サルマンディアの休日
サラ・マリー・アンリエットは、逃げていた。
正確に言えば、逃げているつもりはなかった。本人の認識では、これはきわめて正当な休憩であり、過密な祝祭予定の合間に自分の胃袋へ最低限の尊厳を返すための外出だった。
ただし、付き人兼進行係の女はそれを逃亡と呼んだ。
午前の衣装合わせ。昼の広告写真。午後の婚礼船祝祭の打ち合わせ。夕刻から水上劇場のリハーサル。夜は総支配人への進行報告。予定表の上には細い文字が隙間なく並び、余白は息継ぎではなく、次の移動に必要な距離としてしか残されていなかった。
どれもサラの名前で埋められ、どれも彼女の顔と声と笑いが要る。
その予定表を見た瞬間、サラは思った。
これは無理。
悲劇でも喜劇でも祝祭でも、間が死んだ舞台は失敗する。演者にも間は要る。客席に息を吸わせない演出は、最後に客席ごと倒れる。
だから彼女は間を取った。
濃色硝子の遮光眼鏡をかけ、蜂蜜色の髪をつば広の帽子の下へ押し込み、薄い外套で肩の線を隠す。大ぶりの耳飾りは外した。足首の鈴も外した。香水も薄くした。
鏡の前で一度だけ回ると、外套の裾が遅れてついてきた。部屋の白い壁に、彼女ではない誰かの影が流れる。
完璧な変装だった。
サラ本人の基準では。
「完璧すぎて逆に目立つってこと、あるんだよね」
彼女は白い石畳の上を歩きながら、小さく呟いた。
自分で言っておいて、少し腹が立つ。
なぜなら本当に目立っていたからだ。
サルマンディアの観光通りは昼前から明るい。白壁の宿、青い日除け、薔薇蜜を煮る甘い匂い、珊瑚硝子の皿を並べた露店、潮真珠糖を砕く小さな音。道行く人の多くは婚礼客か観光客で、服も帽子も華やかだった。
水路から上がる風には、花と潮と焼いた小麦の匂いが混じっている。露店の布庇は風を受けるたびに低く鳴り、軒先の貝細工が互いに触れて乾いた音を立てた。
だがサラの変装は、華やかさを隠すために別の華やかさをまとっていた。
遮光眼鏡は大きすぎる。帽子はつばが広すぎる。外套は薄布の揺れ方が舞台衣装のそれで、歩くたびに裾がきれいに流れた。本人は姿勢を崩したつもりでいるが、肩の下ろし方まで絵になっている。
目立つ。
とても目立つ。
しかし、目立つことと正体が割れることは違う。サラはそう自分に言い聞かせた。帽子の内側は少し暑く、額にかすかな汗が浮いた。遮光眼鏡の縁が頬に触れるたび、外へ出ている実感だけは増えていく。
目的地は決まっている。
甘味通りの奥、白薔薇と潮真珠糖で知られる店。昼前の一刻だけ開く、菓子皿食べ放題。予約困難。二名以上。昨夜、衣装係の娘がうっかり口にした瞬間から、サラの頭の中では幕が上がっていた。
問題は二名以上という一点だった。
そこは現地調達でなんとかする。
舞台で足りないものは、舞台の上で拾う。
サラはそういう女だった。
「お姉さん、一人?」
背後から声がした。
足音は二つ。近づく速度がそろっている。片方は新しい靴底の固い音で、もう片方は踵を少し引きずっていた。
サラは足を止めない。
「違いまーす」
「じゃあ誰か待ってる?」
「待ってるね。あたしの自由時間が」
「面白いね」
「そういう演出でやってるから」
軽い男が二人、横へ並んだ。香油の匂いが強い。服は清潔で、靴も新しい。観光客ではなく、観光客相手に慣れた地元の若い男たちに見えた。
サラは内心で舌打ちした。
こういう時、舞台上なら簡単だ。
声量を一段上げる。手首を返す。客席の視線を味方につける。笑わせる。少しだけ恥をかかせる。相手は勝手に退場する。
だが今は駄目だ。
声を張れば、誰かが振り返る。誰かが「あれ」と思う。名前が出る。付き人が来る。休日が終わる。
つまり、舞台装置が使えない。
それは女優にとって、魚屋から包丁を取り上げるようなものだった。
「急いでるから」
サラは短く言った。
「どこ行くの」
「幕の向こう」
「案内するよ」
