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第58話 鋼都の工房と、そして赤き決意の証


圧倒的な暴力と理不尽の前に、己の信じたロジックが粉々に打ち砕かれた敗北の日から数日。

 ケンたちは青の国(アルカナム王国)での事後処理と防衛線の再構築をサミー女王に託し、逃げるようにして赤の国――カルディア王国へと帰還していた。

 赤の国の首都、鋼都バルガン。

 周囲を険しい山々に囲まれたこの要塞都市は、ドワーフたちの高度な技術によって築き上げられた難攻不落の鉄壁である。街の至る所から立ち昇る溶鉱炉の黒煙と、絶え間なく響き渡るハンマーの打撃音。人間とドワーフが共存するこの街には、常に鉄の匂いと熱気が充満している。

 五百年前、先代裁定者である田中勇の孫、タナカ・リュウが独立宣言をして以来、この国はドワーフとの強固な同盟関係によって支えられてきた。地下に張り巡らされた広大な地下道網は国防の要であり、田中勇が遺した友情の証として五百年間受け継がれているのだ。


 その鋼都バルガンの裏路地に、ひっそりと、しかし確かな威厳を持って店を構える一つのドワーフ工房があった。

 王家専用の最高級鉱石で作られたドンジャラ牌のメンテナンスをも一手に引き受ける、老練な鍛冶師・ゲン爺さんの工房である。


「おお、ケン坊じゃねえか。青の国で随分と派手にやられたらしいな。サトシの旦那もマチの嬢ちゃんも、えらくピリピリしてやがったぜ。……で、今日は武具のメンテナンスか? それとも、新しい闘牌用のケースでもあつらえに来たのかい?」

 赤々と燃え盛る巨大な炉の前で、自身の身の丈ほどもあるハンマーを軽々と下ろしたゲン爺さんが、煤けた白い髭を撫でながら振り返った。

ケンは工房の熱気に少し目を細めながら、首を横に振った。

「いや、俺自身の装備のメンテナンスは後回しでいい。それより先に、こいつの『制御用装備』を大至急頼みたくてね」

 そう言って、ケンが着ていた上着のポケットからそっと取り出し、作業台の上に置いたのは――灰色の毛玉のような、手のひらサイズの『三つ首の仔犬』だった。

「キャン!」「キャン!」「キュゥ……」

 三つの小さな頭が、それぞれ勝手な方向を向いて短い尻尾をパタパタと振っている。真ん中の頭が右の頭の耳を甘噛みし、左の頭が「くぅ〜ん」と情けない声を上げてケンの指先にすり寄ってきた。

「……おいおい、ちょっと待て。冗談だろ? そいつぁ、灰の陣営の絶対的な要である『冥界の番犬ケルベロス』じゃねえか! 地獄番犬だの、守護だの、冥爪だのって恐れられてるあの化け物犬が、なんでまたこんな愛らしい姿になっちまってるんだ?」

 歴戦のドワーフであるゲン爺さんも、これには目を丸くして作業台に顔を近づけた。


「昨日の青の国での戦いで、シオンの中から溢れ出した怨念の瘴気を、こいつが俺の代わりに少し吸い込んじまってね。結果的に魔力の許容量を超えちまって、自己防衛機能が働いたらしい。自身の存在維持のために全魔力を圧縮して、この『省エネモード』になっちまったんだ」

 ケンは苦笑いしながら、仔犬の真ん中の頭を指先でそっと撫でた。

 本来であれば、灰色の毛並みを逆立て、鋭い牙で敵を噛み砕く凶悪な魔獣である。しかし今の姿は、街角で見かける普通の仔犬よりもさらに小さく、儚い。

「命に別状はないみたいだが、このままだと体内に蓄積された余剰魔力がいつ暴走するか分からない。ゲン爺さん、こいつの魔力波長を安定させて、安全に魔力を排出させるための、最高級鉱石を使った『首輪』を作ってくれないか」

「なるほどな。主を守って小さくなっちまうとは、健気な番犬じゃねえか。……任せとけ。ドワーフの技術とこの鋼都の火があれば、半日もかからず極上の制御具を打ってやるわい」

