしている。桟橋の杭には古い藻が絡み、乾いた縄が何本も吊られていた。縄の端は朝露を吸い、指でつまむと芯だけが冷たい。


 その奥に村がある。


 低い緑の丘が背を丸め、家々は風を避けるように寄り合っていた。山ではない。島の背骨だ。椰子の葉と干し網の間から、朝の煙が細く上がる。煙は白く、魚を焼く匂いがした。


 父のカエラニが、隣で縄を引いた。


「今朝も軽い」


 声は低かった。怒ってはいない。海を相手に怒るには、朝はまだ早い。


「軽い」


 ラウリは答えた。


 網の底が砂を擦った。重さはある。水を抱いた網と藻の重さだ。二匹の小魚と小さな蟹も入っている。だが腹に応える重さではない。肩へ回した縄は皮膚を押すだけで、背を沈ませるほどではなかった。


 父は網の縁へ視線を落とした。


「破れは」


「ない。逃げられた感じでもない」


「なら、見た通りでいい」


 見た通り。


 海が少なく返した朝だった。


 ラウリは網を引き寄せ、絡んだ藻を外した。小魚が銀に跳ねる。手の中で冷たく暴れた。彼はそれを桶へ入れ、蟹は指で摘んで潮だまりへ戻した。甲羅は指先より冷たく、脚の細い力だけが忙しい。


「お前はまだ食うところが少ない。大きくなれ」


 蟹は横へ走り、石の下へ消えた。


 父が少しだけ口元を動かした。


「蟹に説いても仕方ないぞ」


「聞くかもしれない」


 ラウリは石の穴を見たまま返した。


「なら、戻るまで覚えておけ」


「戻るなら、もっと身をつけてからだな」


 浜の上で年寄りの漁師が笑った。笑いは短い。次の縄を引く手は止めない。


「凪の年はある。騒ぐほどじゃない」


 誰に向けた言葉でもなかった。


 浜にいた者たちはそれぞれ頷いた。頷かない者も手を動かした。シレナ島では、言葉より先に手が返事をする。網を絞る指。桶を寄せる膝。濡れた布を腰へ挟む仕草。すべてが朝の会話の残りを引き取っていった。


 ラウリは桶を持ち上げた。二十歳の身体は、島の男たちの中でも頭一つ抜けていた。濡れた縄を肩にかけると、木の棒を担いだように見える。外から来た者なら振り返る。島の者は、通る邪魔にならないよう少し足をずらすだけだ。


 黒い岩の道を上がる。


 足裏に砂が残った。岩と岩の隙間には、白い貝殻の欠片と塩が詰まっている。朝の道は硬い。干潮の時はさらに白く見えた。夜の水で冷えていた岩は、歩くうちに薄く温まりはじめる。足の裏だけが、夜と朝の境を先に知った。


 村の女たちが、家の前で魚籠を洗っていた。子どもが二人、桟橋の方を見ている。目は魚籠へ行った。桶へ戻り、ラウリの肩の縄へ上がった。


 軽い網は隠せない。


 島の目は多い。責める目ではない。飯の量を測る目だ。今日の鍋に何が入るのか。それを誰もが朝のうちに知りたがる。洗い水の音も包丁を置く音も、その答えを待つ間だけ少し静かになる。


「二匹だ」


 ラウリは子どもたちへ桶を傾けた。


「二匹!」


 小さい方が声を上げた。


「お前の声の方が大きい」


「蟹は?」


「戻した」


「食べればよかったのに」


「身が少ない。次に会った時だ」


「約束したの?」


 ラウリは少し考えた。


「挨拶はした」


 子どもたちは納得した顔で走っていった。挨拶と約束の違いは、あとで大人に聞くのだろう。


 広場へ入る前、ラウリは海へ向き直った。


 浅瀬の外で、黒い背が短く見えた。マノーではない。もっと小さな海獣だ。水を割って呼吸し、すぐに沈む。遠くでホヌの甲羅も一つ揺れている。


 ラウリは桶を片手に持ち替え、濡れた指を額に当てた。額の皮膚は冷たかった。海に入っていた手が、朝の空気に晒されて白くなっている。


「通る。邪魔はしない。腹を満たしたら礼は返す」


 父は何も言わなかった。


 それは教えられた言葉ではない。朝の手順だった。網を引く。返されたものを見る。返らなかったものも見る。通るものに挨拶をする。


 海に住むものを、道具の名で呼ばない。


 島では子どもでも知っていた。


 家へ戻ると、飯の匂いが先に迎えた。


 シレリオ家は広場から少し奥へ引いた場所にある。村の家々より海に近く、裏手の坂を下れば黒砂の浜へ出られる。壁は白く塗られていない。潮に晒された木が、年ごとに色を深くしていた。戸口の木は朝でも湿りを含み、手を置くと掌に古い塩のざらつきがつく。


 炉のそばには、アリイが置いた椀があった。


 粥には砕いた芋と少しの魚が入っていた。魚は少ないが、葱と塩で匂いはよい。焼いた貝の身が、父の椀とラウリの椀へ一つずつ落とされた。椀の縁は熱く、持ち上げると掌の厚いところからじわりと温まる。


