第46話 在庫凍結と自壊する器
地獄の番犬の、魂を削り取るような凄惨な咆哮が鳴り響く。
それが開幕の合図だった。
『――最終戦、大将卓! 試合開始ッ!!』
仮面の審判が腕を振り下ろした瞬間、黒曜石の卓上は、これまでの試合とは全く次元の違う『化け物たちの領域』へと変貌を遂げた。
「……まずは、視覚という不確かな情報に頼る愚か者たちを、深い海の底へご案内しましょう」
静かに口を開いたのは、青の国(アルカナム王国)使節団団長、シリウスだった。
彼が指先で卓をトン、と叩いた瞬間。卓の上に並べられた八十三枚すべての牌が、一瞬にして『深い青色』に染まり上がった。
赤の大剣も、緑のエルフも、紫の魔術師も。牌に刻まれたすべての絵柄と文字が、水底の幻影のように滲み、完全に識別不可能となったのだ。
「なっ……!? 牌の柄が全部青一色に……ッ!」
ベンチで見ていたコアラが、データ端末を叩きながら悲鳴を上げる。
「最高位の『幻影魔法』です! 物理的な牌のすり替えではなく、術者以外の網膜に映る光の屈折率を強制的に書き換えている……こんなこと、天律システムを掻い潜って個人で発動できるレベルの魔法じゃありません!」
「フフッ。これで、貴方たちは自分が何を引いて、何を捨てているのかすら分からない。……さあ、暗闇の中で溺れなさい」
シリウスが、冷酷な笑みを浮かべて牌をツモる。
だが。
「……風が、泣いているよ。そんなに無理して光を曲げたら、自然の理が歪んじゃうじゃないか」
深くフードを被った緑の国の大将・リアンが、全く動じることなく、青一色に染まった牌をヒョイと引き抜いた。
「森姫(緑の1)。いらないよ」
リアンが捨てた青色の牌。それが卓に置かれた瞬間、フッと幻影が解け、緑色のエルフの絵柄が浮かび上がった。
「ほう。私の幻影を、視覚ではなく『気配』で読んだか。緑の国の精霊視……厄介ですね」
シリウスが目を細める。
視覚を奪う青の幻影魔法。それを万物の同化によってすり抜ける緑の精霊視。
開始わずか一巡で、彼らがどれほど常軌を逸したトッププレイヤーであるかが、観衆の目にも明らかだった。
しかし。
その高度な魔法と技の応酬すらも、ただの『児戯』に過ぎないと思わせるほどの、絶対的な狂気が卓を支配し始めた。
「――あははっ! なにそれ、青く光るおもちゃ? つーまンないのッ!!」
バァァァァァァァァンッッ!!!!
タナカ・マチの身体を乗っ取ったサトウ(サキュバス)が、両手で黒曜石の卓を叩き割らんばかりの勢いで殴りつけた。
ドゴォォッ! という衝撃音と共に、シリウスの展開していた繊細な幻影魔法が、純粋な『暴力(物理)』と『魔力の暴走』によってガラスのように粉々に砕け散った。
「なっ……私の最高位魔法を、ただの闘気で吹き飛ばしただと!?」
冷静なシリウスの顔に、初めて驚愕が走る。
サトウは、マチ本来の規格外の「闘気」に、サキュバス特有の「呪力」を強制的に混ぜ合わせていた。
それは、人間の肉体の限界を完全に無視した、文字通りの自爆攻撃に近いプレイスタイルだった。
「……リーチ」
サトウが、異常な速度で牌を叩きつける。
その瞬間、彼女の指の関節がメキリと嫌な音を立て、口の端からツツーッと一筋の血がこぼれ落ちた。
「マチ……ッ!!」
ケンが、思わず卓から身を乗り出す。
筋肉の限界を超えた出力。このまま打牌を続ければ、マチの身体は内側から崩壊してしまう。
「あははっ! 心配? いいわよケンおじさん。だったら早く、私から星を奪ってこのゲームを終わらせれば?」
サトウは、血に染まった唇を妖艶に舐め回し、ケンの耳元に届くように、呪詛のような声で囁いた。
