第89話 冥界の番犬
神殿を支配する黄金の光が、静かに波打つ。
それは、ケンが天律の果実と共鳴し、盤面上の因果を自らの意志で制御し始めた証であった。サトウの幻惑も、シオンの呪詛も、シズクの法理さえも、今はケンの掲げる「調和」という大きな器の中に収まりつつある。
そんなケンの足元で、小さな変化が起きていた。
転生以来、ずっとケンに寄り添い、時には毒舌なフェニクスと喧嘩を繰り返していた小さな子犬――ケロベロスが、突如としてその姿を膨張させたのである。
『グルル……グルルル……』
低く、地鳴りのような唸り声が神殿に響く。子犬の愛らしい姿は瞬く間に霧散し、その体は巨大な鋼鉄の筋肉を纏った漆黒の獣へと変貌した。
三つの頭が、それぞれ別の方向を向き、禍々しい紅蓮の瞳で卓を囲む三人の裁定者を睨みつける。その首元からは、かつて冥界の番犬として知られた、地獄の業火が溢れ出ていた。
DOCX
「……ククッ。裁定者よ、調和などという甘い言葉は捨てろ」
中央の頭が、人語を解する野卑な声で笑う。
「貴様がこの戦いに勝利した暁には、この三つの顎で、シズク、シオン、そしてサトウの首を、まとめて噛み砕いてやろう。田中勇ができなかった『完全なる粛清』を、我らが成し遂げてやるのだ」
サトウが悲鳴を上げ、シズクの琥珀色の瞳が凍りつく。しかし、ケンは静かに目を閉じ、三つの頭を優しく撫でた。
「ダメだ。俺は誰も殺さない。……お前たちの牙は、相手を噛み砕くためにあるんじゃない。この神殿の、この結界を守るためにあるんだ」
ケンの言葉に呼応するように、指輪の光がケロベロスの三つの頭を包み込む。獣の怒りは、ケンの慈愛に近い理によって強引に鎮められた。
「……チッ。相変わらず、甘い男よ。だが、貴様のその『甘さ』こそが、今の盤面を支配していることも事実……従うとしよう」
神殿の重苦しい空気の中、再び牌の音が鳴り響く。
90勝から始まった終盤戦。三人の裁定者たちは、己の国の誇り、一族の悲願、そして魔王の呪縛を背負い、死に物狂いで牌を弾き続けた。
シズクの法理は、ケンの調和によって防がれながらも、それでもなお鋭い一手でケンを追い詰める。
シオンの呪いもまた、ケンの光に焼かれながら、その濁った感情で盤面を乱す。
サトウの幻惑は、もはや牌そのものを変質させ、ケンを迷路へと誘う。
しかし、ケンはゾーンの中で視界を研ぎ澄ましていた。
91勝、92勝……95勝。
ケンの勝利が積み上がるたびに、神殿の天井に描かれた古い壁画が剥がれ落ち、五百年前の「真実」が露わになっていく。
「見えた……。お前たちが何を恐れているのか、何に縛られているのか、すべて!」
ケンが牌を置く。その所作は、あたかも田中勇という英雄の魂が乗り移ったかのような、流麗にして強固な一打であった。
シズクが計算ミスをし、サトウが牌を読み違え、シオンがその狂気ゆえに自らの役を崩す。ケンは彼らの抱える「業」そのものを牌として利用し、盤面を完成させていく。
96勝。97勝。
そして、ついにその瞬間が訪れた。
「ロン!――天律の完成!」
ケンの牌が、卓の上で神々しい光の柱となって立ち上がる。
98勝。
盤面を支配していた黒い霧も、シズクの冷徹な法も、サトウの妖艶な幻惑も、すべてがケンの放つ光の中に溶けて消えた。
DOCX
シズクが呆然と牌を見つめ、シオンが力を使い果たして膝をつく。サトウは放心状態で、指先すら動かせない。
広間は静寂に包まれた。
「残り、あと二勝……」
ケンは立ち上がり、巨大な姿のまま大人しくなったケロベロスを傍らに侍らせた。
彼の瞳には、この戦いを通じて見出した「救済」の道が、確かなものとして映っている。
世界樹の果実が、今にも弾けんばかりに膨らみ、鼓動している。
この天律戦という名の、世界を賭けた「牌の物語」も、いよいよ最終局面。ケンは、五百年の因果を断ち切り、新たなルールを制定するための最後の一歩へと、靴の音を響かせながら踏み出した。




