歌劇『潮の彼方の恋人』
水面は黒く、空はまだ夜を抱いていた。
水上舞台の奥、潮待ちの灯台だけが白い光を回している。光はゆっくりと桟橋を撫で、停泊した小舟の帆を撫で、港町の窓を一つずつ淡く開かせた。
夜気には塩と濡れた木の匂いがあった。板の継ぎ目を打つ小波は、音を立てるというより、眠っている港の耳元で呼吸しているようだった。灯台の光が過ぎるたび、黒い水面には白い筋が生まれ、すぐにほどけて消えた。
半水面下の楽団席から、弦の低い震えが上がる。
乾いた序曲ではなかった。水を一枚くぐった音は丸く、深く、桟橋の裏側を撫でてから夜の港へ広がっていく。低弦が潮を作り、笛が灯台の光のように細くその上を渡った。
水の下では、楽器を抱いた影が揺れていた。弓の動きは波に歪み、銀の泡が譜面のかわりに漂う。太鼓の皮は濡れていないはずなのに、その響きだけは海底の石を叩いたように重かった。
その光の中へ、語り部の男が現れた。
長い外套をまとい、片手に古い航海灯を持っている。灯の中の火は小さい。だが男が一歩進むたび、水面に映る灯だけがやけに遠くまで伸びた。
「これは、潮が七度めぐっても灯を消さなかった娘の話」
男は港へ向けるように、航海灯を掲げた。
炎は風に揺れた。けれど消えない。火そのものよりも、男の手首の角度と、灯を掲げる間が強かった。歌劇の夜はまだ始まったばかりなのに、その灯はすでに長い年月を持っているように見えた。
「貴族の館に生まれた娘、エリザ。剣を持つしかなかった男、アルヴィオ。二人の間には名があり、家があり、越えてはならぬ橋があった」
舞台の左右から、町の人々が静かに現れる。水夫、花売り、灯台守の老女、黒い外套の女たち。彼らは語り部を囲まず、ただ港のいつもの夜のように、それぞれの場所へ立った。
花売りの籠には白い花があり、水夫の袖には乾かない潮の染みがある。灯台守の老女は腰を曲げ、片手で古びた鍵束を握っていた。黒い外套の女たちは顔を半分だけ隠し、月のない夜に慣れた者の距離で立つ。
「だが若い恋は、橋を知らぬ。潮を知らぬ。戦の旗が上がるまで、別れの名さえ知らなかった」
遠くで戦太鼓が一度だけ鳴る。
低太鼓は舞台の奥ではなく、水の底から鳴ったように聞こえた。水面がわずかに震え、停められていた小舟の舫い縄がかすかに軋む。
「アルヴィオは戦へ行った。帰ると言って。必ず戻ると言って。けれど船は戻らず、手紙は途切れ、町は男を死者に数えた」
語り部は灯を下ろす。
炎が低くなると、港町の窓もいっせいに息をひそめた。濡れた石畳の上で、灯の輪郭だけが小さく震えている。
「残された娘の窓には、今夜も灯がある」
その時、舞台の上に月が落ちた。
青硝子の天井から差す白い光が、館の水上テラスだけを照らす。そこに一人の女が立っていた。
エリザ。
白い夜着に、薄い青の外套。髪は結わず、胸元に小さな銀の飾りだけを留めている。月光を受けた彼女は、港町の誰よりも静かだった。
ただ、その静けさは弱さではない。
サラ・マリー・アンリエットがエリザとして立った瞬間、舞台の水音まで彼女の呼吸を待つように薄くなった。月光は髪の縁を銀に削り、伏せた睫毛の影を頬へ落とす。爪先の角度、外套を押さえる指、息を吸う前のわずかな沈黙。そのどれもが、港の夜を彼女のために空けていく。
そこにいるのは、待つことを祈りでも嘆きでもなく、一つの気品にまで磨いた女だった。
エリザは手すりに触れた。
濡れた木の手すりに、白い指が置かれる。指先が冷たさを受け止めるより先に、銀の飾りが小さく揺れた。
弦が一度、息を吸うように止まる。
「潮は満ち、潮は引き」
歌が始まる。
最初の一節に、笛が寄り添った。高くはない。月光の端をなぞるような音だった。
「灯は揺れ、名は消えず」
