第59話 悪の亀裂
紫の国、ヴェイル共和国。
かつてアルカナ王国から迫害され、光の当たる場所を追われた魔族や虐げられた人間たちが結集して作り上げたその国は、地上と地下が複雑に入り組んだ巨大な複合都市である。
首都『闇都ノクターン』の最深部に位置する、評議会議長の執務室。
そこは、魔法の灯りがぼんやりと照らすだけの、ひどく静かで冷たい空間だった。
「……まったく、盤面の石を勝手に動かされるのは、あまり気分の良いものではありませんね」
執務机に座り、山積みになった各国の情報書類に目を通していた男――ヴェイル・ノクスが、深い溜め息と共に呟いた。
人間と魔族の混血である彼は、三十五歳という年齢を感じさせない端正な顔立ちに、長い紫黒の髪と金色の瞳を持っている。常に穏やかで理知的な空気を纏っているが、その本質は魔王の直系子孫であり、この共和国の実質的な支配者だ。
彼の視線の先にある報告書には、青の国(アルカナム王国)の首都エルシオンが、突如として現れた「正体不明の瘴気」によって半壊状態に陥ったことが記されていた。
そして、その厄災を引き起こしたのが誰なのか、ヴェイルはすでに確信していた。
――ギィィィッ……。
不意に、執務室の重厚な扉が、ノックもなしに開かれた。
「あらあら。お仕事ご苦労様、ヴェイル議長殿。相変わらず陰気臭い部屋で、退屈な書類仕事ばかりしているのね」
妖艶な笑い声を響かせながら姿を現したのは、模擬天律戦の直後から忽然と行方をくらませていたサキュバス――佐藤栞だった。
そして彼女の後ろには、虚ろな瞳をしたひ弱な青年が、足を引きずるようにして付き従っている。青の国を蹂躙したバケモノ、『シオン』である。
ヴェイルは書類から顔を上げ、冷ややかな金色の瞳でサトウを射抜いた。
「……随分と身勝手な休暇でしたね、サトウ。模擬天律戦の後、評議会への報告もなしに姿を消し、あろうことか青の国の最下層牢獄を破って、その『劇薬』を解放するとは」
「ふふっ、怒っているの? でも、おかげで青の国の戦力はガタガタよ? 感謝してほしいくらいだわ」
「詭弁ですね」
ヴェイルは立ち上がり、静かな、しかし確かな怒りを込めた声で告げた。
「あなたの行動は、あまりにもノイズが多すぎる。青の国への強引なテロリズムは、他国の警戒を過剰に引き上げるだけです。それに……そのシオンという化け物。五十年間熟成された『蠱毒』の怨念を、まるで自分個人のペットか玩具のように私物化しているようですが、扱いを間違えればこのノクターンすらも灰燼に帰す劇薬ですよ」
ヴェイルの鋭い指摘に対し、サトウは悪びれる様子もなく、シオンの細い首筋に妖艶な指を這わせた。
「あら、失礼ね。この子は私の最高傑作よ。ちゃんと私の言うことだけは聞くように、甘ぁく躾けてあるわ。ねえ、シオン?」
「……あァ……牌……」
シオンの口から漏れる虚ろな呪詛に呼応し、執務室の床がチリチリと腐食する音を立てる。
「サトウ。遊びは終わりです。その劇薬を評議会の管理下に置きなさい。……『これは民のためだ』」
ヴェイルの口癖に、サトウは肩を竦めて鼻で笑った。
「民のため、ね。相変わらずつまらない男。……お断りよ。私はこのシオンを、二年後の天律戦に単独のプレイヤーとして参加させるつもりだから」
「……何だと?」
ヴェイルの金色の瞳が、スッと細められた。
「天律戦は、次の五百年の世界のルールを決める神聖な盤面。そこに、そんな怨念の塊を放り込めば、ルールもクソもない、ただの破壊の連鎖になる。……あなたの目的は何ですか、サトウ」
「決まっているじゃない」
サトウは唇を吊り上げ、狂気に満ちた笑みを浮かべた。
「私が望むのは、完全なる『混沌』よ。先の五百年間、田中勇が残した『ドンジャラで全てを決める』なんていうお上品なルールのせいで、世界はひどく退屈だったわ。だから、シオンを使って天律戦に勝利し、次の五百年を、誰もが恐怖し、泣き叫び、理不尽に命を散らすだけの『狂った混沌の世界』に塗り替えてあげるの」
