第40話 セーラー服の狂気
永遠の夜に包まれた紫の国(ヴェイル共和国)、闇都ノクターン。
魔導列車『紅蓮の鎚号』が重苦しい蒸気を吐き出して停車したプラットフォームは、肌を刺すような悪意と、重圧な瘴気に満ちていた。
出迎えた漆黒の鎧の魔王軍残党たち。その中央で、長い紫黒の髪を持つヴェイル議長と並び、狂気を孕んだ笑みを浮かべる一人の少女。
「やっほー、おじさん! 久しぶりのドンジャラ、いっぱい遊ぼうね!」
黒いセーラー服に、赤いスカーフ。
このファンタジー世界に存在するはずのない、現代日本の中学生の制服。
その姿を見た瞬間、四十歳の鈴木ケンの心臓は、警鐘を鳴らすようにドクンと大きく跳ねた。
(……間違いない。こいつが、俺宛ての招待状に『日本語』を書いた張本人。田中勇と共に召喚されたという、歴史から抹消された十人目……サトウか)
「どうしたの? そんな怖い顔して。ああ、もしかして私のこの服が懐かしいのかな?」
サトウと呼ばれた少女は、くるりとその場で一回転して見せた。
しかし、次の瞬間。
ケンの、そして背後に立つマチやティアたちの目の前で、信じられない光景が起こった。
少女の姿が、蜃気楼のように揺らいだかと思うと――。
黒いセーラー服は胸元が大きく開いた妖艶な紫のドレスへと変化し、十四歳のあどけない体つきは、豊満で蠱惑的な大人の女性のそれへと一瞬にして『変貌』したのだ。
「ふふっ……それとも、四十路を迎えた童貞のおじさんには、こっちの姿の方が刺激的かしら?」
甘く、脳を直接撫で回すような妖艶な声。
サトウ――本名、佐藤栞。
延命の術を用いて五百年の時を生きながらえる彼女は、己の容姿を少女から老婆まで、その日の気分で自在に変えることができるという異常な能力を持っていた。
「なっ……なんだコイツは。魔力の波長が、一瞬で完全に書き換わりやがった……!」
赤の国最強の戦士であるマチが、本能的な危機感から大剣の柄に手をかける。
「ケン、離れろ。こいつからは、ただの人間とは思えないドス黒い何かを感じる。まるで――」
「まあまあ、そう物騒な顔をしないでよ、筋肉の塊さん」
サトウは再び姿を揺らめかせ、今度は背中の曲がった不気味な老婆の姿になってケッヒェッと笑い、そしてまた元の十四歳のセーラー服の少女へと戻った。
「今日はせっかくのお客さんなんだから。ねえ、ヴェイル議長。明日の『模擬・天律戦』の本番の前に、私、このおじさんとちょっとだけ『ご挨拶』がしたいな」
ヴェイルは金色の瞳を細め、静かに頷いた。
「……構いませんよ。赤の国の使節団の皆様、長旅でお疲れでしょうが、我が国のVIPルームへご案内いたします。少しばかり、卓を囲んで親睦を深めましょう」
* * *
案内されたのは、プラットフォームの奥にある豪奢な特別室だった。
部屋の中央には、黒曜石で作られた冷たい光を放つドンジャラの卓が置かれている。
「さあ、座ってよケンおじさん。……ああ、そこの筋肉の護衛さんも一緒にどう? 私と、おじさんと、ゴリラさんの三人で」
サトウが、卓の一角にちょこんと座り、足をブラブラさせながら笑う。
「誰がゴリラだ、妖怪変化が! ケン、こいつの挑発に乗るな、罠だぞ!」
マチが牙を剥くが、ケンは静かに手を上げ、マチを制した。
「……いや、やるぞマチ。俺も、コイツとは一度打って、確かめておきたいことがある」
ケンは椅子を引き、サトウの正面に腰を下ろした。
相手を知り、己を晒す。それが田中勇の遺した『対話』だ。この得体の知れない現代日本からの転生者が、何を考え、五百年間どう生きてきたのか。それを知るには、卓を囲むしかなかった。
「……フン、分かった。お前がそう言うなら、私が背中を預かってやる」
マチも渋々といった様子で、ケンの隣の席に座った。
今回は四人目が不在のため、ダミーの牌山を置いた変則の『三家ルール』で行われることになった。
「じゃあ、始めるね。……洗牌」
サトウの白魚のような細い指が、黒曜石の卓の上で牌をかき混ぜる。
ジャララララララッ……!!