「客席から出てこないでくれる?」
男たちは意味を取り損ねて笑った。
その笑い方が、少しだけ近い。
サラは帽子のつばを指で押さえた。片手は外套の内側、祝祭ポーチの位置を確かめる。爆竹。香粉。紙吹雪。火種。砂糖菓子。使おうと思えば一瞬だ。だが使えば終わる。
自由時間が終わる。
それは困る。
非常に困る。
「嫌がっている」
低い声がした。
男たちの笑いが止まった。
サラも振り向いた。
通りの脇に、巨きな男が立っていた。
濃紺の麻のローブ。肩幅は広く、白い壁の前に立つとそこだけ島の岩が動いたように見える。袖口から褐色の前腕と祭祀の刺青が覗き、首元には灰黒の鮫の歯の化石が揺れていた。
顔は穏やかだった。
だから余計に、逃げ道がなかった。
男たちは一歩下がった。
「いや、別に」
「声をかけただけで」
「嫌がっている」
巨きな男は、同じことをもう一度言った。
声量は上がっていない。
言葉も増えていない。
ただ、通りの風が少し止まった。
サラは遮光眼鏡の奥で瞬きをした。
いい立ち位置。
派手な動きはない。脅しの台詞もない。だが男たちとサラの間に、身体一つで幕を下ろしている。客席の視線も集めすぎない。退場口だけを開けている。
上手い。
本人に演出の自覚があるかは怪しい。
「行こうぜ」
男の一人が小さく言った。
「そうだな」
二人は早足で去った。
振り返らなかった。
香油の匂いだけが、石畳の熱の上に少し残った。やがて薔薇蜜の甘さに紛れて消える。
サラは少しだけ帽子を上げた。
「助かった。ありがと」
「怪我はないか」
「ないない。あの程度なら袖の火花で転がせるし」
「火花」
「たとえ」
嘘ではない。
ただ、たとえだけでもない。
巨きな男はしばらく彼女を見ていた。疑う目ではない。言葉の意味をそのまま受け取り、火花という語をどこに置くか考えている目だった。
サラは少し笑った。
「あんた、名前は?」
「ラウリだ」
「ラウリ」
彼女は口の中で一度転がした。
丸い。低い。海風に沈む音がある。
「よし。ラウリん」
「ラウリん」
「今決まった」
「そうか」
受け入れが早い。
サラは遮光眼鏡の奥で目を細めた。
「あたしはサラ」
「サラ」
「家名は今日は休演中」
「休演」
「そ。名前だけで歩く日なの」
ラウリは小さく頷いた。
「良い日だな」
サラは一拍遅れて笑った。
普通はそこで詮索が来る。なぜ家名を隠すのか。どこの者か。何から逃げているのか。誰に追われているのか。
ラウリは聞かなかった。
彼はただ、名前だけで歩く日を良い日だと言った。
白い石畳に落ちた二人の影は、背丈も幅もまるで違う。それでも昼前の光の中で、影の向きだけは同じだった。
「ラウリん」
「なんだ」
「甘いもの好き?」
「食えるものは好きだ」
「最高の答え」
サラは甘味通りの奥を指した。
「助けてもらったお礼に、食べ放題行こ。二名様からしか入れないっていう、客を試してる店があるの」
「二人で食うのか」
「食うの」
「なら行こう」
即答だった。
サラはこの日、逃亡後はじめて心から思った。
舞台は、まだ生きている。
──────────────────────────────
白薔薇糖房は、甘味通りの奥でひっそりと派手だった。
白い壁には蔓薔薇が這い、窓辺には珊瑚硝子の小皿が吊られている。扉の上には金文字で店名が描かれ、入口の黒板には本日の菓子皿が細い字で並んでいた。
薔薇蜜の泡菓子。
潮真珠糖の小塔。
柑橘と白香草の冷菓。
薄焼き菓子の層包み。
青葡萄の砂糖漬け。
サラは黒板を見た瞬間、腹の奥で拍手が起きた。字は細いのに、ひとつひとつの菓子が皿の上で立ち上がる。黒板の端には白い粉砂糖が少しつき、誰かが朝から丁寧に書き直した跡があった。
「いいね。文字だけで照明が当たってる」
「どれが魚だ」
「ないね」
「そうか」
ラウリは少しだけ残念そうだった。
その顔が面白くて、サラは笑う。
