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第55話 深淵からの要求


 青の国、アルカナム王国の首都である魔都エルシオン。

 かつて無数の魔法塔が林立し、知恵と法による統治を象徴していたその美しき大都市は今、文字通り『泥』のように溶け落ちようとしていた。


「……あァ……星が、牌が足りない……。ツモォ……ッ」

 虚空を見つめるひ弱な青年――シオンが、焦点の合わない瞳のまま右手で空を掻く。

 ただそれだけの動作。物理的な接触も、高度な魔法陣の展開も一切ない。

 しかし、彼がその言葉を発するたびに、彼の華奢な内側から五十年間熟成された『蠱毒』――数万の民の怨念が、どす黒い瘴気となって溢れ出す。

 瘴気が触れた石畳は沸騰するように泡立ち、歴史ある魔導図書館の壁はドロドロの液状と化して崩れ落ちていく。逃げ惑う市民たちの悲鳴が、阿鼻叫喚の地獄絵図となって魔都に響き渡っていた。

「はぁっ……はぁっ……!」

 その絶望の最前線、崩壊しつつある王宮前広場で、青の国の女王サミーは荒い息を吐きながら膝をついていた。

 彼女の全身を覆っていた青き防御魔法の結界は、すでに蜘蛛の巣のような亀裂が無数に走り、今にも砕け散ろうとしている。魔力は底を尽きかけており、指先は恐怖と疲労で白く変色し、ガタガタと震えが止まらない。

(どうして……私が五十年間、己の心を凍らせてまで守り続けてきた国が……こんな、こんな理不尽な暴力で……!)

 殺し合いが禁じられ、全ての決着がドンジャラで行われるこの世界。情報戦を極め、完璧な理論で国を統治してきた彼女のロジックは、この数万の怨念の集合体には何一つ通用しなかった。

 相手はルールなどお構いなしに、ただ存在しているだけで空間を腐食させていく『純粋な悪意の質量』なのだ。


「あらあら、どうしたのサミー? 貴女の得意な計算とやらで、この状況を打開する確率は弾き出せたかしら?」


 シオンの背後から歩み出たサキュバスの佐藤栞サトウが、扇情的な唇を歪めて嘲笑う。


「終わりよ、サミー。貴女の築き上げた冷徹な王国も、あの日のトラウマも、ここですべて泥に還るの。……さあシオン、あの高慢な女王を喰らい尽くしなさい」


「……ロン」

 シオンの虚ろな声が響いた瞬間、凝縮された致死量の瘴気が、巨大な大蛇となってサミーへと襲いかかった。

 防ぐ術はない。逃げる気力も残されていない。

 サミーはギュッと目を閉じ、死を覚悟した。

――その時である。


ゴォォォォォンッ!!!!


 空を劈くようなけたたましい轟音と汽笛が、魔都エルシオンの空気を強引に引き裂いた。

 空から降ってきたのは、赤の国(カルディア王国)の紋章を掲げた、重厚な鋼鉄の魔道列車。ドワーフの技術が結集された数百トンの質量が、文字通り空間の壁を突き破り、サミーとシオンの間に隕石のように墜落・乱入してきたのだ。



ズドォォォォン!! という凄まじい衝撃波が巻き起こり、シオンの放った瘴気の大蛇が跡形もなく吹き飛ばされる。

 舞い上がる猛烈な土煙と、火花を散らして軋む鋼の車体。

 その扉がゆっくりと開き、蒸気のベールを掻き分けるようにして、一人の少年が静かに戦場へと降り立った。

「待たせたな、サミー。……ここから先は、俺が管理ディレクションする盤面だ」

 燃え盛る炎の鳥――フェニクスを肩に乗せた、五百年目の裁定者。鈴木ケンである。



「ケン……! 貴方、本当に……」

 へたり込むサミーの瞳から、安堵の涙がポロポロとこぼれ落ちる。

 ケンは彼女を一瞥すると、小さく頷き、すぐに戦場全体へと鋭い視線を巡らせた。

(相手は五十年間熟成された『蠱毒』の怨念。物理的な瘴気を伴う規格外のバケモノか。……だが、恐れることはない。どんな混沌だろうと、必ず解体して整理できる)

ケンの脳内に、彼独自の思考解析システムが展開される。


 事象を六つのフェーズに分け、完璧なロジックで盤面を制圧する彼だけの戦術回路だ。ケンはその黄金の思考盤を回転させ、瞬時にこの戦場のタスクを切り分けた。

「シールド(中核防衛部隊)、前へ!!」

 ケンの鋭い号令と共に、魔道列車から二つの影が弾丸のように飛び出した。

「ガッハッハッハ! 怖い時こそ牌を信じろ! 田中様の血が、俺にそう言っているぞ!!」

「全くだ! こんな陰気臭い泥遊び、私の一撃で吹き飛ばしてやるよ!」

 赤の国の国王タナカ・サトシと、豪快な戦乙女タナカ・マチである。二人はシオンが放つ瘴気の波に対し、赤の純正役『烈火陣』から生み出される圧倒的な武力と闘気で壁を作り、物理的な防衛線を瞬時に構築した。


