請求書と観劇券
薔薇の屋敷の昼前は、前夜の宴会など最初からなかったように整っていた。
廊下には磨かれた床の匂いがあり、窓辺の薔薇は花弁の縁まで静かだった。夜の残り香も、誰かが笑いすぎた気配も、倒れた椅子の記憶もない。壁際の燭台は芯まで切りそろえられ、飾り棚の銀器は窓の光を薄く返していた。
朝食を終えたばかりの談話室で、ヒュウマは茶器の音を聞いていた。蒼凪は長椅子の端で本を閉じ、イーリスは小さな弦楽器の布を直し、ラウリは皿に残った焼き菓子を見ている。
焼き菓子を見る顔が、真剣だった。
皿の上には、砂糖を薄くまとった小さな菓子が二つ。丸いものと、細長いもの。ラウリの視線はその間を行き来している。獣が水場を見極める時のような慎重さがあり、しかし相手は菓子だった。
ヒュウマは声をかけるか迷った。迷っているうちに、扉の向こうで足音が止まった。
屋敷の足音には種類がある。使用人の足音は床を鳴らさない。客の足音は少し迷う。いま止まった足音は、そのどちらでもなかった。まっすぐ来て、扉の前で礼儀正しく止まり、必要な秒数だけ待つ音だった。
アルフレッドが入ってきた。
「失礼いたします。マーレ・パラデイソスより、お客様でございます」
その後ろから入ってきた女は、舞台の人間ではなかった。
背筋はまっすぐで、服は薄灰と白。胸元に小さな徽章。髪はきちんとまとめられている。華やかではない。けれど、華やかなものの隣に立ち続けるための、折れない整い方をしていた。
目の下には、眠りの薄さが少しだけ残っている。化粧で隠せる範囲を越えてはいないが、隠しきる気もないらしい。仕事の疲れを仕事で整えてきた人の顔だった。
手には革板と封筒がある。
その時点で、ヒュウマは嫌な予感がした。
封筒は白い。革板は濃い焦げ茶で、角が使い込まれている。紙を固定する金具には細かな擦り傷があり、何度も開かれ、閉じられ、誰かの予定と誰かの失踪を挟んできた気配があった。
女は一礼した。
「突然の訪問、失礼いたします。マーレ・パラデイソス、テクネ局ヒポクリテスのエレオノーラ・ヴィダルと申します」
「アルフレッド・ダルマスでございます。遠路、お運びいただき痛み入ります」
「こちらこそ、ご対応ありがとうございます。こうした件に慣れておられるご様子で、少し救われました」
少し。
そこに、とても深い疲労が滲んでいた。
アルフレッドは瞼をわずかに伏せた。
「お館の屋敷でございますので」
「ええ。すばらしいお屋敷でございます」
エレオノーラはそこで一拍置いた。礼儀を保つための一拍ではない。言葉を選ぶための、ほんの短い休憩だった。
「昨日は、サラ様が大変お世話になりました。こちらも、大変探しました」
ラウリが顔を上げた。
「サラは無事に帰ったか」
「はい。衣装合わせには遅れましたが、舞台には間に合いました。そこは、サラ様ですので」
「ならよかった」
ラウリは心から安心したように頷いた。
ヒュウマは、その頷きでだいたい分かった。
昨日、何かあった。
しかも、ラウリはたぶんそれを「何か」として扱っていない。
エレオノーラは革板の上から一枚の封筒を出した。封蝋には波と仮面を合わせたような徽章が押されている。蝋は淡い青で、指で割ればひんやりした粉になりそうだった。紙は白く、縁だけが薄い青に染められていた。高価だが、見せびらかす紙ではない。手にした者にだけ質が分かる種類の紙だった。
「こちらはサラ様からです。文面は軽いですが、礼としては本気です」
次に出てきた紙は、封筒よりずっと現実の顔をしていた。
紙の色も違った。白ではなく、少し黄みを帯びた事務紙。上端には店の名と照会番号があり、下には細かな品目が整然と並んでいる。数字の列は、誰の情緒にも寄り添わない顔をしていた。
「そしてこちらは、昨夜の会計に関する照会控えでございます」
ヒュウマは、茶器を置く手を止めた。
蒼凪が本を卓へ置く。
イーリスは弦楽器の布を結び終え、何も言わずに微笑んだ。
