第41話 闇の前夜祭
紫の国(ヴェイル共和国)、闇都ノクターン。
太陽の光が永遠に届かない地下深くの巨大な宮殿は、今夜、熱狂と静かな殺気に包まれていた。
青の国(アルカナム王国)の実質的支配者、アルカ・フォン・ブランシュの介入によって、サトウ(サキュバス)との危険な非公式戦を切り抜けた鈴木ケンとタナカ・マチ。
二人はアルカたちと共に、四国の代表が一堂に会する「模擬・天律戦・前夜祭」の会場である、大ホールへと足を踏み入れた。
「……すげえな。これが魔王軍の残党が作った国の、中心部か」
ケンは、広大なホールの光景に息を呑んだ。
天井からは豪華なシャンデリアの代わりに、毒々しくも妖艶な光を放つ巨大な紫の魔力石が吊るされている。テーブルには見たこともない色鮮やかな魔獣の肉や深海魚の料理が並び、コウモリの羽を持つ魔族や、獣の耳を持つ亜人たちが、優雅な仕草で給仕を行っていた。
そして、そのホールのあちこちには、赤、青、緑、紫の各国の意匠を凝らした軍服やローブを纏った代表選手たちが、グラスを片手に静かな、しかし確かな火花を散らしている。
「……気を抜けよケン。ここは既に戦場だ。奴らの差し出す酒や料理に、どんな幻覚薬が盛られているか分かったもんじゃない」
マチが、油断なく周囲を睨みつけながらケンの隣にピタリと寄り添う。その右手は、いつでも腰の剣を抜けるように柄に添えられていた。
「おいおい、そんなに殺気立つなよ。せっかくのお祭りじゃないか」
飄々とした声と共に、二人の前に現れたのは、深緑のローブを纏ったエルフの一団だった。
先頭に立つのは、緑の国王女にして世界樹の巫女、ティア・エバーグリーン。
「ティア。お前らも無事に着いてたんだな」
「ええ。私たちは、魔族の嫌がらせ(検問)で少し足止めを食ったけれどね。……それにしても、ケン。貴方、少し顔色が悪いわよ? 来る早々、何かあったの?」
五百年生きるエルフの慧眼は、ケンがサトウとの一瞬の接触で負った精神的な疲労を見逃さなかった。
「……ああ。ちょっと、厄介な『幽霊』に出会っちまってな」
ケンが言葉を濁した、その時だった。
ボォォォォォォッ……!!
突如として、ホール内の紫の魔力石が一段と強く輝き、奥に設えられた巨大なバルコニーに、黒いマントを翻した男が姿を現した。
ヴェイル共和国評議会議長、ヴェイル・ノクス。
彼の登場と共に、会場の喧騒が水を打ったように静まり返る。
「――四国の誇り高き代表たちよ。よくぞ、我が闇都ノクターンへと足を運んでくれた。心より歓迎の意を表する」
ヴェイルの、魔力を帯びた重低音の声が、ホールの隅々にまで響き渡る。
「これより、明日から開幕する『模擬・天律戦』のルールを開示する。ルールは至ってシンプルだ。四カ国による、代表4名の『星奪い合いサバイバル』である」
ヴェイルが指を鳴らすと、空中に巨大な魔法陣が浮かび上がり、文字が投影された。
「各選手には、開始時にそれぞれ十個の『星』が与えられる。試合は四カ国同卓で行い、上がった者は敗者から星を奪う。星がゼロになった者は、その時点でリタイア(脱落)だ。
期間は三日間。最終日の日没時点で、最も多くの星を保持していた国が優勝。また、星をすべて失い全滅した国には、重い『ペナルティ』を課す」
ざわっ、と会場がどよめく。
単なる勝ち上がりトーナメントではなく、味方の星をどう守り、敵をどう削るか。徹底した情報戦とチームの連携、そして「誰を犠牲にするか」という残酷な采配が求められるルールだ。
「そして――。この過酷な遊戯を制した栄えある優勝国には、約束通り、我が国が封印管理している最高級の魔獣『地獄の番犬』の使役権を譲渡しよう」
ヴェイルが右手を掲げると、バルコニーの奥から、ガシャァァァン!! と重い鎖の鳴る音が響いた。
「グルルルルルルルッ……!!」
三つの頭を持つ、漆黒の巨大な獣。
その口からは地獄の業火が漏れ出し、ただそこにいるだけで、会場の空気が熱波と絶望の瘴気で歪んだ。他国の補欠選手の中には、その圧倒的なプレッシャーに耐えきれず、泡を吹いて倒れ込む者まで出始めた。
「……ケルベロス」
