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群青幻想  作者: 滄龍 青司
CantoⅡ
107/129

白鷲の応接

 白い部屋だった。


 壁は漆喰ではなく、磨かれた石で覆われている。石目は薄く灰を含み、よく見なければ継ぎ目も分からない。朝の光が港側の大窓から入り、床の白大理石を横に滑っていた。窓際には細い観葉樹の鉢。葉は濡れたように艶を持ち、鉢の土だけがこの部屋で唯一、柔らかそうな黒をしている。壁には西方航路の海図。机は黒檀で、天板には真鍮の縁取りがある。


 応接用の椅子は白革だった。


 そこだけなら、上等な商会の支部長室に見えた。


 床に血がなければ。


 部屋は港を見下ろす高さにあった。窓の外では、観光客を乗せた小さな馬車が白い道を進み、婚礼船の飾り紐が風に揺れている。港の労働区画は建物の影に隠れ、荷役の怒号も、油の匂いも、魚箱からこぼれる水も、ここまでは届かない。届くのは、磨かれた石の冷たい匂いと、客を迎えるために焚かれた薄い香だけだった。


 その香の下に、血の匂いがある。


 隠されていない。


 白い部屋は汚れを拒んでいるのではなかった。汚れを置く場所まで決めている。床に落ちる血は床へ。客は椅子へ。書類は机へ。部下は命令された高さへ。窓の外のサルマンディアだけが、いつも通り美しく見える。


 若い男が一人、床に頬を押しつけられていた。口の端が切れている。白い床に、唾液と血が混じって薄く伸びていた。もう一人は壁際で膝を抱えている。左手を胸に寄せ、指先を震わせていた。小指の爪が割れ、爪の下から赤が滲んでいる。


 血は多くない。


 だが、この部屋では少しの赤で十分だった。白が赤を拾い、光が赤を薄く延ばし、見る者に逃げ場を与えない。床を拭けば消える量だった。だからこそ、拭かれていないことに意味があった。


「拭くな」


 ルッカ・ヴァレンティは言った。


 声は低い。怒鳴ってはいない。むしろ、客に食後酒の種類を尋ねる時と同じ温度だった。


 白いリネンの上着。薄灰のシャツ。潮真珠のカフス。黒く撫でつけた髪。白革の手袋。靴だけが黒い。白い服と白い部屋の中で、その靴だけが地面に沈むように見えた。


 大柄だった。


 ただ背が高いのではない。肩と首と前腕に、若い頃に港の荷を担いだ者の厚みが残っている。だが、その厚みは服の下に収められていた。腕を振り上げる必要はない。大声を出す必要もない。どの重さをどこへ置けば相手が崩れるか、身体が知っている男の静けさだった。


 白い手袋は綺麗だった。


 握手のための手袋にも見える。客の前で書類を扱うためのものにも見える。けれど、血の近くにあっても外さないその白は、汚れを拒む白ではなかった。汚れに触る資格があると示す白だった。