 マエアは炉端に腰を下ろし、まだ眠そうな顔で椀を覗いた。


「兄さん、網は?」


「軽い」


「じゃあ粥を重くして」


「俺に言うな。鍋に言え」


「鍋は返事しない!」


「蟹より難しいな」


 マエアは口を尖らせた。十五の妹は、朝から声の出る生き物だった。髪を結ぶ紐は片方だけ緩み、頬に煤がついている。炉の熱で頬だけ赤く、足元の板はまだ夜の冷えを残していた。


 祖母は奥の席で干した葉を刻んでいた。手は遅いが、刃の音は揃っている。


「鍋は返事をするよ」


 祖母が言った。


「焦げた時だけね」


 マエアが椀を抱えた。


「それは怒ってる返事」


「怒る前に火を見るんだ」


 アリイが椀を渡した。


 ラウリは椀を取り、熱い粥を息で冷ました。塩気が喉を開く。魚の身は小さい。だが朝の腹は温まった。椀の底から上がる熱は、濡れた肩の冷えを少しずつ戻していく。彼は二口で椀の半分を空け、アリイに見られて速度を落とした。


「噛みなさい」


「噛んでいる」


「飲んでいる音がしたよ」


「粥は半分、飲むものだ」


「残り半分を噛みなさい」


 父が静かに笑った。


 ラウリは言い返さず、次の一口を噛んだ。芋が舌に崩れる。魚の骨が一本、歯に当たった。小さな骨でも、朝の口の中でははっきり分かる。


 戸口で羽音がした。


 海鳥が一羽、屋根の端に降りていた。白い胸に朝日が当たる。餌を待つ顔ではない。島の鳥は家の音を聞き分ける。人の声が高い家には近づき、包丁の音が多い家には長く留まる。


 ラウリは粥を飲み込み、戸口へ出た。


「東の入り江へ行くなら、カレオの家へ寄れ。網は軽いが潮は穏やかだと伝えろ」


 鳥は首を傾げた。


「あと、マエアがまた煤をつけている」


「兄さん!」


 中から声が飛んだ。


 鳥は羽を鳴らした。用を聞いたのか、腹を空かせただけかは知れない。ラウリは小さな魚の尾を摘み、屋根の低いところへ投げた。


 鳥は空中で魚の尾を嘴に挟み、黒い岩の道を越えて飛んでいった。


 マエアが頬を袖で擦って出てきた。


「煤、ついてた?」


「ついていた」


「今は?」


「広がった」


 マエアは両手で頬を覆った。


 父が椀を置いた音がした。


 朝の飯は終わる。終われば、祭祀の手伝いが始まる。


 ラウリは残りの粥を飲み、椀の底を見た。魚の油が小さな輪になって浮いていた。指の腹にはまだ縄の張りが残り、掌には椀の熱が残っている。


 軽い網の日の、朝の輪だった。


──────────────────────────────


 貝殻を擦る音が、広場の朝を先に起こした。


 白い貝殻は広場の縁に敷かれている。飾りではない。濡れた足で踏めば音が変わる。重い荷を置けば欠ける。走る子の軽さまで音に出た。


 ラウリは膝をつき、割れた貝殻を拾い分けた。湿ったものは指に吸いつき、乾いたものは爪に軽く鳴る。朝の広場には、濡れた布の匂いが低く残っていた。そこへ魚の匂いと塩、乾きかけた縄の青い苦みが順に混ざる。


 隣で父が、素焼きの壺の水を替えている。壺は三つ。沖の水と内湾の水。それに井戸の水。どれも同じ水ではない。混ぜる順も決まっていた。間違えれば祖母が咳払いをする。祖母は広場にいない日でも、咳払いだけはどこかから聞こえる気がする。


 鮫歯の飾りは低い杭に吊られていた。


 風に鳴る。乾いた小さな音だ。怖がらせるためのものではない。近づく者に、ここから先は声を落とせと知らせる。


 広場には朝から人が来ていた。


 隣の島から来た女は、足に巻いた布を何度も結び直していた。小さな息子が熱を出しているという。父は子どもの額へ手を当てなかった。壺の水を小皿へ取り、母親へ渡した。


「飲ませるのは少しでいい。残りは戸口へ置いておけ」


「はい」


「夜に熱が上がるなら、舟では戻るな。空いた床を使えばいい」


 女は布袋を差し出した。中には乾いた豆と、小さな銅貨が一枚あった。


 父は銅貨を取らず、豆の半分だけを布へ戻した。


「子どもに食わせておけ」


 女は頭を下げた。


 人の列は短くても、肩の熱は近い。ひとりが進めば後ろの者の息が動き、潮風がそれをほどいていく。濡れた布の匂いが先に去る。次は汗。最後に壺の水の冷たい匂いだけが残った。


