白鷲の応接
白い部屋だった。
壁は漆喰ではなく、磨かれた石で覆われている。石目は薄く灰を含み、よく見なければ継ぎ目も分からない。朝の光が港側の大窓から入り、床の白大理石を横に滑っていた。窓際には細い観葉樹の鉢。葉は濡れたように艶を持ち、鉢の土だけがこの部屋で唯一、柔らかそうな黒をしている。壁には西方航路の海図。机は黒檀で、天板には真鍮の縁取りがある。
応接用の椅子は白革だった。
そこだけなら、上等な商会の支部長室に見えた。
床に血がなければ。
部屋は港を見下ろす高さにあった。窓の外では、観光客を乗せた小さな馬車が白い道を進み、婚礼船の飾り紐が風に揺れている。港の労働区画は建物の影に隠れ、荷役の怒号も、油の匂いも、魚箱からこぼれる水も、ここまでは届かない。届くのは、磨かれた石の冷たい匂いと、客を迎えるために焚かれた薄い香だけだった。
その香の下に、血の匂いがある。
隠されていない。
白い部屋は汚れを拒んでいるのではなかった。汚れを置く場所まで決めている。床に落ちる血は床へ。客は椅子へ。書類は机へ。部下は命令された高さへ。窓の外のサルマンディアだけが、いつも通り美しく見える。
若い男が一人、床に頬を押しつけられていた。口の端が切れている。白い床に、唾液と血が混じって薄く伸びていた。もう一人は壁際で膝を抱えている。左手を胸に寄せ、指先を震わせていた。小指の爪が割れ、爪の下から赤が滲んでいる。
血は多くない。
だが、この部屋では少しの赤で十分だった。白が赤を拾い、光が赤を薄く延ばし、見る者に逃げ場を与えない。床を拭けば消える量だった。だからこそ、拭かれていないことに意味があった。
「拭くな」
ルッカ・ヴァレンティは言った。
声は低い。怒鳴ってはいない。むしろ、客に食後酒の種類を尋ねる時と同じ温度だった。
白いリネンの上着。薄灰のシャツ。潮真珠のカフス。黒く撫でつけた髪。白革の手袋。靴だけが黒い。白い服と白い部屋の中で、その靴だけが地面に沈むように見えた。
大柄だった。
ただ背が高いのではない。肩と首と前腕に、若い頃に港の荷を担いだ者の厚みが残っている。だが、その厚みは服の下に収められていた。腕を振り上げる必要はない。大声を出す必要もない。どの重さをどこへ置けば相手が崩れるか、身体が知っている男の静けさだった。
白い手袋は綺麗だった。
握手のための手袋にも見える。客の前で書類を扱うためのものにも見える。けれど、血の近くにあっても外さないその白は、汚れを拒む白ではなかった。汚れに触る資格があると示す白だった。
ルッカは床に伏せた若衆の前に立っていた。
黒い靴先のすぐ横に、血が一滴落ちている。靴は汚れていない。踏む位置を選んでいるのだ。何度も。自然に。踵の角度ひとつで、床の男の呼吸が浅くなる。
「お許しください、カポ」
床の男が言った。
言葉の途中で唇が震え、血が床に落ちた。赤い点はすぐに丸みを失い、石の目に沿って薄く広がる。
「許しは後だ」
ルッカは葉巻を指の間で転がした。火はついていない。切り口だけが整っている。葉の巻きは固く、爪で軽く弾けば乾いた音がしそうだった。
「先に報告だ」
「は、はい。報告、報告します」
「最初から」
若衆は喉を鳴らした。
「夜間搬入で、火薬筒の一つが、湿気を含んでいて」
ルッカの靴が動いた。
床に伏せた男の右手を、黒い靴底が静かに押さえた。踏みつけるというより、置いた。だが置かれた重さは逃げられない場所を知っていた。
「あ、ああっ」
「湿気を含んでいて」
