第37話 嵐の前の新婚ごっこと闇からの招待状
西の開拓村での凄惨な死闘から、数日が経過した。
カナン村を蹂躙した因縁の魔獣、ハイオークとオーククイーンの番を討伐した鈴木ケンの顔からは、転生して以来2年もの間、ずっと彼の心の奥底にへばりついていた暗い陰りが、完全に消え去っていた。
四十年間、物流倉庫で培った『全牌記憶(棚卸し)』という無機質な防衛システム。それはこれまで、自身が傷つかないための「殻」でしかなかった。
しかし、背中を預けられる仲間――タナカ・マチの存在によって、そのシステムは『大切なものを守り、勝利を掴み取るための剣』へと昇華されたのだ。
精神的な限界を突破し、真の意味で「裁定者」としての器を広げたケンは、鋼都バルガンの朝の空気を、かつてないほど清々しい気持ちで胸いっぱいに吸い込んでいた。
――しかし。
トラウマという巨大な問題が解決した一方で、彼には、それよりも遥かに物理的で、かつ厄介な『別の問題』が降り掛かっていた。
「おーい、ハニー! マイハニィィィッ!!」
ズシンッ、ズシンッ! と、まるで小型の攻城兵器が廊下を走ってくるような重低音が響く。
王城の客室の扉がバンッ! と勢いよく蹴り開けられ、そこに立っていたのは、真紅の短髪を綺麗にセットし、なぜか軍服の上からフリルのついた可愛らしいピンク色のエプロンを身に着けた、筋肉隆々の女傑・マチだった。
「お、おいマチ。扉は蹴るなっていつも……ていうか、なんだその格好は」
掃除のために箒を持っていたケンが、完全に引きつった顔で後ずさる。
「ガッハッハ! なんだとは心外だな、愛しの旦那様! 妻が夫のために朝飯を作るのは、どこの世界でも当たり前の風景だろうが!」
マチはそう言うと、持っていた巨大な木のお盆をテーブルにドンッ! と置いた。
そこには、山盛りのオーク肉のステーキ(推定三キロ)、どんぶり山盛りの白飯、そしてなぜかプロテインの粉末が浮いた緑色の謎のスープが並べられていた。
「さあ! 私たちの輝かしい新婚生活の第一歩だ! これを全部食って、今日も朝から晩まで、ベッドの底が抜けるくらい愛し合おうぜェ!!」
「誰が新婚だ!! あの時の言葉はそういう意味じゃねえって、何万回言えば分かるんだよ!!」
そう。あの死闘の直後。
絶体絶命の危機を「強烈なディープキス」で救ってくれたマチに対し、ケンが放った『お前は俺にとって最高のパートナーだ』という純粋な感謝の言葉。
それを、マチは『公開プロポーズ』として、脳内で完全に(そして都合よく)処理してしまっていたのだ。
「照れるなよマイハニー! もう赤の国の軍部には、『ケン殿がマチ副団長を嫁に貰ってくれた』って号外が回ってるんだからな! みんな、発情期のメス獅子を引き取ってくれたお前に、涙を流して感謝してるぞ!」
「外堀を埋めるな!! ていうか、なんで周りまで結託してんだよ!!」
「……おはようございます、ケン殿。そして、朝からやかましいですよ、マチ『新妻』副団長」
頭を抱えるケンの部屋に、静かな足音と共に第一王女のタナカ・サクラと、戦術参謀のコアラが入ってきた。
サクラはいつものように氷のような冷ややかな視線を向け、コアラは手元のデータ端末を弄っている。
「助けてくれサクラ、コアラ! こいつの勘違いが日に日にエスカレートしてて……」
「……諦めてください、ケン殿」
サクラが、親指でこめかみを押さえながら酷く冷めた声で言った。
「あの発情期を拗らせた叔母様の脳内は、既に『鈴木ケン=生涯の伴侶』という強固な暗号鍵でロックされています。私たちにも、もはや解除は不可能です。諦めて、その立派な大胸筋に顔を埋めて一生を終えてください」
