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群青幻想  作者: 滄龍 青司
CantoⅡ
108/128

とあるメイドの花嫁修業な一日

 朝の鐘が鳴る前に目を覚ました時点で、リーナ・ベルティは勝ったと思った。


 寝台の薄い布越しに、使用人棟の天井はまだ青かった。窓の外では鳥も声を整えておらず、廊下の向こうを夜番の靴底が一度だけ擦った。冷えた空気が頬に触れて、寝起きの頭が少しだけ澄む。


 その三呼吸後、右手袋がないことに気づいた。


「嘘」


 声は小さかった。使用人棟の朝は、鳥より先に起きても壁に聞かれる。隣の部屋には先輩メイドがいる。廊下には夜番明けの足音が残っている。ここで大騒ぎをすると、後でメリッサ様に一言だけ言われる。


 慌てる前に確認を。


 メリッサ様の声が脳内で再生され、リーナは寝台の下を覗いた。冷たい床板に頬が近づく。埃はない。さすが薔薇の屋敷。ない。椅子の背。ない。洗面台の横。ない。枕の下。なぜかあった。


「なんでそこに」


 昨日、たしかにエプロンのポケットへ入れたはずだった。薔薇の屋敷に来て八ヶ月、リーナは毎朝、自分の記憶を信用してはいけないことだけは学んでいる。自分の記憶は、よく磨いた銀盆より滑る。


 水で顔を拭く。冷たい。目が覚める。髪をまとめる。栗色の髪は朝だけ素直で、夕方には必ず二、三本ほど裏切る。濃紺のワンピースに袖を通し、生成りのエプロンを結ぶ。紐を腰で交差させる指先が、寝起きの震えを少しずつ失っていく。皺は少ない。少ないはず。たぶん。


 机の引き出しを閉めようとして、中の紙片が目に入った。


 水上劇場の公演案内から切り取った、アドニス・アレクシオスの横顔である。


 リーナは一瞬だけ手を止めた。


 朝の光を浴びた紙の上で、アドニス様は今日も完璧だった。顎の線。肩の角度。舞台衣装の襟。印刷の粗い点の並びさえ、遠目には星の粉に見える。あの人はどうして紙の上でも発光するのだろう。サルマンディアの印刷技術はそこまで進んでいたか。いいえ、違う。アドニス様だからである。


「いけない」


 リーナは引き出しを閉めた。


 ここへ来た理由を忘れてはいけない。


 リーナはサルマンディアの商家、ベルティ家の娘だった。家は香油、祝い用の小物、輸入布、婚礼用の細工物を扱う。小さい頃から客前で笑うこと、品物の値を覚えること、布地の格と香りの濃さを見分けることは教えられていた。


 ただし帳簿の行より新作菓子の評判へ目が行き、婚礼小物より舞台俳優の噂へ耳が伸びた。


 親族会議の結論は早かった。


 このまま嫁に出すと、婚礼当日に花冠をなくす。


 あんまりである。


 けれど反論しきれなかったところが、リーナの弱いところだった。実際、十二歳の時に叔母の婚礼で指輪の箱を菓子皿の下に置き忘れた。十五歳の時には祝い布の納品先を隣の邸へ間違えた。十九歳の時には若い商人との顔合わせの日、アドニス様の新作舞台の貼り紙を見に行って、三つ角を過ぎたところで我に返った。


 結果、花嫁修業として薔薇の魔女の屋敷へ出された。


 行儀、家政、客あしらい。そう聞いていた。


 八ヶ月経った今でも、リーナには花嫁修業と魔女の館での実務訓練の違いがよく分からない。どちらも朝が早い。どちらも布を畳む。どちらも客人の顔色を見る。ただし片方は、山羊頭の執事頭と黒猫のようで黒猫ではない方が廊下を歩く。


 ただ、朝会に遅れると花嫁以前に人間として終わる。


 リーナは手袋をはめ、部屋を飛び出した。


──────────────────────────────


 記録室には、紙とインクと蜜蝋の匂いが満ちていた。


 朝の光はまだ低く、窓の桟を細い金色にしている。棚には帳面が背の高さを揃えて並び、封蝋の赤や琥珀色が小さな実のように光っていた。室内は温かくないのに、蜜蝋の匂いだけが少し甘い。


 長卓の上には、その日の担当札が整然と並んでいる。中央にはメリッサの帳面。端には透真が厨房から持ち込んだ献立札。窓際にはディーノが立ち、夜番から引き継いだ記録を抱えていた。


