港裏の犬
水上劇場の夜は、朝になっても観光客の声から完全には抜けていなかった。
白い坂の途中で、夜明け前に劇場から戻ったらしい客が、昨日の歌の一節を小さく口ずさんでいた。音程は少し外れている。花売りの娘はそれを聞いて笑ったが、続きを重ねはしなかった。歌劇は彼女の昨夜ではない。ただ、濡れた卓の端には宣伝用の小さな刷り物が貼りつき、エリザとアルヴィオの名だけが朝日に薄く光っていた。
港へ下る道にも、余韻は客の口を借りて少しだけ残っていた。
宿の前では、外套を羽織った男が昨晩の幕切れを大げさに語っている。相手をしている土産物屋の女は、貝殻細工を並べながら相槌だけを打っていた。船具屋の前では、客から聞きかじった子供が手袋を投げる真似をして、もう一人の子供が胸を押さえて倒れた。大人たちは怒らなかった。倒れた子供が片目を開けて笑うと、朝市の声が少しだけ明るくなった。
ヒュウマはその横を、蒼凪と並んで歩いていた。
蒼凪の手には、革紐で留めた薄い紙束がある。昨夜の余韻とは似合わない、乾いた紙だった。港湾台帳の写し、古地図の転写、評議会の閲覧札。紙束は見た目より薄い。けれど、中に挟まっている線の数は多い。閉じた水路、名前の変わった倉庫、封鎖区画、古い岸。
紙の端はきっちり揃っている。蒼凪が歩くたび、革紐の結び目だけが小さく揺れた。朝の光は白い壁に跳ね返り、紙束の角を乾いた魚の鱗みたいに光らせる。昨夜の劇場で見た水面の光とは違った。こちらは人が書き、人が閉じ、人が隠したものの光だった。
「昨日あれだけのものを見た翌日に、ここですか」
ヒュウマが言った。
軽く言ったつもりだった。けれど、声の底には少しだけ本音が混じった。まだ耳の奥に、エリザの歌が残っている。夜の水面と遠い歌声と、幕切れの静けさ。あれほど綺麗なものを見たあとに、蒼凪は当たり前の顔で港湾台帳の線へ戻っている。
蒼凪は歩幅を変えなかった。
「昨日の舞台も港の顔だ」
目は前を見ている。
「今日見るのも、同じ港だ」
ヒュウマは返す言葉を探し、結局、小さく息を吐いた。
坂の下で、朝市の匂いが濃くなる。焼いた貝、古い油、洗われた魚箱、濡れた縄。表の港の匂いだった。人の声が高く、商いの手つきは速い。白い壁は塗り直され、店の天幕は赤や青で、観光客の目に入りやすい角度で張られている。
魚籠の水が石畳へ流れ、朝日の中で細く光った。売り子の腕はよく日に焼けている。秤皿が鳴り、銅貨が木箱へ落ち、誰かが劇場の席代の高さを笑いながら愚痴った。港はもう働いていた。昨日の歌も、刷り物も、舞台の真似も、その働く音の上に薄く浮かんでいるだけだった。
蒼凪はその表通りから、横の細い道へ入った。
一歩入るだけで、音が変わった。
朝市の声は背後で布をかぶせられたように鈍くなる。石畳の白さは失われ、壁は塩と煤で灰色になった。通りの幅は荷車一台分しかなく、上に張られたロープから、乾ききらない帆布が垂れている。帆布の端から落ちた水が、石に黒い点を作っていた。
ヒュウマは無意識に足の置き方を変えた。
濡れている場所を避けるのではない。濡れ方を見て踏む。ここは朝に洗われた水ではない。溝から戻った水だった。潮が細く混じっている。海に近い港なら珍しいことではない。だが、ここは台帳では水が通らない区画になっている。
濡れた石に靴底が触れると、わずかに粘った。表の港の水は魚の血と氷の匂いを持つ。ここは違う。長く閉じ込められた木、錆びた金具、藻の腐りかけた甘さが混じっている。水は少ない。少ないのに、路地の奥の空気を全部濡らしていた。
「ここ、潮が新しいです」
蒼凪が紙束から一枚を抜いた。
「旧水路南門の外側だ」
「閉じたんですよね」
「台帳では」
それだけだった。