「……私の戦術データも、サクラの意見を支持しています」
コアラがメガネをクイッと押し上げた。
「現在、赤の国の軍人たちの士気は、副団長の『新婚ハイ』によって平時の二百パーセントに跳ね上がっています。国の防衛力維持のためにも、ケン殿には人身御供として、マチ副団長のサンドバッグ……いえ、良き夫となっていただく他ありません」
「お前らまで敵かよ!!」
ケンが絶叫するが、マチは「ガッハッハ! 照れ屋な旦那だぜ!」と大笑いしながら、三キロのステーキをケンの口に無理やり押し込み始めた。
傍から見れば、ただの暑苦しいドタバタコメディである。
しかし、ケンの心の中には、確かな温かさがあった。
三十九年間、誰にも必要とされず、ただ黙々と荷物を運ぶだけの人生だった。それが今、この狂ったファンタジー世界で、こんなにも騒がしく、愛すべき連中に囲まれている。
(……悪くねえな。こういう騒がしい朝も)
口いっぱいに広がるオーク肉の暴力的な旨味を噛み締めながら、ケンは心の中で密かに微笑んだ。
* * *
騒がしい朝食が終わった後、ケンとマチ、サクラ、コアラの四人は、王城の最上階にある玉座の間へと呼び出された。
そこに待っていたのは、カルディア王国国王、タナカ・サトシだった。
普段の豪快な笑い声はなく、その顔は一国の主としての威厳と、厳しい戦士の顔に引き締まっている。
「……よく来てくれたな、ケン。西の村での働き、見事だった。改めて、赤の国を代表して礼を言う。ハイオークの番を無傷で討伐するなど、我が国の正規軍でも容易なことではない」
サトシは玉座から立ち上がり、ケンに向かって深く頭を下げた。
「いや、俺一人の力じゃない。マチの……マチのサポートがあったから勝てたんだ」
ケンがマチをチラリと見ると、彼女は「ふふんっ」と得意げに豊満な大胸筋を張った。
「その謙虚さ、ますます我が妹の伴侶に相応しい! 結納の品には、最高級の緋緋色金の剣を用意してやろう!」
「だから結婚はしてねえって!!」
「……コホン。茶番はそこまでだ」
サトシが重々しい咳払いをし、空気を一変させた。
「今日お前たちを呼んだのは、他でもない。……いよいよ、時が来たのだ」
サトシの視線が、玉座の脇に置かれた小さな黒い漆塗りの盆へと向けられた。
そこには、禍々しい紫色のオーラを放つ、一通の封筒が置かれていた。
封蝋には、三つの髑髏が絡み合う、ヴェイル共和国――紫の国の国章が刻まれている。
「……紫の国からの、正式な使者が来た。半年後に開催される『模擬・天律戦』の、招待状とルールの詳細だ」
その言葉に、部屋の空気がピンと張り詰めた。
マチから新婚の甘いオーラが消え失せ、サクラは刀の柄に手をやり、コアラのメガネの奥の瞳が鋭く光る。
「……ケン。お前が提案した『半年後の四国激突』。ヴェイル議長は、それを全面的に受け入れた。開催地は、紫の国の首都――陽の当たらない地下都市、『闇都ノクターン』だ」
サトシが封筒を開き、中から一枚の羊皮紙を取り出した。
「ルールは、四カ国による代表チーム戦。各チーム五名の選手を選出し、星の奪い合いによる勝ち抜き戦方式となる。……そして、優勝国にはヴェイル・ノクスから直接、封印されし魔獣『ケルベロス』の使役権が譲渡される」
「……ケルベロス。かつて魔王が飼い慣らしていたという、あの最悪の番犬ですか」
サクラが、忌々しそうに呟く。
「緑の国のエルフたちを何百人も食い殺した、虐殺の象徴。あんなものを賞品にするなど、悪趣味にも程があります」
「ヴェイルの狙いは明確だ」
サトシが羊皮紙を強く握りしめる。
