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群青幻想  作者: 滄龍 青司
CantoⅡ
105/129

歌劇『潮の彼方の恋人』

 水面は黒く、空はまだ夜を抱いていた。


 水上舞台の奥、潮待ちの灯台だけが白い光を回している。光はゆっくりと桟橋を撫で、停泊した小舟の帆を撫で、港町の窓を一つずつ淡く開かせた。


 夜気には塩と濡れた木の匂いがあった。板の継ぎ目を打つ小波は、音を立てるというより、眠っている港の耳元で呼吸しているようだった。灯台の光が過ぎるたび、黒い水面には白い筋が生まれ、すぐにほどけて消えた。


 半水面下の楽団席から、弦の低い震えが上がる。


 乾いた序曲ではなかった。水を一枚くぐった音は丸く、深く、桟橋の裏側を撫でてから夜の港へ広がっていく。低弦が潮を作り、笛が灯台の光のように細くその上を渡った。


 水の下では、楽器を抱いた影が揺れていた。弓の動きは波に歪み、銀の泡が譜面のかわりに漂う。太鼓の皮は濡れていないはずなのに、その響きだけは海底の石を叩いたように重かった。


 その光の中へ、語り部の男が現れた。


 長い外套をまとい、片手に古い航海灯を持っている。灯の中の火は小さい。だが男が一歩進むたび、水面に映る灯だけがやけに遠くまで伸びた。


「これは、潮が七度めぐっても灯を消さなかった娘の話」


 男は港へ向けるように、航海灯を掲げた。


 炎は風に揺れた。けれど消えない。火そのものよりも、男の手首の角度と、灯を掲げる間が強かった。歌劇の夜はまだ始まったばかりなのに、その灯はすでに長い年月を持っているように見えた。


「貴族の館に生まれた娘、エリザ。剣を持つしかなかった男、アルヴィオ。二人の間には名があり、家があり、越えてはならぬ橋があった」


 舞台の左右から、町の人々が静かに現れる。水夫、花売り、灯台守の老女、黒い外套の女たち。彼らは語り部を囲まず、ただ港のいつもの夜のように、それぞれの場所へ立った。


 花売りの籠には白い花があり、水夫の袖には乾かない潮の染みがある。灯台守の老女は腰を曲げ、片手で古びた鍵束を握っていた。黒い外套の女たちは顔を半分だけ隠し、月のない夜に慣れた者の距離で立つ。


「だが若い恋は、橋を知らぬ。潮を知らぬ。戦の旗が上がるまで、別れの名さえ知らなかった」


 遠くで戦太鼓が一度だけ鳴る。


 低太鼓は舞台の奥ではなく、水の底から鳴ったように聞こえた。水面がわずかに震え、停められていた小舟の舫い縄がかすかに軋む。


「アルヴィオは戦へ行った。帰ると言って。必ず戻ると言って。けれど船は戻らず、手紙は途切れ、町は男を死者に数えた」


 語り部は灯を下ろす。


 炎が低くなると、港町の窓もいっせいに息をひそめた。濡れた石畳の上で、灯の輪郭だけが小さく震えている。


「残された娘の窓には、今夜も灯がある」


 その時、舞台の上に月が落ちた。


 青硝子の天井から差す白い光が、館の水上テラスだけを照らす。そこに一人の女が立っていた。


 エリザ。


 白い夜着に、薄い青の外套。髪は結わず、胸元に小さな銀の飾りだけを留めている。月光を受けた彼女は、港町の誰よりも静かだった。


 ただ、その静けさは弱さではない。


 サラ・マリー・アンリエットがエリザとして立った瞬間、舞台の水音まで彼女の呼吸を待つように薄くなった。月光は髪の縁を銀に削り、伏せた睫毛の影を頬へ落とす。爪先の角度、外套を押さえる指、息を吸う前のわずかな沈黙。そのどれもが、港の夜を彼女のために空けていく。