「でも卵と乳と蜜はある。あと果物。ラウリん、海に出る者は甘いもの食べない?」
「食う。腹に残るものは大事だ」
「じゃあ勝てる」
「何にだ」
「店に」
ラウリは真剣に店を見た。
「店は敵ではない」
「そういうところ、すごくいい」
扉を開けると、鈴が鳴った。
店内は白と薄金で整えられていた。丸い卓。低い花瓶。白薔薇の蕾。壁際には菓子台があり、皿の上で小さな菓子が光を受けている。甘い匂いは強いが、重くない。薔薇蜜、焼きバター、柑橘、冷たい乳の香りが層になっていた。
床は磨かれた白石で、靴音が柔らかく返る。窓から入る光は布で一度こされ、菓子の輪郭だけを明るくしていた。皿を重ねる小さな音が奥から聞こえ、厨房では誰かが薄い砂糖を割っている。
店員が笑顔で近づいた。
「いらっしゃいませ。ご予約のお客様でしょうか」
「予約はしてない。でも今日の幕は開いてるでしょ」
店員の笑顔が一瞬だけ揺れた。
サラは声を抑えている。抑えているが、どうしても通る。舞台用の声帯は休日にも舞台用だった。
「菓子皿の食べ比べをご希望ですか」
「希望。かなり希望」
「二名様から承っております」
「二名」
サラは親指でラウリを指した。
「今日だけの相方」
店員はラウリを見上げた。
見上げたまま、少し固まった。
ラウリは胸に手を当てて軽く礼をした。
「ラウリだ。世話になる」
「あ、はい。こちらこそ」
店員は慌てて姿勢を戻した。
サラはその一拍を見逃さなかった。
いい客席だ。
反応が素直で、怯えすぎず、崩れすぎない。プロの店員は舞台の支えになる。
案内された席は窓際だった。外の通りが見える。白い石畳の上を観光客が歩き、花屋の娘が薔薇を運び、遠くにラグーンの青がちらついた。窓枠の影が卓の上に細く落ち、白い皿の縁を四角く区切っている。
「制限時間は半刻。お皿はこちらで順にお持ちします。食べ残しは追加料金となります」
「残さない」
サラとラウリの声が重なった。
店員が一瞬だけ目を瞬いた。
サラは満足した。
初手の呼吸が合っている。
最初の皿は、白薔薇の形をした泡菓子だった。
薄い砂糖の膜を割ると、中から薔薇蜜の香りが出る。舌に乗せるとすぐ消え、後に柑橘の苦みが少しだけ残った。歯に触れる前にほどけるほど軽く、なのに香りだけは舌の奥に残る。
サラは目を閉じた。
「照明、白。客席、息止まる。最後に苦み。いいじゃん」
「甘いな」
ラウリは言った。
「感想がまっすぐ」
「うまい」
「さらにまっすぐ」
ラウリは菓子を一口で消さなかった。巨きな手で小さな皿を持ち、香りを確かめ、口に入れる。目を伏せる。その所作が丁寧だった。
サラは彼の手元を見た。
食べ慣れていない人の丁寧さではない。
食べることを軽く見ていない人の丁寧さだ。
二皿目は潮真珠糖の小塔だった。
白い砂糖粒を積んだ小さな塔に、青い蜜が一筋かかっている。噛むとしゃり、と音がして、後から塩の気配が来た。皿の上には細かな砂糖が星のように散り、青い蜜が光を拾っている。
「海の音がする」
ラウリが言った。
サラは眉を上げた。
「菓子で?」
「塩の置き方が、波の後だ」
「その感想、もらっていい?」
「食べれば分かる」
「分かる人が限られるやつだね」
三皿目。四皿目。五皿目。
店員の運ぶ速度が上がった。
サラは食べる。美しく食べる。皿を持つ角度、菓子へ手を伸ばす間、口元を隠す指先、笑うタイミング。どれも観客に見せられる形をしている。
食べているだけで絵になる。
そうなるように生きてきた。
ラウリも食べる。
量が違う。
菓子は小さい。ラウリの指の上ではさらに小さく見える。けれど彼は雑に扱わない。崩れやすい層包みは指の腹で支え、冷菓は溶ける前に口へ運び、果物の砂糖漬けは香りを確かめてから噛む。
そのたびに、わずかに頷く。
食べ物へ礼を置いている。
サラは小さく息を吐いた。白香草の冷たさが鼻へ抜け、腹の底にゆっくり落ちる。
