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第38話 出発前夜



 鋼都バルガンに、夜の帳が降りる。

 普段ならば、一日の苛酷な労働を終えたドワーフや軍人たちが酒場に繰り出し、ジョッキを打ち鳴らす豪快な笑い声が街中に響き渡る時間帯だ。

 しかし今夜の王都は、どこか厳粛な静寂に包まれていた。

 明日、この赤のカルディアの未来、いや、世界のこれからの五百年を左右する「模擬・天律戦」へ向けて、使節団が紫の国へと旅立つ。国民たちは祈るように、静かに英雄たちの旅立ちの夜を見守っていたのだ。


 王城の特別客室。

 鈴木ケンは、用意された豪奢なベッドの上に胡座をかき、手元の「それ」を食い入るように見つめていた。


『――五百年の時を超えて、またドンジャラができるのを楽しみにしてるよ。底辺労働者のおじさん』


 ヴェイル・ノクスからの招待状の裏に書かれた、この世界の人間には絶対に書くことのできない「日本語」のメッセージ。

 何度見返しても、その文字の形が変わることはない。それは紛れもない現実であり、ケンという存在の根幹を激しく揺さぶる呪いであった。


(……底辺労働者。俺の、物流倉庫での三十九年間の底辺人生を知っている奴が、紫の国にいる。田中勇と同じ、現代日本からの転生者が……俺の他に……)

 ケンの額から、冷たい汗が流れ落ちる。

 西の開拓村でハイオークを倒し、カナン村のトラウマは克服したはずだった。しかし、この謎のメッセージが放つ不気味なプレッシャーは、魔獣の放つ直接的な殺気とは全く質の違う、底知れぬ恐怖をケンに与えていた。


「……ケン。考えすぎると脳みそが焦げるぞ。お前はただの脆弱な人間なんだからな」

 窓辺の止まり木にいた不死鳥フェニクスが、呆れたように赤い羽根を揺らした。

「……分かってる。でも、どうしても気になっちまうんだよ。紫の国には、一体何が……誰がいるんだ」


 コンコン、と。

 不意に、控えめなノックの音が静かな部屋に響いた。


「……ケン殿。起きていますか」

「コアラか? ああ、起きてるぞ。入ってくれ」

 ケンが答えると、銀縁メガネを少しだけズレさせたコアラが、ワゴンを押して入ってきた。ワゴンの上には、湯気を立てるスープや、色とりどりの野菜、そして小瓶に入ったサプリメントのようなものが几帳面に並んでいる。


「明日の出発を控え、貴方のバイタルサインにわずかな乱れ(ストレス値の上昇)が検知されました。なので、私の最新データに基づき、自律神経を整え、良質な睡眠を誘発する『完全栄養夜食セット』を調合してきました。さあ、一滴残らず胃袋にインプットしてください」

「お、おう……サンキューな、コアラ。わざわざ作ってくれたのか」

「勘違いしないでください。貴方のパフォーマンス低下は、我が赤の国の敗北に直結する。これはあくまで戦術的サポートの一環です。……それと、マチ副団長には内緒ですよ。あのゴリラ……いえ、副団長に見つかれば『夜食に肉がないとは何事だ! 戦士は肉を食え!』と卓袱台ごとひっくり返されますから」


 コアラがツンとした態度で言い放った、その直後だった。


「……奇遇ですね、コアラ。私も、全く同じ理由でここに来ました」

 音もなく、開け放たれたドアの枠に寄りかかっていたのは、第一王女のタナカ・サクラだった。

 彼女の手には、美しいティーセットが乗ったお盆がある。


「サクラ王女……。貴女が淹れたのは、まさか『精神安定のハーブティー』ですか? 私のデータとモロ被りですが」

「ふん。メガネの貴女が作る無機質な栄養食より、私の淹れたハーブティーの方が、ケン殿の疲れた心を癒やすには適しているはずです。……ケン殿、どうぞ。少しは肩の力を抜きなさい。貴方は一人で背負い込みすぎる」


 サクラは優雅な所作でティーカップに琥珀色の液体を注ぎ、ケンの前に差し出した。

 氷の王女と呼ばれる彼女の、不器用ながらも精一杯の気遣い。ケンは、二人の温かい配慮に胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。