 そこにいるのは、待つことを祈りでも嘆きでもなく、一つの気品にまで磨いた女だった。


 エリザは手すりに触れた。


 濡れた木の手すりに、白い指が置かれる。指先が冷たさを受け止めるより先に、銀の飾りが小さく揺れた。


 弦が一度、息を吸うように止まる。


「潮は満ち、潮は引き」


 歌が始まる。


 最初の一節に、笛が寄り添った。高くはない。月光の端をなぞるような音だった。


「灯は揺れ、名は消えず」


 港の者たちは顔を上げない。聞き慣れた歌なのだろう。だが誰一人、その場を離れなかった。


「帰らぬ影を待つのではない」


 エリザは水面へ手を伸ばす。


 黒い水は彼女の袖口を映し、少し遅れて揺れる。水の中のエリザは、手を伸ばしても何にも触れられない。けれど上にいるエリザは、迷いなくその闇へ指を差し出した。


「帰る道を、今夜も灯す」


 灯台守の老女が、低く合いの手を入れる。


「七つの潮が過ぎました」


 水夫たちが続く。


「七つの旗が替わりました」


 花売りの娘が歌う。


「七つの花が枯れました」


 エリザは目を伏せない。


「ならば八つ目の花を挿しましょう。八つ目の潮を待ちましょう。灯を消せば、あの人は港を見失う」


 白い花の影が、花売りの籠の中で揺れた。老女の鍵束が一度だけ鳴る。水夫たちは顔を上げないまま、靴先で板目を押さえた。


 語り部が静かに告げる。


「待つ女の歌は、町の夜に染みついた。あわれむ者も、笑う者も、その歌が途切れる夜を恐れた」


 その言葉を断つように、別の灯が差した。


 金の飾りをつけた小舟が水路の向こうから進んでくる。船には紅い布が掛けられ、舳先には白い花が結ばれていた。


 紅い布は湿った夜気を吸い、重たく波打っていた。白い花だけが、月光を受けて新しく見える。小舟の舷側には磨かれた金具が並び、灯台の光を受けるたび、港の黒に細い火花を撒いた。