言葉は短い。だがヒュウマには十分だった。台帳では閉じている。現場では潮が新しい。二つの間に、誰かがいる。
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旧水路南門は、門というより、壁の中に埋められた古い口だった。
サルマンディアの港は何度も改修されている。新しい岸壁が古い岸を呑み、倉庫の名前が変わり、海面へ出ていた排水路が石の下へ押し込まれた。旧水路南門も、その押し込まれたものの一つだった。今は白く塗られた倉庫壁の裏にあり、錆びた格子と、立入禁止の小さな札だけが残っている。
札は新しかった。
格子は古い。
その差が、まず嫌だった。
札は雨にも潮にもまだ負けていない。文字の黒は濃く、角も欠けていなかった。だが、その下の格子は別の時間を生きていた。鉄は赤黒く膨れ、ところどころ薄く剥がれた錆が石畳へ落ちている。格子の奥は暗く、昼の光が入るのを嫌がっているように見えた。
ヒュウマは格子の前で膝を折った。潮鎚は背にある。右手は石畳へ触れず、ぎりぎりの高さで止まる。濡れた線が、格子の下から横へ伸びていた。朝の水ではない。日が差しているのに、乾く速度が遅い。塩分がある。
格子の下端には、乾いた白い粒がこびりついていた。波が直接届く高さではない。水が押し上がり、引いたあとで塩だけが残った形だった。石畳の目地には黒い砂が詰まり、ところどころ細く削れている。誰かが棒か鉤で底を探った跡にも見えた。
奥で水が一度だけ鳴った。
大きな音ではない。石の喉の奥で泡が潰れるような音だった。ヒュウマは息を止めた。格子の隙間から入る風が冷たい。春の朝の冷たさではなく、日を知らない場所から漏れる冷えだった。
「中から出ています」
「外から入った線は」
「薄いです。こっちは、出た方です」
蒼凪は古地図を広げた。風が狭い路地を抜け、紙の端を持ち上げる。ヒュウマは手を出しかけ、すぐ止めた。資料に触れない癖が、ルーチェ博物館からまだ残っている。蒼凪は片手で、紙押さえのように小さな鉛の板を置いた。
古地図には、今の倉庫壁の下を細い水路が走っていた。
蒼凪の指が、その線を追う。白い指ではない。戦闘で鍛えられた手だ。紙の上では静かだが、その指が示す線は、石の下でまだ息をしている。
「ここで塞いだことになっている」
「なっている」
ヒュウマは格子の奥を見た。暗い。だが完全な闇ではない。奥の石に、細く光る水がある。光は外から差しているのではなく、水面だけが拾っているように見えた。
奥から来る匂いは、古い水の重さだけではなかった。新しい潮と、濡れた木箱の匂いが混じっている。長く閉じた場所なら、もっと息が詰まる。ここにはかすかな流れがある。見えないところで水が動き、石の内側を洗っていた。
「閉じた水路の匂いじゃありません」
「使っている」
「最近ですね」
「昨日か、一昨日」
蒼凪はそう言い、紙を畳んだ。
その時、左手の倉庫扉が風もないのに小さく鳴った。白く塗られた木扉。表側から見れば綺麗な倉庫だろう。だが裏側の塗りは薄く、潮で膨れた部分から古い木目が浮いていた。扉の下には、最近ついた擦り傷がある。大きな荷を通した傷ではない。幅の狭いものを何度も擦った跡だった。
倉庫の裏壁は、正面の白さを途中で捨てていた。上の方だけが新しく塗られ、足元には古い漆喰が露出している。雨だれの跡は灰色に固まり、釘の頭は赤く膨れていた。蝶番には油が差されている。使っていない扉の錆び方ではない。
戸口の下には、干からびた海藻が一筋だけ挟まっていた。誰かが扉を開けた時に押し込まれ、そのまま乾いたものだ。ヒュウマはそれを見てから、足元の傷へ視線を戻した。海藻はここへ自分で来ない。水も、木片も、傷も、自分でここへ並ばない。