 ルッカは床に伏せた若衆の前に立っていた。


 黒い靴先のすぐ横に、血が一滴落ちている。靴は汚れていない。踏む位置を選んでいるのだ。何度も。自然に。踵の角度ひとつで、床の男の呼吸が浅くなる。


「お許しください、カポ」


 床の男が言った。


 言葉の途中で唇が震え、血が床に落ちた。赤い点はすぐに丸みを失い、石の目に沿って薄く広がる。


「許しは後だ」


 ルッカは葉巻を指の間で転がした。火はついていない。切り口だけが整っている。葉の巻きは固く、爪で軽く弾けば乾いた音がしそうだった。


「先に報告だ」


「は、はい。報告、報告します」


「最初から」


 若衆は喉を鳴らした。


「夜間搬入で、火薬筒の一つが、湿気を含んでいて」


 ルッカの靴が動いた。


 床に伏せた男の右手を、黒い靴底が静かに押さえた。踏みつけるというより、置いた。だが置かれた重さは逃げられない場所を知っていた。


「あ、ああっ」


「湿気を含んでいて」


 ルッカは繰り返した。


「それは火薬筒の報告か。お前の報告か」


「俺の、報告です、カポ」


「違う」


 靴底に体重が乗った。


 骨が鳴る音は大きくなかった。だが、部屋の白さの中では妙にはっきり聞こえた。窓の外の車輪の音よりも、遠くの水鳥よりも近かった。


「ぐっ、ああ、カポ、カポ、どうか」


「どうか、ではない。違うと言った」


 ルッカは屈んだ。白い手袋の指が、床に伏せた男の髪を掴む。乱暴に引き上げるのではない。顔を少しだけ横へ向けさせる。血で濡れた口元が見える角度まで。


「火薬筒は湿気を含んでいた。では、お前は何をした」


「……報告を」


「したのか」


 若衆は目を見開いた。


 壁際の男が息を呑む。


 床に伏せた男の喉が、逃げ場を探すように上下した。乾いた唇の端から、薄い血がまた滲む。


「しようと」


 ルッカは手を離した。


 若衆の顔が床へ戻る。頬骨が石に当たって、鈍い音がした。


「それは報告ではない」


「すみません、カポ。すみません。俺たちは、ただ、痕を」


「隠そうとした」


 ルッカの声は変わらない。


「はい」


「誰の許可で」


「……ありません」


「誰の判断で」


「俺の、判断です」


「違う」


 ルッカは今度は壁際の男へ向いた。


 壁際の若衆は身体を硬くした。白いベストの胸元に、細かい火薬の焦げが散っている。袖口は破れ、肘から下に血が伝っていた。血は布に吸われ、赤ではなく濃い錆色になっている。