 アルフレッド・ダルマスは長卓の奥にいた。


 黒燕尾服。白手袋。山羊の頭。人のものではない角と、横長の金の瞳。初めて見た時、リーナは悲鳴を飲み込むだけで一日の体力を半分使った。


 八ヶ月経った今でも、驚かないわけではない。驚き方を仕事の邪魔にならない大きさへ畳めるようになっただけだ。


 執事頭と呼ばれるより前から、そこに立つために作られたような異形である。大きな身体。低い声。足音のなさ。二度目に見た時、リーナは大きさより静けさの方が怖いと知った。扉の前に立たれると、部屋の形が少し変わる。


 メリッサはその隣で帳面を開いた。


 蜂蜜色の髪は乱れていない。胸元の蜜蝋印は小さく、生成りのエプロンの端には淡い金の蜂が刺繍されている。声を出す前から、部屋の中の全員が背筋を整えた。


 リーナは定位置に滑り込んだ。間に合った。たぶん。息は少し上がっているが、口は閉じている。メリッサの視線が一瞬だけリーナの手袋へ落ちた。


 両手とも、はめている。


 勝った。


「本日の西館客人対応」


 メリッサの声で部屋の空気が締まった。


「凪様、ヒュウマ様、イーリス様、シレリオ様。いずれも傷病者としての対応から客人としての対応へ移行します。ただし、以前の状態へ完全に戻ったわけではございません」


 リーナは小さく息を飲んだ。


 その違いは大きい。


 傷病者なら、湯の温度、薬湯、包帯、食事の柔らかさを優先する。客人なら、客としての格と自由を尊重する。けれど今の四人は、その間にいる。水差しは多めに。布は控えめに。声をかけすぎず、必要なものは先に置く。


 つまり難しい。


 八ヶ月目に入って、リーナは少しだけ屋敷に慣れてきたと思っていた。


 朝会の流れも覚えた。花瓶の水替えも覚えた。客室の布の畳み方も、銀盆の持ち方も、フェリ様をただの猫として扱ってはいけないことも覚えた。


 そこへ蒼凪様たちが滞在し始めた。


 水差しの数が増えた。布の種類が増えた。食事の皿が増えた。外出予定と来訪予定と庭の鳥と修練場の汗拭きが増えた。お客様の名前を間違えないだけなら簡単だった。問題は、それぞれの名前の後ろに、まったく違う手順がぶら下がっていることだった。


