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第90話 白き王の独白

天律戦が極限に達したその大広間は、もはやこの世の場所とは思えぬほどに張り詰めた空気に満たされていた。

鈴木ケンが98勝に到達し、勝利まであと二勝と迫る中、シズク・フォン・ブランシュはなおも盤上の王座を守り抜いていた。彼女の琥珀色の瞳は、かつてないほどの静寂を湛えている。それは、激昂でも絶望でもない。五百年の澱を払い落とした者の、澄み渡った境地であった。


「……計算は、私を裏切らない」


シズクが冷ややかな声音で呟く。彼女がメガネを外したその素顔は、氷のように美しく、そして底知れぬ孤独を纏っていた。

卓を囲むサトウの幻惑も、シオンの黒き悪意も、今のシズクには何の意味もなさない。彼女はただ、自身のルーツである『エルミア家』が五百年前、田中勇の死後に抱いた悲願

――「知恵と法による絶対的な統治」――

だけを信じ、牌を操り続けていた。


「ねえ、ケン。貴方は不思議ね」


シズクは牌を一つ、指先で弄びながら、盤面の向こうのケンを見据えた。

「貴方は『調和』などと理想を掲げ、この過酷な盤上でさえ他者の悪意を呑み込もうとする。……けれど、それはあまりに脆い。五百年の歴史が、法のない自由がどれほどの悲劇を生むか、貴方は何も分かっていないのよ」

シズクの独白が、神殿の広間に響き渡る。それはドンジャラの対局という枠を超えた、魂の叫びであった。

「白の一族――私たちの家系は、ずっとこの廃墟の城で、夜露を凌ぎ、かつての栄光を夢見てきたわ。エルミア家がクーデターを起こし、白の血族を匿ったあの日から、私たちの人生はすべて『復興』という名の呪縛に縛り付けられていた」


彼女が牌を打つたびに、視界が歪む。それはシズクの魔力が、彼女自身の過去の断片を盤面に映し出しているからだった。

――幼い頃、崩れかけの魔法塔で、魔法の文献を読み漁る日々の記憶。

――攻撃魔法が衰退し、一族が虐げられ、肩身を狭くして隠れ住んだ屈辱の歴史。

――「いつか必ず、法によって世界を正す」と、死にゆく父が遺した最期の言葉。

「力による支配を否定し、かといって放任された自由にも絶望した。……だからこそ、私たちは法を求めたの。誰もが等しく、争うことのない『正しい秩序』の下で生きる世界。それこそが、田中勇という英雄が最後に見失った、真の理想の形だと思っていたから」


シズクの言葉には、ケンへの怒りではなく、強い羨望が混じっていた。

「貴方は恵まれている。何の予備知識も持たず、この世界の闇を知らずに、

ただ『救いたい』という独りよがりな願いだけでここまで来られた。


……でも、ケン。貴方が作る世界は、風が吹けば消える砂の城よ。法という土台のない平和は、五百年前の分裂を繰り返すだけなの」

シズクは、エルミア家に伝わる秘奥義『時間回廊のドンジャラ』を発動させる。

盤面上の牌が、かつて彼女たちが隠れ住んだ暗い城跡の光景と同期し、時間そのものが逆行するかのような圧力をケンに加える。シズクの牌捌きは、もはや神技を超え、時間の摂理を操作する領域に達していた。

「見てなさい。一族五百年の願いと、私自身の魂が、この一打にどう結晶するかを」

シズクが放った牌は、ケンの「調和」の光を真っ向から拒絶し、盤面に冷徹なまでの『法』の形を刻み込んだ。それはケンの連勝を阻むための、絶対的な防壁。

彼女の微笑みは、どこまでも寂しげで、しかし王としての矜持に満ちていた。

「私は王座を継ぐ者。貴方が作る未来が、どれほど美しく、そしてどれほど無力であるか。……この五百年の想いを乗せた一打で、その目で証明してごらんなさい!」

激しい閃光が広間を包む。

法を掲げる白き王と、調和を目指す異世界の少年。

二人の牌が衝突し、神殿の結界が悲鳴を上げて軋む。勝負の行方は、もはやどちらが牌を揃えるかという技術の問題ではなかった。どちらの「明日」がこの世界に相応しいのか――その理念を懸けた、命を削るぶつかり合いであった。

シズクの琥珀色の瞳が、ケンの光を反射して燃える。

98勝の膠着。残り二勝を懸けた戦いが、アルカナ城跡の廃墟で、永遠のような時間を刻み始めていた。

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