「お前は見ていた」


「は、はい」


「止めたか」


「止め、られませんでした」


「なぜ」


「あいつが、すぐに片づければ問題ないと」


 ルッカの目が少しだけ細くなった。


 部屋の空気が冷える。香の甘さが薄くなり、石の匂いだけが残った。


「問題を、片づける」


 若衆は自分の失言を悟った。口を開いたが、声は出ない。


 ルッカは一歩で距離を詰めた。


 白い手袋が若衆の顎を掴む。次の瞬間、壁に後頭部が打ちつけられた。壁の白に、薄い赤が擦れる。若衆の膝が崩れかける。だがルッカは顎を離さない。


「問題は片づけるものではない」


「っ、カポ」


「報告するものだ」


「はい、カポ」


「報告した後に、誰が片づける」


「カポが」


「違う」


 ルッカは若衆の腹を膝で打った。


 空気が潰れた。若衆の身体が折れ、口から息が漏れる。胃の奥から上がった音が、白い壁にぶつかって落ちた。


「が、はっ」


「手順だ」


 ルッカは顎を離す。


 若衆は床に落ちた。膝と手をつく。その手の下に血が広がる。指が震え、白い床に細い赤の線が引かれた。


「火薬を誤った。報告を遅らせた。痕を隠そうとした。三つある」


 ルッカは葉巻を机の縁に置いた。


「事故はどこにある」


 床の男が泣きそうな顔で言った。


「ありません」


「聞こえない」


「事故は、ありません、カポ」


 壁際の男も続けた。


「手順を飛ばしました、カポ」


「次」


「火薬を見誤りました」


「次」


「報告を遅らせました」


「次」


 二人とも止まった。


 ルッカは二人を見下ろした。


 その目は、熱を持たない。怒りがないのではない。怒りが、声や眉に出る前に形を変えている。刑。手順。位置。誰をどこに置くか。


「汚したものを、報告の前に隠そうとした」


「はい」


「はい、カポ」


「覚えろ」


 ルッカは床の男の手から靴をどけた。


 男は右手を抱え込んだ。泣き声を噛み殺す。指は折れていない。少なくとも、まだ使える程度には残されている。残されていること自体が、慈悲ではなく計算に見えた。


「痛いか」


「……痛いです、カポ」


「なら覚える。痛みは帳簿より忘れにくい」


 扉が叩かれた。


 音は軽い。二度。白い部屋の外から、別の手順が差し込まれる。


 ルッカは振り返らなかった。


「入れ」


 扉が静かに開く。


 入ってきた男は若かった。二十二、三ほど。細身で、白に近い薄灰のベストを着ている。黒髪が少し癖を持って額へ落ち、灰緑の目が室内を一度だけ走った。


 ニコロ・フェレッティは、血を踏まなかった。


 見て避けたというより、最初からそこに足を置かない癖が身体に入っている。床の赤。壁の擦れ。倒れた若衆の息。ルッカの手袋。葉巻。すべてを一瞬で見て、入口の横で止まった。


 視線が床の男の右手へ落ちる。


 ほんの一瞬だった。


 すぐに戻る。


「カポ」


「終わっていない」


「承知しています」


 ニコロは背筋を伸ばした。腕を後ろに組む。細い身体に、白い服がまだ少し馴染んでいない。けれど立ち位置だけは正確だった。扉と室内の境。外から来るものを止め、内にあるものを外へ漏らさない位置。


「来客です」


「追い返せ」


 ルッカは即答した。


「約束もなしに手順を踏まない客をもてなす義理はない」


「評議会の紙をお持ちです」


 ルッカの視線が、そこで初めてニコロへ向いた。


「名は」


「蒼凪。塔の賢者と」


 床の若衆の呼吸が乱れた。


 ニコロは続ける。


「それと、本家相談役トマソ・カリアーリの名を」


 部屋の中で、遠くの港の音だけが残った。


 荷車の車輪。水鳥の声。観光客の笑い声。白い部屋の外では、港がいつも通りに動いている。誰かが婚礼船の飾り紐を直し、誰かが潮真珠の箱を運び、誰かが白い建物を眺めている。


 ルッカは机の上の葉巻を取った。


 火はつけない。


 切り口を見た。葉の巻き、湿り、端の揃い。そういうものを確かめるように数秒を使い、それから息を吐いた。


「通せ」


 ニコロは一礼した。


「床の者は」


「動くな」


 ルッカは若衆へ目を向けずに言った。


「お前たちの報告は終わっていない」


 床の男が、折れた声で答える。


「はい、カポ」


「客には、汚した床も見せておけ」


──────────────────────────────


 一階の受付は、観光港の商会らしい顔をしていた。


 真鍮の柵。磨かれた床。西方航路から届いた香辛料の小瓶。婚礼船用の白布見本。潮真珠を納める小箱。受付係の笑顔はよく訓練されていて、評議会の紙を見た時も、蒼凪の名を聞いた時も、崩れなかった。


 だが、本家相談役の名が出ると、笑顔の奥で目だけが一度止まった。


 それだけだった。


 係は余計なことを尋ねず、奥へ人を走らせた。蒼凪とヒュウマは白い階段の下で待つ。階段は三階までまっすぐ伸びている。途中の踊り場には、シローネ商会が寄進した港湾補修の記念板が掲げられていた。表の功績。表の金。表の名。


 ヒュウマはその板を見た。


 潮に削られた岸壁を直すには金がいる。船を安全に泊めるにも、人を雇うにも、灯台の油を買うにも金がいる。誰かが払う。払った者は、名を残す。港は綺麗な祈りだけでは回らない。


 それを知っているから、余計に腹の底が重かった。


 善意だけでは港は支えられない。だが、金を出した者が港の形まで決め始めた時、それは支えなのか、囲い込みなのか。ヒュウマには、まだ言葉にできなかった。


 受付の奥からは紙をめくる音がしていた。表では香辛料の甘い匂いがする。白布の見本はきちんと畳まれ、潮真珠の小箱は見栄えよく斜めに置かれている。どれも客に触れられる高さにあり、どれも値段を言われる前から価値を持っていた。


