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第44話 データと直感の融合



 紫の魔族の自爆という凄惨な幕切れを迎えた、模擬・天律戦の第一試合。

 闘技場『パンデモニウム』を包んでいた異様な熱狂は、一時的に冷や水を浴びせられたように静まり返っていたが、すぐにそれを上回る「血を求める歓声」へと変わっていった。


「すげえぜ赤の国の女! 魔族を真正面からぶっ飛ばしやがった!」

「だがルール上は紫の国が星を一つ失っただけだ! 次だ、次の試合を見せろォ!!」


 観客たちの熱気とは裏腹に、赤の国のベンチは重苦しい空気に包まれていた。

 極限の闘気を放出し、魔族の自爆を相殺したマチは、完全に魔力を使い果たし、深い気絶状態に陥っていたのだ。


「……マチさん、息はありますが、全身の魔力回路がオーバーヒートしています。数日は目を覚まさないかもしれません」

 コアラが、携帯端末でマチのバイタルサインを確認しながら、ギリッと奥歯を噛み締めた。

「私の計算が甘かった。第一試合から、相手が自らの命(星)を捨ててまで盤面を破壊しに来るという『狂気』を、アルゴリズムに組み込めていなかった」


「気にするな、コアラ。あんな自爆テロ、誰にも予測できるもんか」

 ケンは、汗だくで眠るマチの額にそっと触れた。

「サクラ、ガク。悪いがマチを控室のベッドに運んで休ませてやってくれ。念のため、お前たちも部屋から出ないように」


「承知いたしました。……ケン殿も、お気をつけて。この闘技場には、明確な悪意が渦巻いています」

 サクラがマチの重い身体を魔法で浮かせ、ガクと共に地下闘技場の奥にある使節団専用の控室へと向かっていった。


 ケンは、その二人の背中を見送った後。

 ふと、紫の国のベンチへと視線を向けた。


「……」

 セーラー服の怪物――サトウ。

 彼女は、控室へと運ばれていくマチの姿を、ペロリと赤い舌を出して、舐め回すように見つめていた。まるで、ショーケースに飾られた極上のスイーツ(器)を値踏みするような、酷く粘着質で、おぞましい視線だった。


(……あいつ、マチをどうするつもりだ? いや、考えすぎか。今は目の前の試合に集中しなきゃならない)

 ケンは嫌な予感を振り払い、盤面へと意識を戻した。


『――清掃完了! これより、第二試合(次鋒戦)を開始する! 各国、代表者を出せ!』

 仮面の審判が宣言する。


「私が行きます、ケン殿」

 コアラが、銀縁メガネをクイッと押し上げ、静かに立ち上がった。

「マチ副団長が命懸けで守り抜いた星と、あのドワーフの意地。無駄にはしません。赤の国の情報参謀として、徹底的に論理データで相手を粉砕してきます」


「……頼んだぞ、コアラ。相手はどんな手を使ってくるか分からない。無理はするなよ」

 ケンの言葉に、コアラはこくりと頷き、ステージへと向かった。


     * * *


 第二試合の卓。

 赤の国からは、情報参謀・コアラ。

 緑の国からは、使節団二番手の『ライン』。彼はエルフの国であるエバーグリーンにおいて珍しい人間の代表選手であり、相手の狙いを読み切って牌を奪う「よこどりの名手」として知られていた。


 紫の国からは、地響きを立てながら、筋骨隆々とした巨大な獣人が卓へと歩み寄った。

「ブゴォォォッ!! 俺様は猪族族長のイッシンだ! 最初の試合のヒョロガリ魔族と一緒にするなよ! 青っ白い魔法使いも、赤の小娘も、まとめて俺様の剛腕で粉砕してやるぜ!!」

 イッシンが卓にドンッと拳を叩きつけると、黒曜石の卓がミシミシと嫌な音を立てた。圧倒的なパワーと凶暴性を誇る、猪の亜人である。


 そして。

 青の国から現れた代表の姿に、会場中がどよめいた。


「……目標ターゲット確認。演算モード、ドンジャラ・プロトコルへ移行」

 無機質な、機械のような声。

 そこにいたのは、体の右半身が完全に『魔導金属サイボーグ』で覆われた、異様な姿の青年だった。彼の右目には赤いレンズが鈍く光り、カチャカチャという微細な歯車の駆動音が全身から漏れ出ている。