「ラウリん、食べ方がいいね」
「そうか」
「うん。量は完全に店への挑戦状だけど、所作はきれい」
「食べ物には礼を置く」
「いい台詞」
「台詞ではない」
「それがいいの」
六皿目が来た。
店員の笑顔に、ほんの少し汗が混じっている。盆の上では皿が三枚、きれいな間隔を守って震えていた。
「こちら、白香草の焼き菓子でございます」
「ありがと。次の皿、今から準備しておいて」
「え」
「いけるよね、ラウリん」
「いける」
店員は二人を見た。
サラはにっこり笑った。
ラウリは真剣に頷いた。
その瞬間、店員は悟った顔をした。
客席が、舞台の状況を理解した顔だった。
サラはその顔が好きだった。
舞台は、演者だけでは完成しない。客席が状況を受け取って、ようやく形になる。ここでは店員が客席であり、相手役であり、時には進行役だった。
「お二人は、よく召し上がるのですね」
店員が言った。
声が少しだけ震えている。
「食べないと書けないから」
サラは焼き菓子を割りながら答えた。
店員が首を傾げる。
ラウリも少しだけ彼女を見た。
サラはすぐに笑った。
「こっちの話。悲劇でも喜劇でも、お腹空いてると味が落ちるの」
「サラは物を書くのか」
「舞台を書く。人を立たせる。照明を当てる。客席に拍手の場所を置く」
「難しい仕事だ」
「うん。だから食べる」
「なら大事だな」
あっさり受け取られた。
サラは少し黙った。
普通は笑われる。食べる理由としては大げさだからだ。あるいは、女優の軽口として流される。
ラウリは流さなかった。
彼は、自分の皿に残っていた白香草のかけらを丁寧に集め、口へ運んだ。
「海に出る者も、腹が空くと戻りが遅れる」
「戻り」
「戻るために食う」
その言い方は、サラの中のどこかに落ちた。
明るい店内。白薔薇の蕾。砂糖の香り。皿を運ぶ店員の小走り。窓の外の笑い声。銀の匙が皿に当たる薄い音。
その真ん中で、戻るという言葉だけが少し重くなる。
サラは遮光眼鏡を少し下げた。視界の色が濃い茶から白へ変わり、ラウリの輪郭が少し近くなる。
「ラウリん、いいこと言うじゃん」
「そうか」
「うん。でも今のは甘味店だと重い。もうちょい軽く盛ろ」
「盛る」
「そう。重い言葉って、そのまま置くと客席が受け取れないの」
ラウリは考えた。
「なら、皿に乗せる」
サラは笑った。
「天才?」
「腹は減る」
「それは知ってる」
半刻の終わり、店員は最後の皿を置いた。
白薔薇の花びらを模した砂糖菓子が、皿の上で小さな冠のように並んでいる。薄い花びらは光を透かし、縁だけが淡く金色に見えた。
サラとラウリは同時に手を伸ばした。
そして、きれいに食べ切った。
食べ残しはない。
店員は伝票を見た。
それから二人を見た。
「お見事でございました」
サラは胸に手を当てた。
「ご観覧ありがとうございました」
ラウリも胸に手を当てた。
「うまかった。礼を言う」
店員は深く礼をした。
その顔には、疲労と敬意が同じくらい乗っていた。
いい幕だった。
──────────────────────────────
店を出た時、サラの休日は終わっていなかった。
むしろ本番はここからだった。
甘味店の白い扉が背後で閉まり、通りの音が戻ってくる。昼のサルマンディアは眩しい。白い壁に光が跳ね、青い日除けの下では果物氷が削られ、薔薇塩をまぶした揚げ魚の屋台から香ばしい匂いが流れていた。
甘いものを食べた後の口に、油と塩の匂いは強すぎる。なのに腹は、その強さを歓迎する。サラは外套の前を少し開け、帽子のつばを指で持ち上げた。風がこめかみを撫でる。
「ラウリん」
「なんだ」
「まだ食べられる?」
「食べられる」
「好き」
「そうか」
ラウリは照れなかった。
そこも良かった。
普通の男なら、ここで妙な顔をする。褒められたのか口説かれたのか、勝手に芝居を始める。だがラウリは、食べられると答え、その答えを褒められ、そうかと受け取った。