ルッカは繰り返した。
「それは火薬筒の報告か。お前の報告か」
「俺の、報告です、カポ」
「違う」
靴底に体重が乗った。
骨が鳴る音は大きくなかった。だが、部屋の白さの中では妙にはっきり聞こえた。窓の外の車輪の音よりも、遠くの水鳥よりも近かった。
「ぐっ、ああ、カポ、カポ、どうか」
「どうか、ではない。違うと言った」
ルッカは屈んだ。白い手袋の指が、床に伏せた男の髪を掴む。乱暴に引き上げるのではない。顔を少しだけ横へ向けさせる。血で濡れた口元が見える角度まで。
「火薬筒は湿気を含んでいた。では、お前は何をした」
「……報告を」
「したのか」
若衆は目を見開いた。
壁際の男が息を呑む。
床に伏せた男の喉が、逃げ場を探すように上下した。乾いた唇の端から、薄い血がまた滲む。
「しようと」
ルッカは手を離した。
若衆の顔が床へ戻る。頬骨が石に当たって、鈍い音がした。
「それは報告ではない」
「すみません、カポ。すみません。俺たちは、ただ、痕を」
「隠そうとした」
ルッカの声は変わらない。
「はい」
「誰の許可で」
「……ありません」
「誰の判断で」
「俺の、判断です」
「違う」
ルッカは今度は壁際の男へ向いた。
壁際の若衆は身体を硬くした。白いベストの胸元に、細かい火薬の焦げが散っている。袖口は破れ、肘から下に血が伝っていた。血は布に吸われ、赤ではなく濃い錆色になっている。
「お前は見ていた」
「は、はい」
「止めたか」
「止め、られませんでした」
「なぜ」
「あいつが、すぐに片づければ問題ないと」
ルッカの目が少しだけ細くなった。
部屋の空気が冷える。香の甘さが薄くなり、石の匂いだけが残った。
「問題を、片づける」
若衆は自分の失言を悟った。口を開いたが、声は出ない。
ルッカは一歩で距離を詰めた。
白い手袋が若衆の顎を掴む。次の瞬間、壁に後頭部が打ちつけられた。壁の白に、薄い赤が擦れる。若衆の膝が崩れかける。だがルッカは顎を離さない。
「問題は片づけるものではない」
「っ、カポ」
「報告するものだ」
「はい、カポ」
「報告した後に、誰が片づける」
「カポが」
「違う」
ルッカは若衆の腹を膝で打った。
空気が潰れた。若衆の身体が折れ、口から息が漏れる。胃の奥から上がった音が、白い壁にぶつかって落ちた。
「が、はっ」
「手順だ」
ルッカは顎を離す。
若衆は床に落ちた。膝と手をつく。その手の下に血が広がる。指が震え、白い床に細い赤の線が引かれた。
「火薬を誤った。報告を遅らせた。痕を隠そうとした。三つある」
ルッカは葉巻を机の縁に置いた。
「事故はどこにある」
床の男が泣きそうな顔で言った。
「ありません」
「聞こえない」
「事故は、ありません、カポ」
壁際の男も続けた。
「手順を飛ばしました、カポ」
「次」
「火薬を見誤りました」
「次」
「報告を遅らせました」
「次」
二人とも止まった。
ルッカは二人を見下ろした。
その目は、熱を持たない。怒りがないのではない。怒りが、声や眉に出る前に形を変えている。刑。手順。位置。誰をどこに置くか。
「汚したものを、報告の前に隠そうとした」
「はい」
「はい、カポ」
「覚えろ」
ルッカは床の男の手から靴をどけた。
男は右手を抱え込んだ。泣き声を噛み殺す。指は折れていない。少なくとも、まだ使える程度には残されている。残されていること自体が、慈悲ではなく計算に見えた。
「痛いか」
「……痛いです、カポ」
「なら覚える。痛みは帳簿より忘れにくい」
扉が叩かれた。