 小舟から降りたのは、ルシオだった。


 若い船主。港の有力者。黒い礼服の胸に、青い宝石の留め具。動きに無駄はなく、差し出すものを持つ者の落ち着きがあった。


 彼はエリザの前で膝をついた。


「エリザ」


 声は低く、よく通る。


「君の窓に灯る火を、もう海へ向けなくていい」


 エリザは歌を止めた。


 楽団もそこで薄く身を引く。低弦だけが残り、ルシオの声の下で潮のように揺れていた。


「ルシオ」


「家をあげよう。船をあげよう。待たなくていい朝をあげよう」


 町の人々が息を寄せる。灯台守の老女は目を閉じ、花売りは籠を胸に抱いた。


 ルシオは指輪を差し出す。


 金属の小箱が開く音は、水音よりも小さかった。それでも港の夜は、その音を聞き逃さなかった。


「君の父上も、町も、これ以上の夜を望まない。死者の名に灯を捧げる日々は終わりにしよう。君は生きている。生きている者は、生きている者の手を取るべきだ」


 エリザは指輪を見た。


 それは美しい指輪だった。


 海の青を閉じ込めたような石が、白い月光の下で冷たく光っている。宝石の奥には、小さな港が沈んでいるようにも見えた。灯のない港だった。


「あなたの手は温かい」


 エリザは静かに言った。


「だから、受け取れません」


 ルシオの顔がわずかに歪む。


「温かいことが罪か」


「いいえ」


 エリザは一歩下りる。


 夜着の裾がテラスの段に触れ、薄い青の外套が遅れて揺れる。月光が彼女の肩を滑り、ルシオの差し出した指輪には届かなかった。


「待つことを哀れまないで。私の夜は、誰かの憐れみで明けるものではない」


「彼は死んだ!」


 ルシオの声が強くなる。


 町の人々がざわめく。エリザは揺れない。手すりから離れた指だけが、空中で一度閉じた。


「死者を待っているのではないわ」


 彼女は歌へ戻るように、言葉を伸ばした。


「誓いを待っているの」


 ルシオは立ち上がった。


「誓いが君を痩せさせる。誓いが君を夜へ縫いつける。誓いが君の父を黙らせ、町を黙らせ、私を黙らせる」


「なら、あなたは今日、よく話しているわ」


 エリザの返しは静かだった。


 港の空気が一拍だけ変わる。花売りの娘が籠を抱き直し、水夫の一人が咳を飲み込んだ。


 ルシオは苦笑する。


「私は死者に勝てないのか」


「勝つものではありません」


「では何だ」


「帰る場所です」


 霧が濃くなった。


 水路の向こうで、船鐘が鳴る。


 一度。


 二度。


 三度目は鳴らない。


 鳴らなかった三度目の代わりに、半水面下の弦が沈む。港の底で何かが身を返したような、低い不協和だった。


 霧は水面から剥がれるように立ち、灯花の光を一つずつ滲ませていく。桟橋の先は白く溶け、紅い布の小舟も、青い宝石も、輪郭だけを残して遠のいた。


 町の者たちが振り返る。水夫が後ずさり、花売りの娘が籠を落とす。灯台守の老女だけが、灯台の光を見上げた。


 霧の中から、小舟が現れる。


 帆は破れ、船縁は焦げ、船底には戦火の跡が黒く残っている。その船首に、一人の男が立っていた。


 濃紺の軍装。片手には剣。もう片方の手には、血で汚れた白い手袋。肩から胸にかけて黒い布が巻かれ、立っているだけで痛みが伝わる。


 アルヴィオ。


 アドニス・アレクシオスがアルヴィオとして霧を割った瞬間、劇の夜は別の温度を持った。美しい男が帰ってきたのではない。帰るべき場所だけを見て、死に損ねた男がまだ立っていた。傷も疲労もある。けれど足の置き方、剣の下ろし方、顔を上げる間だけは、壊れた船よりも確かだった。


 霧を背にした輪郭へ、灯台の光が遅れて追いつく。濃紺の軍装の縁が白く浮かび、剣の腹に水面の黒が走った。男の影は一つではなかった。小舟の揺れ、霧の濃淡、刃に返る光が、それぞれ別のアルヴィオを短く作っては消した。