「でもね。私から星を奪う(直撃する)たびに、その星が失われる分の『致死量の魔力ダメージ』は……全部、このメスゴリラの『肉体』と『魂』に肩代わりさせるよう、呪い(パス)を繋いでおいたわ」
「……てめえッ……!!」
ケンの全身の血が、氷点下まで凍りつくような感覚に襲われた。
「だから、あんたが勝とうとすればするほど、この女の身体は内側からグチャグチャに壊れていく。……さあ、どうする? 自分の勝利のために愛するパートナーを殺す? それとも、黙って私に星を全部差し出して、仲良く地獄に落ちる?」
最悪の人質宣言。
打てば、マチが死ぬ。打たなければ、ケンの星が奪われ、裁定者としての権利を永遠に失い、この世界は紫の国(魔王軍)の支配下へと堕ちる。
逃げ場のない、完璧な絶望のジレンマだった。
「……ケン殿……!!」
ベンチのサクラとコアラが、絶望的な表情でケンを見つめる。
シリウスもリアンも、サトウの狂気的なプレッシャーと異常な上がり速度の前に、完全に手足を縛られ、防戦一方に追い込まれていた。
「リーチ、リーチィ! さあ、私の上がり牌はどこかなァ!!」
サトウが、狂ったように笑いながらツモの番を待つ。彼女の狙いは明確だ。手数を増やし、ケン以外の他国から星を奪い尽くして圧勝すること。
(……くそっ。どうすればいい。マチを傷つけずに、サトウを無力化する方法……そんなもの、あるわけが……)
ケンは、冷や汗を流しながら自分の手牌を見つめた。
自分が上がれば、マチが傷つく。
他国が上がっても、マチの狂気の前では防ぎきれない。
その時。
ケンの脳裏に、かつて元の世界で、来る日も来る日も向き合ってきた『無機質な巨大倉庫』の風景がフラッシュバックした。
『――在庫管理の基本は、全体の流れ(フロー)を完全に掌握することだ。一つでも行き先不明の不良品を出せば、倉庫全体が機能不全に陥る』
かつての口うるさい工場長の言葉。
だが、今のケンにとって、それは世界を救うための『福音』だった。
(……そうだ。自分が上がる必要も、他国を勝たせる必要もない。マチを傷つけずに、この地獄を終わらせる『最適解』が、一つだけある)
ケンは、ゆっくりと目を閉じた。
彼の意識は、闘技場の喧騒を離れ、静寂に包まれた『脳内の巨大倉庫』へとダイブしていく。
盤面に存在する牌の総数は『八十三枚』。
各プレイヤーの手牌が『十三枚』ずつ、計五十二枚。
山(壁)に残された牌が『三十一枚』。
そして、これまで河に捨てられた牌のすべて。
(……全牌記憶、完全再起動。権限は、俺だ)
カチリ、と。
鈴木ケンの中で、何かのスイッチが入った。
彼が目を開いた瞬間。
ケンの瞳孔は、人間特有の感情の揺らぎを完全に排除した、冷徹な『機械』のような無機質な光を帯びていた。
「……リーチだ。青の魔法使い、緑の兄ちゃん。お前らも、もう諦めな」
ケンが、低く、しかし闘技場全体に響き渡る声で呟いた。
「……何を寝言を。赤の裁定者よ、貴方は愛する者を前に、ついに狂ったか」
シリウスが、冷笑しながら牌をツモる。彼は密かに、サトウの狂気を逆手に取り、自分の大技『叡智の書』を完成させるための強引な鳴き(チー)を仕掛けようとしていた。
一方、緑のリアンも、サトウの隙を突いて『よこどり』を狙い、気配を殺して息を潜めている。
「私の上がりまで、あと一巡……! これで終わりよ、ケンおじさん!」
サトウが、勝利を確信して腕を振り上げる。
シリウスの魔法の起点。
リアンのよこどりのタイミング。
サトウの決定的な上がり牌。
三つの強大な思惑が、次の一巡で完全に衝突しようとしていた。
だが。
「――ピッキング、開始」
ケンが、自分の手牌から、何の変哲もない一枚の牌を、卓の中央に向かって指で弾き飛ばした。
それは、青の2『水聖』の牌だった。
カァァァンッ!!