 次に来た漁師は、網の端を持ってきた。結び目がほどけかけている。祭祀官へ見せるものではないと普通なら言う。だがこの島では、海へ出るものは祈りだけでは足りない。


 ラウリは網を手に取り、指で撚りを確かめた。縄は乾ききる手前で、指先に細かく引っかかった。


「ここが甘い」


 ラウリが結び目を引いて見せると、漁師は眉を寄せた。


「昨日直したのに」


「濡れたら開く」


「若いのに、よく見るな」


「若くても網は見る」


 漁師は歯を見せた。島の者ではない。笑う前に目で値を測る癖があった。


 父はそのやりとりを聞いていたが、口を挟まなかった。手順を任された場所で、ラウリが間違えれば後で直すつもりなのだろう。今は、直されなかった。


 それが少し嬉しかった。


 広場の反対側で、背の細い男が書き板を抱えていた。テオドロだ。数日前から島に滞在している。学者だと紹介されていた。朝の広場を歩く時も、足の置き方が遠慮深い。だが目は忙しい。


 彼の目は貝殻の並びから壺へ移った。鮫歯の吊られ方で止まり、ラウリが網の結び目を直す指まで追った。


 何も聞かなかった。


 テオドロの後ろには巡礼者が二人いた。ひとりは布の傷んだ袖を握り、ひとりは腰の袋を両手で抱えている。島へ来る者は、最初に桟橋で見られる。次に黒い岩の道で見られる。そして広場で、ようやく声を出す。


 広場へ来る頃には、巡礼者の肩から力が少し抜けていた。列の中の体温は、待つうちにゆっくり下がる。潮風が吹くたび、袋の口から乾いた豆の匂いがほんの少し立った。


「シレリオ家は」


 袖の傷んだ男が、喉を鳴らした。


「沈んだ王国の祭祀官の末裔だと聞きました」


 父は壺の蓋を閉じた。


「そう呼ぶ者がいる」


「なら、舟の名を見ていただきたいのです。祖父の舟で、もう誰も乗らない。捨てるのは、できない」


 男の声は大きくない。生活の困りごとを抱えて来た声だった。


 父はラウリへ目を向けた。


「白い皿を」


 ラウリは広場の端から皿を取った。粗い土の皿だ。底に塩が残っている。父は内湾の水を少し落とし、男に舟の名を言わせた。


 舟の名は古かった。言い慣れた人間の口で、形が丸くなっていた。


 父はその名を繰り返さない。


 ただ皿の水を、貝殻の縁へ静かに捨てた。水が白い殻の間へ入り、乾いた塩を少しだけ湿らせた。


「板を割るなら、潮の引く朝でいい。船底の釘は海へ投げるな。抜いたら、家の戸口へ置いておけ」


「戸口へ」


「家の者が外すまでは、そのままでいい」


 男は唇を結んだ。


 父の言葉はそこで終わった。広場にいた者たちも、それ以上を足さなかった。皿の水だけが貝殻の間へ残った。


 ラウリは皿を洗い、元の棚へ伏せた。指についた水はすぐに乾かず、土の皿のざらつきだけが残った。


 テオドロの筆が、そこで一度だけ止まった。すぐまた動く。彼は父を見ず、皿を見ていた。


 昼が近づくと、広場の匂いが濃くなった。


 潮。乾いた貝。魚の血。壺の水。人の汗。


 それぞれが同じ場所に溜まるのではない。風が桟橋の方から入ると、まず魚の血の匂いが薄くなる。次に濡れた布がほどける。最後まで残るのは、手のひらと首筋にこもる人の熱だった。


 ラウリは素焼きの壺を運び替えた。壺は見た目より重い。中の水が揺れ、腕に鈍く返る。巡礼者の子どもが、その腕を見上げて口を開けたままになった。母親が慌てて頭を押さえる。


 ラウリは壺を置いてから、子どもへ手を振った。


 子どもは母親の後ろへ隠れた。隠れたまま、また見た。


 父が低く言った。


「怖がらせんでいい」


「振っただけだ」


「その手なら、子には大きい」


 ラウリは自分の手を見た。確かに大きい。壺の口を塞げるほどではないが、小さな子には充分だった。


「小さく振ればいいのか」


「小さくしてみろ」


 ラウリは指二本だけを動かした。


 子どもは笑った。


 父は壺の蓋を整えた。


「それでいい」


 午後の祭祀は、浜へ移った。


 海へ出る男たちが網を置き、女たちは干した布を広げた。祝うためではない。塩を含ませる。風を通し、次の潮で使うためだ。布は水を含むと重く、二人で持っても端が低く垂れた。手首の内側へ湿りが移り、乾く前の塩が白く浮いた。