 エリザは息を呑む。


「アルヴィオ」


 男は微笑まない。


「遅れた」


 その一言だけで、町のざわめきが凍る。


 エリザはテラスの階段を下りる。足元の水が揺れる。彼女は走らない。走れば幻が消えると恐れているように、一段ずつ近づいた。


「潮が七度変わった」


「知っている」


「手紙は途切れた」


「書いた。届かなかった」


「町は、あなたを死者に数えたわ」


 アルヴィオは目を伏せた。


「死者の列にも、席がなかった」


 エリザは彼の前に立つ。


 二人は触れない。


 触れれば、この年月のすべてが崩れてしまう。二人の間には、水でも霧でもない薄い距離があった。月光がそこだけ冷たく残っている。


 エリザが歌う。


「灯は消さずにいた」


 ここで笛は消え、二人の声の間にだけ弦が残った。


 アルヴィオが低く応える。


「見えた」


「声は届かずにいた」


「聞こえた」


「名は」


「忘れなかった」


 二重唱は短い。


 長く歌えば幸福になる。幸福になるには、舞台の上の夜はまだ冷たすぎた。


 ルシオが剣の柄に手を置いた。


「死んだ男の席を、町はいつまでも空けておけない」


 アルヴィオはゆっくりと振り向く。


「遅れた男に、席はないと言うか」


「その席に座る者を、彼女は選ばねばならない」


「ならば」


 アルヴィオは白い手袋を外した。


 血に汚れた手袋だった。


 指先の赤は乾きかけ、布の白だけが月光に痛々しく残っていた。彼はそれをルシオの足元へ投げる。


「その席を、剣で返してもらう」


 エリザが声を上げる。


「やめて」


 ルシオは手袋を拾った。


「私は君を奪いたいのではない」


「なら、なぜ剣を取るの」


「君が死者と生きるのを見ていられない」


「彼は生きている!」


 エリザの声が初めて裂けた。


 アルヴィオは彼女を見ない。


 見れば剣が鈍る。


 水上の桟橋が音を立てて動いた。


 決闘のための細い足場が、黒い水の上に一本ずつ並ぶ。灯花が左右へ流れ、二人の男の足元に赤と白の光を置いた。


 灯花は小さな皿に灯された火のようで、波に揺れるたび、花弁の影を水面へ落とした。白い灯はアルヴィオの側へ、赤い灯はルシオの側へ寄り、やがて両者の足元で入り混じる。


 楽団席で、低太鼓が小さく刻み始める。


 速くはない。心臓の音より少し遅い。だが一つ打たれるたび、桟橋の板が決闘の距離を測るように震えた。


 ルシオは正しい構えを取る。


 港の名家にふさわしい、整った剣だった。


 アルヴィオは剣を下げたまま立つ。


 礼の形に似ていた。


 だが頭は下げない。視線だけが静かに落ち、刃のふくらみが月光を拾う。破れた肩布の端に白い光が集まり、濡れた桟橋へ薄い幕のように流れた。


 傷をかばっているのではない。そう見えた。だが次の瞬間、彼の足が水面すれすれの桟橋を滑る。


 刃が鳴った。


 一度目。


 弦が短く跳ねる。


 ルシオの剣が月光を裂く。


 アルヴィオはまだそこにいた。


 いや、いたように見えた。


 月光をまとった肩布だけがその場に残り、本当の身体は半歩横へ沈んでいる。ルシオの切っ先が布の光を裂いた時、アルヴィオの剣は下から静かに上がっていた。


 二度目。


 笛が鋭く上がり、すぐに水へ沈む。


 アルヴィオの剣がそれを低く受け、濡れた木の上で身を返す。刃は強く弾かない。ただ角度を変え、ルシオの視線を水面へ落とす。水面には、遅れて揺れるアルヴィオの影があった。


 三度目。


 二人の影が入れ替わる。


 太鼓が一拍だけ止まる。


 灯花の光がアルヴィオの背後で一拍遅れて伸びた。踏み込みの跡が光だけになって残り、次の瞬間には消える。剣の軌道より先に光が走り、光が消えたあとに刃が来た。


 町の人々は声を失っている。灯台守の老女が胸の前で両手を組み、語り部は航海灯を地面へ置いた。


 ルシオは強い。


 アルヴィオは美しい。


 その違いが、水面の上で刃になった。


 ルシオの剣は迷わない。前へ出る。正しく踏み込む。正しく斬る。


 アルヴィオの剣は、ひどく遠回りをする。水の揺れを使い、桟橋の沈みを使い、肩布の翻りを使う。光が視線を引き、布が刃筋を隠し、傷で遅れた体を、遅れた光が美しい線へ変える。


 彼は相手を斬る前に、相手の目を動かしていた。


 右手の剣を見る者には、左の足運びが消える。肩布を見る者には、剣の根元が消える。顔を見る者には、刃が消える。どれも一瞬だけの錯覚だったが、決闘の一瞬には長すぎた。


 エリザは息をしていない。


 アルヴィオの肩から血が落ちた。


 白い灯花が、一つ赤く染まる。


 赤は花弁の端から広がり、水の上で丸くほどけた。半水面下の弦がその色を拾うように震え、低い旋律が少しだけ濁る。


 ルシオが叫ぶ。


「なぜ退かない!」


 アルヴィオは刃を受ける。


「帰ったからだ」


「死ぬぞ!」


「もう何度も死んだ!!」


 次の一閃で、アルヴィオの剣がルシオの腕を裂いた。


 ルシオは後退する。


 だが同時に、彼の刃もアルヴィオの脇腹へ届いていた。


 光は傷を隠せても、痛みまでは隠せなかった。


 二人の動きが止まる。


 桟橋の上に、血の滴る音だけが残った。水面へ落ちるたび、赤い輪が黒へ沈んでいく。


 最初に膝をついたのはルシオだった。


 彼は剣を落とし、桟橋の上へ倒れる。赤い血が黒い水へ滴り、灯花の列が揺れた。


 その瞬間、舞台の月が赤く変わった。


 白かった月は、ゆっくりと血を吸うように色を深める。水面の灯花も赤を帯び、港町の窓が一つずつ暗くなる。


 楽団の音が、そこで大きく開いた。


 低弦がうねり、太鼓が深く落ち、笛が赤い月へ向かって細く伸びる。音は水をくぐっているはずなのに、ここだけは水面を割って直接胸に刺さるようだった。


 ルシオは勝者の顔をしていなかった。


 倒れたまま、空を見ている。


「私は」


 彼の声は掠れていた。


「生きている者のために、剣を取った」


 誰も答えない。


 アルヴィオが一歩進む。


 二歩目で、彼の膝が折れた。


 エリザが駆け出す。


「アルヴィオ!」


 彼女は彼を抱き止める。軍装の黒布がほどけ、隠していた傷が月の赤い光を受けた。


 布の下は、帰還のために残されていた最後の沈黙だった。エリザの腕に重みがかかる。彼女はよろめきながらも、男を水へ落とさない。夜着の白が赤を吸い、薄い青の外套が濡れた板へ広がった。