 やがてニコロが階段の上に現れた。


 細い白の服に、黒い髪が落ちている。彼は二人を見下ろさず、階段を半分だけ降りて礼をした。案内役としては丁寧だった。だが、視線は蒼凪の手元の紙、ヒュウマの背の潮鎚、階段の幅、窓の位置を順に拾っていた。


「こちらへ」


 それだけを言って、ニコロは背を向けた。


 足音が軽い。


 白い階段に、ほとんど響かない。古い水路の石段を知っている者の歩き方だった。ヒュウマはその背中を見ながら、さっきの廃船置き場の男たちを思い出した。落ちた者。拾われた者。今、目の前を歩く若い男も、どちらなのか分からなかった。


 三階の廊下は静かだった。


 壁に掛けられた海図の額縁が、窓からの光を細く返している。廊下の白さは受付よりも乾いていた。客に見せる白ではあるが、客が長く留まる場所の白ではない。掃除の行き届いた匂いの奥に、かすかな煙草葉の香りがあった。


 扉の前で、ニコロは一度止まる。中へ声をかける前に、ほんのわずかだけ息を測った。中の呼吸を待っている。許可を待っている。扉の向こうで何が起きているかを、知っている立ち方だった。


 扉が開く。


 蒼凪が部屋に入った時、最初に見たのは白だった。


 次に血だった。


 白い壁。白い床。白い椅子。白い手袋。床に落ちた赤。壁に擦れた赤。窓から射す朝の光の中で、血は乾き始めている。匂いは薄い。だが、葉巻の葉と石鹸と港の湿気の奥に、鉄の匂いが残っていた。


 ヒュウマは半歩だけ前へ出かけた。


 すぐ止まる。


 床の若衆二人を見る。胸は上下している。意識もある。右手を抱えた男の指は震えているが、壊されきってはいない。壁際の男は腹を押さえ、歯を食いしばっていた。


 命を奪うためではない。


 そう判断してから、ヒュウマは蒼凪の後ろへ戻った。


 戻っただけで、警戒を解いたわけではない。


 入口の横にはニコロが立っている。腕を後ろに組み、扉を背負うように。若い。だが、目は落ち着いている。落ち着いているというより、逃げ道を全部数えてから立っている目だった。


 黒い髪が、白い服の襟にかかっていた。


 その白が、どこか借り物に見えた。


「シローネ商会サルマンディア支部、カポ」


 ルッカは立ったまま名乗った。


「ルッカ・ヴァレンティ。港の表と裏を預かっております」


「蒼凪だ」


 蒼凪も名乗る。


 声に驚きはない。床の血を見ても、眉をひそめない。ただ、見る。血の位置。若衆の手。ルッカの靴。ニコロの立ち位置。応接用の椅子。机の上の火のついていない葉巻。


「塔の賢者の肩書きはある。今は評議会の照会で来た」


「賢者殿が島にいらしていることは、こちらでも承知しておりました」


 ルッカは微笑んだ。


 上等な商人の笑みだった。口角だけではない。目元も、声も、相手を迎える形を知っている。


「薔薇の屋敷の客人。評議会棟への出入り。サルマンディアは小さな島です」


「見晴らしがいいな」


「ええ。白い場所ほど、影はよく見える」


 蒼凪は応じなかった。


 ルッカはそこで、少しだけ視線を落とす。蒼凪の手元。革袋。評議会の紙。封蝋。紙の重み。それから、言葉の奥にあるもう一つの名。


「トマソ・カリアーリ殿の名まで添えて来られるとは思いませんでしたが」


「必要なら通じる名だと聞いている」


「通じます」


 ルッカは頷く。


「その名で来た客を、立たせたままにはできない」


 床の若衆の一人が、息を呑んだ。


 ルッカは白い応接椅子を手で示す。


「お掛けください、蒼凪殿。あなたには席がある」


 蒼凪は席を見た。


 それから床を見た。


「床の者は?」


「まだ報告の途中です」


「そうか」


 蒼凪は座った。


 白革の椅子は柔らかかった。


 柔らかさは、かえって場違いだった。背を預ければ身体が沈む。客の緊張を解くための椅子だ。商談を長く続けるための椅子だ。けれど、そのすぐ前の床には、報告を終えていない若衆がいる。椅子の柔らかさと床の硬さが、同じ部屋の中でルッカの法になっていた。