ヒュウマはその傷の横にある白い屑を見つけた。
木片だ。
爪ほどの大きさで、白く削られている。拾い上げる前に、蒼凪が布を出した。ヒュウマは布越しにそれを取る。軽い。安い木ではない。水を吸いにくく、削り目が細かい。港湾札に使う木に似ている。
「小札の材ですか」
「似ている」
「正規のものでは」
「ない」
蒼凪は木片を小袋へ入れた。手つきに急ぎはない。
その落ち着きが、路地の静けさを少し深くした。
表通りではまだ観光客が歌劇の話をしているはずだった。遠い歌、濡れた刷り物、幕が下りたあとの拍手。こちらには、濡れた格子と、白い屑と、閉じたはずの水がある。同じ港だった。蒼凪が言った通り、どちらも同じ港の顔だった。
ヒュウマは立ち上がった。
「次は」
「北側の廃船置き場」
蒼凪は古地図をしまう。
「水はそちらへ抜ける」
「水だけですか」
「それを見に行く」
二人は旧水路南門を離れた。
廃船置き場へ向かう道は、港の裏側のさらに裏へ沈んでいくようだった。白い壁はなくなり、木杭と石と錆びた鉄が増えた。倉庫の庇は低く、乾いた魚網が束になって吊るされている。踏むたびに、石畳の下で空洞が鳴る場所があった。
ヒュウマはその音を数えた。
三つ目で、蒼凪が足を止めた。
「今の」
「下に空きがあります」
「水路か」
「たぶん。幅は狭いです」
蒼凪は頷き、壁に目を向けた。壁の下に、古い排水口がある。鉄格子は錆び、目は半分ほど塞がっている。だが、格子の一本だけ錆が新しく削れていた。人が通る幅ではない。だが、物なら通る。紐をつけた筒、小さな荷、札。
近くの荷運びの男が、二人を見てすぐ目を逸らした。
ヒュウマはその目線を追わなかった。
追えば、相手はもっと固くなる。港の人間が目を逸らす時、そこには知らないふりで守っているものがある。自分の身か、家族の飯か、仕事の口か。海守りとしてなら声をかけたかもしれない。だが今日は違う。蒼凪の隣で調査をしている。
その違いが、少しだけ胸に残った。
廃船置き場は、潮の匂いより先に古い木の腐る匂いがした。
積まれた小舟は、船というより骨だった。外板の剥がれたもの、船底を上に向けたもの、舳先だけ残ったもの。錨綱は切られ、帆柱は抜かれ、使える金具だけが外されている。日が当たる場所には白い塩が吹き、影になる場所には黒い水が溜まっていた。
水たまりの表面には、薄い油が浮いていた。青く光るほどではない。ただ、風が触れるたびに膜が裂け、また繋がる。板の隙間には小さな貝殻が詰まり、縄の切れ端が泥に半分沈んでいた。ここに置かれた船は、海へ戻るためではなく忘れられるために積まれている。
置き場の隅には、鍋を火にかけた跡があった。石を三つ寄せただけの小さな炉だ。灰は湿り、焦げた魚の皮が一枚、石の裏へ張りついている。仕事場と寝床の境目が近い場所だった。昼に船を解体し、夕方にそこで飯を食い、雨が降れば廃船の腹の下へ潜る。誰かの生活が、腐った木と油膜の間に薄く残っていた。
その中に、一艘だけ新しい傷を持つ小舟があった。
古い船だ。だが船底の擦れだけが新しい。浅い。港の表の桟橋ではつかない傷だった。底の浅い小舟で、石の上を引いた跡。潮が浅い時に、細い水路を押して通したような傷。
ヒュウマは船底に触れた。
木は乾いている。だが、傷の奥だけがまだ少し湿っていた。
「ここまで来ています」
蒼凪は答えず、周囲を見た。
廃船の影に、焦げ跡がある。丸い。火薬筒を置いた跡に似ている。燃え広がったものではなく、短く強い火が一点だけ石を舐めた跡だった。ヒュウマは近づき、匂いを確かめる。煤の匂いは薄い。代わりに、湿った紙と油の匂いが残っている。