牌のぶつかり合う音が、部屋の空気を一気に氷点下まで引き下げた。
ゲームが始まった瞬間から、サトウの放つ異様なプレッシャーが卓を支配した。
「……ねえ、おじさん。元の世界じゃ、物流倉庫で毎日毎日、段ボールを運んでたんだってね? わかるよ、その気持ち。来る日も来る日も、代わり映えのしない無機質な空間。休日はコンビニの弁当食べて、安酒飲んで寝るだけ。……四十歳にもなって、そんな空っぽの人生、よく生きてこれたよね」
サトウは、手元の牌を見もせずに、ケンの過去を的確にえぐる言葉をナイフのように投げてくる。
「……お前には関係ないことだ」
ケンは感情を押し殺し、自らの『全牌記憶(棚卸し)』のシステムを起動させた。
サトウの捨て牌、視線の動き、呼吸の間隔。すべてをデータとして脳内の倉庫に格納していく。
「関係ない? アハハッ! あるよぉ。だって、そんな底辺のおじさんが、私の……私とイサムくんの神聖な世界に、土足で上がり込んでるんだもん」
パチンッ、と。
サトウが捨てたのは、『紫の牌(闇魔)』だった。
しかし、その捨て方は異常だった。まるで牌そのものを憎んでいるかのように、爪を立て、黒曜石の卓に深い傷をつけるほどの力で叩きつけたのだ。
「……ドンジャラ!! 烈火陣、十点だ!」
その隙を突き、マチが力強く上がりを宣言した。
「ケン! こいつの戯言に耳を貸すな! 私たちの連携なら、こんなガキに遅れは取らねえ!」
「ふーん……。脳筋のくせに、意外と面倒くさいガードするんだね」
サトウは、自分の上がりを潰されたというのに、全く悔しがる素振りを見せなかった。
それどころか、彼女の唇は妖艶な弧を描き、その漆黒の瞳の奥で、泥のように黒く、ねっとりとした『別の何か』が蠢いたのを、ケンは確かに見た。
(……なんだ、今のは。こいつの視線……いや、魔力そのものが、俺の理性を内側から溶かそうとしているみたいだ……)
全牌記憶で盤面を俯瞰しているはずのケンの脳裏に、突如としてノイズが走る。
サトウの十四歳の身体から立ち上る、むせ返るような甘い香り。それは、純真な少女の姿をした『淫魔』が放つ、精神を絡め取る毒のようだった。
「……ねえ、おじさん」
二回戦。サトウは、ねっとりとした視線をケンに絡ませながら、信じられないことを口にした。
「今回の大会の優勝賞品、知ってる? 『ケルベロス』。地獄の番犬。……私ね、あの子のことが大嫌いなの」
「……何?」
「だって、あの子の中には、うるさい『魂』が入ってるんだもん。五百年間、ずっと泣き喚いて、キャンキャン吠え続けてるの。……『痛い』『出して』『イサムくん助けて』って。ああ、思い出すだけでイライラするわ」
サトウは、自分の細い首を、爪が食い込むほど強く掻き毟りながら笑った。
「だから私、あの子をずっと痛めつけてやったの。鞭で打って、魔力で焼いて。そうしたら、中の魂がもっともっと悲鳴を上げるの。……その絶望の音色が、最高に心地よくて」
「テメェ……!! なに言ってやがる!!」
マチが激昂し、卓を叩く。
しかし、ケンはただ一人、その異常な発言の奥にある『致命的な違和感』に気づき、背筋を凍らせていた。
(……ケルベロスの中に、魂が封印されている? 五百年間、助けを求めて泣いている? ……なら、今俺の目の前で笑っているこの『サトウ』は、一体誰なんだ?)
ケンの脳細胞が、フル回転で情報を繋ぎ合わせていく。
五百年前の記録。田中勇の残した日記。『次に来る者へ』という後悔に満ちた言葉。
田中勇は、魔王を倒し、世界を救う力があった。いつでも日本に帰れるはずだった。
それなのに、彼はなぜこの異世界に残り、老いて死ぬ道を選んだのか。
(……もし、田中勇が『帰らなかった』んじゃないとしたら? 一緒に召喚された幼なじみの魂が、魔獣の中に封印されてしまい……彼女を救うために、あるいは彼女を見捨てたという絶望と後悔から、この世界に『残らざるを得なかった』のだとしたら……!)
ケンの瞳孔が見開かれる。
だとすれば、今目の前にいるこの女は。
『佐藤栞』という少女の肉体を乗っ取り、五百年間、この世界で悪逆の限りを尽くしてきた――。
「……お前。お前は、『サトウ』じゃないな」
ケンの低く、震える声が、特別室に響いた。
「あら?」
サトウの動きが、ピタリと止まる。
「お前の中身は……いや、お前の本当の正体は、佐藤栞の魂をケルベロスに封印し、その肉体を乗っ取った……『別の化け物』だろ!!」
その瞬間だった。
ピキィィィィィンッ!!