ケンは、目を細めてその禍々しい魔獣を見上げた。
他国の者たちは、あれを「強力な兵器」として恐れ、あるいは欲している。
しかし、ケンだけは知っていた。あの獣の腹の中……業火に焼かれる暗闇の底で、五百年間、泣き喚きながら助けを求め続けている『十四歳の少女(佐藤栞)』の魂の存在を。
(……待ってろ。必ず、俺があの鎖を解いてやる)
ケンが静かに、しかし確かな怒りと共に拳を握りしめた、その時だった。
「――へえ。いい顔するじゃない、おじさん」
ゾクリ、と。
ケンの背筋に、氷を直接撫でつけられたような強烈な悪寒が走った。
いつの間にか、ケンの背後の完全な死角に、「それ」は立っていた。
「なっ……!?」
マチが振り向くよりも早く、細く、病的なまでに白い腕が、ケンの首筋に後ろからねっとりと絡みついた。
「……サトウ、お前……ッ!」
ケンが振り払おうとするが、背中に密着した十四歳の少女の身体からは、むせ返るような甘いサキュバスの瘴気が放たれており、ケンの体の自由を一時的に奪っていた。
「しーっ。大声出さないでよ、せっかくのパーティーなんだから」
サトウ(の中の怪物)は、ケンの耳元に顔を寄せ、直接脳内に響くような吐息混じりの声で囁いた。
彼女の手は、ケンの首筋から肩、そして胸板へと、まるで高級な陶器のひび割れを確かめるかのように、ゆっくりと、撫で回すように這っていく。
「……ふぅん。驚いた。四十歳の、しかも元の世界じゃろくに運動もしてなかった底辺労働者のおじさんにしては……随分と、いい『器』に育ってるじゃない」
「……器、だと?」
ケンが歯を食いしばる。
「そう。魔力の通り道が、不気味なくらい太くて綺麗に整ってる。これなら、イサムくんの遺した『白牌(勇者)』の強大な出力に耐えられるのも納得だわ。……それどころか、もっと別の……強大な『魂』を注ぎ込んでも、決して壊れないくらい頑丈に出来てる」
サトウの冷たい指先が、ケンの心臓の鼓動を確かめるように、胸の真ん中でトントンと跳ねた。
「あの筋肉の女のおかげ? それとも、過酷なドンジャラで精神のタガが外れた副産物? ……まあ、どっちでもいいや。すごく、すごく気に入ったわ」
「テメェェェェッ!! どこの泥棒猫か知らねえが、私の旦那の体に気安く触ってんじゃねえェェッ!!」
一瞬の硬直から立ち直ったマチが、烈火の如き怒りを爆発させ、ドレスの下に隠し持っていた短剣を抜き放ち、サトウの細い腕めがけて容赦なく振り下ろした。
しかし、斬撃がサトウの腕を捉える寸前。
少女の姿は紫色の煙のように揺らめき、ケンの背後から数メートル離れた場所へと、音もなく瞬間移動していた。
「あははっ! 怖い怖い! 怒るなよ、メスゴリラさん。ちょっと『乗り心地』を確かめてみただけじゃない」
サトウは、コロコロと無邪気に笑いながら、自分の指先をペロリと舐めた。
「ケンおじさん。明日の本番、せいぜい頑張って生き残ってね。貴方のその頑丈で素敵な体……私、絶対に手に入れてみせるから」
サトウは意味深なウインクを投げると、そのままホールを漂う魔族たちの波に紛れ、幻のように姿を消してしまった。
「……チッ! 逃げ足の速い妖怪め! ケン、大丈夫か!? どこか毒でも盛られてないか!?」
マチが慌ててケンの身体をベタベタと触り、安否を確認する。
「大丈夫だ、マチ。何もされてない」
ケンはマチを落ち着かせながら、しかし心の中では冷や汗を流していた。
(……あいつ、俺の魂を壊すことじゃなく……俺の『肉体そのもの』に執着し始めている……? 一体、何を企んでやがる……)
「……ケン。今の女の子、まさか」
一部始終を見ていたティアが、血の気を失った顔で近づいてきた。
「ああ。あれが、五百年間、姿を変えずに生き続けている『十人目』だ。そして……中身は、本物の佐藤栞じゃない」
ケンが先ほどの特別室での顛末を短く伝えると、ティアはギリッと唇を噛み締めた。
「サキュバスによる、肉体の乗っ取り……。だからイサムは、彼女を殺せずに……」
ティアは、悲痛な表情で目を伏せたが、すぐに顔を上げ、鋭い視線でケンを見た。