 広場の道具は祭りの日だけのものではなかった。白い貝殻も鮫歯も壺も、毎日の手で少しずつ傷んでいく。


 ラウリは父の後ろで水を持ち、呼ばれれば渡した。呼ばれなければ立っていた。立っているだけでも、見ることは多い。


 父の手は速くない。


 水を置く。名を聞く。足元を見る。頼みをひとつだけ選ばせる。


 ラウリはその順を目で追った。迷った手順は、夜に父へ聞けばいい。


 夕方の風が変わる。


 広場の貝殻が鳴った。乾いていた縄の匂いが少し戻り、魚の匂いは浜の方へ押し出された。人の肩の熱も、日が傾くと急に軽くなる。


 テオドロは最後まで広場の外縁にいた。口伝のことも、家の奥の祭壇の間のことも聞かなかった。島の者がどこで声を落とすかを、彼なりに見ていたのかもしれない。


 父は片づけの終わりに、ラウリへ空の壺を渡した。


「奥へ戻しておけ」


「沖の水は」


「沖は明朝でいい。今夜は内湾だけ残しておけ」


「高潮が近いからか」


 父はすぐには答えなかった。


 壺の口に布をかけ、結び目を確かめる。布はまだ湿っていて、結び目を締める指が少し沈んだ。


「近い」


 それだけだった。


 ラウリは壺を抱え、広場から家へ向かった。白い貝殻が足の下で鳴る。乾いた音は、朝より少し低かった。


──────────────────────────────


 カエラニは、槍の柄をラウリの掌へ渡さなかった。


 家の奥の祭壇の間は、昼でも暗い。


 窓は小さい。海に向いた壁の高いところに一つだけ開いている。そこから入る光が、木の棚を斜めに撫でた。棚には小さな皿がある。乾いた紐と名の刻まれた古い木片も並んでいる。


 床はよく磨かれていた。


 ここに入る前、ラウリは足を洗った。砂の粒が残っていないか、指の間まで見た。洗い残しがあれば、父の目がそこで止まる。今日は止まらなかった。


 厚い戸の向こうで、家の音が丸くなっていた。マエアの声と炉の蓋が当たる音は、壁に触れたあとで小さく戻ってくる。祭壇の間だけ、息の近さが違う。ラウリが膝を動かすと、床が低く鳴った。


 マノアラニは、父の膝の上にあった。


 長い。


 家の中では、さらに長く見える。片端の白い刃は布で包まれている。もう片方の丸い打撃部は、油を吸った木が鈍く光っていた。ラウリは子どもの頃からこの槍を見てきた。だが祭壇の間で父の膝にある時は、同じ槍ではない気がした。


 部屋の隅の水皿が、ごく小さく揺れていた。誰も触れていない。戸の外を誰かが通ったのか。あるいは風が高い窓を押したのか。その程度の動きだった。揺れはすぐ消え、皿の縁に光だけが残った。


「触っていいか」


 父はラウリを見た。


「何を確かめる」


「重さ」


「朝の重さでは足りんか」


「朝は父さんの道具だった。今は違う」


 父の目が少し細くなった。


「今は何だ」


 ラウリは答えようとして、口を閉じた。


 祭壇の間の空気は、広場より乾いている。潮の匂いはある。だが潮だけではない。古い木と油と、火を小さく使ってきた匂いが床に染みている。息を吸うと喉の奥で止まり、すぐには下りていかなかった。


「家のものだ」


 父は槍の柄を指で押さえた。


「それでは半分」


「海のものか」


 ラウリは父の手元を見た。


「それも半分。なら、残りは」


 答えはまだ二つに割れたままだった。


 その考えは口に出さなかった。ここで言うには、子どもの理屈に聞こえる。


 父は槍を持ち上げた。


 天井に当たらない角度を、身体が知っている。長い柄が低く回り、布で包まれた刃がラウリの前へ来た。柄の端が掛け木の近くをかすめ、木が短く鳴った。父の手は柄の中央から離れない。


「次の高潮の夜に、家督を渡す」


 父の声は低かった。


 祭壇の間の壁に、言葉が吸われた。


 ラウリは息をした。喉が乾いていた。


「俺に」


 ラウリは槍を見たまま聞いた。


「ほかに誰がいる」


「マエアは」


「あれは騒がせておけ」


「祖母は」


「祖母の番は、もう終わった」


 ラウリは父の顔を見た。冗談ではない。試している声でもない。朝の海を見て、軽い網を軽いと言う時の声だった。


「次の高潮」


 ラウリは言葉をなぞった。


「そうなる」


「なら、マノアラニは」


「儀式になれば、海へ入る」


「俺が受けるのか」


「受けられるなら、受けてみろ」


 胸の奥が熱くなった。


 最初に来たのは喜びだった。


 それを隠す余裕はなかった。ラウリの目は槍へ行った。父へ戻り、また槍へ落ちた。マノアラニ。子どもの頃から名を聞き、近づきすぎれば祖母の杖が飛んできた槍。海へ出る父の背にあった。広場では低い杭の影に置かれ、祭壇の間では誰の手にも余る長さを持つ槍。