 花嫁修業の応用編にしては、あまりにも実戦的すぎる。


「凪様は朝の修練を再開されます。地下修練場に水差し二つ、汗拭き布、替え布。木剣は執事頭が確認済みです」


 アルフレッドが一度だけ頷いた。大きな角の影が、長卓の木目の上を短く動く。


「ヒュウマ様も同席。本日は打ち合いあり。終了後は水と軽い塩を」


 リーナのペンが止まりかけた。


 打ち合い。


 あの、海守りのヒュウマ様と、蒼凪様が。


「リーナ」


「はいっ」


 メリッサの声は大きくない。だから怖い。大きい声なら驚けば済む。小さい声は、自分がどこを見ていたかまで照らす。


「地下修練場の水と布はあなたが運びなさい」


「承知いたしました」


 花嫁修業とは。


 心の中で問いが立ったが、口には出さない。ペン先だけが紙の上で少し硬い音を立てた。


「イーリス様は午前遅くより外出予定。市井の広場へ向かわれる見込みです。喉用の茶を持たせること。蜂蜜は軽めに」


「はい」


 別のメイドが返事をした。


「シレリオ様は予定未定。ただし夕食時には必ずお戻りになります」


 透真が献立札へ目を落とした。厨房の人間の目になっていた。


「戻る、という前提で厨房は動きます。戻らなかった場合、戻ってから出せばいいだけです。戻った場合に足りない方が問題です」


 食材が足りない。


 リーナはその言葉だけで少し青ざめる。商家の娘として、魚も肉も香草も値段が分かる。シレリオ様は悪い方ではない。とても静かで礼儀正しい。けれど皿と食材の計算を壊す。


「昼過ぎ、勇者一行よりヴァロー様が来訪されます。書斎を空け、紙、インク、白墨、茶器を用意。余分な皿は不要」


 ヴァロー様。


 月読みの塔の魔法使い。背が高く、灰色の髪を束ねていて、言葉が少し難しい方。先日、廊下で通り過ぎた時、リーナは挨拶の後に何か言われた。


 たしか「観測の範囲では、廊下の花瓶が傾いています」だった。


 見たら本当に傾いていた。


 少し怖い。


「フェリ様の所在は」


 アルフレッドが言った。


 夜番のバトラーが手帳を開く。紙が一枚めくられる音まで、部屋にきちんと届いた。


「夜明け前、厨房前。半刻前、西階段。現在不明です」


 透真が静かに息を吐いた。


「魚の小皿を用意します。塩は抜きます」


「結構です」


 メリッサは帳面を閉じた。蜜蝋の匂いが、紙の間に挟まるように動いた。


「本日は屋敷内の動線が多くなります。見るな。ですが見落とさないこと」


 リーナは背筋を伸ばす。


「聞くな。ですが異変は拾うこと。客人のことを噂しない。奥様の気まぐれを予測しない。フェリ様の行き先を深追いしない」


 最後だけ、若手使用人たちの返事が少し遅れた。


 深追いしない。


 できるなら、誰もしていない。


 フェリ様は追わせるのである。


──────────────────────────────


 地下修練場は、薔薇の屋敷の中でいちばん花嫁修業から遠い場所だった。


 石段を降りると空気が変わる。薔薇の香りも、磨かれた廊下の蝋の匂いも薄くなる。代わりに乾いた木の匂い、古い革の匂い、石に染みた汗の匂いが立つ。壁には木剣、練習用の短槍、革の胴当てが整然と掛けられていた。


 上の階では音が布に吸われる。ここでは音が石に当たって返る。水差しの中身が揺れるだけで、薄い水音がやけに大きく聞こえた。


 リーナは水差しを二つ抱えて入った。


 先にいたのはアルフレッドだった。


「そこへ」


「はい、執事頭」


 リーナは指定された台へ水差しを置く。布を畳んで並べる。替え布は右。汗拭きは左。桶は足元。忘れていない。濡れた布の端を揃える。指先に麻のざらつきが残る。


 その時、木剣が空を切る音がした。


 リーナは振り返らないようにした。振り返らないようにしたが、目は勝手に動いた。


 蒼凪様が立っていた。


 いつもの白と青のローブではない。袖のない簡素な修練着。肩から腕までの線がはっきり見える。胸も腹も、布の下で形を隠していない。鍛えた人の身体だった。きれいというより、作り込まれている。商家で扱う婚礼用の細工物のように、見栄えと実用が両方詰め込まれている。


 盛りすぎでは。


 リーナは心の中でそう思った。


 口には出さない。絶対に。


 ヒュウマ様はその向かいにいた。


 こちらも簡素な修練着だった。蒼凪様ほど大きく盛り上がる身体ではない。けれど若い筋肉がしなやかに動く。肩、背中、脇腹、腕。水辺で鍛えられた人の動きだった。踏み込みが軽いのに、木剣がぶつかる音は重い。


 リーナは水差しの蓋を落としかけた。


「ベルティ」


「はいっ」


 アルフレッドの声が飛ぶ。


「水差しの蓋は、視線で閉まりません」


「申し訳ございません」


 あたしは花嫁修業で何を見せられているのでしょう。


 リーナは蓋を閉めた。


 木剣が鳴った。


 ヒュウマ様が踏み込む。蒼凪様は半歩下がる。受けるというより、置き場所を変えたような動きだった。ヒュウマ様の剣が空を切り、次の瞬間には蒼凪様の木剣が手首の近くで止まっている。


「早いです」


 ヒュウマ様が言った。


「軽い」


 蒼凪様は短く返す。


「軽い、ですか」


「踏み込みが素直すぎる。読める」


「それ、蒼凪さん以外には褒め言葉ですよ」


「悪くないぞ。ただ、俺相手だと先に置かれる」


 アルフレッドが床を杖で一度叩いた。


 乾いた音が石の部屋に立ち、消えた。


「ヒュウマ様。足の置き方を変えずに呼吸だけをずらしてください。凪様は視線で読みすぎです」


 蒼凪様が木剣を下げた。


「昔もそれを言われたな」


「昔は、視線より先に膝が死んでおりました」


「言い方」


 ヒュウマ様が思わず呟いた。


 アルフレッドは真顔だった。


「事実でございます」


 蒼凪様は修練場を見回した。壁の木剣、古い床、石の柱。目にわずかな懐かしさが乗る。さっきまで刃物のようだった視線が、部屋の角に触れる時だけ少し静かになった。


「ここは変わらないな」


「木剣は替えております」


「床は」


「磨き直しました」


「石柱は」


「凪様が昔、ひとつ欠けさせた箇所は補修済みです」


「……覚えているのか」


「館は覚えております」


 リーナはその会話の意味を全部は知らない。


 けれど、蒼凪様がこの修練場を知っていることは分かった。客人としてではなく、もっと前から。今の身体も、ただ生まれつきそこにあるものではないらしい。作り直された、という言葉をどこかで聞いたことがある。薔薇の屋敷はそういうこともする。