港の者たちは顔を上げない。聞き慣れた歌なのだろう。だが誰一人、その場を離れなかった。
「帰らぬ影を待つのではない」
エリザは水面へ手を伸ばす。
黒い水は彼女の袖口を映し、少し遅れて揺れる。水の中のエリザは、手を伸ばしても何にも触れられない。けれど上にいるエリザは、迷いなくその闇へ指を差し出した。
「帰る道を、今夜も灯す」
灯台守の老女が、低く合いの手を入れる。
「七つの潮が過ぎました」
水夫たちが続く。
「七つの旗が替わりました」
花売りの娘が歌う。
「七つの花が枯れました」
エリザは目を伏せない。
「ならば八つ目の花を挿しましょう。八つ目の潮を待ちましょう。灯を消せば、あの人は港を見失う」
白い花の影が、花売りの籠の中で揺れた。老女の鍵束が一度だけ鳴る。水夫たちは顔を上げないまま、靴先で板目を押さえた。
語り部が静かに告げる。
「待つ女の歌は、町の夜に染みついた。あわれむ者も、笑う者も、その歌が途切れる夜を恐れた」
その言葉を断つように、別の灯が差した。
金の飾りをつけた小舟が水路の向こうから進んでくる。船には紅い布が掛けられ、舳先には白い花が結ばれていた。
紅い布は湿った夜気を吸い、重たく波打っていた。白い花だけが、月光を受けて新しく見える。小舟の舷側には磨かれた金具が並び、灯台の光を受けるたび、港の黒に細い火花を撒いた。
小舟から降りたのは、ルシオだった。
若い船主。港の有力者。黒い礼服の胸に、青い宝石の留め具。動きに無駄はなく、差し出すものを持つ者の落ち着きがあった。
彼はエリザの前で膝をついた。
「エリザ」
声は低く、よく通る。
「君の窓に灯る火を、もう海へ向けなくていい」
エリザは歌を止めた。
楽団もそこで薄く身を引く。低弦だけが残り、ルシオの声の下で潮のように揺れていた。
「ルシオ」
「家をあげよう。船をあげよう。待たなくていい朝をあげよう」
町の人々が息を寄せる。灯台守の老女は目を閉じ、花売りは籠を胸に抱いた。
ルシオは指輪を差し出す。
金属の小箱が開く音は、水音よりも小さかった。それでも港の夜は、その音を聞き逃さなかった。
「君の父上も、町も、これ以上の夜を望まない。死者の名に灯を捧げる日々は終わりにしよう。君は生きている。生きている者は、生きている者の手を取るべきだ」
エリザは指輪を見た。
それは美しい指輪だった。
海の青を閉じ込めたような石が、白い月光の下で冷たく光っている。宝石の奥には、小さな港が沈んでいるようにも見えた。灯のない港だった。
「あなたの手は温かい」
エリザは静かに言った。
「だから、受け取れません」
ルシオの顔がわずかに歪む。
「温かいことが罪か」
「いいえ」
エリザは一歩下りる。
夜着の裾がテラスの段に触れ、薄い青の外套が遅れて揺れる。月光が彼女の肩を滑り、ルシオの差し出した指輪には届かなかった。
「待つことを哀れまないで。私の夜は、誰かの憐れみで明けるものではない」
「彼は死んだ!」
ルシオの声が強くなる。
町の人々がざわめく。エリザは揺れない。手すりから離れた指だけが、空中で一度閉じた。
「死者を待っているのではないわ」
彼女は歌へ戻るように、言葉を伸ばした。
「誓いを待っているの」
ルシオは立ち上がった。
「誓いが君を痩せさせる。誓いが君を夜へ縫いつける。誓いが君の父を黙らせ、町を黙らせ、私を黙らせる」
「なら、あなたは今日、よく話しているわ」
エリザの返しは静かだった。
港の空気が一拍だけ変わる。花売りの娘が籠を抱き直し、水夫の一人が咳を飲み込んだ。
ルシオは苦笑する。
「私は死者に勝てないのか」
「勝つものではありません」
「では何だ」
「帰る場所です」
霧が濃くなった。
水路の向こうで、船鐘が鳴る。
一度。
二度。
三度目は鳴らない。
