第92話 空へと帰る者 地に根を下ろす理
静寂が訪れた大広間で、鈴木ケンは一人、卓の上に残された八十三枚の牌を見つめていた。
かつて田中勇が制定し、五百年の間、この異世界の理を縛り続けてきた「天律戦」。
その勝敗が決した今、神殿を包んでいた黄金の結界はゆっくりと霧散し、アルカナ城跡の上空には夜明けの紫紺が広がっていた。
傍らには、漆黒の獣から元の姿に戻ったケロベロスが、満足げに喉を鳴らして座っている。
シオンの魂を救い、サトウの呪いを解き、そしてシズクの重圧を払った今、ケンの使命は最後の局面に達していた。
「フェニクス」
ケンが静かに呼びかけると、黄金の炎を纏った不死鳥が、高貴な姿でケンの肩に降り立った。
「……終わったのだな、ケンよ。田中勇が遺したこの重き鎖を、お前は完全に断ち切った」
ケンは立ち上がり、世界樹の果実を見つめた。それは今や、光を放つ宝石のような姿で、静かに空中に浮いている。
「ああ。だが、このシステムはここで終わりにする」
ケンの言葉に、フェニクスは驚いたように炎の翼を揺らした。
「何を言う。天律戦がなければ、この世界の意思は霧散し、再びかつての混沌に還るぞ」
「混沌を恐れるな。田中勇が創った『命を賭けた競り合い』というシステムは、五百年という長い期間、この世界を救い、そして同時に縛り付けた。……だが、もう十分だ」
ケンは、神殿全体に響き渡る声で宣言した。
「これより、五百年に一度の天律戦というシステムは廃止する。次なる世界の理を決めるのは、命のやり取りではない。……フェニクス、お前をこの世界の新たな『天律者』として任命する」
ケンは、黄金の光を帯びた牌をフェニクスの足元へと捧げた。
「お前が見てきた何千年の歴史が、この世界の本当の正解を知っているはずだ。今後のすべての決め事は、引き続きドンジャラで行う。だが、そこに命を賭けることは禁ずる。卓を囲むのは、憎しみのためではなく、より良き未来を競うための知恵の交流であるべきだ」
フェニクスは、ケンの瞳をじっと見つめ、やがて優雅に頷いた。
「……理解した。田中勇の意志を超え、お前は真の意味でこの世界を解放したのだな。この『天律者』の責務、五百年……いや、未来永劫、ドンジャラの理とともに全うしよう」
神殿の外では、シズクと佐藤栞が、そして神殿に駆けつけたマチたちが、朝日を浴びながら空を見上げていた。
世界を覆っていた禍々しい霧が消え、アルカナ大陸全体が、かつてない清々しい光に満ちていく。人々の胸から、五百年間どこか感じていた「何かに縛られている」という重圧感が、嘘のように消え去ろうとしていた。
その時だった。
ケンの目の前に、かつて彼がこの世界に召喚された時に通ったものと同じ、白く輝く光の扉が出現した。
「……帰り道か」
ケンが呟くと、マチが駆け寄ってきた。彼女は泣き出しそうな笑顔で、ケンの服を掴む。
「帰っちゃうのね、ケン……」
「ああ。俺のやるべきことは、すべて終わった」
ケンはマチの手を取り、そっとその指に指輪を戻した。
「マチ。これからは、誰の顔色を窺うこともなく、自由に生きろ。この新しい世界で、俺たちが守った平和を、あんたのその手で彩ってくれ」
シズクが少し離れた場所から、静かに微笑んでいた。彼女はもう、法を盾にする王ではない。一人の女性として、大地を踏みしめて立っている。
「……行け、ケン。貴方がくれたこの『自由』という名の理、この私が責任を持って見届けてあげる」
ケンは頷き、光の扉へと一歩を踏み出した。
後ろを振り返ると、そこには、自分が守り抜いた仲間たちの姿と、五百年前の英雄たちが築き上げ、そして自分たちが超えていった「過去」が、眩しいほどの輝きを放っていた。
「田中勇……。あんたが残したドンジャラは、これからはただの『遊び』になる。でも、その遊びがあるからこそ、この世界はきっと誰よりも笑い合えるはずだ」
ケンは最後にフェニクスに軽く会釈をすると、光の中へと消えていった。
神殿に残されたのは、黄金色に輝く牌と、そして未来を期待する仲間たちの穏やかな眼差しだけ。
天律戦は終わった。
世界は五百年の因果を越え、鈴木ケンという一人の裁定者が残した「遊び心」と共に、新たな五百年の物語を紡ぎ始める――。