音は軽い。二度。白い部屋の外から、別の手順が差し込まれる。
ルッカは振り返らなかった。
「入れ」
扉が静かに開く。
入ってきた男は若かった。二十二、三ほど。細身で、白に近い薄灰のベストを着ている。黒髪が少し癖を持って額へ落ち、灰緑の目が室内を一度だけ走った。
ニコロ・フェレッティは、血を踏まなかった。
見て避けたというより、最初からそこに足を置かない癖が身体に入っている。床の赤。壁の擦れ。倒れた若衆の息。ルッカの手袋。葉巻。すべてを一瞬で見て、入口の横で止まった。
視線が床の男の右手へ落ちる。
ほんの一瞬だった。
すぐに戻る。
「カポ」
「終わっていない」
「承知しています」
ニコロは背筋を伸ばした。腕を後ろに組む。細い身体に、白い服がまだ少し馴染んでいない。けれど立ち位置だけは正確だった。扉と室内の境。外から来るものを止め、内にあるものを外へ漏らさない位置。
「来客です」
「追い返せ」
ルッカは即答した。
「約束もなしに手順を踏まない客をもてなす義理はない」
「評議会の紙をお持ちです」
ルッカの視線が、そこで初めてニコロへ向いた。
「名は」
「蒼凪。塔の賢者と」
床の若衆の呼吸が乱れた。
ニコロは続ける。
「それと、本家相談役トマソ・カリアーリの名を」
部屋の中で、遠くの港の音だけが残った。
荷車の車輪。水鳥の声。観光客の笑い声。白い部屋の外では、港がいつも通りに動いている。誰かが婚礼船の飾り紐を直し、誰かが潮真珠の箱を運び、誰かが白い建物を眺めている。
ルッカは机の上の葉巻を取った。
火はつけない。
切り口を見た。葉の巻き、湿り、端の揃い。そういうものを確かめるように数秒を使い、それから息を吐いた。
「通せ」
ニコロは一礼した。
「床の者は」
「動くな」
ルッカは若衆へ目を向けずに言った。
「お前たちの報告は終わっていない」
床の男が、折れた声で答える。
「はい、カポ」
「客には、汚した床も見せておけ」
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一階の受付は、観光港の商会らしい顔をしていた。
真鍮の柵。磨かれた床。西方航路から届いた香辛料の小瓶。婚礼船用の白布見本。潮真珠を納める小箱。受付係の笑顔はよく訓練されていて、評議会の紙を見た時も、蒼凪の名を聞いた時も、崩れなかった。
だが、本家相談役の名が出ると、笑顔の奥で目だけが一度止まった。
それだけだった。
係は余計なことを尋ねず、奥へ人を走らせた。蒼凪とヒュウマは白い階段の下で待つ。階段は三階までまっすぐ伸びている。途中の踊り場には、シローネ商会が寄進した港湾補修の記念板が掲げられていた。表の功績。表の金。表の名。
ヒュウマはその板を見た。
潮に削られた岸壁を直すには金がいる。船を安全に泊めるにも、人を雇うにも、灯台の油を買うにも金がいる。誰かが払う。払った者は、名を残す。港は綺麗な祈りだけでは回らない。
それを知っているから、余計に腹の底が重かった。
善意だけでは港は支えられない。だが、金を出した者が港の形まで決め始めた時、それは支えなのか、囲い込みなのか。ヒュウマには、まだ言葉にできなかった。
受付の奥からは紙をめくる音がしていた。表では香辛料の甘い匂いがする。白布の見本はきちんと畳まれ、潮真珠の小箱は見栄えよく斜めに置かれている。どれも客に触れられる高さにあり、どれも値段を言われる前から価値を持っていた。
やがてニコロが階段の上に現れた。