鳴らなかった三度目の代わりに、半水面下の弦が沈む。港の底で何かが身を返したような、低い不協和だった。
霧は水面から剥がれるように立ち、灯花の光を一つずつ滲ませていく。桟橋の先は白く溶け、紅い布の小舟も、青い宝石も、輪郭だけを残して遠のいた。
町の者たちが振り返る。水夫が後ずさり、花売りの娘が籠を落とす。灯台守の老女だけが、灯台の光を見上げた。
霧の中から、小舟が現れる。
帆は破れ、船縁は焦げ、船底には戦火の跡が黒く残っている。その船首に、一人の男が立っていた。
濃紺の軍装。片手には剣。もう片方の手には、血で汚れた白い手袋。肩から胸にかけて黒い布が巻かれ、立っているだけで痛みが伝わる。
アルヴィオ。
アドニス・アレクシオスがアルヴィオとして霧を割った瞬間、劇の夜は別の温度を持った。美しい男が帰ってきたのではない。帰るべき場所だけを見て、死に損ねた男がまだ立っていた。傷も疲労もある。けれど足の置き方、剣の下ろし方、顔を上げる間だけは、壊れた船よりも確かだった。
霧を背にした輪郭へ、灯台の光が遅れて追いつく。濃紺の軍装の縁が白く浮かび、剣の腹に水面の黒が走った。男の影は一つではなかった。小舟の揺れ、霧の濃淡、刃に返る光が、それぞれ別のアルヴィオを短く作っては消した。
エリザは息を呑む。
「アルヴィオ」
男は微笑まない。
「遅れた」
その一言だけで、町のざわめきが凍る。
エリザはテラスの階段を下りる。足元の水が揺れる。彼女は走らない。走れば幻が消えると恐れているように、一段ずつ近づいた。
「潮が七度変わった」
「知っている」
「手紙は途切れた」
「書いた。届かなかった」
「町は、あなたを死者に数えたわ」
アルヴィオは目を伏せた。
「死者の列にも、席がなかった」
エリザは彼の前に立つ。
二人は触れない。
触れれば、この年月のすべてが崩れてしまう。二人の間には、水でも霧でもない薄い距離があった。月光がそこだけ冷たく残っている。
エリザが歌う。
「灯は消さずにいた」
ここで笛は消え、二人の声の間にだけ弦が残った。
アルヴィオが低く応える。
「見えた」
「声は届かずにいた」
「聞こえた」
「名は」
「忘れなかった」
二重唱は短い。
長く歌えば幸福になる。幸福になるには、舞台の上の夜はまだ冷たすぎた。
ルシオが剣の柄に手を置いた。
「死んだ男の席を、町はいつまでも空けておけない」
アルヴィオはゆっくりと振り向く。
「遅れた男に、席はないと言うか」
「その席に座る者を、彼女は選ばねばならない」
「ならば」
アルヴィオは白い手袋を外した。
血に汚れた手袋だった。
指先の赤は乾きかけ、布の白だけが月光に痛々しく残っていた。彼はそれをルシオの足元へ投げる。
「その席を、剣で返してもらう」
エリザが声を上げる。
「やめて」
ルシオは手袋を拾った。
「私は君を奪いたいのではない」
「なら、なぜ剣を取るの」
「君が死者と生きるのを見ていられない」
「彼は生きている!」
エリザの声が初めて裂けた。
アルヴィオは彼女を見ない。
見れば剣が鈍る。
水上の桟橋が音を立てて動いた。
決闘のための細い足場が、黒い水の上に一本ずつ並ぶ。灯花が左右へ流れ、二人の男の足元に赤と白の光を置いた。
灯花は小さな皿に灯された火のようで、波に揺れるたび、花弁の影を水面へ落とした。白い灯はアルヴィオの側へ、赤い灯はルシオの側へ寄り、やがて両者の足元で入り混じる。
楽団席で、低太鼓が小さく刻み始める。
速くはない。心臓の音より少し遅い。だが一つ打たれるたび、桟橋の板が決闘の距離を測るように震えた。
ルシオは正しい構えを取る。
港の名家にふさわしい、整った剣だった。
アルヴィオは剣を下げたまま立つ。
礼の形に似ていた。