ゲン爺さんが豪快に笑い、さっそく炉の温度を上げるためのふいごを動かし始めた。

 カンッ、カンッ、とリズミカルで心地よい鉄の音が工房に響き渡る。

 その職人の背中を見つめながら、ケンは周囲の気配を探った。工房の外には誰もいない。通りを歩くドワーフたちの足音も遠い。

 ケンは小さく深呼吸をすると、意を決したように声を潜めた。

「……ゲン爺さん。実は今日、本命のタスクはもう一つあるんだ」

「あん? まだ何か打たせる気か? ケルベロスの首輪だけでも結構な急ぎ仕事だぜ?」

「ああ。俺個人の、超極秘プロジェクトだ。絶対に、誰にも……特に『マチ』には秘密にしてほしい」

ケンの真剣で、どこか思い詰めたような声色に、ゲン爺さんもハンマーの手をピタリと止め、怪訝そうな顔で振り向いた。

 ケンは懐から、一枚の羊皮紙を取り出し、作業台の端にそっと広げた。

 そこに描かれていたのは、武器でも防具でもなく、ドンジャラの特殊牌でもない。極めてシンプルで、洗練された一つの装飾品の設計図だった。

「こいつは……指輪、か?」

 ゲン爺さんが目を細める。

「ああ。ベースとなる地金には、不純物のない純度百パーセントの『黄金』を使ってほしい。何のギミックも、複雑な分割構造もいらない。ただ純粋な美しい円環サークルだ。……そして、その中央には、燃え盛る炎のような『真紅の宝石』を一つだけあしらってほしいんだ」

 ケンの指先が、設計図の中央に描かれた宝石のスケッチをなぞる。

「ほう……黄金のリングに、赤い宝石ね」

 ゲン爺さんの目が、やがて大きく見開かれた。ドワーフの鍛冶職人としての長年の勘と、この街で生きる者としての嗅覚が、その装飾品が持つ『本当の意味』と、それを贈る相手の顔を瞬時に弾き出したのだ。

「……ははぁ、なるほどな。赤の陣営を象徴する『戦士』『大剣』『炎剣』『剣聖』……それを束ねるような、赤の国の女に贈るってわけだ。そいつぁ確かに、マチの嬢ちゃんには絶対に秘密にしておかなきゃならねえ代物だわな」

 ゲン爺さんが、ニヤニヤといやらしい笑みを浮かべてケンの肩を小突いた。


「からかわないでくれ。俺は大真面目なんだ」

 ケンは照れ隠しのように顔を背けたが、その瞳の奥には、確かな熱が宿っていた。

 青の国での敗北。

 自分の脳内で完璧に組み上げたつもりだった独自の戦術回路『C6Pカマンベール・シックス・ピース』は、シオンが引き当てた黒牌(魔王)というイレギュラーによって無惨に砕け散った。

 魔王牌はどの色の代わりにもなり、使用セットの点数を二倍に跳ね上げる最悪の特殊牌だ。異なる色三種に魔王牌を組み込んだ『全種族会議』という40点の暴力的な役の前に、ケンのロジックは何もできずに敗れ去った。


 その時、ケンを守るために身を挺して盾となってくれたのが、赤の国の国王サトシと、マチだった。

『怖い時こそ牌を信じろ。田中様が俺に言った言葉と一言一句同じだ』。そう言って笑う彼らの不屈の精神に、ケンはどれほど救われたか分からない。

 理屈じゃない。ロジックでもない。

 計算外の暴力に立ち向かうために必要なのは、最後は己の内に秘めた「絶対に諦めない」という燃えるような意志なのだと、マチの背中が教えてくれた。


だからこそ、ケンは奇をてらった複雑なデザインの指輪を避けた。

 理屈ロジックをこねくり回したようなギミックリングではなく、マチの真っ直ぐで豪快な、炎のような情熱をそのまま形にしたような、シンプルで王道なデザイン。純金の輝きと、真紅の宝石。それこそが、彼女にふさわしいと思ったのだ。

「……で? 納期はいつだ?」

 ゲン爺さんが、職人の顔に戻って腕組みをした。

「天律戦は二年後だ。世界のルールを決めるその大舞台に臨む前に、気合いを入れるための願掛けってところか?」

ケンの問いに、ケンは静かに、だが力強く首を横に振った。

「いや。天律戦まで待つつもりはない。納期はもっと前だ」

「あん?」

「明日から、マチと緑の国の女王ティアによる、俺を鍛え直すための地獄の修行ロードマップが始まる。……俺は、必ずその修行を最後まで生き抜いて、シオンの怨念を凌駕するだけの力を手に入れる。だから……」