焦げ跡の縁には、濡れた灰がこびりついていた。指で触れれば崩れるほど薄い。けれど雨で流れたものではない。誰かが布で拭き、そのあと潮気が戻ったような残り方だった。急いで消し、急いで離れた跡だった。
「火薬ですか」
「筒だな」
蒼凪が言った。
「倉庫脇の報告と同じ」
「別件じゃなかった」
「別件として書かれていた」
ヒュウマは焦げ跡を見たまま、眉を寄せた。
台帳は嘘をつかない。嘘をつくのは、台帳に書かせる人間。
蒼凪が前に言った言葉が、ここで別の重さになった。紙の上の線が、濡れた石と焦げ跡と腐った船底へ降りてきた。記録は乾いていたが、現場は湿っている。湿ったものは匂う。匂うものは隠しにくい。
それでも、誰も見ていない顔をしていた。
廃船置き場の外れで、網を繕う老人がいる。手は動いているが、視線は動かない。若い荷運びが二人、空の木箱を担いで通る。足は速いが、こちらを見ない。水路脇の女が洗い桶を持ち上げたまま、音を立てないように扉を閉める。
港が、息を潜めていた。
息を潜めることに慣れている。誰かが来て、誰かが嗅ぎ回り、誰かが傷ついて、あとで床を洗う。そういう段取りを知っている静けさだった。表の港なら、揉め事にはすぐ声が集まる。ここでは声が先に消える。
「見られていますね」
ヒュウマが言った。
「見ないように、見られている」
蒼凪は短く返した。
その時、廃船の影から、低い声がした。
「地図を畳め」
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三人だった。
一人目は灰色の髪を後ろで束ねた男。年は四十前後。片頬に古い裂傷があり、革鎧の胸に組合章を外した穴が残っている。穴の周囲だけ革の色が違う。長くそこに何かが付いていた証拠だった。
腰には古い剣を吊っている。鞘の口は割れ、何度も麻糸で巻き直されていた。靴は手入れされているが、革が沈んでいる。長く歩いた者の靴だった。片頬の裂傷は白く固まり、笑っていないのに口元を引きつらせて見せた。
二人目は大柄な男だった。肩幅が広い。右腕に巻いた包帯の下で、古い骨折が歪んでいる。左手に短い鉈。鉈は漁具ではない。刃の重さを人へ向けるための形だった。
三人目は若い。ヒュウマより少し上かもしれない。目だけが先に動く。腰の短剣の柄を握っているが、握り方がまだ固い。靴は冒険者のものだった。底の減り方が街歩きではない。
三人の背後には、割れた小舟の腹がある。そこに麻袋が二つ、濡れないよう板の上へ置かれていた。袋の口から乾いたパンの端が見えた。空の酒瓶も一本転がっている。剣と鉈だけでできた場所ではなかった。夜を越した匂い、冷えた飯の匂い、湿った寝具の匂いが、廃船の腐りに混じっていた。
灰髪の男が、もう一度言った。
「地図を畳め。ここは観光の路地じゃねえ」
蒼凪は地図を畳まなかった。
「観光なら、表の劇場へ行く」
声は平らだった。
灰髪の男の目が細くなる。
「なら迷子だ。帰れ」
ヒュウマは一歩だけ前へ出た。
蒼凪の斜め前。廃船と水たまりの間。紙束へ手を伸ばされても間に合う位置。潮鎚の柄はまだ背中にある。右肩で重みだけが少し動いた。
その横顔から、朝市で濡れた刷り物を見ていた柔らかさが消えた。
眉間に力を入れたわけではない。口元を歪めたわけでもない。ただ、茶色の瞳の焦点が浅い場所から深い場所へ沈む。相手の顔ではなく、肩、手首、膝、足裏、呼吸の入り口を見る目だった。助けるために人を見る目が、止めるための目へ切り替わる。
「ここを通るだけです」
「通るなと言ってる」
大柄な男が鉈を少し上げた。