その言葉を聞いた瞬間、ヴェイルの周囲の空気が、絶対零度のように凍りついた。
「……到底、容認できるものではありませんね」
ヴェイルは低い声で吐き捨てた。
「私が目指しているのは、魔王のような力による無秩序な支配ではなく、『仕組み(ルール)による支配』だ。ドンジャラという馬鹿げたルールを廃止し、かつて虐げられてきた我々魔族や亜人たちが再び世界の頂点に立ち、新たな法と秩序をもって世界を支配する。全ての民が平等に管理される、完全なる統治システム……それこそが、この国の建国宣言であり、私の悲願だ」
ヴェイルの思想は、冷酷ではあるが、彼なりの「救済」のロジックに基づいている。
王に虐げられてきた者たちが報われる世界を作るためには、システムそのものを魔族側にとって有利なものに書き換える必要がある。だが、サトウの望むものは、敵も味方も、民すらも全てを泥に沈めるだけの無意味なカオスだ。
「そうやって『仕組み』だの『統治』だのとお行儀よく振る舞っているから、貴方は先代の魔王を超えられないのよ、ヴェイル」
サトウは軽蔑の眼差しでヴェイルを一瞥した。
「虐げられた民の平等? 魔族が頂点に立つ? くだらない。誰が上に立とうが、システムで縛られた世界なんて退屈なだけ。私は、全ての者が平等に絶望する泥沼が見たいのよ」
「……話は平行線のようですね。あなたのその破滅願望は、我がヴェイル共和国の国益、引いては魔族の未来と明確に相反する」
ヴェイルの手元に、密かに紫黒の魔力が集束していく。
この場でサトウを粛清し、シオンの身柄を強制的に奪う。ヴェイルの脳内でその冷徹な計算式が弾き出された瞬間だった。
「無駄よ、ヴェイル。貴方の魔法じゃ、このシオンの五十年間圧縮された怨念は止められない。先日、あの『裁定者』のガキですら、手も足も出ずに敗北したのだからね」
「……何?」
ケンが敗北した。その予想外の情報に、ヴェイルの魔力展開がほんの一瞬だけ遅れた。
「それに、私を殺せば、評議会内部の『過激派』が黙っていないわよ?」
サトウのその言葉に、ヴェイルは舌打ちをした。
ヴェイル共和国の最高意思決定機関である評議会は、決して一枚岩ではない。ヴェイルを筆頭とする「穏健派」に対し、武力行使と復讐を声高に叫ぶ「過激派」が常に内部で対立しているのだ。サトウは、その過激派の連中をすでに言葉巧みに扇動し、自身の後ろ盾にしているということか。
「私はもう、貴方の退屈なチェス盤の駒にはならない。……ここで明確に決別させてもらうわ、議長殿」
サトウはドレスの裾を翻し、シオンの手を引いて執務室の扉へと向かった。
「せいぜい、貴方の大切な『民』とやらを守るために、ちまちまと小細工を続けることね。二年後の天律戦……その盤面ごと、私がシオンの怨念でドロドロに溶かしてあげるから」
そう言い残し、サトウとシオンの姿は、ノクターンの深い闇の中へと溶けるように消えていった。
後に残されたのは、瘴気の残り香と、静寂だけ。
ヴェイルはゆっくりと執務机の椅子に腰を下ろし、深く息を吐いた。
状況は最悪だ。青の国は半壊し、赤と緑は同盟を強化するだろう。そして何より、身内であったはずのサトウが、世界を滅ぼす劇薬を手にして独立勢力となってしまった。
ヴェイルは、机の上に置かれていた「白牌(勇者)」のレプリカを指で弾いた。
「……鈴木ケン。五百年目の裁定者よ」
ヴェイルの脳裏に、かつて単身で接触した際の、ケンの真っ直ぐな瞳が蘇る。
「田中勇のルールで救われなかった者たち……その怨念の結晶が、サトウという狂気を得て動き出しました。理不尽な混沌を前に、あなたは……何を思い、何を選ぶというのですか」
冷徹な議長の呟きは、誰に届くこともなく、闇都の地下深くへと吸い込まれていった。
二年後の天律戦。それは各国の思惑だけでなく、相反する『悪』同士の争いをも巻き込んだ、誰も結末を予測できない狂気の祭典になろうとしていた。