細い白の服に、黒い髪が落ちている。彼は二人を見下ろさず、階段を半分だけ降りて礼をした。案内役としては丁寧だった。だが、視線は蒼凪の手元の紙、ヒュウマの背の潮鎚、階段の幅、窓の位置を順に拾っていた。
「こちらへ」
それだけを言って、ニコロは背を向けた。
足音が軽い。
白い階段に、ほとんど響かない。古い水路の石段を知っている者の歩き方だった。ヒュウマはその背中を見ながら、さっきの廃船置き場の男たちを思い出した。落ちた者。拾われた者。今、目の前を歩く若い男も、どちらなのか分からなかった。
三階の廊下は静かだった。
壁に掛けられた海図の額縁が、窓からの光を細く返している。廊下の白さは受付よりも乾いていた。客に見せる白ではあるが、客が長く留まる場所の白ではない。掃除の行き届いた匂いの奥に、かすかな煙草葉の香りがあった。
扉の前で、ニコロは一度止まる。中へ声をかける前に、ほんのわずかだけ息を測った。中の呼吸を待っている。許可を待っている。扉の向こうで何が起きているかを、知っている立ち方だった。
扉が開く。
蒼凪が部屋に入った時、最初に見たのは白だった。
次に血だった。
白い壁。白い床。白い椅子。白い手袋。床に落ちた赤。壁に擦れた赤。窓から射す朝の光の中で、血は乾き始めている。匂いは薄い。だが、葉巻の葉と石鹸と港の湿気の奥に、鉄の匂いが残っていた。
ヒュウマは半歩だけ前へ出かけた。
すぐ止まる。
床の若衆二人を見る。胸は上下している。意識もある。右手を抱えた男の指は震えているが、壊されきってはいない。壁際の男は腹を押さえ、歯を食いしばっていた。
命を奪うためではない。
そう判断してから、ヒュウマは蒼凪の後ろへ戻った。
戻っただけで、警戒を解いたわけではない。
入口の横にはニコロが立っている。腕を後ろに組み、扉を背負うように。若い。だが、目は落ち着いている。落ち着いているというより、逃げ道を全部数えてから立っている目だった。
黒い髪が、白い服の襟にかかっていた。
その白が、どこか借り物に見えた。
「シローネ商会サルマンディア支部、カポ」
ルッカは立ったまま名乗った。
「ルッカ・ヴァレンティ。港の表と裏を預かっております」
「蒼凪だ」
蒼凪も名乗る。
声に驚きはない。床の血を見ても、眉をひそめない。ただ、見る。血の位置。若衆の手。ルッカの靴。ニコロの立ち位置。応接用の椅子。机の上の火のついていない葉巻。
「塔の賢者の肩書きはある。今は評議会の照会で来た」
「賢者殿が島にいらしていることは、こちらでも承知しておりました」
ルッカは微笑んだ。
上等な商人の笑みだった。口角だけではない。目元も、声も、相手を迎える形を知っている。
「薔薇の屋敷の客人。評議会棟への出入り。サルマンディアは小さな島です」
「見晴らしがいいな」
「ええ。白い場所ほど、影はよく見える」
蒼凪は応じなかった。
ルッカはそこで、少しだけ視線を落とす。蒼凪の手元。革袋。評議会の紙。封蝋。紙の重み。それから、言葉の奥にあるもう一つの名。
「トマソ・カリアーリ殿の名まで添えて来られるとは思いませんでしたが」
「必要なら通じる名だと聞いている」
「通じます」
ルッカは頷く。
「その名で来た客を、立たせたままにはできない」
床の若衆の一人が、息を呑んだ。
ルッカは白い応接椅子を手で示す。
「お掛けください、蒼凪殿。あなたには席がある」
蒼凪は席を見た。
それから床を見た。
「床の者は?」
「まだ報告の途中です」
「そうか」
蒼凪は座った。
白革の椅子は柔らかかった。