「ケン。あの子の目、昔よりもさらに歪んでいたわ。単なる嫌がらせじゃない。貴方の言う通り、彼女は明確に『貴方の肉体』を狙っている。……白牌(勇者)の力に耐えうる、強靭な器として」
「俺の体を乗っ取って、どうするつもりだ?」
「分からない。でも、絶対に阻止しなきゃいけない。あんな怪物が、裁定者の器(肉体)を手に入れたら、この世界は本当に終わるわ」
緑の巫女の深刻な警告に、ケンは無意識に自分の胸板に手を当てた。
サトウの冷たい指の感触が、まだそこに張り付いているような気がして、薄気味悪かった。
* * *
その頃。
レセプションホールの喧騒から遠く離れた、冷たい風が吹き込む暗いバルコニー。
星の出ない闇夜を見下ろすその場所に、青の国の丸眼鏡の司書――シズクが、一人静かに佇んでいた。
彼女の手のひらには、微かに発光する『魔法の試験管』が握られている。
先ほど、ホールでケンがサトウに絡まれていた際、ドサクサに紛れて彼が飲み残したグラスから『魔力の残滓』を採取したものだ。
「……素晴らしいわ。恐怖と絶望の底から這い上がったことで、ケンさんの魔力波長は、五百年前の『アルカナ王家』のそれに限りなく近づいている。これなら、私の計画は完璧に……」
シズクが恍惚とした笑みを浮かべた、その時だった。
「――ダメだよ、メガネのお姉さん」
背後の暗がりから、ふわりと、黒いセーラー服の少女が姿を現した。
サトウだ。彼女の瞳は、先ほどケンに向けていた妖艶なものとは全く違う、絶対零度の殺意に満ちていた。
「……あの『おじさんの体』はね、私がイサムくんの世界を終わらせて、もう一度二人きりの世界を作るための、大切な大切な『新しい乗り物』になる予定なんだから。……勝手に小細工して傷つけたり、横取りしようとしたら……殺すよ?」
サトウの周囲の空間が、紫色の魔力によってギシギシと悲鳴を上げる。
サキュバスとしての本性を剥き出しにした、圧倒的な脅威。
普通の人間なら、その殺気を浴びただけで心臓が停止していてもおかしくない。
しかし。
シズクは、全く動じなかった。
彼女はゆっくりと振り返り、指先で丸眼鏡のブリッジをクイッと押し上げた。
その目には、いつもの気弱な司書の面影はなく、五百年間にわたり世界の裏側で暗躍し続けてきた『白の血族・当主』としての、底知れぬ傲慢さと冷酷さが宿っていた。
「……ふふっ。フフフフッ!」
シズクの口から、冷たい嘲笑が漏れる。
「五百年も昔の、哀れな小娘の皮を被った下等な魔物風情が……この私、真なるアルカナの正統後継者に、意見するのですか?」
シズクの足元から、青白い、絶対的な冷たさを持つ魔法陣が展開された。
サトウの放つ紫の瘴気が、その青い光に触れた瞬間、パキパキと音を立てて凍りつき、砕け散っていく。
「なっ……!?」
サトウの顔から、余裕の笑みが消える。
「鈴木ケンは、私が塩にかけて育て上げた大切な『盤面の駒』です。彼が白牌を極め、魔王牌を引きずり出し、世界を混沌に陥れるその瞬間まで、誰にも邪魔はさせません。……貴女のチンケな乗っ取り遊びなど、私の壮大な歴史の再構築の前では、ノイズでしかないのでI’llらなせねけ
シズクの放つ、王者の如き圧倒的な魔力と威圧感。
それは、サキュバスであるサトウですら、一瞬たじろぐほどのものだった。
「……チッ。言うじゃない、白の生き残りが。後悔させてやるわ」
サトウはギリッと牙を剥き出しにすると、青い魔法陣の光を嫌うように、再び闇の中へと溶けて消えていった。
「……吠え面をかくのは、貴女の方ですよ。偽物の少女」
シズクは、試験管を大切に懐にしまい込み、再び誰もいないバルコニーで、一人冷たい笑みを深めた。
明日の日没と共に、五百年の未来を決める『模擬・天律戦』の火蓋が切られる。
赤、青、緑、紫。四国の代表たちのプライドと命を懸けた星の奪い合い。
しかし、その盤面のさらに外側では、サキュバスと白の血族という、二つの巨大な『黒幕』の狂気が、鈴木ケンという男の肉体を巡って、誰にも知られることなく激突しようとしていた。
鈴木ケンの孤独で、あまりにも過酷な戦いが、今、幕を開けようとしていた。