「お初にお目に掛かります。青の国・魔導院、特務機関所属『カペラ』です。……私の右半身は、青の国の古代魔法と最新の魔導工学が融合した『超演算器』。貴女のその旧時代的なメガネ型端末など、私の処理速度の前ではスクラップ同然ですよ、赤の参謀殿」


 コアラは、銀縁メガネの奥で鋭く目を細めた。

「……面白いですね。生身の脳を捨ててまでデータに縋ったその機械の身体と、私のアルゴリズム、どちらが上か試してみましょう」


 コアララインカペライッシン

 卓上のモニターには、第一試合を引き継いだ各国の星の数が表示されている。

 赤:★12

 青:★11

 紫:★10

 緑:★6


『試合開始!!』


 ジャララララララッ!!

 静かな洗牌の音と共に、第二局が始まった。

 コアラは手元の牌を素早く整理しながら、メガネの奥のデータ端末を起動させる。


(現在の私の配牌、勝率12パーセント。まずは安全牌を切りつつ、青のカペラの演算パターンを解析……)


「……スキャン完了。赤のコアラ、テンパイ確率は3パーセント。緑のライン、15パーセント。紫のイッシン、42パーセント」

 青のカペラが、赤いレンズの右目で卓全体を見回しながら、ボソリと呟いた。

 その直後。


「……魔導ジャミング、照射」


 ピィィィィィン……!!

 カペラの右半身から発せられた微弱な電磁パルスのような魔力波が、コアラの顔面を直撃した。


「っ……!?」

 コアラの視界が一瞬歪み、メガネに内蔵されたデータ端末のディスプレイが、砂嵐バグに覆い尽くされた。

 エラー音が鳴り響き、確率計算のアルゴリズムが完全に停止する。


(私の端末が、ハッキングされた!? いや、魔力による直接的な妨害電波か!)

「フッ。言ったでしょう。貴女の端末など、私の『魔導演算器』の前では子供の玩具です。盤面の情報はすべて私が統制コントロールする」

 カペラは冷笑を浮かべながら、牌を捨てた。


「ブゴォォッ! もらったぜ!!」

 猪族のイッシンが、その隙を見逃さずに畳み掛ける。

「ドンジャラァッ! 冥界の門(灰純正)!! 赤の小娘、てめえの怯えた隙だらけの牌から上がりだ!!」


 コアラが端末のダウンに動揺し、無意識に安全だと思って切った牌が、完全に狙い撃ちされていた。


『赤の国・コアラの振り込み! 紫の国が星を一つ奪取!』

 赤:★11

 紫:★11


「くっ……計算が、まとまらない……!」

 第二局、第三局と、カペラの圧倒的な演算能力とジャミングが、コアラを完全に追い詰めていった。

 コアラが確率を弾き出そうとするたびにノイズが走り、思考が分断される。カペラは自らの右目で紫のイッシンの手牌の進行状況すら『熱源探知』で読み切り、自分が上がれないと判断すれば、イッシンにわざとアシストするような牌を流す。


 完全なデータ処理の『青』。そのデータに乗っかって暴れ回る圧倒的な暴力の『紫』。

 第一試合と同じように、今度はコアラを標的とした『ハイエナ戦術』が機能し始めていた。


「おいおい、大丈夫かよ赤のメガネちゃん。あんたがそんな調子じゃ、こっちもやりづらいぜ」

 緑の国のラインが、苦笑しながら同情の言葉をかける。彼は「よこどりの名手」だが、場がカペラのデータによって完全にコントロールされているため、手が出せずにいた。


「……問題ありません。これは、想定内のエラーです」

 コアラは、額に冷や汗を滲ませながらも、大きく深呼吸をした。

 そして、自らの手でメガネの電源をカチリと切った。


「ほう。電子戦での敗北を認め、直感で打つと? 愚かですね」カペラが嘲笑う。

「……いいえ。私の端末のスペックが貴方に劣るなら、より高性能な『メインフレーム』に接続すればいいだけのことです」

 コアラは、盤面から視線を外し、ベンチで腕を組んで座っているケンを、チラリと見た。


(お願いします、ケン殿)