 アルヴィオは彼女の腕の中で、ようやく微笑んだ。


「帰った」


 エリザは彼の頬に触れる。


「ええ。帰ってきた」


「灯が、見えた」


「消さなかった」


「声が」


「歌っていた」


「なら」


 アルヴィオの手が、エリザの指先を探す。


「もう、迷わない」


 エリザは彼の手を握った。


「迷わせない」


 アルヴィオは息を吐く。


 その息は短く、あまりにも静かだった。


 エリザは彼の名を呼ばない。


 呼べば返事がないことを、世界に認めさせてしまうからだった。


 赤い月の下で、灯台守の老女が灯花を一つ水へ流した。


 続いて、町の人々が一つずつ灯を流す。


 灯花は静かに離れていく。赤に染まったもの、白のまま震えるもの、半分だけ水をかぶったもの。それぞれの灯が、黒い水の上で小さな道を作った。


 楽団は一つずつ音を減らしていく。


 太鼓が消える。低弦が消える。残ったのは、細い笛と、遠くで震える一挺の弦だけだった。


 ルシオは倒れたまま、それを見ていた。勝った男でも、奪った男でもなく、ただ遅すぎた現実のように。


 エリザはアルヴィオを抱いたまま歌い始める。


「潮の彼方へ行くのなら」


 声は小さい。


 だが水面がそれを受け取った。


 一挺の弦が、彼女の声の下で細く続く。支えるというより、沈まないように指先だけを添えている音だった。


「私の歌を持っていって」


 町の人々が頭を垂れる。


「灯は消さない」


 赤い月が少しずつ薄くなる。


「あなたは帰らぬ人ではない」


 エリザはアルヴィオの額へ唇を寄せる。


「帰ってきた人として」


 灯台の光が、最後に一度だけ港を横切る。


「夜に名を残す」


 歌はそこで終わらない。


 音は細くなり、水面へ落ち、灯花の間を渡っていく。エリザは泣かない。泣くかわりに歌う。悲しみを崩さない。崩せば、腕の中の男がただの死者になってしまう。


 消えかけた笛が最後に戻る。


 それは帰ってきた船の音ではない。帰る道を覚えている風の音だった。


 だから彼女は歌い切る。


 彼が帰ったことを。


 彼が遅れたことを。


 彼が死んだことを。


 それでも灯は消えなかったことを。


 最後の灯花が水面を離れ、沖へ流れていく。


 舞台の月は白へ戻らない。


 ただ赤を失い、夜の色に溶けていく。


 エリザはアルヴィオを抱いたまま、静かに顔を上げた。


 語り部の男が航海灯を拾う。


「これは、潮が七度めぐっても灯を消さなかった娘の話」


 彼は灯を吹き消した。


「そして八度目の潮に、恋人を帰した歌の話」


 闇が下りる。


──────────────────────────────


 闇が下りたあと、劇場はすぐには戻らなかった。


 水面も、客席も、半水面下の楽団席も、息を止めていた。最後の弦の震えだけが、まだ細く残っている。誰も拍手をしない。咳払いもない。椅子の軋む音さえ、あの腕の中で倒れた男を起こしてしまうかのように遠慮していた。


 一拍。


 それから、音が割れた。


 拍手だった。


 歓声だった。


 堰を切ったように、劇場の全方角から手を打つ音が立ち上がった。水面に落ち、跳ね返り、青硝子の天井へぶつかる。貴婦人が手袋で目元を押さえていた。若い男が立ち上がったまま何も言えず、ただ両手を叩いている。年配の客が胸元の飾り布を握りしめ、隣の者に何か言おうとして、声にならないまま首を振った。


 悲恋の幕切れに飲み込まれた劇場が、拍手でようやく息を吹き返していた。


 ヒュウマも、すぐには言葉が出なかった。


 エリザの最後の歌が、まだ耳の奥に残っている。サラという名前から想像していた明るい女優は、どこにもいなかった。水上の舞台に立っていたのは、場を黙らせる女だった。歌うことで泣くことを拒み、泣かないことで悲しみを深くする女だった。