 蒼凪は深く腰掛けなかった。


 逃げるためではない。緊張しているためでもない。相手の用意した柔らかさに、自分の重心を預けすぎないためだった。


 ヒュウマは座らない。蒼凪の左後ろに立つ。潮鎚は背にある。手は柄に触れていない。触れていないことが、かえって警戒の形になっていた。


 ニコロは入口に立ったまま動かない。


 部屋の中に、席のある者と、席のない者が分かれた。床の上で、若衆の呼吸だけがその境目を乱している。


 ルッカは机の前へ戻った。


「お茶を」


「不要だ」


 蒼凪が言った。


「長くするつもりはない」


「短い話ほど、値が高いこともある」


 ルッカは椅子に座らない。


「どうぞ」


 蒼凪は評議会の紙を取り出した。


 封蝋はまだ割れていない。紙は厚く、机に置けばそれだけで音がしそうだった。蒼凪は机には置かず、手に持ったまま用件を出した。


「評議会の照会で来た。旧水路南門周辺の臨時搬入記録を確認したい」


 ルッカは紙を見ない。


「旧水路」


「閉鎖倉庫裏、廃船置き場、禁漁区外縁。記録上は別件だが、潮と現場では近い」


「潮を見る方がいる」


 ルッカの視線がヒュウマへ動いた。


「若い当代殿」


 ヒュウマは小さく会釈した。


「ヒュウマです」


「承知しています」


 ルッカは笑った。


「潮鎚を背負って支部の正面へ来る方が、そう何人もいるとは思えません」


 ヒュウマは黙った。


 蒼凪が続ける。


「現場で貴商会の名が出た。だから、表から聞く」


「表から」


 ルッカはその言葉を気に入ったように繰り返した。


「それはありがたい。裏口は狭い。賢者殿には不向きです」


「狭い場所は嫌いではない」


「では、汚れる場所がお嫌いで?」


「必要なら入る」


 蒼凪は言った。


「だが、先に表へ来る。順番の話だ」


 ルッカの口元に、薄い笑みが戻った。


「順番を重んじる客は好きです」


 床の若衆がわずかに肩を震わせた。


 蒼凪はその震えを見た。ルッカも見ている。見たうえで、何も言わない。


「旧水路と呼ぶか、古い排水導線と呼ぶかで、話は変わります」


 ルッカは言った。


「港は古い。閉じた道を、完全に忘れるほど若くはない。表の台帳から消えた道でも、潮は覚えている。荷役も、老人も、古い倉庫も」


「商会も」


「もちろん」


 ルッカは否定しなかった。


「知らないふりをするには、サルマンディアは古すぎる」


「では、知っている」


「知っている道はあります」


「使っている道は」


「お答えする帳簿が違います」


 蒼凪は目を細めた。


 ルッカはそこで、机の上の葉巻へ手を伸ばしかけた。


 まだ火はつけない。


「評議会の紙で見られる帳簿と、商会の帳簿は別です。客人に出す茶と、倉庫番に渡す鍵が違うように」


「茶は断った」


「鍵を求めている」


「まだ鍵とは言っていない」


「では、何をお求めで」


 蒼凪は、床の血を一度だけ見た。


 若衆の右手は震え続けている。痛みで。恐怖で。あるいは、自分がまだ席を得ていないことを身体が理解しているせいで。


「貴商会の商売のすべてに興味があるわけではない」


 ルッカの指が止まった。


「表の商売にも」


「必要なら見る」


「裏の商売にも」


「必要なら見る」


「では、何に興味がおありで?」


「何を動かしたか」


 ルッカは黙った。


 蒼凪は続ける。


「ただの密輸なら、私がここまで来る必要はない。評議会に返せば済む」


「ただの密輸」


 ルッカはゆっくりと笑った。


「賢者殿は言葉が高いところから落ちてくる」


「高くはない」


「では、冷たい」


「それは認める」


 蒼凪の返答に、ニコロの目がわずかに動いた。


 ルッカは今度こそ葉巻を取った。


