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第53話 亡霊と凍りついた心



 時は現在から遡ること、約五十年。

 殺し合いが禁じられ、世界の全ての決着がドンジャラによって行われるこの世界において、小国の生き残る道はただ一つ。強大なドンジャラの打ち手を育成し、他国に付け入る隙を与えないことだった。


 しかし、青の国・アルカナム王国に隣接する小国『桜の国』の玉座の間には、重苦しい絶望が立ち込めていた。


「……ロン。シオン王子、私の勝ちです」

「あ、あぁ……また、負けてしまった……」

 指南役の老人が申し訳なさそうに頭を下げると、うら若きシオン王子は青ざめた顔で卓に突っ伏した。彼の手牌はバラバラで、およそ役を成す形には程遠い。


 玉座からその様子を見下ろしていた国王サマンは、ギリッと奥歯を噛み締め、玉座の肘掛けに爪を立てた。

「……なぜだ。なぜお前には、牌の導きが見えないのだ、シオン」

「も、申し訳ございません、父上……ッ! どんなに定石を学んでも、いざ卓に向かうと牌の並びが頭から抜け落ちてしまって……! 私には、これがただの冷たい石ころにしか見えないのです……!」

 涙を流して土下座する、ひ弱で心優しい息子。サマン王は、深い悲しみと焦燥を込めて重いため息を吐き出した。


「優しさだけでは国は守れんのだ……! ドンジャラが全てを決めるこの世界において、盤面での弱さは絶対の罪だ。このまま次期国王たるお前が負け続ければ、我が桜の国は遠からず他国の使節団に領土を奪い尽くされ、地図から消え去る運命にあるのだぞ!」


「う、うぅ……お許しください、父上……!」


 床に伏してむせび泣く息子を見つめ、サマン王は天を仰いだ。どんなに優秀な指南役をつけても、王子の才能は致命的に欠如していた。国の未来は、完全に閉ざされようとしていた。


「王よ。思い悩むことはありませんわ」


 絶望の淵に沈むサマン王の耳元で、不意に、甘く酷く冷たい声が囁いた。

 いつの間にか玉座の背後に立っていたのは、妖艶な紫黒の髪を持つ女――サキュバス(佐藤栞)。彼女はまるで救済者のような慈愛の笑みを浮かべて、王の肩にそっと触れた。


「王子に才能がないのであれば、『外側』から才能を詰め込んでしまえばいいのです。……ええ、例えば、この国の民全員の『星(命)』と知識を絞り出し、王子の器に直接注ぎ込む……『蠱毒こどく』という素晴らしい儀式がございますわ」


「こ、蠱毒だと……!? 民を犠牲にするなど、許されるはずが――」


「では、国が滅びるのをただ指を咥えて見ているおつもりで? 王子を無能と謗られながら、野垂れ死ぬのを?」


 サトウの囁きは、精神を侵食する猛毒だった。

 国を守るため。そして何より、愛する息子を守るため。極限のプレッシャーに追い詰められていたサマン王は、ついにその狂気の提案に頷いてしまったのである。


     * * *


 ――その夜、桜の国は地獄と化した。


 王の命令により広場に集められた数万の国民たち。サトウが展開した巨大な魔方陣が、彼らの生命力とドンジャラの知識を強制的に抽出し、拘束されたシオン王子のひ弱な体内へと濁流のように注ぎ込んでいく。


「あああァァァァァッ!! 痛い、頭が割れるゥゥッ!!」


 悲痛な叫び声と共に、シオンの精神は完全に崩壊した。

 だが、奇妙なことに彼の肉体は巨大な異形へと変貌しなかった。見た目は痛ましいほどに細く、ひ弱なうら若き王子のままだった。

 しかし、その華奢な身体の「内側」には、数万の怨念と狂気が高密度に圧縮され、おぞましい真っ黒な魔力となって皮膚の下で蠢いていた。

 純粋な暴力と星の怨念の集合体たる『人間の姿をした化け物』は、自我を失った虚ろな瞳で立ち上がり、隣国アルカナム王国への侵攻を開始した。


     * * *


「……嘘、でしょう? 貴方が、あの心優しかったシオン王子だというの……?」


 国境守備隊の救援に駆けつけた若きサミーは、眼前の惨状に言葉を失った。

 当時のサミーは、現在の冷徹な女王の姿からは想像もつかないほど、天真爛漫な王女だった。「ドンジャラは誰も傷つけずに笑顔で決着をつけるルール」だと、純粋に信じていたのだ。