 ベンチに座るケンは、目を閉じ、両手を膝の上で軽く組んでいた。

 彼の脳内では、驚異的な処理能力を持つ『全牌記憶(棚卸し)』のシステムが、フル稼働していた。


(青のカペラは、機械の目で盤面をすべて数値化している。……だが、機械の演算には必ず『法則性パターン』が存在する。そして、猪のイッシンは完全にカペラの指示待ちだ。どんなに精密な機械でも、アナログな人間との連携には必ずタイムラグが生じる)

 ケンは、サトシ王から教わった「対話」の極意を、盤外から四人のプレイヤーに当てはめていた。


(……見えた。カペラの右目のレンズが点滅する時、イッシンの鼻息が荒くなり、前傾姿勢になる。それが、イッシンが攻撃に出る『ゴーサイン』であり、カペラが危険牌を流すタイミングだ)


 三十九年間、物流倉庫で数百万の在庫をノーミスで管理し続けた男の脳は、青の国の最新鋭の魔導演算器すら凌駕する、バケモノじみた情報処理能力を誇っていた。


 ケンはゆっくりと目を開け、わざとらしく、大きく『咳払い』をした。

 コホンッ。


 その音は、闘技場の歓声にかき消されるほど小さかったが、コアラの耳にははっきりと届いていた。

(……ケン殿からのサイン。パターンC。青と紫が仕掛けてくる)

 コアラの脳内で、停止していたアルゴリズムが、ケンの『アナログな情報』を入力値として再び起動し始めた。


「……リーチ」

 青のカペラが、無機質な声で上がりを宣言した。


「ブヒィィィッ! 俺様の剛腕で蹴散らしてやる!!」

 イッシンが、カペラが通した(安全だと示した)牌の情報を元に、勝負に出ようとした、その瞬間だった。


 ベンチのケンが、組んでいた右手の『人差し指』で、トントンと膝を二回叩いた。


(……ケン殿の指示。対象は『紫』。待ち牌は『水純正』のどれか!)

 コアラの目が、鋭く光る。


「……大剣(赤の1)!」

 コアラは、イッシンが牌を捨てるよりもコンマ一秒早く、自分の手牌から最も危険な牌を卓に叩きつけた。


「ピピッ……!? エラー発生。予測アルゴリズムと一致しません」

 カペラの右目のレンズが、激しく点滅した。

 コアラが捨てた牌は、カペラの上がり牌(ロン牌)ではなかった。しかし、カペラが『次にイッシンに引かせようとしていた牌』の軌道を、物理的に妨害するような絶妙なタイミングでの「鳴き」の誘発だったのだ。