 やはり花嫁修業ではない。


 打ち合いが再開した。


 ヒュウマ様の木剣が低く入る。蒼凪様が受ける。木がぶつかる。空気が鳴る。二人の足が床を擦る。汗が光る。ヒュウマ様の目つきが変わった。普段の柔らかさが消え、相手の肩、膝、剣先だけを見る目になる。


 格好いい。


 リーナは思ってしまった。


 すぐに反省した。


 アドニス様は別格である。そこは揺るがない。ただ、舞台上の光とは違う格好よさというものが世の中にあるらしい。怖い。世界は広い。


「リーナさん」


 ディーノの小声が後ろからした。


「口、開いてる」


 リーナは閉じた。


「開いてません」


「開いてた」


「見てません」


「見てた」


「ディーノさんも見てるじゃないですか」


「俺は手順を見てる」


「ずるい言い方です」


 アルフレッドがこちらを見た。


 二人は同時に黙った。


──────────────────────────────


 午前の終わりに、奥様の無茶ぶりが降ってきた。


 降ってきた、という表現は正しい。


 リーナが廊下の花瓶を整えていた時、小談話室の扉が開き、ディーノが半歩だけ後ろへ下がった。顔が「逃げられません」と言っていた。


「リーナ」


 中からエヴァンジェリーネの声がした。


「は、はい。奥様」


 小談話室には朝の光が斜めに入っていた。薔薇色の薄布が窓辺で揺れ、銀の茶器が低い卓に並んでいる。湯気には薔薇ではなく、少し乾いた果皮の香りが混じっていた。エヴァは長椅子に身を沈めていた。金の髪が片肩へ流れ、指先には薔薇の指輪が光る。


 美しい。


 理不尽なほど美しい。


 そして理不尽は、だいたい美しい顔で来る。


「皿が気に入らぬ」


「皿でございますか」


「浮かれた皿がよい」


「浮かれた皿」


「しかし浮かれすぎるのは嫌じゃ」


 ディーノの視線が床へ落ちた。


 助けてください、ではない。諦めましょう、の目だった。


「祝いの気配は欲しい。だが婚礼宿の安い浮かれ方は嫌じゃ。薔薇を描けばよいと思う皿も嫌じゃ。花は黙って咲くからよいのじゃ」


 リーナの胸の奥で、実家の祝い棚が音を立てて開いた。


 仕事中です。


 メリッサ様の声が脳内で言った。


「つまり、華やかですが、紋様が喋りすぎず、花を飾り立てすぎず、けれど祝宴の格はある皿、でしょうか」


 エヴァの目がこちらを向いた。金色の瞳に、窓辺の薄布の赤が薄く映る。


「言葉にするとつまらぬな」


「申し訳ございません」


「だが大筋は合っておる」


 リーナは頭の中で実家の棚を開けた。


 ベルティ家で扱っていた祝い用の小皿。婚礼前夜の内祝いに使うもの。白地に金線だけでは堅い。薔薇を描くと奥様の前ではわざとらしい。サルマンディアの若い花嫁に人気なのは貝殻縁の浅皿。けれどあれは少し甘すぎる。舞台女優めいた華やかさなら、薄紅の釉薬に金ではなく真珠粉の光。


「貝縁の浅皿ではなく、薄紅の真珠釉の小皿はいかがでしょうか。縁に金を置かず、中央を空けます。菓子の色を見せる皿です。香は薔薇ではなく白葡萄の皮を少し。祝いの気配は出ますが、婚礼宿の包装紙ほど喋りません」


 ディーノがこちらを見た。


 エヴァは笑った。


「商家の娘じゃな」


「はい」


「よい。持ってまいれ」


「承知いたしました」


 リーナは小談話室を出て、廊下で一度だけ拳を握った。


 やった。


 たぶん、やった。


「リーナ」


 背後からメリッサの声がした。


 心臓が止まりかけた。


「はい、メイド長」


「菓子皿は東の二番棚です。香は白葡萄の皮だけでは軽すぎます。乾かした月桂樹を一枚足しなさい」


「はい」


 メリッサはリーナの手元を見た。


「結構です」


 リーナは一瞬、世界が明るくなった気がした。


 廊下の窓。磨いた床。手の中の布巾。全部が朝より少しだけ輪郭を持った。胸の奥が跳ねそうになり、靴の底で床を押さえた。


「ありがとうございます」


 声が浮きそうになり、慌てて沈める。


 結構です。


 メリッサ様の結構です。


 それはアドニス様の舞台評とは別の方向で、胸に効く言葉だった。


──────────────────────────────


 昼過ぎ、ヴァロー様が来た。


 月読みの塔の魔導士は、深い灰の旅装で書斎へ通された。長い灰色の髪を束ね、短杖を腰に下げている。歩く時の音が少ない。アルフレッドほどではないが、足音より視線が先に来る人だった。