若い男は視線を横へ散らした。逃げ道を見ている。いや、逃げ道ではない。塞ぐ道だ。廃船の山、壊れた桟橋、水たまり、倉庫壁。三人は、素人の脅しではない位置にいる。灰髪が声を出し、大柄が圧をかけ、若いのが横へ回る。
ヒュウマはそれを見た。
港の喧嘩屋ではない。
目つきが、一段冷えた。
怒りではなかった。怯みでもない。波の高さを見る時のような、崩れる前の形を読む目だ。若い男の右足が軽い。大柄な男は肩をかばっている。灰髪の男は声で前へ押すが、踏み込みは半拍遅い。ヒュウマはそれを順番に拾い、顔から余分な表情を落とした。
「前に出ます」
「三人」
「刃物。連携あります」
「右の若いのが裏」
「はい」
灰髪の男が笑った。
「相談は終わったか」
蒼凪の指が、紙束の端を押さえる。
「まだだ」
その返事に、灰髪の男が動いた。
狙いは蒼凪の喉ではない。紙束だった。手を伸ばし、地図を奪う。奪えば相手の用件が分かる。破れば足を止められる。そういう動きだった。荒いが、意味がある。
ヒュウマは踏み出した。
一歩目は静かだった。濡れた石畳に靴底が吸い付く。二歩目で、灰髪の男との距離が消えた。
「下がってください」
誰に向けた声かは、言う必要がなかった。
声は低い。
普段、食卓で皿の位置を直す時の声ではない。怪我人へ水を渡す時の声でもない。港で縄が切れる寸前に、周囲の足を止める声だった。言い方は丁寧なまま、逆らう余地だけが抜け落ちている。
ヒュウマの右手が、灰髪の男の手首を取った。握り潰さない。親指の根と腱の間へ指を入れ、力が抜ける角度へ捻る。男の指が紙束へ届く前に開いた。驚きが顔に出る。その顔が声を出す前に、ヒュウマの左拳が顎を下から押し上げた。
叩き潰す拳ではなかった。
声と足を同時に止める拳だった。
灰髪の男の喉が詰まり、膝が揺れる。ヒュウマは手首を離さず、男の体を横へずらした。倒す場所を選ぶ。廃船の割れた板へ頭をぶつけないよう、肩から壁へ当てる。壁は鈍く鳴り、男の息だけが短く抜けた。
大柄な男が踏み込んだ。
鉈が上がる。
ヒュウマの右手はまだ灰髪を押さえている。左足が半歩入る。背中の潮鎚へ手を伸ばした。留め具が鳴る前に、指が金具を押さえる。潮鎚の柄が抜ける音は、廃船置き場の湿った空気に吸われた。
鉈が振り下ろされる。
潮鎚の柄尻が、大柄な男の手首へ入った。
ヒュウマの目は、刃ではなく握りを見ていた。
刃の軌道を追えば遅れる。握りがほどける場所を見れば、刃は勝手に落ちる。茶色の瞳は一瞬も大柄な男の顔へ上がらない。痛めつける相手ではなく、止めるべき構造として見ている。
骨は砕かない。だが、握る力だけは奪う。鉈が落ち、石畳で一度跳ねた。大柄な男はその音を見る。見た瞬間、肩が空いた。潮鎚の頭がそこへ入る。角度は浅い。けれど重い。
肩から腰まで、一度に折れた。
大柄な男の膝が石に落ちる。息が抜ける音が、太い。ヒュウマは押し込まない。押し込めば骨が割れる。止めるだけで足りる。潮鎚の重みを肩に置いたまま、相手が立てない角度で止めた。
若い男が動いた。
やはり横だった。
廃船の影を使い、低く回る。短剣を抜く手に迷いがある。だが足運びに迷いはない。冒険者が、魔物の背後へ回る時の癖だった。ヒュウマではなく、蒼凪へ向かう。紙束ではない。今度は人だ。
ヒュウマの視界の端で、蒼凪のローブの裾が揺れた。
蒼凪は退いていない。
ただ、足の位置を変えていた。水たまりの縁から、乾いた板の上へ。若い男が踏む先には、濡れた藻が薄く張っている。見えにくい。だが滑る。
若い男の足が、そこへ入った。
体勢が半拍崩れる。
その半拍で、ヒュウマは振り返った。潮鎚を盾のように斜めへ立てる。短剣は柄に当たり、薄く湿った木屑を巻いて横へ滑った。刃が外へ流される。ヒュウマの左手が若い男の手首を取った。
振り返った時の顔には、迷いがなかった。