その牌は、まるで計算し尽くされたビリヤードの球のように、シリウスがまさに魔力を込めて引き抜こうとしていた山の牌に『物理的』に激突し、その軌道を数ミリだけ横にずらした。
「なっ……!? 私の魔力パスが、弾かれた!?」
シリウスが目を見開く。ケンの捨て牌が、彼の幻影魔法の起点を完全に妨害したのだ。
そして、その『水聖』の牌が卓の中央に滑り出た瞬間。
「……えっ?」
緑のリアンが、思わず声を漏らした。
その牌は、リアンがテンパイを維持するために、どうしても鳴かなければ(ポンしなければ)ならない絶対条件の牌だったのだ。
リアンは、精霊視の反射神経によって、思考するよりも早く口を開いてしまった。
「ポ、ポン……!」
ドンジャラのルール。
鳴き(ポン)が発生した場合、ターンの順番は強制的にスキップされ、鳴いた者の次のプレイヤーへと順番が飛ぶ。
「あ……」
サトウの顔から、笑みが消え失せた。
リアンがポンをしたことにより、サトウのツモ番が『強制的に一つ飛ばされた』のだ。
サトウが引くはずだった『上がり牌(魔王牌)』は、無情にも次の順番であるケンの手元へと吸い込まれていった。
「あ、あああ……私の、私の魔王牌が……!!」
サトウが、マチの顔を歪ませて絶叫する。
「……偶然か!? いや、まさか……最初から、この連鎖(玉突き事故)を狙ってあの牌を捨てたというのか!?」
シリウスが、戦慄に顔を引き攣らせる。
「偶然なわけねえだろ。俺は、ただのしがない物流倉庫のオッサンだぜ」
ケンは、手元に引き込んだ『魔王牌(サトウの上がり牌)』を、ガッチリと自分の手牌の奥底にロック(固定)した。
「不良品を出さないコツは簡単だ。誰がどの在庫(牌)を欲しがっているか、すべて把握し、永遠に倉庫から出さないことだ」
そこからの十数巡は。
まさに、鈴木ケンという男による『完全なる蹂躙』だった。
シリウスが魔法を使おうとすれば、ケンが先に牌を鳴いて順番を狂わせる。
リアンがよこどりを狙えば、絶対に鳴けない牌だけをピンポイントで切り続ける。
そして、サトウが喉から手が出るほど欲しい上がり牌は、すべてケンが自分の手牌の「安全地帯」に溜め込み、絶対に卓へ放たなかった。
誰も上がれない。
誰も攻撃できない。
ただただ、ケンという絶対的な管理者の手のひらの上で、無意味に牌を引かされ、捨てさせられるだけの時間が続く。
「う、嘘だろ……。青の団長も、緑のトップも、完全に手玉に取られてる……」
「何も起きない……あの赤の男が、盤面全体の時間を止めてるみたいだ……」
観客席の魔族たちが、その異常すぎる光景に、恐怖すら抱き始めていた。
やがて。
卓の上の山(壁)の牌が、最後の一枚を告げた。
「……これで、最後だ」
ケンが、最後の一枚を引き、そして、誰も欲しがっていない完全な安全牌を捨てる。
『……や、山牌、終了!! 誰も上がれず!! 特例ルールにより、この局は……!』
仮面の審判が、震える声で叫ぶ。
『完全流局!!! 星の移動は、一切ありません!!!』
静寂。
誰もが、息を呑むことすら忘れていた。
誰一人傷つけることなく。自国の星を一つも減らすことなく。
四カ国の最強の大将たちが集う卓を、己の『記憶と管理能力』だけで完全に制圧してみせたのだ。
「……在庫のズレは、ゼロだ」
ケンは、自らの手牌をパタンと伏せ、冷徹な瞳でサトウを射抜いた。
「お前らの欲しい牌は、一つ残らず、俺の倉庫にロックした。……マチの身体を盾にすれば勝てると思ったか? 浅はかだな、十四歳のガキが」
「……ッッ!!」
サトウ(マチ)の顔が、五百年の間で一度も見せたことのない、激しい屈辱と苛立ちに歪んだ。
絶対的な暴力も、陰湿な呪いも、この男の無機質で完璧な『論理』の前では、無力化される。
「てめえ……よくも、よくも私のゲームを台無しにしてくれたわね……!!」
サトウのギリッと歯を食いしばる音が、闘技場に響く。
盤面を完全に支配した赤の裁定者と、屈辱に震える狂気の戦乙女。
勝負の行方は、誰も予想し得ない、狂気と論理の極限領域へと足を踏み入れていた。