 玄関の空気に、外の埃と昼の熱が少し混じる。リーナは茶器を持つ手をわずかに締めた。


「月読みの塔のヴァロー・ノヴァです。賢者殿に取り次ぎを」


 リーナは茶器を持ったまま頭を下げた。


「お待ちしておりました。こちらへどうぞ」


 声が裏返らなかった。えらい。


 書斎の机は朝のうちに片づけたはずだった。


 しかし、ヴァロー様が入った頃には、すでに机の上は別の戦場になっていた。


 本の山。紙束。インク壺。白墨。月相を描いた円。潮位線らしい折れ線。何かの陣。白真珠の塔の式に似たもの。蒼凪様はその前に座っていた。袖口を簡単にまとめ、手元には小さな水の塊を浮かせている。


 本の革表紙は古い匂いを吐き、白墨の粉が机の端に薄く落ちていた。窓の光が水の塊を通り、小さな青い影を紙の上に置いている。


「賢者殿」


「ヴァロー。座っていい」


「失礼します」


 リーナは茶を置いた。


 ヴァロー様は椅子に座る前に、机の上を一度見た。視線が紙の端、白墨の線、浮いた水滴を順に拾う。眉がわずかに動いた。


「既に始まっている、と見てよろしいですか」


「準備だな」


「観測の範囲では、準備の量ではない」


 蒼凪様は水の塊を指先で軽く弾いた。水は空中で弧を描き、机上の紙へ落ちる寸前で止まる。


「貴方が聞きに来るなら、紙は要る」


「結構」


 ヴァロー様は短杖を抜いた。杖先から薄い闇の残滓が滲む。煙ではない。布でもない。夜の切れ端を指先ほどに薄めたようなものが、机の上に浮いた。


 リーナは茶器を置き終えた後も、一瞬だけ動けなかった。


 綺麗だ。


 怖い。


 分からない。


 だが、見ていたい。


「《新月帳》は視界を奪います」


 ヴァロー様の声は静かだった。


「賢者殿の《無光》も、同じ棚に置けますか」


 蒼凪様は水の塊を闇の残滓のそばへ寄せた。


「結果だけならな」


「では、原理では」


「別だ」


 短い。


 ヴァロー様は嫌な顔をしなかった。むしろ少しだけ目が深くなる。


「《新月帳》は闇を張る。光を遮る。私の《夜目》はその内側で条件が合えば機能する」


 薄い闇の幕が広がった。リーナの目には、机の上だけが小さな夜になったように見える。蒼凪様の水滴はその中へ入っても輪郭を失わない。


「《無光》は光を遮るのですか。それとも、光が成立する条件を消す?」


 蒼凪様は水滴を指で押した。


 水滴は闇の幕の下へ沈む。消えたのではない。ただ、そこにあると分かっているのに見えなくなった。リーナは思わず身を乗り出しかけ、慌てて背筋を戻した。


「灯を消すわけじゃない。灯が届かない場所へ置く」


「術式ではなく、条件の変更」


「近い」


「では、観測系は何を読むのです。《夜目》が残るなら、光ではない何かを拾っている」


 蒼凪様は闇の幕の中で、見えない水滴の位置を指先で示した。


「輪郭だな。動き、境界、そこにあるはずのずれ。目で見るものとは違う」


「影ではなく、欠けですか」


「そう呼んでもいい」


「興味深い」


 ヴァロー様は短杖で闇の幕を細く畳んだ。畳まれた闇は、月の輪のように薄く丸まって机上に浮いた。


 リーナはそこで一度、廊下へ下がった。


 仕事である。


 魔法の標本を見に来たわけではない。


 だが、茶が冷めたら替えねばならない。替えるためには戻らねばならない。これは仕事である。


 少しして戻ると、机の紙が替わっていた。


 月相図の横に、深く沈む矢印が描かれている。水滴がひとつ、机の上から落ちかけて止まっていた。ヴァロー様の闇の残滓が、その落下を横から押さえている。


「《重落》は体感重量を変える」


 ヴァロー様が言った。


「足を止める。武器を重く感じさせる。落下をずらす。ですが、貴方の《重圧》はそれと同じ強化版ですか」


「重さの話ではない」


 蒼凪様は水滴をもうひとつ浮かせた。片方はヴァロー様の闇で落下速度を遅くされている。もう片方は空中の見えない一点へ置かれた途端、形を丸く保てなくなった。潰れたわけではない。押されたわけでもない。そこにあること自体が苦しそうに見えた。