 銀の小さな火器を開く。火花が一瞬だけ白い部屋を照らした。葉巻の先に赤が灯る。ゆっくりと吸い、煙を口の中で転がし、細く吐く。


 灰色の筋が白い部屋へほどけた。


 客を迎える商人の顔から、港の裏を束ねる男の顔へ、ほんの少しだけ角度が変わる。白い手袋の指先に、煙草葉の焦げた匂いが移る。


「……なるほど。評議会の照会は、そこまで降りてくる」


「評議会ではない」


「では、賢者殿が」


「私がだ」


 煙がルッカの横顔を薄く隠した。


「何を疑っている」


「疑いというほど固まっていない」


「では」


「記録の古さと、現場の新しさが噛み合いすぎている」


 蒼凪は言った。


「古い非常時札に似た白木片。今の台帳から消えた水路。閉鎖倉庫。廃船置き場。火薬筒。潮の向きに合わない搬入記録。現場だけでは足りない。古い記録だけでも足りない」


 ルッカは葉巻を持つ手を止めた。


「貴商会は、現場と記録の両方に手が届く」


「褒め言葉として受け取りましょう」


「褒めてはいない」


「では、値踏みだ」


「そうだな」


 ルッカは少し笑った。


 今度の笑みは、商人のものではない。


「帳簿に残せない荷はあります」


 床の若衆二人が動かない。


 ニコロも動かない。


 ただ、部屋の空気だけが一段深くなった。葉巻の煙が窓の光にかかり、白い壁に薄い影をつくる。


「そのすべてが、悪い荷とは限らない。税が重すぎる薬。表に出すと値が崩れる宝石。婚礼前に届いてはいけない贈り物。評議員の息子が買った安い香油。港には、日の当たる場所へ出す前に、日陰で形を整えたほうがよいものがある」


「知っている」


「でしょうね」


 ルッカは煙を吐いた。


「あなたは、裏稼業を裁きに来た顔ではない」


「裁くなら紙を増やす」


「増やしていない」


「今はな」


 ルッカの目が、そこで初めて冷たく愉快そうになった。


「いい返事だ」


「帳簿に残せない荷の中に、帳簿に残してはならないものが混じっていないか」


 蒼凪は言った。


「私が見たいのはそこだ」


 ルッカは答えなかった。


 葉巻の先だけが赤くなり、すぐ暗くなる。


「それは、評議会の紙で聞くことではない」


「だから私が聞いている」


「本家相談役の名で?」


「必要なら」


「薔薇の魔女の客として?」


「それも必要なら」


「塔の賢者として?」


「それも、必要なら」


「では、蒼凪殿としては」


 蒼凪は少しだけ黙った。


 ヒュウマはその沈黙を聞いた。


 床の血よりも、葉巻の煙よりも、その沈黙のほうが危ういと感じた。蒼凪が言葉を選ぶ時、部屋の温度は変わらない。ただ、周囲のものが急に距離を持つ。


「確認している」


 蒼凪は言った。


「ただの裏稼業なら、それでいい」


 ルッカは笑わなかった。


「それでいい」


「少なくとも、私の用件ではない」


「その言い方は、裏の商人には嫌われます」


「だろうな」


「だが、嫌いではない」


 ルッカは葉巻を灰皿へ置いた。


「賢者殿。あなたの沈黙には値がつく。問題は、俺がそれを買えるかどうかです」


 一人称が変わった。


 ヒュウマの目が細くなる。


 蒼凪は表情を変えない。


「売りに来たわけではない」


「でしょうね」


 ルッカは椅子へ深く座った。


 ようやく座った。


 それだけで、部屋の形が変わる。立っていた男が座ったのではない。部屋の中心が、床から椅子へ移った。白革がわずかに沈み、黒い靴が床の赤から少し離れる。


 窓の外では港が光っている。


 中では血が乾いている。


 その二つを同じ高さで眺められる席に、ルッカはいた。港の名士として、裏物流のカポとして、部下を床に置き、客を椅子に置き、帳簿に載らない荷を別の帳簿へ置く男。蒼凪はその配置を見た。善悪より先に、配置の美しさがある。だからこそ危険だった。