舞台に余計な自己演出を持ち込まない。
かなり希少な相手だった。
「じゃあ第二幕。サルマンディア食べ歩き」
「第二幕」
「一幕目は甘味。二幕目は塩と油。三幕目は夕暮れの皿。綺麗でしょ」
「よく分からんが、腹は分かる」
「分かるものからでいいの」
二人は甘味通りを抜けた。
最初に寄ったのは、薔薇塩揚げの屋台だった。
薄く切った白身魚を衣にくぐらせ、熱い油で揚げ、砕いた薔薇塩と柑橘の皮を振る。紙包みから湯気が立ち、油の香りに花の塩気が混じった。屋台の鉄鍋では泡が細かく弾け、主人の腕には油の照りが光っている。
ラウリは一口食べて、目を細めた。
「魚が軽い」
「揚げてるのに?」
「油が勝っていない」
「ラウリん、感想が料理人」
「魚が良い」
屋台の主人が嬉しそうに笑った。
サラは横で魚をつまみながら、その笑顔を見た。
職人は、褒める場所を間違えない客に弱い。
サラは客席の拍手を置きにいく。ラウリは食べ物の出どころへ礼を置く。やっていることは違うが、相手の仕事へ手を伸ばすという意味では似ていた。
次は果物氷。
青い硝子鉢に削った氷を盛り、南方果実の蜜をかける。上から潮真珠糖を砕いて散らすと、光が小さく弾けた。匙を入れると氷の山が静かに崩れ、底の蜜が薄い金色に広がる。
サラは一口で肩を落とした。
「照明が冷たい。好き」
「冷たい照明」
「あるよ。夏の昼に客席を黙らせるやつ」
「海の底に似ている」
「あ、それいい」
「冷たいが、暗くはない」
「ラウリん、言葉の皿も盛れるじゃん」
「皿は割らない方がいい」
「そういう意味じゃないけど、まあいいや」
その次は、珊瑚硝子工房の前で売っていた小さな飴。
飴は薄い青と桃色で、珊瑚枝の形に伸ばされている。サラはそれを口にくわえ、工房の窓に映る自分を見た。
遮光眼鏡。帽子。外套。口元に青い飴。
どう見ても怪しい。
それでも、誰もサラ・マリー・アンリエットとは呼ばなかった。
何人かは見た。
何人かは首を傾げた。
けれど名前までは来ない。
サラはその自由を噛んだ。
飴は薄く、すぐ割れた。
「サラ」
ラウリが言った。
「うん?」
「見られるのは嫌か」
サラは飴を舌で転がした。
問いが、思ったよりまっすぐ来た。
「嫌じゃないよ。見られないと仕事になんないし」
「なら、なぜ隠す」
「今日はさ、客席に名前を渡したくないの」
ラウリは黙って聞いた。
工房の中では職人が熱い硝子を回している。赤く柔らかい球が棒の先でふくらみ、光を飲んで、また細くなる。
サラは工房の窓から目を離す。
「人が見てるなら、そこはもう舞台だよ。で、舞台になったら、あたしはサラ・マリー・アンリエットをやる。笑う場所、手を振る場所、綺麗に食べる場所、全部ちゃんと置く」
「今も綺麗に食べている」
「癖なの」
「なら、休めているのか」
サラは答えようとして、少し止まった。
ラウリは責めていない。
ただ、浜辺に打ち上がったものを見つけたように、そこにある疑問を拾っただけだった。
「半分かな」
「半分」
「名前を隠しても、あたしはあたしだからね。幕を全部下ろすのは無理。でも、客席の数が少ないと楽」
「今日は俺だけか」
「店員さんたちもいるけどね」
「なら少ない」
「うん。ちょうどいい」
サラはそう言って、飴の残りを噛んだ。
ちょうどいい。
自分で言ったその言葉が、思ったより体に馴染んだ。
通りを一本曲がると、ラグーンが見えた。
水はターコイズブルーで、白い水上宿が遠くに浮かんでいる。小舟が婚礼客を乗せ、薄い布を結んだ柱の間をゆっくり進んでいた。橋の欄干には薔薇が飾られ、観光客が足を止めて写真師に姿を描かせている。
水面は明るすぎるほど明るかった。小舟の櫂が入るたび、光は砕けて白い壁へ跳ね返る。橋の下からは濡れた木と貝の匂いが上がり、上では焼いた砂糖の香りがまだ追いかけてくる。