 リーナはぞっとした。


 水なのに、息が詰まっているように見える。


「沈めている?」


「それも結果だ」


「では、対象を重くするのでも、下へ押すのでもない」


「そこにいる条件を書き換える。言葉にするなら、それが近い」


 ヴァロー様の視線が、浮いた水滴から紙の矢印へ移った。


「術者のマナで圧を積むなら、消費が合いません。賢者級でも、非合理に見える」


「合ってる。桶で海水を運ぶようなものだ」


「では、運ばない」


「水路を開く」


 ヴァロー様の指が止まった。


「観測の範囲では、かなり物騒な水路ですね」


「だから閉じている」


「多くの魔法使いは、自分のマナで仕事を完結させようとします」


「初歩はそれでいいが、視野が狭い」


「塔で言えば喧嘩になります」


「塔じゃないからな」


 蒼凪様の声は平らだった。


 けれどリーナは、その平らさの下に何か重いものがある気がした。水滴が元に戻る。机の上で小さく跳ねる。何事もなかったように丸くなる。


 リーナは冷めかけた茶を下げ、新しい茶を置いた。


 二人とも礼を言わない。


 無礼ではない。気づいていないのだ。


 夢中である。


 花嫁修業の範囲ではありません。


 リーナは心の中で降参した。


 次に戻った時、机の上は海図になっていた。


 潮位札。観測目録。古い被害記録の写し。白墨の線が紙から立ち上がり、細い波のように揺れている。蒼凪様の水の塊は弧を描いて紙の上を通り、線になったところで薄く潰れた。


「凪式は《潮見》の外部化と聞きました」


 ヴァロー様は月相図の輪を脇へ寄せていた。


「外部化できるものと、できないものの境界はどこにありますか」


「紙に落ちるかどうか」


「紙」


「海図、潮位表、観測札、被害目録。面に描けるものだ」


 蒼凪様は水の弧を白い紙の上へ落とした。水は紙を濡らさず、線だけになった。立体だったものが、薄い青い弧として残る。


「凪式は、基本的に面に描けるものしか拾えない。紙に落とした時点で、厚みは死ぬ」


「面に潰せるものまで」


「そうだな」


「では《潮見》は」


 蒼凪様は紙の上の青い線へ指を近づけた。


 線の周りに、風の矢印、足跡の点、言葉の遅れを示すような小さな間隔、潮位の目盛りが浮かんだ。リーナには意味が分からない。けれど一枚の紙の上に、紙に収まらないものが重なっているのだけは分かった。


「紙に潰す前の厚みを読む。潮位だけじゃない。風、匂い、呼吸、足の置き方、言葉の遅れ、選択の偏り」


「受け取るものの数が違う」


「数ではなく、厚みだ」


「境界が違うのではなく、精度が変わる」


「精度が上がれば、信頼できる範囲が広がる」


 ヴァロー様は月の輪を指先で回した。淡い輪は満ち欠けを示すように明滅する。


「月読みは月相、影、夜の条件を読みます。戦場の前提です。貴方の《潮見》は、戦場の動きそのものへ踏み込む」


「前提も読む。だが前提だけでは足りない」


「白真珠の塔は海を、現象、力、領域に分ける。月読みの塔も、月相、引力、夜の領域で切る。照応は可能ですか」


「できる。だが同一視はするな」


「理由は」


「月読みは月そのものを扱う。白真珠は海が受け取ったものを扱う。似ているのは棚の形だけだ」


「棚の中身は別」


「そうだ」


 ヴァロー様は満足したように、ほんの少し顎を引いた。


 また茶が冷めた。


 リーナは三度目の茶を替えた。


 この部屋だけ、時間の流れが変だった。廊下では夕方の支度が始まっている。厨房では包丁の音がしている。けれど書斎の中では、月の輪と水の弧と紙の線だけが、静かに動き続けていた。