「お前ら……。ありがとうな。正直、紫の国に行くことや、この招待状のことで、頭がパンクしそうだったんだ。……美味いよ、すごく」

 ケンがハーブティーを飲み、コアラのスープを口に運ぶ。

 コアラはメガネの奥で満足そうに目を細め、サクラも小さく、本当に小さく、柔らかな微笑みを浮かべた。


 ――静かで、心温まる、出発前夜の語らい。

 だが、ここは戦闘国家・赤の国である。そんな平穏が長く続くはずがなかった。


「ガッハッハッハ!! 甘ェ!! 栄養と癒やしだけじゃ、戦士の心は満たされねえぞ!!」

 バンッ!! と、廊下側の壁が半壊せんばかりの勢いで扉が蹴り開けられた。

 現れたのは、薄絹の一枚布ネグリジェらしきものを、見事なシックスパックと大胸筋の上から無理やり羽織った、タナカ・マチ副団長だった。


「マ、マチ叔母様!? なんですかその、痴女のような格好は!」

「データエラー! 視覚的暴力です! 私の網膜が焼き切れます!」

 サクラとコアラが悲鳴を上げる。


「フハハ! これは『新妻の勝負下着』というやつだ! ケン!! 紫の国という敵地に乗り込む前夜だ! 極度の緊張と不安を解消するには、私のこの温かくて逞しい胸に抱かれて、朝まで獣のように愛し合うのが最も医学的にも理にかなっている!! さあ、今夜も限界の向こう側(絶頂)へ行こうぜマイハニー!!」


「来るなァァァッ!! 誰が新婚だ! 何度言えばわかるんだよ!! サクラ、コアラ、助けてくれ!!」

「……ケン殿のご武運を祈ります」

「……南無」

「見捨てるな!! お前ら、薄情すぎるだろ!!」


 巨大な質量を持ったマチが、腕を広げてベッドの上のケンめがけてダイブしてくる。

 ケンの貞操が五百年の時を超えて危機に瀕した、その瞬間だった。


「――騒々しいぞ、マチ。夜の王城で発情するのはそこまでにしておけ」

 低く、重厚な声が部屋に響き渡った。

 ピタリと空中で動きを止めたマチが、不満そうに口を尖らせる。

「ちぇっ……兄貴かよ。いいところだったのに」


 入り口に立っていたのは、カルディア王国国王、タナカ・サトシだった。

 彼は苦笑しながら、ベッドで布団に包まって震えるケンを見た。

「すまんなケン、うちの馬鹿妹が。……夜分にすまないが、少し俺と付き合ってくれないか。お前に、見せておきたいものがある」


     * * *


 サトシに連れられ、ケンがやってきたのは、王城の地下深く。

 一般の兵士はおろか、重臣すら立ち入ることのできない、王族と一部の長老しか入れない最奥の空間だった。

 松明の明かりが照らし出すその場所には、巨大な一枚岩の石碑が鎮座していた。


「……ここは?」

「カルディア王国の原点。初代タナカ・リュウと、初代ドワーフ鍛冶王が、血の誓いを交わした神聖なる場所だ」

 サトシは石碑の前に進み、その表面に刻まれた古代文字を優しく撫でた。


「ケン。お前は今日一日、紫の国からの招待状……あの文字を見て、ひどく思い詰めていたな。お前の持つ『全牌記憶(棚卸し)』の直感が、何か得体の知れない脅威を察知しているのだろう」

「……はい。俺の知らない、俺の常識が通用しない何かが、あそこにはいる。そう思うと、足がすくむんです」


 ケンは正直に吐露した。

 物流倉庫の在庫管理は、あくまで「決められた枠組み」の中でしか機能しない。紫の国という未知の領域で、ルールそのもの、枠組みそのものを破壊された時、自分はどう戦えばいいのか。