サルマンディアは、美しい。
その美しさが作られたものだとサラは知っている。導線。照明。香り。花の数。水面の角度。客がどこで足を止め、どこで笑い、どこで金を落とすか。
全部、誰かが置いている。
それでも美しいものは美しい。
舞台装置だと知っていても、舞台に立てば胸が鳴る夜がある。
「この街は、よく作られている」
ラウリが言った。
サラは少し驚いた。
「分かる?」
「海の見せ方が上手い」
「お」
「だが、海を見せたい場所と、海を隠したい場所がある」
サラは遮光眼鏡の奥で目を細める。
「ラウリん、舞台裏見るタイプ?」
「魚の匂いが消えている場所がある」
「そこ?」
「そこだ」
サラは笑った。
蒼凪なら釘を見る。ラウリは匂いを見る。アドニスは見られている自分の位置を測る。人は同じ舞台に立っても、見る場所が違う。
だから面白い。
「あたしはさ、見せ方は大事だと思ってる」
サラは欄干に肘を置いた。
石は昼の熱をまだ残していた。肘の下から、ひなたの温度が薄く伝わってくる。
「正しいものほど、ちゃんと演出しないと届かない。美味しいものも、綺麗なものも、重い言葉も、そのまま置くと客席が受け取れない」
「受け取れるようにするのが仕事か」
「そう。たぶん」
「良い仕事だ」
ラウリは言った。
サラは彼を見た。
「軽く言うね」
「軽くはない」
「そう?」
「食べ物も、祈りも、受け取れなければ残る。残ったものは悪くなる」
風がラグーンから上がった。
サラの帽子のつばが揺れる。
「ラウリん、それ、甘味店なら重すぎるやつ」
「今は橋だ」
「橋ならいいの?」
「橋は重いものを渡す」
サラは一拍置いて、笑った。
「ほんと、舞台に上げたら売れるよ」
「俺は海に立つ」
「それも舞台みたいなもんでしょ」
「海は客席ではない」
「じゃあ?」
「相手だ」
サラは黙った。
その答えは、少し羨ましかった。
彼にとって海は、見せるものでも、客席でも、装置でもない。相手。交渉し、礼を置き、腹を満たして戻る場所。
サラにとって舞台は生きる場所だ。
けれど、舞台が相手かどうかは分からない。
そう考えた瞬間、腹が鳴った。
かなり正直な音だった。
ラウリが彼女を見た。
サラは胸を張った。
「第三幕に行こう」
「腹が鳴った」
「開幕の合図」
「そうか」
「そうなの」
二人は橋を渡った。
午後の光が傾き始めていた。
──────────────────────────────
夕暮れのレストランは、サラが知っている側のサルマンディアだった。
水上の白いテラス。薄金の欄干。青い硝子杯。卓布は波の皺一つなく張られ、灯花蝋の小さな火がまだ明るい空の下で待機している。遠くには外洋とラグーンの境目が見え、夕陽はその線へゆっくり落ちていた。
店の名は、出さなくても分かる。
マーレの息がかかっている。
皿の角度、給仕の歩幅、客を席へ通す時の間、どれも訓練されていた。幸福を作品にする店だ。サラはその手触りをよく知っている。入口で客の視線を拾い、席へ運び、景色へ渡す。そういう見えない手が、白いテラスの端々に入っていた。
本来なら、彼女はこういう場所では見られる側で来る。
祝祭の顔。
主演女優。
宣伝のための一枚。
だが今日は違う。
濃色硝子の遮光眼鏡をかけたまま、帽子の影に顔を入れ、巨きな男と向かい合って席に着く。給仕は一瞬だけ迷ったが、すぐに完璧な笑顔へ戻った。
プロだ。
サラは内心で拍手した。
「高い店だな」
ラウリが言った。
「最後の幕は照明が大事だから」
「財布は大丈夫か」
サラは答えかけて止まった。
逃亡中なので、財布は十分ではない。
むしろかなり怪しい。
外套の内側の小袋には、朝に抜き取った銀貨がいくらか入っている。軽い昼食なら何とかなる。記念の菓子も買える。だが目の前の卓布は、銀貨の軽さを容赦なく測ってくる種類の白さだった。