「では、観測できないものは」


 ヴァロー様は声をさらに低くした。


「貴方はどう扱うのです。箱に入れずに捨てるのか。名前を付けずに残すのか」


「捨てない」


「記録する?」


「観測できない、と記録する」


「欠測も記録に含める」


「欠測の理由もだ。そこを間違えると死ぬ」


 ヴァロー様はしばらく黙った。


 その沈黙は困った沈黙ではなかった。むしろ、何かを拾い直している沈黙だった。窓の外で鳥が一度鳴き、書斎の中では誰もそれを拾わなかった。


「月読みの塔では、観測できないものを月相の不足、遮蔽、術者の未熟、対象の隠匿で分けます」


「悪くない」


「白真珠の塔では」


「観測札が足りない。海域が違う。まだ起きていない。誰かが隠した。前提が間違っている」


 蒼凪様は水の塊を紙の端へ滑らせた。


 水はそこで止まる。


 紙の外へ落ちない。


「見えないものは捨てない。見えない理由ごと箱に入れる」


「箱が増えすぎる」


「増える。だから整理する」


「賢者殿のいう整理は、塔なら三人ほど胃を悪くしますね」


「三人で済むなら、塔は優秀だな」


 ヴァロー様がほんの少しだけ笑った。


 笑った、と思う。


 リーナの見間違いでなければ。


 夕方の光が窓から落ちた。茶は三度冷めた。薄い闇の残滓はいつの間にか月の輪へ戻り、水の塊は小さな珠になって蒼凪様の指先に浮いている。


「観測者は、見えないものに名前をつけたがる」


 ヴァロー様が言った。


「名前がないと、記録できない」


「貴方は」


「名前をつける前に置く」


「置いたまま、忘れる?」


 蒼凪様は水の珠を消した。


「忘れない。忘れたふりはする」


 ヴァロー様はそれ以上聞かなかった。


 リーナにも、そこから先は聞いてはいけない話だと分かった。


──────────────────────────────


 夕方の廊下で、フェリ様がリーナのリボンをくわえて走った。


「フェリ様!」


 返事は当然ない。


 黒猫は洗濯場の前をすり抜け、厨房の脇を抜け、使用人用の細い通路へ入った。夕方の屋敷は匂いが多い。焼いた魚、濡れた布、磨き粉、薔薇の枝を切った青い匂い。リーナは盆を持っていなかったことだけを感謝した。持っていたら終わっていた。


「フェリ様、お待ちください、それは勤務用のリボンでして!」


 黒猫は止まらない。


 廊下の角でディーノとぶつかりかけた。


「リーナさん?」


「フェリ様が!」


「深追いしないって朝会で」


「リボンは深追いですか!?」


「たぶん浅追い」


「助けてください!」


 二人で追うと、フェリ様は窓辺へ飛び乗った。夕方の光が黒い毛並みに赤く乗る。口元にはリーナのリボン。金の目が細くなる。


 その足元で、花瓶が倒れかけていた。


「あ」


 リーナは駆け寄って花瓶を支えた。水がこぼれる寸前だった。窓辺の薔薇はまだ新しい。床に落ちれば花も絨毯も傷む。


 冷たい陶器が手のひらに当たる。中の水が遅れて揺れ、花の茎が瓶の内側を小さく叩いた。


 ディーノが花瓶を受け取る。


「助かった」


「フェリ様が」


 リーナが黒猫を見る。


 フェリ様はリボンを窓台へ落とした。何事もなかったように毛づくろいを始める。赤い夕日を背に、あまりにも堂々としていた。


「……教えてくださった、のでしょうか」


「そういうことにしておこう」


 ディーノは低く言った。


 リーナも頷いた。


 深く考えると仕事が止まる。


──────────────────────────────


 夕食前、厨房は戦場になった。


 戦争の相手はシレリオ様の食欲である。


「魚の追加、二皿」


 透真の声が飛ぶ。


「芋、もう一籠。海藻の和え物は大皿へ替えてください。肉は薄切りにして出します。厚切りだと足りない」


 厨房の者たちが動く。


 包丁が板を叩く。湯気が上がる。焼き油がはぜる。皿の縁が触れ合い、誰かの靴底が水を踏む。狭い動線の中で、互いの肩も肘もぶつからない。ぶつかる前に避ける。避ける前に分かっている。