だが頭は下げない。視線だけが静かに落ち、刃のふくらみが月光を拾う。破れた肩布の端に白い光が集まり、濡れた桟橋へ薄い幕のように流れた。
傷をかばっているのではない。そう見えた。だが次の瞬間、彼の足が水面すれすれの桟橋を滑る。
刃が鳴った。
一度目。
弦が短く跳ねる。
ルシオの剣が月光を裂く。
アルヴィオはまだそこにいた。
いや、いたように見えた。
月光をまとった肩布だけがその場に残り、本当の身体は半歩横へ沈んでいる。ルシオの切っ先が布の光を裂いた時、アルヴィオの剣は下から静かに上がっていた。
二度目。
笛が鋭く上がり、すぐに水へ沈む。
アルヴィオの剣がそれを低く受け、濡れた木の上で身を返す。刃は強く弾かない。ただ角度を変え、ルシオの視線を水面へ落とす。水面には、遅れて揺れるアルヴィオの影があった。
三度目。
二人の影が入れ替わる。
太鼓が一拍だけ止まる。
灯花の光がアルヴィオの背後で一拍遅れて伸びた。踏み込みの跡が光だけになって残り、次の瞬間には消える。剣の軌道より先に光が走り、光が消えたあとに刃が来た。
町の人々は声を失っている。灯台守の老女が胸の前で両手を組み、語り部は航海灯を地面へ置いた。
ルシオは強い。
アルヴィオは美しい。
その違いが、水面の上で刃になった。
ルシオの剣は迷わない。前へ出る。正しく踏み込む。正しく斬る。
アルヴィオの剣は、ひどく遠回りをする。水の揺れを使い、桟橋の沈みを使い、肩布の翻りを使う。光が視線を引き、布が刃筋を隠し、傷で遅れた体を、遅れた光が美しい線へ変える。
彼は相手を斬る前に、相手の目を動かしていた。
右手の剣を見る者には、左の足運びが消える。肩布を見る者には、剣の根元が消える。顔を見る者には、刃が消える。どれも一瞬だけの錯覚だったが、決闘の一瞬には長すぎた。
エリザは息をしていない。
アルヴィオの肩から血が落ちた。
白い灯花が、一つ赤く染まる。
赤は花弁の端から広がり、水の上で丸くほどけた。半水面下の弦がその色を拾うように震え、低い旋律が少しだけ濁る。
ルシオが叫ぶ。
「なぜ退かない!」
アルヴィオは刃を受ける。
「帰ったからだ」
「死ぬぞ!」
「もう何度も死んだ!!」
次の一閃で、アルヴィオの剣がルシオの腕を裂いた。
ルシオは後退する。
だが同時に、彼の刃もアルヴィオの脇腹へ届いていた。
光は傷を隠せても、痛みまでは隠せなかった。
二人の動きが止まる。
桟橋の上に、血の滴る音だけが残った。水面へ落ちるたび、赤い輪が黒へ沈んでいく。
最初に膝をついたのはルシオだった。
彼は剣を落とし、桟橋の上へ倒れる。赤い血が黒い水へ滴り、灯花の列が揺れた。
その瞬間、舞台の月が赤く変わった。
白かった月は、ゆっくりと血を吸うように色を深める。水面の灯花も赤を帯び、港町の窓が一つずつ暗くなる。
楽団の音が、そこで大きく開いた。
低弦がうねり、太鼓が深く落ち、笛が赤い月へ向かって細く伸びる。音は水をくぐっているはずなのに、ここだけは水面を割って直接胸に刺さるようだった。
ルシオは勝者の顔をしていなかった。
倒れたまま、空を見ている。
「私は」
彼の声は掠れていた。
「生きている者のために、剣を取った」
誰も答えない。
アルヴィオが一歩進む。
二歩目で、彼の膝が折れた。
エリザが駆け出す。
「アルヴィオ!」
彼女は彼を抱き止める。軍装の黒布がほどけ、隠していた傷が月の赤い光を受けた。
布の下は、帰還のために残されていた最後の沈黙だった。エリザの腕に重みがかかる。彼女はよろめきながらも、男を水へ落とさない。夜着の白が赤を吸い、薄い青の外套が濡れた板へ広がった。
アルヴィオは彼女の腕の中で、ようやく微笑んだ。
「帰った」
エリザは彼の頬に触れる。
「ええ。帰ってきた」
「灯が、見えた」
「消さなかった」
「声が」
「歌っていた」