「ネクサス(同盟連携)、起動。ティア、聞こえるか」

 ケンが耳元の通信魔導具に触れると、緑の国の女王ティアの声が響く。

『ええ、聞こえているわケン。……青の国の文献データベースへのハッキングは完了したわ。あの瘴気の魔力波長、解析して弱点を割り出すから、少し時間を稼いで』

「頼む。……フォルジ(戦術構築)、完了。さあ、反撃のロードマップは引けたぞ」



わずか数秒。ただの一瞥で、絶対絶命だった戦況を完全にオーガナイズし、防衛と解析のラインを確立してしまった。

 その異常なまでの統率力と冷静さに、サトウは目を細め、忌々しげに舌打ちをした。

「あら、飛んで火にいる夏の虫……いいえ、五百年に一度の『裁定者』様のお出ましね。相変わらず、可愛げのないガキだこと」

「生憎、愛想を振りまく相手は選ぶ主義でね。……お前の目的は何だ、サトウ。青の国を滅ぼすことが目的じゃないだろう」


ケンが真っ直ぐに見据えると、サトウはふふっと妖艶に笑い、シオンの華奢な肩に腕を回した。

「ご名答よ。こんな国を一つ更地にするなんて、私の本当の目的からすればただの『ついで』、あるいは『交渉のテーブルにつかせるための脅し』に過ぎないわ。……私の要求は、ただ一つ」

サトウの瞳が、狂気と野望の色に爛々と輝く。

「二年後に行われる『天律戦』に……このシオンを、ヴェイル共和国(紫の国)とは別の、独立した正式なプレイヤーとして参加させることよ」

その言葉が響き渡った瞬間。

 王宮前広場を支配していた空気が、一気に凍りついた。サトシ王もマチも、そしてサミーも、信じられないものを見るように息を呑んだ。

「ふ、ふざけるなッ!!」

 サミーが、震える足で立ち上がりながら叫んだ。

「天律戦は、次の五百年の世界のルールを決める神聖な戦いよ! そこに、数万の民の命を喰らって出来上がった、ルール無用の化け物を参加させるなど……そんな真似をすれば、この世界のシステムそのものが根本から崩壊してしまうわ!!」


「あら、殺し合いが禁止され、全ての決着をドンジャラで行うのが今の天律のルールでしょう?」

 サトウは悪びれもせず、残酷な笑みを浮かべた。

「このシオンも、いささか形は歪だけれど、立派な『ドンジャラの打ち手』よ。参加する権利はあるはずだわ。……それに、もし私の要求を蹴るというのなら」


サトウがパチンと指を鳴らす。

 すると、シオンの虚ろな瞳から黒い涙が溢れ出し、周囲の地面から、先ほどとは比べ物にならないほどの致死量の瘴気が間欠泉のように噴き上がり始めた。

 防衛線を張っていたサトシ王とマチが「チィッ!」と舌打ちをして後退するほど、それは圧倒的な絶望の質量だった。

「ここでシオンの怨念を限界まで解放して、この魔都エルシオンの住人を一人残らず、細胞のレベルまでドロドロに溶かしてあげる。……さあ、裁定者様。世界の神聖なルールを守るためにこの街の数万の命を見捨てるか、それともルールを曲げて私の要求を呑むか。究極の二者択一よ、選びなさい」

命か、世界のルールか。

 サキュバスの突きつけた、あまりにも非道で理不尽なトロッコ問題。サミーは絶望に顔を覆い、マチは悔しげに拳を握りしめた。

――しかし。

 ケンは顔色一つ変えず、深緑の思考盤を冷徹に回転させたまま、ゆっくりと一歩前に出た。

「……随分と舐められたもんだな。俺は『裁定者』だぞ。テロリストの理不尽な要求に、ハイそうですかと頷くわけがないだろう」

「あら。じゃあ、この街の連中が全員溶けてもいいと?」

「いいや。両方とも俺が論破して、お前たちの計画をへし折る」

 ダンッ!!

 ケンは、自身のアイテムボックスから取り出した最高級鉱石のドンジャラケースを、崩れた瓦礫のテーブルの上に勢いよく叩きつけた。

 ケースが開き、八十三枚の牌が深緑と黄金の魔力を帯びて整然と並び立つ。


「俺たちと、今ここでドンジャラで勝負しろ」

 ケンは、シオンの虚ろな瞳と、サトウの驚いた顔を真っ直ぐに射抜いた。

「お前たちが勝てば、二年後の天律戦への参加権チケット、俺の権限で特別に発行してやる。……だが、俺が勝ったら、シオンの怨念は俺の管理下で完全に再封印し、お前は二度と俺たちの前に姿を見せるな」

それは、街の存亡と、世界の命運を懸けた、あまりにも巨大すぎる賭けだった。

「ケン、本気か!? 相手は普通の打ち手じゃない、バケモノだぞ!」

 マチが血相を変えて制止しようとするが、ケンは振り返らずに右手を掲げた。

「俺の引いたロードマップに狂いはない。この盤面、絶対に制圧する」

ケンの圧倒的な覚悟と、寸分の隙もない論理のオーラに当てられ、サトウの顔から余裕の笑みが消えた。やがてそれは、獰猛なまでの殺意へと変わる。

「……いいわ。その生意気な自信、根星ごとドロドロに溶かして、絶望の底に叩き落としてあげる」

ゴゴゴゴゴ……!!

 シオンから溢れ出す漆黒の怨念と、ケンから立ち昇る深緑と黄金の理性のオーラが激しくぶつかり合い、魔都の空気をビリビリと震わせる。

 崩壊する王宮前広場の中心。五十年の時を超えた狂気の化け物と、現代のロジックを操る五百年目の裁定者による、規格外のドンジャラ死闘が、今まさに幕を開けようとしていた。

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