サトウの周囲の空間が、文字通りひび割れた。
「…………アハハッ」
少女の口から漏れたのは、乾いた笑い声。
しかし、その顔は、もはや人間のそれではなかった。
瞳は血のように赤く染まり、口元は耳元まで裂け、その背後には、禍々しいコウモリの羽を持つ妖艶な淫魔の巨大な幻影が浮かび上がっていた。
「……すごいね、おじさん。ただの底辺労働者かと思ってたら、少しは頭が回るじゃない」
サトウ――いや、サトウの皮を被った怪物は、舐め回すようにケンを見つめた。
「そうよ。この小娘の魂は、五百年前に私がケルベロスの腹の中に放り込んでやったわ。……イサムくん、最高の顔をしてたわよ? 自分が愛した少女の肉体を私が弄り回し、本当の魂は地獄の業火で焼かれている。……彼、泣きながら私を殺そうとしたけど、この『シオリちゃん』の体を傷つけることがどうしてもできなくて、そのまま絶望してここで死んだの」
怪物の言葉が、呪いのようにケンの脳髄を侵食していく。
「さあ、おじさん。イサムくんと同じように、絶望の顔を見せてちょうだい! 貴方のその『対話』とやらで、私のこの泥黒い愛(狂気)を受け止めきれるかしらァ!?」
バチンッ!!
怪物が、強烈な魔力と共に牌を叩きつける。
「ドンジャラ……! 魔王の影(紫純正)、さらに特殊役『淫夢の牢獄』……!!」
卓上の黒曜石が赤紫色に発光し、ケンとマチの精神を直接破壊せんとする呪いの魔力が吹き荒れる。
これこそが、緑の巫女ティアが警告していた『精神を破壊するドンジャラの呪い』。
「くっ……! ケン、気をしっかり持て! 精神を持っていかれるな!!」
マチが、自身の強靭な魔力と闘気でケンの前に盾のように立ち塞がる。
(……くそっ! 盤面のデータが、全部ノイズに塗り潰されていく……!)
ケンの『全牌記憶』が、サキュバスの圧倒的な狂気と幻惑の前に、システムエラーを起こしかけていた。
相手は、盤面の論理で戦う相手ではない。五百年の怨念と、純粋な悪意そのものだ。
「さあ、壊れちゃえ、おじさん! イサムくんの代わりに、私のおもちゃにしてあげる!」
怪物の赤い瞳が、ケンの心を完全に喰らおうと迫った、その時だった。
ドォォォォォォンッ!!!
突如として、VIPルームの分厚い扉が、強力な魔法爆発によって木端微塵に吹き飛ばされた。
「……そこまでです。公式戦の前に、勝手な私闘(ルール違反)は感心しませんね。紫の国の『怪物』さん」
土煙の中から現れたのは、冷たい青の魔力を全身に纏った銀髪の女性。
青の国(アルカナム王国)の実質的支配者、アルカ・フォン・ブランシュだった。
その後ろには、丸眼鏡を光らせた気弱そうな司書・シズクが、無表情で控えている。
「チッ……。青の小娘。いいところだったのに、邪魔しないでくれる?」
サトウの皮を被った怪物は、舌打ちをすると、一瞬にして元の「十四歳のあどけない少女」の姿と気配に戻った。
「ご挨拶はこれくらいにしておきましょうか。ケンおじさん、ゴリラさん。……明日の本番、楽しみにしてるからね。ケルベロスの中で泣いてる魂の叫び声、特等席で聞かせてあげる」
サトウはそう言い残し、フワリと妖精のように跳躍すると、ヴェイル議長の後を追うように闇の中へと消えていった。
圧倒的な嵐が去り、特別室には重苦しい沈黙が残された。
ケンは、冷や汗でびっしょりになった自分の手を見つめていた。その手は、小刻みに震えている。
「……ケン。大丈夫か」
マチが、心配そうにケンの肩に手を置く。
「……ああ。なんとか無事だ。ありがとう、マチ。お前がいなかったら、心をぶっ壊されてたかもしれない」
ケンは深く息を吐き出し、そして、入り口に立つアルカを見据えた。
「アルカ。……助かった。だが、なぜお前がここに?」
「四国の代表が揃う前夜祭の会場に、赤の国の姿がないと聞いて迎えに来たのですよ。……それに」
アルカの青い瞳が、ケンの目を真っ直ぐに射抜く。
「貴方が、あの『抹消された十人目』と接触した時、どう動くか……確認しておきたかったというのもあります」
その言葉の裏には、冷徹な情報戦の計算が張り付いていた。
背後のシズクの眼鏡が、怪しくキラリと光る。
(……紫の国の怪物だけじゃない。青の国も、緑の国も、誰もがこの天律戦で何かを企んでいる)
ケンは、立ち上がり、己の頬を両手で強く叩いた。
四十歳の物流倉庫作業員が挑むには、あまりにも狂っていて、重すぎる運命の盤面。
田中勇が遺した後悔の真実を知り、ケンの胸に宿るのは恐怖ではなく、静かで熱い「怒り」だった。
「……行こうぜ、マチ。前夜祭だ。四国のツラを、全部俺の倉庫(脳内)に叩き込んでやる」
明日始まる、世界の未来を決める「模擬・天律戦」。
その血塗られた舞台へ向けて、鈴木ケンは確かな足取りで歩み出した。