ラウリだけが、まっすぐ紙を見ていた。
「請求か」
「ご安心ください。請求に参ったわけではございません。……半分ほどは」
沈黙が落ちた。
庭のどこかで鋏の音がした。薔薇の枝を切る、乾いた小さな音だった。
エレオノーラは咳払いをしなかった。そこまで余裕がないのかもしれない。
「昨夜、シレリオ様とサラ様が最後にお立ち寄りになった店は、マーレと提携のある料理店でございました。薔薇の木札が提示されたため、店側より薔薇の屋敷へ照会が入りまして」
「ああ」
アルフレッドは静かに頷いた。
「確認は取れております」
「ありがとうございます。サラ様がシレリオ様を連れ回した分は、筋としてこちらで持ちます。全額をお願いに上がったわけではございません」
「ご配慮、恐れ入ります」
「ただ」
エレオノーラは照会控えを見た。
「半額にしても、なかなかの顔をしております」
ヒュウマは笑わなかった。
笑うと、ラウリに悪い気がした。
だが、イーリスの肩が一度だけ揺れた。
アルフレッドが照会控えを受け取る。白手袋の指が紙を挟む。その所作は、古い契約書でも朝の献立でも同じように扱うだろうと思えるほど整っていた。
紙が卓の上へ置かれる。数字の列が、陽光の中でいっそう冷静になった。
「前菜。潮真珠貝の薄造り。白香草油」
ラウリが頷いた。
「よい貝だった」
「焼き魚。薔薇塩と南方香辛料」
「皮がよかった」
「肉料理」
「サラが勧めた」
「発泡酒」
「俺は少しだ」
「デザート」
「二人で食べた」
「追加菓子」
「残すのはよくない」
「夜景席料」
ラウリは少し考えた。
「夕陽はよかった」
ヒュウマはとうとう口元を押さえた。
蒼凪が短く言う。
「それは軽食ではない」
「茶は飲んだ」
ラウリは真剣だった。
「歩いた」
「分類が違う」
「皿は軽かった」
「皿の重さではない」
「腹は重くなった」
「だろうな」
蒼凪の声はいつも通り平らだった。だから余計に、談話室の空気が少しだけ歪む。
イーリスが口元に指を当てた。
「軽食という語の歴史に、新しい節が加わりましたね」
「加えなくていい」
蒼凪が即座に切った。
ラウリはそこで、照会控えを見た。
「半分なら軽いのか」
エレオノーラは静かに目を伏せた。
「金額に関しては、まだ十分に重うございます」
「そうか」
ラウリは納得した。
納得してしまった。
ヒュウマは息を吐いた。笑いではなく、救助を諦めた時の息に近かった。
「ラウリさん、軽食や茶って、たぶんそういう意味じゃないです」
「そうか」
「はい」
「次は聞く」
「それがいいと思います」
アルフレッドは照会控えを丁寧に畳んだ。
角と角を合わせ、折り目を指の腹で押さえる。まるで会計そのものに姿勢を正させるような扱いだった。
「これぐらいのことで傾く薔薇の屋敷ではございません」
その声には怒りがなかった。
ただ、屋敷の梁や床板や地下に眠る古いものまで、まとめて背後に立っているような重さがあった。
「ただし、ラウリ様」
「何だ」
「今後、薔薇の木札で通してよい軽食の範囲については、再定義いたしましょう」
「分かった」
「茶菓子は軽食に含みます」
ラウリの目が少し明るくなった。
「ただし、夕食の代替には含みません」
明るさが止まった。
「分かった」
エレオノーラはそのやり取りを見ていた。
責める顔ではない。むしろ、少し救われたような顔だった。疲れた人間が、別の現場にも別の現場なりの困難があると知って、椅子に背を預けたくなる時の顔だった。
「シレリオ様を責める意図はございません。サラ様に最後まで付き合ってくださった方を責めるほど、私も恩知らずではございませんので」
「俺も楽しかった」
「そのお言葉で、昨日倒れた予定のいくつかは報われます」
「予定は倒れるものなのか」
「サラ様の周辺では、よく」
エレオノーラの声には丁寧さがあった。
その奥に、倒れた予定を何度も起こしてきた人間の疲労があった。