「……すごかったですね」


 やっと出た声は、それだけだった。


「よくできている」


 蒼凪は短く言った。


 劇の出来を褒めたのか、劇場を褒めたのか、マーレが人の感情を動かす手際を褒めたのか、ヒュウマには分からなかった。けれど蒼凪の視線は舞台だけではなく、客席の立ち上がる波、拍手の返り、照明の落ち方まで見ていた。


 イーリスは膝の上で指を組み、まだ楽団席の方へ耳を傾けている。


「最後、伴奏が声を支えず、沈ませませんでした」


「支えず、沈ませない?」


「はい。声を浮かせるのではなく、水面に触れさせるような音でございました。あれは、なかなか残酷でございますね」


 水の下で、弦の箱が一つ閉じられた。留め金の音が、拍手の底で小さく沈んだ。


 ラウリは舞台を見ていた。


 拍手の中で、カーテンコールが始まる。語り部の男が灯を掲げて礼をした。灯台守の老女、町人、水夫たちが続く。ルシオ役の男が立つと、拍手は一段大きくなった。勝者でも悪役でもない男の礼に、客席はきちんと応えた。


 そしてサラが現れた。


 白い衣装の裾はまだ水の光を帯びている。泣き崩れた女の形を残しながら、背筋は女優のものへ戻っていた。深く礼をする。金髪が月光を拾い、白い頬に影を落とした。その一礼で、客席のざわめきがまた沈んだ。


 続いてアドニスが現れる。


 死んだはずの男が、完璧に立っていた。


 その違和感が、美しかった。アルヴィオの死は消えていない。だが、アドニスは役者としてそこに戻ってきた。サラと並び、二人で礼をする。悲恋はそこでやっと、舞台の上のものとして客席へ返された。


 ラウリが、低く言った。


「あの男は、帰るところまでで力を使い切っていた」


 ヒュウマは横を見る。


「倒れる場所を選んでいたな」


「ラウリさん、分かったんですか」


「全部は分からん」


 ラウリは正直に答えた。


「でも、死んだことより、戻ったことの方を見せる劇だったんじゃないか」


 イーリスが微笑む。


「ええ。とてもよい受け取り方でございます」


「そうか」


 ラウリは少しだけ安心したようにうなずいた。大きな手が、膝の上で一度だけ開いて閉じた。


 拍手は長く続いた。


 蒼凪が席を立つ頃、招待席の横へエレオノーラが姿を見せた。礼服の襟元に小さな汗が浮いている。けれど背筋は崩れていない。客席の余韻と舞台裏の用件を、同じ一礼でつないでいた。


「皆さま、終演後のご挨拶へご案内いたします」


 蒼凪はうなずいた。


 ヒュウマはもう一度だけ舞台を見た。白い月は消え、足場の下で水だけが揺れている。


──────────────────────────────


 舞台裏へ回ると、悲恋は急に人の手触りを取り戻した。


 濡れた木の匂いがする。縄が吊られ、滑車が軋み、灯花を回収する係が籠を抱えて走っている。水夫役だった男が衣装の裾をまくり上げ、靴の中の水を捨てていた。化粧台の前では、泣き腫らした老女役の役者が鏡を見ながら笑っている。


 半水面下の楽団席から、楽師たちが上がってきた。肩に濡れた布を掛け、弦を抱え、笛を箱へ戻していく。舞台の表では夜と潮と死が流れていたのに、裏側では人が汗を拭き、道具を運び、次の挨拶の順番を確認している。


 別の通路から、勇者一行も案内されてきた。


 最初に気づいたのはヒュウマだった。


「レオンさん」


 思わず声が出る。


 レオンもこちらを見て、少し驚いた顔をした。それからすぐに、舞台裏の熱に合わせるように表情を整える。


「ヒュウマさん。賢者殿も。あなた方も招かれていたのか」


「主演女優からの礼だ」


 蒼凪が短く答える。


「そちらは」


「アドニス殿から招待を受けた。せっかくの機会だと思ってな」


 レオンはそう言って、蒼凪へ軽く会釈した。蒼凪も浅く返す。契約を結んだばかりの両陣営が、悲恋の舞台裏で顔を合わせる。その妙な偶然に、ヒュウマは一瞬だけ言葉を探した。