 だが目の前にいるのは、見た目こそ王子のままだが、牌に触れるたびにそのひ弱な指先から数万の民の断末魔を響かせるバケモノだった。


「あァ……リーチ……ツモォ……ッ」

 シオンが虚ろな声で牌を叩きつけた瞬間、国境の砦が怨念の嵐によって吹き飛ばされた。

 そこに、彼女が信じていた「笑顔のドンジャラ」など欠片もなかった。あるのは、他者の命を喰らって出来上がった、ルール無用の暴力的な打牌だけ。


「逃げてください、サミー様! あの少年は、中身が完全にバケモノです! 平和的な対話など通じません!」

 護衛の魔法使いたちが悲鳴を上げる中、天真爛漫だった少女の瞳から、ポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちた。


(……私の理想は、あの悪意の前では無力なのね)


 サミーは、涙を乱暴に拭い去った。

 その瞬間、彼女の中で「天真爛漫な少女」は完全に死んだ。代わりに覚醒したのは、アルカナム王室に眠る、氷のように冷徹な計算と情報処理能力。


「……感情は、これでおしまい。ここから先は、ただの『処理』よ」


 サミーの瞳から一切の感情が消え失せた。完全な情報戦スタイルの誕生である。

 彼女は、シオンが放つ無軌道な怨念の攻撃を幻影魔法で冷酷にいなし、相手の手牌を完全に透視して盤面を支配していく。


「……そこね。ロン」

 サミーの抑揚のないコールと共に、青の純正役『叡智の書』が完成した。絶対零度の冷気が少年の華奢な全身を包み込み、その狂気に満ちた魔力回路を完全に凍結させた。


「……ころして、くれ……」

 氷漬けになりながら、ひ弱な少年の唇から微弱な声が漏れた。サミーは冷たい目でそれを見下ろす。

「殺し合いは、天律戦のルールで禁じられているわ。……それに、貴方をこうまで狂わせた『元凶』の正体を吐かせるまで、死なせるわけにはいかない」


 こうして、桜の国は一夜にして完全に壊滅した。

 サミーは、事態の異常性を瞬時に判断し、中身が化け物と化したシオンを他国に悟られることなく秘密裏に青の国へと連行した。

 未曾有の危機をたった一人で冷徹に鎮圧したこの武勲により、サミーは一気に筆頭王女候補へと登り詰め、後の女王の座を確固たるものとした。

 しかしそれは、シオンという「人間の姿をした爆弾」を、五十年に渡り自国の地下深くで極秘管理し続けなければならないという、重い十字架を背負う始まりでもあった。


     * * *


 ――そして、時は戻り、現在。


 青の国、魔都エルシオンの地下深淵。

 五十年もの間、誰一人訪れることのなかった極寒の『最下層牢獄』の中で、太い魔封じの鎖に繋がれたひ弱な少年が、虚ろな目で宙を見つめていた。容姿は、五十年前の姿のままだ。


「……あァ……牌が……星が足りない……」

 かつてシオンと呼ばれたその少年の前に、静かな足音が響いた。


「お可哀想に。私の愛しい王子様」


 鉄格子をすり抜けて現れたのは、五十年前と寸分違わぬ妖艶な姿をしたサキュバス――佐藤栞だった。マチの肉体から弾き出された彼女は、予備の魔力経路を辿りこの地下牢獄へと逃げ延びていたのだ。


「サ……トウ……?」

 少年の虚ろな瞳が、僅かに反応を示す。無害な青年の見た目とは裏腹に、その内側からは五十年間熟成された底知れぬ瘴気が漏れ出している。


「ええ。よく五十年間も、一人で耐え抜きましたね」


 サトウの瞳が、狂気と復讐の色に爛々と輝く。


「さあ、起きなさいシオン。五十年前の雪辱を果たす時よ。……今度こそ、貴方を地下に幽閉した青の冷徹な女王も、赤の生意気なガキも、全員まとめて地獄のドンジャラに引きずり込んであげるわ」


 暗黒の地下牢獄に、サキュバスの甲高い笑い声が反響する。

 五十年の時を経て、サミーが最も恐れた『人間の姿をした化け物』が、二年後の天律戦に向けた最悪の災厄として今まさに目を覚まそうとしていた。

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