「なら」
アルヴィオの手が、エリザの指先を探す。
「もう、迷わない」
エリザは彼の手を握った。
「迷わせない」
アルヴィオは息を吐く。
その息は短く、あまりにも静かだった。
エリザは彼の名を呼ばない。
呼べば返事がないことを、世界に認めさせてしまうからだった。
赤い月の下で、灯台守の老女が灯花を一つ水へ流した。
続いて、町の人々が一つずつ灯を流す。
灯花は静かに離れていく。赤に染まったもの、白のまま震えるもの、半分だけ水をかぶったもの。それぞれの灯が、黒い水の上で小さな道を作った。
楽団は一つずつ音を減らしていく。
太鼓が消える。低弦が消える。残ったのは、細い笛と、遠くで震える一挺の弦だけだった。
ルシオは倒れたまま、それを見ていた。勝った男でも、奪った男でもなく、ただ遅すぎた現実のように。
エリザはアルヴィオを抱いたまま歌い始める。
「潮の彼方へ行くのなら」
声は小さい。
だが水面がそれを受け取った。
一挺の弦が、彼女の声の下で細く続く。支えるというより、沈まないように指先だけを添えている音だった。
「私の歌を持っていって」
町の人々が頭を垂れる。
「灯は消さない」
赤い月が少しずつ薄くなる。
「あなたは帰らぬ人ではない」
エリザはアルヴィオの額へ唇を寄せる。
「帰ってきた人として」
灯台の光が、最後に一度だけ港を横切る。
「夜に名を残す」
歌はそこで終わらない。
音は細くなり、水面へ落ち、灯花の間を渡っていく。エリザは泣かない。泣くかわりに歌う。悲しみを崩さない。崩せば、腕の中の男がただの死者になってしまう。
消えかけた笛が最後に戻る。
それは帰ってきた船の音ではない。帰る道を覚えている風の音だった。
だから彼女は歌い切る。
彼が帰ったことを。
彼が遅れたことを。
彼が死んだことを。
それでも灯は消えなかったことを。
最後の灯花が水面を離れ、沖へ流れていく。
舞台の月は白へ戻らない。
ただ赤を失い、夜の色に溶けていく。
エリザはアルヴィオを抱いたまま、静かに顔を上げた。
語り部の男が航海灯を拾う。
「これは、潮が七度めぐっても灯を消さなかった娘の話」
彼は灯を吹き消した。
「そして八度目の潮に、恋人を帰した歌の話」
闇が下りる。
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闇が下りたあと、劇場はすぐには戻らなかった。
水面も、客席も、半水面下の楽団席も、息を止めていた。最後の弦の震えだけが、まだ細く残っている。誰も拍手をしない。咳払いもない。椅子の軋む音さえ、あの腕の中で倒れた男を起こしてしまうかのように遠慮していた。
一拍。
それから、音が割れた。
拍手だった。
歓声だった。
堰を切ったように、劇場の全方角から手を打つ音が立ち上がった。水面に落ち、跳ね返り、青硝子の天井へぶつかる。貴婦人が手袋で目元を押さえていた。若い男が立ち上がったまま何も言えず、ただ両手を叩いている。年配の客が胸元の飾り布を握りしめ、隣の者に何か言おうとして、声にならないまま首を振った。
悲恋の幕切れに飲み込まれた劇場が、拍手でようやく息を吹き返していた。
ヒュウマも、すぐには言葉が出なかった。
エリザの最後の歌が、まだ耳の奥に残っている。サラという名前から想像していた明るい女優は、どこにもいなかった。水上の舞台に立っていたのは、場を黙らせる女だった。歌うことで泣くことを拒み、泣かないことで悲しみを深くする女だった。
「……すごかったですね」
やっと出た声は、それだけだった。
「よくできている」
蒼凪は短く言った。
劇の出来を褒めたのか、劇場を褒めたのか、マーレが人の感情を動かす手際を褒めたのか、ヒュウマには分からなかった。けれど蒼凪の視線は舞台だけではなく、客席の立ち上がる波、拍手の返り、照明の落ち方まで見ていた。