「なら、今日は買えない」


「答えない、ということか」


「答えられる席がまだない」


「作ればいい」


「作るには、材料が足りない」


 蒼凪は紙をしまった。


「では次は、材料を持ってくる」


「荷の名で?」


「荷の名で聞く」


 ルッカは頷いた。


「では、その時は客の名で席を用意しましょう」


 彼はそこで床の若衆へ視線を落とした。


「床ではなく」


 床の男が震えた。


 ヒュウマはその震えを見た。


 見てしまった。


 だから、言葉が出た。


「拾うことと、鎖をつけることは同じですか」


 部屋が止まった。


 ニコロの指が、後ろで組んだ手の袖を押した。ほんの少しだけ。白い布に皺が寄り、すぐ消える。


 ルッカはヒュウマを見た。


「若い当代殿」


「はい」


「それは、この床の者の話ですか」


 ヒュウマは答えなかった。


 答えなくても、伝わっていた。


 ルッカは葉巻を取らない。灰皿に置いたまま、火の赤がゆっくり短くなっていく。煙は細くなり、部屋の上へ逃げていく。


「同じではない」


 ルッカは言った。


「だが、鎖のない者から順に海へ落ちる」


 ヒュウマの手が、わずかに握られた。


「海へ落ちた人を、鎖で引き上げるんですか」


「引き上げられるなら」


「その後は」


「働かせる」


 ルッカは即答した。


「飯を食わせる。名を呼ぶ。寝床を与える。手順を叩き込む。二度と同じ落ち方をしないように、足首へ重さを覚えさせる」


 床の若衆が、顔を上げかけた。


 ルッカの視線が落ちる。


 黒い靴が、若衆の肩甲骨の間を押さえた。


 踏み潰すほどではない。だが、顔を上げる自由だけを正確に奪う重さだった。若衆の喉から短い声が漏れ、額が白い床へ戻る。


「顔を上げるな。報告が終わるまで、お前にはまだ席がない」


 ヒュウマは黙った。


 怒りはある。あるのに、置き場がない。潮鎚に手を伸ばす怒りではない。叫べば済む怒りでもない。床にいる男をここから引き剥がしたところで、その先に寝床も飯も名も用意できないことを、身体のどこかが知ってしまっている。