若い男が怯えていることは見えていた。短剣の握りが固いことも、足運びだけは訓練を覚えていることも見えていた。それでも、ヒュウマの手は鈍らない。哀れむのは後でいい。刃が蒼凪へ届く前に止める。それだけが先にあった。
肘、肩、腰。
順番に崩す。
若い男の体が石畳へ落ちた。頭は打たせない。だが背中が水たまりの縁に当たり、呼吸が止まる。短剣が手から離れ、船底の下へ滑り込んだ。
三人の動きが止まった。
ヒュウマは潮鎚を構えたまま、息を一つだけ吐いた。
戦いは終わった。けれど、終わったことを相手に分からせる時間がいる。灰髪の男は壁に背をつけ、喉を押さえている。大柄な男は片膝のまま、肩を押さえて動けない。若い男は濡れた石の上で、息を取り戻そうとしていた。
蒼凪は紙束を拾い直した。
一枚だけ端が濡れている。蒼凪はそれを見て、少しだけ眉を動かした。怒りではない。資料の損耗を確認する顔だった。
「終わったか」
「終わりました」
ヒュウマは潮鎚を下ろした。
その時、灰髪の男が笑った。
声にはまだ詰まりがある。顎がうまく動いていない。それでも、笑う形だけは作った。
「……やるじゃねえか。海守りか」
ヒュウマは答えなかった。
灰髪の男は唾を吐こうとして、喉の痛みに顔を歪めた。
「だが、相手を間違えたな。シローネ商会に逆らう気か」
空気が変わった。
朝市の遠い声が、また一枚布をかぶせられたように鈍くなる。
蒼凪が男を見た。
「言ってくれて助かった」
灰髪の男の笑みが、そこで止まった。
「何だと」
「聞き間違いにはしない」
蒼凪は濡れた紙の端を布で押さえた。
「だが、ここで全部を終わらせる名前でもない」
灰髪の男の目に、遅れて警戒が浮かぶ。
ヒュウマはその目を見た。悪党の目だけではなかった。負けた男の目だ。後ろ盾を出したつもりが、その名前を欲しがっていた相手へ渡してしまった男の目だった。
「ここはシローネの荷場だ」
灰髪の男は低く言った。
「役所の紙だか綺麗な地図だか知らねえが、表の道だけ歩いて来た奴が嗅ぎ回る場所じゃねえ」
「綺麗な道だけではありません」
ヒュウマは思わず言った。
灰髪の男が、ヒュウマを見る。
「なら分かるだろ」
その声は、さっきまでの脅しより低かった。
「組合の紙で飯が食えるなら、俺だってまだ向こうにいたさ」
若い男が顔を伏せた。
大柄な男は肩を押さえたまま、何も言わない。革鎧の胸に、削られた文字があった。昔のパーティ名だろう。完全には消えていない。一文字だけ残っている。消した跡の方が、文字より濃かった。
「魔物傷で右が上がらねえ奴に、護衛の仕事は来ねえ。違約金を抱えた奴に、表の商家は札を出さねえ。字が遅い奴は契約書の前で笑われる」
灰髪の男は、壁に背を預けたまま言った。
「シローネはな、名前を書けない奴にも仕事を出すんだよ」
ヒュウマは、何も返せなかった。
それは救いではない。分かっている。ここで荷場を見張り、嗅ぎ回る者へ刃を向ける仕事だ。表の港から外れた仕事だ。だが、飯は出る。寝る場所もある。明日も来いと言われる場所がある。
灰髪の男の手は、喉を押さえたまま震えていた。痛みだけではない。働かない日の怖さを知っている手だった。大柄な男の包帯は清潔ではなく、何度も洗って乾かした布の色をしている。若い男の短剣の柄には、安い紐が巻かれていた。手に合わない武器を、手放さないための結び方だった。
廃船の腹の下には、木皿が伏せてある。底に乾いた豆の皮が二つ残っていた。近くの縄には、洗った靴下が片方だけ吊られている。潮風で乾ききらず、先端からまだ水が落ちていた。剣を抜く前にも、彼らはここで飯を食い、包帯を替え、誰かの帰りを待っていたのだろう。