柔らかさは、かえって場違いだった。背を預ければ身体が沈む。客の緊張を解くための椅子だ。商談を長く続けるための椅子だ。けれど、そのすぐ前の床には、報告を終えていない若衆がいる。椅子の柔らかさと床の硬さが、同じ部屋の中でルッカの法になっていた。
蒼凪は深く腰掛けなかった。
逃げるためではない。緊張しているためでもない。相手の用意した柔らかさに、自分の重心を預けすぎないためだった。
ヒュウマは座らない。蒼凪の左後ろに立つ。潮鎚は背にある。手は柄に触れていない。触れていないことが、かえって警戒の形になっていた。
ニコロは入口に立ったまま動かない。
部屋の中に、席のある者と、席のない者が分かれた。床の上で、若衆の呼吸だけがその境目を乱している。
ルッカは机の前へ戻った。
「お茶を」
「不要だ」
蒼凪が言った。
「長くするつもりはない」
「短い話ほど、値が高いこともある」
ルッカは椅子に座らない。
「どうぞ」
蒼凪は評議会の紙を取り出した。
封蝋はまだ割れていない。紙は厚く、机に置けばそれだけで音がしそうだった。蒼凪は机には置かず、手に持ったまま用件を出した。
「評議会の照会で来た。旧水路南門周辺の臨時搬入記録を確認したい」
ルッカは紙を見ない。
「旧水路」
「閉鎖倉庫裏、廃船置き場、禁漁区外縁。記録上は別件だが、潮と現場では近い」
「潮を見る方がいる」
ルッカの視線がヒュウマへ動いた。
「若い当代殿」
ヒュウマは小さく会釈した。
「ヒュウマです」
「承知しています」
ルッカは笑った。
「潮鎚を背負って支部の正面へ来る方が、そう何人もいるとは思えません」
ヒュウマは黙った。
蒼凪が続ける。
「現場で貴商会の名が出た。だから、表から聞く」
「表から」
ルッカはその言葉を気に入ったように繰り返した。
「それはありがたい。裏口は狭い。賢者殿には不向きです」
「狭い場所は嫌いではない」
「では、汚れる場所がお嫌いで?」
「必要なら入る」
蒼凪は言った。
「だが、先に表へ来る。順番の話だ」
ルッカの口元に、薄い笑みが戻った。
「順番を重んじる客は好きです」
床の若衆がわずかに肩を震わせた。
蒼凪はその震えを見た。ルッカも見ている。見たうえで、何も言わない。
「旧水路と呼ぶか、古い排水導線と呼ぶかで、話は変わります」
ルッカは言った。
「港は古い。閉じた道を、完全に忘れるほど若くはない。表の台帳から消えた道でも、潮は覚えている。荷役も、老人も、古い倉庫も」
「商会も」
「もちろん」
ルッカは否定しなかった。
「知らないふりをするには、サルマンディアは古すぎる」
「では、知っている」
「知っている道はあります」
「使っている道は」
「お答えする帳簿が違います」
蒼凪は目を細めた。
ルッカはそこで、机の上の葉巻へ手を伸ばしかけた。
まだ火はつけない。
「評議会の紙で見られる帳簿と、商会の帳簿は別です。客人に出す茶と、倉庫番に渡す鍵が違うように」
「茶は断った」
「鍵を求めている」
「まだ鍵とは言っていない」
「では、何をお求めで」
蒼凪は、床の血を一度だけ見た。
若衆の右手は震え続けている。痛みで。恐怖で。あるいは、自分がまだ席を得ていないことを身体が理解しているせいで。
「貴商会の商売のすべてに興味があるわけではない」
ルッカの指が止まった。
「表の商売にも」
「必要なら見る」
「裏の商売にも」
「必要なら見る」
「では、何に興味がおありで?」
「何を動かしたか」
ルッカは黙った。
蒼凪は続ける。