 その槍を、受ける。


「マノーも来るのか」


 口から先に出た。


 父は眉を上げた。


「槍より先に、それを聞くか」


「槍もだ。だが、マノーは」


「怖くないか」


「怖い。だが先に見たい。声を聞けるのか。近くまで来るのか。父さんの時はどうだった」


 言葉が多い。


 自分の耳にも、その速さが残った。広場では父の後ろで黙っていられる。海へ出れば、波の音に合わせて待てる。だが今は、胸の内側が網の中の魚みたいに跳ねた。


 父は槍を膝へ戻した。柄が布の上へ落ち着く時、低い音が床へ返った。狭い部屋で、その音は思ったより近かった。


「問いが多い」


「悪いか」


「悪くない。返事は急がんでいい」


「急いでいる」


「見れば分かる」


 父は布に包まれた刃へ手を置いた。


「マノーが来るかは、お前が決めることではない。槍も、欲しいだけでは足りん」


「何が足りない」


「夜まで待てばいい」


「今は」


「今は、飯を食っておけ」


 ラウリは目を瞬いた。


「飯」


「腹が鳴っている。先に食えばいい」


 父の口調はいつものものだった。


 ラウリは少しだけ笑った。


「それは分かる」


「分かるなら、椀を空けろ」


「儀式の前に、俺の飯は増えるのか」


「アリイに聞けばいい」


「母さんは減らすと言う」


「なら、減ると思っておけ」


「家督を渡す話より厳しいな」


 父は笑わなかった。


 だが目の底に、少しだけ光が動いた。


「ラウリ」


 呼ばれて、背が伸びた。


「はい」


「今、嬉しいか」


「怖くもある」


「なら、どちらも祭壇へ持って入れ」


 父はラウリの顔から目を離さなかった。


 ラウリは頷いた。喉の奥に残っていた熱が、少しだけ下がる。下がっても消えない。槍の長さが、胸の中へ一本入ったようだった。


「父さん」


「何だ」


「俺は、当主になるのか」


 父はすぐ答えなかった。


 祭壇の間の外で、マエアの声がした。何かを落としたらしい。アリイの声が続く。祖母の咳払いも聞こえた。戸で丸くなった家の音が、部屋の端へ転がってくる。


 家が動いている。


 父はその音を聞いてから、槍を横へ置いた。


「炉の火は、誰が見る」


「母さんだ」


 父は続けた。


「布と塩が足りなければ」


「俺が数え直す」


 父は一度だけ頷いた。


「なら、鍋が焦げる前に見ておけ」


 それならいい。


 ラウリは頷いた。


 父は立ち上がり、マノアラニを壁の高い掛け木へ戻した。長い柄が収まると、掛け木が短く軋んだ。部屋の暗さが少し戻った。


「卓では俺から言っておく」


「マエアが騒ぐ」


「騒がせておけ」


「母さんは椀の数を直す」


「直してもらえばいい」


「祖母は」


 父は戸へ手をかけた。


「祖母が何を言っても、聞いておけ」


 それにも頷けた。


 ラウリはもう一度、祭壇の棚を見た。小さな皿。乾いた紐。古い木片。そこにあるものは、どれも軽そうに見える。


 どれも軽いのに、どこへ指を掛けるべきか迷った。


 だが、言わなかった。


 言えば、自分の言葉ではなくなりそうだった。


──────────────────────────────


「次の高潮の夜、ラウリへ家を渡す」


「兄さんが当主? じゃあ朝飯の魚、兄さんの分から減らす。偉い人は我慢するんでしょ!」


「魚は減らさない。塩と布を数え直す」


「カノアは、初日に炉の鍋を落としたよ」


 シレリオ家の当主は、まず台所で試されるらしい。


 マエアは椀を抱えたまま、口を開けてラウリを見た。


 それから、吹き出した。


「兄さん、今の顔!」


「どんな顔だ」


「魚を取られたマノー」


「マノーは魚を取られる側ではない」


「じゃあ、魚を待っている兄さん」


「それは普段の俺だ」


 アリイが炉のそばで蓋を開けた。


「普段より大きい顔をしている」


「母さんまで言うのか」


「事実は言う」


 卓の上には固めに炊いた穀がある。粥ではない。小魚を炙ったものも並んでいた。魚は多くない。皿の中央に寄せられ、家族全員が少しずつ取る形だった。焼いた芋と海藻の酢漬けが隙間を埋めている。穀には豆の粉が少し混じり、噛むと舌の上で乾いた甘さが残った。


 マエアは箸を伸ばし、魚の一番焦げたところを取った。


「当主になるなら、兄さんはもっと低い声で喋るの?」


「今も低い」


「低いけど、飯の話になると速い」


「大事な話だからな」


「家督より?」


「飯を食わない当主はすぐ倒れる」


 祖母が小さく笑った。


「倒れる前に座りなさい」


 ラウリは座っていたが、背が伸びすぎていたらしい。肩の力を抜いた。卓の縁が、膝に当たる。子どもの頃は遠かった卓が、いつの間にか低くなっている。椀の底にはまだ熱が残っていて、持ち替えるたびに指の節を温めた。


 アリイの手が、皿の数を確かめた。


 魚。芋。海藻。塩。油。干し葉。


 指は速くない。止まる場所が決まっている。干し魚を入れた壺の蓋を少し開ける。残りを見て、閉じる。棚の上の布を一枚下ろし、儀式に使う分だけ畳み直す。銅貨の入った小袋は広げず、重さだけを掌で測った。布は古い塩を含んでいて、指先で押すと乾いた粒が擦れた。