怒りはあった。
だが、置き場が少しずれた。
「飼われているんですね」
ヒュウマは静かに言った。
灰髪の男の目が、ぎらりと光った。
「飼われたんじゃねえ」
喉が痛むはずなのに、その声だけははっきりした。
「拾われたんだ」
廃船置き場の水が、石の隙間で小さく揺れた。
ヒュウマは潮鎚を背へ戻した。留め具を締める。金具が小さく鳴った。朝市で何度も聞いた音のはずなのに、今日は少し違って聞こえた。
蒼凪は三人を見下ろさなかった。
視線の高さを、少し落とす。
「今日は退く」
「逃げるのか」
灰髪の男が笑った。笑いは弱い。
「違う」
蒼凪は紙束を革紐で留めた。
「順番を変える」
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廃船置き場を離れると、朝の港の音が戻ってきた。
表通りへ出る手前の石段で、ヒュウマは一度だけ振り返った。廃船置き場は、細い路地の奥に沈んでいる。さっきの三人の姿は見えない。代わりに、網を繕っていた老人がまた手を動かしていた。何も見なかった顔で、破れた網目を一つずつ詰めている。
港は慣れている。
そのことが、いちばん嫌だった。
ヒュウマの手には、さっきの手首の感触が残っていた。骨の硬さ、腱の逃げる角度、短剣を握った若い男の汗。力を抜かせるための手順は体が覚えている。けれど、その後に残るものまでは、いつも同じ形ではない。
「行かないんですか」
ヒュウマが訊いた。
「行く」
蒼凪は答えた。
「表から」
短い言葉だった。
だが、その短さの中に、もう次の手順があった。評議会の紙。港湾記録の閲覧権限。古地図。白木の小札。旧水路南門。シローネ商会。点だったものが、一本の線になっている。
「今踏み込めば、裏道で転んだ客になる」
蒼凪は港の方を見た。
「正面から行けば、向こうは客として扱うしかない」
「それで話しますか」
「話す」
「話してくれますか」
「話させる」
ヒュウマは少しだけ笑った。
その笑いは長く続かなかった。灰髪の男の言葉が、まだ耳に残っている。拾われた。飼われたんじゃない。拾われた。違いはあるのか。あるのだろう。本人にとっては。だが、首輪の材質が柔らかくても、首輪は首輪だ。
表通りへ戻ると、歌劇の刷り物が風で一枚剥がれた。
紙は石畳を滑り、ヒュウマの靴先で止まった。エリザの名が濡れて滲み、アルヴィオの横顔はまだかろうじて残っている。昨日の夜、舞台の上で死んだ男。帰るために立っていた男。帰った場所で倒れた男。
ヒュウマは刷り物を拾い、近くの壁に貼り直した。
蒼凪はそれを待っていた。
何も言わない。
二人はまた歩き出す。
港の表には、白い建物が並んでいる。白さは観光客へ向けたものだ。洗われ、塗られ、朝日に光る。けれど、その白の奥に、潮で膨れた木と、錆びた格子と、拾われた犬たちの寝床がある。
道の先に、シローネ商会サルマンディア支部の建物が見えた。
正面玄関は、ひどく白かった。
白さは倉庫裏の薄い塗りとは違っていた。石段まで磨かれ、真鍮の取っ手は朝日をまっすぐ返している。扉の上には商会の標があり、左右には水を撒いたばかりの鉢植えが置かれていた。裏で嗅いだ潮と油の匂いは、ここでは石鹸と乾いた木の匂いに変わっている。
玄関先の敷石には、水の筋ひとつ残っていない。用人らしい男が長い柄の刷毛で最後の砂を払っていた。通りかかった観光客が建物を見上げ、商会の標を旅の目印のように眺めている。その目には、旧水路南門の格子も、廃船の腹の下の木皿も映らない。
ヒュウマは一度だけ、背の潮鎚を確かめた。
蒼凪は正面玄関へ向かった。歩幅は変わらない。白い石段に靴音が乗る。表の港の客として、二人はそこへ入っていく。