 リーナは皿を運びながら、頭の中で計算してしまった。白身魚二皿。芋一籠。海藻大皿。肉薄切り。香草。油。塩。火の時間。人件費。


 やめましょう。


 商家の娘の部分が青ざめる。


 食堂ではシレリオ様が静かに食べていた。静かに、真面目に、感謝を込めて食べている。だから誰も責められない。皿だけが消える。


「シレリオ様のお皿、これで三枚目です」


 リーナは小声で言った。


 ディーノが横から訂正する。


「四枚目」


「言わないでください」


「記録だから」


「記録って怖いですね」


 イーリス様は外出から戻り、喉用の茶を受け取っていた。広場で歌ったのか、表情は少し明るい。手には紙片がある。市井で拾った歌の断片らしい。小さく口ずさむ声が食堂の端へ流れ、厨房の慌ただしさを少しだけ柔らかくした。


 ヒュウマ様は日中の外出から戻り、水差しを一つ空にした。


 リーナはすぐに替えを持っていった。


「ありがとうございます」


「いいえ、ヒュウマ様」


 ヒュウマ様は礼儀正しい。


 礼儀正しいが、水差しは本当によく空になる。空になった水差しは軽い。軽いのに、なぜか運ぶ時の責任は重い。


 蒼凪様は食事をきちんと終えた後、書き物へ戻ると言った。夕食を抜かずに戻るところが、以前とは違うらしい。透真が何も言わなかったので、たぶんそれでよいのだ。


 メリッサは食堂全体を見ていた。


 皿の数。水の減り。布の乱れ。客人の戻る時間。黒猫の位置。何もかもが一枚の帳面に入っているようだった。視線は厳しいのに、動きは静かだった。誰かが疲れる少し前に、別の誰かがそこへ入る。


 リーナは皿を運びながら思う。


 薔薇の屋敷は、すごい。


 奥様がすごい。執事頭がすごい。メイド長がすごい。料理長も、ディーノさんも、みんなすごい。


 けれど、それだけではない。


 一枚の皿を置く手。こぼれそうな花瓶を支える手。冷めた茶を替える足。水差しの残量を見る目。フェリ様のリボン強奪に走る脚。


 そういうものが全部あって、夜の食堂は回っている。


 たぶん、花嫁修業とは、思っていたより皿が多い。


──────────────────────────────


 夜、使用人棟の部屋へ戻ったリーナは、靴を脱ぐ前に寝台へ座り込んだ。


 足が棒だった。


 棒というより、湿った薪だった。火もつかない。曲がらない。


 部屋は朝より少しだけ自分の匂いがした。洗った布、使い終えた石鹸、髪油の残り香。窓の外は暗く、遠い潮騒が建物の壁を撫でている。廊下では誰かが小声で挨拶を交わし、すぐに静かになった。


 それでもエプロンは畳む。手袋は揃える。明日の髪紐を出しておく。右手袋は枕の下へ入れない。絶対に入れない。


 机の引き出しを開ける。


 アドニス様の切り抜きがある。


 今日も完璧だった。紙の上で完璧。舞台の上ならもっと完璧。リーナはしばらく眺め、胸の中をいつもの甘い憧れで満たそうとした。


 ところが、なぜか地下修練場のヒュウマ様が頭をよぎった。


 木剣を構えた時の目。


 汗が肩を落ちるところ。


 若い身体のしなやかさ。


「違います」


 リーナは誰にともなく言った。


 アドニス様は別格です。


 ヒュウマ様はお客様です。


 蒼凪様の身体は盛りすぎです。


 最後の一文は言わなくてよかった。


 リーナは引き出しを閉め、エプロンを畳んだ。畳み目はいつもより少しだけ綺麗だった。指で角を押さえると、布が素直に折れた。


 今日、一番嬉しかったことは何か。


 アドニス様の切り抜きを朝見たことではない。


 ヒュウマ様の修練着でもない。


 フェリ様からリボンを返していただいたことでもない。


 メリッサ様の「結構です」だった。


 それに気づいて、リーナは少しだけ背筋を伸ばした。


 花嫁修業とは何なのだろう。


 商家の娘が皿を選ぶことだろうか。黒猫様にリボンを奪われることだろうか。水差しを替えることだろうか。魔法使い二人の難しい話を前にして、冷めた茶を差し替えることだろうか。


 よく分からない。


 けれど、明日も朝会はある。


 蒼凪様は修練するかもしれない。ヒュウマ様は水を空にするかもしれない。イーリス様は広場へ行くかもしれない。シレリオ様は夕食に戻る。フェリ様はどこかにいる。奥様はたぶん無茶を言う。メリッサ様は全部見ている。


 リーナは明日のエプロンを椅子の背へ掛けた。


 窓の外から潮騒が小さく聞こえた。


 薔薇の屋敷は静かだった。


 静かに見えるように、誰かが一日中走り回っている。


 リーナ・ベルティは灯を落とし、今度こそ右手袋の位置を確認してから眠った。

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