ラウリが懐から薄い木札を出した。
薔薇の紋と屋敷の印。
サラは遮光眼鏡の奥で目を見開いた。
「ラウリん、それ何」
「木札だ」
「それは見れば分かる」
「屋敷の名で通る店がある。軽食や茶なら使ってよいと言われた」
サラはゆっくりテラスを見た。
白い卓布。
青い硝子杯。
灯花蝋。
夕陽。
給仕が持ってくる銀のメニュー。
どう見ても軽食ではない。
「ラウリん」
「なんだ」
「これ、軽食?」
ラウリは少し考えた。
「歩いた」
「うん」
「だから軽くはない」
サラは膝を叩いて笑いそうになった。
声を抑える。
抑える。
抑えきれない。
「あはっ、無理。今のは無理」
給仕が一瞬だけこちらを見る。
サラは扇を持っていない手で口元を隠した。今日は扇を持ってきていない。失敗だ。口元を隠す道具がないと笑いの形が雑になる。
ラウリは真面目だった。
「使えないなら払う」
「払えるの?」
「足りなければ、あとで働く」
「その発想、強い」
「食った分は返す」
サラは少しだけ目を細めた。
食った分は返す。
舞台の報酬とも違う。契約とも違う。かなり素朴で、かなり強い。
「今日はあたしも払う。逃亡資金はあるし」
「逃亡」
「言葉のあや」
「追われているのか」
「まあ、ちょっとね」
ラウリは店の入口を見た。
サラはその視線を追って、慌てて手を振る。
「今はまだ来てない。来たら分かる。客席の空気が凍るから」
「凍る」
「あたしの付き人、笑顔で人を凍らせるの上手いんだよね」
「強いのか」
「予定表が強い」
ラウリは納得したように頷いた。
納得するところではない。
料理は美しかった。
まず、冷えた青硝子の杯に注がれた発泡酒。泡は細かく、夕陽の中で白く立った。杯の肌には薄い水滴がつき、指を添えるとひやりとする。
サラは少しだけ口をつける。
「照明、金。泡、拍手」
「酒だ」
「そういう現実への戻し方、嫌いじゃない」
前菜は潮真珠貝の薄造りと白香草の油。ラウリは皿が置かれた瞬間、背筋を少し伸ばした。
「貝か」
「祈る?」
「礼は置く」
彼は短く目を伏せた。
サラはそれを邪魔しなかった。
次に焼き魚。薔薇塩と南方香辛料。皮は薄く焼け、身はしっとりしている。ラウリは一口で魚の質を見抜き、給仕へ静かに礼を言った。
給仕の笑顔が少し本物になった。
サラはそれを見ていた。
どれほど高級な店でも、皿を作るのは人だ。運ぶのも人だ。礼の置き方一つで、その場の照明は変わる。
ラウリはそれを理屈でやっていない。
だから効く。
「ラウリん、舞台に立たないの、もったいない」
「俺は海に立つ」
「さっきも聞いた」
「変わらない」
「いいね。役がぶれない」
「役ではない」
「そこも込みで」
サラは発泡酒を少し飲んだ。
休日の味がした。
自分の名前を呼ばれない席。自分を売る必要のない会話。見られてはいるが、消費されていない時間。
それは思ったより珍しかった。
「サラ」
ラウリが言った。
「何?」
「今日は楽しかったか」
サラは杯を置いた。
夕陽がラグーンの縁に落ちている。白いテラスが薄桃色に染まり、灯花蝋の火がようやく意味を持ち始める。周囲の客はそれぞれの夕食に夢中で、サラをサラとして見ていない。
「楽しかった」
彼女は言った。
「かなり」
「なら良い」
「ラウリんは?」
「うまかった」
「楽しかったか聞いたんだけど」
「うまいものを、礼を置いて食えた。サラはよく笑った。だから楽しかった」
サラは少しだけ黙った。
そういう答えはずるい。
舞台の上で言われたら、照明を落とす場所を間違える。
「ラウリん」
「なんだ」
「あたしが何者か、聞かないの?」
「今日は名前だけで歩く日だと言った」
「言ったね」
「なら、聞かない」
サラは笑った。
笑ったが、少しだけ喉の奥が狭くなった。
名前だけで歩く日。
それを本当に守る人間がいる。
「あんた、いい客席だね」
「客席ではない」
「じゃあ何?」