「ただの密輸なら、私がここまで来る必要はない。評議会に返せば済む」
「ただの密輸」
ルッカはゆっくりと笑った。
「賢者殿は言葉が高いところから落ちてくる」
「高くはない」
「では、冷たい」
「それは認める」
蒼凪の返答に、ニコロの目がわずかに動いた。
ルッカは今度こそ葉巻を取った。
銀の小さな火器を開く。火花が一瞬だけ白い部屋を照らした。葉巻の先に赤が灯る。ゆっくりと吸い、煙を口の中で転がし、細く吐く。
灰色の筋が白い部屋へほどけた。
客を迎える商人の顔から、港の裏を束ねる男の顔へ、ほんの少しだけ角度が変わる。白い手袋の指先に、煙草葉の焦げた匂いが移る。
「……なるほど。評議会の照会は、そこまで降りてくる」
「評議会ではない」
「では、賢者殿が」
「私がだ」
煙がルッカの横顔を薄く隠した。
「何を疑っている」
「疑いというほど固まっていない」
「では」
「記録の古さと、現場の新しさが噛み合いすぎている」
蒼凪は言った。
「古い非常時札に似た白木片。今の台帳から消えた水路。閉鎖倉庫。廃船置き場。火薬筒。潮の向きに合わない搬入記録。現場だけでは足りない。古い記録だけでも足りない」
ルッカは葉巻を持つ手を止めた。
「貴商会は、現場と記録の両方に手が届く」
「褒め言葉として受け取りましょう」
「褒めてはいない」
「では、値踏みだ」
「そうだな」
ルッカは少し笑った。
今度の笑みは、商人のものではない。
「帳簿に残せない荷はあります」
床の若衆二人が動かない。
ニコロも動かない。
ただ、部屋の空気だけが一段深くなった。葉巻の煙が窓の光にかかり、白い壁に薄い影をつくる。
「そのすべてが、悪い荷とは限らない。税が重すぎる薬。表に出すと値が崩れる宝石。婚礼前に届いてはいけない贈り物。評議員の息子が買った安い香油。港には、日の当たる場所へ出す前に、日陰で形を整えたほうがよいものがある」
「知っている」
「でしょうね」
ルッカは煙を吐いた。
「あなたは、裏稼業を裁きに来た顔ではない」
「裁くなら紙を増やす」
「増やしていない」
「今はな」
ルッカの目が、そこで初めて冷たく愉快そうになった。
「いい返事だ」
「帳簿に残せない荷の中に、帳簿に残してはならないものが混じっていないか」
蒼凪は言った。
「私が見たいのはそこだ」
ルッカは答えなかった。
葉巻の先だけが赤くなり、すぐ暗くなる。
「それは、評議会の紙で聞くことではない」
「だから私が聞いている」
「本家相談役の名で?」
「必要なら」
「薔薇の魔女の客として?」
「それも必要なら」
「塔の賢者として?」
「それも、必要なら」
「では、蒼凪殿としては」
蒼凪は少しだけ黙った。
ヒュウマはその沈黙を聞いた。
床の血よりも、葉巻の煙よりも、その沈黙のほうが危ういと感じた。蒼凪が言葉を選ぶ時、部屋の温度は変わらない。ただ、周囲のものが急に距離を持つ。
「確認している」
蒼凪は言った。
「ただの裏稼業なら、それでいい」
ルッカは笑わなかった。
「それでいい」
「少なくとも、私の用件ではない」
「その言い方は、裏の商人には嫌われます」
「だろうな」
「だが、嫌いではない」
ルッカは葉巻を灰皿へ置いた。
「賢者殿。あなたの沈黙には値がつく。問題は、俺がそれを買えるかどうかです」
一人称が変わった。
ヒュウマの目が細くなる。
蒼凪は表情を変えない。
「売りに来たわけではない」
「でしょうね」
ルッカは椅子へ深く座った。
ようやく座った。