ケンは、真っ直ぐにゲン爺さんの目を見つめ返した。

「納期は、『俺の修行が終了した直後』だ。修行を全て終え、天律戦に向けた最終準備が整ったその日に……俺は、この指輪をあいつに渡す。俺自身の覚悟の証として」

退路を断つようなケンの宣言。

 もし修行から逃げ出せば、あるいは心が折れてしまえば、この指輪を受け取る資格はない。己の命と精神を極限まで削り、五百年目の裁定者として真の強さを手に入れた時、初めてこの真紅の宝石を彼女の指にはめるのだ。

ゲン爺さんは、数秒間無言でケンの瞳の奥にある決意を探るように見つめていたが、やがて「ふんっ」と鼻を鳴らした。

「……馬鹿野郎が。異世界から来たヒョロヒョロのガキの分際で、いっちょ前に男の顔をしやがって」

 ゲン爺さんは、バンッと大きな音を立てて己の胸を叩いた。

「任せておけ! ドワーフの最高技術と、俺の職人人生のすべてを懸けて、お前さんのその赤き覚悟にふさわしい、世界で一つだけの指輪を打ってやる! 納期は修行終了日だな? 違えねえな!」

「ああ。頼む、ゲン爺さん」

二人の男が、固い握手を交わそうとした、まさにその瞬間だった。

――バンッ!!!!

工房の分厚いオーク材の扉が、蝶番が吹き飛ぶほどの勢いで蹴り開けられた。

「おーい、ケン! 首輪の採寸はもう終わったかい!?」

「ウワァァッ!?」

「おっとぉぉ!!」

工房に乱入してきたのは、赤の国の豪快な戦乙女――マチだった。

 ケンとゲン爺さんは凄まじい速度で握手の手を離し、テーブルの上のプロポーズリングの設計図を丸めると、背中の後ろに隠した。

「な、なんだい二人して。大の男が揃いも揃って、コソコソと変な図面でも見てたのかい?」

 マチが腕組みをしながら、ジト目で二人を睨みつける。彼女の背負った大剣が、チャキッと不穏な音を立てた。

「い、いや! 何でもない! ケ、ケルベロスの首輪の、ちょっと特殊な留め具の構造について、ドワーフの伝統的な技法を取り入れるべきかどうか、熱い技術的議論を交わしていただけだ!」

 ケンがかつてないほどの早口で言い訳を並べ立てる。

 足元では、仔犬になったケルベロスが「クゥン?」と三つの小首を傾げていた。

「ふぅん……? まあいいや。爺さん、その毛玉の首輪、急ぎで頼むよ!」

「お、おう! 任せとけ嬢ちゃん! 最高に頑丈なやつを作ってやるからよ!」

 ゲン爺さんも冷や汗を流しながら親指を立てる。

「よし! じゃあ行くよ、ケン! 首輪ができあがるのを待ってる暇なんてないんだ! 今日からみっちり、あんたのそのひ弱な肉体と、理屈っぽくて甘ったるい精神のシールドを、根底から鍛え直してやるんだからね!」

「わ、わかってる。すぐに追いつくから、ちょっと待っ――」

 有無を言わさず、マチがケンの首根っこを掴み、ズルズルと工房の外へと引きずり出していく。

「ちょ、マチ! 息が! 苦しい!」

「甘ったれたこと言ってんじゃないよ! 赤の国の田中流は攻撃的速攻型が持ち味なんだ! 歩く速度から鍛え直してやる!」


嵐のように去っていくマチの背中と、引きずられていくケンの情けない姿を見送りながら、ゲン爺さんは「ふぅ」と深い安堵の息を吐き出した。

 そして、作業台に残された丸まった設計図をそっと開き、そこに描かれた真紅の宝石を見つめてニヤリと笑った。

「やれやれ。あんなじゃじゃ馬を嫁にもらおうなんて、異世界の裁定者様はよっぽどの物好きか、それとも相当な大物か、どっちかだな」

ゲン爺さんは、新たな最高級の黄金のインゴットを棚から取り出すと、気合いを入れるようにハンマーを強く握りしめた。

 ――天律戦まで、残り二年。

 敗北の灰の中から立ち上がった五百年目の裁定者は、己の命と精神を削る地獄のロードマップへと足を踏み入れた。

 その過酷な道のりの果てに、真紅の決意の証が輝く日を信じて。

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