イーリスは膝の上で指を組み、まだ楽団席の方へ耳を傾けている。
「最後、伴奏が声を支えず、沈ませませんでした」
「支えず、沈ませない?」
「はい。声を浮かせるのではなく、水面に触れさせるような音でございました。あれは、なかなか残酷でございますね」
水の下で、弦の箱が一つ閉じられた。留め金の音が、拍手の底で小さく沈んだ。
ラウリは舞台を見ていた。
拍手の中で、カーテンコールが始まる。語り部の男が灯を掲げて礼をした。灯台守の老女、町人、水夫たちが続く。ルシオ役の男が立つと、拍手は一段大きくなった。勝者でも悪役でもない男の礼に、客席はきちんと応えた。
そしてサラが現れた。
白い衣装の裾はまだ水の光を帯びている。泣き崩れた女の形を残しながら、背筋は女優のものへ戻っていた。深く礼をする。金髪が月光を拾い、白い頬に影を落とした。その一礼で、客席のざわめきがまた沈んだ。
続いてアドニスが現れる。
死んだはずの男が、完璧に立っていた。
その違和感が、美しかった。アルヴィオの死は消えていない。だが、アドニスは役者としてそこに戻ってきた。サラと並び、二人で礼をする。悲恋はそこでやっと、舞台の上のものとして客席へ返された。
ラウリが、低く言った。
「あの男は、帰るところまでで力を使い切っていた」
ヒュウマは横を見る。
「倒れる場所を選んでいたな」
「ラウリさん、分かったんですか」
「全部は分からん」
ラウリは正直に答えた。
「でも、死んだことより、戻ったことの方を見せる劇だったんじゃないか」
イーリスが微笑む。
「ええ。とてもよい受け取り方でございます」
「そうか」
ラウリは少しだけ安心したようにうなずいた。大きな手が、膝の上で一度だけ開いて閉じた。
拍手は長く続いた。
蒼凪が席を立つ頃、招待席の横へエレオノーラが姿を見せた。礼服の襟元に小さな汗が浮いている。けれど背筋は崩れていない。客席の余韻と舞台裏の用件を、同じ一礼でつないでいた。
「皆さま、終演後のご挨拶へご案内いたします」
蒼凪はうなずいた。
ヒュウマはもう一度だけ舞台を見た。白い月は消え、足場の下で水だけが揺れている。
──────────────────────────────
舞台裏へ回ると、悲恋は急に人の手触りを取り戻した。
濡れた木の匂いがする。縄が吊られ、滑車が軋み、灯花を回収する係が籠を抱えて走っている。水夫役だった男が衣装の裾をまくり上げ、靴の中の水を捨てていた。化粧台の前では、泣き腫らした老女役の役者が鏡を見ながら笑っている。
半水面下の楽団席から、楽師たちが上がってきた。肩に濡れた布を掛け、弦を抱え、笛を箱へ戻していく。舞台の表では夜と潮と死が流れていたのに、裏側では人が汗を拭き、道具を運び、次の挨拶の順番を確認している。
別の通路から、勇者一行も案内されてきた。
最初に気づいたのはヒュウマだった。
「レオンさん」
思わず声が出る。
レオンもこちらを見て、少し驚いた顔をした。それからすぐに、舞台裏の熱に合わせるように表情を整える。
「ヒュウマさん。賢者殿も。あなた方も招かれていたのか」
「主演女優からの礼だ」
蒼凪が短く答える。
「そちらは」
「アドニス殿から招待を受けた。せっかくの機会だと思ってな」
レオンはそう言って、蒼凪へ軽く会釈した。蒼凪も浅く返す。契約を結んだばかりの両陣営が、悲恋の舞台裏で顔を合わせる。その妙な偶然に、ヒュウマは一瞬だけ言葉を探した。
「奇遇でございますね」
イーリスが柔らかく言う。
「同じ劇を見た後でございましたら、少しは話もしやすいかと」
「はい。そうであれば、ありがたいです」
カイが静かに応じる。
ラウリは勇者一行を順に見た。
「皆で見たのか」