それだけで、部屋の形が変わる。立っていた男が座ったのではない。部屋の中心が、床から椅子へ移った。白革がわずかに沈み、黒い靴が床の赤から少し離れる。
窓の外では港が光っている。
中では血が乾いている。
その二つを同じ高さで眺められる席に、ルッカはいた。港の名士として、裏物流のカポとして、部下を床に置き、客を椅子に置き、帳簿に載らない荷を別の帳簿へ置く男。蒼凪はその配置を見た。善悪より先に、配置の美しさがある。だからこそ危険だった。
「なら、今日は買えない」
「答えない、ということか」
「答えられる席がまだない」
「作ればいい」
「作るには、材料が足りない」
蒼凪は紙をしまった。
「では次は、材料を持ってくる」
「荷の名で?」
「荷の名で聞く」
ルッカは頷いた。
「では、その時は客の名で席を用意しましょう」
彼はそこで床の若衆へ視線を落とした。
「床ではなく」
床の男が震えた。
ヒュウマはその震えを見た。
見てしまった。
だから、言葉が出た。
「拾うことと、鎖をつけることは同じですか」
部屋が止まった。
ニコロの指が、後ろで組んだ手の袖を押した。ほんの少しだけ。白い布に皺が寄り、すぐ消える。
ルッカはヒュウマを見た。
「若い当代殿」
「はい」
「それは、この床の者の話ですか」
ヒュウマは答えなかった。
答えなくても、伝わっていた。
ルッカは葉巻を取らない。灰皿に置いたまま、火の赤がゆっくり短くなっていく。煙は細くなり、部屋の上へ逃げていく。
「同じではない」
ルッカは言った。
「だが、鎖のない者から順に海へ落ちる」
ヒュウマの手が、わずかに握られた。
「海へ落ちた人を、鎖で引き上げるんですか」
「引き上げられるなら」
「その後は」
「働かせる」
ルッカは即答した。
「飯を食わせる。名を呼ぶ。寝床を与える。手順を叩き込む。二度と同じ落ち方をしないように、足首へ重さを覚えさせる」
床の若衆が、顔を上げかけた。
ルッカの視線が落ちる。
黒い靴が、若衆の肩甲骨の間を押さえた。
踏み潰すほどではない。だが、顔を上げる自由だけを正確に奪う重さだった。若衆の喉から短い声が漏れ、額が白い床へ戻る。
「顔を上げるな。報告が終わるまで、お前にはまだ席がない」
ヒュウマは黙った。
怒りはある。あるのに、置き場がない。潮鎚に手を伸ばす怒りではない。叫べば済む怒りでもない。床にいる男をここから引き剥がしたところで、その先に寝床も飯も名も用意できないことを、身体のどこかが知ってしまっている。
ルッカはその怒りを見ている。
「鎖と呼ぶか、命綱と呼ぶかは、落ちた者に聞くべきです」
ルッカは言った。
「海守り殿」
ヒュウマは息を吸った。
潮の匂いはしない。
この部屋には白い石と血と葉巻しかない。
蒼凪が立った。
「今日はここまでだ」
「ええ」
ルッカも立つ。
「次も正面からどうぞ。席は用意します」
「転ぶ前提で歩く趣味はない」
「裏道で転ぶ者は、たいていそう言う」
「なら、表を歩く」
「結構」
ルッカは白い手袋のまま、軽く礼をした。
「シローネ商会サルマンディア支部は、表から来る客を拒みません」
ニコロが扉を開けた。
蒼凪は出口へ向かった。
ヒュウマも続く。通り過ぎる時、床の若衆の肩が一度だけ震えた。ヒュウマの視線に気づいたのかもしれない。あるいは、ただ痛みが戻っただけかもしれない。
ニコロの横を通る。
灰緑の目が、一瞬だけヒュウマを見る。
その目には敵意がない。
同情もない。
ただ、何かを見送る者の目だった。
扉が閉じる前、ルッカの声が聞こえた。
「続ける」