「奇遇でございますね」


 イーリスが柔らかく言う。


「同じ劇を見た後でございましたら、少しは話もしやすいかと」


「はい。そうであれば、ありがたいです」


 カイが静かに応じる。


 ラウリは勇者一行を順に見た。


「皆で見たのか」


「見たぜ」


 ヴェスタが肩をすくめる。


「で、全員まとめて心臓を舞台に置いてきたところだ」


 レオンはまだ舞台の方を見返していた。カイは演目表を丁寧に畳んでいる。ヴァローは天井と水路の反射を順番に見比べ、ガイウスは舞台の足場を妙に真剣な顔で眺めていた。ヴェスタだけがいつもの調子を取り戻そうとしているが、目元は少し赤い。


「あれが劇か」


 ガイウスがつぶやいた。


「初めて見たが、足場が悪い。あそこで斬り合うのは容易じゃねえ」


「そこを見るのかよ、兄貴」


 ヴェスタが笑った。


「だが、分かるぜ。俺も観劇ってのはもっと座ってるだけのもんだと思ってた。なんだあれ、心臓を舞台に置いてこいっていう催しか」


「アウレリアにも劇場はあります」


 カイが静かに言った。


「ですが、あれほど静かに人を黙らせる舞台は、私は知りません。水も音も、祈りの前の沈黙に似ていました」


 レオンはうなずく。


「招待を受けてよかった。正直、想像以上だった」


 ヴァローは返事をせず、舞台の上方を見ている。


「あの月は、天井の投影だけではないな」


「まだそこか」


 ヴェスタが肩をすくめる。


「水面を経由して色を変えていた。光源が一つではない。演出としては見事だ。原理が気になる」


「感動してから分解するなよ」


「分解しても、感動は残る」


 ヴァローは淡々と言った。


 そこへ、サラが現れた。


 白い衣装の肩布だけを残し、髪飾りを片手で外しながら、彼女は通路の向こうからまっすぐこちらへ歩いてきた。舞台上のエリザはまだ輪郭に残っている。だが目の奥はもう明るい。泣かない女から、笑う女へ戻る途中の顔だった。


「ラウリん!」


 勇者側の空気が一瞬止まった。


 ラウリは普通に振り向く。


「サラ」


「来てたんだ。ちゃんと見た?」


「見た」


「泣いた?」


「泣いてはいない」


「惜しい。次は泣かせよ」


 レオンが目を瞬かせた。


「知り合いなのか」


「昨日、飯を食った」


 ラウリは端的に答えた。


 ヴェスタが口元を押さえる。


「飯を食っただけで、主演女優からその距離感になるのかよ」


「飯は大事だ」


 ガイウスが妙に納得しかけた。


 カイが小さく咳払いをする。


 ラウリはサラを見た。


「さっきまで泣いていた女が、もう笑うのか」


「泣いてたのはエリザ。あたしはお腹空いてる」


「別なのか」


「別。だけど、嘘じゃない」


 サラは髪飾りを近くの係に渡し、軽く肩を回した。耳飾りの金が、灯の下で小さく鳴った。


「舞台の上では、本当じゃないものを本当にするの。終わったら戻る。戻れないと、次の幕が上がんないからね」


 ラウリは少し考える。


「お前は、人の息を集めるんだな」


 サラの笑みが、わずかに止まった。


「息?」


「皆、同じところで止まっていた」


 ラウリは客席の方を指さした。


「歌が終わるまで、誰も息をしていないように見えた」


 サラは目を細める。


「……ラウリん、それ、けっこういい感想」


「そうか」


「うん。食べ歩きの次にいい」


「昨日の方が楽そうだった」


「そりゃそう。昨日は食べるだけだったし」


「今日も終わったなら食える」


「その発想、好き」


 サラが笑ったところで、通路の奥から拍手とは別の足音が近づいてきた。


 アドニス・アレクシオスだった。


 舞台衣装から接遇の礼服へ半分戻っている。血に見せた紅は落とされ、白と薄金の布が肩にかかっていた。だが歩幅も、指先も、顔の角度も、まだ舞台の上にあるように整っている。アルヴィオではない。けれど、ただの役者でもない。