 誰も、その手を大げさに見なかった。


 凪の年はある。


 そういう年の卓だった。


 マエアは魚を半分かじり、すぐに父へ顔を向けた。


「父さん、兄さんが当主になったら、私の仕事は増える?」


「増えると思っておけ」


「何が?」


「兄をからかうなら、先に布を畳め」


「それは仕事じゃない。罰」


「なら、罰も増えると思え」


「ひどい!」


「声が大きい」


 アリイの一言で、マエアは両手で口を塞いだ。塞いでも目は騒いでいる。


 ラウリは魚を食べた。焦げた皮が苦い。身は小さいが油があった。塩が舌に当たり、そのあとで脂が遅れて広がる。喉を通ると、少し腹が落ち着く。


「ノエラには、明朝の鳥で知らせる」


 アリイが言った。


 嫁ぎ先の島から戻る潮ではない。だから来ない。それだけが卓に置かれた。マエアは少し唇を尖らせたが、すぐ芋を取った。


 祖母が湯をすすった。湯気が白く立つ。祖母の皺の奥に、火の色が入った。


「カノアも、若い時はよく食べた」


「祖父さんが?」


 ラウリは聞いた。


 祖母は頷いた。


「祭壇の前で緊張して、戻ってから鍋を空にした。緊張は腹に来る人と、喉に来る人がいる」


「兄さんは腹!」


 マエアが即座に言った。


「まだ決めてない」


 ラウリは言い返した。


「分かるよ。兄さん、今も芋を二つ取った」


「一つは大きさが半分だ」


「数は二つ」


「母さん」


 ラウリはアリイを見た。


 アリイは布を畳みながら言った。


「数は二つ。量は一つ半」


 マエアが勝った顔をした。


「半分はどこへ行った」


「兄さんの言い訳」


「それは食えない」


「だから魚を減らす」


「戻ったな、その話に」


 父は黙って食べていた。


 父が黙ると、卓の音がよく聞こえる。箸。椀。炉の薪。外の潮。屋根で何か小さなものが歩く音。食べる速さもそれぞれ違った。マエアは熱いものに息を吹きすぎる。祖母は湯で口を湿らせてから少しずつ食べる。父は魚を小さく分け、皿の上に残る塩まで箸で集める。


 ラウリは父を見た。


 カエラニはいつも通りに見えた。魚を小さく分ける。芋を食べ、湯を飲む。だが槍を膝に置いていた時の声が、まだ耳に残っている。家督を渡す。その言葉が、卓の上の皿や布や小袋へ静かに触れていた。


 魚の焦げた皮も塩の量も、鳥へ持たせる言伝も同じ卓に載っている。


「何を見ている」


 父が言った。


「父さんの皿」


「魚はやらん」


「見ただけだ」


「見ているだけでも減る」


 マエアが笑いすぎて、湯をこぼしかけた。


 アリイが布巾を投げた。正確にマエアの膝へ落ちる。


「拭きなさい」


「こぼしてない!」


「こぼす前に拭く」


「それは先読みがひどい」


「あなたは読める」


 祖母がまた笑った。笑いは声にならず、肩だけが揺れる。


 卓は騒がしい。


 騒がしいまま、夜は深くなった。


 食後、アリイは儀式に使う布を広げた。白ではない。海水で洗った布だ。日に干され、古い塩を含んでいる。マエアは文句を言いながら端を持ち、ラウリは反対側を持った。


 布は長い。


 マエアの腕では余る。ラウリの腕でも、張りすぎると父に見られる。布の端をつまむ指には、塩のざらつきが残った。引けば織り目が鳴る。ゆるめれば床へ触れる。


「強く引かずに持っておけ」


 父が言った。


「破れるか」


「布を怒らせんでいい」


「父さんも鍋みたいなことを言う」


「鍋より先に覚えておけ」


 マエアが笑った。


 アリイは笑わず、布の端を揃えた。指先が小さく動く。必要な幅だけを折り、余りは元の棚へ戻した。


 ラウリは布を畳み終え、戸口へ出た。夜の島は昼より近い。黒い岩の道は、月が出るまで深く沈む。広場の鮫歯が、風でかすかに鳴っている。


 夜の潮が、家の下でゆっくり動いていた。


──────────────────────────────


 今夜、ラウリは口伝の残りを受ける。幼い頃から少しずつ聞かされてきた。だが最後の部分だけは、家を継ぐ者にしか渡されない。


 祭壇の間へ入る前、祖母は炉の火を短くした。


 火は消さない。消せば部屋が冷えすぎる。大きくすれば、壁の影が動きすぎる。祖母は薪を一本だけ残し、灰を寄せた。橙の線が細く残る。


 ラウリは戸口に立っていた。


 足は洗った。手も洗った。髪は首の後ろで結んだ。上衣は脱ぎ、火の色が肩から胸へ続く刺青に落ちていた。いつもの身体なのに、皮膚が少し遠く感じる。長く座る前から、膝の奥に重さが来ていた。喉は乾いているのに、水が欲しいとは思わなかった。