「他国にケルベロスをチラつかせ、欲と恐怖で争わせる。そして、その過程で五百年来のドンジャラのルール……殺し合いを禁じた『天律』の限界を証明しようとしているのだ。……鈴木ケンという、新しい裁定者の目の前でな」
サトシの鋭い眼光が、ケンを射抜いた。
「ケン。お前はこの模擬・天律戦に、赤の国の使節団の一員として出場する覚悟があるか? 紫の国の闇の底で、ヤツらの悪意のすべてを跳ね除ける覚悟が」
ケンは、自分の右肩を見た。
そこには、普段は口うるさい不死鳥フェニクスが、今は何も言わずに静かに炎を揺らしている。
『お前が決めろ』。そう言っているかのようだった。
「……あるさ。俺は五百年前の田中勇みたいに、世界を救う立派な英雄じゃねえ」
ケンは、玉座を見据えて、低い、しかし確かな力強さを持った声で言った。
「俺はただの、四十歳の冴えない倉庫番だ。だけどな……俺にドンジャラの楽しさを教えてくれた、カナン村の奴らの無念は、絶対に無駄にしない。俺の目の前で、不公平なイカサマや、理不尽な暴力がまかり通るルールだけは、絶対に許さねえ。……俺が、俺のやり方で、次の五百年のルール(天律)を決めてやる」
ケンの宣誓に、玉座の間は静かな、しかし熱い沈黙に包まれた。
マチが、サクラが、コアラが、そしてサトシが。
赤の国の最強の戦士たちが、ケンのその『覚悟』を頼もしく見つめていた。
「……よく言った。田中の血が、お前を正当な後継者だと認めている」
サトシは大きく頷き、再び羊皮紙に目を落とした。
「……だが、ケン。一つだけ、不可解な点がある」
「不可解な点?」
「ああ。この招待状には、各国の王宛ての公式文書とは別に……ケン、お前個人に宛てたメッセージが添えられていたのだ」
サトシが、羊皮紙の裏側をケンに見せた。
そこには、この世界の公用語ではない、ケンだけが読める文字――『日本語』で、短い一文が記されていた。
『――五百年の時を超えて、またドンジャラができるのを楽しみにしてるよ。底辺労働者のおじさん』
「――――ッ!!」
その日本語を見た瞬間。ケンの全身の毛穴が総毛立ち、背筋に氷のような悪寒が走った。
「な、なんだこれ……。この世界の人間が、日本語を書けるわけがない……!!」
「心当たりがあるのか、ケン?」
「……いや、分からない。だが、紫の国の中に……俺や田中勇と同じ、現代日本を知っているヤツがいる……!」
ケンの脳裏に、五年前の記憶が蘇る。
田中勇の日記に書かれていた、『次に来る者へ』という言葉。
そして、歴史から完全に抹消されたという『謎の10人目の仲間』の存在。
(……紫の国。そこに、すべての答えがあるのか)
ケンは、招待状の漆黒の封筒を強く握りしめた。
嵐の前の静けさは、これで終わりだ。
* * *
同じ頃。
赤の国から遠く離れた、青の国(アルカナム王国)。
魔法の塔が林立する魔都エルシオンの地下深く、冷たい石造りの巨大な地下書庫。
「……素晴らしい。素晴らしいわ、ケンさん」
埃まみれの禁書が山積みになった机の上で、一人の女性が頬を紅潮させ、恍惚とした吐息を漏らしていた。
丸眼鏡をかけ、普段はオドオドとした気弱な司書を演じている女性――シズク。
しかし今の彼女の目には、気弱さなど微塵もない。あるのは、狂気に満ちた冷酷な支配者の輝きだった。
彼女の手元には、魔力水晶のスクリーンが淡く光っている。
そこに映し出されているのは、西の開拓村でケンがハイオークの番を圧倒し、屠った直後の、極めて詳細なデータだった。
打牌の速度、魔力の変動、そして精神状態の波。すべてが数値化され、シズクの頭脳へとインプットされている。
「……恐怖とトラウマを乗り越え、ついに『白牌(勇者)』を完全に己のものとしたのね。私の計算通り。いえ、あのカルディアの筋肉女との接触はイレギュラーだったけれど、結果として彼の器は限界まで拡張された」