「……ブゴッ?」

 イッシンが、カペラのサインが途絶えたことで戸惑いながら牌を捨てる。


「ポン!!」

 そこに喰いついたのは、緑の国のラインだった。

「へへっ! もらったぜ猪の旦那! あんたのその牌、俺がずっと狙ってたんだよ!」

 ラインは素早く牌を回収し、手牌を晒す。

「ドンジャラ! 幻想同盟(緑+水+橙)! 二十点だ!! 族長さん、あんたから上がりだぜ!」


『緑の国・ラインの上がり! 紫の国から星を二つ奪取!!』

 緑:★8

 紫:★9


「ブゴォォォォッ!? な、なんだとォォォッ!? 俺様の獲物を横取りしやがったなァ!」

 イッシンが、怒りで鼻息を荒くして卓をバンバンと叩く。


「計算外……。なぜ、赤のコアラは私の思考を先読みできた? 彼女の端末は機能停止しているはず……」

 カペラが、右半身から微かな煙を上げながら呟く。


「フフッ……驚くのはまだ早いですよ、半機械サイボーグさん」

 コアラが、誇らしげに胸を張った。

「私のデータと、ケン殿の直感ログ。二つの情報源がリンクした今、貴方のような血の通っていない機械の計算など、すべて私の『超演算』の手のひらの上です」


 そこからのコアラの反撃は、まさに鬼神の如き正確さだった。

 青のカペラが魔導ジャミングを仕掛けようとするたびに、ケンがベンチから姿勢を変えたり、足で床をタップしたりして、そのタイミングと波長をコアラに伝達する。

 コアラは、ケンのサインを瞬時に復号化し、カペラのジャミングが発動する寸前に打牌のテンポをずらし、妨害を空振りさせる。


「ピピピピッ……! エラー! エラー! 対象の行動予測が不可能です! 生体反応と行動パターンが乖離しています!」

 カペラの右半身から、警告の赤色灯が激しく点滅し始める。機械には、「ベンチにいるおじさんの咳払い」を変数として組み込むことなど不可能だったのだ。


「ブヒィィィッ! こざかしいマネを! 俺様の剛腕で卓ごとぶっ壊してやる!!」

 イッシンが、強引に高い役を作って場を力で制圧しようと前に出る。

 しかし、それもケンの『全牌記憶』の網には完全に掛かっていた。


 ケンが、ベンチでゆっくりと立ち上がり、両腕を大きく広げて背伸びをした。

(……サイン・パターンA。紫のテンパイ。待ちは『水純正』のどれかだ)


「……ライン殿。緑の国の『よこどり』の妙技、ここでもう一度見せていただけますか?」

 コアラが、隣のラインに小さく声をかける。


「へへっ、いいぜ。赤のメガネちゃんがそこまで場を整えてくれたんだ。俺も男を見せねえとな」

 ラインが、ニヤリと笑う。


 イッシンが、勝利を確信して牌をツモろうと太い腕を伸ばした瞬間。

 コアラが、自分の手牌から『天龍(水の1)』を捨てた。


「……!! ブヒィィィッ! ドンジャラァ! 天地の龍(水純正)!! 赤の小娘、貰いまし……」

 イッシンが狂喜して上がりを宣言しようとした。

 しかし、それよりもさらに早く。


「チー!! 悪いな族長さん! その牌は、俺の上がり牌だ!!」

 ラインが、卓に身を乗り出して、コアラの捨てた牌を強奪した。

 ドンジャラの基本ルール『ロン(上がり)は鳴き(チー・ポン)よりも優先される』。

 しかし、天律戦においては、同じ牌を同時に狙った場合、『より打点の高い役』、あるいは『ターンの順番が早い者』が優先される特殊な裁定(頭ハネ)が存在した。


「……ドンジャラ!! 四国統一(赤+青+緑+勇者牌)!! 三十五点の大役だ!!!」

 ラインが叩きつけた手牌には、赤、青、緑の牌に加え、真っ白に輝く『勇者牌』が燦然と輝いていた。


「な、なんだとォォォッ!?」

 イッシンが、目ん玉が飛び出るほど驚愕し、自分の頭を抱え込む。


「お見事です、ライン殿。私の読み通り……いえ、ケン殿のサイン通りでしたね」

 コアラが、フフッと上品に笑う。

 コアラは、ケンからの情報で『イッシンが水純正を狙っている』ことを完全に把握していた。そして、ラインの手牌が四国統一のテンパイに達していることも、彼の視線や呼吸から計算し尽くしていたのだ。

 だからこそ、わざとイッシンの上がり牌を捨て、ラインに『よこどり(頭ハネ)』させるという、神業のようなアシストを成功させたのである。


「ピィィィィィッ……!! 論理的崩壊……処理限界を突破しました……」

 青のカペラは、右半身の魔導金属から大量の白煙を噴き出し、ガクンと首を垂れて完全にフリーズ(機能停止)した。


『緑の国・ラインの超大物手上がり!! 振り込みは赤の国ですが、ルールにより、点数移動は……!!』

 審判のコール。

 天律戦のルールでは、同盟役(四国統一など)を上がった場合、他国全員から均等に星を奪う。

 しかし、この局はコアラの振り込みであるため、コアラの星の減少は抑えられ、逆に青と紫から大量の星が緑へと吸い上げられた。


 赤:★10

 青:★8

 紫:★6

 緑:★12


「うおおおおおっ!! 緑の国の人間が、大技を決めたぞォォッ!!」

「赤のメガネの完璧なアシストだ!! 青のサイボーグが完全にショートしてるぞ!!」

 闘技場が、第一試合を超える大歓声に包まれる。


「ブッ、ブゴォォォォ……ッ!! てめえら、よくも俺様をコケにしやがったな!!」

 紫のイッシンは、プライドをズタズタに引き裂かれ、凄まじい怒号を上げながら鼻息を噴き出していた。


 ベンチで見ていたケンは、大きく安堵の息を吐き出した。

(……やったな、コアラ、ライン。マチが繋いだ星を、最高の形で守り切ってくれた)


