第54話 深淵からの解放と悲鳴
青の国、アルカナム王国。その首都である魔都エルシオンの地下深くには、太陽の光はおろか、地上の音すら一切届かない絶対の暗闇が存在する。
『最下層牢獄』――。
大罪人を幽閉するためと表向きにはされているが、実態はただ一人の「爆弾」を五十年間隔離し続けるためだけに作られた、巨大な魔法の棺であった。
その最深部。
壁一面に刻まれた青き魔封じの呪文が淡く明滅する中、空間の中央で太いミスリルの鎖に手足を縛り付けられているのは、一人のひ弱な青年だった。
五十年前、桜の国の王子として生を受けたシオン。
肉体の時間は凍結され、うら若き少年の姿を保っているが、そのうなじから手首にかけては、どす黒い呪いの痣がまるで生き物のように蠢いている。
「……あァ……牌が……星が、足りない……」
虚ろな瞳で中空を見つめ、ひび割れた唇から壊れたレコードのように同じ言葉を繰り返すシオン。
その目の前に、妖艶な紫黒の髪を持つ女――サキュバスの佐藤栞が、蠱惑的な笑みを浮かべて立っていた。
「ええ。足りないわよね、シオン。貴方の中には、数万の民の『ドンジャラへの執着』が詰め込まれているのだから。五十年間、さぞ退屈で、さぞ腹を空かせていたことでしょう?」
サトウは、細く白い指先で、シオンを縛る分厚いミスリルの鎖をそっと撫でた。
「あの青のババア(サミー)……自分の魔法の腕を過信しているようだけど、五十年の歳月は、強固な封印すらも確実に劣化させるのよ。それに、貴方の内側で熟成された『蠱毒』の怨念は、すでにこの鎖の許容量を超えている」
サトウの指先から、紫色の禍々しい魔力が鎖へと流し込まれる。
それは、五十年前に彼女自身が桜の国で展開した狂気の儀式――その鍵となる魔力波長だった。
ピキッ……!!
絶対の強度を誇るはずのミスリルの鎖に、亀裂が走る。
その音を聞いた瞬間、虚ろだったシオンの瞳に、ギラリと黒い炎が宿った。
「あ……あ、あァァァッ!!」
ひ弱な少年の細い腕に、力が込められる。
ギリギリと鎖が軋む音が地下牢獄に反響したかと思うと、次の瞬間。
――ガァンッ!!!!
爆発音と共に、魔封じの鎖が粉々に吹き飛んだ。
「ふふっ。おはよう、私の愛しいバケモノ」
サトウが優雅に一歩下がる。
解放されたシオンは、フラフラと覚束ない足取りで立ち上がった。見た目は風が吹けば倒れてしまいそうなほどか弱いが、その全身から立ち昇る黒い瘴気は、周囲の石造りの壁を瞬く間に腐食させ、ドロドロと溶かしていく。
「……ツモ……ツモォ……ッ!!」
シオンが天を仰ぎ、五十年前と変わらぬ、数万人の断末魔が混ざり合ったような絶叫を上げた。
その瞬間、最下層牢獄を満たしていた青き魔封じの結界が、内側からの圧倒的な暴力によってガラスのように粉砕された。
* * *
「な、なんだ今の振動は!?」
最下層へと続く巨大な鉄扉の前で警備に当たっていた青の国の魔導騎士たちは、足元から突き上げるような激しい揺れに顔を見合わせた。
「結界の魔力反応が消失しました! 内部から、あり得ない数値の瘴気が膨張しています!」
「馬鹿な! 中にいるのは、ただのひ弱な青年のはずだぞ!?」
彼らは五十年前の真実を知らされていない。ただ、「重要参考人」が幽閉されているとしか聞かされていなかった。
ズン……ズン……。
重い足音が、鉄扉の向こうから近づいてくる。
「構えろ! 何かが来るぞ!」
十数名の魔導騎士が一斉に杖を構え、攻撃魔法の詠唱を開始する。
だが、彼らが魔法を放つよりも早く。
厚さ三十センチはある特注の魔法鉄扉が、紙切れのように中央から引き裂かれた。
「ヒッ……!?」
もうもうと立ち込める黒い瘴気の中から姿を現したのは、ボロボロの服を纏った、細身の青年だった。
だが、その背後には、彼の中から溢れ出した怨念が「巨大な三つ首の化け物」のシルエットを形作って揺らめいている。
「あァ……リーチ……」
シオンが虚ろな声で呟き、虚空を掴むように右手を振り下ろした。
――ロン。
その言葉が発せられた瞬間、十数名の魔導騎士たちの身体が、目に見えない巨大な圧力によって壁に叩きつけられ、全員が一瞬にして気を失った。
一切の魔法の行使もなく、ただ「存在の質量の差」だけで空間を制圧したのだ。
「素晴らしいわ、シオン。さあ、五十年間貴方を閉じ込めていた冷酷な女王陛下に、ご挨拶にいきましょうか」
サトウの甲高い笑い声が、魔都の地下から地上へ向けて、死の宣告のように響き渡っていった。
* * *
同じ頃。魔都エルシオンの中央にそびえ立つ王宮の執務室。
青の国の女王サミーは、最高級の紅茶を傾けながら、山積みになった書類に目を通していた。
模擬天律戦の事後処理、赤の国や緑の国との今後の外交方針、そして何より、消えたサキュバスの行方調査。
彼女の頭脳は、一切の感情を交えず、氷のように冷徹な計算で最適解を弾き出し続けている。五十年前の「あの日」から、彼女はそうやってこの国を、そして自分自身を守り続けてきたのだ。
だが。
ピキッ……パリンッ!!