アルフレッドが茶を勧める。エレオノーラは礼を言って受け取ったが、口をつける前にもう一つの封筒を開いた。
封筒の内側から、かすかに香油の匂いがした。甘すぎない花の匂い。劇場の控え室か、サラ本人の袖口か、どちらにしても事務紙とは違う場所から来た匂いだった。
「本日の水上劇場、良い席をご用意しております。サラ様からの、正式なお礼です」
「水上劇場」
ヒュウマが繰り返す。
名は聞いたことがある。サルマンディアで暮らす人間なら、知らない方が難しいのだろう。けれど実際に入ったことはない。ヒュウマにとって劇場は、遠くから灯りを見る場所だった。
夜の運河に映る光。馬車の窓から一瞬だけ見える高い硝子。帰り道の客が持つ薄い冊子。そういう断片でしか知らない場所だった。
「歌劇『潮の彼方の恋人』。本日の夜公演でございます」
エレオノーラは演目名を置くように言った。
アルフレッドが、ほんのわずかに目を細めた。
「お館様の好きな幕でいらっしゃいますね」
ヒュウマは思わずそちらを見る。
「エヴァ様が、ですか」
「ええ。マーレそのものについては、たいへん手厳しゅうございます」
アルフレッドは穏やかに茶器を置いた。
「ですが、愛を語る劇だけは別でございます。とりわけ、待つ者と帰る者の幕は」
蒼凪が短く鼻で笑った。
「薔薇の魔女らしい」
「ご本人には、内密にお願いいたします」
「言わない」
エレオノーラはそのやり取りを聞かなかったことにするように、演目表を整えた。
「サラ様は貴族の娘エリザ役を務めます。席は四名分。蒼凪様、ヒュウマ様、イーリス様、シレリオ様」
「俺もか」
ラウリが言った。
「サラ様からは、シレリオ様に必ずお渡しするよう申し付かっております」
エレオノーラは小さな紙片を出した。
それは礼状だった。
正式な封筒に入っているのに、文面だけは窓から抜け出してきた本人のようだった。
ラウリんへ。
昨日はありがと。
今度はあたしが食べさせる番、ではなく見せる番。
ひとりで来ると緊張するかもしれないから、屋敷の人たちも連れてきて。
いい席にしておいた。
逃げないで来ること。
ラウリは読み終えるまで、時間をかけた。
一字ずつ、紙の上で足跡を確かめるような読み方だった。途中で眉を寄せたのは、たぶん「ラウリん」のあたりだ。だが文句は言わなかった。
「サラは舞台の人だったか」
「はい」
エレオノーラが答える。
「大変、舞台の人でございます」
「大変」
「大変です」
その一語に、説明しきれない量の仕事が乗っていた。
イーリスが礼状を覗き込む。
「逃げないで来ること、とはよい一行でございますね。逃げた方の筆とは思えない」
「そこは、私も今朝申し上げました」
「お返事は」
「笑っておられました」
「よい主旋律です」
「時々、伴奏者が倒れます」
エレオノーラは言ってから、ほんの少しだけ目を伏せた。
言いすぎたと思ったのかもしれない。
だがアルフレッドは何も言わず、茶を注ぎ足した。
実務者同士の沈黙だった。
茶の水面が、白磁の中で小さく揺れる。エレオノーラはそれを一度見てから、ようやく口をつけた。熱い茶を飲んだ時の、ほんの少し肩が落ちる動きがあった。
蒼凪が礼状を見る。
「席の用意が早いな」
「昨夜のうちに手配されております。サラ様は予定を崩されますが、崩した先で新しい予定を置いていかれます」
「面倒だな」
「ええ」
エレオノーラは微笑んだ。
「否定はいたしません」
ヒュウマはその微笑みを見て、少しだけ親近感を覚えた。
あれは、誰かの背中を追いかけている人の顔だ。
追いかけて、回収して、謝って、それでも次に送り出す人の顔だ。
「では、ありがたく伺います」
ヒュウマが言うと、エレオノーラは深く礼をした。
「ありがとうございます。サラ様も喜ばれます」
ラウリはもう一度礼状を見た。
「ラウリん」
小さく呟く。
ヒュウマは聞こえなかったふりをした。
蒼凪は聞こえていた顔をしていた。
イーリスは聞こえたものを歌にしない顔で微笑んでいた。