若衆の声が、すぐに返った。
「はい、カポ」
──────────────────────────────
外の光は明るかった。
白い正面玄関を出ると、港の匂いが戻ってくる。潮。魚。石鹸。焼き菓子。遠くで鳴る荷車の車輪。観光客が笑い、案内人が道を示し、水売りが小さな鈴を鳴らしている。
それなのに、ヒュウマの鼻にはまだ葉巻と血の匂いが残っていた。
階段を降りる時、受付係は変わらず笑っていた。
その笑顔は仕事として正しい。来客を送り出す表情として正しい。何かを見たかと訊かれれば、何も見ていないと答えるだろう。たぶん嘘ではない。あの部屋の中で起きたことは、あの部屋の中に置かれる。受付は受付の席にあり、若衆は床にあり、ルッカは三階にいる。
シローネ商会は、建物そのものがそういう仕組みだった。
表に出ると、光が眩しい。
ヒュウマは一度、目を細めた。白い石段に靴底が触れる。さっきの部屋の床と同じ白なのに、ここには血がない。ないだけで、清潔に見える。そのことが、妙に嫌だった。
二人は商会の正面から少し離れた。
白い建物は背後にある。見上げれば、窓は朝日を返している。何もなかったように。誰も床で呻いていなかったように。あの部屋の血も、若衆の声も、白い壁の内側に収められている。
ヒュウマはそこで、ようやく息を吐いた。
「悪人、なんですよね」
蒼凪はすぐには答えなかった。
港沿いの道を、花籠を抱えた女が通り過ぎる。籠の中には白い薔薇と青い小花が混じっていた。婚礼用だろう。花の匂いが一瞬だけ血の記憶を薄め、すぐ潮にほどけた。
「悪人だ」
蒼凪は言った。
「でも、それだけじゃない」
「それだけで済めば、楽だった」
ヒュウマは商会の建物を振り返った。
「あの人たちは、助けられてるんですか」
「助けられている者もいる」
「縛られてもいる」
「そうだな」
「どっちですか」
「両方だ」
ヒュウマは唇を結んだ。
その答えが嫌だった。
嫌なのに、さっきの床の若衆を思い出す。カポと呼ぶ声。恐怖。痛み。それでも、あの部屋から追い出されることのほうを、もっと怖がっていたかもしれない顔。
廃船置き場の男も同じだった。
飼われたんじゃねえ。
拾われたんだ。
違いはある。本人にとっては。
白い道の端で、荷を積んだ小さな車が軋んだ。車輪の影が石畳の溝を越え、すぐ戻る。港では何かが落ちても、すぐ誰かが拾う。拾われたものがどこへ運ばれるかは、拾った者が決める。
「危ない場所に連れてきた」
蒼凪が言った。
ヒュウマは振り向く。
「俺は護衛です」
「護衛だからといって、何も感じなくていいわけではない」
「それは、蒼凪さんもです」
蒼凪の歩みが、ほんの少しだけ遅れた。
ヒュウマは続ける。
「俺だけ連れてきたんじゃないです。蒼凪さんも来ています」
「俺は必要があった」
「俺もです」
蒼凪は港を見た。
海面が白く光っている。水上劇場のある方角は、今は静かだった。昨夜の歌も喝采も遠い。今ここにあるのは、白い商会と、古い水路と、帳簿に残らない荷の気配だった。
「ああ」
蒼凪は短く言った。
「そうだな」
ヒュウマはそれ以上言わなかった。
言えば、別の話になる。
蒼凪も何も言わない。
二人は歩き出した。
背後で、シローネ商会の白い玄関が遠ざかっていく。港の光は明るい。人の声も多い。けれどヒュウマの耳には、まだ部屋の中の声が残っていた。
潮の音が、それを少しずつ押し流していく。
完全には消えない。
蒼凪は振り返らなかった。
ただ、歩幅だけが少し遅かった。




