第60話 崩落の魔都と白き王の帰還
青の国、アルカナム王国の首都『魔都エルシオン』。
かつて世界最高峰の知恵と魔法技術を誇り、天を突くほど美しかった白亜の魔法塔群は、今や無惨にへし折れ、その大半が泥のような瓦礫と化していた。
空を覆っていたシオンのどす黒い瘴気は既に消え去ったものの、街の至る所にこびりついた呪いの残滓が、市民たちの心に拭いようのない恐怖と絶望を刻み込んでいる。
「東区画の治癒班、手が空いている者はすぐに中央広場へ回れ! 瓦礫の下にまだ生存者がいるかもしれない、魔力探知を急ぐんだ!」
怒号に近い指示を飛ばすのは、青の国騎士団長であるシリウスだ。
普段は純白の美しい甲冑に身を包む彼だが、今は全身が土埃と血にまみれ、右腕には痛々しい包帯が巻かれている。それでも彼は、折れそうな心を奮い立たせ、崩壊した国の立て直しに奔走していた。
「団長、南区画の避難誘導が完了しました。しかし……結界の修復は絶望的です。魔力供給炉の八割が、あの化け物の瘴気で完全に溶かされています」
シリウスの元に降り立ったのは、副団長のベガだった。彼女もまた、自慢の銀髪を煤で汚し、疲労で足元をふらつかせている。
「……そうか。ご苦労だった、ベガ。少し休め」
「休んでいる暇などありませんよ。市民の不安は限界を超えています。一刻も早く、女王陛下から直々に『復興の声明』を出していただかなければ、暴動が起きかねません」
ベガの切実な言葉に、シリウスは奥歯を強く噛み締めた。
「……分かっている。だが、今は無理だ」
「どういうことですか? 陛下は、ご無事なのでしょう!?」
「御命に別状はない。……だが、心が完全に砕けてしまわれている」
シリウスは、悲痛な面持ちで、半壊した王宮の方角を見上げた。
女王サミー。
彼女は五十年間、冷徹な統治者の仮面を被り、自身の心と魔力のすべてを犠牲にして、地下牢獄の『シオン』を封印し続けてきた。彼女の人生そのものが、あの封印を維持するためのシステムだったと言っても過言ではない。
しかし、その絶対の封印は、サトウとシオンという理不尽な暴力によって、いとも容易く、赤子の手をひねるように破られた。
自分の五十年の苦しみは何だったのか。
己の全てを懸けたロジックが、ただの暴力の前に何の役にも立たなかったという残酷な現実。
サミーの誇りも、精神も、何もかもが、あの瞬間にドロドロに溶け落ちてしまったのだ。
「俺が先ほど謁見した時……陛下は、崩れた玉座の傍らで、ただ虚空を見つめて座り込んでおられた。何度呼びかけても、反応はない。……今の青の国に、我々を導く『王』は不在だ」
シリウスの絶望に満ちた言葉に、ベガもまた、言葉を失い俯いた。
このままでは、青の国は滅びる。外敵に攻め込まれるまでもなく、内側から崩壊する。
――カツン……。カツン……。
その時、瓦礫に覆われた大通りに、場違いなほど静かで、澄み切った足音が響いた。
「……誰だ? ここは立ち入り禁止区域だぞ」
シリウスが鋭く声をかけ、剣の柄に手をかける。ベガも即座に警戒態勢をとった。
土煙の向こうから現れたのは、一人の女性だった。
「彼女は……王宮大図書館の司書の、シズクか?」
シリウスが目を丸くする。
シズク。分厚い眼鏡をかけ、いつも抱えきれないほどの本を持ち歩いては何もないところで転んでいる、おっちょこちょいで少しドジな司書。それが、二人の知る彼女の姿だった。
だが、今目の前にいる女性は、彼らの知る「シズク」とは、何かが決定的に違っていた。
分厚い眼鏡は外され、深い湖のように澄み切った瞳が、静かに世界を見据えている。無造作に結ばれていた髪は、解き放たれたように純白の輝きを帯びて風に揺れている。
何よりも異質なのは、その身から放たれる『オーラ』だった。
「な、なんだ……この、圧倒的な魔力は……!?」
ベガが顔を引き攣らせ、後ずさる。
それは、シオンが放っていたような、暴力的で攻撃的な魔力ではない。
ただそこに存在しているだけで、周囲の空間そのものが彼女に傅き、万物がひれ伏すような、絶対的な『権威』の魔力だった。
「シズク……いや、貴様、何者だ!?」
シリウスが剣を抜こうとした、その瞬間。
シズクが、静かにシリウスの方へと視線を向けた。ただそれだけで、青の国最強の騎士であるシリウスとベガの両膝が、見えない巨大な力に押さえつけられるように、ズンッと石畳に叩きつけられた。
「ぐっ、ああぁッ……!? か、体が……勝手に……!」
「シリウス、団長……これ、は……ッ!」
抗おうとしても、筋肉一つ動かせない。それは物理的な拘束ではなく、魂の次元に刻み込まれた『臣下としての本能』が、彼女に逆らうことを拒絶しているのだ。
「ご苦労様でした、シリウス、ベガ。貴方たちの国を想う忠義、見事です」
シズクの声は、これまでのオドオドした響きは一切なく、凛として美しく、どこまでも透き通っていた。
彼女は地に伏す二人を一瞥することなく、静かな足取りで、半壊した王宮へと歩みを進める。
王宮の奥。崩落した玉座の間。
そこには、シリウスの言葉通り、光を失った瞳で床に座り込む女王サミーの姿があった。
「……誰……?」
虚ろな声で呟くサミーの前に、シズクは静かに立ち止まった。
「よく五十年間、己の心を殺してまで、この国と封印を護りましたね。エルミア家の末裔、サミー」
「 貴女、その姿は……」
「貴女の役目は終わりました。これ以上、重い十字架を背負う必要はありません。……あとは、私が引き継ぎましょう」
シズクはそう言うと、サミーの横を通り抜け、半壊した玉座へと歩み寄った。
そして、一切の躊躇いもなく、その玉座に腰を下ろす。
瞬間――。
ドクンッ、と世界が脈打つような音が響いた。
シズクの体から放たれた純白の魔力の波動が、王宮を、魔都エルシオンを、そして青の国の全土を瞬く間に覆い尽くしていく。
それは、五百年間、歴史の闇に隠され続けてきた『本物の王』の魔力波長だった。
「私こそが、五百年前のクーデターによって歴史から抹消された真の王族……白の血族の正統なる後継者」
シズクは、玉座に深く背を預けながら、王宮の入り口で呆然と彼女を見上げるシリウスとベガ、そして青の国の全ての民の心に直接語りかけるように、高らかに宣言した。
「本日、この時をもって、謀反の上に築かれた偽りの『青の国(アルカナム王国)』の歴史を終結させます」
シズクの純白の魔力に呼応し、崩れかけていた魔法塔の残骸が、次々と淡い光を放ち始めた。
「これより、我は『白の国』の復活をここに宣言する。……私が、新たなる世界のルールを導く王です」
五百年の時を経て、真の王が覚醒した。
青の国が完全に崩壊したその灰の中から、かつての理想郷『白の国』が、圧倒的な力と共に産声を上げたのだった。二年後の天律戦の盤面は、今、完全に塗り替えられようとしていた。