「勇者様」


 彼はレオンへ礼をした。


「本日はお越しいただき、誠にありがとうございます。勇者一行をお迎えできたことは、マーレの誉れです」


「こちらこそ、招待に感謝する」


 レオンは少し背筋を伸ばした。


「素晴らしい舞台だった。俺は詳しくないが、そう思った」


「詳しくない方に届くのなら、舞台としては幸福です」


 アドニスは微笑んだ。


 次に蒼凪へ向き直る。


「賢者様。初めてお目にかかります。アドニス・アレクシオス。マーレ・パラデイソスにて、祝祭と接遇を預かっております」


「白真珠の塔の賢者、蒼凪だ」


 蒼凪の返事は短い。


 アドニスはそれを受けて、過不足のない角度で礼をした。深すぎず、浅すぎない。相手を持ち上げながら、自分の立ち位置も崩さない礼だった。


「お噂はかねがね。今夜の舞台が、少しでも旅の慰めとなったなら幸いです」


「慰めというには、少し刺さる舞台だった」


「ありがとうございます。刺さらない悲恋は、やや味が薄い」


 サラが横から口を挟む。


「アドくん、それあたしの台詞っぽくない?」


「サラの台詞でしたか。では、照明を半分お返しします」


「半分じゃ足りない」


「昨日のリハーサルでは、エリザが帰らぬまま第一場が終わりました」


 サラは目を逸らした。


「本番では帰ってきたでしょ?」


「アルヴィオは帰りました。エリザも、稽古にはお戻りください」


 エレオノーラが何も言わずに深く息を吐いた。革板に挟んだ予定表の角が、指の下でわずかに曲がっている。


 ラウリが一歩前へ出る。


「俺のせいか」


「違う」


 サラは即答した。


「あたしが楽しかったせい。ラウリんは巻き込まれただけ」


「巻き込んだ本人が言うことではありません」


 エレオノーラの声は静かだった。


「お世話でした」


「ほら、ノーラまで」


 アドニスは蒼凪たちへ改めて向き直る。


「昨日はサラがお世話になりました。街での件、食事の件、そして最後のレストランの件まで、こちらで確認しております」


「飯を食っただけだ」


 ラウリが言う。


「それが、サラにはよい一日だったようです」


 アドニスの声は柔らかい。


「なら、マーレとして礼を申し上げます」


 そのとき、近くの転換卓で、小道具係が赤い砂時計を持ち上げた。


 掌に収まるほどではない。舞台用の装飾品にしては、古い金属枠が重そうに見える。札に小さく《朱月沙漏》と記されていた。係が置き直すと、下にあるはずの赤い砂が、細く上へ流れ始める。


 ヴァローの視線が、そこで止まった。


 蒼凪も一瞬だけそれを見た。


「それは奥へ」


 エレオノーラが言った。


「はい」


 小道具係はすぐに砂時計を布で包み、棚の奥へ運んでいく。舞台裏の忙しさは、その一瞬を押し流した。衣装係がサラを呼び、別の係がアドニスへ次の挨拶順を告げる。


 サラは口を尖らせた。


「もう次? あたし、まだラウリんに今日のご飯の相談してない」


「本日はご挨拶が先です」


 エレオノーラが言う。


「ご飯は逃げないでしょ」


「逃げる料理もある」


 ラウリが真面目に言った。


 サラが吹き出した。


「それ、今度詳しく聞く」


 アドニスは笑みを崩さず、出口の方へ手を示した。


「皆さま、本日はお疲れでしょう。お帰りの馬車までご案内いたします」


 レオンと蒼凪が短く視線を交わした。


「近いうちに、また話をしよう」


 レオンが言った。


「そうだな」


 蒼凪はうなずく。


 契約を結んだばかりの距離は、まだ近いとは言いがたい。それでも、同じ舞台を見たあとでは、少しだけ言葉が渡りやすくなっていた。


 劇場の外へ出ると、夜風が潮の匂いを運んできた。


 灯花は回収されていた。係が長い棒で水面を寄せ、籠の中へ一つずつしまっていく。水上劇場の明かりは落ち、青硝子の天井には普通の月が映っていた。


 その時、近くの子供が空を指さした。


「いま、月が赤かった」


 隣の大人が笑う。


「劇の演出が残って見えただけだよ」


 子供は納得していない顔をしたが、すぐに手を引かれて歩き出す。


 ヒュウマは空を見た。


 月は白い。


 劇の赤が、まだ目の奥に残っているだけかもしれない。


 けれど潮風が一度だけ、冷たく首筋を撫でた。

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