サミーの執務机の上に置かれていた、青く輝く『生命の水晶』が、突然、甲高い音を立てて粉々に砕け散った。
「…………え?」
サミーの手から、アンティークのティーカップが滑り落ちる。
ガチャン、と陶器が砕け、温かい紅茶が絨毯を汚すが、サミーの視線は粉々になった水晶に釘付けになっていた。
その水晶は、ただ一つの用途のためだけにサミーが自らの魔力で生成し、五十年間片時も手放さずに監視し続けてきたもの。
――地下最下層に幽閉した、『シオン』の封印状況を示すアラート。
「嘘……でしょう……?」
サミーの口から、信じられないものを見るような、かすれた声が漏れた。
五十年間、どれほど彼女が魔力を注ぎ込み、結界を強化し続けてきたか。それが、いともたやすく内側から破壊されたというのか。
バンッ!!
執務室の重厚な扉が乱暴に開かれ、血相を変えた側近の魔導師が転がり込んできた。
「サ、サミー様!! 大変です!! 最下層牢獄の結界が完全に消失! 内部に配備していた一個大隊規模の魔導騎士たちが、瞬時に全滅状態とのことです!!」
「……相手は、何人?」
「ひ、一人です!! 報告によれば、黒い瘴気を纏った『ひ弱な青年』が、物理的な接触もなしに空間そのものを制圧しながら、地上へ向けてゆっくりと歩を進めていると……!!」
その報告を聞いた瞬間。
サミーの中で、五十年間分厚い氷で覆い隠していた「恐怖」が、一気に決壊した。
冷徹な女王の仮面が剥がれ落ちる。
彼女の顔からは一瞬にして血の気が引き、青ざめた肌には滝のような冷や汗が吹き出した。
ガタガタと膝が震え、立っていることすらままならず、サミーはその場にへたり込んだ。
(ああ……あああああ……ッ!!)
脳裏にフラッシュバックするのは、五十年前の光景。
数万の民の命を喰らい、ひ弱な少年の皮を被ったまま、巨大な怨念の塊となって国境を蹂躙したバケモノ。
あの時は、相手が知性を持たない暴走状態だったからこそ、情報の優位性で何とか『叡智の書』の魔法を叩き込むことができた。
しかし、今は違う。
「……サトウ、栞……あの女が、シオンを誘導しているとしたら……」
サミーの歯の根が合わず、カチカチと音を立てる。
純粋な暴力の塊であるシオンと、知略と狂気を併せ持つサキュバス。
この二つが結びついた今、青の国に現存する魔法戦力だけで太刀打ちできる相手ではない。
あの五十年間熟成された「蠱毒」の呪いは、今のサミーの魔法では二度と凍らせることはできないのだ。
「……国が、終わる……」
サミーは、自身の指先が恐怖で白く変色しているのを見つめた。
エルミア家の誇り。青の国の女王としてのプライド。そんなものは、あの圧倒的な絶望の前では何の役にも立たない。
「サ、サミー様!? いかがなさいましたか、顔面が蒼白です! すぐに迎撃の陣を――」
「無駄よ!!」
サミーは側近の言葉を金切り声で遮った。
「今の青の国に、あいつを止められる戦力はない……! 触れただけで、皆殺しにされるわ!!」
サミーは這うようにして執務机の引き出しを開け、魔力紙と万年筆をひったくった。
手が震え、文字が乱れる。それでも彼女は、なりふり構わずペンを走らせた。
女王としての体面も、他国への見栄も、全てを投げ捨てる。今必要なのは、あの狂気のルールを破壊できる存在だけだ。
『緊急事態。五十年前の亡霊が目覚めた。青の国(私)だけでは対処不可能。
――ケン。ティア。どうか、助けて。』
震える手で二枚の魔力紙に同じ文面を書き殴ると、サミーは窓を開け放ち、自らの血を触媒にして召喚魔法を詠唱した。
「……飛びなさい! 赤の国の裁定者と、緑のババアの元へ!! 最速で!!」
サミーの魔力を受けて具現化した二羽の漆黒のカラスが、バサァッ!と大きく羽ばたき、夕闇が迫るエルシオンの空へと矢のように飛び立っていった。
カラスたちの姿が空の彼方に消えていくのを、サミーはただ祈るような目で見つめる。
その直後。
ズズズズズズッ……!!
魔都エルシオンの地盤そのものが、巨大な悲鳴を上げるように激しく揺れ始めた。
地下から這い上がってくる、圧倒的な『星の怨念』の気配。
「……お願い、ケン……間に合って……!」
かつて天真爛漫だった少女の心を永遠に凍りつかせた最悪の悪夢が、五十年の時を超え、再び青の国を蹂躙しようとしていた。