アルフレッドは照会控えと礼状を別々に整え、卓の端へ置いた。
会計の紙は会計の紙として。礼状は礼状として。紙にも座る場所があるのだとでも言うような分け方だった。
「それでは、馬車の手配を」
「もうしてあるんだな」
蒼凪が言う。
アルフレッドは静かに目を伏せた。
「招待を受ける可能性はございましたので」
「偶然のほうは読んでないだろ」
「左様でございます」
その答えがあまりにあっさりしていたので、ヒュウマはまた笑いそうになった。
薔薇の屋敷は、今日も傾かない。
ただ、軽食という言葉だけが少し傾いた。
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夕方のサルマンディアは、朝とは違う顔をしていた。
水路の上に灯花が浮かび、橋の欄干には白い花飾りが結ばれている。昼間は観光客を運んでいた小舟が、夜の客を劇場へ運ぶために飾り紐をまとっていた。船頭たちは声を張りすぎない。劇場へ向かう客の気分を壊さない音量を知っている。
潮風は昼よりも柔らかかった。海から運河へ入り込んだ風が、石の岸壁に触れて冷え、花飾りの香りを薄く運んでくる。水面には空の青がまだ残り、その上を灯花の赤や金がゆっくり流れていた。
ヒュウマたちは屋敷の馬車で途中まで進み、運河沿いで降りた。
馬車の扉が閉まると、蹄の音が後ろへ遠ざかる。代わりに聞こえてきたのは、水を押す櫂の音と、石畳を踏む靴音だった。客たちは皆、少しだけ歩く速度を落としている。劇場へ急いでいるのに、急いでいる姿を見せたくない夜の歩き方だった。
そこから先は、歩く方がよいと案内係が言った。
「劇場までの道も、演目の一部でございます」
若い案内係はそう言って、青硝子の小さな札を差し出した。
札は指先ほどの大きさで、薄い金具に通されている。青硝子の内側には波の模様が閉じ込められていて、灯花の明かりを受けると一瞬だけ水底のように光った。
招待状の封蝋を見せると、列に並ぶ必要はなかった。けれど列そのものは見えた。陸側の正面玄関へ進む一般客の列。水門側へ滑り込む貴賓客の小舟。二つの流れは交わらないのに、同じ劇場へ吸い込まれていく。
一般客の列には、旅装のまま羽織だけ替えた観光客がいた。よそ行きの帽子を押さえる子供。紙袋を胸に抱えた娘。手袋の端を気にする若者。商家の夫婦は互いの襟元を直し、船乗りらしい男は妻の花飾りに慣れない顔をしていた。
水門側には、さらに静かな流れがあった。小舟の舳先には細い灯りが吊られ、案内係が客の手を取る。衣擦れの音も、櫂の音も、正面玄関のざわめきより半歩低い。
蒼凪はそれを見ていた。
「迷わせない作りだな」
「はい」
ヒュウマは頷く。
「見てるだけで、どこへ行けばいいか分かります」
「分かるように作ってある」
蒼凪は短く言った。
それは褒め言葉にも、警戒にも聞こえた。
劇場は運河沿いに立っていた。
白石の壁。青硝子の高い窓。屋根の曲線は貝殻の内側に似ている。正面玄関には花と灯りがあり、側面の水門には小舟の影が出入りしていた。建物なのに、どこか大きな船にも見える。
壁の白石はただ白いだけではない。夕暮れの色を吸って、場所によって淡い桃色にも、冷たい灰にも見えた。窓の青硝子には運河の光が映り、流れる水面が建物の内側へ続いているようだった。
扉をくぐると、匂いが変わった。
外の潮風が、花と香油と温められた石の匂いになる。
ヒュウマは思わず足を緩めた。
海の近くにいるのに、港ではない。水の匂いはある。けれど魚箱や濡れ縄や油の匂いではない。磨かれた海だった。
「これはまた、ずいぶんと洗われておりますね」
イーリスが言った。
「海も、人の目に洗われるとこうなるのでございましょう」
「洗いすぎると、魚が逃げる」
ラウリが低く言った。
イーリスは楽しそうに目を細める。
「よい警句です。舞台評には少々、魚臭いですが」
「魚は悪くない」
「もちろんでございます」