 ルッカはその怒りを見ている。


「鎖と呼ぶか、命綱と呼ぶかは、落ちた者に聞くべきです」


 ルッカは言った。


「海守り殿」


 ヒュウマは息を吸った。


 潮の匂いはしない。


 この部屋には白い石と血と葉巻しかない。


 蒼凪が立った。


「今日はここまでだ」


「ええ」


 ルッカも立つ。


「次も正面からどうぞ。席は用意します」


「転ぶ前提で歩く趣味はない」


「裏道で転ぶ者は、たいていそう言う」


「なら、表を歩く」


「結構」


 ルッカは白い手袋のまま、軽く礼をした。


「シローネ商会サルマンディア支部は、表から来る客を拒みません」


 ニコロが扉を開けた。


 蒼凪は出口へ向かった。


 ヒュウマも続く。通り過ぎる時、床の若衆の肩が一度だけ震えた。ヒュウマの視線に気づいたのかもしれない。あるいは、ただ痛みが戻っただけかもしれない。


 ニコロの横を通る。


 灰緑の目が、一瞬だけヒュウマを見る。


 その目には敵意がない。


 同情もない。


 ただ、何かを見送る者の目だった。


 扉が閉じる前、ルッカの声が聞こえた。


「続ける」


 若衆の声が、すぐに返った。


「はい、カポ」


──────────────────────────────


 外の光は明るかった。


 白い正面玄関を出ると、港の匂いが戻ってくる。潮。魚。石鹸。焼き菓子。遠くで鳴る荷車の車輪。観光客が笑い、案内人が道を示し、水売りが小さな鈴を鳴らしている。


 それなのに、ヒュウマの鼻にはまだ葉巻と血の匂いが残っていた。


 階段を降りる時、受付係は変わらず笑っていた。


 その笑顔は仕事として正しい。来客を送り出す表情として正しい。何かを見たかと訊かれれば、何も見ていないと答えるだろう。たぶん嘘ではない。あの部屋の中で起きたことは、あの部屋の中に置かれる。受付は受付の席にあり、若衆は床にあり、ルッカは三階にいる。


 シローネ商会は、建物そのものがそういう仕組みだった。


 表に出ると、光が眩しい。


 ヒュウマは一度、目を細めた。白い石段に靴底が触れる。さっきの部屋の床と同じ白なのに、ここには血がない。ないだけで、清潔に見える。そのことが、妙に嫌だった。


 二人は商会の正面から少し離れた。


 白い建物は背後にある。見上げれば、窓は朝日を返している。何もなかったように。誰も床で呻いていなかったように。あの部屋の血も、若衆の声も、白い壁の内側に収められている。


 ヒュウマはそこで、ようやく息を吐いた。


「悪人、なんですよね」


 蒼凪はすぐには答えなかった。


 港沿いの道を、花籠を抱えた女が通り過ぎる。籠の中には白い薔薇と青い小花が混じっていた。婚礼用だろう。花の匂いが一瞬だけ血の記憶を薄め、すぐ潮にほどけた。


「悪人だ」


 蒼凪は言った。


「でも、それだけじゃない」


「それだけで済めば、楽だった」


 ヒュウマは商会の建物を振り返った。


「あの人たちは、助けられてるんですか」


「助けられている者もいる」


「縛られてもいる」


「そうだな」


「どっちですか」


「両方だ」


 ヒュウマは唇を結んだ。


 その答えが嫌だった。


 嫌なのに、さっきの床の若衆を思い出す。カポと呼ぶ声。恐怖。痛み。それでも、あの部屋から追い出されることのほうを、もっと怖がっていたかもしれない顔。


 廃船置き場の男も同じだった。


 飼われたんじゃねえ。


 拾われたんだ。


 違いはある。本人にとっては。


 白い道の端で、荷を積んだ小さな車が軋んだ。車輪の影が石畳の溝を越え、すぐ戻る。港では何かが落ちても、すぐ誰かが拾う。拾われたものがどこへ運ばれるかは、拾った者が決める。


「危ない場所に連れてきた」


 蒼凪が言った。


 ヒュウマは振り向く。


「俺は護衛です」


「護衛だからといって、何も感じなくていいわけではない」


「それは、蒼凪さんもです」


 蒼凪の歩みが、ほんの少しだけ遅れた。


 ヒュウマは続ける。


「俺だけ連れてきたんじゃないです。蒼凪さんも来ています」


「俺は必要があった」


「俺もです」


 蒼凪は港を見た。


 海面が白く光っている。水上劇場のある方角は、今は静かだった。昨夜の歌も喝采も遠い。今ここにあるのは、白い商会と、古い水路と、帳簿に残らない荷の気配だった。


「ああ」


 蒼凪は短く言った。


「そうだな」


 ヒュウマはそれ以上言わなかった。


 言えば、別の話になる。


 蒼凪も何も言わない。


 二人は歩き出した。


 背後で、シローネ商会の白い玄関が遠ざかっていく。港の光は明るい。人の声も多い。けれどヒュウマの耳には、まだ部屋の中の声が残っていた。


 潮の音が、それを少しずつ押し流していく。


 完全には消えない。


 蒼凪は振り返らなかった。


 ただ、歩幅だけが少し遅かった。

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