 父は奥にいた。


 祖母も入る。アリイは戸の外で水の皿を置いた。マエアは騒がなかった。騒がないことが、いちばん騒がしい合図だった。


「兄さん」


 小さく呼ばれた。


 ラウリは振り返った。


「何だ」


「終わったら、何か食べる?」


「たぶん」


「たぶんって何」


「腹が聞いていない」


 マエアは眉を寄せた。


「それ、かなり大きなことだね」


「そうだな」


 アリイがマエアの肩へ手を置いた。


「外で待つ」


 マエアは頷いた。


 祖母が戸の内側から呼んだ。


「ラウリ」


 彼は祭壇の間へ入った。


 戸が閉じる。


 外の家の音は、小さくなった。


 そこから先の言葉は、部屋の外へ出なかった。


 火が短く燃えた。水の皿が一度だけ動いた。床の木が、膝の重さで低く鳴った。風が高い窓を撫で、潮の匂いが薄く入った。ラウリは何度か瞬きを忘れた。次に目を閉じた時、まぶたの裏に火の細い線だけが残った。


 夜は長かった。


 長かったはずなのに、夜の折り返しはラウリの中に残っていなかった。


 膝の皮膚は板の硬さを覚えている。足の甲は冷え、背中だけが火で温かい。喉は乾き、唾を飲む音が自分の内側で大きく聞こえた。言葉が通るたびに、胸の奥のどこかが少しずつ位置を変えていく。何を聞いたかではなく、聞いた後に身体の中で何が閉じたかだけが残った。


 戸が開いた時、炉の火はさらに短くなっていた。家の中は静かだった。アリイは座ったまま顔を上げ、マエアは膝を抱えていた。戸の外の空気が戻ってくる。灰と粥と干した布の匂いが一度に入り、祭壇の間でこわばっていた喉をゆっくりほどいた。祖母は最後に出てきた。


 父は何も言わない。


 ラウリも何も言えなかった。


 言葉がなくなったのではない。口の中へ戻って、置く場所を探している。さっきまでの自分なら、問いを続けたはずだ。マノーは来るのか。槍はどう受けるのか。海は拒むのか。


 問いは残っている。


 だが、すぐ口に出す形を失っていた。


 マエアが立ち上がりかけ、アリイの手で止まった。


 祖母はラウリの前へ来た。小さな手で、彼の胸の前の空気を撫でる。触れはしなかった。


「閉じる場所を忘れなければいい」


 それだけ言った。


 ラウリは頷いた。


 声は出なかった。


 翌朝から、潮を数えた。


 ひとつ目の朝は、黒い岩の濡れた線を見た。どこまで潮が来たか。どこで止まったか。父は棒で印をつけず、白い貝殻を一枚だけ置いた。


「流れたら」


 ラウリは聞いた。


「流れたと分かればいい」


 父はそう答えた。


 ふたつ目の昼は、内湾の水を壺へ入れ替えた。壺の内側に塩の輪が残る。ラウリは指で触り、舌に乗せた。塩は強い。風の向きが変わる前の味だった。


「舐めんでいい」


 父が言った。


「確かめた」


「口で確かめるものは少ない。覚えておけ」


「飯は」


「飯は別でいい」


 みっつ目の夕方は、広場の貝殻を整えた。マエアが手伝いに来て、真面目な顔をしていたのは最初だけだった。すぐに欠けた貝殻で目の形を作り、アリイに見つかって戻された。


「兄さん、緊張してる?」


 マエアが小声で聞いた。


「している」


「ほんとに?」


「嘘をつく理由がない」


「兄さんでも緊張するんだ」


「する。腹も減る」


「それはいつも」


「だから迷わない」


 マエアは少し笑い、欠けた貝殻を桶へ入れた。


 不漁の網は、相変わらず軽かった。


 だが浜は暗くならない。小さい魚は焼かれた。貝は汁になった。マエアが豆を焦がしかけた。アリイが鍋を上げて間に合わせた。


 四つ目の夜、ラウリは父と浜へ下りた。


 儀式の前の夜だった。


 黒砂は冷えていた。昼の熱を手放し、波の湿りを含んで締まっている。遠くの桟橋は影になり、杭の先だけが星の下に立っていた。内湾の水は静かだ。外の礁に当たる波だけが、低く続いている。