「見たぜ」
ヴェスタが肩をすくめる。
「で、全員まとめて心臓を舞台に置いてきたところだ」
レオンはまだ舞台の方を見返していた。カイは演目表を丁寧に畳んでいる。ヴァローは天井と水路の反射を順番に見比べ、ガイウスは舞台の足場を妙に真剣な顔で眺めていた。ヴェスタだけがいつもの調子を取り戻そうとしているが、目元は少し赤い。
「あれが劇か」
ガイウスがつぶやいた。
「初めて見たが、足場が悪い。あそこで斬り合うのは容易じゃねえ」
「そこを見るのかよ、兄貴」
ヴェスタが笑った。
「だが、分かるぜ。俺も観劇ってのはもっと座ってるだけのもんだと思ってた。なんだあれ、心臓を舞台に置いてこいっていう催しか」
「アウレリアにも劇場はあります」
カイが静かに言った。
「ですが、あれほど静かに人を黙らせる舞台は、私は知りません。水も音も、祈りの前の沈黙に似ていました」
レオンはうなずく。
「招待を受けてよかった。正直、想像以上だった」
ヴァローは返事をせず、舞台の上方を見ている。
「あの月は、天井の投影だけではないな」
「まだそこか」
ヴェスタが肩をすくめる。
「水面を経由して色を変えていた。光源が一つではない。演出としては見事だ。原理が気になる」
「感動してから分解するなよ」
「分解しても、感動は残る」
ヴァローは淡々と言った。
そこへ、サラが現れた。
白い衣装の肩布だけを残し、髪飾りを片手で外しながら、彼女は通路の向こうからまっすぐこちらへ歩いてきた。舞台上のエリザはまだ輪郭に残っている。だが目の奥はもう明るい。泣かない女から、笑う女へ戻る途中の顔だった。
「ラウリん!」
勇者側の空気が一瞬止まった。
ラウリは普通に振り向く。
「サラ」
「来てたんだ。ちゃんと見た?」
「見た」
「泣いた?」
「泣いてはいない」
「惜しい。次は泣かせよ」
レオンが目を瞬かせた。
「知り合いなのか」
「昨日、飯を食った」
ラウリは端的に答えた。
ヴェスタが口元を押さえる。
「飯を食っただけで、主演女優からその距離感になるのかよ」
「飯は大事だ」
ガイウスが妙に納得しかけた。
カイが小さく咳払いをする。
ラウリはサラを見た。
「さっきまで泣いていた女が、もう笑うのか」
「泣いてたのはエリザ。あたしはお腹空いてる」
「別なのか」
「別。だけど、嘘じゃない」
サラは髪飾りを近くの係に渡し、軽く肩を回した。耳飾りの金が、灯の下で小さく鳴った。
「舞台の上では、本当じゃないものを本当にするの。終わったら戻る。戻れないと、次の幕が上がんないからね」
ラウリは少し考える。
「お前は、人の息を集めるんだな」
サラの笑みが、わずかに止まった。
「息?」
「皆、同じところで止まっていた」
ラウリは客席の方を指さした。
「歌が終わるまで、誰も息をしていないように見えた」
サラは目を細める。
「……ラウリん、それ、けっこういい感想」
「そうか」
「うん。食べ歩きの次にいい」
「昨日の方が楽そうだった」
「そりゃそう。昨日は食べるだけだったし」
「今日も終わったなら食える」
「その発想、好き」
サラが笑ったところで、通路の奥から拍手とは別の足音が近づいてきた。
アドニス・アレクシオスだった。
舞台衣装から接遇の礼服へ半分戻っている。血に見せた紅は落とされ、白と薄金の布が肩にかかっていた。だが歩幅も、指先も、顔の角度も、まだ舞台の上にあるように整っている。アルヴィオではない。けれど、ただの役者でもない。
「勇者様」
彼はレオンへ礼をした。
「本日はお越しいただき、誠にありがとうございます。勇者一行をお迎えできたことは、マーレの誉れです」
「こちらこそ、招待に感謝する」
レオンは少し背筋を伸ばした。
「素晴らしい舞台だった。俺は詳しくないが、そう思った」