ロビーには売店が並んでいた。
真珠糖の菓子。潮花の香水。小さな演目表。役者の肖像刷り。灯花を模した飴。子供向けの紙の小舟は、糸を引くと帆が立つ仕組みになっている。大人向けには発泡酒と貝皿のつまみがあり、薄い硝子杯の中で泡が上がっていた。
真珠糖の菓子は、白い小粒を貝殻形に固めたものだった。灯りを受けると本物の真珠のように見えるが、近づくと砂糖の甘い匂いがする。潮花の香水は小瓶に入れられ、栓に青いリボンが結ばれていた。演目表は表紙の色違いがあり、安いものは薄紙、高いものは厚紙で金の縁取りがある。
役者の肖像刷りの前には、人だかりができていた。サラの名を口にする若い女たちがいて、彼女たちは一枚の肖像を見て笑い、すぐに真面目な顔で財布を開いた。少し離れたところでは、アドニスの刷り物を手にした客が、友人に何かを熱く説明している。老人が一人、鼻眼鏡の奥から二つの絵を見比べ、まるで役者ではなく時代そのものを採点しているような顔をしていた。
ラウリの足が止まった。
誰も驚かなかった。
「軽い菓子だ」
「観劇前だ」
蒼凪が言った。
「軽い」
「量を決めてからだ」
「数える」
「数えてから買え」
ラウリは頷いた。
ヒュウマは少し安心した。今日のラウリは、少なくとも数える気がある。
ラウリは真珠糖の菓子を三つ、灯花の飴を二つ、紙包みの焼き菓子を一つ見た。数えている。だが数えているだけで、まだ買ってはいない。ヒュウマはその進歩を見守った。
売り子の声がロビーに通る。
高すぎず、低すぎず、石壁に当たって戻る音まで計算されている。イーリスが天井を見上げた。
「ここは歌い手に優しい」
「分かるんですか」
「分かります。声を投げる前に、壁が受ける姿勢を取っておりますので」
「壁にも姿勢があるんですね」
「よい劇場にはございます」
ヒュウマはもう一度、天井を見上げた。
青硝子の向こうに夕暮れの色が残っている。灯火がそこへ重なり、天井の内側に薄い水面があるように見えた。人の声が石と硝子に触れて、角を削られて戻ってくる。ざわめきなのに耳に刺さらない。
観客も多かった。
観光客。地元の商家。船乗り上がりらしい夫婦。着飾った若者。劇評家らしき老人。貴族のような客もいれば、市場帰りの声をまだ少し残した男たちもいる。
サラ目当ての客は、表情に少し浮き立った明るさがあった。今日のエリザは最後の歌をどう置くのか、前の公演では月光の一節が、と小声で言い合っている。アドニス目当ての客は、もう少し姿勢が違った。見に来たというより、確かめに来た顔をしている者が多い。
ひとつの場所に集められているのに、無理に混ぜられてはいない。
それぞれが、自分の席へ向かう流れを与えられている。
ヒュウマは、その整い方に少しだけ背中がむずがゆくなった。
港の裏通りで見た荷車の詰まり。水路の端に残る古い苔。博物館の資料室で見た、線の消えた古い図。そういうものとは、まるで違う。
ここでは、見せたいものだけが見える。
それは心地よい。
心地よすぎる。
蒼凪は何も言わなかった。
ただ、案内係の立つ位置、警備の視線、客が迷いそうになる前に出る手の速さを順に見ていた。
その目は、疑っているというより数えている。
ヒュウマは蒼凪の横顔を見てから、視線を戻した。
今日は楽しめばいい。
そう思うには、十分に美しい場所だった。
案内係が青硝子の札を確認し、奥の扉へ導いた。
「こちらでございます」
扉の前で、別の係が一礼した。手袋の白さ、袖口の折り目、扉を押す角度まで揃っている。招待状は一瞬だけ確認され、封蝋の徽章が灯りを受けた。青硝子の札は小さく鳴って、ヒュウマの胸元で冷たい重みを持った。
扉の向こうで、空間が開いた。
客席は馬蹄形に舞台を囲んでいた。白い石壁が弧を描き、青硝子の天井が水面の光を拾っている。中央には黒い鏡のような水面。舞台奥の水門はまだ閉じているが、その向こうに小舟の影が見えた。
ヒュウマは足を止めた。