「……初代タナカ・リュウは、祖父である田中勇から、直接ドンジャラの教えを受けた。その時の田中勇の言葉が、この石碑の裏に刻まれている。これを見ろ」


 サトシに促され、ケンは石碑の裏側に回り込んだ。

 そこには、粗削りな文字で、たった一文だけが深く彫られていた。


『――ドンジャラは、盤面パイだけで勝つ遊戯じゃない。卓を囲む奴らとの、命を懸けた「対話」だ』


「……対話?」

 ケンが呟く。


「そうだ」サトシが力強く頷いた。

「お前の『全牌記憶』は、確かに最強の盾だ。相手の捨て牌をすべて記憶し、確率の網を張り巡らせる。……だがなケン、それはあくまで『盤面』しか見ていない。相手の呼吸、目の動き、感情の揺らぎ、卓に懸ける執念。それら盤外の『対話』を拒絶しているうちは、お前は本当の意味で、この世界の頂点には立てない」


 サトシの言葉が、ケンの胸に深く突き刺さる。

(対話……。俺は今まで、傷つくのが怖くて、相手の心を見ようとしていなかった。盤面のデータだけで、自分を守るためだけにすべてを処理しようとしていた……)


「紫の国で、誰が、何がお前を待っているかは分からん。だが、恐れるな。卓に座れば、相手がどんな化け物だろうと、言葉は通じなくても、牌を通して魂の『対話』ができる。……相手を知り、己を晒せ。それが、田中勇がこの世界に遺した、ドンジャラというルールの真髄だ」


「相手を知り……己を晒す……」

 ケンの瞳に、ゆっくりと光が戻っていく。

 未知への恐怖が、相手を理解しようという「闘志」へと変わっていくのを感じた。


「……サトシ王。ありがとうございます。俺、ようやく腹が括れました」

「フッ、いい顔になったな。さあ、明日は早いぞ。今夜はゆっくり休め。……マチには、俺から厳重に言い聞かせておく」


 こうして、鈴木ケンの長く、そして確かな決意の夜は更けていった。


     * * *


 翌朝。

 鋼都バルガンの中央ステーションは、建国記念日にも匹敵するほどの凄まじい熱気に包まれていた。

 何万という赤の国の国民が、紫の国へと旅立つ使節団を見送るために押し寄せていたのだ。


「うおおおっ!! ケン殿ォォ! マチ副団長ォォ!! ぶっかましてこい!!」

「我ら赤の国の誇りを、紫の闇夜に見せつけてやれェェッ!!」


 地鳴りのような大歓声の中、プラットフォームに横たわる『それ』を見て、ケンは息を呑んだ。

「……すげえ。これが、赤の国の技術力か」


 全長数百メートルに及ぶ、黒と真紅の鋼鉄で覆われた巨大な車両。

 現代日本の蒸気機関車に似ているが、煙突から煙は出ていない。車体の随所には魔力石が埋め込まれ、ドワーフ族の精緻な歯車技術が、脈打つように駆動音を響かせている。

 赤の国のドワーフ族と、各部族の技術が結集して生み出された交通の要、魔導列車『カルディア・エクスプレス』。通称――『紅蓮の鎚号』である。


「ガッハッハ! どうだケン、驚いたか! この魔導列車こそが、我がカルディアの国力そのものだ!」

 完全武装したマチが、ケンの肩をバンバンと叩く。

「この線路は、五百年かけて大陸中に敷設されている。今回はこれに乗って、国境を越え、紫の国の地下都市『闇都ノクターン』まで直行する特急便だ!」


「ケンの兄貴! 俺のじいちゃんたちが打った歯車と装甲だ、魔獣の群れに突っ込んでも傷一つ付かねえぜ!」

 ドワーフのガクが、誇らしげに鼻をこする。


「さあ、乗車してくださいケン殿。紫の国までは、丸一日の長旅になります」

 サクラとコアラに促され、ケンは大きく深呼吸をした。

 右肩のフェニクスが、鋭く鳴き声を上げる。


「……よし。行こうぜ、みんな」


 ポーゥゥゥゥゥゥッ……!!

 魔力で駆動する巨大な汽笛の音が、鋼都の空に響き渡る。

 五百年の時を超えた真実と、世界の覇権を懸けた死闘が待つ紫の国へ向けて。

 鈴木ケンを乗せた紅蓮の鎚号は、重厚な鋼の車輪をゆっくりと回し始めた。

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