シズクは、眼鏡の奥で三日月のように目を細めた。
彼女こそが、五百年前に滅びた「白の国」王家の純血を引く、真の黒幕。
ケンを蠱毒(百勝戦)に放り込み、復讐の化身として育て上げ、赤の国へと送り込んだすべてのシナリオの書き手だ。
「……さあ、紫の国よ。せいぜい私の可愛い駒を鍛えてちょうだい。彼が『黒牌(魔王)』の本当の力に目覚めた時……この忌まわしい五百年のルールは崩壊し、私が、白の国をゼロから再構築するのだから」
地下書庫に、シズクの狂気に満ちた笑い声が、冷たく反響した。
* * *
そして、緑の国(エバーグリーン王国)。
世界樹イグドラの巨大な枝葉の上に築かれた、樹都エルダナ。
満天の星空の下、世界樹の最上部にあるバルコニーで、一人のエルフの少女が夜風に長い深緑の髪を揺らしていた。
緑の国王女にして世界樹の巫女、ティア・エバーグリーン。五百年前、田中勇の背中を最後まで守り抜いた、最強の存在。
「……風が、泣いているわ」
ティアは、琥珀色の瞳で、遠く西の空――紫の国がある方角を見つめていた。
五百年生きる彼女の研ぎ澄まされた直感は、大気の微かな魔力の淀みから、確実に『ある存在』が動き出したことを感じ取っていた。
「……ついに動き出したのね、『サトウ』」
ティアの口から、五百年間、誰にも口にすることのなかった禁忌の名前がこぼれ落ちる。
「イサムの隣に立てなかった、哀れで、狂った女の子。……貴女が鈴木ケンを壊そうとするなら、私は……」
ティアは、そっと目を閉じ、五百年前に田中勇と交わした最後の約束を思い出した。
『――次に来る者の、味方になってやってくれ』
「……ええ、約束は守るわ、イサム。この五百年の因縁、私が終わらせる」
ティアの瞳が、決意と共に鋭く開かれた。
緑の国もまた、静かに、しかし確実に戦支度を始めていた。
* * *
そして、すべての因縁が収束する場所。
紫の国(ヴェイル共和国)、闇都ノクターン。
太陽の光が一切届かない、地下深くの広大な宮殿。
「……クスクス。あははははっ!!」
王座の隣で、狂ったような少女の笑い声が響いていた。
黒いセーラー服に、赤いスカーフ。
五百年前、田中勇と共に召喚され、歴史から完全に抹消された十四歳の少女――サトウ。
「……読んだかな? 私のメッセージ。ねえ、鈴木ケン。あの冴えないおじさん、どんな顔して招待状を見たのかなぁ?」
サトウは、自分の手首を血が滲むほど強く掻き毟りながら、虚空に向かって話しかけていた。
その漆黒の瞳は、完全に常軌を逸している。
「イサムくんは私のもの。イサムくんの『裁定者の席』も、イサムくんが作ったこの世界も、全部、全部、ぜーんぶ、私のものなんだから……!!」
サトウは、狂気に染まった目で、玉座に座るヴェイル・ノクスを見上げた。
「ねえ、ヴェイル議長。早く模擬・天律戦を始めましょう? 私、もう待ちきれない。あのおじさんの手足をもいで、絶望に染まった顔を見ながら、イサムくんの思い出話をしてあげるの」
「……ええ。舞台の準備は、既に整っていますよ、サトウ」
ヴェイルが、金色の瞳を冷酷に細める。
「四国の代表が、この闇都ノクターンに集結した時。……世界のルールを根底から覆す、真の『天律戦』の幕が上がります」
鋼都バルガン、魔都エルシオン、樹都エルダナ、そして闇都ノクターン。
五百年の時を超えた愛と憎悪、そして各国の覇権を懸けた野望が、今、一つの盤面(卓)へと向かって収束しようとしていた。
次代のルールを決める「模擬・天律戦」の開催まで、あと僅か。
鈴木ケンの真の戦いが、幕を開けようとしていた。




