第49話 番犬と深淵
闘技場『パンデモニウム』を包み込んでいた熱狂は、模擬・天律戦の閉幕と共に、どこか名残惜しげな安堵へと変わっていった。
鈴木ケンが身を挺して守り抜いた盤面。タナカ・マチを救い出し、サキュバスの狂気を退けたその戦いは、間違いなく五百年後の歴史に刻まれる伝説となっただろう。
『――これにて、模擬・天律戦を終了とする! 優勝は赤の国、そして緑の国との同盟勢力である!』
不死鳥の冷徹なコールが響く。
優勝の証として、闘技場の中心に鎮座していた巨大な檻が、ガラガラと音を立ててケンの前へと移動させられた。
檻の中には、先ほどまで絶望の雄叫びを上げていた地獄の番犬・ケルベロスが、鎖に繋がれて鎮座している。その姿は威圧的で、見る者すべてを震え上がらせる禍々しい瘴気を放っていた。
「これが……優勝賞品、『地獄番犬』か」
ケンは、その冷たい鎖を手に取る。その瞬間、契約の魔力がケンの身体を駆け巡り、主従の証が刻み込まれた。
ヴェイル議長が、仮面の下で何を考えているのか分からない、薄い笑みを浮かべてこちらを見ている。
「おめでとう、ケン殿。……貴方の勝利だ。その番犬は、貴方の好きにするといい」
ヴェイルが去り際に浮かべた、あの不敵な笑み。ケンは言いようのない違和感を覚えた。
(……なんだ? 使役権を取られたはずなのに、なぜあんなに嬉しそうなんだ?)
その思考を中断させるように、ケンの手の中で、劇的な異変が起きた。
ブォォォォォォォォンッ!!
ケンの魔力がケルベロスに流れ込んだ瞬間、番犬の禍々しい肉体が、まるで光に溶けるように縮小し始めた。
黒い毛並みは純白のふわふわとしたものへと変わり、鋭かった牙は丸みを帯び、数メートルの巨体は、わずか数十センチの愛くるしい子犬の姿へと変貌してしまったのだ。
「……は?」
ケンは思わず、その小さな生き物を抱き上げた。
「おい、なんだこれ? 俺が手に入れたのは、最強の番犬じゃなかったのか?」
「グルルゥ……なんだテメェ、俺様をこんな柔らかい腕で抱くんじゃねぇ! さっさと下ろせ、コラ!」
子犬が、生意気な俺様口調で吠えた。
「……喋った!?」
ケンが腰を抜かしかけていると、肩に止まっていたフェニクスが、呆れたようにため息をついた。
「説明してやろう。使役獣というのは、使役者の魔力の質や思想に強く影響を受けるものだ。……ケン、お前のその『在庫管理』のロジックと、マチを救い出そうとしたその軟弱な情が、この番犬の姿を『番犬』から『飼い犬』へと強制的にデバッグ(書き換え)したのだ」
「なんだと!? じゃあ、この先ずっとこいつは子犬のままなのか!?」
「……能力は変わらんから安心しろ。だが、このケルベロスの体内には、五百年前の天律戦で封印された『謎の10人目』の残滓……佐藤栞の魂が、呪いとして完全に組み込まれている」
フェニクスがポツリと告げた事実に、ケンは戦慄した。
見た目は子犬。だが、その中身にはかつてマチを支配したサキュバスの因縁が眠っている。
ケンの新たな相棒は、一筋縄ではいかない爆弾そのものだった。
* * *
その夜、闘技場の特別室で開かれた晩餐会。
各国の代表が一堂に会する中、ヴェイル議長はグラスを掲げ、静かに口を開いた。
「この度は、我が国の選手・サトウの暴走により、多大なるご迷惑をおかけした。……深く、お詫び申し上げます」
その謝罪に嘘はないように見えたが、彼の瞳は深淵のように底知れない。
「だが、ケン殿。……今回の模擬戦は、あくまで序章だ」
ヴェイルは、ケンに向かって真っ直ぐに宣言した。
「二年後の本番、天律戦。その時こそ、我々紫の国が必ず勝利し、この世界のドンジャラルールを終わらせる。……その時を楽しみにしているよ」
晩餐会が終わり、ケンはマチと共に夜の闘技場の屋上にいた。
マチはまだ療養中だが、ケンの膝に頭を預けて星空を見上げている。
「……ケン。サキュバスが消えた今、シオリの魂も、どこかへ雲隠れしたみたいだね」
「ああ。だが、あいつは必ずまた戻ってくる。……俺たちの本当の戦いは、ここからだ」
ケンは、膝の上で眠る小さなケルベロス――今はなきシオリの面影を宿す獣――を優しく撫でた。
行方をくらましたサキュバスの捜索。そして、二年後に迫る天律戦。
「何があっても、俺が守る。……マチ、あんたも、お前たちもな」
ケンは誓う。
田中勇が成し遂げられなかった、全員を救うためのルール(天律)。
それを制定するための準備期間が、いま、静かに幕を開けたのである。
アルカナ・ドンジャラの物語は、まだ終わらない。
五百年後の未来を切り拓く裁定者の旅は、さらなる深淵へと続いていく――。