 父はマノアラニを持っていなかった。


 手ぶらだった。


 ラウリは少し目を見開いた。槍がない父は、ただの父に見える。だが海を前に立つと、やはり祭祀官だった。


「聞きたいことがあるなら、聞けばいい」


 父が言った。


「多い」


 ラウリは夜の海を見た。


「なら、一つにしろ」


 問いは多い。口伝の夜から、さらに増えた。増えたのに、軽く出せなくなった。胸の中で、網の目のように絡んでいる。


「頼んで、来なかったらどうする」


 父は海を見たまま答えた。


「頼めば来てくれる。だが断られた日を覚えているのが祭祀官だ」


 言葉は波音に混ざらなかった。


 浜にそのまま残った。


 ラウリは喉の奥で息を止めた。断られた日。そんなものがあるのかと聞きたかった。父の顔が、あると答えている気もした。


「父さんは、覚えているのか」


「ああ」


 父はそれ以上を言わなかった。


 ラウリは自分の足元を見た。波が届き、引く。砂に沈んだ足指の周りで、小さな泡が消える。戻り波は足首を横から押し、踏み直さなければ膝の奥まで揺れた。


 簡単な言葉ばかりだった。口伝の夜を通った後では、どれも重さが違った。ラウリは一度、足元の砂を踏み直した。


 ラウリは海を見た。


 マノーの背は見えない。ホヌも見えない。星の下の水は黒く、ただ動いている。


「父さんは、怖かったか」


「怖かった」


 父の返事は早かった。


「今もか」


「今も変わらん」


 ラウリは少し驚いた。


 父の怖い顔を、彼は見たことがない。怒った顔ならある。疲れた顔もある。網の軽い朝の顔も知っている。布施を返す時の顔も、祭壇の間の顔も知っている。


 怖い顔は知らなかった。


「見えない」


 ラウリは父の横顔を見たまま言った。


「見せんでいい」


「隠すのか」


 父は波へ目を戻した。


「しまっておく」


 その違いは、今なら少し腹に落ちる。


 ラウリは頷いた。


 父は砂の上に腰を下ろした。ラウリも隣に座る。二人の影が後ろへ伸びた。海の方には影ができない。波が来るたび、足元だけが消えて戻る。長く座ると膝の内側に冷えが溜まり、砂に触れた踵が少しずつ沈んだ。


 しばらく話さなかった。


 沈黙は重くない。ただ、次の波まで言葉を置かない方がいい時間だった。


 浜の上では、夜の虫が鳴いた。遠くで犬が一度吠えた。家の方からは、マエアの小さなくしゃみが聞こえた気がした。


「聞こえたか」


 ラウリが言った。


「何が」


「マエア」


「この距離で聞こえるなら、明日は浜の端まで届く」


「騒ぐだろう」


「騒がせておけ」


 父がそう言ったので、ラウリは笑った。


 笑いはすぐ潮に吸われた。だが少し楽になった。


 翌日の朝、島は早く起きた。


 広場の白い貝殻は洗われ、鮫歯の飾りは掛け直された。壺にはそれぞれ水が入り、布の端は揃っている。アリイは炉の火を小さく保ち、祖母は祭壇の間で最後の皿を拭いた。


 マエアは何度も外へ出た。


「落ち着かない」


「落ち着け」


 ラウリが言うと、マエアは振り返った。


「兄さんに言われたくない!」


「俺は座っている」


「身体だけでしょ」


 言い返せなかった。


 昼は長かった。


 潮が満ちるまでの時間は、いつもより遅い。ラウリは何度も黒い岩へ下り、濡れた線を見た。父は止めなかった。止めない代わりに、三度目からは一緒に来た。


「数えすぎか」


 ラウリが聞いた。


「数は合ったか」


「合った」


「なら、浜へ来い」


 父は短く答えた。


 夕方、巡礼者たちは広場の外へ下がった。島の者も、声を落とした。テオドロは広場の縁に立っていた。筆は持っていない。書き板も閉じている。彼は浜へは下りない場所を選んだ。


 その距離を、島の者は見ていた。


 夜が来る。


 満ちた潮が内湾へ入った。桟橋の杭が低く見える。黒砂の浜は狭くなり、白い貝殻の列が波に近づいた。


 ラウリは上衣を脱いだ。


 夜気が肌に触れる。刺青の線が冷え、すぐに身体の熱を取り戻した。アリイが肩へ布を掛け、すぐ外した。掛けるためではなく、塩の跡を払うためだった。


「食べた?」


 マエアが小声で聞いた。


「食べた」


「足りた?」


「今は足りている」


「終わったら?」


「その時に聞け」


 マエアは頷いた。騒がないまま、頷いた。


 祖母は浜の上で杖をついていた。風に揺れない。小さい身体が、黒い砂にしっかり立っている。


 父が家から出てきた。


 マノアラニを持っていた。


 夜の中で、槍は長かった。白い刃の布は外されている。刃は月を映さず、海の光だけを薄く返した。丸い木の端は父の手の中にあり、柄の油が暗く光った。父が一歩進むたび、柄の重みが腕から肩へ移っているのが見えた。


 広場の鮫歯が鳴る。


 誰かが息を呑んだ。


 父はラウリの前で止まった。


 槍を差し出さない。


 ラウリも手を出さなかった。


 出しかけた指を、握り込んだ。今、受け取るものではない。父の手から自分の手へ移るだけなら、祭壇の間で終わっていた。浜まで来た意味がない。


 父は海へ向いた。


 波が足首まで来る。引く。次は少し高い。高潮の夜の水は、内湾の奥まで息を入れてくる。濡れた砂は足裏を包み、体重をかけるたびに沈んだ。戻り波が踝を押し、立っているだけで身体の芯を探られる。


 父は一歩進んだ。


 ラウリは後ろに立つ。マエアの息。アリイの手。祖母の杖の先。島の者たちの沈黙。巡礼者の遠い気配。全部が背中にあった。


 海は前にある。


 父は槍を横に持ち替えた。


 長い柄が、夜の水の上で低く伸びる。白い刃が一度だけ波に触れた。水が刃を舐め、黒く落ちた。父の腕に重みが移り、柄の先が沈む。夜の水は冷たく、近くに立つラウリの足首までその冷えが上がってきた。


 カエラニの手が、マノアラニを夜の海へ沈めた。

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