「詳しくない方に届くのなら、舞台としては幸福です」
アドニスは微笑んだ。
次に蒼凪へ向き直る。
「賢者様。初めてお目にかかります。アドニス・アレクシオス。マーレ・パラデイソスにて、祝祭と接遇を預かっております」
「白真珠の塔の賢者、蒼凪だ」
蒼凪の返事は短い。
アドニスはそれを受けて、過不足のない角度で礼をした。深すぎず、浅すぎない。相手を持ち上げながら、自分の立ち位置も崩さない礼だった。
「お噂はかねがね。今夜の舞台が、少しでも旅の慰めとなったなら幸いです」
「慰めというには、少し刺さる舞台だった」
「ありがとうございます。刺さらない悲恋は、やや味が薄い」
サラが横から口を挟む。
「アドくん、それあたしの台詞っぽくない?」
「サラの台詞でしたか。では、照明を半分お返しします」
「半分じゃ足りない」
「昨日のリハーサルでは、エリザが帰らぬまま第一場が終わりました」
サラは目を逸らした。
「本番では帰ってきたでしょ?」
「アルヴィオは帰りました。エリザも、稽古にはお戻りください」
エレオノーラが何も言わずに深く息を吐いた。革板に挟んだ予定表の角が、指の下でわずかに曲がっている。
ラウリが一歩前へ出る。
「俺のせいか」
「違う」
サラは即答した。
「あたしが楽しかったせい。ラウリんは巻き込まれただけ」
「巻き込んだ本人が言うことではありません」
エレオノーラの声は静かだった。
「お世話でした」
「ほら、ノーラまで」
アドニスは蒼凪たちへ改めて向き直る。
「昨日はサラがお世話になりました。街での件、食事の件、そして最後のレストランの件まで、こちらで確認しております」
「飯を食っただけだ」
ラウリが言う。
「それが、サラにはよい一日だったようです」
アドニスの声は柔らかい。
「なら、マーレとして礼を申し上げます」
そのとき、近くの転換卓で、小道具係が赤い砂時計を持ち上げた。
掌に収まるほどではない。舞台用の装飾品にしては、古い金属枠が重そうに見える。札に小さく《朱月沙漏》と記されていた。係が置き直すと、下にあるはずの赤い砂が、細く上へ流れ始める。
ヴァローの視線が、そこで止まった。
蒼凪も一瞬だけそれを見た。
「それは奥へ」
エレオノーラが言った。
「はい」
小道具係はすぐに砂時計を布で包み、棚の奥へ運んでいく。舞台裏の忙しさは、その一瞬を押し流した。衣装係がサラを呼び、別の係がアドニスへ次の挨拶順を告げる。
サラは口を尖らせた。
「もう次? あたし、まだラウリんに今日のご飯の相談してない」
「本日はご挨拶が先です」
エレオノーラが言う。
「ご飯は逃げないでしょ」
「逃げる料理もある」
ラウリが真面目に言った。
サラが吹き出した。
「それ、今度詳しく聞く」
アドニスは笑みを崩さず、出口の方へ手を示した。
「皆さま、本日はお疲れでしょう。お帰りの馬車までご案内いたします」
レオンと蒼凪が短く視線を交わした。
「近いうちに、また話をしよう」
レオンが言った。
「そうだな」
蒼凪はうなずく。
契約を結んだばかりの距離は、まだ近いとは言いがたい。それでも、同じ舞台を見たあとでは、少しだけ言葉が渡りやすくなっていた。
劇場の外へ出ると、夜風が潮の匂いを運んできた。
灯花は回収されていた。係が長い棒で水面を寄せ、籠の中へ一つずつしまっていく。水上劇場の明かりは落ち、青硝子の天井には普通の月が映っていた。
その時、近くの子供が空を指さした。
「いま、月が赤かった」
隣の大人が笑う。
「劇の演出が残って見えただけだよ」
子供は納得していない顔をしたが、すぐに手を引かれて歩き出す。
ヒュウマは空を見た。
月は白い。
劇の赤が、まだ目の奥に残っているだけかもしれない。
けれど潮風が一度だけ、冷たく首筋を撫でた。