ロビーの華やかさとは違う。ここは静かだった。人が多いのに、静けさが先にある。桟橋を踏む靴音が、ひとつずつ水面へ落ちる。座席へ向かう客の衣擦れが、遠い潮のように重なっていた。
半水面下の楽団席から、調律の低い音が震えていた。
弦の音なのに、水を通って身体の内側へ届く。
ヒュウマは無意識に息を浅くした。
「港を箱に入れたみたいですね」
「箱に入れたというより、港から都合のいい部分だけを編んでおります」
イーリスが言う。
「ですが、悪くありません。客席が最初の一節を待っております」
ラウリは水面を見ていた。
「灯がつく」
「まだつきません」
ヒュウマが言った。
「灯台が暗いです」
「なら、つく前だ」
「それはそうです」
蒼凪が横から短く言う。
「席に行くぞ」
招待席は、舞台に近すぎなかった。
近すぎれば役者の足元ばかり見える。遠すぎれば水面の細工が消える。そこは、眺めも音も距離もよい場所だった。最上位の貴賓席ではない。けれど、サラからの礼として十分すぎる席だった。
席へ向かう通路は細い桟橋になっていた。足を置くたび、木がかすかに鳴る。下の水面は黒く、天井の灯りだけを受け取っていた。覗き込むと、どこまでが水でどこからが舞台の仕掛けなのか分からなくなる。
席には演目表が置かれていた。
紙は厚く、表紙には月下の灯台と灯花の絵が刷られている。
『潮の彼方の恋人』
歌劇。
ヒュウマは文字を追った。
貴族の娘エリザ。求婚者ルシオ。灯台守の老女。
その横に、サラ・マリー・アンリエットの名があった。
さらに下。
帰らぬ恋人アルヴィオ。
アドニス・アレクシオス。
ヒュウマはその名を見た。
聞いたことがあるような気がした。けれど、はっきりとした形ではない。街の噂か、劇場の看板か、誰かが口にした名か。
近くの席では、若い客が演目表の同じ場所を指で叩いていた。小声でも熱がある。別の席では、サラの名を見つけた客が、隣の者へ演目表を傾けて見せている。期待は声になる前から、紙の上で動いていた。
ラウリは演目表をじっと見ていた。
「昨日のサラが、この水の上に立つのか」
「そうみたいですね」
ヒュウマは答えた。
「昨日、何も言ってなかったんですか」
「聞かなかった」
「聞かなかったんですか」
「必要なら、いつか分かる」
ラウリは真面目に言った。
そして今、分かっている。
ヒュウマはそれを否定できなかった。
イーリスが演目表の役名を指でなぞる。
「貴族の娘。よい役どころでございますね。動かず、場を持ち、歌で時間を止める」
「アドニスという男は」
蒼凪が短く問う。
「帰らぬ恋人、とのことです」
イーリスはにこりとした。
「舞台の上では、帰ってこない男はだいたい厄介でございます」
「現実でもそうだ」
ヒュウマは少しだけ笑った。
蒼凪は演目表を閉じる。視線は舞台ではなく、客席の配置をもう一度なぞっていた。
「よくできてるな」
「劇場がですか」
「もてなしが」
蒼凪はそれ以上言わなかった。
ラウリは買った菓子の紙包みを膝の上に置いていた。まだ開けていない。開演前の静けさを食べ物より優先しているのか、蒼凪との約束を数えているのかは分からなかった。
イーリスは目を閉じ、調律の音を聞いている。弦のずれ、笛の息、低い太鼓の膜を指で鳴らす音。水がそれらを少し丸め、客席へ返していた。
ヒュウマは座席の肘掛けに手を置いた。木は滑らかで、海風を吸った冷たさがある。正面の水面には、閉じた水門の影が長く落ちている。ときおり見えない場所で小さな波が立ち、黒い鏡が灯りを細く歪ませた。
灯火が一つ落ちた。
客席のざわめきが、少し小さくなる。
さらに一つ。
売店の呼び声は遠ざかり、硝子杯の触れ合う音も消えた。誰かが咳払いをして、それすら劇場に吸われた。半水面下の楽団席で、弓が弦に触れる。
最初の音が鳴った。
低く、深く、水をくぐって届く音だった。
水霧が薄く立つ。
浮き桟橋の向こうで、潮待ちの灯台の光が回った。