「相方だろう。今日だけの」
サラは遮光眼鏡を外しかけた。
本当に一瞬、外そうと思った。
その時、テラスの入口の空気が凍った。
完璧な笑顔の女が立っていた。
白い手袋。薄灰の上着。胸元にはマーレ・パラデイソスの小さな徽章。髪は一筋も乱れておらず、手には予定表を挟んだ革板を持っている。
サラの付き人兼進行係だった。
「サラ様」
声は穏やかだった。
テラスの灯花蝋が少し怯えたように揺れた。
サラは遮光眼鏡を戻した。
「見つかるの早くない?」
「午前の衣装合わせを消失、昼の広告写真を延期、午後の打ち合わせを混乱、夕刻のリハーサルを空席にした方を探すのに、早すぎるという概念はございません」
「客席が冷える言い方」
「冷やしております」
付き人は一歩近づいた。
靴音は静かだった。静かなのに、卓の上の銀の匙まで背筋を伸ばしたように見える。
ラウリが立とうとした。
サラは片手で止める。
「大丈夫。あれは敵じゃない。予定表」
「予定表」
「強い予定表」
ラウリは付き人を見た。
付き人もラウリを見た。
巨躯の祭祀官と、予定表を持つ女が、夕暮れのテラスで向かい合う。
少し面白い絵だった。
「本日は、うちの者がご迷惑をおかけしました」
付き人は完璧に礼をした。
ラウリも胸に手を当てて礼を返す。
「迷惑ではない。よく食べる良い相方だった」
付き人の笑顔が一瞬だけ固まった。
サラは噴き出した。
「ラウリん、それ最高」
「サラ様」
「はい」
「お戻りください」
「せめてデザートまで」
「デザートは劇場でご用意しております」
「それは仕事のデザートじゃん」
「仕事でございます」
終わりだ。
幕が下りる音がした。
サラは椅子から立ち上がった。遮光眼鏡を外すか迷い、結局外さなかった。ラウリへ正体を明かすのは簡単だ。名乗ればいい。周囲が騒ぎ、付き人がさらに凍り、店側が気づき、休日は完全に物語になる。
でも、それは違う。
今日のこれは、名前だけで歩く日だった。
なら、最後までそうする。
「ラウリん」
「なんだ」
「今日の客席、悪くなかったよ」
「俺は客席ではない」
「今日だけの相方」
ラウリは頷いた。
「そうだな」
サラは笑った。
「じゃあ、幕。下りまーす」
付き人が深く息を吐いた。
「幕は劇場で上げてください」
「はいはい」
サラはテラスを出る前に、卓上の小さな砂糖菓子を一つつまんだ。
付き人が見る。
「サラ様」
「これは幕間の栄養」
「歩きながら召し上がらないでください」
「女優は歩きながらでも絵になるの」
「そのために私がいるのではございません」
二人の声は遠ざかっていった。
白い手袋の女と、外套の裾をひるがえす女。夕暮れの廊下で、二つの足音はまるで別の拍子を踏んでいるのに、最後には同じ角を曲がって消えた。
ラウリはしばらく入口を見ていた。
サラが何者なのか。
聞かなかった。
必要なら、いつか分かる。
今日分かっているのは、サラがよく食べ、よく笑い、重い言葉を皿に乗せる女だということだけで足りた。
給仕が恐る恐る近づいてきた。
「お客様、お会計は」
ラウリは薔薇の木札を出した。
給仕の笑顔が、もう一度固まった。
「こちらは」
「屋敷の者に、軽食や茶なら使ってよいと言われた」
給仕は卓上を見た。
前菜。
魚。
肉。
発泡酒。
デザート。
空いた皿の数。
かなりの沈黙があった。
ラウリは真剣な顔で付け足した。
「歩いた」
給仕は、プロだった。
完璧な笑顔を取り戻し、木札を両手で受け取った。
「承っております」
ラウリは頷いた。
「礼を言う」
そして、サラが残していった最後の一皿へ手を伸ばした。
夕陽はもう海の縁に触れていた。
灯花蝋が小さく揺れ、青い硝子杯の底に金色の泡が残っている。
ラウリは菓子を口に運ぶ前に、短く目を伏せた。
食べ物には礼を置く。
それから、丁寧に食べた。
白いテラスに、甘さと塩気だけが残った。