『第二試合、終了!! 赤の国と緑の国が、見事な連携で上位をキープ!!』


 コアラが、満足げな表情で卓を立ち、ケンの待つベンチへと戻ってくる。

「お疲れ様、コアラ。完璧な演算だったぜ」

 ケンが拳を突き出すと、コアラも不器用に自分の拳をぶつけた。

「ケン殿のサポートがあってこそです。……機械の演算は、絶対に非合理的な行動(自己犠牲のアシストなど)を予測できない。これで、私のデータに『人間の絆』という不確定要素バグを、正式なアルゴリズムとして追加できそうです」


 赤の国陣営が、勝利の喜びに沸き立っていた。

 このまま行けば、第三試合、そして明日の最終日の大将戦に向けて、極めて有利な状況を作ることができる。


 だが。

 ケンたちが安堵した、まさにその瞬間だった。


「……ケン殿!! 大変です!!」


 観客の歓声を切り裂くような、切羽詰まった悲鳴。

 振り返ると、観客席の通路を掻き分けるようにして、ボロボロに傷ついた氷の王女・サクラが、息も絶え絶えに駆け寄ってくるのが見えた。


「サクラ!? どうした、お前、その怪我は……ガクはどうした!?」

 ケンが慌ててサクラを支える。彼女の美しい銀色のドレスは、鋭利な刃物で切り裂かれたようにボロボロになり、左腕からは大量の血が流れていた。


「申し訳、ありません……。控室で、マチ副団長を休ませていたのですが……突如として、部屋の空間が紫色の魔法陣に覆われ……」

 サクラが、苦痛に顔を歪めながら、信じられない言葉を口にした。


「……あの、セーラー服の化物が、現れたのです。私の氷魔法も全く通じず……ガクは吹き飛ばされ、マチ副団長が……拐われました……!!」


「……なんだと!?」

 ケンの心臓が、早鐘のように激しく打ち鳴らされた。

 背筋を、あの時感じた『嫌な予感』が、現実の絶望となって這い上がってくる。


 バッ! と、ケンが紫の国のベンチへと視線を向ける。

 そこに、あのヴェイル議長の横で無邪気に笑っていたサトウ(サキュバス)の姿は、影も形も無かった。


(……あいつ。最初から俺のポイントなんてどうでもよかったんだ。狙いは……俺の身体(器)を手に入れるための、最悪の『人質(駒)』……!!)


「ガッハッハッハ!!」


 突如として。

 闘技場『パンデモニウム』の上空、巨大な紫の魔力石のモニターから、聞き慣れた、しかし、どこかひどく『空虚』で『冷たい』豪快な笑い声が響き渡った。


『……よう、マイハニー。随分と楽しそうにドンジャラしてるじゃねえか』


 モニターに映し出されたのは。

 先ほどまで控室で気絶していたはずの、タナカ・マチの姿だった。

 しかし、その瞳には、いつもの熱い黄金色の輝きはない。代わりに、毒々しい赤紫色の狂気が宿り、彼女の豊満な肉体には、サキュバスの証である『淫魔の呪紋』がびっしりと刻み込まれていた。


「マチ……お前……!!」

 ケンが、血の気の引いた顔でモニターを見上げる。


『……ケンおじさん。聞こえてる?』

 マチの口が動き、そこから発せられたのは、紛れもなくあの『十四歳の怪物』の、妖艶で甘ったるい声だった。


『このメスゴリラの身体、なかなか居心地がいいわ。……ねえ、明日の最終日、大将戦。私と、この女の身体を懸けて、サシで勝負しようよ』


 サトウに完全に精神と肉体を乗っ取られ、操り人形と化したタナカ・マチ。

 彼女は、モニター越しにケンに向かって、ゆっくりと首を切るジェスチャーをして、妖しく微笑んだ。


『逃げたら、この筋肉の女、文字通り木端微塵に壊しちゃうからね』


 最悪の盤外戦術。

 鈴木ケンという男が最も恐れていた、仲間を人質に取られるという絶望的な盤面。

 世界の覇権を懸けた「模擬・天律戦」は、ここに来て、最愛のパートナーを救い出すための、狂気と死のゲームへと変貌を遂げたのだった。

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